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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集
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1. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

136 を截り雲をさきてとばんと欲っすかのもとにいづかし リアリズムの點づけから言うと志賀直哉はやはり偉いわ、セザンヌ の樫の小枝にいざとばんわがこころそやの一もと」 と同じ意味で。似た限界において。」と書いたところにも語られて ここに「いづかし ( 嚴樫 ) の樫」というのは、もちろん宮本顯治いる。さらにまた、「漱石が大衆性をもっているのは、或意味で、 をさしている。これは前からの手紙に使用例があるのである。このあのダラダラ文章、イージーな寄席話術の流れがある故です。小説 詩には、むかし彼女自身が「ややアリストク一フットな趣味」 ( 『小さ らしくない文章の人ーー山本有三、島木健作が文學的でない人にも き家の生活』 ) といったものの痕跡がみとめられる。夫にあてた極く よまれるというのは、面白い點です。文化の水準の間題としてね。 内密な私信のなかではあるが、わがことをさして「まだら美しき鷹すこし年をとって、一方にちょいとした人生論が出來上ったりして の羽の」という風に書く禪經には、よくいえば堂々として微塵自己いる人物が露件や何かの隨筆をすくのも、程よい酒の味というとこ 卑下のない好尚、惡くいえばその自覺さえもない自己讃美の氣持、 ろね。隨筆 ( とくに日本の ) は人間良心の日向ぼっこですから。あ も讀みとられなくはなかろう。だが、それらはここで重要でない。 あ、わたしは、又わきめをふらず、一意専心に、このセザンヌ風プ ここには、この詩を含む手紙の一節には、宮本百合子の人および文ラス明日という文章を書きたいわ。のつびきならざる小説が書きた 學にとってある本質的なものが、期せずして語られていると思う。 いわ。文士ならざる藝術品がつくりたいわ。」と書いているところ 大正のはじめから昭和の敗戦後まで、すなわち、第一次大戦のさ にも語られている。 なかから第二次大戦の戦後まで、三五年間にわたる宮本百合子の作 宮本百合子は、ンヴェトへ行く直前の短篇『一本の花』のなかで ラ・ボアント・ド・ラ・ヴィ 家生活は、いくつかの時期、いくつかの段階を經てきている。ぎつ 「生存の尖端」ということを書いていた。草木の伸びて行く芽に しり詰めこんだ全集一五卷の内容は、簡單に數語で割切っていうこ もひとしい「生存の尖端」を大切にし、そこに注意を集中し、それ とができない。しかし、それをあえて割切っていえば、宮本百合子の可能を最大限に生かしたいという意味である。いかにも彼女らし の眞骨頂は《一本の矢》であることにあった、といえる。 い言葉だが、そのときそれが彼女にふさわしい言葉であって以來、 この《矢》の心持は、やはり同じころ宮本顯治にあてた手紙のな彼女の本質は一貫して《一本の矢》であることにあったと思う。 かで、「アナトール・フランスの『遊歩場の楡の木』をよみました、 宮本百合子のあの體嫗が、かりに「だんだん細まって矢になる」 いろいろ感じ、アナトール・フランスという作家と自分とは、肌のとしたら、かなり高度の緊縮を必要としたことだろうが、彼女の文 合わない感じを、新たにいたします。アナトールの文章は體温が低學の本質を《一本の矢》と斷定するのにもまた、相當以上の壓縮を いのね、知力で體温が下って居るようです。」 ( 四五・七・三〇 ) と書 必要とする。 いたところにも、それにつづけて、「いかに在るか、在ろうとしつ 彼女は、前のめりで、ひたむきで、全身傾倒的で、いわばその全 つあるか、ありつつあるか。ほかに文句はいらないわ。小説もここ身傾倒的な存在が、草摺りで途上の邪物をなぎ倒してすすむとこ のところがギリギリね。小説の文章というものは、その意味から言 ろに本領があったのだが、他方では、平林たい子のいわゆる「作家 って、一行も「敍述」というような平板なものがあるべきではあり 的敎養では紫式部に欽ぐ人」 ( 『文塾』四八・一〇ー一一、座談會『宮本 ません。人間が考え動きしている、必ず人間がついている、その脈百合子』 ) でもあったからである。一例をあげていえば、高名な論文 搏、その必然で充たされていなくてはならず、そういう、きびしい 『バルザックから何を學ぶか』を書いたころ、彼女は私信のなかで

2. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

義務ということは、契約への責任というエ合にいい直したほうがよオートメーションには、「指導者」の感情のはいる餘地がない。ど いかもしれぬ。いずれにしても、或る就會が聖な就會となり威んなに立派な「指導者」も、感情をもつ以上、オートメーションに や正義の念を強く押しだすときには、「人民の敵」というような考は劣る。完全なビジネスとしてのオートメーションにおよばぬ、民 え方も當然でてくる。これはなにも、スターリンだけの失敗ではな主主義は、西ヨーロツ。ハ型の場合もオートメーションから深く學ぶ い。また、ロシャだけのことでもない。明治以來の日本もまた、べ 必要がある。これは、マス・コ、、 : ニケーションによる世論の製造 つな仕方で、敵をつくってきた。この敵が、日本に住むのは嫌だ、 などの場合にも、とくに強調しておきたい。 どこか外國のもっと住みよい國に移りたい、といっても、血と土の ロシャの「雪どけ」は、ロシャ人のためばかりでなく、人類全體 理念でいえば、それは絶對に許されぬ。だがこれは、理窟に合わにとっても喜ばしい。それは、今後、肅淸というような正義に反す ぬ。もっと話を變えてみれば、よく判る。たとえば、この國は税金る悲劇を今後なくするためばかりではない。正しい目的は正しい手 が高すぎるし、また、契約も氣に人らぬから、もっと住みよい國に段で逹しなければならぬという新しい理念を、人類の胸に呼びさま 移りたい、というような願望は、はたして不自然なものであろう した點でも喜ばしい。だが、それだけではない。平和的共存という か。必ずしも妄想ではない。ヨーロツ。ハでも、カトリック對プロテ主張を通して、平和がすべてに優先するという考え方を政策として スタントの爭いが深刻であった時代には、上述の契約を理由とし實行し始めたからである。しかし、この「雪どけ」がただちに新し て、移住が盛んに行われた。現代でも、もう少し自由な移住が行わい人類の春を呼びだすかどうかということは、今後の宿題である。 れてよいのではないか。相對立する二つの勢力の間に、もっと自由國際的緊張が強くなれば、事態は必ず逆轉する。現にスエズ運河を な移住が行われるならば、緊張の度合は多少減るかもしれぬ。この めぐっての緊張にたいして、エジプトは獨力でたたかうのではな ためにはやはり、政治がビジネスになっていなければならぬ。 い、正義の戰爭は支持されなければならぬというような言葉が、フ この程度のことでさえ、まだ實現には一世紀ぐらいの時間がかか ルシチョフの口から吐かれている。正義の戦爭であっても、水素爆 るかもしれぬ。そうだとすると、當面の改革としては、或る一つの彈が何百發か人類の頭上に落ちれば、人類はもはや再起不能の状態 置會における少數意見の表明の自由が確立されなければならぬ。こ に陷る。廢墟の正義は虚無である。「雪どけ」はロシャの國内にと れは最小の條件である。少數意見は、むろん、ただ表明されただけって必要なだけではない現在の人類全體にとって必要なのだ。そ では實質的に意味がない。多數者は、少數者の意志を必ず汲み入れれは、民主主義の確立のために求められているというよりはむし ス なければならぬ。これは政治上の寛容というべきものであろう。少ろ、人類の永久の平和を確立するために必要なのだといいたい。民 ネ 數者は、民族であったり、瓧會層であったり、年齡層であったりす主主義は、この手段にすぎぬ。手段は、最もよく選ばなければなら る。いずれにしても、多數者は自分と對立するものを、敵としてで ぬ。民主主義の最もすぐれた選び手が私たち日本人であって惡いと はなく、友としてあっかうことが、望ましい。これは現實にしたいうことはない。史をひもとけば、小國から榮えて世界史の先頭 指 小さい希望にすぎぬ。理想をいえば、寛容というような美德によらに立った民族は、手段としての政治を最もよく選んだ民族であった ずして、平凡なビジネスのなかで、少數意見のあっかわれることが ことを敎えられる。どんな大國でも、手段を選ばぬ國は必ず崩壞し 望ましい。この意味でも政治のオートメーション化が求められる。 ている。目的だけ正しくてもだめである。何億という人間が手段に

3. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

8 類が移住するのにふさわしい星がみつからねば、この宇宙錯のなか要であろうか。何百年か。何千年もかかるまい。性の問題を自由に 谿で幾世代も幾世代も交替する。 扱うようになるには、もっと長い時間を必要とするかもしれぬ。 「宇宙工學」は、まだこの段階では必要がない。衞星や惑星を人工が、これもやがては統御してしまうだろう。宗敎や敎育や藝術につ で造ることはあっても、それは本格的な「宇宙工學」ではない。 いても、同じことがいえよう。 「宇宙工學」の必要になってくるのは、遙かに遠い未來である。百 最も困難な課題は、恐らく、政治であろう。政治のなかから、人 億年を單位として考えた未來である。銀河系ないし宇宙全體が崩壞種、民族、階級、黨派、個人などのエゴイズムを完全に拂拭するの しはじめる未來のことである。宇宙が膨脹をつづけるかぎり、銀河は何時の日であろうか。政治をビッグ・ビジネスとし、完全にオー 系は擴散し、宇宙は空虚になってしまう。人類は、宇宙全體からみ トメーション化するのは、何時の日のことであろうか。政治は人類 れば砂粒にもあたらぬほどの微少な存在ではあるが、人類が、宇宙 の重い課題として何時までも殘っているのだろうか。それは、人類 とともに滅亡することを拒否しようと望むならば、その手段は必ずの永遠の限界であろうか。いや、そうではあるまい。何かの方法 見出されると思う。宇宙の崩壞を生き延びようとするならば、宇宙 で、やがて技術は政治を呑みこんでしまうだろう。現在でもすでに を改造し、變革することが必要になる。宇宙の崩壞のなかで、人類そのきざしが認められる。この新しい現實に眼を開きたい。たとえ だけが生き殘る特殊な場を造らなければならぬ。また、人工の恆星ば人工衞星の打ち上げなどにも、その事實をはっきりと認めること ができると思う。 や、人工の銀河系も造らなければならぬ。膨脹する宇宙を、或る 時、縮小する方向に切り替えたり、また、その逆のこともできる。 いや空間や時間を支配し、創造しなければならぬ。地球の規模での 自然改造ができるならば、何億年かの後、銀河系ないしは全宇宙の 規模での變革も可能になろう。私は、技術の無限の進歩を深く信じ ている。 技術はむろん、「宇宙工學」に關してだけ向上するのではない。 生命を保つ技術も、無限に進歩しよう。中世の錬金術師の夢みた萬 能もやがて實現しよう。化學療法の發見とともに、理論的には、 その可能性も保證されている。人類が月の世界に到逹するころに は、細菌は、大部分が人間の敵ではなくなろう。遠い未來には、人 間の生命も、現在の何倍かに延びるであろう。或いは、これまで絶 對的なものと思われていた生命の限界も、何かの方法で突き破れる かもしれない。 人類は、衣食住に關して、空氣か、水の程度にまで自由に、入手 できるようになろう。それが實現するまでに、どれだけの時間が必 ( 昭和二十九年六月 )

4. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

化することが出來る。從って安定したといわれるときにも、秩序の しかし、人間それ自體よりも人間の條件がまず間題になるという 状態を、わたしは必ずしも不毛の从態とは考えない。内的持續と調中では恣意的な便宜を求める行動が充滿しているのである。」 ( 藤田 和も失ったこの状態こそ、かえって逆に、人間再生の大切な契機で省三『イデオロギーをめぐる現在の思考状況』思想三三・ 確たる環境とのつながりを失い、生活の意味を失って「偶然」の あって、人間が無意味な一個の物質的存在と化することは、既成の 意味から解放される端縉がひらけたということにほかならないの存在と化した人間は、内的にも外的にも斷續と分裂をはらんでいる が、それだけに、そのような人間を内面から描くことは、作者自身 だ。わたしたちは戦爭の體驗を通してそのことを知ってきたし、日 常性を失うことによってかえって本源的な自由をかい間みたあの瞬の分裂によって不可能である。それは「もの」と化した人間であっ て、「もの」としてとらえるよりほかはない。すなわち現代文學は、 間は、今日もまだ表面的安定の背後に、暗黑のロをひらいているの 人間を物質的状態によって示し、堀田善衞の正しく指摘したよう である。 「私はこれがみんな無意味なたは言にすぎないのを知ってゐる。不に、「一定の状況における多數の、矛盾した、あるいは正反對な、 本意ながら、この世〈歸って來て以來、私の生活はすべて任意のもあるいは全く無關係な存在の同時性を描くことによって、その總體 が持つであろうところの連續性ーーこの場合、一つの事件を契機と のとなった。戰爭へ行くまで、私の生活は個人的必要によって少く とも私にとっては必然であった。それが一度戦場で權力の恣意に曝する空間的な連帶性ーーを發見しよう」とするほかに、眞のリアリ されて以來、す・ヘてが偶然となった。生還も偶然であった。その結ティに到逹する道はないのである。人間の條件と存在を「もの」と 果たる現在の私の生活もみな偶然である。今私の目の前にある木製してとらえる記録的方法が、今日の文學に必須の所以がそこにあ の椅子を、私は全然見ることが出來なかったかもしれないのである。堀田の「物質化」という前掲のエッセイを收めた評論集は『亂 世の文學者』と題されているが、これは戦中、戰後の赤裸な亂世に る。」 ( 大岡昇平『野火』 ) このように「任意のもの」となり、「偶然」となった人間とそのだけ通用する方法ではない。たとえば、武田泰淳の『蝮のすゑ』の 運命は、他者との連帶の絆をたちきられている。それぞれに「偶冒頭に出てくる路地の白々しい日常風景は、「もはや理想もなく、 然」なアトムの集合が、瓧會的總體をなしているが、この總體には信念もなく、只生存してゐる」だけの主人公、敗戦直後の上海で無 秩序と混沌のなかにただひとり投げ出された孤獨者の眼に映じた風 何の必然もない。サルトルの言葉をかりれば「集合的對象のレアリ テは回歸にある。それは總體化が決して完了しないこと、總體は少景であるために、かえってその隔絶から強烈なアクチアリティが くとも非總體化された總體の名のもとにしか存在しないことを示し生じてくるのだが、それと同じ日常性をアクチ = アリティとしてと ている。」 ( 『方法の間題』 ) 現象的に安定がかえってきたようにみえらえる視點は、今日の文學者にとってもまた必要な視點にほかなら ても、それは僞りの外裝にほかならない。「現代社會は、非安定从ない。 西野辰吉の『 O 町でのノート』は、客觀的語り手としての作者の 況をつねに含んでいる。そこで秩序が安定するのは、テクノロジー かわりに、「私」と稱する探訪者を虚構することによって、物語を のワクが安定することによって、便宜感覺が再生産軌道にのるから 相對化するとともに、事件を客觀化しようとしたもので、意圖は大 である。だから瓧會の中に住んでいる人間はそれぞれ別の感性的關 心をもちながら、それを便利に分業化されたテクノロジーの中で消 ( ん面白い。ただ記録者としての「私」が、記録の嚴格な方法を守

5. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

7 / 0 就會主義諸國の「指導者」たちは、人民大衆の積極的な自發性と 絶對に起らぬであろう。日本人は、ツアーリズムの支配下のロシャ か、下からの創意の解放とかをしきりに強調し、高度の民主主義と 人とは異なり、或る程度西歐的な民主主義のもとで生活をしてきた のだから、「指導者」にたいする感じ方や、受け取り方が、冷淡だ結びつかぬ權力の集中は、必ず腐敗、墮落すると警告しているらし と思う。スラヴ民族がスターリンを崇拜したり、漢民族が毛澤東をい。これは言葉のうえだけでは筋が通っているようだが、このこと 奪敬したり、或いはまた、ドイツ人やイタリヤ人が、ヒット一フーやだけで現實の腐敗と墮落がはたして防げるものであろうか。それな らば、スターリンの悲劇などは、初めから起きるはずもなかった。 ムッソリーニに率いられるような事態は起きぬであろう。むろん、 これは、ファシズムの支配の生じないということではない。「指導それがなぜ起きたかということの根本的な反省は、この程度の警告 者」と日本人の關係が、上述の外國の場合とはかなり異ったものだでは不十分である。結論をいえば「指導者」に率いられる現在のプ といっているだけのことだ。ファシズムは強い指導者なしにも行わロレタリア民主主義のもとでは、或る程度の腐敗や墮落は、必要な れる。日本の民主主義の歴史は、戦後十一年という新しいページを悪として眼をつぶって遣り過さなければならぬもののようにも思わ 加えて、上述の國が獨裁者を迎えた場合とは、大なり小なり異ったれる。これを絶減するには、「指導者」が完全無缺な人間でなけれ ものになっている。一部には、「指導者」を強く望むひとたちもいばならぬ。たといどれほど小さい人間的缺陷をもっていても、それ が獨裁政治のもとでは必ず大小の悲劇の根源になる。これを完全に るが、それは日本人の良識ではない。 獨裁者の存在を許した經驗を何遍ももっ國では、「スターリン」防ぎ止めるためには、どんな智惠も工夫もおよばぬ。悲劇をできる だけ減らすということが、努力の目標になるにすぎぬ。この場合、 は繰り返し登場する危險性がある。個人崇拜の可能性は容易なこと で根絶できぬ。この點でロシャ人は今後とも獨裁者を警戒しなけれ責任は必ずしも「指導者」の側にだけにあるのではない。 「指導者」の側からいえば、人民の悲慘な暮しをみるにみかねて、 ばなるまい。スタ 1 リンという個人の缺點もなかったとはいえぬ が、「個人崇拜」の責任の大きい部分を、スターリンの缺點だけに人民のための政府を組織し、人民の幸輻を計っているのだ、という ことになる。自分は、人民に仕えているのであり、人民を使ってい してしまうのは、納得できぬ。どんな人間にも缺點がないというこ とは考えられぬ。最も少い缺點でさえも、獨裁政治のもとでは、ス るのではない。人民は、このまま放っておけば、永久に奴隷の从態 から脱けでることができぬであろう。外國の侵略者からも餌食にさ ターリンの悲劇として結品する公算が大きい。スターリンの政敵が れるであろう。この場合、人民が一人一人自覺して、自分が自分の 「指導者」になっていたならば、悲劇はもっと大きなものになり、 レーニンの事業は跡形もなくなっていたかもしれぬ。スターリン主人になれるだけの民主主義の地盤があれば、「指導者」の存在の は、個人的には最も缺點の少い政治家であったかもしれぬ。これ以餘地は少い。その權力も少くてすむ。「指導者」の生れるのは、民 上のすぐれた「指導者」は望めなかったであろう。そのスターリン主主義の發逹の低い瓧會であることを率直に認めなければならぬ。 でさえも、こんどのような大きな悲劇をもたらしたのである。この就會主義であれ、ファシズムであれ、民族主義であれ、「指導者」 を必要とするのは、一般の民衆が、自分で自分の「指導者」になれ ことは、徹底的に反省してみなくてはならぬ。ロシャの場合は、 るほどの从能 ~ になっていないからである。「指導者」は、そういう 「集團指導」という訂正が行われたが、日本の場合は、この訂正を 越えて、人類の廣場での反省を行う必要がある。 民衆の意志を代行しているのだといえる。代行の途上で、個人的な

6. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

とっ生みだすことのない反抗や抵抗は、愚痴を永遠に繰返すことと 然との接觸を失えば失うほど新しい美の世界がひらけてくるといっ た具合である。これが造型美術における抽象化を促進する。しか變りがない。今日、進歩主義者といわれる文學者のあいだにも、支 し、文學者には、何も與えらない。與えられないどころか、かれは配的なのはこのような反抗と抵抗である。それはいつまでも相手が 自分の中から何か大切なものが日々失われてゆくような不安をおぼ強力であり、自分は弱いという前提の上に立っ反抗であり抵抗であ える。機械によって自己の生命と個性がおしつぶされる不安であって、相手を倒すことより、反抗と抵抗の姿勢を持ち續けることに る。これはまた、機械時代のはらむ機械と人間の矛盾の一つであ良心の滿足を味わっているといった具合である。 一方には、機械時代のもたらす新しい環境と新しい手段に無條件 る。仕事の能率をあげるために設備が合理的に整備されて、ある點 に適合して、何か目新しいものを創り出すというただそのことを目 までくると、働く人たちの能率が逆に落ちはじめるという事實を、 アメリカの學者が指摘している。そして、もっとゆとりのある、人的に野望をもやすいろいろなジャンルの藝術家がいる。そしてま と人との親和關係をうちたてることが、能率を維持するために必要た、新しい時代の生活をただ風俗的に描いて緊張緩和という副次的 役割をはたす小説家がいる。また現代人の欲求不滿に僞りのはけロ になってくるというのだ。もっとも機能的に作られたガフス張りの ビルや住宅は、それ自身フォルムの單純化された極限の美をもってを與える讀物小説が夥しく氾濫している。こういう時代には、民藝 いるが、それは同時にそこで働く人、住む人に心理的な不安を與え的なものや、一念凝った私小説の反時代的頭固さに一種の稀少價値 が生ずるのも、みやすいことわりである。しかしそれは、浮動する る。そこで人々は機能的な美に對してバ一フンスをとるため、心理的 な美をもとめはじめる。幾何學的な線をもっ機能の美が精練されれモダ 1 = ズムのたんなる裏返しにすぎない。 それ故、文學の世界では、抽象か具象か、寫實かフィクションか ばされるほど、他方では農村に生まれた民藝への鄕愁が高まるのは が問題なのではなく、今日の時代にまともに對決し、矛盾の中から そのためである。人間と人間の情緒的關係を描く戀愛小説も、この 感覺的、心理的緊張緩和のために一役買う。今日週刊雜誌その他に現實變革の手がかりを探すか、それとも現實をただ靜的に反映する か受身に抵抗し反抗するかが間題なのである。人間を描いても機械 大量に掲載されている中間小説は、機械時代の人々にとって必需品 である。機械時代が文學者に與えたもの、それは讀者の增大、映晝を描いても林檎を描いても、そこにはおのずから作者の對現實態度 が反映されるはずである。抽象的に描こうが、具象的に描こうが、 化のチャンス、そして緊張緩和劑としての平準化した讀物小説への 本質において何ら變りはない。大切なのは、今日のアクチアリ 需要である。 ティをとらえて、現實と藝術に變革をもたらすか、それともアク こういう事情の下で、文學者は多かれ少なかれペシミストである 小か、底の淺い樂天家である。機械化が不可逆的な必然の傾向であるチ = アリティを回避していつまでも咏嘆と永遠の反對を繰り返すか である。 術ことを知りながら、それに件う矛盾ーーーこれは機械化が獨占資本の 代下に促進されることから起る矛盾であるーーに壓しつぶされ、矛盾 の中から生まれでる積極的な可能性をつかむかわりに、ひたすら機 浩型藝術の部門では、線の組合せや色彩の配合によってある藝術 械化の当勢に反抗し抵抗するだけなら、ペシミズムはいつまでたっ 6 2 ても拭われない。それによって積極的なもの、肯定的なものを何ひ的效果が生まれるのであって、畫面に何が描かれているかは別に間

7. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

れぬ。ロシャでは、革命は輸出しないと昔からいっていた。最近で は、革命方式も輸出しないといっているらしい。にもかかわらず、 日本には、革命方式まで、外國製品で間に合せようとする人間が意 外に多い。この邊でこれは、根本的に反省してみなければならぬ。 他國の革命は、それがどんなに立派なものであっても、結局は他山 の石にすぎぬ。日本の革命は、國産品でなければならぬと思う。こ れはむろん、外國について勉強しなくてよいというようなことでは ない。むしろ、その逆だ。すぐれた國産品を創りだすためには、外 スタ、ーリンの個人指導が批判され、集團指導に切り換えられたと國品についても徹底的に研究する必要がある。それは、形のうえの いう新しい事態の意味を、もっと深く考えてみたい。 猿眞似であってはならぬ。學びとるのはその中身でなければなら 集團指導といっても、現在のところ、「小集團」による指導にすぬ。他國の革命の精禪を學びとるためには、それを現在の自國の傳 ぎぬ。單數が小さい復數に變っただけのことである。二頭政治や一一一統や國情に照らし合せて檢討することが必要である。この場合、た 頭政治は、昔にもあったが、その數がふえただけである。「集團指 だ自國と外國の二つをならべるだけではなく、人類の廣場にもちだ 導」を最終の形と考える必要はあるまい。現在の「小集團」が「中して檢討してみることが必要である。 集團」になり、さらに「大集團」になったときに、初めて「人民に リンカーンの、人民の、人民による、人民のための政府、という よる政府」になるのだと思う。道はまだ遠い。それに「集團指導」定式は、これを人類の廣場のなかでの考え方とみなしていいように も十分に安定したものになってはいない。少くとも一九三〇年代か 思う。プロレタリア民主主義をこの定式ではかるときに、私は多く ら四〇年代にかけての、スターリンの個人指導ほどには安定してい の理解しがたい點にゆきあたる。斷っておくが、ロシャ人が自分た ない。スフヴ民族は、その特異な傳統を活かし、民族のエネルギー ちの瓧會で、民主主義にたいして、どのような解釋と實踐を、行う を絞り出し、自分たちに最もふさわしい形の政府を創り上げてゆく かという問題には、いまは觸れる必要がない。それが日本人の場合 であろう。これは何人も肯定するであろう。むろん、「雪どけ」が に關係をもっ限りで、間題にするのである。關係をもつ、という意 ただちに春を呼びだすのではなく、嚴寒のぶりかえすことも當然考味は、繰り返していうが、國産品を創るための參考ということであ ス えられる。だから、現在の「雪どけ」を餘りに樂觀的に考えること る。この場合、いちばん理解しがたいのは、「指導者」という考え ジは、危險を件なう。ロシャにはロシャの事情もあり、外國人がみて方である。「人民の政府」に、はたして「指導者」が必要なもので どうも納得のゆかぬというような點も、ロシャ人の間では案外すらあろうか。「指導者」をいうならば、人民の一人一人が「指導者」 りと受け取られているのかもしれぬ。裏返していえば、こんどの 指 でなければなるまい。「主權在民」という民主主義の理念を徹底さ 「雪どけ」のような事熊も、外國人が受け取っている感じと、ロシ せるならば、そこからは「指導者」という考え方は生れるはずがな ヤ人のそれとでは、若干の落差があるのではないか。この邊のとこ い。「天は人の上に人をつくらず」という民主主義の理想が、國民 ろは、私などにはよく判らぬ。ただし、こんなことはいえるかもし 一人一人の胸のなかに生きているならば、「指導者」を求める聲は 化道「とビジネス

8. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

念とはうらはらに、普遍につらなる人類の善意を信じて疑わぬエリ 野浩二の説のように、作中に「私」が登場さえすれば、それはほか ート意識がその眞率な自己表白を支えていた。明治末年におけるこ ならぬ作者自身のことであり、その「私」の演ずる行動はことごと の白樺派の文學が、大正八年ころの文壇交友録小説の一淵叢となっ く實際のできごとであるかのような讀者の錯覺もまた成立し得たの である。大正二年から大正九年のあいだに、『疑惑』一篇の苛烈なたのである。たとえば『疑惑』とほとんど同時に發表された木村艸 リアリティはそのような風潮をうむだけに一般化され水ましされた太の『牽引』という作品の存在などは、白樺派流の自己表白の文學 のである。 の一亞流として、やはり注目すべきだが、實際の戀文公開という一 しかし、逃げられた女房のあとを追って、宿屋の宿帳を虱つぶし種破天荒な試みをもっ『牽引』もふくめて、作家であるという自恃 にしらべた體驗を書いた『疑惑』のリアリティが、「私」と書きさ に裏づけられ、作家たるものの行藏が一般讀者の興味をひかぬはず えすればすべて實際のできごととうけとられるまでに逆轉し、顛倒はないとするエリート意識が、大正八年ころまでに文壇交友録小説 するにいたった事實は、私小説の一般化を物語ってはいるが、この の氾濫をうながし、ひいてはわが國個有の私小説の成熟をもたらし 事實は必ずしも近松秋江ひとりのメリットに歸するわけにはゆか たのである。いわば原罪的な人性そのものの罪ふかさ、いやらしさ ぬ。むしろ里見弴の『善心惡心』とか久米正雄の『良友惡友』とか に根ざす私小説と、藝術家意識につらぬかれたほとんど樂天的とい 菊池寬の『友と友との間』とか芥川龍之介の『あの頃の自分のこ ってもいいエリート意識の汪溢した私小説と。大體この二種の型の と』とかいうような一種の文壇交友録小説とも呼ぶべき一聯の作品混淆によって、大正八・九年には、一作品のなかにその弊害が言及 の續出に、その功をゆずるべきだろう。『疑惑』の主人公は必ずし されるほど、私小説は一般化し亞流化したのである。因となり果と も小説家である必要はない。いや、むしろあの主人公がサント・プなって、その風潮を助成したのが、實瓧會から遮斷された狹隘なわ 1 ヴを論じ、近松門左衞門を讃美する『文壇無駄話』の著者である が文壇ギルドの形成にほかならなかった。伊藤整の指摘したよう ことはおかしいくらいである。作中の「私」が作者自身でなければ に、私小説の成熟と文壇ギルドの形成とは、その意味ではほとんど ならぬ大前提は、『善心惡心』以下の文壇交友録小説においてこそ表裏一體をなしている。そして、そのような文壇ギルドの形成は、 必須であった。いかにも作家らしい纎細、妬心、自己嫌惡などの心幸德秋水らの大逆事件を媒介した自然主義文學自體の屈折による一 理的象嵌は、ここにおいてはじめて缺くべからざる條件となった。 結果ではなかったか、と私はひそかにうたがうものである。 そして、大正八・九年までに出そろった文壇交友録小説という一種 しかし、私小説的風潮が大正八・九年ころには一般化した事實と、 の私小説の源流としては、やはり白樺派の自己小説ーーー自己を中心それが重要な一個の文藝思潮として、文壇ギルド全體の・ハックポー 背として、その肉親、家庭、戀愛、交友などを無飾に描いていった武ンたる實質をそなえるにいたった事實とは、また別のことがらであ 一一者小路の『お目出たき人』『世間知らず』を先蹤とするあの天衣無る。芥川龍之介に『大正八年度の文藝界』という文章があるが、か 設縫の自己表白の文學にまで遡らなければならぬ。個の伸張、我の發なり克明な文壇烏瞰圖であるにかかわらず、そこには私小説という 揚がそのまま人類の意志にかようと思考した一群の大膽な自己表白項目は無論のこと、その言葉さえみあたらないのである。最初に自 者の文學こそ、また私小説の一濫觴にほかならない。そこにあって然主義勃興から大正八年度にいたる文學史的な「概覿」がなされて 9 は、人性そのものに根ざしているかのような秋江流の痴愚愛執の妄いる。「眞」を標榜した田山花袋らの自然主義、「美」を高唱した永

