志賀直哉 - みる会図書館


検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 104 唐木順三 臼井吉見 花田淸輝 寺田透 加藤周一集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 104 唐木順三 臼井吉見 花田淸輝 寺田透 加藤周一集

なものでした。わがまま放題の生き方ということが、志賀直哉の場 母がいると加えたいのだ。もう書けない。明治四十年八月三十日、 合は、自己の忠實な生き方ということとすつぼり重なってくるわけ お午前何時だかの時刻を書きつけて、この作品は終わっているので す。ところで、讀者は讀み終えて、この順吉という主人公は、反抗です。 ところで、自己に忠實ということは、つまりは、自分の感受性を を貫ぬき、父親から廢嫡されても屈することなく、ついに千代との 結婚にまでこぎつけたのだろうと、思わない者はあるまいと思いま信じ、それにどこまでも執するということです。志賀直哉は、おそ らく、自分の感受性というものを疑ったことはないだろうと思いま す。 ところがそうではないのです。これは明治四十年八月起こった事す。自分が耳に聞いて不愉快なものは、結局はだめなものであり、 件を大正元年八月に書いているわけで、その間に五「年という歳月自分が目で見、からだで觸って不快なものは、やはりだめで、間違 っていると信じて疑わなかった人だろうと思います。「暗夜行路」 が經過していて、事件の一切はとっくに片がついている。作品にと りかかったとき、作者にはすべてわかっているわけです。念のたの中に、主人公の謙作のことばとして、自分には何もかも好き、き め、志賀直哉の日記を開いてみると、千代に對する愛情、それを阻らいの感情として來てこまる、しかもそれが善悪の觀念と結びつい て、たいてい誤らない、という有名な一節がある。これは謙作の感 ばまれた惱みなどは書かれていない。しまいには、身分の違いにい や氣がさして、いつのまにか興ざめしてしまう。相手の女性のほう想として語られているが、志賀直哉の人生と文學とを貫ぬく信條と 、む見ていいでしよう。そんなわけで、自分の感受性を信じ、それに賴 は本氣にし、賴りにもしているらしいのに、いつのまにやら . って生きぬく。その經過報告が、その文學であるといえるかと思う も何もなくなってしまう。相手のことなど、氣にもとめていない。 のです。 日記には、それがはっきり出ています。 ところで、志賀直哉の日記というのが變っている。繪の展覽會を 明治四十年八月三十日の午前何時だかには、千代に對する順吉の 愛情は、ほんとだ 0 たでしよう。だが、そのあとは書かれていな見に行く。どうも、その繪が不愉快だ。芝居を見に行く。俳優の誰 それのしぐきがいやだ。友人のだれそれと議論した。どうも、相手 い。私小説にはちがいないが、この ~ んのところは、通り一ペんの 私小説とはちがっています。反抗の對象があると、緊張しないわけの考え方が不愉快だ。そんなわけで、何を見、何にふれ、何を聞い にはいかない。生活における緊張のほかには、描くに足るものはなても、たいていは不愴快で、氣にかかって、いやだと思う。ごくた いという考え、これが志賀直哉の文學の根本の一つにはちがいないまに愉快を感ずる。その日記によれば、接するものことごとくを愉 と思います。理由は何であろうと、自分の生活における緊張は表現快と不愉快とにふり分けてうけとっていることがわかる。あくまで するだけのねうちがあるという考え、この緊張の根源としての反自分の感受性にすがって、ふれるものすべてを愉快と不愴快とにふ り分け、愉快を與えるものを採り、不愉快にさせられるものを拒否 抗、それに支えられた、無類のわがままな生き方、これは表現に値 する。それが志賀直哉の生きかたにほかならない。そして、自分の するという考えです。 わがままな生き方ということは、志賀直哉にとっては、自己に忠感受性そのものは疑ったことがない。 志賀直哉の文字どおりの處女作は「ある朝」という短編です。仲 實ということにほかならない。自己に忠實ということは、大正時代 の文學にとっては、切 0 ても切り離せられない、合いことばみたい間の回覽雜誌の「望野」に載せたもの。靑年が主人公ですが、實際

