それ」との根本の相違がわかるわけである。これは、おそらくヨー 『巡査』は、まったくの寫生である。本名は高野氏、獨歩が西園寺 ロツ・ハの近代作家の制作事情にも通ずるものに相違なく、こういう公の家に寄食していたときの護衞の一人。別懇になり、かれの寓を 訪ねたこともあるという。 内面的な操作を經るかぎり、モデル間題などのおこる餘地はない。 第三者』似よりの事實はあった。だが、作中の男女兩主人公の性 ひと口にモデルといっても、その扱いかたにさまざまのちがいが格と實際の人物とは決して同じではない。幾分似涌っているにすぎ ない。 あるわけである。國木田獨歩は、四十年九月の『文章世界』で、 『予が作品と事實』と題して、曰全くの空想から人物も事件もでき 『空知川の岸邊』については、「この篇の・主人公は余自身にして共 あがるもの、實際の人物もしくは事件にヒントをえたるもの、国事件は皆事實なり。主人公の感想は余の感想なり。」といっている 9 『あの時分』は、早稻田時代を回想して書いたもので、事實八分、 事實の人物と事件が其の小説の主要部分を成せるもの、實際の人 物及び事件を其儘描寫したるもの、以上四種に分け、おそらくこの 附加二分。しかし心持は少しも變えていないという。 ほかに出まいと言っている。獨歩自身としては、と国が多く、曰『帽子』夢を書いたものである。 『牛肉と馬鈴薯』については、こう言っている。「主人公岡本誠大 とはきわめてすくないと言い、以上個々の作に説明を加えてい の性格は余が好むまに描きしなれど彼の演説は余の演説である。 『源叔父』源叔父も乞食の少年も、佐伯時代に接した實在の人物而して北海道熱は余自身の實歴にして、空知川の岸邊は此實歴の實 で、すべて事實のままだが、このふたりを結びつけて一篇の作とし證である。又此編に現はれし四五の紳士は皆な實在の人物を借りて おもかげ たのは自分の空想だという。 來て多少とも其俤を寫したものである。則ち竹内は竹越三叉君、 綿貫は渡邊勸十郞君、井山は井上敬一一郞君、松木は松本君平君。而 『酒中日記』は、チョッとしたヒントがもとで、すべてこしらえた ものだという。主人公の小學校長に似た實在の人物と學校新築とい して此等の諸氏は實際櫻田本鄕町の河岸にあった倶樂部で常に氣焔 う事實にふれて、それが基となって構想がうかんだ。實際の校長はを吐いて居たのである。上村と近藤は余の或趣味を表はした想像入 物である。」 いまも健在で、校舍は落成して多數の兒童を收容している。 『富岡先生』は、長州で有名な富永有隣翁をモデルにしたもの。け 獨歩が事實と作品という問題に印して語った創作體驗は、モデル れども翁に梅子なる娘あることなく、一篇に記述したごとき事件も ない。目的はこの一種の人物を描くにあり、人物を詩化するために の扱いのだいたいの場合をつくしているといってよい。そして、こ あの事件が必要だったのである。 れらすべての場合にくらべてみても、『水彩畫家』におけるモデル の扱いがいよいよ異常で、いよいよ奇怪であるかがわかるはずであ - 藤『春の鳥』の白痴の少年は、佐伯時代親しく接近した實在人物で、 少年の身上話はすべて事實であるが、かれが城山で悲慘な最後を遂る。獨歩が『巡査』について書いているところによれば、モデルの くだり げた條は空想だという。この少年のことを思って、人間と鳥獸の差高野巡査の家を最初から寫生の目的で訪問し、住居の模様から居室 別、生物と宇宙の關係など、城山の上で空想に耽ったというのであの體裁、一擧一動をも注視したばかりでなく、同巡査の書いた『警 察論』や漢詩まで借りうけて參考にしたという。もしこれらを資料
か、「嵯峨日記」についても、「奧の細道」についても、これに類す「俳句は眞に浩うべきもの」、または「誠の俳諧」の方向へおし進め 2 たものといってよい。肉體的な直接的なものが眞だと思うほど幼稚 翹るような多くの實例をあげている。そして、「俳句は眞に沿うべき な迷妄はない。 ものとの意識を持っていたようであり、猶これが俳諧全般へ猶廣く かく夏季の句から春季のこれに轉化された結果、初案の浮んだ特 實事の文學全般へも擴大されての意識として持っていたものかと思 定の場所と時期から分離されて、適宜な個所に位置づけられたとし われる」芭蕉の「實事の文學に對する意識は徹底を缺くものであっ ても、「卯辰紀行」が事實の忠實な記録でなく、一個の文學である たーと見るよりほかなく、「元祿の芭蕉はやはり元祿の芭蕉であっ た事を思わしめられる」と言っているのである。この論考の書かれかぎり、何のさしつかえもあるはずはない。「奧の細道」の遊女の 力、かりに虚構であったとしても同様であろう。 たのは、曾良の日記が見出される前年なので、「奧の細道」につい條く 志賀直哉に「鵠沼行」という短篇がある。「總て事實を忠實に書 ては部分的な論及に終っているが、その後多くの人によって、芭蕉 の「細道」と曾良の「日記」との異同がわずらわしいまでに指摘さいたものだが、雎、一カ所最も自然に事實ではなかった事を書いた れている。