り保持しているのである。これは常識ではスラリとのみこみにくい 事實ではないか。花袋は『蒲團』發表後の四十年十一月に岡田美知 代の再上京をすすめる手紙を、その兩親にあてて書いているのであ る。蒲團の殘り香をひそかにかぐようなケシカ一フン先生に、二度と ふたたび大事な娘をまかせる莫迦がいるものか、と思うのが世の常 識だろう。その常識をあえて無視して、白ばくれた手紙を兩親に書 くほど、花袋が破廉恥だったとは到底信じられない。とすれば、 『蒲團』の悲痛げな苦悶も所詮は架空の繪空ごとにすぎず、それが まぎれもないつくりごとにほかならぬことは、すくなくも關係者の あいだでは誤解する餘地のない明白な事實だったのか。誤解のない 安全地帶をひそかにふまえて、花袋は深刻めかした自己曝露を紙の Ⅱ 上だけで遂行してみせたのか。「私のアンナ・マアル」というよう な甘ったれた花袋自身の語り口に、世人はまんまと瞞着されたのだ 昭和十四年六月號の「中央公論」誌上に、突如として『花袋「蒲 ろうか。公表された花袋書簡は、どうやらそういう新しい視點の照 團」のモデルを繞る手簡』なるものが公表された。明治一二十七年一一一明にひとつの具體的根據を與えるもののようである。 月から明治四十一年十二月にいたる五年間にわたった花袋の十九通 しかし、『蒲團』のモティーフが自己曝露による瓧會的體面の抹 の書簡であって、すべて岡田美知代 ( 『蒲團』のヒロインのモデルとなっ殺という一點にあったことは、花袋書簡の示唆する新しい視點とか た女性 ) の兩親にあてたものである。何人の手によって、この書簡ならずしも矛盾するものではない。『蒲團』發表にあたって、花袋 が公表されたか、その經緯などは一切分からないが、ここで注意すを苦しめたのは、もしもこの作品を女弟子やその兩親がよんだら、 べきは、「蒲團』の發表は明治四十年九月のことだから、花袋はという一事だったにちがいないのだ。無論、花袋は『蒲團』を發表 「蒲團』發表後も依然として岡田美知代の兩親と文通していたといするとき、四年ごしの師匠と女弟子との關係がここに杜絶するかも う事實にほかならない。このことは一見些事とも受けとれるが、 しれぬと、ひそかに覺悟したことだろう。やみがたい文學的野望の 「蒲團』の歴史的性格にひとつの新しい照明をなげかけるものとも逹成か、師匠と女弟子との依然たる關係の温存か、という二者一 いえるのである。よく知られているように、『蒲團』は師匠の假面に直面して、花袋はいろいろ迷ったにちがいない。その迷いのなか にかくれて、若い女弟子に中年男の情欲をもやし、女弟子の愛人に には、後年「私のアンナ・マアル」と回想せずにいられなかったよ ひそかな妬心をとぎすます醜い自己を赤裸々に曝露した小詭といわうな、かれ自身のひそかな片想いの斷念という豫想もまじっていた 田 れているが、ほとんど事實をありのままに描いたと信じられている かもしれぬ。だが、花袋のもっとも苦慮したことは、それをもふく その小説を公表したあとでも、花袋は從前どおりに女弟子の兩親とめて、岡田美知代の兩親、自分の妻、その親戚、勤務先の同僚など 5 7 文通し、その手紙のなかではそれまでとおなじ師匠の體面をしつか にたいする自己の體面の失墜とそれのもたらす實際的影響について 同棲生活と分娩のはての別居、花袋の養女となり、その子を義兄太 田玉茗に託するや再び營まれる永代との同棲、子供の死、あげくの はての孤獨な渡米生活というような數奇な運命が『蒲團』以後の岡 田美知代にひらけることとなるのだが、そのような運命に踏みいる きっかけを、なぜ花袋は『蒲團』執笨後みずから課したか。美知代 の兩親がなぜふたたび花袋を信用して、わが娘を託する氣になった か、などについては、『蒲團』の制作態度だけからは到底豫想する ことはできない。この點から私小説の濫觴という『蒲團』そのもの の文學史的定説はもう一度再檢討される必要があるだろう。 ( 昭和三十一年三月 )
そ、思いきって花袋はうみよどんだ「醜なる心」を文學化する「皮『破戒』に近代小説發展のための混沌未分な可能性を讀みとり得る とすれば、作柄はまったく對蹠的とはいえ、『蒲團』からも『破戒』 剥の苦痛」にもよくたえ得たのではなかったか。『蒲團』のキイ・ とほぼ同質の豐饒性をよみとり得るはずである。その意味におい ポイントはうすよごれた中年男の愛欲描寫にあるのではない。その ような中年男を設定することによって、花袋が瓧會的體面の自己抹て、瀬川丑松と竹中時雄とは、いわば遠心的と求心的との相異をふ くみながら、自然主義文學初頭を代表するにたるふたつの柱にほか 殺というルソオ的課題を文學的に定著しようと希ったことが重要な のだ。究極において、花袋が岡田美知代らの思惑を無視する決斷心ならない。だから、中村光夫が「この間に『破戒』と『蒲團』との をつかみ得たのも、みずから信ずる道德的潔白感のゆえである。