えを間題とするという態度、自分らの心や理智や思想ではなしに自 分らの腕前が問題だという處生態度、そして與えられた就會に生き そこで名をあげ評判をとり光りたいという生き方、公衆に新しい世 界をひらいてみせようという意志、否むしろ公衆自身をひらいてこ れを新しい世界たらしめようとする意志の缺如、在來のものへの阿 諛をある程度不可避とするその仕事の内容、これらの點は、古い型 の藝人と職人をよく似た同じ血筋の人間たらしめる要因である。 しかも、職人のある世界に藝人はいず、逆に藝人という呼び名の 僕に與えられた課題は、・「藝術家と藝人」である。しかし僕はそある世界では職人という名はもちいられないという、先の反問に頭 れを「藝術家と藝人・職人」という風に勝手にひろげて、考えてみをもたげさせた事實そのものが、「藝術家と藝人ーという課題の埓 る。 を僕にひろげさせるのである。藝人という言葉の通用する世界だけ を考えるのは、藝術の世界を在來のものに限るにせよ、その半分し なぜかというと、音樂、舞踊、演劇の世界に藝術家というものが いて、それに何等かの意味で對比される藝人というものがあるとすか考えないことであり、それでは、藝術家を十分に考える地點に立 ると、この藝人の、繪畫、彫刻、建築など造型藝術の世界におけるつわけには行かないからである。つまり畫家や彫刻家や建築家を考 慮に入れるだけの視野が持てないからである。 等價存在は、まず職人と普通呼ばれるものだろうからである。 そればかりではない。藝人の藝は、生れるそばから消えて行く作 果してそうか、われわれが普通職人と言っているものと、藝人と 品しか生まないが、職人のわざは長くのちに殘るものを生む。能役 言っているものは、そのありかたの本質において同じものか。そう いう疑問がこのふたつの言葉の語感の差異のためにただちに湧き上者の藝は、そのままの形では殘らないが、かれのつけた面は殘って るのを、われわれは今感ずる。それを精しく檢討するのはもっと先いる。江戸歌舞伎の名題役者誰彼の藝は今日見るに由ないが、寫樂 の版畫には事缺かないということがある。 の仕事なので、今は、ざっと言うにとどめるが、たしかにその疑間 こういう事實は、ただでさえ造型美術好きの僕に、課題の埓をひ は正當である。職人に比べて藝人の方が、自分の藝の質なり逹者さ なり風格なり、その價値をみとめ、喝采をもって答えてくれる公衆ろげることを正當なものと考えさせるのである。恐らく讀者も同感 というものを、よりあきら、かな形で自分の前に持ち、それらがかれだろう。 ここに『光雲懷古談』というかなり部厚な一册の古本がある。そ の技術とその人間を職人生活の閉鎖性、孤獨性、職人氣質の一徹 の中で、彫刻家であり詩人であった光太郎の父である老木彫家はこ さ、またひとりよがりに比べて、ずっとひらけた、大衆的な、いわ 術ば、「不易」より「流行」をめざす、融和性に富んだものにしていう語っている。 るはずだからである。 「昔は根付彫は根付専門で、雛師と言へば雛ばかり専門に拵へ て居ります。人形師と言っても其通り。今彫刻家と言ふ者は當 けれども自分らが公衆に提供するものの、主題としての價値や新 2 時は無いのです。置物なぞは各専門の人が道樂に彫った位のも しさということに強い關心は抱かず、主としてもつばらその出來榮 藝術家と藝人