僕もまた「文學」昭和二十一年十二月號 ( 參照、「光堂の所がある。そういう風にはっきり浮んで來たので知りつっそう書い 句の解釋について」 ) でその一端にふれ、それから、「五月雨の降り殘た。後に其時一絡だった私の二番目の妹が、色々な事を私がよく覺 えていると云い、然し自分も此事はよく覺えていると云ったが、そ してや光堂」の句の解釋の問題を論じたことがある。 「奧の細道」と「曾良隨行日記」との異同のうちで、旅程の多少のれがその一カ所だけ入れた事實でない場所だった。私は、其處は作 違いその他については、間題にするに足るまい。道中記録でもなけり事だとは云い惡くなって默っていたが、妹が出目を云う筈はな いので、私に最も自然に浮んで來た事柄は自然なるが故に却って事 れば、旅行案内でもない「細道」が事實の記録と多少違っているか らとて問題になる餘地はない。ただ、「草臥て」の句のように、あ實として妹の記憶に甦ったのだろ . うと考え面白く思った。」と「創 る個所の句を後に他の個所の句として改作して再生せしめたり、實作餘談」にあるが、文學的眞實というもののありかたを傅えて興味 が深い。「唯、一カ所最も自然に事實ではなかった事を書いた所が 地實寫の句であるのに、季語を變更するほどの改作をしたりしてい ることについては、一應問題になりうるであろう。しかし、こういある。そういう風にはっきり浮んで來たので知りつっそう書いた」 うことを間題にするならば、芭蕉の句に無數に見られる和歌や唐詩というのであるが、「そういう風にはっきり浮んで來た」ことが、 文の一部を換骨奪胎したもの、もしくはそれらの直接的影響によっ事實以上の眞實でなかろうはずがない。 前述のように、芭蕉の句には中世の和歌や唐の詩文にすがって作 て作られたものなども同じように問題にされなければなるまい。い ずれにせよ、程度の問題はあるが、このことが直ちに「俳句は眞にられた多くの句があり、少なくもそれに觸發されてできた句が、驚 沿うべきものとの意識」と矛盾するものとすることはできぬはずでくほど多くあることについては、周知のとおりである。同時に芭蕉 はまたどのような自然のなかにあっても、古人の目と心から完全に ある。客觀的事實と文學的眞實とを混同してはなるまい。たとえば、 獨立であることができなかったといってよい。むしろ後者が理由で 「ほとゝぎす宿かる比の藤の花ーは、特定の時期に特定の場所で、 念頭に浮んだ夏季の句であろうと、これが推敲され「草臥て宿かるあり、前者がその結果であるというのが正しいのではないかと思 う。たとえば、「奧の細道」について見ても、白河の關では、「心許 比の藤の花ーとして春季の句に轉化したとしても、それはむしろ、
に、單獨講和と全面講和の、いずれが現實的な政策であったか。そ 〇年一一月の『世界』の共同討議「ふたたび安保改定について」によ 4 のことを檢討するためには、日本をめぐる當時の國際情勢を檢討し っておよそ盡くされていると思われる。もとより全面講和について も、安保改訂についても、實に多くの論文があり、個別的な論點になければならない。しかし國際情勢の檢討は、政策の現實性の第二 ついては、平和間題談話會聲明や『世界』共同討議だけですべてをの意味と關連する。 第二、提案された政策は、實行することができない。 代表させることはできない。しかしここではそれぞれの議論の文脈 この場合に間題の政策は、對外政策であるから、實行の主體は日 の詳細にたち入るよりも、要點を大きく捉えて、その國外および國 内の情勢との關係を顧みたいと思う。殊に「中立主義的立場は、理本政府である。從って「提案された政策は、實行することができな い」には、「いかなる日本政府も實行できない」と「現在の日本政 という批判を考慮しながら、その 想主義的で、現實的でない」 府 ( 吉田政府 ) には實行できない」との二義があり得る。その前者 二十年の歴史を二つの頂點においてふり返ってみたいと思う。 今、一九五〇ー五一年當時において、全面講和・非武裝中立・國の意味で提案された政策が非現實的であるならば、それは提案者の 連による安全保障の提案は、非現實的であった、というとき、その誤である。もし後者の意味で非現實的であるならば、それは必ずし 意味はかなり漠然としている。もう少し正確に考えれば、その文章も誤ではない。政府交代の可能性がなければ、そもそも民主主義的 制度が機能しているとはいえない。たとえ政府交代の可能性が當面 の可能な意味は、およそ次の通りであろう。 小さい場合でも、考えられる他の政府にとって可能な政策に、現在 第一、提案された政策によっては、提案者の目的が逹せられな の政府が少しも歩みよることができないという場合は少いだろう。 い。この場合に提案者の目的とは、日本國の平和と安全である。 