そ決鬪が行はれ、その鬪ひは少なくとも同時代の文學に對する影響に ついては、『蒲團』の完全な勝利に終った」と書き、「花袋の勝利は して、結果からみれば、そのような花袋の苦衷は、すくなくとも直 ・ : ちゃうど敗者の一家眷屬が根絶しにされる昔の戦爭のやうな」 接の關係者のあいだにはまっすぐ通じたもののようである。 中村光夫は高名な『風俗小説論』において、『蒲團』の文學的缺ものだったと書いているのは、實情にそぐわぬ文學史的誇張といえ 陷を「作者が脚本書きとともに俳優を兼ね、たえず自分の文學を演よう。 このことを歴史的に翻譯すれば、そこに泛びあがるのが「藝術と 戲してゐなくてはならぬ」後年の私小説的性格の萌芽という一點に 眺めているようである。この「自分の文學を演戲してゐなくてはな實生活」あるいは「實行と藝術」の問題にほかならない。『蒲團』 の後日譚たる『縁』のなかで、花袋がその問題を一個の文學的主題 らぬ」という中村の評言はやや曖味だが、もしもそれが伊藤整のい として展開しているのは、けだし必定であったろう。花袋は書いて わゆる實生活演技説とおなじ事情を語っているとすれば、「醜なる 心」の定著という花袋の文學的實驗にはやはり安當し得ないのであいる、「何故、藝術家は普通の人のやうに全力を擧げることが出來 る。すくなくとも、作者イクオル主人公という私小説の定式を、そないのか、何故馬車馬のやうに傍目も觸らずに接近することが出來 のまま『蒲團』にあてはめることはできない。たしか正宗白鳥はないのか。何故その實際の巴渦の中に入って生又は死を經驗するこ とが出來ないのか」と。この痛切な疑問の背後には、「僕は拙い出 『蒲團』の花々しい文壇的成功によって、われもわれもと自分流の 『蒲團』を書くものが續出して、その道がついに私小説を成熟させ來損ひの藝術品と血も肉もある一フヴとを交換した馬鹿な男だ ! 」と たという意味のことを語っていたとおぼえているが、私は『蒲團』する花袋のひそかな自嘲があった。しかし、花袋は一方では「あな たも一つ眞面目に ( 藝術を ) 勉強して下さらなくっては困ります を目して私小説の濫觴とする文學史的定説には、にわかに同じがた よ。一フヴも好い。眞面目なラヴは僕も賛成だ。しかし巴渦の中に入 いのである。 『蒲團』の根本性格を花袋書簡の解説者のようにまったく架空のもって、すぐ盲目になって了ふやうでは仕方がない」と、再上京して きた女弟子に本氣になって訓戒せずにはいられぬのだ。實地の渦中 のと斷ずることにも、中村光夫や正宗白鳥のように私小説の濫觴と にまきこまれねば、痛切な生き死にの體驗を味得することはできな 山みなすことにも、私は反對したいと思う。これを逆にいえば、フィ 田 いが、しかしまた、巴渦のなかにまきこまれてしまっては、冷嚴に クションとなる可能性も私小説となる可能性もはらみながら、その いずれにも直線的にはつながらない、という一點に『蒲團』の誤解觀照する必要のある藝術品は決してうまれない、という一種の二律 7 7 されやすい劃期の意味をよみとらねばなるまい。もしも島崎藤村の背反を、花袋は「實行と藝術」という我流の言葉づかいでとらえて
0 7 るような苦痛にたえながら、執筆したにちがいないのである。モウ 村光夫によれば、モウ。ハッサンはどこにも「皮剥の苦痛」などとい 。ハッサンを誤讀したことが間題なのではない、『生』の制作態度を う ( 一一口葉をつかっていない、という。強いてこれに似た言葉をさがせ ば『水の上』のなかで「作家は生きながら皮を剥がれた人間だ」と「皮剥の苦痛」というようなドギッイ言葉で語らずにいられなかっ た花袋の眞意が間題ではないか。そして、私は『生』に先だって書 いう意味のことをいっているにすぎない。感受性の過度の鏡敏が、 まるで皮膚のない人間のように、外界の刺戟につよく反應する不幸かれた『蒲團』の制作態度も、やはり「皮剥の苦痛」とよんでさし な作家的資質を語っているにすぎないのだ。それを花袋が勝手に解っかえない、と思うものである。 釋して「皮剥の苦痛」などとやや誇らしげに語っているが、これほ 『蒲團』と『生』とでは、そのモティーフもテーマも明療に異な る。しかし、『蒲團』と『生』を一貫する制作態度を、作者がかり ど「彼我の自然主義の性格の差異を明確に象徴するものはない」 に「皮剥の苦痛」というような大袈裟な一一一口葉でよんだとしても、必 と、中村光夫はするどく指摘する。 ずしも不當ではない。問題は「皮剥の苦痛」の中味がなんであった 花袋の所謂「皮剥」とは、生れつき普通の皮を持つ人間がわざわざ意 識して自分の皮膚を剥いで見せることである。生來魯鈍な僕等の感性かという點だみう。 よく知られているように、明治四十年九月に發表された『蒲團』 が、皮を剥がして見たところでどれだけ鋧敏になるかは別問題として、 彼は何のためにかういふ苦痛を自から課するのであらうか。人生の眞實は「『蒲團』の前に『蒲團』なく、『蒲團』の後に『蒲團』なし」と を探るためならば、人間の本當の姿はむしろ健康な皮膚にこそ判っきり 自畫自讃されても必ずしも失當とは思えないほど、エボックメーキ と映るのではなからうか。 ングな作品であった。それが後代に與えたつよい影響については、 いかにも中村のいうように、花袋はモウ。