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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集
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1. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

0 3 である。 けである。その十三章が掲載された日、花袋が藤村の自殺を心配し かかる岸本捨吉の陰濕な内訌性と韜晦的な獨善性とはそっくりそたのも一應無理からぬ話であった。しかも、『新生』執筆の時期は、 ふたり のまま島崎藤村のものであった。一般的にいって、こらえられるだ また「兩人の間の縒りが戻って」なんのために三年間も異鄕へ逃避 けジッとこらえようとする受け身のねばりづよさは藤村の生得的な行をせねばならなかったかも疑われるような、よりいっそう紛糾し 禀質だが、この場合の捨吉の因循姑息はまた實際に藤村がなめてき惑亂する事態のさなかにおいてであった。後年藤村が回顧して「全 た孤獨なたたかいぶりを表示している。なぜ「本當のこと」という局の見通しもっきかねるやうな作で人生記録としてまことに不充分 ものはこうロに出せないものだろう、と捨吉は嫂の病氣見舞いの歸なものである」と語っているのも、このような作家的條件の機微を りに嘆いているが、この捨吉の咏嘆は現實に藤村のものでもあった示唆するものとしてはやはり正しいのである。 はずだ。とすれば、藤村がそのつらい「本當のこと」を題材とし かかる作家的決意、かかる執筆條件はまさしく自己表白による自 て、ともかく『新生』一篇を完成し得たということは、公平にみ己救濟という『蒲團』ではじめて樹立されたあの私小説的文學精 て、花袋が『蒲團』を書きあげるのに要した作家的勇氣とはやはり の具象化として、ひとつの典型とも呼び得るかしれぬ。多くの 比較を絶していよう。花袋は語っている、「かくして置いたもの、 『新生』論がその線に沿って書かれ、禮讃されてきた所以だろう。 壅蔽して置いたもの、それと打明けては自己の精紳も破壞されるか 一個の藝術品としてどのような不備と缺陷とを孕んでいようと、一 と思はれるやうなもの、さういふものを開いて出して見ようと思っ篇の「人生記録」としては壯烈な決意と貴重な敎訓とにみちたもの た」と。『蒲團』は一種のコロムプスの卵であった。最初の試みと だとする結論がそこから抽きだされる。無論、私といえどもこの結 して、花袋が落筆に要した勇氣はまさしくそのとおりだったろう。 論そのものに反對しようとするものではない。しかし、私の間いた しかし、今日となってみれば、『蒲團』を書きあげるにすらそのよ いのは、そのような藤村の作家的決意を内側から促したものはなに うな決意を必要としたとすれば、『新生』執筆にいたる藤村の作家か、そして、その決意を果して私小説的文學精訷と一口に呼びすて 的勇氣が尋常一様のものでなかったこともまた容易に推察できる。 ていいであろうか、ということにほかならない。これまで私が『新 「兄を欺き、嫂を欺き、親戚を欺き、友人を欺き、世間をも欺いて、生』に密著して冗漫な筆をすすめてきたのは、藤村がその特異な戀 洋行の假面にかこつけて國から逃出すやうな」身のゆきづまりを、 愛事件を隱蔽しようとしていかに苦心慘澹してきたか、その結果の ともかく一個の文學作品にまで定著させたということは、「自己のもたらす矛盾と犧牲にもかかわらず、ただひたすらに隱せと命ずる 精訷も破壞されるかと思はれる」どころではなかったにちがいな深奧の聲がいかに藤村個人にとっては理非曲直をこえた天降り的な い。藤村は「種々な方面から自分の身に集って來る嘲笑を」、「場合宿命の囁きを意味していたか、という一點にかかっていた。その宿 によっては、社會的に葬らる、であらうといふことも」、「その結果命の聲は、藤村にとって、エゴイズムなどいうなまなかな言葉では として、多年彼の携はって來た學藝の世界から退かなければ成らな律しきれぬほどの撞著と錯亂とを犯しても、やはり押しつらぬかね いやうなことをも」豫期して筆を執ったのである。この言葉を文字ばならぬ肉體の必然性に根ざしていた。とすれば、瀬川丑松におけ どおりに受けとれば、藤村は「自己の精神」というようななまやさ る出生の祕密にもたとえられるその宿業にあらがい、そのぬきさし しいものではなく、自己の生存そのものを『新生』一篇に賭けたわならぬ必然性をうち破ろうとして、藤村が『新生』を書くにいたっ

2. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

イ 9 新生論 愛讀者の顰蹙を買うに價している。しかし、この藤村の談話は一見 た消息を携えて訪間した新聞記者に語っている。 こま子とは廿年前東と西とに別れ私は新生の途を歩いて來まし奇矯な私の『新生』論を逆光線で照らしだし、事實において裏打 た、當時の二人の關係は「新生」に書いてあることでつきてゐちするものではないか、「新生」なぞどこにもありはしないのだ、 ますから今更何も申し上げられません、それ以來一一人の關係はと。私はたんなる好事癖から古新聞の談話まで引用したのではない。 ふつつりと切れ途は全く斷たれてゐたのです、あの人もあれか 芥川龍之介が『侏篇の言葉』において「果して『新生』はあった らあの人自身の途を歩いてゐたでせうが、その後何の消息もあ りませんでしたが三年ばかり前病氣だからといってあの人の友であらうか ? 」と間い、『或阿呆の一生』において「彼は『新生』 人が飯倉の家に來たことがありました、その時はいくらかの金の主人公ほど老獪な僞善者に出會ったことはなかった」と斷言して を贈りました、これが今までの後にも先にもたった一度の交渉いる事實は有名である。『新生』についてなにごとかをあげつらお です、最近はどうしてゐるのかまた病気で養育院に入ったというとするほどのものは、かならずこの芥川の言葉に言及している。 しかし、『暗夜行路』の作者に「絶望に近い羨ましさ」を感じてい ふのもはじめて聞きます、もしほんとうならあの人の姉がをり ますからその姉と相談して何とかせねばなりますまい、私が勝た芥川龍之介を明らめた人はすくなくないのに、その晩年二度も 手に一人でどうかすることは今の私には出來ません。 「新生』を問題にせざるを得なかった芥川の眞意を闡明しようとし 無論、これは忽卒のあいだに新聞記者に語られた言葉だ。昭和十た人は意外に乏しいのである。 註その代表的な人は井上良雄であった。私はこの秀れた批評家が笨を折ってしま 一年の夏から「萬國ペン大會出席のため南米の旅にのぼる。南米各 ったのをいつも殘念に思う。 地、北米ついで曾遊の地 ( ! ) 巴里を廻り、マルセイユより歸東、 いかにも芥川龍之介は志賀直哉を羨望したかしれぬが、そこには 紅海海上にて越年」して、昭和十一一年一一月、ようやく新居に納まっ たばかりのところへ、突然過去の亡靈と直面した狼狽を押し靜めなみずから「絶望に近い羨ましさ」と公言して憚らぬ彼岸的なあかる さがあった。すくなくとも、そこにはどうしようもない透明な諦念 がら語った藤村の複雜な氣持を、精確にったえたものではもとより が流れていた。しかし、藤村と龍之介とは同じ星のもとに生まれた ない。文章も記者の走り書きした粗雜なものにすぎぬ。しかし、 異母兄弟にほかならなかった。ただ藤村の體内をめぐるねばっこい そのとき語った藤村の全體の語調だけはやはりったえられている、 とみていいだろう。そして、その迷惑げな全體の冷淡な調子は『新血液に比較すれば、芥川のそれは先天的に水つぼかったにすぎぬ。 とすれば、芥川が「老獪なる僞善者」と喝破したその颯表たる斷定 生』の愛讀者にとっておそらく意外なものだったのではないか。そ れが意外であればこそ、「新生』後日譚としてここに再録しておくの裏には、いかにくらい敗北感が衂られていたことか。小穴隆一は この言 だけの價うちがありはすまいか。 「二つの繪』において語っている、「藤村はいやな奴だ。 阿部次郞、吉江喬松を筆頭にして『新生』という作品に獻げられ葉が芥川龍之介の口から吐き出された時に人は成程藤村といふ人間 はそんなにいやな奴かなあ、と思ひこんだ」と。まるで穢れを吐き た貢物の數はすくなくない。その貢物に十重一一十重にかこまれて、 だすように、「藤村はいやな奴だ」と芥川がいいすてるとき、人は 訷聖な光背さえ持ちかねぬこの形而上的な作品を、私はいやしげな いわば雎物的な手つきで腑わけしてきた。それは世のいわゆる藤村一言の説明も聞かぬのにそう信ぜざるを得ない力がそこにはこめら

3. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

3 5 び起っあたわざるわが身を危ぶみつつ「夜明け前』の制作に畢生の亡き父の魂を呼びつづけた捨吉は、晩年の狂氣の原因を「簡單な衞 生上の不注意」によるものではないかと考えなおしてみるほど、と 力を傾注しなければならなかったのである。 # 「夜明け前』を完成し、ふたたび獲た新夫人と「曾澁の地」フランスを廻ってみこうみ父親の生涯に思いを馳せた。しかし、「父の發狂が左様し 歸國した途端に、なまなましい過去の亡靈と面接ぜざるを得なかったのが藤村の た外來の病毒から來て居るとしても、そのために父に對する心はす のがれがたい宿命の實相であったともいえる。 こしも變らなかった。恐い、頑固な、窮屓な父は、矢張自分等と同 ポォル・ロワイアルの客舍にあって、常人からは隔絶されたおの じゃうな弱い人間の一人として、以前にまさる親しみを以て彼の眼 が宿命を明瞭に自覺したとき、藤村はその恐怖にたえきれず、そこ に映るやうに成った」のである。とすれば、衝撃とともに受けとめ からの遁走を企圖し、いままでどおり一般瓧會と入りまじりたいと た長兄の話は、藤村の心を以前にもまして父親の方へ惹きつけずに 希わすにはいられなかった。藤村は「幼い心に立ち歸らねばならなはおかなかったに相異ない。自己の身うちをめぐる「不思議な力」 い」と思い、透谷との運命的な邂逅にいたる若き日を追體驗した。 の根源を、怖れとともに、「弱い人間の一人」である父親の生涯の おこたひ しかし、宿命的な罪業の意識は到底拭うべくもなかった。心の苦し「隱れた行爲」にまで探及せずにはいられなかったはずだ。それこ みにたえかねて、藤村は亡き父を呼び、自己の體内をめぐる血液に そ藤村の宿命そのものの根柢的な追尋にほかならなかったから。 思いをこらした。この外遊三年間の「心の戦ひ」はそのまま歸國後 靑山半藏の生涯が藤村の父島崎正樹の一生をうっしたものである の半生を規定した。『新生』から『嵐』を經て『夜明け前』にいた ことは周知の事實である。『家』『新生』において斷片的に描かれた る過稈はその孤獨な「心の戦ひ」の文學的實踐にほかならない。 父親の挿話はすべて『夜明け前』に序列正しく組み入れられてあ 「この作の主人公が遠い族から抱いて來た心に歸って行くまで」と る。しかし、「同族の間に起って來た出來事」は無論のこと、その いう藤村の言葉はこのような文學的全道程を語るものでなければな發狂の醫學的究明などについては、あの厖大な「夜明け前』全篇を らない。藤村の『假裝人物』はあの『夜明け前』にほかならなかっ通じて、つゆいささかも觸れられていない。私はここに『夜明け たのだ。 前』の重要な徴表をながめたいと思うものである。 『夜明け前』は私にとって非常に面白い作品とはいえなかった。こ 簡單に結論を述べたい。 とに第一部は退屈そのものだった。第二部の後半ぐらいから私はよ 臺灣から上京して來た長兄と面談したとき、捨吉は長兄から「父うやく本氣になって作者の描く世界に惹きこまれたにすぎない。極 の生涯に隱れたもの」を聞かされた。「あれほど道德をやかましく 言すれば、村山知義の脚色した演劇『夜明け前』の方がはるかに印 おこなひ 言った父でも誘惑には勝てなかったやうな隱れた行爲があって、そ象ぶかかった、といっていい。瀧澤修扮するところの主人公が蓮の れがまた同族の間に起って來た出來事の一つであった」という話を葉っぱを頭にのせて、もの狂わしい振舞いをするあたりから幕切れ はじめて聞かされたのである。この父の祕密は『新生』の終りにまでは、のべっ涙が出てきて閉ロした。芝居をみてあんなに泣いた 近く、それだけ書かれているきりで、捨吉がどんな氣持でこの話を經驗はあとにもさきにもない。「どうして俺はかういふ家に生れて おのづから 受けとめたかは全然髑れられていない。しかし、藤村はこの話から來たか」とお民に嘆息する靑山半藏は「自然に歸れ」という本居宣 劇甚な衝撃を受けたにちがいない。巴里の客舍にあって、しきりに長・平田篤胤の敎えに憑かれ、一個の求道者としてその後半生をふ

4. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

21 新生論 だ。見榮えもしない一文學者の自傅であるにかかわらず、おのずか いかにも『新生』は決死の氣組みで書かれた。しかしその決意は ら起承轉結ある生の客的なすがたとして、そこに髣髴してくるのどのような意味ででも「自殺」を聯想さすものではなかった。反對 に、それはいかにかして生きぬきたい人間の執拗な動物カにつらぬ である。ひとえに忍耐づよい自己凝視のたまものにほかなるまい。 人はそこからおのれの好むがままに、生の敎訓を汲みとることがでかれた決意にほかならなかった。そこに『新生』一篇の持っ現實的 きる。 な作因がある。それを私は討尋したい。 ここでは『新生』の與える敎訓をカのかぎり汲みつくしてみた 知られているように、藤村は一口に藤村流と呼ばれる獨特の語彙 い。中年期における生の陷穽と惑亂とを混沌のさなかから歌いあげ と文體とをもっている。その特徴は、『新生』においても變りはな たこの長篇は、藤村の作品系列のなかでも特殊な位置を占めている い。もしかしたら、この長篇はその特色を最大限に發揮した作品の し、ひろく自然主義Ⅱ私小説の系譜においても特異な椅子を要求し ている。そのなまなましい、ほとんど奇怪と形容してもいい特異性ひとっかもしれぬ。藤村流の文章はおそらくここに確立し、ここに に匹敵し得るものとしては、わずかに森田草平の『煤煙』を擧げる圓熟している。 たとえば、藤村はここで「文壇」「文士」「作家」などの言葉をつ ことができようか。そのたぐいすくない特異性を私はここで明らめ かわない。「學藝の世界」「學藝に携はる者」「學藝に志す者」とい たいと思う。 うふうにいう。また、「藝者」「待合」などの言葉をもちいない。 「藝で身を立てやうとする達」とか「酒の興を添へにその二階座 『新生』ははじめ新聞小説として東京朝日新聞に掲載されたが、 「節子は極く小さな聲で、彼女が母になったことを岸本に告げた」敷へ來て居た女の一人」とか「酒のある水邊の座敷へ呼んで見る若 という一節をふくむ第十三章が突如掲げられた日、田山花袋は非常草のやうな人逹」というように書く。また、あらわに金錢のことを に興奮しながら白石實三に語ったという、「君、島崎は自殺するか 語りたがらぬ。「骨の折れる生活」といった具合におぼめかすのが も知れない。 : いや、かうしてゐるうちにも、電報が來るかも知すきだ。このようないいまわしは、切り離してみれば、それはそれ れない。困ったことになった。 : : : 見舞ひに行くのも變だし、といだけのことである。「文壇」でも「學藝の世界」でも大して變りは ない。しかし、こういう言葉癖のゆえに、「先生だけは奈何かして って、心配で遠くから傍觀してゐるにしのびない」と。 花袋の愛弟子らしく、白石實一二はこの挿話を「花袋氏の藤村氏に墮落させたくないと思ひます」「私だって弱い人間ですよ」という ような會話をほかならぬ待合の女中と客とのあいだに取りかわさせ 對する友情がこの時ほど美しく發露されたことはなかった」という つつましやかな感想とともに紹介しているのだが、今日私どもがこたり、溿戸から出帆するのを「隱れた罪を犯したものの苦難を負ふ べき時が來た」と書き、外國へのがれる自分を「森林の奥を指して の挿話から感得するものは單に美くしい友情だけではない。なによ りも『蒲團』の作者と『新生』の作者との距たりを、ほとんど好人急ぎ傷ついた獸 , に喩えたりするような、讀者の反感をよびかねな 物とよんでもいい赧ら顏の田山花袋と「老獪」と後輩の作家から評い白々しさや物々しさをうんだとすれば、やはりその間の消息は簡 されねばならなかったような島崎藤村との氛質的相異を、このエピ單に看過できない。このようないいまわし、このような文體はひと つながりのものとして、『海へ』の扉にしるされたあの有名な箴言 ンオドは如實にあらわしている。

5. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

イ 7 新生論 みたぬうちに發刊された。文字を活字にすることの最小限度の社會 人物や出來ごとをくりかえしまきかえし描いて倦まぬ藤村の全作品 から、完全にそのすがたを沒している。臺彎に旅立 0 た節子はその的意義もわきまえぬような文章が掲載され、女學校の校友會誌の延 後どうしたであろうか、と」う讀者の關心はたんに通俗な人情にの長みたいなものにすぎなかった。鷹野 0 ぎという地味な作家をひと り文壇に送りだ一したのが唯一の文學的メリットだった、といえよ み根ざしているわけではない。『新生』という作品のなりたち自體 う。藤村個人に印していえば、その編輯同人のなかから後年結婚し がその後日譚を要求しているのだ。秋聲が『假裝人物』を書いたよ うに、藤村も全圓的な展望のきく地點に立って、もう一度素材全體た加藤靜子をみいだしたこともひとつの功績に數うべきかしらぬ をときほぐし、純正な藝術的作因につらぬかれた藤村自身の『假裝が。だが、」ま私のいいたいことは、その雜誌についに節子の本名 人物』を描くべきだった。すくなくとも、『煤煙』を書いた草平がの發見されなかったという事實である。節子が臺灣に旅立ってから つづけて『自敍傳』を書かねばならなかったように、『新生』後日雜誌創刊までには、三年半ちかくの歳月が流れている。しかし、藤 朴は節子とともに前後七カ年のあいだ語りつくせぬ哀歡悲苦をなめ 譚だけは書かるべきであった。藤村自身も後年「この作、もと二部 た。臺灣 ( 行ってからも、手紙を書くことのすきな節子とのあいだ より成るが、本來なら更に一部を書き足し全部を三部作ともして、 に、音信が取りかわされなかったなどとは到底想像されぬ。普通の 結局この作の主人公が遠い旅から抱いて來た心に歸って行くまでを 書いて見なければ、全局の見通しもっきかねるやうな作で人生記録讀者の立場からいえば、藤村主宰の婦人雜誌に節子の名前を期待す としてまことに不十分なものである」と語っている。「主人公が遠るのは無理ではあるまい。節子がほんとうに宗敎的境地に辿りつい い旅から抱いて來た心に歸って行くまで」とはなにを指すかよく分たかどうかを私はしらぬ。しかし、『新生』に數多くならべられて からぬが、もしそれが主人公の再婚の決意を語っているなら、事實あるその手紙、感想、短歌などからみて、彼女に一種の文學的才氣 再婚した藤村のその後の生活まで描いておいてくれれば、讀者は滿のあ 0 たことは疑えぬ。藤村はなぜそのような節子の芽ばえを「養 ひ育て」るために、雜誌發刊の際、聲をかけてやらなかったのであ 足したであろう。 しかし、藤村はついに後日譚を書かなかった。そこで私が、私のろうか。雜誌自體が内輪の校友會誌みたいなものだったとすれば、 ひろった『新生』後日譚みたいなものをここに書きつけておかねばなおさらのことである。また事實、主として手紙の形式によって女 ならぬ。私は藤村その人を直接知るものではない。その生活環境に性の日常的な思想感情を發表する機關としたい、とはその雜誌編輯 ついてもなんら具體的知識を持ちあわせていない。ただ『新生』と上の建て前ででもあった。だが、それは『新生』後日譚の一齣とも いう作品解明のためにひろいあげた一、二の事實を、ここに書きと呼び得ないささやかな事實にすぎまい。後日譚ということになれ ば、昭和十一一年三月六日の東京日日新聞に掲載された記事を私は援 めておくにすぎない。 『新生』下卷を大正八年十一一月一一十九日に上梓した藤村は、大正十用しなければならぬ。 運命の " 荊の道 ~ を廿年、あわれ養育院に收容、という五段ぬき 一年四月に『處女地』という雜誌の主宰者となった。藤村の周圍に あつまる女性たちの發表機關誌として、藤村みずから經濟的負擔をの見出しを持ったその記事は、臺灣に渡ってからの節子の消息をは ひきうけ、編輯上の援助をあたえたものだった。しかし、それはじめて私どもにったえてくれた。 臺灣に去った節子は數年ならずして内地〈歸り、京都の知人の家 『靑鞜』の十分の一の文學史的意義も持たぬ雜誌で、誌齡も一年に

6. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

2 5 た。もはやそこでは、藤村はフフンス逃避行をいかにも普通の留學こで私はもう一度花袋の言葉を思いだしたい。「島崎君、らゐ性慾 なみに回想しているにすぎない。藤村流にいえば、「漸く、漸く」と に苦しんだ作家はないと言って好いだらうね」と語ったその言葉は か「あゝ酷かった、酷かった」とでも呟いて、ひとりで手を揉んでたしかに知己の言たるを喪わなかったが、藤村が「不思議な力」と みせるところだろう。藤村文庫の奧書で藤村が『新生』について、 しか表現できなかったものを「性慾」という言葉に還元してしまっ 「こんな悲哀と苦惱との書ともいふべきものを、今更讀者諸君にお ては、その混沌たる根づよい生の力を單純な一般概念にすりかえる くるといふことすら氣がひける。しかしこれなしにはあの『嵐』に おそれがある。藤村における「不思議なカーとは單なる性本能を指 まで辿りついた自分の道筋を明かにすることも出來ない」と語ってすものではない。 いるのは、かかる事情をつたえたものだ。しかし『嵐』を書き『分「あゝ、自分のやうなものでも、どうかして生きたい」という有名 配』を書くことで、ほんとうに「嵐」を忘却してしまったら、藤村な『春』の結びの言葉は藤村の生涯をつらぬく座右銘にもひとしい は無間地獄〈まっさかさまに顯落して末來永劫うかぶ瀬はなかっ役割をはたした。生に對するねばりづよい執着は、すでに瀬川丑松 た。だが、藤村はついに「嵐」を忘れることはできなかった。小休の特殊な嘆きのうちにも、藤村自身の主觀としてかよわせずにはい 止というものは戦鬪中の兵隊にも許される。『嵐』や『分配』を書られなかったものだ。 いて、しばしの憩いを小春日和のなかに偸んだ藤村もまた許さるべ 「生きたくないと思ったって、生きるだけは生きなけりや成りませ きであろう。どんなに藤村が希っても「嵐」の方で藤村を見忘れるん」とはまた『家』の主人公小泉一一一吉の言葉である。「生きたいと はずはなかったからだ。「よりによって、二度までも」というあのは思はないものは無い ーという言葉も『新生』のなかに讀まれ 宿命的な罪業の烙印は、到底消えるべくもなかった。藤村はたやする。『新生』の主人公はいくたびか死を決するが、本質的にいって、 く飯倉片町からひっこすわけにはゆかなかった。人には語れぬ歴史藤村ほど自殺から縁遠い人はない。執念ぶかいその生の力が死の淵 の搖曳するその谷底のような家にすわりつづけたまま、藤村は迫りの一歩手前まで藤村を追いやった場合も、かならずその危機をなん くる老殘のを鞭うって『夜明け前』にとっかかり、それを完成し とかきりぬけ、そこからひっかえさずにはおかぬ。藤村は到底自殺 てしまわねばならなかったのである。それが自殺した芥川龍之介と なぞできる人ではなかった。ここで注意すべきは、この生本能が一 はまったく異なった道を歩きとおした、藤村個有の藝術的道程にほ種無目的的なイフショナルな力にみち、ときとして藤村その人を かならない。 脅やかす不氣味なものを孕んでいたことである。ひしめくその盲目 な力の前に、わかき藤村はいいしれぬ恐怖を感ずるときもあったに 三吉がお俊の手を執るとき、作者は「不思議な力」という表現をちがいない。「一切のものの色彩を變〈て見せるやうな憂鬱が早く もちいた。歸國した捨吉が節子に小さな接吻をあたえた場合も、作も少年の身にやって來たのは、捨吉の寢卷の汚れる頃からであっ 者はふたたび「不思議な力」という文字を取りあげている。これはた」とは『櫻の實の熟する時』の一句である。かかる藤村にとっ 藤村の逃げや見てくれや作家的非力を表明するものではない。藤寸 本て、北村透谷との邂逅はひとつの運命的な意味をになっていた。明 ひやく としてはそうとよりいい説くすべがなかったのだ。藤村個人にとっ治もはやく二十年代に、戀愛を「人生の祕鑰」と斷じ、實人生に相 て、それはぬきさしならぬ絶體絶命の表現にほかならなかった。こ渉らぬ「空の空なる事業」にいのちを睹けた透谷のみじかい「内部

7. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

6 となった。一種の不協和音を孕みつつも、『煤煙』が一個の文學作雜怪奇な特異性を烙印づけられた作品にほかならない。 註そこから必然にもたらされる文學上の缺陷については、すでにくどくどしく述 品たるを喪わなかった所以であり、しかし後日譚として『自敍傅』 べたところである。 の書かれねばならなかった所以であろう。 しかしーー・藤村は『新生』をたんに現實的作因にのみしたがって 『新生』執筆の期間、藤村もまたさまざまな實際的配慮に惱まされ ねばならなかった。新聞小説として一日々々暴露されてゆく事件の書いた、といいきって誤りはないか。そこにはやはり藝術的作因と も呼び得るものがひそんではいなかった。事實、節子はすでに臺 内容を、「幽閉」されている節子が日々どんな氣持で讀むことか、 にさり、自分もようやく書齋らしい書齋をみいだした、という飯倉 義雄は、輝子は、愛子は、臺灣の長兄は、そして函館にいる園子の 姉妹たちは、という錯雜した實際的關心にたえず提われざるを得な片町で書かれた『新生』下卷には、この作者本來の藝術的稟質が比 かった。というより、そのような特殊な讀者の眼をつねに豫想し、 較的すなおに流露している。下卷の面白さを多くの人が指摘してい その效果の計量を作品自體に盛りこまねばならなかったのだ。注意る所以だろう。「私の創作上の經驗によれば一の長篇は他の長篇を すべきは、そのような特殊な讀者を前にしてとった藤村の執筆態度喚び起すもののやうである。私が『破戒』を書いてゐるうちに である。藤村はすくなくともその外面に現われた事實はいささかも「春』はすでに私の内部に芽ぐんで來た。それから『春』を書いて ゐるうちに私は『家』を書くことを思ひ立ってゐた。ところが 曲げようとしなかった。現象的なディテールの忠實ということは、 細心大な藤村がその執筆にあたって心した、第一の自戒にほかな『家』を書き終る頃になっても、第四の長篇が胸に浮んで來なくな 註 らなかった。ここから『新生』における事實の精確が、その年譜の ってしまった。あの時は私も淋しい思ひをした」と作者みずから語 誤りをさえ訂正し得る結果を生んだのである。つまり、おお根のとっている言葉をそのまま受け人れれば、『新生』は藤村の面接した 藝術的ゆきづまりを打開する「第四の長篇」として書かれ、その藝 ころ、作者は『新生』をよむ實在のこま子を甘やかして增長させて もならぬし、機嫌を損じて怒らせてもいけなかった。『新生』序章術的野望を一應逹成しているものである。すなわち、それは戀愛と から主人公の巴里到着にいたる筆づかいがとくに苦澁にみち、一般金錢とからの自由という現實的作因とならんで、その個有の藝術的 作因もそこにあざなった稀有の作品だった。ころんでもただは起き 讀者の理解を躓かせたり、反撥を感じさせたりした所以である。 「嵐」を「嵐」として切りぬけざるを得なかったその苦衷の根原もぬ藤村の不死身のつよさがそこに出ている。事實、私はごてごて そこに由來する。 『新生』に因縁つけてきたが、私に因縁をつけさせるだけのデータ はたしてこのような『新生』を一、個純正な藝術作品と呼び得ようはことごとく「新生』自體がそなえていたのだ。ありきたりの體驗 己や報告文だったら、やはりそれだけの難癖づけに耐える文學的な か。すくなくとも、戀愛と金錢とからの自由という血腥い現實の欲言 求にうながされ、それの打開策を主要な目的として書かれた『新深さなぞ到底求め得べくもなかったろう。 註「破戒」を書いているうちに、「春』の執笨を思い立ったという言葉には疑問 生』一篇が、いわゆる懺悔の希求や私小説的文學精紳につらぬかれ がある。ここにはすくなくとも小説概念の屈折がある。 た諸制作とは、はるかに隔たった地點に佇んでいることだけは動か せぬ事實であろう。近松秋江の金無垢の私小説などとはまるで質を 「叔父さんーー・」と息をのんでそこに立ちすくんだような哀切なひ 異にしている。『新生』とはそのような作品である。そのような複と聲を最後として、爾來節子の消息は杏としてとだえている。同し