しかし國の主要な目的は、必ずしも一つではない。たとえば日本從って問題の要點は、全面講和がいかなる日本政府にとっても追求 國の安全の他にも、日本國の金もうけということがあり得る。一般することの不可能な政策的目標であったかどうか、ということに歸 に目的を逹成するために現實的な政策が、目的を逹成するためする。當時の情勢はどういう具合であったか。 歐洲および極東で欽第に激しくなりつつあった「冷戦」は、五 0 に非現實な政策であるという場合は多い。從って特定の政策の現實 性を批判するためには、その政策立案者の目的との關連において政年に到って、遂に朝鮮半島で火をふき、緊張の頂點に逹しようとし 策を檢討しなければならないだろう。目的の撰採そのものを批判すていた。しかも前の年四九年に、中國大陸からは米國の援助した政 るのは別問題である。安全と金もうけの何れを貴しとするかは、人權が臺灣へ追い出され、中華人民共和國が成立し、またソ連の原爆 によって米國の核兵器獨占の時代も終ろうとしていた。軍事同盟と によって意見がちがう。そのちがいは、本來現實的・非現實的とい う種類のちがいではない。「全面講和論者が特需のもうけを第一の基地の連鎖によって、「共産圈」をとりまき、「封じこめ」ようとす る米國の政策は、極東では日本・沖繩・臺灣・フィリッピンの線に 目標にして國際問題を考えないのは、恥ずべき誤である」というと すれば、論理上すじが通っている。しかし「全面講和論で金もうけ退かざるをえなくなっていたといえよう。そのとき、ダレス氏は 「日本を反共の防壁にしたい」といい ( 五一年二月マニラでの聲明 ) 、 の機會を逃すのは非現實的である」というのは論理上すじが通らな また嘗て戦爭放棄の憲法をつくった占領軍司令官は、「日本再武裝 い。現實的であるかないかが目的との關係で問題になるとすれば、 の必要」を説きはじめていた ( 五一年一月 ) 。米國が對日單獨講和を その目的は日本の安全でなくてはならない。日本の安全を保っため
0 7 を苦しむるなり。余は爰に於て從來のすべての忍耐を甘んじて打破た。こういう現實社會、日常生活へ一人で飛込んだとしても彼の所 すべしと決心す。妻に對することも、妻の家に對する事も、我が家期する野望は逹し得られようがない。彼は退いて平民思想市民的自 に對することも、事業に對することも、而して我は之よりすべての由思想を主張し、時代と粃會へ働きかけるの道をとった。透谷の文 事に耐久の精を破りて自ら好むところ、自ら題するところの外は學活動は彼にあってはたしかに事業であったのである。 必らず之を爲すまじ。わが獨立の爲には愛をも犧牲に供すべし、最 彼は自らの課題を實現させるために如何なる方法をとったか。實 後は三界乞食の境界に沒人するの覺悟あれば印ち可なり。嗚呼男兒際の會、文學が、先の如きものである以上、またそれに於て、自 何ぞ斯の如く長く碌々として遠慮をのみ事とすべけんや」 ( 『日誌』 ) らの目的を實現することの到底不可能なるを知った以上、また、實 等と死の前年に書いている。我々はこれらによって透谷の最期の氣會が不自然な、歪められた妝態にある以上、極度にその然る所以 持を推察し得るであろう。 を知らしめなければならない。ここで彼は想世界と實世界、自山と 透谷はかくして、實世界と想世界、批評家と詩人との間の矛盾相 東縛、イデアと現象の二元論をとった。 剋のために明治二十七年二十七歳を以て自らを縊ったのである。 勿論、彼の天性と禀質が、そのような世界襯をとらしめたのでも ( 昭和五年 ) あろうが、私はそれを單に自然發生的なものとしては考えない。彼 は時代の必然の認識、それへの働きかけの意志によって、意識的に も二元論をとらざるを得なかったのであろう。 想世界と實世界、この二元に於て、彼は實世界、その日常性を極 0 度に嫌惡し、またミゼフプルなるものとして否定せざるを得なかっ 透谷は新しい文學を建設せざるを得ない必要にせまられた。自分た。と同時に、想世界を自山と純潔と魂の故鄕として主張せざるを 自身の必然からも、また時代の必然からも、文學を新しく獨立させ得なかった。『我牢獄』に於ても、また實世界への相渉を以て文學 ざるを得なかった。 の使命とした山路愛山との論爭に於ても、詩人特有の世界への思慕 當時の日常生活、就會妝態、文學世界に透谷が滿足し得なかった 想世界への獨立への情熱を見得るであろう。「自然の力をして縱に ことは勿論である。そして、その不滿足は、靑年特有の、理想と現吾人の脛脚を控縛せしめよ。然れども吾人の頭部は大勇猛の權を以 實の不一致とか、幻減とか、そういう風に簡單にかたづけられうる て現象以外の別乾坤にまで挺立せしめて、共處に大自在の風雅と逍 ものではなかった。現實界に、實就會に、野心的に活動しようとし 遙せしむべし。彼物質論家の如きは、世界を狹少なる家屋となし た彼は、實會が現にどういう妝態におかれているかを研めた。