ハッサンの言葉をそそっすでに文學史的な定説みたいなものがある。しかし、それが劃期の かしく誤解していたかもしれぬが、『卓上語』によれば、「物に熱中作品であっただけに、その誤解も根づよいものがあった。ある意味 されない心の苦悶、物を見てばかり居る經の糜爛、同じ人間であでは、その誤解は今日でもまだ解けやらぬ、ともいえるのである。た とえば、『蒲團』發表を契機として、『帝國文學』記者と『早稻田文 りながら、普通の人間のやうに動く事の出來ない畸形の人間」のう ける苦痛を、「皮剥の苦痛」とモウ。ハッサンはいっていたと記憶す學』記者とのあいだに、「性慾描寫」の可否について數回應酬がか る、と花袋は書いている。してみれば、皮を剥がれた人間の苦しみわされた事例など、その露骨な一例だろう。「性慾を描ける文藝の と皮を剥ぐ苦しみというようなはなはだしい誤解がそこに存したと作品を讀みて、多數の讀者が美感を催起しうべきか」とうたがい、 もいえまい。そこから中村のいうように、「人間の本當の姿はむし「花袋氏は何を苦しんでか、うるはしき愛情の方面を遺却して、吾 ろ健康な皮膚にこそ判っきりと映る」というふうにきめつけるの人の道德的情操の認めて醜となす所の性慾をのみ描けるぞ」と間う た『帝國文學』記者の問詰に端を發した論爭は、『蒲團』と「性慾 は、すこしゆきすぎではないか。『生』を回想した花袋の言葉は、 描寫」とを結びつけたもっとも早い誤解の一例というべきだろう。 モウ・ハッサン云々をはなれてよめば、だれでもすなおに受けとるこ 無論、私は『蒲團』にいわゆる性慾描寫が全くみられない、と強辯 とができる。虚心に『生』をよめば、花袋がその制作態度を「皮剥 の苦痛」と形容した眞意は、そのまま私どもの胸にったわるはずでするつもりはない。島村抱月が「此の一篇は肉の人、赤裸々の人間 ある。「生』を書く場合に、花袋は文字どおり自分の生皮を剥がれの大なる懺悔録である」と批評したのは有名だが、この抱月評の
2 7 ら、父娘が歸國したのちまでも、主人公の師匠としての體面は全自身の回想をもとにした立言であることは、改めてことわるまでも ない。だが、はたしてその前提を文字どおりにうけとっていいであ 、感謝こそされ、恨まれる筋あいなぞ皆無だった、ともいえよ ろうか。『東京の三十年』のなかの「私のアンナ・マアル」という 作者の回想は、文學的野望につかれた花袋が『蒲團』という劃期の その全き師匠の體面を花袋はわれから剥奪してみせたのだ。師匠 作品を發表した前後の空氣を描いていて、つきぬ興趣を與えるが、 の假面にかくされた性の發動に根ざすエゴの實髑を剔抉し、それに よる自己の瓧會的體面の抹殺をあえて遂行したのである。この前人そこに書かれた「世間に對して戦ふと共に自己に對しても勇敢に戦 未踏の作因に衝県され、抱月評に代表されるように、もと肉の人ではうと思った。かくして置いたもの、壅蔽して置いたもの、それと 打明けては自己の精も破壞されるかと思はれるやうなもの、さう ある人間本性の内的曝露をほとんど正視するにたえぬまで赤裸々に いふものをも開いて出して見ようと思った」という有名な章句を、 示した作として、世人が思わず嗟嘆したとしても、明治末年の道德 的な空氣のなかでは必ずしも失當ではない。藤村が『新生』においはたして額面どおりに受けとってもいいだろうか。それは自己の社 て姪との不倫な關係を曝露した裏がわには、自分からあばかずにい會的體面の剥奪という前人米踏の作因にたえた作者の決意をそのも られぬ現實的作因ともいうべきものがかくされていた、と私は猜し のとして泛ばせてはいる。しかし、「私のアンナ・マアルは其時 ているが、『蒲團』にそのような現實的作因はなにひとつなかった、 ( 『蒲團』執筆當時 ) 故鄕の山の中に歸ってゐた。私はそれをその前の と思う。いってみれば、ただみずからの文學的野望のためにのみ、 年の秋に、旅行の途次訪間した。私の心の中のかの女の影は愈濃か 花袋はおのが體面を剥奪してみせたのである。 になった。書かうか、書けばその戀をすっかり破って棄てることを しかし、純然たる文學的野望のために、自己の瓧會的體面をふみ覺悟しなければならない。書くまいか、そしてその慧の時機の來る にじる、というような莫迦げたふるまいは、『蒲團』以前だれひと のを待たうか」という作者の動搖は、必ずしも正直な回想ではない。 りとして敢行したものはいないのである。あとから考えれば、コロ第一に、「私のアンナ・マアル」というような言葉づかいそのもの ンプスの卵ともいえるが、そこになみなみならぬ勇氣を必要とした が、すでに當を得たものではない。書けば「私のアンナ・マアル」 ことは、ここにことわるまでもなかろう。自己一身の實際上の利害との戀をすっかり破りすてねばならぬ、書かないで戀の成就を待っ を犧牲にしても、假藉なき人間眞實を追及したいと念願した花袋のた方がいいか、というような言いまわしは、作者の體驗を的確に語 希求と實驗は、まぎれもない花袋の獨創にかかるものだ。このようった言葉ではない。