しく緊張した表情になり、それからはなにをいっても、わたしの言 りも人間の肉體に、ーー殊に女性の肉體に、大いに魅力を感じてい 4 葉に、ただ、そらぞらしい相槌をうつばかりであろう。つまり、か るにしても、もしもあなたが、その女性から、一と眼で愛されたい とねがうなら、わるいことはいわない、 れらは、わたしを、單なる法螺ふきか、氣ちがいだと思うにすぎな さっそく、わたしのド いだろう。どうしてかれらは、生物にだけ意識の存在をみとめ、無 ン・ファンを、無條件で信用するがよろしい。 生物にはみとめないのであろうか。・ O ・ポースの實驗によれ むろん、わたしといえども、ドン・ファンが、一般の人びとか ば、鑛物もまた動物や植物と同様、クロロフォルムに醉い、カフェ ら、理想の女性という観念を胸にいだき、絶えず幻滅を味わいなが インに興奮し、毒物をあたえると斷末魔の苦しみを示すというではら、女性から女性へと移ってゆく不幸な戀びととして受けとられて いるか、さもなければ、その反對に、さまざまな女性に心をひか ないか。しからば必ずしも大理石、ーーー鑛物學的に嚴密を期するな ら、それぞれ方向を異にする物理的性質をもつ、無數の方解石の集れ、その肉體を所有することに無限のよろこびをみいだしつつ、女 合體にほかならない大理石に、意識がないとは斷言できないではな性から女性へとわたりあるく幸幅な戀びととして受けとられてお いか。 り、それ以外のドン・ファンが、不信の眼をもってみられるであろ ルネッサンス以來、ヨーロツ。ハでは、生命のあるものを極度に奪うことを、まんざら豫期しないわけではない。ウナムノならば、理 重する傾向があり、鑛物よりも植物が、植物よりも動物が、ーー殊想の女性の欟念が、さきに存在し、それが現實の女性を求める原因 に動物のなかでは人間が、一段とすぐれたもののようにみなされて になっている前者の型を、演繹的なドン・ファンと名づけ、まず現 きたようだが、むろんこれは人間的な、あまりにも人間的な物の見實に女性の肉體が存在し、それから次第に女性の欟念をかたちづく 方であり、近代の超克は、われわれが、こういう人間中心主義を淸ってゆく後者の型を、歸納的なドン・ファンと呼ぶかもしれない 、カ 算し、無生物にはげしい關心をもち、むしろ、鑛物中心主義に轉向 しかし、はたしてこれらの戀びとたちは、ドン・ファンの しないかぎり、とうてい、實現の見込みはなかろう。ヒ一ームは一一名に値いするであろうか。かれらは、女たちを愛することを知って 十世紀藝術の特徴を、生命的・有機的なものから、幾何學的・無機はいるが、女たちに愛されることを知らないではないか。しかる 的なものへの移行に求めたが、要するに、これは、新しい藝術家の に、ドン・ファンとは、かれをみた瞬間、電光にうたれたように、 示糸が、動物や植物よりも、主として鑛物にむかってそそがれてい女たちの心が、はげしい衝撃をうけ、どうしても愛さないではいら るということだ。鑛物の結品のするどい幾何學的な直線に、動物やれなくなるような人物のことではなかろうか。 値物の曖昧な曲線よりも、はるかに魅力のあることは否定しがた 演繹的なドン・ファンである観念派と、歸納的なドン・ファンで い。わたしはドン・ファンを、このような鑛物の魅力に憑かれていある肉體派とは、われわれの身邊でも、始終、角突きあっているよ た、われわれの先驅者の一人だったと考える。 うだが、元來、かれらのあいだに、本質的な意味における對立のう おそらくあなたは、こういうわたしのドン・ファンを、あんまり まれるわけがない。なぜというのに、なるほど、一方は觀念を、他 信用しないかもしれない。しかし、たとえあなたが、近代の超克だ方は肉體を信じており、一見、相反する立場に立っているようにみ とか、二十世紀藝術の動向だとかに、ささやかな興味すらもっていえるが、 しかし、要するに、かれらは、ヒュー マニスト以外 ない、至極、さばさばした人物であり、依然として、鑛物の結晶よのなにものでもなく、その觀念にしろ、肉體にしろ、いずれもかれ