2. 日本現代文學全集・講談社版 104 唐木順三 臼井吉見 花田淸輝 寺田透 加藤周一集

る。志賀さんは、あまり本など讀まないひとと思っていたので、こ た友情」というのを書いた。なぜ絶交したかを書いている。 絶交して四十年たっているのに、どうしても書かずにおれないとれは驚きました。とにかく以上の四つの面が日記を通して見た志賀 して書いているわけです。何か損害を受けたとか、それでは、どん直哉の靑春の姿のように思います。その四つの面からみて、いずれ もわがままいつばい、自信に充ち充ちた生きかたをうかがうことが なに深く裏切られたか、どんなひどい目にあわされたか、そんなこ できるように思います。その遊蕩ぶりに見られるデカダンスにして とは何ひとっ描かれているわけではない。要するに、友人のものの 考え方が俗つぼくなってとてもたまらない。さっきの愉快と不愉も、たとえば里見弴のそれとは、まるでちがっています。里見弴に 「君と私と」という初期の長編がありますが、その「君」というの 快、その不愉快ということになって、そして絶交してしまう。どこ までも一方的です。相手の言いぶんなど聞こうともしない。道德とは志賀直哉をさしているのですが、一絡に吉原へ行って遊蕩してい いうものは、いうまでもなく、相互の關係からきまってくるものでるようなところも出てきます。が、同じ題材、同じ情景でも、「暗 す。友人のやること、なすこと、考えかたが、だんだん俗つぼくな夜行路」の前編に描かれているのと比べると、里見弴のそれとはま るで質のちがっていることがわかります。志賀直哉において、デカ って、とてもたまらない。絶交する。絶交して四十年たっても、ま だたまらない。とうとう書いてしまった。この作品は、そういうもダンスがどういう意味をもっているか、里見弴のそれとくらべると のです。 はっきりします。志賀直哉は、デカダンスを、彼なりにくぐること によって、「暗夜行路」の前編というものが生れたことがわかりま 志賀直哉の文學の美しさというものは、こういう緊張だといってす。 明治四十五年三月八日の日記には、「自分は自分を眞から愛する いいでしよう。現代人から失われてしまった、原始人のような緊張 ようになった」なんて、とんでもないことが書かれている。自分の が、志賀直哉の文學の魅力だと思います。しかし一方には、相手の ことは考えない。相手にはどんな事情があるのか、考えようともし顔ほど美しい顏はないなどということも書かれている。自分は自分 ない。志賀文學の本領には、そういう根本的な缺陷を蔵していまの愛すべきところ、美しいところ、偉いところを一生涯かかって掘 す。 り出さなくてはならない、なんて書いています。同じく明治四十五 日記のことにもう一ペん戻ると、志賀直哉の靑春日記というもの年三月十三日には、何々でなければならない、という考えは大きら いだ、そういう固定した宗敎、固定した道德、固定した主義、固定 は、さっきも言ったように、觸れるものことごとくを快と不快とに えり分けて、愴快だけを食って生きているようなものですが、だいした主張というものを、自分はきらいだ。固定した道德、宗敎、主 たい、四つの面が出ています。一つは、しきりに友人と會って議論義、主張なんていうものは、自分は好きになれない。自分はす・ヘて のものから自由でありたい、自分の自由を得るためには、他人の自 する。藝術とか、宗敎とか、人生とかの間題について議論する。二 つは、美術展覽會、音樂會、芝居、寄席にさかんに出かける。三つ由は顧みまい。自分の自由を得るためには、他人の自由を奪重する には、さかんに藝者遊びをやる。吉原がおもですが、よくもあんなけれども、二つが矛盾するときには、他人の自由を壓しようと思う にと思うほど、しげしげと吉原通いをしている。四つには讀書でとも書いている。こういうエゴイズムの全體的な受け人れーーーここ でトルストイとは、まったく逆になります。 す。丸善へ外國の本を注文して、相當のスピードで讀みあげてい