『蒲團』をよんでもあきらかなように、花袋が な花袋の身うちに鬱積してきた熱烈な制作態度に、世人はただしく「私のアンナ・マアル」などと戀人よばわりすることがすでにおか 前代未聞の冒險を感得し、『蒲團』を劃期の作品と評價したのであ しいのだ。まして、その戀愛の成就云々にいたっては、事實にもあ る。とすれば、『蒲團』における「性慾描寫」の是非などは、そのわず、『蒲團』の中味にもしていない。花袋の眞意は、『蒲團』を ような花袋の制作態度から派生した一副産物にすぎぬのである。 書きあげて、もし「これが出たら : : : もしこれをかの女が讀んだ 無論、このような私の立論は、『蒲團』の題材が架空のものではら」と想像した場合の「恥しい、きまりがわるい」氣持にたえて、 なくて、田山花袋イクオル竹中時雄という前提の上にたった話であ『蒲團』を執筆し、發表した苦しみを語りたかったのだろうが、そ る。「私のアンナ・マアルを書かうと決心した」というような花袋れを「私のアンナ・マアル」などという語り口で回想しているとこ
ろに、『蒲團』の反響になかばたぶらかされた作者自身の自己欺瞞また當然だろう。ちなみに、花袋と太田玉茗の妹との結婚に、事實 があるように思う。『蒲團』發表とともに、「山の中のアンナ・ア上の媒酌人となったのが柳田國男だった、という。瀬沼茂樹によれ ば、生田長江は『蒲團』の有名な結末を「靑年の心を脱しない人の ルから悲しむやうな泣きたいやうな腹立たしいやうな手紙が來た。 私は重々すまないやうな氣がして、詫びを言ふやうな手紙を書いすること」として、その靑くさい所業を難じているそうだが、事實 た」とつづけて曖昧に回想している實情も、なんのことやらよく分「時雄は其の蒲團を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れた天鵝絨の襟 らぬ。『蒲團』のヒ 0 インとなったモデルが岡田美知代という實在に顏を埋めて泣いた」という假面をぬいだ主人公の唯一の行動は、 いささか阿呆らしくて、作者のつくりごとに相異あるまい、と推定 の女性であることは、今日よく知られているが、『蒲團』を讀んだ される。もしそのとき細君でも二階に上ってきたら、という女房持 岡田美知代の手紙は、おそらくモデルにされた迷惑と驚駭以上に、 花袋の衷情を全く意外とし、あわせて自分の戀人の描寫の歪曲に對ちの中年男の配慮を、主人公が忘れるはずもなかろう。しかし、そ する抗議以外のものではなかった、と推察される。それに對する花れがつくりごとであれ實際のことであれ、一篇の結末をそのような 袋の返事も、モデルにしたことの詫びと、師匠の體面にかくされた描寫でしめくくったところに、その瓧會的體面の剥奪を完了した作 自己の本心に關する一應の辯解以外になかったろう。一應の抗議と者の意圖は明瞭である。くりかえせば、世人はそのような作者の意 圖に壓倒されて、その「性慾描寫」の是非についてまで論爭するに 一應の辯明、しかし、われからふみにじった瓧會的體面の抹殺は、 いたったのである。 はや兩人のあいだでとりつくろうべくもないはずだ。つまり、 しかし、花々しい文學的成功のもたらした一種ぬきがたい世上の 『蒲團』の發表を契機として、それまでの師匠と女弟子との關係は ここにとだえた、あるいは激變したとみるのが常識だろう。しか誤解ほど、その作家コースにとって危險なものはない。誤解に甘え て便乘すれば、そのまま作家的破滅に通ずることを、ながく文壇で し、實際にはそのようにすすんでいないのだ。『蒲團』發表後も、 師匠と女弟子という現世的な關係はとだえることなく、その關係を苦勞してきた花袋は、さすがに鏡敏に感得した。文壇の正面に押し だされた花袋は、自信を得るとともに不安ででもあったにちがいな 岡田美知代の兩親も、花袋の細君やその實家の人々も從前どおり容 認していたらしい。花袋はしまいには、岡田美知代を自分の「養い。「私は自分の文學的位置が非常に危險な位置にあることを自覺 した。又一面非常に大切な位置に置かれてある事を思った」と、後 女」とし、その子供を自分の義兄に養育してもらう世話までやいて いるのである。このいささか意外な現實のすすみを、花袋は『東京年みずからその間の消息をつたえている。 花袋は自己の周邊に取材した「家 , の歴史を描くことで、そのよ の三十年』ではハッキリ詭明していない。ということは、作者自身 も『蒲團』の豫想外な反響に役されて、自己の體驗に一種の錯覺をうな作家的危機を突破しようと思いたった。『生』の執筆がすなわ 論生ずるにいたった、とでも解釋するしかあるまい。作者自身さえ誤ちそれである。しかし、『蒲團』の場合のような、なかば自分と自 花解するような作品を、世人がながく誤解したとしてもまた不思議で分でその意圖に激しつつ、十日間ほどで脱稿したという昻奮状態 は、すでにみられなかった。冷靜に忍耐づよく、いわば執刀する醫 田はない。 それだけに、『蒲團』の制作を文學的な誇張として、「あらずもが者のように、花袋はみずからに課した「皮剥の苦痛」にたえていっ 3 7 たのである。この場合も、花袋は自己の瓧會的體面の抹殺という制 な」という表情で默殺した柳田國男のような存在のあったことも、