何て、其家屋の内部を整頓せるの外には一世の能なしとし、甘じて爰 をなさねばならぬかをみえた。結論は、明治維新によって第一歩を に臥せんとす。而して風雨の外より犯す時、雷電の上より襲ふ時、 ふみだした平民、市民をして、その課せられた史的役割を賢現させ慄然として、恐怖するを以て自らの蓮命とあきらめんとす。靈性的 ることにあった。ところで、實際の妝態はどうであったか。藩閥と の道念に逍遙するものは世界を世界大の物と認むることを知る。 官療の絶對支配、名ばかりの議會、封建的傅統の個人への壓迫、¯ 上而して世界大の世界を以て甘心自足すべき住宅とは認めざるなり。 建的戲作者的文學の亞流、それが若い透谷の眼にありありとうつつ世界大の世界を離れ大大大の實在を現象世界以外に求むるにあらす
いっそう、實状に印しているかもしれない。これらの現實、ーー・・・人 かをあきらかにするためにつくられている映畫かとおもっていた。 間のそとにある現實と、人間のうちにある現實とを統一し、現實そ ところが、それは、ただ、かれらのあいだに、セックスにたいする のものの正體に肉迫するのが、人間の實踐というものなのであろ 恐怖を・ハラまく目的をもってつくられている映畫だったのだ。した う。「トルクシプ」の字幕ではないが、現實は頭強である。しかし、 がって、そこには、若い世代のすがたなどうかがうべくもなかった 人間は、それにもまして頑強である。 しかし、世の大人たちのセックスにたいする無智、無關 なんだかディズニーから話がすっかりそれてしまって、わたし 心、嫌惡等々は、かなりの程度までとらえられているような氣がし は、少々、さきばしりしすぎているようだ。もとへ歸ろう。それで た。かれらは、セックスに關しても、實踐はするが、斷じてみずか おもいだしたが、昨年、「群像 . の「廣場日記」のなかで、佐多稻 らの實踐を認識しようとはしないのである。 子が、ディズニーの「不思議の國のアリスーには、いつものよう しかるに、われわれが、内部世界における具體的なイメージ、 に、妙におそろしいどぎっさがあるが、これは、いちがいに、アメ たとえば夢なら夢を手がかりにして、無意識や下意識の世界へ テラ・インコ リカ國内の不安の反映というようなことだけでかたづけられるもの きりこんでゆき、これまでまったく知られていなかった「不明の ニタ ではなく、ディズニー自身の感覺のなかにそれがあるせいだ、とい 地」についてのドキメントをつくろうとするならば、さっそく、 うような意味のことを書いていたのをみたことがある。もしもそう われわれは、セックスと、まともに對決しなければならないのだ。 だとすれば、それは、ディズニーの作品にも、いくらか超現實主義 フロイトの「精神分析」はすでに古いかもしれない。たしかにツ ヴァイクのいうように、われわれにとってもっとも必要なものは精 的な要素のある證據であり、ディズニー、もって瞑すべし、という ところだが、 しかし、そういうおそろしいどぎっさは、日に日 禪綜合かもしれない。しかし、繰返していうまでもなく、分析力を にかれの作品から薄れ去りつつあるのではなかろうか。その原因 ともなわない綜合力は、單なる空想力にすぎないのだ。なるほど、 私小説家のなかには、勇敢にみずからの性的經驗について語るようは、むろん、かれの商業主義との安協にもとめらるべきであろう なひともないではないようだが、どうやらかれらは、フロイトより が、もともとかれの藝術は、抽象藝術と超自然主義との折衷の産物 であり、抽象的なものから出發して、外部世界の具體的なものヘ近 も、フロイトの患者に似ており、かれらの赤裸々な告白にたいして づいてゆけば、「・ハンビ」のような自然主義的な作品となり、逆に ささやかな分析を加えるなら、ただちにそれが、ドキュメンタリ ティを看板にしたフィクション以外のなにものでもないということ内部世界の具體的なものを描きだそうとす〔ると、「不思議の國のア リス」のような超自然主義的な作品がうまれ、いずれにせよ、われ がわかるであろう。意識とは、意識された存在にほかならない。し 描かし、存在には、外的な存在と内的な存在とがあり、むろん、後者われによって意識されていない現實のなかにある暗黒の部分を白日 は前者によって規定されているが、兩者はいずれもおのれのなか の下にさらけだし、われわれを戰慄させるようなことはできないの い に、いまだかって意識されたことのない暗黒の部分をふくんでおである。 ( 「不思議の國のアリス」は超現實主義ではない。なぜな ら、超現實主義においては、分析の對象となる具體的なものが、最 り、われわれの手によって、その不明の部分を一歩一歩、あきらか いや、あきらかにされ初からわれわれの内部世界に屬していなければならないからだ。 ) のにされてゆくのを待っているのである。 しかもな鼓それは、いかに自然主義的なものヘ近づこうと、超自 まいとおもって、必死になって頑張っている、と、いったほうが、