3. 日本現代文學全集・講談社版 104 唐木順三 臼井吉見 花田淸輝 寺田透 加藤周一集

とえば、トルストイとはちがう。ちがったって、かまわないが、と 本の國家の組織との關係、さらに國民生活との關係、そういうもの 6 紹の中に、作者の關心が人りこんで行くはずのものですが、この作者にかくちがう。トルストイはどんなに名聲と地位が高くなり、どん なに物質的に惠まれても、自分の思想に追っ立てられて、ついには の場合、そういうことにはならない。現に自分の目に見ないもの は、かまわないということになるわけです。だから、志賀直哉の文家出をして、のたれ死に同様な生涯を閉じるわけでしよう。年をと 學は、本質的に肉體の文學、靑春文學といっていいかと思います。 ればとるほど、煮詰まってくをのが思想というものの本體です。年 をとればとるほど、うっすらして、水つ。ほくなって、しまいには、 自分の周圍に自分のわがままを通せないような條件が存在すれば、 忽ちこれと對立し、緊張し、負けてたまるものかということにな朝顔でも眺めて樂しむてのは、これは思想とは關係がない。思想と る。 いうのは、年をとればとるほど煮詰まってきて、二十四時間本人を それは、感受性の世界だけの緊張であって、それが思想としてか規定してやまないものです。そういう作家とは、およそ縁のないの が志賀直哉ということになります。 かわってくるのではないのだから、肉體的のものと考えていいでし こういう點で武者小路とどうつながるか、さらに、たとえば、瀬 よう。だんだん社會的な地位が高まり、年もとって、自分の周圍に 自分をいらいらさせるような條件がなくなってくる。崇拜者にかこ沼さんの話された有島武郎という作家とは、どこが異質で、どこが まれて、對立者がいなくなる。そうなると、彼を刺激し、彼を緊張どうつながるか、そんな點について考えてみれば、白樺派というも させるものはなくなってくる。それは、とりもなおさず、彼の文學のについて、興味と理解を深めることができると思います。 ( 昭和三十九年七月 ) の枯渇を意味します。 そこへいくと、武者小路は感受性に生きる作家ではなく、むしろ 夢想的な詩人だから、戦後、高齡になっても、創作力は衰えを見せ ず、「眞理先生」とか、「馬鹿一」とか、溢れるような大作を見せて います。志賀直哉の場合、自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の からだで觸れた限りにおいて、不自然なもの、不愉快なもの、醜悪 なものの存在をゆるさない。だが、不自然なもの、不合理なもの、 なんとも話にならないひどいものが、いよいよ增大しつつある現代 なのに、それらは、志賀直哉の感受性には訴えるところがないらし い。ここに志賀直哉の文學の驚くべき性格が、はっきりしてくるよ うに思います。一方に、そういう不具性がある代りに、一方では質 的に充實した緊張と美しさがあるということになりましよう。 さびしいことですが、志賀直哉の文學は、本質的に肉體の文學、 靑春の文學であって、年を加えれば加えるほど、大きさなり、深さ なりを加える文學とはちがうということです。そういう意味で、た

4. 日本現代文學全集・講談社版 104 唐木順三 臼井吉見 花田淸輝 寺田透 加藤周一集

は明治四十一年一月十一二日の朝の志賀直哉自身のスケッチといってとすれば、打ちのめされないわけにはいかない。この苦しみに堪え いいでしよう。祖父の三周忌の法事というので、七十三歳の祖母はること、そこから立ちあがることは容易なことではない。こうい 緊張して、萬事宰領している。靑年は、昨夜おそくまで小説を讀んう、生涯にわたって、苦しみこだわらざるをえない條件を設定し て、そのまわりに、作者半生の愴快と不偸快をことごとくつなぎと でいたので、なかなか起きられない。それが祖母の勘にさわってい める。そうなると、志賀直哉に於ける愉快、不愉快の總決算という ることがわかる。そうなると、意地にも起きてやるものかと思う。 かたちになる。「暗夜行路」がリアリティーのある長編傑作になり そんなことがあってーー結局はちょっとしたことばの上のきっかけ で仲直りができ、すなおに起きて、祖母の夜具なども片づけて、涙えたゆえんです。 ところで、「暗夜行路」ですが、主人公の時任謙作のほかに、い を流す。そこで、この小説は終っています。對立が解消されて、調 ろんな人間が出てきますが、獨立した人間は、謙作ひとりといって 和が成立する。その經過報告が、志賀直哉の文學ということにな る。 いいかと思います。謙作以外に獨立した人間が出てこない。出てこ 「ある朝」の對立などは、わけもなく調和に逹する。だから短編にないわけです。謙作以外の人間は、すべて謙作に偸快を與えるか、 まとまるわけです。 不愉快を與えるか、その面だけしか描かれていないのです。一個の ところが對立の條件が根強く、複雜ということになると、調和な人間が、その全人格をひっさげて、謙作に對抗する、そういう存在 、和解なりに到逹するには、たつぶり時間がかかる。長時間にわとして描かれていない。つまり、一個の獨立した人間として描かれ たって對立がつづく。そこで、「和解」というような中編になるわていない。あれだけの長編でありながら、謙作というわがままきわ まる、強烈な感受性に生きる一人の主人公だけが描かれていて、ほ けです。對立の根が深ければ深いほど長編になる。とにかく、仲間 の回覽雜誌に出した、「ある朝」が、この作家の生涯の文學の性格かに獨立人間は出てこない。小説というものは、 < という人間と、 という人間とが面と向かって立つ。兩者の間に緊張感が生れる。 をはっきり示している。ここに志賀直哉という強烈な個性的表現が あると思うのです。「和解」などは、父との間に、根強い對立とい愛情の場合もあれば、憎惡の場合もある。その人間と人間との關係 を通して、人間存在の眞實を追求し、表現するのが小説というもの うものがあって、たつぶり時間をかけて和解に到達する。だから、 でしよう。對抗する人間が出てこなくては、結局は主人公だけの心 かなり大きな作品になるわけです。 「暗夜行路」の場合はどうか ? 結婚問題は、「和解」で書き、「大境小説めいたものにならざるをえない。心境小説も、無論結構です が、それは小説の一番のおもしろさを捨てた特殊な小説といってい 津順吉」で書いてしまった。すれば、「暗夜行路」が長編になるた いかと思います。 めには、根の深い對立の條件がなくてはならないことになる。そこ こういう性格が擴大された作品ということになると、戰後の「蝕 直で、フィクショナルに、時任謙作の出生の祕密ーー父親が外國へ行 まれた友情」でしよう。モデルは有島生馬です。讀めばだれにでも っている留守中、母親と祖父とのあやまちから生れたという、ショ 志 ッキングな條件を設定して、深く根をおろしたわけです。結婚問題わかります。有島生馬という人は、白樺の古い同人の一人で、志賀 なら自分が責任を負えるわけですが、出生は本人が責任を負うわけ直哉にとっては武者小路とともに一番古くからの友人です。ところ が、ある時期に絶交した。絶交してから四十年目に、この「蝕まれ にはいかない。こういう自分の出生の祕密が、ある時期にわかった