0 8 活直寫の「自己告白小説」と規定して、いささかも疑っていない。 主義思潮の擡頭という共通の地盤を眺めることができる。『破戒』 というのは、抱月や白鳥がその結末にイカレばなしになって、そこ が純然たる客觀小説で、『蒲團』は完全な自俾小論だという從來の から全體の印象を組みたてている、ということなのか。 文學史的定説は、いささか疑わしい。作者との距離という點では、 しかし、抱月や白鳥はまんまと作者の詐術にたぶらかされたので 遠心的と求心的という作柄のちがいはあるにしても、すくなくとも あって、『蒲團』は作者の文學的虚構にすぎない、などと私はいお兩者とも根ぶかい習俗に對置する民主的な希求をひそませた點では うとするものではない。最後の結末は繪空ごとにしろ、あの結末にほぼ共通している、といえぬこともない。そういう新文學勃興の機 いたる全過程をフィクションだというつもりはない。外見上は最後運が、史の新しい擔い手としての藤村をも花袋をもゆりうごかし まで師匠の體面をふみはずしていない主人公も、一歩その内部に踏た、ともみられるのである。だからこそ、『破戒』と『蒲團』は新 みこめば、決して綺麗ごとだけではすまされぬ、どろどろした情念文學の二本の旗として文學史上にも認められたのである。しかし、 に一杯ひたされていた。いわばその情念のシンポルとして、結末の このことが、花袋の文學的野望のなかに明瞭に自覺されていたかど 架空な描寫が點睛の意味をおびているのである。もしも竹中時雄が うかとなると、また話は別になる。ただ花袋の文學的決意のなか 田山花袋の分身とすれば、花袋は『蒲團』という作品を書き、これに、一種のやみがたい自己變革の希いがあったことだけはうごかせ を天下に公表しなければ、モデルになった女主人公やその兩親か ない。それは明治一二十年代のいわゆる「前期自然主義」におけるゾ ら、のちのちまでも信賴に値し、奪敬に値する先生としてとどまる ライズムや高山樗牛の『美的生活論』における本能充足論の影響下 ことができたろう。しかも、花袋はわれから瓧會的體面を抹殺する に書かれた『露骨なる描寫』や『重右衞門の最後』にすでに明らか ような『蒲團』をあえて書き、これを天下に公表したのである。そ だが、自己を客化し滑稽化することによって、ながい前半生の文 こには、花袋獨特の悲壯と感傷とをとりちがえがちな文學的誇張も學的志向の抹殺を企てた『少女病』のなかに、もっとも瞭然として まじっていたかもしれない。しかし、島崎藤村がどうしても『新いる。ことわるまでもなく、『少女病』という題名のなかに、作者 生』を書かずにはいられぬ窮地にまで追いつめられたのとちがつは自己の前半生の感傷的傾情をこめ、そういうシンポルとしての主 て、花袋は書かずにすまそうと思えば、『蒲團』なぞ書く現實的な人公をあえてわが手で葬りさったのである。いわば前半生の總決算 必要はなかったはずである。しかも、花袋はあえてみずからの瓧會ともいうべきこの自己變革の希いが、まっすぐ『蒲團』を生んだの 的體面を抹殺するような前代未聞の作を書いたのである。とすれば、 である。 そのモティーフはもつばら花袋の文學的野望というしかあるまい。 こういう文學的野望にかられて、自己の就會的體面の全き否定を 中村光夫の『風俗小説論』によれば、藤村の『破戒』と花袋の 企てた花袋の文學上の試みは、まさに前代未聞と稱すべきだろう。 『蒲團』とは全く對極的な作品のように規定されてあるけれど、客世人がその劃期の試みに衝撃されたのも道理である。しかし、花袋 的にみれば、『破戒』と『蒲團』とは會的體面の自己抹殺といといえども現實の瓧會のなかに棲息する人間である以上、文學的野 う點で共通している、ともいえそうである。つまり、部落民もまた望以外になにも現實的な裏づけがなくて、そんな企てが遂行できる 人間なり、という『破戒』の一主題は、敎師もまた人間なり、といはずもない。誰がどう受けとろうと、『蒲團』の結末が明らかな嘘 う『蒲團』の一主題とかようものである。そこに日露戦爭後の個人だという事實だけは、現實に荷物の送りだしに立ら合った妻や相手
81 田山花袋論 おそらく『蒲團』發表當時の相手の女性の氣持は、ここに書かれ の女性やその父親には通ずるという自信があったはずである。ま た、このことは、女の手ひとっ握ったことがないという事實を、妻ていたとおりだったろうと思う。『蒲團』に書かれたさまざまな主 も相手の女性もその父も十分に感得しているというひそかな自信と人公の心理は「ほんの小説」の上のことで、現實の花袋はのよう かさなっているはずである。そういう性的潔白感イクオル道德的淸な奪敬すべき師であり、嚴格きわまる先生であった、という氣持を、 淨感にささえられて、客觀的には、敎師もまた人間なり、という文依然として女はいだいていたにちがいない。その先生の文學的實驗 學的課題を、みずからの裸身を實驗臺上にのぼせることによって、 のためなら、自分のちつぼけな名譽や運命など、どうなってもかま 花袋はようやく遂行したのである。