くれ、大事をあやまった人びと」として、地獄のどの環にもいれ 2 おず、環外の獄にとどめておくにちがいない。かれらには罪はある が、かくべつ、罰せられはしない。しかし、罰せられないというこ とが、かれらの罰なのだ。 かれらは、つねに動搖しているみずからの心の象徴である、絶え ず風にひらひらとひるがえっている旗を先頭に、裸のまま、蜿蜒と 長い行列をつくり、むなしく歩きつづけているほかはあるまい。 ( 昭和二十三年十二月 ) わたしがドン・ファンについて考えるにあたり、かれの一生に終 止符をうったと傳えられる最後の事件からはじめるのは、必らずし も奇を衒うからではなく、事實、その最後の事件が、傅説に反し、 かれの生涯の最初の事件であり、その結果、はじめてドン・ファン が眞にドン・ファンの名に値いする堂々たる存在、ーーーオルテガの いわゆる女たちを愛するのではなく、女たちから愛される男、全女 性渇仰の的となったと思うからにほかならない。 周知のように、傅説によれば、ドン・ファンが非業の最後を遂げ たのは、大理石の立像から、晩餐に招待され、内心、慄えあがって いたにもかかわらず、虚勢をはって、招待に應じたため、結局、そ の石の化物によって、地獄のなかにひきずり込まれたためだという のだが、 むろん、わたしは、そういうばかばかしい傅説を、い ささかも信ずるわけにはいかない。 思うにドン・ファンの生涯にうけた無數の晩餐の招待のなかで、 いちばん、かれの心を有頂天のよろこびでみたしたのは、あるい は、あなたにとって意外な感じがするかもしれないが、血と肉とを もった、かれにたいする愛情で身を焦している、やさしい女性から のそれではなく、戀のいざこざから、あやまってかれの手にかけて 殺してしまった將軍の大理石の立像、 おそらく胸中深く、かれ にたいする毒々しい復讐の計畫をいだいているはずの、憎惡で凝り かたまったような、つめたい石像からのそれであった。そうして、 トン・ファン論
らの生命的・有機的なものにたいする傾倒の並々ならぬことを示す比的平らかな面をもっているのが、長石であり、黒色で、鱗の形 ものにすぎず、ルネッサンス以來の偏見を脱していない點においてをしているのは、雲母である、と。それから、かれは、グールモン は、まったく、軌を一にしているからだ。それかあらぬか、演繹的 のように、そのコムプレックスを、バラ。ハ一フに解きほごし、一つ、 なドン・ファンは、偶然、現實の女性からながし目をおくられたり 一つの観念を、あざやかに分離してしまうだろう。これでは、いか すると、たちまち狂喜して歸納的なドン・ファンに變貌し、ウナム なるコムプレックスも、かれにたいして、魔力をふるう餘地はない。 ノ風にいうならば、演繹の絶頂から、まっさかさまに歸納のどん底 むろん、かれは、この知的な分析を、肉體という麒念にたいして に轉落する。歸納的なドン・ファンにしても同じことだ。かれらも あるいはまた、肉そのものにたいしても、例外なく適用 また現實の女性に飽滿して、少々、かの女らが鼻につき出すと、不する。観念は信じないが、肉體だけは信ずる、と稱し、いかにもあ 意にかれらのべアトリーチェやロオ一フを夢みはじめ、そのときだけらゆるコムプレックスから解放された、分析的なドン・ファンのよ は演繹的なドン・ファンに轉向する。 うな顔をする連中がいるが、 しかし、ほとんどかれらの大部分 眞のドン・ファンが、いとも簡單に觀念にたぶらかされたり、肉は、肉體ではなく、肉體という觀念だけを信じ、肉體そのものとは 體にひきつけられたりする、こういうだらしのない戀びとたちに、 一度も對決したことのない演繹的なドン・ファンばかりであり、眞 こちらがロにするの 発然、似ていないことはいうまでもなかろう。人間よりも動物を、 だとか、善だとか、美だとか、聖だとか、 動物よりも植物を、さらにまた、植物よりも鑛物を、一段とすぐれも氣恥ずかしくなるような、いろいろな觀念と、この肉體という觀 たものとしてながめているかれの眼には、それらの観念や肉體が、 念との結合にたいしては、いっこう、懷疑的にはなっていない。 鑛物にくらべると、いかにも不純で、脆弱で、不安定で、魅力を感 われわれのドン・ファンは、かれらのように、かくべつ、女性の ずるどころか、一應、解體し、いっそう整然と再組織する必要のあ肉體に、脱帽することはないだろう。