5. 日本現代文學全集・講談社版 104 唐木順三 臼井吉見 花田淸輝 寺田透 加藤周一集

唐木順三日井吉見 花田淸輝寺田透集目次 加藤周一 卷頭寫眞 唐木順三集 無用者の系譜 蒹好・ 世阿彌 梅宮覺書・ 北村透谷・ 鴎外と漱石・ 人間と自然への共感・ 日井吉見集 芭蕉覺え書・ 短歌への訣別 島崎藤村 「新しき村」と「共生農園」 : 志賀直哉・ 川端康威 : 太宰治・ エジプトにて : 戰歿者追悼式の表情

6. 日本現代文學全集・講談社版 104 唐木順三 臼井吉見 花田淸輝 寺田透 加藤周一集

は、獨歩と結婚して五カ月で失踪した佐々城信子がモデルであるこ とは周知である。ほかに内村鑑三を思わせる内田、作者自身らしい 古藤というような人物も登場する。しかし、作者は、モデルの興味 などにひかれているのではなく、キリスト敎を捨てた作者の深い虚 無感が、この作品の内的動機になっているのである。モデル小説で ありながら、いわゆるモデル小説を脱して、本格的な名作たりえた 根本は、ここにあるのである。 これらの作品群は、白樺派がその成熟期を迎えたことを語ってい る。わけぞも、「友情」、「人間萬歳」、「和解」、「暗夜行路」、「竹澤 志賀直哉の「大津順吉」は大正元年の八月の作ですが、作者自身 先生と云ふ人」、「多情佛心」、「或る女」は、それぞれの作家の代表の戀愛、自家の女中に對する戀愛が題材になっています。題材に部 作であるばかりでなく、大正の代表作でもある。 ( なお白樺派の周していうと、明治四十年の夏、作者は二十四歳の靑年ですが、「色 邊にいた野上彌生子には、「海丸」 ( 十一年十月 ) 、中條百合子に の薄黒い、十七、八の女中」の千代に愛情を感じて結婚しようとす は、「伸子」 ( 十三年九月ー十五年九月 ) の代表作がある。 ) そして、こ るわけです。ところが、周圍がことごとく反對する。その急先鋒 のことは、大正五、六年ころが、鸛外、漱石、荷風、藤村、花袋、 が、前からいろんなことで考えの合わない父親です。それに對抗し 秋聲、白鳥、泡鳴、秋江ら、明治の作家の完成期であぢ〕たのに對て、徹頭徹尾わがままを通して、千代と結婚しようという態度を貫 し、それにつづく數年間が、早くも、大正の主流とみるべき白樺派ぬくというのが、この作の骨子といっていいでしよう。 の成熟期にあたるわけである。鷓外、漱石、藤村、花袋らが、長い こういう一本氣な生きかたが讀者の心を打たずにはおかない。し 作家經歴を通じて、作風に幾變轉を見せてきたのにくらべると、白かし、そういう一本氣な生きかたが見事に表現されていればいるほ 樺派の作家たちが、同人雜誌の習作時代において、早くも、生涯を ど、その裏づけになる千代に對する愛情が、一向描かれていないと 通じて變らない個性的表現を示したことは、すでに見てきたとおり は言わないけれども、うっすらとしか描かれていない。周圍が反對 である。このことは、一般に、大正の作家が、明治の作家にくらするので、やみくも、これに對抗はするけれど、肝心の戀愛そのも べ、さらに昭和の作家にくらべて個性の自覺と、その表現におい のは、さつばり描かれていない。まことにふしぎな作品です。 て、自由、かっ容易であったといえるのではなかろうか。これは、 ともかく、自分のわがままをおし通して、一、本氣の反抗に生きる ところに、この作品の緊張した美しさが表現されていることは、ま 明治の作家たちの困難な摸索によって、近代文學の観念と手法が明 直らかにされたこと、外國文學との直接の接觸が容易になったこと、 ちがいなく、だからこそ 1 作品の結末は、周圍に對する反抗の頂點 世界大戦の終結によるデモクラシーの思潮が、文學者の精訷を解放がえらばれています。。ハリに行っている友人の畫家に手紙を書く。 する上に役立ったことなどによるものであろうか。 その手紙で、この作品は結ばれています。手紙の終わりに、父はぼ ( 昭和三十四年四月 ) くを廢嫡するとも、結婚は許さないそうだ。ぼくはこんな人たちと 3 1 は暮らせない。だが、ぼくには君と重見と千代がいる。もう一人祖 志賀直哉 せもぼう

