プ 12 めて特殊であって、モデル問題一般として律するわけにはいくま は、理智が進み、自覺の域に人った現代文藝として當然のことで、 これに對して、讀者は何の抗議も申込む權利はない、出來あがった い。「此の點德義上の問題たると共に、更に作家は何故に事實の相 作品が文藝上の價値さえあれば、材料出所など問う・ヘきでないとい違を敢てせしやとの問を解決するを要す。」という前述の『萬朝報』 うのである。『日本及日本人』の記者もまた、「一度作者のレンズをの批判に答える責任がある。 通して察され、其頭腦を通して紙の上に像現された場合にあって 十二月の『中央公論』には、戸川秋骨が『モデル問題』なる評論 は、純然たる藝術作品である。讀者は作物の上に發現されたものをを書いている。およそ小説家の作物にはモデルがっきものだ、然る 鑑賞すればよい。モデルが實在であろうがなかろうが、實在人物の にそれがこれまでは間題にならず、いまになってやかましく論ぜら 性質が十分書けていようといまいと、そんなことは問題でない。創れるというのは、問題なにつているモデルの扱いが從來のそれとち 作は寫眞ではない。」と言っている。十一月の『早稻田文學』は、 がうところがあるからに相違ない。このちがいが作者藤村の自然派 『モデル間題の意味及び其解決』と題して、中村星湖と島村抱月の と目される所以であろうと言っている。つづいて、藤村のモデルの ふたりが共同執筆している。結論をいえば、「作家の寫實的精訷の扱いが變って居るとか、もしくは上手であるとかいう事は別とし 自覺と人々の道德的意識の自覺との二者の增進が、一は文藝の壘に て、問題となったのは、「實際と作物とを交ぜ合はせた處にあると 據り、一は道懲の矛を執って接戦せんとするに至ったのである。 余は斷言する。」というのである。 あんじよ ー從來は漠然晏如たる關係を保ち來った文藝と道德とが、ここに自 『水彩畫家』におけるモデルの特殊な取扱いが、藤村をして自然派 覺の生命に活きて歩一歩肉薄接戦の火花を發せんとするものではな と目せしめる所以かどうかは疑問であろうが、『水彩畫家』におけ いか。」というにある。 るモデル問題の特殊性が、「實際と作物とを交ぜ合はせた處にある」 『早稻田文學』の意見は、モデル間題がこのごろになってもち出さ と見たのは正しい。その交ぜ合わせというのは、「甚だ輕々に附す れてきたことの、文學的瓧會的な意味についての解説であり、『二 べき輪廓を實際に取った」ことであり、これは作者が少し注意すれ 六新報』や『日本及日本人』のそれは、作品とモデルとの關係につ ば避けることができるという意見である。「輕々に附すべき輪廓」 いての一般論であって、いずれもそれとしてまちがいではない。ほ とは、『水彩畫家』でいえば、愛慾の四角關係における主人公の煩 かにも、さまざまの論が現れたが、 一々擧げるまでもなく、だいた 悶という主題を展開するために、丸山晩霞という著名な實在人物を いは以上の説に代表されるものと見ることができる。一般論として モデルにし、その外的條件をそのまま借り來って描いたことを指し は、これらによって問題は盡きているとしても、そして、現に『並ているが、これは作者が少し注意すれば避けえられるものかどう 木』のモデル問題などには、『日本及日本人』の所説が充分答えて か、そこにこの作のモデル問題の複雜さがあるのではなかろうか。 いるのであるが、『水彩畫家』に對して晩霞の提出した抗議は、以 したがって、「實物とは全然別途のものと仕たい。但し別途といふ 上の・ことき一般論で應ずることのできないものである。一篇の主題のは僞物若くは架空の意ではない。現實よりも一層眞實のものに仕 と見るべき愛慾の四角關係における主人公の懊惱が、モデルのあずたいといふのである。」という結論も、一般論としては正しいであ かり知らぬものであり、しかもそのモデルが世に知られている人物ろうが、依然として、『水彩畫家』の特殊なモデル問題の解決には で、一讀直ちにそれとわかるように描かれているような場合、きわなりえない。 ゆえん