かれは、肉體を、むしろ、物 る「材料」としかみえないのだ。いかにも鑛物は均質であり、どの體として取り扱うだろう。そうして、その物體を・ハラ・ハフに解きほ ごし、 しかし、 部分をとってみても、すべて同性質で、同成分だが、 というと、いささかマルキ・ド・サアドじみ、あなたに 念や肉體となると、そうは行かない。たとえば、理想の女性とい は、すこぶる穩やかでないような氣がするかもしれないが、むろ う顴念は、大へん、純粹で、確乎とした、一つの観念のように受けん、これは知的な操作であり、・ヘつだん、かれが、性的倒錯におち とれないこともないが、實は、理想という一觀念と、それとはまっ いり、暴力をふるうわけではないから、おどろくにあたらない。い や、むしろ、逆に、かれは、そういう性的慾望によって、すこしも 論たく性質を異にする、女性という一観念との結合した、コムプレッ クスであることはあきらかだ。 影響されず、鑛物を分析するばあいのように、どこまでも部物的 岩石を細分し、鑛物をみいだすことになれているわれわれのド に、相手の性从を、あますところなく、究明するだろう。ドンナ・ アンナも、ドンナ・エルヴィ一フも、シャルロットも、マチュリイヌ ン・ファンは、いかなるコムプレックスに出あっても、決してまご も、それぞれ、獨自の個性をもっており、どれにも捨てがたい味が つくようなことはないだろう。かれは花崗岩をみるように、麒念を みるだろう。そうして、さっそく裁斷をくだすだろう。無色粒从ある。 大ていのヒューマニストは、人間通をもって自任しており、人間 で、ガ一フスのような光澤をもっているのが、石英であり、白色で、
繰返していうが、その招待は、よほどかれの若いころ、あらゆる女てしまったのではあるまいか。 性の先手をうって、いちはやく行われたものにちがいなかった。 もっとも、石の心理漓察することは、たしかに困難であり、ス したがって、わたしが、たとえば、モリエールの「ドン・ジュア ピノザのいうように、落下する以外に、それにはなにもできないこ ン」に無限の不滿をいだくのは、も惡魔も人間も、腹の底から輕 とが、われわれの眼にあきらかなばあいでも、石自身は、あくまで 蔑し、ただ二と二と加えれば四となり、四と四と加えれば八となる 自由に、地上にむかって落下していると信じているものか、それと ということだけを信じている、徹底的な合理主義者として描き出さ もまた、そういうスピノザに反對して、シェストフのいうように、 れているわれわれの主人公が、大理石でつくられているにもかかわそのばあい、石が、自分のことを、いささかも自由ではなく、單に らず、まるで生きているもののように、うなずいたり、しゃべった 必然の法則にしばられて落下しているにすぎないと信じているもの り、あるきまわったりする石像に招待され、すこしも懷疑的になっか、むろん、これは容易に決定しがたい大間題にちがいないが、 ていない點に矛盾を感ずるからではなく、なによりかれが、屠所に しかし、すくなくともドン・ファンの前に出現した石像の心の うごきをあきらかにするためには、 ひかれる羊のように、しぶしぶ、その招待に應じ、あっさり、石像 したがって、また、その忠 の手で息の根をとめられてしまう點に、すこぶる腑に落ちないもの告をいれることによって、ひたすら女たちから愛されたドン・ファ を感するからだ。 ンの生涯を、あるがままにたどるためにも、まずこの大問題を、わ もしもドン・ファンの性格をはっきりつかんでいるモリエールでれわれの手で、まがりなりにも解決しておく必要があるのだ。 あったなら、當然かれは、その出來事をもって、數奇をきわめた主 とはいえ、この困難な形而上學的研究にはいるにさきだち、いま 人公の生涯の幕を開け、幕を閉じるようなことはなかっただろう。 だにわれわれの周圍にたくさんいる、モリエール以上に常識的な人 かれは、ドン・ファンよりも、むしろ、ドン・ファンの家來であるびとのために、われわれは、なお、二三、寄り道をしなければなる きわめて常識的なスガナレルに似ており、どういうつもりで、このまい。