7. 日本現代文學全集・講談社版 104 唐木順三 臼井吉見 花田淸輝 寺田透 加藤周一集

こういう點で、きようはお話できませんけれども、武者小路とっ感受性でとらえたものがかんじんで、知的な理性を加えたり、まし て思想などで照らし出したりするようなことはしてならないという ながってきます。エゴイズムの全的肯定。つまり、自然主義とまっ たくちがってきます。自然主義は、あのくらいしつつこくエゴイズわけ。俳句という抒情詩の純粹性を守ろうというのです。 ムというものを取り出して見せました。別のやりかたで、漱石もエ 志賀直哉は俳人でもなければ、歌人でもない。小説家でありなが ゴイズムを追いつめて見せました。武者小路にしろ、志賀直哉にし ら、その方法となると、徹底的に思想を追放する。そういう意味で ろ、漱石の文學を尊敬しながら、彼らはエゴイズムを、そっくり受肉體的な作家であるということが言えると思います。谷崎潤一郎と け人れ肯定する。こういう徹底的な人間肯定が、白樺派の特色の一 は、まさに逆です。谷崎潤一郞は、ある思想を通して、人間を見つ つであることはいうまでもありません。 づけてきた作家です。 ある小さな作品の中に、こういう一節がある。「何という山だか 大正八年の作品に「十一月三日午後のこと」という短編がありま 知らないが、白い雲と黒い雲が渦を卷きながら、その高い頂を越しす。だいたい、「十一月三日午後のこと」とは何ですか。なるほど、 ていた。」何でもない自然描寫ですが、戰後、中村眞一郞氏との對 これは大正八年十一月三日午後の日記と思えばいい。千葉縣の我孫 談で、この作品を書いたときは、この山の名を知っていたが、その子時代の作者のその日の午後の見聞が書かれています。友人が訪ね ときには知らなかったから、何という山だか知らないが、と書いたて來たので、鴨でもご馳走しようというわけで、知り合いの獵師の と語っている。 ところまで、散歩がてらに出かけていく。あたかも、大演習が行な それから、「暗夜行路」の尾道の場面で、家を借りようと貸し家われていて、歩兵の斥候の一團が、へとへとになって通りかかる。 を見に行くところがあります。ェビのような背をした、こおろぎの死の一歩手前といっていいほど、疲れはてて、なかには、そのま ような虫が、はねていた、というようなところがある。世の中にま、倒れてしまうものもある。それを見てこれは無知からくる、明 は、おせつかいな人がいるものらしく、手紙をよこして、あれは らかに無知からくると作者は興奮する。そして、せつかく手に入れ 「いとど」という名の虫だと敎えてくれたという。そんな名は知った鴨を食う氣にならないで、隣家へやってしまうというようなとこ ているけれども、はじめて行ったそのときには知らなかった。そしろで結ばれているのです。これは作者の感受性が直接にとらえた日 て、「エビのような背をした、こおろぎのような虫」と思ったから、本陸軍が、いかに無知で、いかに非人間的であるかにただならぬ興 そのように書いたのだと語っています。 奮を覺えるのですが、しかしそれは自分たちの食うつもりの鴨を隣 これはおもしろいことだと思います。「あかさうし」という本にのうちへやってしまうことで濟んでしまっているわけです。 作者の氣持はそれで濟んだかも知れないが、日本の陸軍にとっ 哉芭蕉のことばとして、「ものの見えたる光、まだ心に消えざるうち 直に言ひ留むべし」というのが出ています。さらに、「飛花落葉の散て、そんなことは、何のかかわりもない。日本陸軍はいよいよ大き り亂るるも、その中にして見留め、聞きとめざれば、おさまること くなるばかり。しかし、作者は、その十一月三日午後以外は、日本 志 なし」ともあります。感受性でうけとめたものを大事にして、あと陸軍に格別の關心はない。ほんとだったら、その興奮がきっかけに 新からこれに加工してはならないというのです。要するに思想の排除なって、當時の陸軍というものの組織の中に、どんどん人りこんで です。思想を排除して感受性だけにすがるという考えです。自分の いかなくてはならぬはずのものでしよう。當時の陸軍の組織と、日