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して、野間宏は、政治が能率をあげて行われることで、それは賛成ンを二十世紀の生んだ最も賢い政治家であったと思うから一深く 2 〃だ、というようなことを述べていた。私のいっているビジネスと スターリンの悲劇について學びたい。スターリンでさえもと思うの は、そういう末梢の事態をいっているのではない。一人の人間が絶である。 對に誤りを犯さぬ人格として國民から崇拜されるような政治の在り むろん、これは空想にすぎぬ。私とて、政治がいますぐ高度なビ 方への抵抗として、ビジネス化を求めるのである。それならば「集ジネスになるなどとは考えていない。ただ、現在考えられる理想の 團指導」で訂正されたのではないか、というような反論がでるかも終局について思いを馳せただけである。現妝に閉して、どのような しれぬ。だが私は、この指導をビジネスによって置き換えたいと思反ビジネス的な政治を行おうと、それはやむをえない。だが、現實 うのである。ビジネスならば、上下もなくなるし崇拜も必要がなを最高のものと考えて、遠い理想を見失ってはならぬ。現實はむし い。國民が相互の契約をお互いに守ればそれでよい。腐敗も墮落も ろ最低のものと見做さねばならぬ。最低の現實を、最高のものとい 生じない。人民大衆の積極的な自發性をとくに必要としない。それ いくるめるところに、腐敗と墮落の根源がある。これは、瓧會主義 は自然に行われる。下からの創意の解放などは、むろん必要でな瓧會だけでなく、あらゆる形での「革命」をなしとげた瓧會の陷り い。一人の人間が或る地位に、生きているかぎり留まる必要もなやすい誘惑である。死刑や戦爭からさえ解放されぬ現代の政治はま い。何人もの人間が交替で地位につけばよい。それなら大統領の選だ野蠻時代を彷徨しているのではないか。 第と變りないではないか、というような反駁があるかもしれぬ。私 國家の物質的基礎は、國民の税金であり、それを「憲法」という は、そのような西歐民主主義をも越えなければならぬと思う。大統契約によって、國民の幸幅のためにできるだけ能率をあげて使用す 領になることが、最大の出世や榮譽と考えられるような就會では、 るにすぎぬ、という、いわばビジネス的國家觀を理想として掲げた 政治はまだ十分にビジネスではない。大統領などは、極端にいえいものである。この場合、國家は、税金を支拂う人間の總意によっ ば、平凡な會瓧の社長や重役と同じように、普通の人間がすぐなれて運營される。總意を決めるには、「指導者」は必要でない。たと るようにならねばならぬと思う。そのためには、大統領の權力がもいどのような善意をもっている「指導者」でも、その善意のために っともっと分散しなくてはならぬ。また、國の政治全體として能率反って害毒を流す。そんなことでは、衆愚政治に陷って、人民が不 的なメカニズムにならなければならぬ。空想の翼をのばすならば、 幸に陷る、と心配する善意の「指導者」がいても、その「指導者」 政治のなかにオートメーションを取り人れることが可能なのではあはいったいなんの權利で、他人の意志に干渉するのであろうか。た るまいか。現代の政治は、技術としてこれを眺めるならば、手工業とい不幸に陷っても、それは國民一人一人の責任ではないか、とい の段階で、分業さえも未だ思うに任せぬといった程度である。手工 う考え方をしたい。少くとも、「人民の政府」という考え方を徹底 業では個人の創意が最も奪ばれる。優れた「指導者」の求められる させるならば、この邊のところまでは考えてみてもよい。「人民に 所以である。この點では三千年前のギリシャの賢人政治と本質的に よる政府」を考える場合に、税金の問題を無視してはいけない。む 變りがないっ二三萬の人間を相手にしての話ならば賢人政治も成り ろん、ファシズム流の血と土という考え方をもってくるならば、話 立つ。だが、何億の人間をあっかう現代の政治では、どんな賢人のはべつである。たがこれは論外だ。新しい社會主義就會では、税金 「指導者」による政治でも、失敗から自由ではない。私はスターリ を拂う國民の權利と責任をもっと重く考える必要がある。國家への