なぜというのに、モリエールは、たとえ石像の氣持と、人間 堅牢無比な石の化物が、富裕で、傲慢で、無訷論者であるわれわれ・の、、ーー在世當時の將軍のそれとを混同したとはいえ、とにかく、 の主人公につきまとうのか、その動機を的確にとらえることができ石に意識のあるという事實を疑うようなことはなかったが、かれら ず、要するに勸善懲悪ということで、事件のいっさいの經過を合理は、一度も石について眞面目に探求してみたこともないくせに、石 化し、みずからの封建性を遺憾なく暴露しているようにみえる。 には意識なぞないと、頑強に信じ込んでおり、したがって、石像と 石像と腕を組み、悠々とドン・ファンの出かけていった場所は、 ドン・ファンとの交渉は、かれらにとっては、すべて荒唐無稽の傅 實はあの世の地獄ではなく、この世のそれではなかっただろうか。 説にほかならず、假りにわたしが、石像の行爲の祕密を、その内心 そこで、ダンテがウエルギリウスにみちびかれたように、かれもまに立ち人って、一點の疑間の餘地ものこさないほど、詳細に説明し た、かれの招待者にみちびかれ、その忠告にしたがったため、すべ つくしてみせたところで、一言もわたしのいうことに、耳を傾けそ うもないからだ。 ての女たちから、つぎつぎに、夢中になって愛されたのではなかろ たぶん、かれらは、話の途中で、わたしの顔を、まじまじと見詰 認うか。そうして、その結果、いっかかれは、男性のなかの男性とし 1 て、石像にみまがうような存在に、 完全な色男の典型に轉化しめ、欽の瞬間、にやにやと相好をくずすか、さもなければ、おそろ
の心に關することなら、なに一つ知らないことはないようなふりをであり、およそ女とはこういうものだ、と多寡をくくっているから 6 するが、 しかし、假にかれらの人間學が相當のものであるにせ ではなく、反對に、観念のヴェールを透さず、直接自然に對決し、 よ、はたしてそれが、かれらの自負に値いするであろうか。かれら理論によって割り切れないもの、類によって溶解されない個、それ 自身において獨自なもの、 つまるところ、物自體を、冷靜に受 は、人間に拘泥すればするほど、人間以外のものにたいしては、ま すます無關心になっているのではないか。そうして、おのれの知性けいれる心の用意ができあがっているからであり、したがって、か では、どうしても處理しかねるようなものに出會うと、たちまちかれは、人間にたいして、それほど慇懃ではないかもしれないが、 れらは、そのものに、非人間的というレッテルをはって顔をそむけ しかし、自然にたいしては、この上もなく謙虚なのだ。 幾何學的・無機的なものを、そっくり、そのまま、受けいれる態 るか、さもなければ、そのものを、強いて人間化しようと試みるで はないか。 勢が、こちらにできていさえすれば、生命的・有機的なものと出會 ったくらいで、まごまごするはずがない。鑛物のほうが、女性の肉 贋もののドン・ファンたちは、無機物界にも、岩石にも、鑛物に も、不思議なほど、興味をもたない。たまたま、視線を、人間から體なぞよりも、はるかに印物的にはとらえがたい存在だ。石に十歩 と中國の昔の畫家もいっている 自然へ轉ずるようなことがおこると、今度は、自然のなかに、人間の眞なく、山に十里の遠あり、 的なものを、 人間に親しみやすいものを、きよろきよろと探しではないか。つまり、石は十歩へだたると、そのほんとうの形がみ 求める。かれらは、かれらと自然とを媒介する、牧だとか、ニンわけがたくなり、山は十里へだたって、はじめてその全貌がみえて フだとかをつくり出す。そうして、できるだけ、事物との直接の對 くる。したがって、岩石を描くには、よほど注意しなければならな い、といましめているわけだが、 しかし、われわれの主人公の 決を避けて通ろうとする。したがって、わたしは、かれらの人間に 關する知識についても、かなり疑惑をいだいている。なぜというのように、つねに鑛物にたいして異常な執着をもっている人物は、や に、人間もまた、自然の一部であり、物質としての一面をもってい がてかれ自身、鑛物とえらぶところのない存在となり、石の形はお ることは、誰にも否定できない事實であるからだ。