のバザロフがヘルツェンの面貌をうっし『惡靈』のカルマジーノフ の戯畫化だと傅えられているような意味で、モデルがっかわれたと すれば、われわれの作家はこういうモデルの使用に習熟しないうち に、あまりに早く自畫像を描きはじめてしまったという氣がしてな らない。さもなくば、他人であるモデルにきすぎて、小説造形の 一切を放棄し、モデルの模寫が小説制作と同意語になりかねないと ころまでつつ走ってしまっているのではないか。この二つのことは まったく相反することのように見えるが、實は同じものの二つの現 れにすぎない。こんにちつかわれているような意味でのモデルが、 武者小路實篤が、その思想をきわめて獨自なかたちで實現したの 日本の特産であり、それが初期の藤村の仕事などと密接にむすびつは、「新しき村」であった。長篇自傳小説「或る男」 ( 大正十年八月ー いて現れてきたものとすれば、われわれの文學を近代小説へおし進十一年十月 ) のなかに、かれが二十二歳のとき、「新しき村」に似た めるためのはたらきと同時に、それが日本的私小説と風俗小説とに ものを空想したことが出ている。一九〇六年十一月二十日の日づけ 「これ 曲げられることの二つの契機を同時に含んでいた言葉として記憶さであるから、明治三十九年である。そこにはこうある。 れなければなるまい。 はトルストイの影響をうけてかいたものらしい。そして彼が新しき ところで、私小説と風俗小説とは、自分をモデルにすると他人を 村の仕事を始めた時より十二三年前にかいたものだ。彼が新しき村 モデルにするのとのちがいはあっても、實在のモデルをなぞること の仕事を始めだす前に十何年の間、たえず何處かでさう云ふ仕事を を文學制作と考えて疑わないことにおいては、まったく一致していしたいと考へてゐたことは、之でもはっきりすると思ってゐる。彼 るのである。 にとっては文學をやらうと思ったのと、新しき世界を生み出したい 以上のように、モデルが間題化したことは、一般には自然主義文と思ったのとは、殆んど同時である。それは彼の雙生兒である。新 學の進展と内的聯關をもってはいるが、藤村のモデル間題は藤村の しき村は彼の胎内には十何年ゐた。人類の胎内には何千年、何萬年 ゐたか、彼は知らないが。」 文學の獨自な性格に件う必然的事件であった。 生 ( 昭和一一十九年四月 ) 以上みてきたように、明治の自然主義は、めいめいの作家の資質 に定着することによって、それぞれの文學を成熟せしめ、代表作を もたらしたのが、いずれも大正四、五年前後であったことがわか 村 る。このことは、抱月、天溪、天弦、御風など、自然主義の代表的 し 理論家が、明治末期に及んで、早くも、現實暴露と自己否定の主張 から、生の充實と緊張を求める方向に轉じて、その理論的拘束力を 失ったこと、そのことが、作家の資質に應じた創作活動をうながし た事實を語るものであろう。さらにまた、『スパル』や『三田文學』 ユ 23 「新しき村」と「共生農園」
かったに相違ない。この異常な特殊性のゆえに、この作のモデル問 であるが、更に「主公を造作するに二流派あり。一を現寳派と稱 4 いはゆる 題を正しくとりあげることができなかったのである。 し、一を理想派と稱す。所謂現實派は、現に在る人を主公とするに 在り。現に在る人を主公とするとは、現在就會にありふれたる人の 作家がモデルを用いることは、意識するにしろ、しないにしろ、 性質を基本として、假空の人物をつくることなり。 : 所謂理想派 「源氏物語』以來のことであって、新しいことではない。坪内逍遙は之に異なり、人間瓧會にあるべきゃうなる人の人質を土臺として かたぎ の第一作『當世書生氣質』は、いまの言葉でいえば、風俗小説と私假空の人物を作る者なり。」といっているように、逍遙の「模寫」 らっ 小説の二要素をちゃんぼんにもっている作で、作中に描かれた書生は、小説の主人公として、拉し來る人物にしても、あくまで「虚空 にはそれぞれモデルがあるらしく、とりわけ小町田粲爾のモデルが假設」であることを要し、モデルをそのままスケッチするというご 高田早苗だという説は廣く知られている。紳代種亮の『書生氣質解とき實在人物へのむき出しの肉迫は考えていなかったのである。 題』によれば、「モデルは或程度まである。三人を集めて一人にし だから、一一葉亭の『浮雲』が、『當世書生氣質』の表面的な風俗 たり、二人を一人にしたりしたのもある。」と、後年逍遙自身が語模寫とは比較にならぬ、作者の内部からの結品であるにはちがいな ったという。 いが、たとえば、お勢にしても、本田にしても、「現在瓧會にあり 『小説髓』で「模寫」を主張した逍遙が、友人をモテルにとりあふれたる人の性質を基本として、假空の人物」をつくり出した點に ほととぎす げたことは自然のなりゆきで、この態度は、蘆花が『不如歸』の浪おいては、逍遙の説いたところと變りはない。 いわやきぎなみ 子に大山元帥の娘信子を、紅葉が『金色夜叉』の貫一に巖谷小波を 「『浮雲』にモデルがあったといふのか ? それは無いぢゃないが、 モデルにしたのと通ずるものがある。だが、これらについて當時モ モデルはほんの參考で引寫しにはせん。いきなりモデルを見つけ デルという言葉が出て來たのではなかった。