8. 日本現代文學全集・講談社版97 平野謙 本多秋五 荒正人 佐々木基一 小田切秀雄集

の作品を讀んでいるかどうかを思案したり、たしかに讀んでいたに日記』を讀めばすぐわかるように、ジッドはそのような創作方法を ちがいないとカんだりすることは、本來からいえば滑稽な錯誤にす彼のいわゆる純粹小説論の實驗として、近代小説理論の極北を夢み ぎまい。しかも、私はその滑稽な錯誤を犯さざるを得なかった。 たひとつの實驗裝置として提出したのだった。横光利一の『花々』 『新生』という作品自體がそのように私を強要してやまぬのだ。こ ( ? ) もそのようなジッド的方法を踏襲しているかに聞いた覺えが こにその創作方法の重要な徴表がある。 ある。それらは近代小説の強いられた意識的な技法上のデカダンス たとえば、フランスゆきを決意した主人公が最近筆を執りかけたにほかならなかった。しかし、『新生』の場合は、いわば自然發生 自傅の一部を「これが筆の執り納めであるかも知れない」と思いっ的な必然として、作者はもっとも素樸にそのような方法にしたがっ つ、讀み返してみる個所がある。作者はそこでその自傅の一部をなたまでである。ここに『新生』一篇の持つなまなましい特異性が露 がながと挿人しているのだが、その引用文は一字一句『櫻の實の熟表している。 する時』からのひきうっしにほかならない。また、作者はときどき 德田秋聲は『元の枝へ』その他一聯の作品を書き、後にそれを 主人公の感想文なども挿んでいるが、それも藤村の紀行文その他に『假裝人物』一篇に集大成した。森田草平は『煤煙』を書き、つづ みいだされる章句ばかりである。今日私どもの讀む島崎藤村の作品 けて『自敍傳』を草した。『元の枝へ』は現實の事件の渦中にあっ は、また『新生』の主人公岸本捨吉の執筆にかかるものであった。 て、全體の見透しもっかぬなかで書かれたが、『假裝人物』はすで かかる徴表のもっともいちじるしい個所は、主人公が「自由の世に事件も落著し、全圓的な回想を平靜になし得る地點に立ったと 界」へ出てゆきたいと希い、「懺悔の稿」を書こうと思いたち、實き、現實を再構成するものとして新たな序列に書きかえられた作品 際にそれを世間に發表するという過程の敍述にある。その道ゆきの である。『煤煙』は餘燼なお消えやらぬ境地にあって、女主人公の 描寫は『新生』下卷の主要な内容を形成しているが、讀者はその性格さえよくつかめぬままに書かれたが、『自敍傅』はそのような 「懺悔の稿」をほかならぬ『新生』上卷のこととして受けとり、そ渦中からようやくのがれた作者が前作の補足の意味を含めて書いた こにいささかの懷疑もさしはさまない。「懺悔の稿」がいかなる標後日譚である。秋聲の場合と草平の場合とをひとしなみに扱うわけ 題を持っていたかは明らかでない。だが、讀者は大正七年五月一日 にはゆかぬ。しかし、それらを『新生』上下卷と比較した場合、そ から十月五日に亙って東京朝日新聞に連載された島崎藤村作『新こにはなにか本質的な相異がある。『新生』も血煙たてる事件のさ 生』上篇を指すものとして、それを讀むしかないのだ。藤村という なかに書かれ、その下卷には上卷を書く作者自身が描かれている イ者が『新生』という作品を書き、その作品のなかで主人公に一作 が、無論下卷は上卷の後日譚ではない。それはあわせてひとつなが 品を書かせ、讀者はそれをも『新生』という作品として受けとるし りの作品を構成するものだ。同時に、『煤煙』と『自敍傳』とが辛 かないように、作の仕組み自體が成り・たっているのである。考えてうじて保っている藝術上の一線をこえた領域にまで、それは踏み入 みれば、讀者は合わせ鏡のまんなかに立たされたような混亂を覺えっている。 るはずである。無論、こういうためしも絶無ではない。ジッドは ことわるまでもなく、作品世界と現實世界とはすくなくとも一對 「贋金つくり』を書き、その主人公たる作家エドワールにやはり 一の關係にある。それは現實世界に對立し、拮抗し、ときには凌駕 「贋金つくり』という作品を構想させている。だが『贋金つくりのさえする。作者が事件の渦中で筆をつけた場合も、事件そのものを

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5 ! 新生論 慾』などとならんで、大正文學の最後を飾る名作として三作とも世 註二・交藝春秋・昭和二年十一月號參照。 廣津和郞は『梅雨近き頃』という作品のなかで、すでに衰弱しき評高かった作品である。しかし、前にも書いたように『嵐』は轉宅 った芥川と吉原見物にでかけたりした散歩の途上に、發狂した宇野探しにはじまって、結局もとの古集に落着く話だが、當時そのよう 浩一一のことを噂する場面を描いている。いま作品が手許にないのでな作品の額縁に注目する人はひとりもなかった。みんな「家の内 精確な引用ができないが、芥川が宇野を目して、もしあのままになも、外も、嵐だ」という有名な文句にだけ氣をとられた。米騷動か ら大震災までを背景として、大杉榮事件などが添え物的に取り入れ ったら、それこそ藝術家の本懷ともいうべきだと語ったのに對し、 られたその瓧會的激動の文字面をトッコにして、長男を自作農にす 廣津が思わずびつくりして、この男は本氣でこう思いこんでいるら しい、となかば感嘆する個所がある。この場合、廣津和郞の驚きのることでそのような社會の「嵐」から子供を防衞した氣でいる作者 の小プルジョア的な微温世界を嘲けるような左翼的批評まで飛びだ なかには、三十代もなかばこえ、一家眷屬を引き具して生き凌いで ゆかねばならぬ世の常の大人の持つ、ある健全な正しさが含まれてしてくるていたらくであった。しかし、いまとなれば、藤村がなぜ いる。これを單に純粹な藝術家氣質に對立する俗人根性などとしてあの作品を『嵐』と呼ばねばならなかったか、その眞意は一目瞭然 片づけるわけにはゆかぬ。この驚きをしも俗念とすれば、藝術家氣であろう。『新生』の「嵐の烈しさ」をようやく回顧し得る地點に 質とはかかる俗念に裏打ちされ、それを包攝した上に打ち樹てられ辿りつき、「母なき子供等の養育のために多くの時と精力とを費し た」藤村のホッとひと息人れた人しれぬ感慨があの作品をうみだし たものでなければなるまい。芥川龍之介と島崎藤村とは果してどち たのだ。『嵐』の基調をなすものは、温雅な父親の表情に隱れて、 らがよく眞正の藝術家概念に接近し得たか。 その裏に刻みこまれた『新生』の「嵐」を追想すみ作者のひとりの 宇野浩一一は、『新生』について語ったあとで、「藤村のいはゆる自ひそかな感慨にある。飯倉片町の家は作者が身をもってわずかにの 傅的な小説を後から考〈てみると『新生』と『嵐』との間に一つ大がれた最後の隱れ家だった。そこで作者は『新生』下卷を書きあげ きな穴 ( 足りないもの ) があるので、もし藤村の傅記を書く人があた。人には語れぬ歴史のかずかずがその家を中心に纒綿していたに ちがいない。爾來七年、ようやくその借家を見棄てようと思い立っ れば、この穴のところで困るにちがひない」と述べている。以前私 もそう考えたことがある。藤村のながい藝術的生涯のうち、『破戒』日がやってきた。「過ぐる七年の間、續きに續いて來たやうな寂し い嵐の跡を見直さうとする心を起した」という『嵐』のなかの曖昧 から『春』にくる道ゆきと『新生』から『嵐』にいたる過程には、 作者によって語られていないプランクがある、と。前の問題は、正な文章は、そのまま『新生』の「嵐」に直結して理解さるべきであ 宗白鳥もいうように、田山花袋の『蒲團』を持ちだしてくることでる。そのゆえにこそ、正しくは『嵐の跡』とでも呼び名すべきを、 一應解決できよう。後の間題はーー・私は藤村の評傅を書こうと思っ藤村はただ藤村流に『嵐』と名づけたのだ。透谷全集を編みなおし たり、『處女地』という ( んてこな雜誌を發刊したりして、ひたす たことは一度もないので、どのくらい困るか實際には分からぬが、 ら「嵐の烈しさ」を忘れようと努めてきた藤村が「寂しい嵐の跡」 文學的にいえば、『新生』から『嵐』にいたる道はひと眼で見透し の靜けさにやっと息をついだとき、『嵐』は生誕したのである。っ のきく一本道だと思うようになった。 『嵐』は『元の枝 0 と同じ月に發表され、武者小路實篤の『愛づけて藤村は『分配』というような手放しに安堵した作品まで書い