『東京の三十年』のなかの「私わぬと思っていたにちがいない。なんという「可愛相な無邪氣な のアンナ・マアル」や「『生』を書いた時分」などの項目は、そうい女」だったろう ! また、花袋もそういう女の氣持を助長させるよ う花袋自身のなかば激した文學的勇氣をつたえるものである。ただ うなやさしいこまごまとした詫び妝の手紙を、何度も女に送ったよ し、「私のアンナ・マアル」という回想には、『蒲團』のおどろくべうである。女は再び兩親を納得させ、花袋をたよって再上京するに き反響になかば役された曖昧な記述がある。『蒲團』のモデルとないたるのだが、その後の花袋とその「養女」となった女との入り組 った岡田 ( 永代 ) 美知代が、大正四年になって、『蒲團』や『縁』 んだ關係はしばらく措き、この一事だけでも、『蒲團』が「ほんの をめぐって語った文章のなかに、「私は本當に『蒲團』の女主人公 小説」の上のことと、身近かな人々に受けとられていたことは、や でせうか」と疑いながら、つぎのようにしるしているのは、やはりはりうごかせまい。しかし、こういう消息は「私のアンナ・マア 注目されるところである。 ル」からはよく推察できないのである。ついでにいえば、岡田美知 『蒲團』が初めて春陽堂の新小説の、卷頭小説として載せられた時、私代が『蒲團』發表直後に投じた文章というのは、「新潮」明治四十 は淋しい田舍の山陰の町でチプスを病んだ病後の胸ををどらせながら、 年十月號に横山よし子名儀で發表したものだろう。そこには、『蒲 遙かに都で八釜しいその作の嚀さに就いて氣を揉んで居りました。師た 團』を花袋の大臚な告白と取る向きもあるようだが、花袋先生ほど る田山氏からも手紙で挨拶がありました。勿論その頃の私は、まるでも に眞面目な人格の文士はまれであって、『蒲團』を作者自身の自己 う先生と云へば飾様同様尊いものに思ひ込んでゐましたので、その作に 告白と受けとるなどとはあまりに馬鹿々々しい話だ、という意味の 依って變に誤解されて行く戀人の身の上と云った風の事に考へ及ぶ譯も 言葉がある。しかし、そういう岡田美知代も「スパル」明治四十三 なく、まして自分自身の名譽たとか、運命だとかゞ、如何毀損され、如 何影響されようとも、一向平氣なものでした。と云ふよりも、如何なっ年九月號に發表した『ある女の手紙』になると、藝者買いなどする ても好い位に思って居りました。何と云ふ可愛相な無邪氣な女でしたら花袋をかなり感情的に非難し、同居する水野仙子のス。ハイ的ふるま う ? 確か早稻田文學か何かに載った、田山氏の大膽なる告白云々と云 いに八ッ當りするようになる。一旦別れたはずの永代靜雄がまた出 ふ批評文に對して、「先生は何處までも温情なる戀の保護者でゐらっし 現して、動搖する心を抑えかねたからでもあろうが、花袋に對する やる、『蒲團』に書かれた事實ーー・女弟子を心ひそかに一フプして、戀の かっての純眞な感情はすでにねじくれてしまった。この『ある女の 嫉妬から相手の男に對する憎しみの感情とか、二人の上に取った所置と 手紙』に對して、水野仙子は明治四十四年一月の「新潮」誌上で、 か、さうした事はほんの小説で、實際の先生は、それは嚴格な先生だ」 と辯解がましいものを、その當時の靑年雜誌に寄稿したりしたものでしあれは永代さんのヒステリイにすぎない、というような反駁を加え た。 ている。ここにいたって岡田美知代も水野仙子も小説と事實の區別
2 8 をすっかり見失っている、といえよう。 移行しつつあったこととそのまま照應し、生活と文學を結びつけた 私のいいたいのは、『蒲團』が後年の私小説の濫觴だという文學と最初は信じながら、のちに「隔一線の態度」を設定した花袋らを 的通説に反對したい、ということである。もしも大正二年に書かれた 「卑怯」と難じた石川啄木の態度の變遷ともそのまま照應するもの 『ある朝』のようなことが現實に起っていたら、花袋は決して『蒲である。 團』のような作品を着想もしなかったろうし、公表もしなかったろ ここで自然主義文學の觀照性を難じて、「強權・國家ーという視 う。たとえ『蒲團』に描かれたことが全部事實だと誤解されても、 點に到逹した啄木と、『蒲團』から『生』、『生』から『時は過ぎゅ すくなくとも妻や相手の女やその兩親などには、誤解の餘地はあり く』というふうに、個人、家族、血族の歴史に密著して、そこから 得ないという自信なり安心なりの上に立って、『蒲團』は書かれ、 離れられなかった花袋との比較は、現在も再檢討するにたる文學史 發表されたものである。とすれば、昭和七年は正宗白鳥が論じたよ上の問題だが、いまは省略したい。ただ現實の家族制度の問題を意 うな『蒲團』の性格は、ことごとく眞實を射ぬいているとはいいが識的に回避することによって、「強權・國家」の視點にまでラディ たいし、また、そういう『蒲團』の性格は、今日私どもが理解する カルに飛躍し、しかし、小論家としては挫折した啄木と、『生』『時 私小説の性格ともそのまま一致しがたいだろう。