事に扱われている文學上の「藝」の観念について、次のような疑惑年表によると明治十年に創立された勸工會なるものの後身とされて 6 いるこの會について、光雲は、明治十年の内國勸業博覽會以後急に % を著者に書き送った。すなわち、演劇や音樂、舞踊における藝は、 一瞬ごとに消えさって行く形を生み出し、連ねるもの、そういう形商品價値の增し始めた象牙彫刻のエ人たち、その中でも「牙彫商人 によってしかとどまらないもの、つまり不斷に消え行くものだが、 の賣物にはめて、貿易向き一方をやり、出來榮えは第二にして、先 造型藝術や文學にあっては「藝」が生み出したものは、長く人の眼づ手間にさへなればよろしいと言ふ側の人逹」っまり「職人的」 前にあり、いわば曝されていて、從って後者にあっては、「藝」も な側の人達が作った組合に對抗して、その拘束をきらい、「中々商 また、かれが生み出したもののうちにちょうど靑寫眞のように殘人の言ふ儘にならない。自分で一己の了見があって、製作本位に仕 り、長く人眼をあびる。これは前者、すなわちみずからその姿のま事をする。つまり先生株の人逹」が集り、そこへ木彫家としてただ ま持續することなく、過ぎ行く時間すなわち持續を、そこだけ變質ひとり光雲も參劃し別に同業組合を一つ作ったのが彫工會だったと 語っている。前者にあっては、弟子徒弟に對する拘東の規約化がか させる藝術にはないことで、これらにおいて「藝」は目ざわりでな いどころか、それこそ世阿彌のいわゆる「花」となるものだが、造なり露骨であったということで、それが勸工會と同じものであるか 型藝術にあっては、ついにひとをうるさがらせるに至る。それは作否かはともかくとして、封建的なエ人の「仲間」の性格の強い團體 品の實質から遊離してみられるに至るのだ。それらにあってはだったのはたしかであろう。 この會成立までの經緯や、そういう經緯の上臺になっている當時 「藝」はできるだけ自分を隱し、自分を殺しているのがいい、 言いかえれば、作者が扱わねばならぬもの ( 題材、素材 ) の性質やの法規を知ると、窮屈で暗く息苦しい反面にのどかな間の找けたと ころのある明治初年の世相がしのばれて面白いのだが、それはとも 構造が作品の形態を決定している、というか、題材や素材に強いら かく、光雲が、今日なら藝術派とでも呼ぶであろう「先生派」を、 れて作者はかくかくの手法様式を採用したのだと見えるような具合 「技術派」とも呼んでいることは注意にあたいする。これは、突飛 に出來ていて、しかもそこに人力による統一、人間の努力のあとの な聯想と思われるかも知れないが、一方に、「手間にさへなればよ 一貫性が、全體として感ぜられる、そういう作品がいいのである。 ろしい」という「職人的」なエ人が置かれているのを考慮すると、 作品の各部分に一々技巧のあとがあらわであっては、その作品は小 うるさく、卑しく、結局職人的と言われることになるだろう。 たとえば、古今亭志ん生が氣に人った大事な席でやる「藝」と寄席 「藝」と言っても、それが適用され實施される部門によっては、大でやる「商賣」とに自分の藝を、ユーモラスに岐別していること ざっぱに見ても、右のような相違がある。しかもなおわれわれは、 と、奇妙に似ていると言える。 藝や技の逹者になることによって人間としても逹人になること あれら舊派の俳優と、江戸時代からの木彫師光雲のあいだに、それ が、かれらの一方の理想であるが、それらを人間の全圓から遊離し によって仲間内の共同瓧會というより仲間そのものが成り立ち、仲 間でないものはかれらの生活意識から追放されるに至る、その根柢た、何か特別尊いもののように表象するというのも、藝人や職人の としての「藝」乃至「技」の飆念を共通にみとめることはできるの 一つの徴候と言っていいのではなかろうか。 である。 明治十七、八年の頃東京彫工會というものが出來たが、平凡の ここまで來て、われわれが考えねばならぬのは、江戸傅來のエ人