モデルという言葉をして、こいつは面白いといふやうなのでは勿論ない。さうぢゃなく きりにつかったのは田山花袋であるが、すでに見てきたように、最 て、自分の頭に當時の日本の亠円年男女の傾向をぼんやりと抽象的に 初の使用は島崎藤村と深くむすびついて出て來た言葉であった。藤有ってゐて、それを具體化して行くにはどういふ風の形をとったら 村自身が使いはじめたというのではない。その發生が藤村の文學と よからうかといろノ、工夫する場合に、誰か餘所で會った人とか、 むすびついていることが重要である。これは同じように繪畫の用語 自分の豫て知ってる者とかの中で、稍自分の有ってる抽象的念に である「スケッチ」が早くから藤村の文學的自覺ときりはなすこと脈の通ぶやうな人があるものだ。するとその人を先づ土臺にしてタ インディビジュアリティ のできないものであったことと表裏一體と見るべきであろう。このイプに仕上げる。勿論、その人の個性はあるが、それを捨て ことは單にモデルという新語の發生にとどまるものではなく、『書 て了って、その人を純化してタイプにして行くと、タイプはノー 生氣質』や『不如歸』や『金色夜叉』と根本的に性格のちがった文ションぢゃなくて、具體的のものだから、それ、最初の目的が逹せ 學の發生を語るものであろう。 られるといふ譯だ。この意味からだと『浮雲』にもモデルが無いち 「凡そ小説と實録とは、其外貌につきて見れば、すこしも相違のなやないが私のいふモデルと、世間のそれとは或は意味が違ってるか き物たり。たゞ小説の主人公は實録の主と同じからで、全く作者のも知れん。」 ( 『予が半生の懺悔しと語っているところによっても、藤 意匠に成たる虚空假設の人物なるのみ。」とは『小説髓』の言葉村によって、はじめてこんにちの意味を擔うようになった「世間の さんじ かね
く作者の意匠に成たる虚空假設の人物なるのみ」という小説觀が、 なかった」 ( 『モデル』 ) と言っているように、自分のひめごとを託す 2 たこの當時の藤村を強く支配しており、自身の體驗を自身のものとし るに足る「外部」ーー人物にしろ、境遇にしろ、その外部の輪郭に てぶちまけることで小説になるなどという考えは思い及ばなかった ついて極度にリアリティを要求し、それゆえに、恩人、友人をもか のではないかと思う。小説が、自分の體驗による心内の苦悶を吐露えりみず、おのれの藝術のためには、モデルに引きずり出すことを どうそ すべきものであることはロシャ文學なり、フランス文學なりの英譯あえて辭さなかったではなかろうか。そうでなければ、「何卒、私 に接して充分に理解していたであろうが、主人公は「作者の意匠に の書いたものをよく讀んで見て下さい。」などと言えた義理ではな ろうこ 成たる虚空假設の人物」でなければならぬという考えは牢乎たるもい。 のがあったのではないかと思う。そのはずである。こんにちの私小 では、『破戒』から『春』への質的にちがった一歩をどうふみ出 説の見本などがどこを探したってあるはずがなかったのである。逍したかが問題である。花袋の『蒲團』に敎えられたとする通説の誤 遙の「模寫」を越える對象肉迫の方法として「モデルーと「スケッ りであることは、『蒲團』の發表以前に『春』の腹案の成っていた チ」を見出した藤村が、二葉亭のいわゆる「自分の有ってる抽象的 ことを藤村の書簡によって實證できるからである。この問題はおそ 念」を造形しようとして、恩義のある先輩や友人を敢えてモデル らく花袋とは無縁であろう。『並木』において、すでに孤蝶、秋骨 くちゅう にせざるをえなかった苦衷は以上のような事情において納得するこ の友人をモデルにするとともに、藤村自身も高瀬として登場してい とができるのである。私小説への紙一重というところまで來ていた る。友人のモデルらの皮肉な抗議に對して一言も答えず、敢然とし のであるが、この紙一重は「作者の意匠に成たる虚空假設の人物ー て一そう大がかりに『文學界』同人らをモデルにとりあげたとき、 という小説観のゆえにそう手輕に破れるものではなかっ . たのであ藤村もまたみずからモデルにならざるをえなかったにちがいない。 フィクションじゅうてん 胸底のひめごとをあれこれとかたちを變えた假構に充填している おそらく藤村は、『舊主人』の場合、手本であった『ポヴァリー うちに、『並木』『黄昏』から『春』へとつづく構想の進展のなかに フィク 夫人』を考えただけでも、自分のひめごとをこういう客襯的な假自ら假構そのものを要しない道がひらかれてきたのではなかろう もだ 構に託す以外に小説の道があろうとは思い及ばなかったにちがいな か。