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係の調和が崩壞したときの全重量を、その制度の形がなくなった明過ぎゅく」に似て、しかしそれよりも複雜なメタモルフォーセ ' ・スの 4 治時代に藤村は、半歩一歩と後方によろめきながらも、身をもって物語りを形成してゐる。以上二つの作家論は、評論が小説をより一 支へ、その途中の躓きのために屈辱、狡猾さ、逃亡、鐵面皮、老獪層小説たらしめてゐるのが特色である。 「私小説の二律背反」についても、私は、實はよく讀んでゐなかっ さなどの總てを盡して戦ったことがここに描き出されてゐる。 私は文學作品を讀みはじめて間もない十七歳の頃、この當時懺悔たやうである。それは私の名がその末尾に現はれたせゐであらう。 そしてこの文章と同様の理論を平野氏が新潮瓧の文學大辭典の補卷 の書として著名であったこの本を讀んで、何も分らず、全然感動し に書いたとき、はじめて私はその重大さに氣がついた。私がかりに なかったことを明瞭に覺えてゐる。そしていま私は、分る筈のない ものに感動したふりをしなかったことで、少年ながらもそれでよか「平野公式」と呼んで、戰後の最も根本的な文學論であると評した のは、そのあとであった。また、すでにこの評論の中に「蟲のいろ ったのだと理解できる。 「新生」は、この平野謙の「新生論」がそれとともに讀まれぬ限いろ」や「城の崎にて」等の作が、死の意識を背景としてゐるとい 一般讀者にとっては意味のない小説以前の書きものだ、と私はふ重大な指摘がある。これは私がその影響を受けながら自説として 言ひたい。そしてその作者の糾彈者兼牧師の手になった「新生論」展開して氣づかなかったもののやうである。 更に私小説の一一律背反論の最後に「鳴海仙吉」が取り上げられて とともに讀まれるとき、突然「新生」は、したたかに人間の味ひを 嘗めつくしたといふ怖れと滿足とを與へるところの傑作に變貌すゐるが、これの扱はれ方については、私は初めから多少の疑ひを抱 いてゐた。少くとも「破戒」、「明暗」、「河童」、「禽獸」などが擧げ る。飛躍した言ひ方をすれば「新生」といふ故意に作られた曖昧な られるのでなければ安當な結論に到逹し得ないのではないか、とい デッサンは、原作者の意志に反して原作の空白を如實に埋め補った ふ疑ひを私は消すことができない。私事にもわたることであるが公 「新生弘巴によって完成した藝術作品になった、といふ關係を持っ てゐる。この關係の重さは、原作者の創造性とか個人の著作の權威的な意味で疑問としてつけ加へたい。 などといふ通念的なものを越えてゐるやうに思ふ。さういふ意味で 本多秋五集 「新生論」は極めて特殊な一文である。さまざまな文藝に關する問 題がここから派生しさうである。 大正十年前後にものを讀みはじめた人には白樺派の作家の影響を 受けた人が多い。本多秋五氏もその一人であったにちがひない。こ 「花袋論」は三つの獨立したものから成ってゐるが、「蒲團」は、 の評論家の仕事には、トルストイの「戰爭と平和」を論じ、白樺派 フィクションであり、そのモデル岡田美知子とその一家にとっても、 その作品は作りものとしての小説であった、といふ事實の指摘がそ文學を論じ、宮本百合子を論じ、近年の大きな仕事としては戦後文 の核心であらう。しかも、文壇全體がそれを事實の描出と見て影響學を論じたものがある。かういふ一連の仕事の根底に、昭和前期の を受けたこと、美知子自身がまたそのやうに見られる自分のあり方プロレタリア文學運動についての體驗的な理解があることを見なけ に亂されるやうになったこと、作者その人もまた後にはそれに支配ればならない。 されたことが、書かれてゐる。しかし、この最後の花袋の心情は、 私は本多秋五といふ人の中に、モ一フリストといふと西洋風で寬濶 實は最初のフィクションの原型であらう。その經過は花袋の「時はになるが、道德的な文學思考者が息づいてゐるのを感ずる。私自身