制度の拘束をある程度はぐらかしえたのであって、そこに反世間的したのだ、と言ってもいいだろう。 しかし職人はなくなったわけではない。手堅い、自分の材料と技 な名人氣質というものを鍛え上げる餘地もあったのだが、同時に、 富裕な階級や政治的支配階級の愛顧がかれらには必要不可缺であっ術をよく心得た職人の仕事に對する敬意と愛著もわれわれのうちか ら消えたわけではない。それに答えてくれる作物の乏しいのを、む た。こういう情況がかれらに共通の本態を作った根本的なものでは なかろうか。反抗者であるとともに隷屬者。民衆から見れば英雄でしろ殘念に思う位である。 露件の娘文の成功は、そのために隨分きいた風ないやみなところ あり、支配者の側からみれば扈從の者。 六平太というのは、ポルトガル語で巾着という意味の言葉の訛つも出ているのだが、才はじけて強っ氣なかの女の職人性というもの たものだそうだと現六平太は語っている。太閤がお氣に入りの喜太を除外しては納得のいかぬことである。里見弴や久保田万太郎の後 流初代長能に、腰巾蒲という意味でこの名を與えたというのであ繼者を、かの女において日本文學界は持ったといえよう。 る。 ( 『六平太藝談』 ) * 演劇の部門で、光雲光太郎父子の場合と同じような轉換點を示す 六平太を人と言っていいかどうか、そこに問題はあるが、僕はのは、恐らく、それぞれ松居松葉、小山内薰と提携して、程度の差 はともあれ、舊派の俳優として演劇の革新をはかった左團次父子の 藝人という言葉をも高い意味に解してこの文章を草したのである。 ちょうど職人と言いつつ、エ人のうちでも自由技術に從事するもの場合ではなかろうか。多少調・ヘえたこともあるが既に紙面は盡きた し、他に語るに人はあろうと思って、今は述べない。 のみを念頭におき、たとえば光雲が「職人的」と見た牙彫師などは 註 * 僕の調べたところでは ropa の指小詞でチャンチャンコぐらいの これを問題外としたように。 意だろうと思われる。 藝、職人のうちの今見た反抗者の側面、つまり口ツ。ヘータでない ( 昭和三十二年八月 ) 面、民衆の英雄としての側面、衆愚に對して否定的であるまでに民 衆の中で卓越しようとする意志、それだけを職人からとり出すと き、そこに胚孕するのが、藝術家意識である、と言っていいのでは なかろうか。そしてさきに見た「鴻の集」の光太郎等はその集團的 代表だったと。 日本の近代的藝術意識が、そういうところに出發點を持っていれ ばこそ、「藝」というものを徹底的に否認したかの如き、反俗的な 人私小説家、葛西善藏などが自分を藝術家としか呼ばないようにもな るのである。 家 わが國の藝律 可家は反就會、あるいは社會外的立場に身を置いて初 めて藝術家になりえたのである。職人や藝人の持たず、藝術家の持 つべき瓧會性というもの、少くも對瓧會關係というものを、そうい 2 う形で持ってはじめて、わが國の藝術家は職人から藝術家へと進化
を靑木書店より刊行。十月、「故事新編」をめぐって論爭。 藝」に、「日本人の感情表現」を「思想の 0 和を「文學ーに、「追っかけの魅力」を「群昭和一一一十四年 ( 一九五九 ) 五十一歳 科學」に、「太宰治における『政治と文學』」 一月、「プロレタリア文學批判をめぐって 像」に發表。『新編錯亂の論理』を靑木書 を「解釋と鑑賞」にそれぞれ發表。四月、 店より刊行。 を「文學」に、「戦後文學大批判」を「群「『慷慨談』の流行」を「中央公論」に發 * この年知識人論爭再熱し、これに參加。 像」に、「藝術の綜合化とは何か」を「中表。五月、「ロンリー・モンキー」を「文 昭和三十一一年 ( 一九五七 ) 四十九歳 央公論」にそれぞれ發表。二月、「政治小 學界」に發表。六月、「眞山靑果の大衆性」 一月、「偶然の問題」を『文學的映畫論』話」を「三田文學」に發表。『泥棒論語』を「文學」に、「群猿圖」を「群像」に、 ( 中央公論社 ) に發表。『亂世をいかに生きを未來瓧より刊行。三月、「第三の一對の九月、「現代史の時代區分」を「中央公論」 るか』を山内書店より刊行。二月、「落書目」を「文學」に、「一フィネッケ・フックに、「大島渚論」を「映畫評論」に發表。 の精溿」を「群像」に發表、ひきつづき同 ス」を「記録映畫」に發表。四月、「十月、安部公房・岡本太郞・大西巨人・竹 誌に十二月まで「大衆のエネルギー」としの文體」を「宝石」に、「笑って騙せ」を内實・長谷川四郎などと「記録藝術の會」 て連載。