かくて、自分の體驗、自分の悶えを、自分のものとしてそのま ま吐露し告白するという方法が、『家』においては大きな幅と奥行 「破戒』の場合にしても、同じく手本の『罪と罰』を頭にうかべた をもってはじめて實現したといってよい。自分のことを友人に假託 だけでも、これに呼應するような假構を考えずにはいられなかっして描くというようなことが、もはや藤村に起りえなかったことは たであろうことは推察するに難くない。しかも、おのれのひめごと いうまでもなく、それ以後の藤村の最大のモデルは自分自身であ を託すに足る假構はどこまでも事實に忠實でなければならないといり、モデル間題がおこ . ったとしても、それは自分で自分をあばき出 うのが、その信念だったのではないだろうか。唖峯生という人がすことときりはなしえないものとしてとりあげられることになった 「破戒後日譚』で、飯山の眞宗寺が『破戒』の蓮華寺と斂景敍物はのである。 忠實であるが人物はまるでちがうと書いたのに對して、「門外漢た 二葉亭にしろ、藤村にしろ、モデルのつかいかたはだいたいョオ る私が飯山の寺から學び得たことは、寺院生活の光景の外部に過ぎ ロツ・ハの近代文學なみにやれたわけであるが、すなわち『父と子」 ション フィクシ「一ン
の小説全部が自分をモデルにしたものと世間から推量されてもやむ條的に事實と事實ならざることとを區別しているが、自分の出發の ときは稀に見る好天氣だったのに、小説ではさびしい秋雨がふって をえないと思ったからだ。はたして妻の里方からは、「不穩の一一一口語」 いるとか、傳吉は着なれない洋服をはじめて着たとあるが、自分は をつらねた手紙さえくる始末だったという。なお柳澤淸乃のモデル は、小説に描かれているように、ロンドンから同船した婦人で、同洋服などは常用していたとか、傅吉は汽車も一二等に乘っているが、 自分はむろん二等であり、一等のなかったのが殘念だったとか、自 鄕のゆえもあって親しくしていたが、東京まで同道して別れたまま はた である。この小説が出てからは、家庭の平和のために、彼女とも絶分の母は自分が覺えてからは機を織ったことはないとか、おろかし いことを綿々と書き綴っているからである。それに、かんじんの四 交しているという。藤村に直接抗議すると、「あの傅吉は僕で、お ちぎ 初は僕の妻で、實際あの通りであった。しかも僕の家内と昔契りし角關係の間題にしても、柳澤淸乃のモデルは、哩霞が歸國の船で知 り合った婦人だったというような暗合もあり、これに近い事實はあ 直衞といふ男にやった手紙は一句も添へず、一句も削らずだった ったものと臆測されたのも不利を招いた原因のひとつだったにちが よ。」と語ったとある。そこで、晩霞はつづけるーー「藤村といふ ぎんげ 男は實に人の惡い男だ。自分の實歴を懴悔するのに、塗りつける人いない。 もあらうに、親しい友人、しかも無邪氣なる畫家になすり附けると 當時の新聞・雜誌に、モデル問題が一齊にとりあげられたが、 は、如何にも邪見の男だとっくづく君の顔を見た。又思ふのに、自 然派の小説家というものは、或人をモデルとして、その人の皮相ば『新小説』『萬朝報』のほかは、作品に對して、モデルが不滿をいう かりを寫して、その人の自然の性情等を寫さないで、自分の經歴をすじあいはないという意見が壓倒的だった。『新小説』十月號では、 そのモデルに添加するものであるか、果してそれが自然派の立場と後藤宙外が、『自然派とモデル』と題して、事實と小説の問題を文 さたん 藝對道德の問題に轉化し、強く自然主義を非難して、道徳に左袒し すれば、自然派小説家程の世に惡人なるはなし : : : 」 それにしても、藤村の眞情は不可解だった。晩霞は書いている。 ているが、「作家としての大成功も人間として非常に失ふ所があっ 藤村の語ったところが眞實とすれば、「實に小説家的好經歴を以てたら甚だくだらぬ事になる。」・というような、論旨粗大、思考も卑 俗をまぬがれていない。わずかに『萬朝報』の、「事實相違の爲に、 居る君であるから、無邪氣なる畫家等を引張り出さないで、傅吉だ モデル其人が受くる個人的又は會的の苦痛に對して作者が平然た のお初等と言はないで、自分が主人公となって、僕がとか余が妻と かいうて書く筈である。これを書く位に躊躇する君では無い。これるべき理なし。此の點德義上の問題たると共に、更に作家は何故に を書く位の勇氣は必ずもって居る。さうすれば矢張り余の推量通事實の相違を敢てせしやとの問を解決するを要す。」という批判ぐ り、他にあんなモデルがあったのであらう。あれは藤村君自身の經らいが正論というべきであろう。わけても、『水彩畫家』の事件は、 村 藤歴でない事は今も信じて居る。それから音樂師柳澤淸乃のモデルも『並木』の事實相違などとは、とうてい同一視することのできない 君が音樂學校に這入って居ったとき、自ら經歴のあった女だといふ深刻な問題を藏している。 島 事を他の人より聞いた。これも余は虚言だらうと信ずるのである。」 『二六新報』は、『小説の材料』という標題で、近來小説家が自分 の經驗を書いたり、友人をモデルに使うことが流行するが、一般の 晩霞のこの抗議は、一般に不評であり、かえって不利そもあっ た。なぜなら、以上のほかに、『並木』に對する孤蝶と同じく、逐傾向として、經驗し感じたことを精細深刻に描くようになったの