わたしは、日ご ろか、石の氣持まで、やすやすと、とらえ得るようになるものらし ろ、女性に關する廣汎な知識をひけらかし、押しも押されもしない い。現に石像は、かれに晩餐に誘われると、さっそく、その招待に ドン・ファン面をしている人びとが、しばしば、はじめて會う「う應じ、かれの家へ、のこのこあるいてきたではないか。そうして、 その返禮に、かれを、自分の晩餐に招待したではないか。要する つくしい女性」の前で、しどろもどろになったりするのは、荒々し い自然のなかに投げ出されたばあい、かれらの感ずるであろう混亂に、石像は、ドン・ファンを、完全に、自分の仲間として、取り扱 っているではないか。 と、同一の根據からきていると思う。かれらは、そのような内心の 二と二を加えれば四となり、四と四と加えれば八となるというこ 動搖や無秩序を、戀愛の第一歩だと誤解しているらしいが、むろ とだけを信じながら、長いあいだ、鑛物と取り組み、しかもなお、 ん、それは單純な性的反射蓮動にすぎなかった。 ポードレールの描いたような、傍若無人なわれわれのドン・ファ どうしても相手の心をとらえかねていたドン・ファンが、はじめて ンが、この種の可憐な盟ものたちと異なり、いかなる女性に出會っ石像から晩餐に招かれたときのよろこびは、いかばかりであったで ても、悠々として眉一つうごかさないのは、必ずしもかれが人間通あろう。うなすいたり、しゃべったり、一緖にあるきまわったり、
はないと信じている、戀愛の未經驗者ばかりであり、われわれの主とはいうまでもない。かれは結品形の法則や、結品面の相互關係 人公のようにあらゆる女性から、生涯を賭けて、盲目的に戀愛されや、結晶軸等についても考慮をめぐらすであろう。かれは材料にも 吟味を加え、不純なものは、容赦なく捨て去るであろう。そうし たような經驗がない以上、あるいは當然のことかもしれなかった。 もっとも、ただ一人、例外がないことはない。たしかにスタンダて、むろん、すべての結品を、みずからの手で、愼重にかたちづく ールは、鑛物を問題にした。かれは、岩鹽に注目した。そうして、 って行くであろう。 周知のように、かれは、戀愛を、結品作用と定義した。それは、い しかし、無機物化している女たちを素材にして、休む暇なく、か い。しかし、それにもかかわらず、 いや、かえって、そのゆえれのつくっていった結晶が、非のうちどころのないほど、いずれも に、かれの「愛について」は、戀愛論のなかでも、最も愚劣なもの みごとな出來映えを示しているとすれば、それは、右に述べたよう の一つになってしまった。かれは、鑛物によって、戀愛のはかなさ なかれの良心的な態度や、無機物の翹密に通じている石像の援助等 を證明しようとしたのだ。 もさることながら、やはり、なにより轉形期にのぞんでいた當時の ザルップルヒの鹽坑へ行って、冬枯れで葉を落した木の枝を投げ瓧會が、有機的な進化の段階から革命の段階に移っており、観念の 込み、それから二三カ月たって、その枝を取り出してみると、それ領域においても、物質の領域においても、急速な解體と再組織の過 は、きらきらした結品で、くまなくおおわれている、同様に、戀愛程がはじまっていたという事情に負うところが大きいにちがいな は、戀びとのみすぼらしい正體を隱してしまい、かれらを光りかが やくすがたに仕立てあげる、したがって、戀愛は、結品作用である 大戀愛家といわれたら、ドン・ファンは、奇妙な顏をするであろ と、かれはいうのだが、せつかく、鑛物を取り上げながら、植物に う。かれは鑛物に興味をもち、ただ、無數の結品をつくりあげただ も未練があり、木の枝を正體だとみるところに、かれの演繹的なド けだ。そうして、一度も女性を愛したことがなく、女性から愛され ン・ファンらしいペシミズムがある。戀愛が結品作用なら、なぜ結 たばかりだから。 品作用の結果ではなく、その過程を間題にしないのであろうか。木 ( 昭和二十四年九月 ) の枝を投げ込み、ふたたびそれを取り出すあいだの二三カ月が、い ちばん、かんじんではないか。どうして岩鹽の結品の過程を印物的 にとらえようとしないのであろうか。 われわれのドン・ファンにとっても、戀愛は結品作用にほかなら ない。たしかわたしは、前に、われわれの主人公の眼には、女たち が、一應、解體し、再組織する必要のある「材料」とし・かみえな い、といい、解體について、若干、ふれたが、そのバラバラに解き ほごしたものを再組織する過程こそ、結晶形成の過程であった。こ のばあい、ドン・ファンが、スタンダールのように、木の枝なぞを 使用して、いいかげんな方法で、結品をつくりあげようとしないこ