七月、「ヤンガー・ゼネレーショ 「中央公論」に發表。六月、「マスコミ藝術を結成。機關誌「現代藝術」を發行。同誌 ンへ」を「文學」に發表。十二月、『大衆の性格」を「文學」に、「ノーチ一フス號反に詩「風の方向」を發表、また座談會「危 のエネルギー』を講談瓧より刊行。 應あり」を「現代藝術」に發表。「現代藝機について」 ( 安部・竹内實・武田 ) に參加。 昭和三十三年 ( 一九五八 ) 五十歳 術」の座談會「ジャンルの綜合化と純粹十一月、詩「昨日の續き」、 e ド一フマ 一月、「マス・コミュニケイションにおけ化」 ( 安部・佐々木・羽仁・中原ほか ) に參加。 「佐倉明君傳」を「現代藝術」に發表。十 る相互交通の問題」を「思想」に、「論爭七月、「無邪氣な絶望者たちへ」を「映畫二月、「平和主義の限界」を「キネマ旬報」 の豫定」を「群像」に、四月、「支配階級評論」に、「と思想」を「寶石」に發 ( 上旬號 ) に、詩「歳月」を「現代藝術」に の藝術意識」を『講座・現代藝術』 5 動表。九月、「赤坂區溜池三〇番地」を「群發表。同誌の座談會「日本のヌーベル・ハ 草書房 ) に發表。「群像」の「創作合評」像」に、十月、「就職試驗」を「テアトロ」グ」 ( 大西・武井 ) に參加。 ( 寺田透・平野謙 ) を連載 ( 六月まで ) 。『映畫に發表。十二月、『近代の超克』を未來瓧 * 安保鬪爭激化。 的思考』を未來社より刊行。七月、「『實踐 より刊行。「魔法の鏡」を「群像」に發表。昭和三十六年 ( 一九六一 ) 五十三蔵 信仰』からの解放」を「思想」に發表、 この年、轉向問題、戦爭責任をめぐって吉 二月、「公家と武家」を「中央公論」に發 「現代文藝評論集』 2 ( 現代日本文學全集・筑本隆明と論爭。また、四月には、安部公表。同誌の座談會「體制のなかの抵抗」 摩書房 ) に「變形譚」「絶望について」など房・千田是也・木下順二・野間宏などと演 ( 江藤文夫・佐々木・長谷川龍生 ) に參加。三 月、「ペンは折れない」を「現代藝術」に、 を收録。九月、「革命の文學と文學の革〈一」劇運動の「三《會」を結成。 を岩波講座『日本文學史』肥に、十一月昭和三十五年 ( 一九六〇 ) 五十二歳 「ガンディー」を「映畫術」に發表。「現 「泥棒論語」を「新劇」にそれぞれ發表。 三月、「革命の藝術」を『講座・現代藝術』代藝術」の座談會「批評を批評する」 ( 長谷 この年、平野謙、本多秋五などと「笛吹川」 6 ( 勁草書房 ) に、「蝶を夢みる」を「文 川龍生・安部・江藤文夫・杉山・柾木 ) に參加。六
た同輩石川光明のかれに對するかっての注視、推擧とともに、深く る職人の心的習性と言っていいものを示しているのである。 4 % この懷古談をきくものの記憶に刻みこまれるのを禁じえない。 心得、祕傳、これら封建制の匂いこもる言葉ほど、職人や藝人の しかも光雲は楠公銅像の制作について、こういうことしかほとんあり方を、それらのうちでも優れた、職人藝人の心様、行爲を、深 ど語らない。あの像は、隱岐から歸った後醍醐天皇を、金剛山の重深とわれわれの氣持の中に、思い描かせる言葉はないのではなかろ 圍をやぶって、兵庫まで迎えに出た正成が、路上、天皇に首を半ば 下げ挨拶を送っている圖柄だというが、それも岡倉牧水という美術 それらの言葉には「暗いかなしい東洋」 ( 光太郎『典型』 ) の匂いが 學校第一回卒業生の應募當選の繪によるものだと言って、楠公銅像する。それは中世の匂いと言っていいものだろうか、専制的古代の 建造の意義などを強調してはいないのである。 餘映と言っていいものだろうか。とまれ、能樂が大成されたのも、 明治大皇がみずから言い出して鑄造前の下見をすることになった職人の手仕事が賃仕事として採算のとれる見込みが立ち、それとし 日、分解されて美術學校内にはこばれ、假組立てを終えたこの木彫て獨立したのも、室町時代のことであったという見方が正しいとす の巨像は、楔を一つ締めわすれたため、兜の前立てを風にゆらっかれば、世阿彌が能藝人の心得として殘した『花傳書』『花鏡』その せていた。