プ 08 形成の働く場所、そこは「一億總蔵悔」が素直に入りこむ場所であ 、つねに回想に泣きぬれる場所である。ヴィ , ト「 , プ蒐録の島崎 ~ 滕村 「戦歿學生の手紙ーなどが生れる餘地のない場所、自分を死に追い やったものへの愛情をこめた辭世の句の生れる場所、宣戦の「感 激」も降服の「感激」も同一同質であり得る場所、何ともあわれで ならぬ場所である。 日本に獨自なものがありとすれば、それは風呂桶と俳諧であろう という意味のことをいったのは、チャンバレンだったかと思うが、 モデル間題 この俳諧なり短歌の性格と運命とを、世界的規模と展望のなかに、 躍動しつつある今日の現實のなかに、今こそ布靜に把握すべき時で 木村毅の『文藝東西南北』によれば、現在文學上の用語として通 はなかろうか。そして、今こそ我々は短歌への去り難い愛着を決然用しているモデルという語は、繪晝上の用語の轉化した一種の和製 として斷ち切る時ではなかろうか。これは單に短歌や文學の問題に 英語であって、外國では日本のような意味で使用されてはいないそ 止るものではない。民族の知性變革の問題である。 うである。外國で小説のモデルといえば、作家の模範となるべき名 ( 昭和二十一年五月 ) 作の意味で、・ダフニスとクロエが後世の田園文學のモデルをなした というような意味で用いられているにすぎないという。ツルゲーネ フは、『父と子』の・ハザロフに革命家へルツェンの面影を描き、ド ストエフスキーは、『惡靈』のカルマジーノフにツルゲーネフを戯 畫化したといわれているが、そういう場合にどんな批評や文學史に も、モデルという語をつかってはいないそうである。その意味で、 小説に登場せしめた實在人物をモデルと呼ぶのは、和製英語だとい うのが『文藝東西南北』の著者の意見である。著者によれば、モデ ルなる語は明治四十年代のはじめ、自然主義の勃興に關聯して使用 されはじめたものであり、島崎藤村の『水彩畫家』のモデルにされ た丸山晩霞が作者に抗議した、『中央公論』明治四十年十月特別號 所載の『島崎藤村著「水彩畫家」の主人公について』のなかでのそ れが最初の使用ではなかろうかと推測している。晩霞は畫家である から、文學上に別義のあることを知らず、繪畫上のそれを混用し、 誤用することはありうべきことだというのである。
プ IO きや見えぬので、年齡が明確で無い。對話の調子及び語句の撰擇宜ときでもあって、作の主人公のモデルにされた晩霞が、家庭的にも しきを得無い爲に、人物が作家が指定したる年齡のものとは見え無瓧會的にも、非常な迷惑をこうむっているからとの理由であ 0 た。 い。人物の特徴を全く切り離して書いたが爲に、人物が一本調子の『水彩畫家』のモデルにされた晩霞の場合と、『並木』のモデルにさ 甚しきものに見えて居る、生きて居無い。一言にして言〈ば、、デれた孤蝶、秋骨の場合とでは、同じくモデルではあっても、まった く性質がちがっている。『水彩畫家』の主人公鷹野傅吉は、西洋留 ルの扱ひ方が下手だ。」というような作品評もまじっている。最後 學から歸るや、名士として鄕里に迎えられ、北信濃の小諸に住宅を に、「藤村先生は寬大の君子である。餘つぼど腹を立てて居ても、 男らしい顔に、氣味の悪い微笑を含んで、どうも十分に書いて下す新築して、新しい意氣ごみで制作にとりかかろうとしている。妻の お初には、傅吉と結婚前に、婚約のあった直衞なる男があって、ひ って、大に益を得ました、ぐらゐな事はいふに極まってゐる。」と、 皮肉な人物論をも加えているとい 0 たふうのものだ。要するに、デそかに文通しているらしく、お初が男にあてて書」た「絶望の初子 より、戀しき直衞さま ( 」という手紙が傳吉の目についてしまう。 ルとしての不滿や、作品評や人物評や、あれこれとりまぜ、全體と 一方、傅吉には西洋から歸る船のなかで知り合った同鄕の音樂家、 しては風變りな作品評ともいうべきもので、モデル間題としては、 柳澤淸乃なる女性があり、いわゆる四角關係なるものが描かれてい とるに足らぬものといってよい。 