しかし、またそれは過ぎゅく』を書き、『家』『夜明け前』を書いて、いわば歴史の底 は「ほんの小説」の上だけのフィクションだともいいきれぬのであ邊に密著しながらリアリズム文學を完成した花袋や藤村との優劣と いうような評價は、輕々に斷定しがたいことだけをしるしておきた る。そこにはたしかに花袋自身の血と汗が流されている。自己解剖 い。同時に、『蒲團』『生』『時は過ぎゅく』などが後年の私小説と による眞實追及という作家の態度は、やはり紙背に歴々としてい る。 はやはり面目を異にした骨太のリアリズム文學だということも、是 このことは花袋と抱月を中心とするいわゆる「實行と藝術」の間 非ここに書きとめておきたいと思う。 『田舍敎師』『時は過ぎゅく』の二長篇は、そういう花袋によって 題とそのまま折りかさなるはずだ。この問題については相馬庸郎に 「田山花袋の「實行と藝術」』という研究があって、そこではかって書かれた圓熟期の秀作にほかならない。『田舍敎師』『生』『時は過 ぎゅく』と『破戒』『家』『夜明け前』とをくらべてみると、この二 の私自身の考證の誤りなども正されているが、それによれば、習俗 に對するアイコノクラズムとしての自然主義文學の時代にも、すで人のよき文學的僚友がいかに相互に影響されながら、自然主義文學 を建設していったかの道筋も明らかにされて、つきぬ興味をおぼえ に「實行と藝術」という問題意識は花袋にあった、という。たしか るが、その詳しい比較なども他日を期す以外にない。ただ藤村の に『蒲團』執筆はひとつの「實行」であって、敎師もまた人間なり という一種のアイコノクラズム的な力も、またそこに發している。 『春』が花袋の『蒲團』の刺激によって直接生れたという從來の文 しかし、花袋は『生』『妻』『縁』の三部作制作などを通じて、次第學史的定説の誤りとほぼひとしく、『田舍敎師』も『破戒』の刺激 によって直接生れたものではないことを、ここでは強調しておきた に「實行と藝術ーの「藝術」にアクセントを打つようになっていっ たのである。「實行と藝術」は「實行と照」となって、藝術の觀い。 照性の側面に花袋も抱月も傾斜するようになった。これは自然主義『田舍敎師』は明治四十一一年十月に書下し長篇として出版された が、主人公の林淸一二のモデルとなった小林秀一二のことを花袋が最初 文學が破壞の時代から建設の時代に、攻勢の時期から守勢の時期に
8 7 いるのである。花袋はこの興味ふかい問題の解決を「永久にれる當時、文藝評論界の第一人者たる島村抱月が「此一篇は肉の人、赤 ことの出來ない平行線」として、その理論的追及を中途でなげだし裸々の人間の大膽なる懺悔録である」と批評したのは、有名な歴史 てしまったが、すくなくとも、『蒲團』や『生』の執筆に際しては、 ) 的挿話である。いや抱月だけではない、花袋の死後二年を經過した 藝術の觀照性という側面にアクセントをおいて、客的に自己の裸昭和七年になって書かれた正宗白鳥の『田山花袋論』のなかにも、 體を實驗臺にのぼせたのである。 つぎのような言葉が讀まれる。 このことは「破戒』執筆に際して再認識した藤村の作家的態度と 田山氏は西洋文學を曲りなりにでも讀んで、自分自身で解釋したとこ ほぼ同質のものとみることができる。作家は人生の戦士自體ではな ろによって、自分の創作熊度を改めようとし、『蒲團』のやうな、他人 くて、その從軍記者にほかならぬという藤村の有名な作家的決意 の物笑ひになりさうなものをも、自分でそれを是なりと思ったが故に、 斷然として創作した。 ( 中略 ) 文學の上の氏の革命態度は、氏自身の作 は、また『蒲團』執筆にあたった花袋の作家的戒心にほかならなか 品を根本から異ったものにはなし得なかったが、他の文學者に及ぼした った。そして、このような藝術の觀照性を理論的に執拗に追及した 影響は甚大であった。花袋流の自然主義が流行して文壇を賑はしたの のが島村抱月であった。抱月と花袋とは、理論と實作とにおいて、 だ。賛成者でも反對者でも、盛んに自分自分の『蒲團』を書きだし、自 「藝術と實生活」あるいは「實行と藝術」間題をながく追尋した二 分の戀愛沙汰色慾熕惱を蔽ふところなく直寫するのが、文學の本道であ 人の代表者だが、花袋にかぎっていえば、「實行と藝術」間題を中 る如く思はれてきた。 ( 中略 ) 私には、田山氏があんな創作やあんな文 途でなげだしたことから、花袋獨特の史觀がうまれてきた、とも 學観を發表しなかったら、自傳小説や自己告白小説があれほど盛んに、 いえるのである。時間という殘酷な歴史の經過にかけてみれば、個 明治末期から大正を通じて、あるひは今日までも、現はれなかったであ 事ウイン 人個人の善意や奮鬮もむなしく、すべては「址」的に眺められる、 らうと思はれてならない。その證據には、龍土曾會員で西洋近代文學を 耽讀してゐた者は、少なくなかったが、田山氏以前に、自己の實生活描 という花袋のなかば諦念的な時間概念がここに生ずるのである。こ 寫を小説の本道であると解釋したものは一人もなかった。 の「實行と藝術」問題の流産が屈折し、白樺派に媒介されて、のち の心境小讒の一母胎となるのである。