天皇が玄關から出て、像の下をつかっか歩いて見てまわ他の心得條々が、一般にすぐれた職人の心を律し、同時にその心と る。 生き方を語っているのに、格別不思議はないのである。 もしそれが落ちたら切腹と 實際『花傳書』は、成功し競爭相手に打勝っための能藝人用兵作 父は決心してゐたとあとできいた。 戦の書と言ってよく、「藝」により「技」によって世をわたるもの 茶の間の火鉢の前でなんとなく の、深い、現實的な用心のしかあるべき姿を語って物々しいのだ。 多きを語らなかった父の顔に また「花鏡』はそうして、一座また能藝界の棟領となりうるもの 安心の喜びばかりでない の、藝が理想的なものであるためには、何に注意し、どう振舞うべ 浮かないもののあったのは、 きかの心得書と言っていいのである 7 心得とか祕傅というのは、歴史の中で竪に繼續することをはかる その九死一生の思がってゐたのだ。 そう光太郞が『暗愚小傳』で歌っていることがこの事件乃至無事とともに、瓧會において橫には斷絶をはかるところのものである。 件であるが、光雲は、「楔一本の爲、どれだけ心配をしたことか。 「此別紙ノロ傅、當藝ニ於テ、家ノ大事、一代一人ノ相傳ナリ。タ ・當日は洵に萬事が滯り無く都合よく運んだのは私共の幸運でご トへ一子タリト言フトモ、不器量ノモノニハ傅フべカラズ。『家、 ざいましたが、 斯んな大事な場合は、能く / 落付いて考へなけれ家ニアラズ、續クヲモテ家トス。人、人ニア一フズ、知ルヲモテ人ト ばならないことは、今も申したやうな一寸した手找りがあって、生ス』ト言へリ。コレ萬德了逹ノ妙花ヲ究ムル所ナルペシ。」 命を縮めるやうな心配を致さねばなりませんから、心すべきことで それは帝王の形で、將軍家の形で、劃一的で恆常性のない民心の あると存じます。」と、言い方はごたついているにせよ、光太郞の歸趨、時代の好尚の形で、つねにデスポチックに藝術家の存立を脅 見たと記憶しているデスポチスムへの陰慘な恐怖の念よりも、いわかして來たものに對する、藝術家の戦略の別名であるとともに、そ ば不易の技術者としての心得を、その日の經驗から抽き出そうとすの藝術家の中における反映、つまり藝術家としてかれが人と藝とを
257 藝術家と藝人 さるべき、事實最初は現わされていた内容が發育を停止し、さらに な作品に人はなやまされる。しかも亦さういふ作品に人はだま 蓑退、絶滅しても、それにもかかわらず、それだけ獨立したものと される。云々 , して同時代の他の人間にも、また、後代の人間にも傳えられうるも 光雲においては宏量にも彫刻の一部としてそのうちに數えられ得 0 ある。そし一」、思想や感情や瓧會 0 さまざまな歴史からある程た人形作りは、人形細的彫刻さえそうある以上、それととも 度獨立して、それ自身の歴史を形作ることが出來るものであり、さ に當然、彫刻の聖域の外に放逐される運命にある。かれの目には、 れば 0 そ生命は短し、されど技術は長しと」うギ。 ~ 時代 0 言葉日露戦爭開戦 0 報を「。きき、同時 = 0 ダ一 0 『考える人』 0 發 が今に一金言とし通用し」る 00 もあるが、 0 う」う「藝」乃表接し一」深く感動した碌山荻原守衞 0 、繪畫から彫刻 = 轉じた制 至「技」 0 利點そ 0 も 0 が、藝術 0 職人仕事 ( 0 墮落、藝人藝 ( 0 作活動 0 開始まで、日本 0 彫刻界は、近代性 0 萌芽すら見せ = 」な 轉落の原因となるのである。だから、藝術とは何かと間いうること いと見えるのだ。