るのである。 ところで、鷹野傅吉のモデルにされた晩霞の書いているところに 孤蝶のこの一文に呼應して、同月の『中央公論』には、「『並木』 の副主人公原某」という署名の小説『金魚』が掲載されている。むよれば、藤村と相知 0 たのは洋行前であり、小諸義塾で藤村の同僚 たる三宅克巳の紹介で藤村の家を訪間したのが最初だったという。 ろん作者は戸川秋骨であり、この小説によって、原某の性格境遇を 『並木』の副主人公原のそれと描きわけて、事實と小説との相違を = 一十五年九月に歸國すると、藤村は小諸から二里の禰津村の晩霞宅 まで訪ねて來て、義塾に出講するよう交渉があり、それからは一週 示そうとした皮肉な試みである。これもモデルの不滿を表明した思 に一日だけ義塾に出かけ、藤村と顔が合えば、話題はおのずから歐 いっきの形式ではあるが、やはりモデル問題としては、これという 米漫遊になるのが通例だった。三十六年の冬近いころ、藤村宅に件 題目を提出したわけではない。 われ、脱稿したばかりの表題のない小説を見せられたところ、自分 しかし、ともかく『並本』のモデルにされたふたりの文學者が、 がモデルになっているばかりか、思いもよらぬことが書かれている 消極的ながらそろって一種の抗議を公表したことによって、モデル のでおどろきもし、不快でもあった。「藤村君は人を引きつける様 問題がにわかに阯の視聽を集めつつあったとき、藤村にとっては、 別の方面から新しい抗議者が現れた。洋畫家の丸山晩霞である。かな聲で、君の許可第・・ = ・・さも悲しさうであ 0 た」と晩霞は書いて いる。とにかく實名で出ているわけでもないからと思い、自分の友 れは翌十月號の『中央公論』に『島崎藤村著「水彩畫家」の主人公 に 0 いて』を寄せ、強く藤村に抗議した。『水彩畫家』は、三十七人のことなども書かれて」たので、それは削らせて、發表を承諾し 年一月の『新小説』に發表したもので、 = 一年も經てから抗議したのた。ところが、岦年一月、『新小説』に『水彩畫家』という題で發 は、この作がほかの諸短篇とともに四十年一月、第一短篇集『綠葉表されたときは、ギ ' ' とした。傅吉の苦悶が主となるべき一篇ゅ 集』として新刊され、あたかも藤村の聲名がにわかに高まっていたえ、他に題のえらびかたもあろうに、『水彩畫家』とされては、あ
しかし、實際はもう少し前から使用されていたらしく、現に、三並木』という文章を發表している。結尾に「六月二十七日稿」とあ きくて るところをみれば、『並木』が出て、直ちに書かれたものと思われ 十五年九月十五日發行の『新聲』第八編第三號には、田口掬汀が 『もでる養成論』という卷頭論文をかかげている。「もでるを尊重せ いきさっ しんすん いへど 孤蝶の一文には、最初に『並木』の書かれた經緯が語られてい ざるものは、理想信仰如何に宏遠深邃なりと雖も、遂に完全なる藝 る。 術品を作り得ざる」ことを論じているのだが、ここでいうもでると 五月五日前後に藤村を訪ねると、戸川秋骨も來合わせていて、三 は必ずしも實在の人物を意味していないようである。「詩人の眼に 映ずる現實界の事々物々、一としてもでるならざる者なき也」とい人で雜談の末に、藤村が頭をかきながら、「時に、髭を剃るか、頭 ルイナポレオン う用例によっても察することができる。「路易拿破崙の暴逆無道なを圓めるか爲なきやアならん事があるんだがね」と言い出して、 る佛の國家は、ユーゴー氏のもでるなりき。迫害の繩と横暴の劍を五、六枚の原稿紙を見せたという。ふたりにモデルの承認を求めた 持ちたる闇鬼は彼が描きたるもでるなりき」とも言い、トルストイ のであった。二十六日に再び訪ねると、先日の小説は檢閲を請うは コーカサス にふれて、「伯靑春の活氣に駈られし時代、高加索山下の陣營に見ずだったが、雜誌瓧が急いでいたので、そのまま渡してしまったと コサック たる戦野の事物は、名作『哥索克兵』のもでるにして、ナポレオン 言ったことなどが語られている。つづいて逐條的に小説と事實との にふこう 入寇前後の露國社會の大パノラマは『戰爭と平和』のもでるなり 。相川は三時に起きる覺悟をしたそうだ 相違を指摘している き」とも論じている。 が、自分はそんなばかな覺悟はしたことがないとか、原は「子供へ こういう漠然とした用法から、もつばら實在の人物を意味するよ と言って、手土産のビスケットなぞを忘れずに用意して來るところ うになったのは、やはり數年後の四十年近くからと見てよかろう。 は、流石田舍で苦勞した人だけある」とあるが、モデルの秋骨はこ そして、この和製英語の出現が、明治自然主義文學の勃興と密接なれを讀んで、「かういはれて見て氣が付いたが、僕位、餘所へ土産 關聯をもっていることは、木村毅の書いているとおりであろう。