「眞理」を探求してみたら如何なものであろう。一方において、「怪わたしの話にあたえるためであって、 つまり、佐々木基一のよ 猫有馬御殿」のような怪奇映畫があらわれ、他方において「東京物うな明晰な頭腦の持主であっても、ドキュメンタリー・フィルムの 問題になると、なんとなく口レツがまわらなくなり、わたしには、 語」のような心境映畫があらわれるのは、アクチュアリティとリア リティとを、 かれが、いったい、ヘ 1 ゲル主義者なのか、マルクス主義者なの したがってまた、記録映畫と劇映畫とを、あくま で岐別しようとするこの種の映晝批評家にも一半の責任があるにち か、實存主義者なのか、さつばり、見當がっかなくなるという一事 に、ちょっとふれたいためである。佐々木の「記録映畫に關するノ がいない。化猫映畫は低級で、心境映畫は高級だということになっ ート」 ( 「映畫評論」第十卷十二號 ) は、主として、ロッセリ 1 ニの方 ているのかもしれないが、むろん、兩者は、一枚の銅貨の裏と表に すぎず、いずれもアクチュアリティを回避しているため、リアリ 法を、かれの現實主義や瓧會的點から説明する今村太平の「イタ し リア映畫」に疑問をいだいたために書かれたものらしいが、 テイもまたとらえることができない。つまり、どちらも嘘つばちに なってしまうのである。「眞理」は相對的だとか、歴史的に制約さ かし、戦後のイタリア映畫のドキュメンタリズムは戦爭終結前後の れているとか、自明の理について、くどくど述べたてるまでもな イタリア瓧會とイタリア人民のおかれた「妝況」のドキュメントを という い。わたしは、まず、われわれは、ポール・ロ 1 サのいうように、 提供する目的と必然的に關連してとられた方法である。 われわれのそとにある現實の提起するなまなましい問題をとりあような箇所を讀むと實存主義者のような感じもするが、それにつづ げ、アクチュアリティの創造的劇化というようなところから、われけて、そのドキュメントがそのものとして人々に強く何ものかを物 われの仕事をはじめるべきではないかとおもう。「トルクシプ」を語り、訴えかけるためには、ドキュメントそのものに普遍的意味が と書かれているのをみると、は つくったトウーリンやアロンは、あるいはまた、詩人のマヤコフス含まれていなければならない。 キーのような人物は、リアリストというよりも、むしろ、アクチュ はん、やつばり、ヘーゲル主義者か、とおもいなおさないわけには アリストといったほうが、。ヒッタリしはしないか。 いかない。とはいえ、その普遍的意味というやつを、ルカ 1 チの まったく、「現實」だとか、「現實主義」だとかいうような言葉シェークスピア論かなんかを援用して、強調されると、ルカーチは は、ひとをあやまらせるものをもっているようだ。津村秀夫にならマルクス主義者でとおっているから、なんだかかれもまた、マルク って、わたしもまた、少々、ガクのあるところをしめすならば、ヘ ス主義者であるような氣もする。 ーゲルは、現實を「本質と存在の一致」として規定した。理性的な もっとも、佐々木基一が、今村太平の理論に疑問をもつのは無理 ものは、すべて現實的であり、現實的なものは、すべて理性的であもない。今村は、ロッセリーニの「中心のない構圖」が、かれの現 などというようなし る、というわけである。そうして、このような「現實」概念にたい實主義から生じていることは明白である、 する幾多の批判のなかで、今日、なお、われわれによってふりかえやれたことをいわず、自分の「漫畫映畫論」と「記録映畫論」との い 關連を、方法論的に、いっそう、明白に規定する必要があるのだ。 られる價値のあるものは、マルクスとキエルケゴールのそれだ。讀 笑 者は安心されるがいい。わたしが、いま、こういうことをいうのなるほど、「怪猫有馬御殿」で、ほんものの猫の出現する場面は、 は、これからリアリティについてめんめんとして解説の勞をとるたすべて「中心のない構圖」でとられていたが、あれは監督の現實主 -1 : ところで、殘念だが、わたしは、も めではなく、むしろ、もつばら、いくらかでもアクチュアリティを義のおかげかもしれない。