8. 日本現代文學全集・講談社版 104 唐木順三 臼井吉見 花田淸輝 寺田透 加藤周一集

を連載。十二月、展望欄に、三代文豪展覽筑摩書房より、十月、「言語生活」を創刊。像」創作月評。 會にふれ、明治の文學者の西洋との格鬪、 十一月、筑摩書房より、マークゲインの昭和二十九年 ( 一九五四 ) 五十歳 骨をかむ孤獨と不安について執筆。 『ニッポン日記』刊行。 一月より、昭和三十二年十二月まで、「文 昭和一一十六年 ( 一九五一 ) 四十七蔵 昭和二十七年 ( 一九五二 ) 四十八歳 學界」に四十回にわたって、「近代文學論 この年より、展望欄に、中野好夫・竹内一月、「毎日新聞ーに「文壇の新人たち【 爭」を連載。 ( のち、「逍鷓論爭」から、十四回 好・加藤周一・伊藤整・日高六郞らも參加 ( 8 日 ) を發表、一月より十二月まで、「群目の「形式主義文學論爭」までが單行本にまと する。一月、「展望」に大岡昇平の「野火」像」のウェザーコック欄に毎月寄稿 ( 實驗められた ) 。四月、「官僚」を「中央公論」 の連載がはじまる。二月、「展望」に、俳 小説・アンガージ、ーの文學・ジャンルの交替・に、「文藝時評」を「朝日新聞」に ( 七月ま 優座の松本克平らの集團脱黨にふれた「思共犯者の文學・長編時代・國民文學・諷刺文學・ で ) 、ルポルタージュ「『戦力なき軍隊』の 想と技術」、筑摩書房の『文學講座』の『文新聞小説・ルポルタージ、文學・戦爭文學につ若者たち」を「婦人公論」に發表。七月よ 學蓮動』の卷に、「人道主義の文學運動ー白いて ) 。二月、「文學 , に、「芭蕉における り九月まで、阿部知二・佐々木基一と「群 樺派を中心として」を發表。三月、「展虚構の意味」、三月、「文學界」に、「人生非像」の創作月評に出席。「旭ヶ丘の白虎隊」 望」は、宮本百合子追悼號。四月、「展望」情の傍觀者ー武田泰淳論」、六月、「中央公を「文藝春秋」に發表。八月、ルポルター は、ジイド特集。窪川鶴玖郎との對談「主論」に「日井伐木隊長行从記」、八月、「群ジ「人權にめざめた娘たちー近江絹糸の 流派と國際派ーその戦略と文化政策」を掲像」に、座談會「國民文學の方向」に出席スト」を「婦人公論」に、「わが庭の記」 載。また、この月より十二月まで、「文 ( 伊藤整・折ロ信夫・竹内好らと ) 、「中央公を「中央公論」に、「藤村の三つの戀」を 學界」に、同人雜誌評を連載。三浦朱門 論」に、ルポルタージュ「赤い病院」を發「新潮」に發表。 武田繁太郞・曾野綾子らの作品や、濱田新表。十一月、「改造」に、「戦爭が生んだ作昭和三十年 ( 一九五五 ) 五十一歳 一・平井啓之ら「世代」の人々の評論をみ家たちー戦後作家論」を發表。 十月より三十四年十一月まで、「朝日新 とめる。五月、展望欄に、「山びこ學校」昭和二十八年 ( 一九五一一 D 四十九蔵 聞」に、「文藝時評」を執筆。筑摩版『太 を紹介、文壇小説は、おそらくこれら少年二月、「伊勢參りの子供たち」を「婦人公宰治全集』刊行。十二月、「志賀直哉の文 たちの思考とは逆な方向をたどっていると論」に、四月より十二月まで、中野好夫・ 章」を「文藝」の「志賀直哉讀本」に發 指摘。六月、「展望ーに、「『山びこ學校』訪大宅壯一と、「愴しき毒舌」の座談會を「改表。『戦後十年名作選集』 ( 光文哄七卷 ) を 年 間記」を發表。七月、「讀賣新聞ー日 ) に、 造」に連載。七月、「空虚な明るさー安岡編む。 見 「明治文學の再認識」を寄稿。八月、「人章太郞の文學」を「毎日新聞」 ( 幻日 ) に發昭和三十一年 ( 一九五六 ) 五十二歳 井 臼 一月より十二月まで、十回にわたって、河 間」終刊。九月、「展望」に、新人三浦朱表。八月、筑摩版の『現代日本文學全集』 門の「冥府山水圖ー ( 「新思潮」にのたせ「晝第一回配本 ( 島崎藤村 ) 開始、今日のレポ上徹太郎・中村光夫と合評會「現代文學の % 鬼」の改題 ) を掲載し、その號でついに休 ート「内灘」を「改造」に發表。十月より 諸表情」を「新潮」に連載。一月、「見逃せ 3 刊。しかし、「展望」にかわる雜誌として、十二月まで、中島健蔵・本多秋五と、「群ぬ作家の日記ー漱石・鸛外・直哉・茂吉・