『蒲團』や『生』がそのまま 抱月が「赤裸々の人間の大臚なる懺海録」と積極的に評價し、白 私小説の濫觴なのではない。 鳥があたかも自己告白を「小説」の本道だと誤解させた作と、やや 「實行と藝術」間題は後年プロレタリア文學における「政治と文否定的に評價した『蒲團』は、いずれにしても、明治四十年から昭 學」の問題として、新たな元においてよみがえってくるが、それ和七年にいたる四半世紀のあいだ、その劃期の意味と影響をよく保 ( 昭和三十一年十一月 ) はまたのちの話である。 持してきたようにみえる。しかし、はたして『蒲團』は赤裸々な懺 悔録であり、自己告白文學の範型だろうか。 Ⅲ よく知られているように、『蒲團』の結末は「夜着の襟の天鵞絨 田山花袋の文學的生涯において、最初に語るべき作品は、なんと の際立って汚れて居るのに顔を押付けて、心のゆくばかりなっかし い女の匂ひを嗅いだ。性慾と悲哀と絶望とが忽ち時雄の胸を襲っ いっても『蒲團』だろう。明治四十年九月に發表された『蒲團』 は、單に花袋の文壇的名聲を一擧に確立しただけでなく、日本のリた。時雄は其の蒲團を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れた天鵞絨の アリズム文學の方向に重大な影響を與えた劃期の作品だった。發表襟に顏を埋めて泣いた」という「赤裸々」な描寫でしめくくられて
れぬ。ロシャでは、革命は輸出しないと昔からいっていた。最近で は、革命方式も輸出しないといっているらしい。にもかかわらず、 日本には、革命方式まで、外國製品で間に合せようとする人間が意 外に多い。この邊でこれは、根本的に反省してみなければならぬ。 他國の革命は、それがどんなに立派なものであっても、結局は他山 の石にすぎぬ。日本の革命は、國産品でなければならぬと思う。こ れはむろん、外國について勉強しなくてよいというようなことでは ない。むしろ、その逆だ。すぐれた國産品を創りだすためには、外 スタ、ーリンの個人指導が批判され、集團指導に切り換えられたと國品についても徹底的に研究する必要がある。それは、形のうえの いう新しい事態の意味を、もっと深く考えてみたい。 猿眞似であってはならぬ。學びとるのはその中身でなければなら 集團指導といっても、現在のところ、「小集團」による指導にすぬ。他國の革命の精禪を學びとるためには、それを現在の自國の傳 ぎぬ。單數が小さい復數に變っただけのことである。二頭政治や一一一統や國情に照らし合せて檢討することが必要である。この場合、た 頭政治は、昔にもあったが、その數がふえただけである。「集團指 だ自國と外國の二つをならべるだけではなく、人類の廣場にもちだ 導」を最終の形と考える必要はあるまい。現在の「小集團」が「中して檢討してみることが必要である。 集團」になり、さらに「大集團」になったときに、初めて「人民に リンカーンの、人民の、人民による、人民のための政府、という よる政府」になるのだと思う。道はまだ遠い。それに「集團指導」定式は、これを人類の廣場のなかでの考え方とみなしていいように も十分に安定したものになってはいない。少くとも一九三〇年代か 思う。プロレタリア民主主義をこの定式ではかるときに、私は多く ら四〇年代にかけての、スターリンの個人指導ほどには安定してい の理解しがたい點にゆきあたる。斷っておくが、ロシャ人が自分た ない。スフヴ民族は、その特異な傳統を活かし、民族のエネルギー ちの瓧會で、民主主義にたいして、どのような解釋と實踐を、行う を絞り出し、自分たちに最もふさわしい形の政府を創り上げてゆく かという問題には、いまは觸れる必要がない。それが日本人の場合 であろう。これは何人も肯定するであろう。むろん、「雪どけ」が に關係をもっ限りで、間題にするのである。關係をもつ、という意 ただちに春を呼びだすのではなく、嚴寒のぶりかえすことも當然考味は、繰り返していうが、國産品を創るための參考ということであ ス えられる。だから、現在の「雪どけ」を餘りに樂觀的に考えること る。この場合、いちばん理解しがたいのは、「指導者」という考え ジは、危險を件なう。ロシャにはロシャの事情もあり、外國人がみて方である。「人民の政府」に、はたして「指導者」が必要なもので どうも納得のゆかぬというような點も、ロシャ人の間では案外すらあろうか。「指導者」をいうならば、人民の一人一人が「指導者」 りと受け取られているのかもしれぬ。裏返していえば、こんどの 指 でなければなるまい。「主權在民」という民主主義の理念を徹底さ 「雪どけ」のような事熊も、外國人が受け取っている感じと、ロシ せるならば、そこからは「指導者」という考え方は生れるはずがな ヤ人のそれとでは、若干の落差があるのではないか。この邊のとこ い。「天は人の上に人をつくらず」という民主主義の理想が、國民 ろは、私などにはよく判らぬ。ただし、こんなことはいえるかもし 一人一人の胸のなかに生きているならば、「指導者」を求める聲は 化道「とビジネス