らは顴客も超滿員で、しかもその大部分は、若い世代ばかりであ 、わたしは突っ立ったまま、スクリーンにながめいりながら、し ばしば、ハンケチをとりだして、人いきれのためにながれでる汗を ぬぐわなければならなかった。 しかし、こういうと、性急な讀者のなかには、荒唐無稽な日本の 化猫映畫がつまらなくて、五箇年計畫をとったソ連の記録映畫に迫 力があるのは當然であり、その當然のことを認識するために、わざ わざ、そういう映畫をみにゆくのは、時間の浪費というものだと、 わたしは、この記録藝術論を書くために、一昨日は、郊外の映畫せせら笑うようなひとがあるかもしれない。非實踐的なオプローモ 館へ出かけて、「怪猫有馬御殿」「十代の誘惑」を、 昨日は、近フ主義者よ ! あなたは、かってのわたしに、そっくりである。誤 代美術館へ出かけて、「トルクシプ」「ルイジアナ物語」をみた。い解をさけるために一言しておくが、わたしが「怪猫有馬御殿」をみ にいったのは、ポール・ローサのいわゆる「フィクション・フィル つか雜誌に毛澤東の「實踐論」の要旨を紹介しようとおもって、 ム」のくだらなさを再認識するためではなく、日ごろ、わたしの夢 「認識↓實踐↓再認識↓再實踐」と書き、どこかまちがっているよ みているようなドキュメンタリーの方法が、案外、そんな映畫のな うな気がして、まじまじと原稿用紙をながめているうち、それが、 かで、人眼を掠めて、縱横に、驅使されているかもしれないと考え 「實踐↓認識↓再實踐↓再認識」の書きちがいであることを發見し て以來、わたしは深く自己批判するところがあって、なにか書くばたからにほかならないのだ。昨年、杉浦明平の「ノリソダ騷動記」 あいには、まずまっさきに足を使うことにしたのだ。フロイトをま が出版され、記録文學の新境地を開拓したものとして評判になった つまでもなく、こういう書きちがいは、理由なくしておこるものでさい、わたしも、さっそく、一讀し、いささか、「人民の友」のに はない。どうやらわたしは心ひそかに、なにより認識を重し、實おいがするとはいえ、著者の政治的實踐にたいしては心から敬意を しかし、月見草が険いていたり、赤トンポがスイス 踐などくそをくらえと考えていたらしいのだ。もっとも、「怪猫有表したが、 馬御殿」や「十代の誘惑」の一件は、いくらか輕擧妄動の感がないイとんでいたり、役場のテラスからながめる海が紺碧だったりする この大將は、日ごろ、皮肉 ではなく、わたしは、人影もまばらな寒むざむとした映畫館の椅子箇所にぶつつかるたびごとに、ヘッ の上で、かってのわたしの認識第一主義に、若干、ノスタルジアの屋のような顔つきをしているが、いまだに短歌的抒情を淸算しきっ ていないじゃないか、愛される共産黨もけっこうだが、これではま 猫ようなものをおぼえないわけにはいかなかった。これに反して、 ことに「トルクシプ」るでヨダレくりみたいにみえるじゃないか、とーーーいや、現在、わ 「トルクシプ」と「ルイジアナ物語」は、 い たしの雎一の好敵手だとおもっている人物の勞作に、あんまりケチ 笑は、たしかにポール・ローサが、「ドキメンタリー・フィルム のなかでロをきわめて褒めあげているだけのことはあり、四半世紀をつけるのはやめよう。しかし、とにかく、わたしが、かれの藝術 も前につくられたサイレント映畫が、いまもなお、これほどの迫力的實踐にたいして、かれの政治的實踐にたいするほど、敬意を感じ をもっているのは、まことにおどろくべきことだとおもった。こちなかったのは事實である。わたしは、日本の記録文學の傳統をふり 笑い猫
れ利用されたに過ぎなかったのに對して、芭蕉においては單にそれ 修羅の太鼓やつらき新町 に止まらず、それへの追慕の形となったことは注意されなくてはな らない。かくて、天和の「虚栗」になれば、この傾向は一層強くな 此頻は寢ても覺ても空をみる 、李社や莊子を媒介として西行など中世詩境への關心も深まり、 出雲千俵賣ってのけうか などと比べる時、このことは、はっきりする。もとより、これは相扶けて芭蕉のなかに一種の観念世界が成立しつつあったと見るこ とができる。 「大矢數」の一部であり、興味の中心は速吟にあるので、それとこ よく引用される「虚栗」の跋は、むろん題材の擴大、俳諧領域の れとを直ちに比較するのは無理があるが、それにしても西鶴の取り 擴張の誇示ではあるが、他面、單に題材に止まらず、これらを包括 あげているのは、決して雰圍氣に止まらず、遊蕩、色戀、夜逃げ、 、投機等、町人社會の現實の諸々相そのものである。事實する觀念世界が芭蕉において成立したことを見のがすことはできな を事實としてそのまま投げ出している。芭蕉は町人的現實を取りあい。「東日記」に見える「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」は、こ げても、古典との關連に於て、つねにそれを情趣化して提出してい の顳念世界の所産である。後年、「烏のとまりけり」と改めたのは、 この觀念世界が欟照による現實的地盤の獲得によってはじめて成さ る。一方は情趣であり、一方は事寳そのものである。一方はあくま れたものであった。 でも言葉の間題であり、一方は人間生活そのものが問題になってい ところで、芭蕉における念世界は、そこにそのままの形で安住 る。したがって、芭蕉が言葉の制約のなかに變化と調和を樂しむ俳 諧形式の一筋につながったのに、西鶴が二句間の間隙を現實で埋めすることを許さなかった。