相手は、まるでかれにたいして親友のようにふるまうのだ。も な對決を透してうまれてきたものであり、必然の法則にしたがえば ちろん、相手は大理石であり、方解石の結品質になったものであ自由であるという公式だけを信じ、物自體との對決を避けて通ろう り、その硬度や、比重や、劈開については、まんざら知らないわけとする人びとの自由や必然とは、嚴密に區別されなければならな でもなかったのだが、 あるいは、死は、石 しかし、親しくかれの腕をとって、相手い。したがって、かれにとって、必然は、 のかれに打ち明ける胸のもだもだをきいていると、やはり、かれの像の形をとって、うなずいたり、しゃべったり、あるきまわったり しかし、その石像は、かれの自由やかれの生 鑛物に關する知識が、きわめて貧弱であり、ほとんど相手についするわけだが、 て、なに一つ知らなかったにひとしいということがわかり、かれを、決しておびやかすようなものではなかった。われわれの主體性 は、どうしても新しい感動のつぎつぎにこみあげてくるのを、おさは、われわれ自身が、客體の妝態にまで追いつめられたとき、はじ えるわけにはいかなかったにちがいない。しかるに、モリエール めて確立するのではなかろうか。動く石像は、わたしに、マック は、 いや、モリエールばかりではなく、すべての文學者は、すス・エルンストの動くオプジェを聯想させる。 つかり、その間の消息を誤解してしまった。かれらは、愛と憎しみ さて、そこで、いよいよ、われわれは、なにゆえにかれは、すべ とを、 というドン・ファンにたいするわ よろこびと哀しみとをとりちがえてしまったのだ。しかての女たちから愛されたか、 し、考えてみると、それもまた、無理ではない。なぜなら、石像はれわれの疑問に、どうやら答える段階に逹したようだ。しかし、そ むろんのこと、石像によって仲間とみとめられたわれわれの主人公 の前に、もう一つ考えておかなければならないことは、そもそも戀 もまた、いっさい、喜怒哀樂というものを、表面には出さないのだ愛とはなにか、ということだ。いったい、女性の肉體のなかに戀愛 から。 を充滿させることは、風船玉に、空氣を充滿させるようなことであ 事實、ドン・ファンと石像とは、おそろしく似ており、非情冷酷ろうか。なるほど、女性は一時はりきる。しかし、空氣は、やがて であると同時に、自由奔放でもあるわれわれの主人公は、まさしく 逃げ去り、風船はしぼむ。それとも、それは、なみなみと、バケッ 動く石像にほかならなかった。ここで、わたしは、一寸、あなた に水を充滿させるようなことであろうか。なるほど、女性は一時い に、さきにわたしの述べた、スピノザとシェストフとの石の心理にきいきする。しかし、水はやがて蒸發し、バケツはさびる。あるい 關する臆斷を思い出して頂きたいのだ。落下する石の心理を忖度しはまた、それは、カマドに、薪を充滿させるようなことであろう ながら、前者は、石が自由に落下していると信じているといい、後 か。なるほど、女性は、一時燃えあがる。しかし、薪は、やがて灰 になり、火は消える。 論者は、必然の法則にしたがって落下していると信じているというの ン ア / 、カ しかし、石像とほとんど一心同體であるわれわれの主人 ドン・ファンにたいする女性の戀愛は、それほどはかないもので 公の心理をみればわかるように、兩者はいずれも間違っており、石はなかった。それは一度うまれると、一生涯つづく、はなはだ耐久 は、おのれの運動を、必然の法則にしたがいながら、しかも自由でカのある戀愛であった。つまり、それは、すこぶる鑛物的な戀愛で あると信じているらしい。しかし、誤解を招くおそれがあるので、 あった。無數の戀愛論の著者たちが、こういう戀愛の鑛物性を、ま しかし、思うにこれ 一言、ことわっておくが、ドン・ファンの自由や必然は、いずれもったく間題にしないのは不思議な話だが、 物質的な裏づけをもっており、かれ自身と物自體との直接無媒介り は、かれらが、戀愛とは、戀愛をすることであって、されることで