9. 日本現代文學全集・講談社版 104 唐木順三 臼井吉見 花田淸輝 寺田透 加藤周一集

だろう。かれはひねくれる。 親不孝 銅像連動もおことわり 狹くるしい檻のやうに戸が見えた。 學校教師もおことわり フジャマは美しかったが小さかった。 むやみに喜ぶ父と母を前にして 私は心であやまった。 光太郎の有名な「鴻の巣」での耽溺生活はこういう苦しみの現れ だったのだ。 あれほど親思ひといはれた奴の頭の中に まったく行く・ヘきところが無い。 今何があるかをごぞんじない。 デカダンと人は言って興がるが 私が親不孝になることは こんな痛い良心の眼ざめを曾て知らない。 人間の名に於て己むを得ない。 遲まきの靑春がやって來て 私は一個の人間として生きようとする。 私はますます深みに落ちる。 ( 『デカダンし 一切が人間をゆるさぬこの國では、 かれはこのデカダ . ンスの中で、自分にもし「カトリックに縁があ それは反逆に外ならない。 ったら、きっとクルスにすがってゐたらう」と考える。それほどの この歌の示すところでは、光雲夫妻が、父と同じ道をえらんだ息深さを持った苦しいデカダンスからかれを救ったが、「智惠子」 子の歸國によせた「夢」は、一家の團欒であって、彫刻の新風ではであった。かの女を、「奇蹟のやうに現れた」と光太郎は言ってい る。どうしてかの女が奇蹟なのか、また光太郞のこのデカダンスが なかったようである。だが光太郞の方から見れば、一個の人間とし ての存在を主張すること以外に、新しい藝術を生む動肉はなかったいかに柔媚な江戸趣味とあらあらしい野獸性との混合、乃至ふたっ のあいだの動搖であったかを、もっと具體的に思いえがきたいひと わけである。ただこのとき、かれも、ほぼ同じ時代のもうひとりの は別の詩集『道程』でよむといい。その一篇『聲』が告げる「人工 進取的個人主義者志賀直哉と同じように、父の世代からの獨立を念 願し、それと鬪いながら、經濟的には父を支柱として、その營みを天國」と「自然」という二つの理想のかれのうちにおけるたたか い、「惡」への親炙と拒否、それを知るだけでもいいのだ。日本の 行うのである。 近代化の途上のすべてと同じように、ここでも何もかも二律背反だ 彫刻油畫詩歌文章、 ったということがよく分るからである。そこへ智惠子が現れる。こ やればやるほど臑をかじる。 ( 『デカダンし 光太郞は、明治の紳商の孫のようには置族的心情を持たなかったの女性によってかれは救われた。しかしそのためかれ「生來の離群 し、かっ兩親の方も「かういふ恩愛を私はこれからどうしよう」と性」はいよいよ深まり、「ただ二人で人に知られぬ生活を戦ひつつ、 都會のまんなかに蟄居」して「美に生きる」に至る。 「親不孝」な息子に思いなやませるていの、氣取らぬ、手放しの、 そこでは、 庶民的な愛をもって、息子に對したため、あえてこういう自嘲的詩 みんな内の世界のものばかり。 句をもらすことも出來たのだが、それだけに、志賀のようには、そ 2 檢討する 0 も内部生命 の藝術家としての獨立は、爽快眞正には行かなかったと言っていい