やがて自らのうちに成立した念世界と つくして、やがて散文形式に立ち向ったのは必然の成行きといわね自己の現實生活との對決が要求されることとなり、それによって彼 ばならない。所詮俳諧形式によっては、現實の斷片的取上げは可能の觀念世界は生活體驗によって獲得された現實的地盤への降下が企 としても、藝術的彫琢の餘地はなく、ましてや現實の全般的追求なてられるに至ったのである。この過程に禪的自照も參加したことは どはなし得るところではない。これを志した西鶴がついに散文形式いうまでもない。 に赴いたのは當然であり、これに反して最後まで俳諧形式を捨てえ 佗びてすめ月佗齋が奈良茶歌 ( 武藏曲 ) なかった芭蕉が、その藝術的完成を願うかぎり、現實そのものの取 芭蕉野分して盥に雨を聞く夜哉 ( 同 ) 上げや追求の方向に進もうとしなかったことは、これまた當然の成 の聲波を打って腸氷る夜や涙 ( 同 ) 行きであった。ここで芭蕉に殘された道は、俳諧形式をひっさげ 氷苦く偃鼠が咽をうるほせり ( 虚栗 ) などの制作は如上の消息を語るものである。ここに芭蕉の観念世界 て、いかに自己表現の課題を果すかという問題である。 は肉體的地盤を獲得して新しい展開を示したのである。 かくて芭蕉にとって俳諧は自己の表白であり、自己の刻印でなけ 蕉延寶八年の「田舍の句合」、「常盤屋の句合」及び翌年の「俳諧 韻」の頃から唐宋詩文や莊子への追慕が見えて來たことは周知のとればならなかったのである。 しかし、この觀念世界を肉體化する地盤が、到底當時の生ける現 おりである。談林にあっては、これら唐宋詩文なり莊子なりが自己 5 9 の制作をより新奇に、より異風に仕立てるための衣裳として取り入實たる町人瓧會に求められよう筈はなかった。ここに、町人瓧會に
國の力をいくらかでも弱めることであり、米國の力がいくらかでも において比較し得るものであった。その軍隊の規律と道義的高さ、 2 また民衆の支持・反撥の感情は、量において比較し難いものであっ弱まれば、敵味方のカ關係は、敵に有利、味方に不利、とりもなお さず日本にとって不利とならなければならない。すなわち自主獨立 た。量において比較し得るものだけを比較して天下の形勢を考える は、安保條約の禪聖な目的そのものに反するのである。爭い〈參加 思考上の習慣は、内戦の結着についての判斷を、大いに誤らせたと するときには、第一に、爭いの目的そのものを問う自主的判斷を捨 いうことができるだろう。 冷戦參加主義は、状況判斷の現實主義の放集である。爭いの渦中てなければならない。第二に、爭いの方法を撰ぶ自主的判斷も制限 に身を投じれば、ものの考え方が、非現實的になる傾向を避け難しなければならない。 ( 指揮者に、同盟國がいくさの方法に關する い。逆に爭いへ參加することを拒絶すれば、ものの考え方がより現意見を述べることはできるかもしれない。しかし同じ陣營内で方法 實的になる道がひらける。中立主義は、國際情勢の現實的な判斷を上の意見のくいちがいがあまりに多ければ、爭いにおいて味方を不 利にするだろう。 ) 「冷戦」參加主義と、自主獨立は折り合わない。 可能にする第一歩である。 しかし中立主義は、妝況の判斷における現實主義の前提であるに自主獨立は、「冷戦」に對する中立を前提として、はじめて具體的 になるのである。 とどまらない。また一國の自主獨立の前提でもある。「冷戦」の二 大陣營が、指導國と同盟國とから成ることは、軍隊が指揮官と兵卒「冷戦」の現實を前提として、中立主義は、第一に妝況の判斷に關 して、現實主義の基礎であり、第二に、一國の國際的立場に關し から成るのに似ている。戰鬪中の軍隊において、兵卒の自主獨立に ついて語るのは、意味をなさない。同様に「冷戰」の前提をそのまて、自主獨立の條件である。 ( もちろんこの意味での中立主義には程度の ま受け入れて、爭いに參加する以上、指導國に從わないのは、すじ差があるから、もっと正確にいえば、對立する二つの陣營との關係におい が通らない。指導國に從うのは、自主獨立ではなくて、忠誠從順で て、一國が中立主義的であればあるほど、その國の状況判斷の現實的である ある。忠誠從順が自發的であるということはできるが、自發的に國確率が大きく、またその國の立場がいよいよ自主的になる場合が多い、とい 難に赴いた兵卒が、軍隊のなかで、自主獨立だということはできなうことである。 ) しかし「冷戦」の現實は、動かない前提ではない。それは國際情 い。「米國の指導する陣營に參加した以上、米國の利益はわが身の 利益、米國のすることが正しいとか正しくないとかいってもはじま勢の全體と共に變化する。緊張は一般に增すこともあり、緩和する こともある。またその緊張關係は、世界中のどこでも同様に消長す らない」という輻田恆存氏の議論は、「冷戦」の理想的な兵卒とし るのではなく、地域によって多かれ少なかれちがう。ことに後者の てすじの通った言分である。