同を持って行か無いものは無いね」と言って大笑したとか、相川には 時に、モデル間題が論議の題目になったのも四十年になってからで子供が四人あるそうだが、自分には三人しかないとか、晝食は相川 ある。 が奢ったとあるが、自分は滅多に人に奢ったことはないとかいうた いわゆるモデル問題のおこりは、明治四十年六月の一文藝倶樂 ぐいのことをくどくどと指摘している。こういうばかばかしい、モ われわれ 部』臨時增刊『ふた昔』に發表された島崎藤村の『並木』に關して デルの言いぶんにまじって、「原君、原君、まだ吾儕の時代だと思 であった。この短篇に出てくる高瀬というのは、作者自身を思わせ ってるうちに、何時の間にか新しい時代が來て居るんだねえ」と 村る人物だが、ほかに高瀬の友人として、相川、原のふたりが描かれか、「あゝ、君と僕とは友逹だーー離れることの出來ない友逹だ」 藤ている。相川が馬場孤蝶、原が戸川秋骨、いずれも『文學界』時代とか、むすびの「冷い涙は彼の頬を傅って流れた」とかいう藤村流 島からの古い友人がモデルにされている。『破戒』の作者として、讀のサワリをひやかしたり、「島崎藤村子は、昔を忍ぶことが好きだ。 書界の注目を集めていた藤村が、著名なふたりの文學者をモデルにけれども、自分の好物だといって、かう毎度多量に御馳走されて & したという點で評判になったのは當然であろう。そして、モデルには、客は甚だ迷惑である。」というような皮肉をとばしたりしてい された馬場孤蝶は同年九月の『趣味』第二卷第九號に、『島崎氏のる。なかにはまた、「總括して云ふと、『並木』では、人物の一面し さすが
『水彩畫家』で、友人の晩霞やその妻に假託した愛慾葛藤は、ほか 「水彩畫家』の作者藤村が、主人公俾吉のモデルにされた丸山晩霞 ならぬ藤村自身の體驗だったことは、『家』に描かれている場面と の直接の抗議に答えて、「あの傅吉は僕で、お初は僕の妻で、實際照合すれば、いよいよ明瞭である。『水彩畫家』で、晩霞をモデル あの通りであった。しかも僕の家内と昔契りし直衛といふ男にやっ にした鷹野傳吉、その妻のお初は、『家』では、そのまま藤村の分 た手紙は一句も添へず、一句も削らずだったよ。」と語ったことは身としての小泉三吉、妻のお雪として描かれている。淸乃は曾根と さきに書いたとおりである。晩霞が、あれは藤村自身の經歴でない して現れている。敍述や會話までも、『水彩畫家』のそれがそのま ことは今も信じていると言い、ほかにあんなモデルがあったのであまくりかえして出てくる。「絶望の初子より、戀しき直衞さまへ」 ろうとしていることもすでに書いた。淸乃のモデルも藤村が音樂學は、「戀しき勉様へ : : : 絶望の雪子より」となっているばかりか、 校で知り合った女性ではないかという噂を耳にしたがこれも虚言だ 俾吉から直衞に宛てた手紙は、三吉から勉への手紙として、そのま ろうと考えていることも前述した。小諸時代藤村に近く接していた まの文面で出てくる。藤村が晩霞にうち明けた祕密は虚言ではなか った。 晩霞がこう考えているかぎり、ほかの誰が藤村の言を信ずるものが あろうか。 新婚の家庭の妻にも戀人があり、同時に夫にも戀人があるとい だが、事實は藤村の語ったとおりであって、『水彩畫家』の傅吉 う、藤村の家庭の祕密をそっくり友人晩霞の家庭にはめこんだのが の煩悶は、藤村自身のそれだったのだ。藤村が小諸義塾の敎師とし『水彩畫家』にほかならなかった。傳吉、妻のお初、妹のお勝、母 て赴任したのは、明治三十二年四月であり、その月末に明治女學校親など、その輪郭と境遇はすべて晩霞の家族そのままであり、淸乃 の卒業生で、函館の網問屋秦慶治の三女冬子と巖本善治のすすめに さえも、偶然の暗合であろうが、晩霞が歸國途上、船中で知り合っ したがって結婚した。しかし、冬子には音の戀人があり、藤村にも た婦人のおもかげを擔っている。晩霞の乘ったのは二等車であり、 戀人があった。冬子の相手は、實家の網問屋の仕事を手傳っていた 傅吉のそれは三等車だったというようなちがいはあるにせよ、作者 親戚で、ふたりは婚約關係にあったが、事情あって冬子は藤村と結 が見聞した友人一家の輪郭と境遇とを、できるかぎり忠實に寫そう 婚したのであった。後には冬子の妹と結婚したこの相手の男と、 と努めていることは明瞭だ。しかも、かれらによって演じ出され 諸へ來てからの冬子との間に文通の絶えなかったことは、『水彩畫る、作の主題としての陰鬱な愛慾のもつれは、作者自身の演じ體驗 家』の、お初と直衞のこととして描かれているとおりであった。