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128 ているからである。そこから彼の文學の嚴肅感が出ている。 到來せぬかも知れぬ「最後の審判」にそなえてやろうと決意する 志賀の作品は、少なくとも彼の文學の根幹をなす作品は、自己のか、そのいづれかに傾かざるをえない。 經驗をあとから整理したものと、それを先取りしたものとに分けら 日本の中産的インテリゲンツィヤの自我は、有島武郞と宮本百合 れる。 子の道が分岐した線において、そのものとして全一的・實體的であ 『大津順吉』や『流行感冒』や『濠端の住まひ』や、その他多くのればあるほど不調和となり、健康であればあるほど病的になり、男 作品は自己の經驗を整理したものである。『濁った頭』や『兒を盜性的であればあるほど女性化せざるをえぬ、奇妙な段階にふみ込ん だように思われる。 む話』や『邦子』は、經驗を先取りした性質をもっ作品である。そ して、『和解』と『或る男、其姉の死』は、經驗を先取しようと企 眞實を描くが事實を描くに變じ、「實感のもてる」内容だけを扱 てて、經驗の整理に變った作品である。 うことが自傅的題材にむかう傾向は、私小説全般に通じる性質であ すべての作品は、作者にとって經驗の整理か先取でないものはなって、なにも『白樺』派にかぎったことではない。しかし、あの唯 いともいえるが、「自分に於ては『想ふ』といふ事と『爲す』とい我的にまでみえる『白樺』派の自己中心主義・ーー『白樺』派の大正 ふ事とには殆ど境はない。」 ( 『クローデ ( アスの日記』 ) と書く志賀に期の作物にはしばしばホイットマンとストリンドベリーが引き合い あっては、作品と實生活との關係がとくに直接的なのである。そし に出され、雜誌『白樺』にはそれら作家の翻譯がながながと連載さ し J い、つ 1 も て、志賀は、窮極においては、藝術のために生活を犧牲にした太宰れたが、それはいかにも『白樺』派にふさわしかった 治とは反對に、藝術を生活に從屬するものとした作家である。よし のは、ただに無我夢中の個の主張さえ興味をもって眺められ、個の 『破戒』を書くために妻子を犧牲にした藤村を一應は承認した ( 『邦擴大要求がどこかで熱烈に迎えられたばかりでなく、ある程度まで 子』 ) にしても。 それが現實に貫徹されえた時代の雰圍氣をはなれては考えられぬ。 世紀末以後の文學は、知性や感情が一面的に肥大して、意志の統比喩的にいえば、彼等は特殊な社會的地位の幇助もあって、まだ腕 制を破る傾向を強く示している。志賀にあっては、知性も感情も強力の強い餓鬼大將でありえたのである。志賀文學の男性的な、生活 力な意志の掌握下に收められている。このことは、彼の文學の實踐建設的な、實踐的な性格というのも、これらの事情に關係している。 的性格、生活が藝術に優位する彼の生活態度と密接に關係してい 里見の『君と私一は、志賀をモデルにした佐々を「君」とし、里 る。腕力の強い子供は、相對的にいって、自意識に惱む必要が少な見自身をモデルにした伊吾を「私」とした小、説だが、「私」は、年 い。原始的な、根生いのままの自我が貫徹されるところでは、人は上の女中と關係し、子供の出來たのを知って狼狽する。「私」は、 女性化する必要がない。 それを佐々に打ち明けるのに、自分の家の女中との關係として話す 必然の「壁」に自我が碎かれたところから出發した世代にとってだけの勇氣がなく、他處の女との間に出來た事件としてはなすのだ は、知情意の調和した、手ごたえたしかな、丸ごとの實體的自我な が、佐々は、「まあ惡いことぢゃないんだから安心して居たまへ。」 ど最初からありえない。彼等は、碎かれた自我の破片を手にして、 とさらに動ずる氣色がない。「子供一人ぐらゐどうにもして行け それらの再びつなぎ合わされた全き容姿を思い描いて嘆くか、いっ る。」ともいう。伊吾も、佐々も、部屋住み時代の事件である。 そひと思いに空靈と化してこの世の必然惡を探索し記録し、永遠に 「私」の兄なる人物も、女中と關係があり、彼は外遊するときに女