花田淸輝集 鏡のなかの言葉・ 變形譚 : 罪と罰・ ドン・ファン叩 笑い猫・ 「慷慨談」の流行・ 現代史の時代區分・ 群猿圖・ 刺靑談義・ : ・一六五 : 三 0 三 : 三 0 〈 ・ : 一三四 寺田透集 歳月・ 時間と社會 バルザックとスタンダール・ 藝術家と藝人 : 『近代繪畫』讀後・ アトリエ訪問・ 『和泉式部日記』序・
たことがないじゃないかと君はどこかで惡口を書いてたが、眞っ正 に語っているのです。 互いにあざむき合って、しかも不思議に何の傷もっかず、あざむ面から男を書くつもりだ。ネガティヴのドン・ファンを書くから見 き合っている事にさえ氣がついていないみたいな、實にあざやかていてくれというのです。ネガティヴのドン・ファンですから、殘 な、それこそ淸く明るくほがらかな不信の例が、人間生活に充滿忍な女たちにつけこまれてほろんでゆく男を書こうというわけでし しているように思われます。 ようか。そういうテーマが第一の手記の終りのところに出ているわ こうありますように、東北の豪家に生まれて、多くの家族や下けです。 男、下女に取りかこまれながら、父にも母にも訴えることのできな そのテーマを受けて、第二の手記が書かれています。年齡的には 靑年になってきます。中學に人り、家庭と離れて下宿するようにな い、訴えたところでわかってもらえそうもないその悲しみ、わかっ てもらえないばかりか、その兩親でさえ、時折自分に見せることのります。やがて中學を卒業し、上京して高等學校に人る。作品の敍 いんばいふ ある人間の奇怪さにおびえずにはいられない。そういう少年期の自述によりますと、そこで酒と煙草と淫賣婦と質屋と左翼思想を知 り、めちゃくちゃな亠円春に突人するようになります。やがて情死を 己形成の祕密が語られています。 てんまっ 人間に對する恐怖というのは、人間は難解なもの、わからないもはかって、相手の女は死に、自分だけが助かるまでの顛末が書かれ の、というところにつながりがある。これが太宰治の人間觀の根本ているのが第二の手記であります。 自分には人間の女性の方が男性よりもさらに數倍難解でした。 自分には、あざむき合っていながら、淸く明るく朗らかに生きて ある と第二部では語っていますが、この難解な、わからない女たち いる、或いは生き得る自信を持っているみたいな人間が難解なの です。 に、去々につけこまれるようになったいきさつが第二の手記以下の こういうふうな言葉がつづきます。そして少年時代から、すでに中心テーマになっています。 自分には、淫賣婦というものが、人間でも、女性でもない、白痴 他人に對して心を閉ざすようになってしまった。父や母に對してさ か狂人のように見え、そのふところの中で、自分はかえって安心 え心を閉ざしてしまった、そういう内心のいきさつが語りつづけら して、ぐっすり眠る事が出來ました。 こんなふうに、難解な女性のなかでも、淫賣婦にかえって同類の その、誰にも訴えようのない、孤獨の匂いが、多くの女性に嗅ぎ てられ、後年さまざま、自分がつけこまれる誘因の一つになっ親和感を覺えた。同様に、非合法の左翼政治運動にたずさわること たような氣がする。 がむしろ居心地よく、世の中の合法というものがかえっておそろし というのです。 く不可解であったことが語りつづけられます。 ここで第一の手記は終ります。こんなわけで、第一の手記の絡り 第三の手記になると、情死事件のために、高等學校を追われ、い 太 近くで、作品のテーマが提出されているように思います。 ろんな女たちと複雜な關係を生じて、そのたびに傷つき破れて、と むく りわけ内縁の若い妻が、無垢の信賴ゆえに別の男に冒されてから 紹「人間失格」を書くに當って、作者が僕に語った言葉をいま思い浮 べます。太宰ってやつは、これまで女しか書いていない。男を書いは、いよいよ人間の奇怪さにおびえ、半狂亂に近い妝態におちこん だれ にお