藤 したところのものだったのである。小説のモデルがこういう役割を 村にも音樂學校助敎授でピアニストの橘糸重という戀人があり、 ひき受けたことがこれまであったであろうか。作者が自分自身の祕 『水彩畫家』を書いた三十六年には、小諸までやってきて相會して事を著名な友人を借りて描くということ、モデルにそういう役割を 村 藤いる。『春』の勝子こと、佐藤輔子が藤村の第一の戀人であり、同負わせるということ、こんな異常な場合が滅多にあろうとは思われ じく『春』では峰子として登場する廣瀬恒子が第二の戀人とすれない。秋骨のいう、「輕々に附すべき輪廓を實際に取った」どころ 島 ば、橘糸重は第三の戀人ともいうべきひとであった。小諸に新居をではない。『水彩畫家』に描かれた祕事が作者自身のそれであるこ はいたい 3 かまえた藤村の家庭には、このような悲劇が胚胎していたのであとを知っていたのは、被害者であり、抗議者であり、藤村からその 1 る。 ことをうちあけられていた晩霞をもふくめて、おそらく一人もいな
それ」との根本の相違がわかるわけである。これは、おそらくヨー 『巡査』は、まったくの寫生である。本名は高野氏、獨歩が西園寺 ロツ・ハの近代作家の制作事情にも通ずるものに相違なく、こういう公の家に寄食していたときの護衞の一人。別懇になり、かれの寓を 訪ねたこともあるという。 内面的な操作を經るかぎり、モデル間題などのおこる餘地はない。 第三者』似よりの事實はあった。だが、作中の男女兩主人公の性 ひと口にモデルといっても、その扱いかたにさまざまのちがいが格と實際の人物とは決して同じではない。幾分似涌っているにすぎ ない。 あるわけである。國木田獨歩は、四十年九月の『文章世界』で、 『予が作品と事實』と題して、曰全くの空想から人物も事件もでき 『空知川の岸邊』については、「この篇の・主人公は余自身にして共 あがるもの、實際の人物もしくは事件にヒントをえたるもの、国事件は皆事實なり。主人公の感想は余の感想なり。」といっている 9 『あの時分』は、早稻田時代を回想して書いたもので、事實八分、 事實の人物と事件が其の小説の主要部分を成せるもの、實際の人 物及び事件を其儘描寫したるもの、以上四種に分け、おそらくこの 附加二分。しかし心持は少しも變えていないという。 ほかに出まいと言っている。獨歩自身としては、と国が多く、曰『帽子』夢を書いたものである。 『牛肉と馬鈴薯』については、こう言っている。「主人公岡本誠大 とはきわめてすくないと言い、以上個々の作に説明を加えてい の性格は余が好むまに描きしなれど彼の演説は余の演説である。 『源叔父』源叔父も乞食の少年も、佐伯時代に接した實在の人物而して北海道熱は余自身の實歴にして、空知川の岸邊は此實歴の實 で、すべて事實のままだが、このふたりを結びつけて一篇の作とし證である。又此編に現はれし四五の紳士は皆な實在の人物を借りて おもかげ たのは自分の空想だという。 來て多少とも其俤を寫したものである。則ち竹内は竹越三叉君、 綿貫は渡邊勸十郞君、井山は井上敬一一郞君、松木は松本君平君。而 『酒中日記』は、チョッとしたヒントがもとで、すべてこしらえた ものだという。主人公の小學校長に似た實在の人物と學校新築とい して此等の諸氏は實際櫻田本鄕町の河岸にあった倶樂部で常に氣焔 う事實にふれて、それが基となって構想がうかんだ。實際の校長はを吐いて居たのである。上村と近藤は余の或趣味を表はした想像入 物である。」 いまも健在で、校舍は落成して多數の兒童を收容している。 『富岡先生』は、長州で有名な富永有隣翁をモデルにしたもの。け 獨歩が事實と作品という問題に印して語った創作體驗は、モデル れども翁に梅子なる娘あることなく、一篇に記述したごとき事件も ない。目的はこの一種の人物を描くにあり、人物を詩化するために の扱いのだいたいの場合をつくしているといってよい。そして、こ あの事件が必要だったのである。 れらすべての場合にくらべてみても、『水彩畫家』におけるモデル の扱いがいよいよ異常で、いよいよ奇怪であるかがわかるはずであ - 藤『春の鳥』の白痴の少年は、佐伯時代親しく接近した實在人物で、 少年の身上話はすべて事實であるが、かれが城山で悲慘な最後を遂る。獨歩が『巡査』について書いているところによれば、モデルの くだり げた條は空想だという。この少年のことを思って、人間と鳥獸の差高野巡査の家を最初から寫生の目的で訪問し、住居の模様から居室 別、生物と宇宙の關係など、城山の上で空想に耽ったというのであの體裁、一擧一動をも注視したばかりでなく、同巡査の書いた『警 察論』や漢詩まで借りうけて參考にしたという。もしこれらを資料