10. 日本現代文學全集・講談社版 104 唐木順三 臼井吉見 花田淸輝 寺田透 加藤周一集

とり、二十年間に、評論集『戦後』十二卷に集大成されるような、 もなる。子規の寫生が究極において新しい「花鳥風月」の誕生であ 多方面な良識と創見とにみちた發言がおこなわれた。たぶん頑固に 、茂吉の「生寫し」が究極において短歌の限界を越えて、散文に 自分を通して讀書や見聞によって蓄積された識見と學殖とが、鏡い赴かなければならぬ所以を指摘しながら、自己の短歌的形成のもた らす陷穽を見拔き、「民族の知性變革の問題」におよんでいる。こ ジャアナリスティックな勘とむすびついて、柔軟で、明快な論斷と なって、若々しい生命力を發揮したものと考えられる。志賀直哉にれは、もちろん、桑原の第二藝術論と共に戦後の最初の問題につい 傾注した彼が、『志賀直哉』でいったように、自己に忠實な生き方ての彼の態度であるが、すでに日本文化への廣汎な批判の基盤が彼 をもって、好き嫌いの感情が善惡の観念となったという通説 ( 彼の のうちに熟成していたことを語るに他ならぬ。ここに彼の説いたこ ここに説くところは、この通説に別の意義を發見することだが ) をとは今日では常識化していても、個々の談論に創見があり、何より 藉りれば、當代の學者や作家や評論家と接しながら、自己の鏡い感 も新しい日本の知性の形成の必要をはっきりと認めていた先見であ 受性によって、眞贋を鑑定し、これに根據のある論斷を忌憚なく下る。日井は文學者のセンスで廣汎な就會文化の評論に活動すべき素 地を初めからみせていた。 していることである。彼にも唐木とは別の意味で信州人の一轍さが 多方面な發言の根柢にどっかとすわっていると考えられる。 文藝評論家としての業績は、『近代文學論爭』上卷 ( 昭和三一・ 日井吉見の國文學的業績の一端は『歌人芭蕉の間題』 ( 昭和一一一・ 0 ) 『人間と文學」 ( 昭和三二・五 ) 『現代日本文學史』 ( 昭和三四・四、 一二・文學 ) として書かれた一文 ( 『芭蕉覺え書の一』 ) からも窺われ うち『大正文學史』 ) にしめされている。その特色は、捉われない人 る。光堂の句の解釋について諸家の見解を檢討しながら、純粹な客 門察から、手堅い實證をもって、説得的な平明な文章で、文學の 觀的寫生の句とすることからの矛盾を衝いて、俳諧とは異質な主情核心に迫り、忌憚のない批判を斷乎として下すことである。たとえ 的な感情の表白を讀みとり、その發生の根據をさぐり、歌人芭蕉を ば、島崎藤村について、「モデル問題」をめぐって、諸般の事情を 問題として提出している。この問題は、桑原武夫の『第一一藝術論」 明かにしながら、作家藤村の素質が當初から抒情詩の延長として、 による再論となり、正岡子規を初めとする近代文學の概念からする 自己告白性を祕めていた經緯を明かにし、自傳小説への轉化の必然 疑間や否定に對する抗議をふくみ、俳諧や紀行文の根據に、芭蕉に性を跡づけている。今日通説化しつ又ある問題についての早い意見 おいて主體的な活力として働いていた人間無力思想を、「内なる聲」ではあるが、なお根柢に事實と小説の間題をめぐって、論者特有の として語る仕方に着目し、獨自の解釋を加えた。元祿の芭蕉を元祿文化批判のあることが注意せられる。 の芭蕉として語る用意があるばかりではなく、ここに文學者臼井吉 日井吉見は、その後『蛙のうた』 ( 昭和四〇・四 ) に『展望』編集 見の優れた感受性と周到な批評性とが現れている。つまり單なる文長時代を回想し、大長篇『安曇野』 ( 同・六 ) に、相馬黑光夫妻、木 解獻學者でも、解釋學者でもない、こういうものを踏まえながら、そ下尚江、荻原守衞らを描いている。『戦後』十二卷に集大成される れを乘り越えた評論家の文學的情熱ともいうべきものである。 活動の僅か一端を不充分に語ったにすぎぬが、評論家としての特色 作 靑年期に短歌的抒情に沒頭した彼は、却ってその故に、戦時中のや卓れた素質は以上によって窺うことができよう。 反省として、日常生活から根本的な思想性を切り捨てる短歌に象徴 3 花田淸輝集 される日本文化の一面性を批判し、斷ちがたい『短歌への訣別』と