唐木、臼井の日本文化批判とは全く異った意味で、極めて個性のリックに分析と綜合を重ねて論證をひきだしていく過程そのものの 鮓明な文學者は花田淸輝である。前二者とは僅か四、五年しか年齡もっている知的興味にあるといったら、言いすぎであろうか。手品 が異らず、平野謙、本多秋五とほゞ同年であり、戦中から中野秀師にも種や仕掛のあるように、エッセイストにもエスプリやデッサ 人、岡本潤らと、いわば孤立した形で、一種の知識人の抵抗をみンの本旨はあるのだ。 せ、『自明の理』 ( 昭和一六 ) 一卷を著している。逆説や反語を驅使 私には政治は彼にとっては當然に一種のレトリックの態樣にしか し、レトリックをもって眩惑し、戰後の前衞藝術派の理論的指導者みえなかったと思われるし、藝術家として正當すぎるほどに正當な として目されるに至った端緒は、すでに戦時中の默殺された業績か正論と考えられる。戦犯間題に言及する『罪と罰』は鏡くその關係 ら姿をみせていたというべきであろう。 に視線をそゝぎながら、ホメロスやダンテの地獄論から、卓拔な見 彼は反語や逆説を意識的に見せかけ、ペダンティズムとシャア一フ解を述べているし、また『ドン・ファン論』は通説を裏返しにし ンタンニズムとをともなって、業々しくレトリックを見せかけながて、人間學をも逆立ちさせ、警拔な結論をひきだすし、『笑い猫』 ら、その中に自己の素面をかくしているのに、しばしば他人の誤解は、記録藝術論を論ずるかのようにして、抽象と超現實との綜合と を招いて、見當違いの評價を蒙っていたように思われる。戦時中はしての前衞藝術に意想外な照明をあたえるということをやってのけ 彼の素面を見通せなかったがために無視されたとすれば、戦後はそ る。これらのことは、勝海舟と榎本武揚と輻澤諭吉という知識人の の公化された活動のために指彈されもするのである。藝術家にとっ 三典型を論ずる「慷慨談の流行』において、輻澤より榎本を、榎本 ての誤解は付屬物のようなもので、別に眞價に些少の傷さえ負わすより勝を買い、輻澤の『瘠我慢の説』に一矢を報いているところを ことはないから、光榮かもしれぬ。だが、彼の含羞を鎧う光榮は一採って考えれば、明快である。これはすでに單なる「自明の理ーや 種の喜劇であることは蔽えぬ事實である。 「自明の事實」を説くふりをしているのではなく、その發想の根源 戦後の活動は、モダニズムとマルクス主義との止揚統一に前衞藝 に他人の模倣を許さない毅然とした藝術家の魂が理や事實の彼方に 術を位置づけることを仕事の一つとしていたことは疑問の餘地がな存在することを語っている。 い。ェッセイ形式をとった仕事の仕方は、他人には變幻自在なアク 彼は啓蒙的な『修辭の原理』という文章の中でいったーー・「修辭 ロバットのような感じをいだかせながら、その内包する思想があま が形骸と化し、リアリズムが漫剌と生きているのは、じつは、一部 りにも他愛のない初歩的な解説でもあるようにみえたことも、私に の知識人の頭の中だけであり、街頭では、その關係が、まったく逆 は疑えぬものである。彼は、たとえば戦前にレオナルド・ダ・ヴィ になっているのだ。たとえば韻だとか、頭韻だとかいうようなもの ンチを論じ、自動人形の玩具の挿話から説きおこし、紆餘曲折をへ に苦勞することは、雨がふったら、雨がふったと書け、というよう て、その多藝多能が當時の技術的段階に歸するのは、まさに「自明な立場からみれば、愚の骨頂というほかはあるまいが、 しか の理 , を説くことであろう。戦後にゲーテを論じ、人間が人間以外し、いま、街頭をみたしている無數の宣傳文句は、ほとんどその全 のものに變化した場合に、勞働以外に脱出する道はないというの部が韻を踏んでいるではないか」といった。レトリックは論理であ も、また「自明の事實」であろう。逆に彼の鮮烈な個性は、眞贋疑 り、思考であり、價値判斷であり、文體である。彼の文體の前衞的 わしく思われるほどの衒學を驅使しながら、詐術にもひとしいレト 奔放さは古風な文體の意匠であり、價値判斷なのである。甲斐の武