しかしたとえば「日米對等の安保條約 をもととして、自主獨立の外交を進める」といった岸信介氏の議論場合には、地域の情勢に密接な小國が「冷戦」の消長にあたえる影 響は大きいだろう。「冷戦」の現實は、それ自身動く現實であるば は、おかしい。安保條約は本來、「カの眞空」にしのびこもうと、 かりでなく、また小國の立場からみても動かすことのできる現實で 手ぐすねひいて待つ「共産圈」に對抗するための御聖な國際協定で ある。そこで一般に、「冷戦」の現實の動かぬ面、動かすことので あるはずだろう。そのおそるべき「共産圈」を防ぐ力の中心は、い きぬ面、ーーーそれはたしかにあるーーを強調し、その前提のもと うまでもなく米國である。日本の外交が、その米國の線に副わず、 自主獨立と稱して米國の線から少しでもはずれるならば、それは米で、一方の陣營に參加しながら、軍事同盟によって自國の安全を計
の小説全部が自分をモデルにしたものと世間から推量されてもやむ條的に事實と事實ならざることとを區別しているが、自分の出發の ときは稀に見る好天氣だったのに、小説ではさびしい秋雨がふって をえないと思ったからだ。はたして妻の里方からは、「不穩の一一一口語」 いるとか、傳吉は着なれない洋服をはじめて着たとあるが、自分は をつらねた手紙さえくる始末だったという。なお柳澤淸乃のモデル は、小説に描かれているように、ロンドンから同船した婦人で、同洋服などは常用していたとか、傅吉は汽車も一二等に乘っているが、 自分はむろん二等であり、一等のなかったのが殘念だったとか、自 鄕のゆえもあって親しくしていたが、東京まで同道して別れたまま はた である。この小説が出てからは、家庭の平和のために、彼女とも絶分の母は自分が覺えてからは機を織ったことはないとか、おろかし いことを綿々と書き綴っているからである。それに、かんじんの四 交しているという。藤村に直接抗議すると、「あの傅吉は僕で、お ちぎ 初は僕の妻で、實際あの通りであった。しかも僕の家内と昔契りし角關係の間題にしても、柳澤淸乃のモデルは、哩霞が歸國の船で知 り合った婦人だったというような暗合もあり、これに近い事實はあ 直衞といふ男にやった手紙は一句も添へず、一句も削らずだった ったものと臆測されたのも不利を招いた原因のひとつだったにちが よ。」と語ったとある。そこで、晩霞はつづけるーー「藤村といふ ぎんげ 男は實に人の惡い男だ。自分の實歴を懴悔するのに、塗りつける人いない。 もあらうに、親しい友人、しかも無邪氣なる畫家になすり附けると 當時の新聞・雜誌に、モデル問題が一齊にとりあげられたが、 は、如何にも邪見の男だとっくづく君の顔を見た。又思ふのに、自 然派の小説家というものは、或人をモデルとして、その人の皮相ば『新小説』『萬朝報』のほかは、作品に對して、モデルが不滿をいう かりを寫して、その人の自然の性情等を寫さないで、自分の經歴をすじあいはないという意見が壓倒的だった。『新小説』十月號では、 そのモデルに添加するものであるか、果してそれが自然派の立場と後藤宙外が、『自然派とモデル』と題して、事實と小説の問題を文 さたん 藝對道德の問題に轉化し、強く自然主義を非難して、道徳に左袒し すれば、自然派小説家程の世に惡人なるはなし : : : 」 それにしても、藤村の眞情は不可解だった。晩霞は書いている。 ているが、「作家としての大成功も人間として非常に失ふ所があっ 藤村の語ったところが眞實とすれば、「實に小説家的好經歴を以てたら甚だくだらぬ事になる。」・というような、論旨粗大、思考も卑 俗をまぬがれていない。わずかに『萬朝報』の、「事實相違の爲に、 居る君であるから、無邪氣なる畫家等を引張り出さないで、傅吉だ モデル其人が受くる個人的又は會的の苦痛に對して作者が平然た のお初等と言はないで、自分が主人公となって、僕がとか余が妻と かいうて書く筈である。これを書く位に躊躇する君では無い。これるべき理なし。此の點德義上の問題たると共に、更に作家は何故に を書く位の勇氣は必ずもって居る。さうすれば矢張り余の推量通事實の相違を敢てせしやとの問を解決するを要す。」という批判ぐ り、他にあんなモデルがあったのであらう。あれは藤村君自身の經らいが正論というべきであろう。わけても、『水彩畫家』の事件は、 村 藤歴でない事は今も信じて居る。それから音樂師柳澤淸乃のモデルも『並木』の事實相違などとは、とうてい同一視することのできない 君が音樂學校に這入って居ったとき、自ら經歴のあった女だといふ深刻な問題を藏している。 島 事を他の人より聞いた。これも余は虚言だらうと信ずるのである。」 『二六新報』は、『小説の材料』という標題で、近來小説家が自分 の經驗を書いたり、友人をモデルに使うことが流行するが、一般の 晩霞のこの抗議は、一般に不評であり、かえって不利そもあっ た。なぜなら、以上のほかに、『並木』に對する孤蝶と同じく、逐傾向として、經驗し感じたことを精細深刻に描くようになったの