事實、今日われわれにまで殘されている碌山の作 を、近代的藝術家の必須條件として見ているこの光太郞の考えは、 品は、素朴で淸純で、思いつめた情感と、深沈とした重量感と量感 うらがわは、藝術 0 、」な人間 0 近代化とは、始源〈 0 遡行に他によ 0 ミまた人間 0 逞しさや堅固さ ( 0 創造的共感によ「 = 、他 ならない、と言っていることでもあるのだ。 でもない 0 ダンが彫刻に生命をふきこむことによってそれを約束ず では光太郎はどんなものを彫刻の根源的要件と見ていたか。「空 くのバロック性から救い、いわば宇宙の本源的な生成活動につなげ 間の充填としての量。量の區分から來る意味での面。區分から起る たように、日本の彫刻に新しい道を示したものであったにちがいな 量と量の攻め合ひの均衡。均衡に必須な面の比例。それらを貫いて いと思わせる。 統一に至らしめる動勢。」 ( 『素材と造型』 ) これらについて、 " 同じ この場合、碌山の藝術家としての運命がいかにまずキリスト敎と 文章 0 も「と先、否定面から論ぜられる 0 を見れば、それは次 0 不幸な戀愛 = よ「 = 定られたか、再度 0 洋行後 0 そ 0 生涯 0 傑作 にはいかにわずかの都會的な洒落氣もないかということは留意にあ 「自然具象の形態を扱はぬ所謂抽象主義的藝術の最も確實な根たいしよう。 據としては此等の造型的諸要素の純粹な審美が嚴存せねばなら こういう碌山しか、明治四十三年 ( 一九一〇年 ) ヨーロツ。 ( 、 ぬ。さもなければ其は一片 0 氣まぐれと選ぶところが無くなる國した光太郞にと「て日本に彫刻家 0 名にあた」する彫刻家は」な のである。又斯かる諸要素の性質と美とを理解せぬ者にとって かったのである。さきに中斷した文章はつづけて次のように述べて は、抽象主義的藝術は一切ノンサンスであるに違ひない。 いる。 自然具象の形態を對象とする所謂自然照に基く造型に至って 「その〔江戸時代から生きのびた彫刻師のーー、寺田〕作るとこ は、斯かる諸要素の内在無き時、それはただの妝態描寫の低俗 ろの彫刻は、彫刻といふよりむしろ細工物といふ観念の方に近 となりをはり、何等の骨骼を有せぬ名所ヱ ( ガキ的、クリスマ 、又實際その當時には仕事場のことを『細工場』と呼ぶのが スカード的繪畫や、グラフィック的イリストラションや、人 通常であった。木彫は、佛像の外は床の間の置き物とか、壁の 形細工乃至細工彫刻とならざるを得ない。造型意識の缺けた 鏡板や衝立などに施す浮彫とかいふものが標準にされてゐた。 平板無味な、又は俗惡煩瑣な、又は散漫稀薄な、又は意味過重 少し大きな單獨の彫像などは展覽會向きとして特別に考〈られ
いた文章が『時間と就會』である。・ ( ~ ザ , クの「ちょうどそのを暗示したと通説にたいし異を立て、評論家としての面目を發揮し 時」という語り方から時間の認識の仕方が、その頭の中に發生するている。後者は鳥海を「作る人」として精訷主義を否定し、古典的 間な繪を書くことを論じている。最後に『「和泉式部日記」序』は、 會の仕方、さらに瓧會の相關關係の劇化の仕方であり、この時 と瓧會との關聯に攝理の發動の契機を考え、實證的祕思想〈の手日記の作者に彼なりの疑問を呈し、歌集を評價し、その人間像を論 がかりを示唆している。ス ~ ザ , クと = タ一ダー ~ 』は精緻な評じている。最近、彼が沈潜しているかにみえる日本古典 ( の評價 論で、兩者の比較によ「て、特質を明かにするばかりでなく、最もは、いわば評論家の間の流行とはちが「て、極めて根深いものがあ るし、國文學者出身の評論家とちがって、文學論として獨創に富 示唆に富んでいる。舞臺の有無から兩者のリアリズムの差異を明か にし、想像力の差異、 = タイルの差異等に及び、一一人の思想の根源み、單なる研究から文學になってきたことを語っている。 をついている。ルカーチのバルザック論の見落しもみのがしていな 加藤周一集 い。しかし私にとっては、作家論の組み立て方や、さらには小説論 加藤周一は醫學博士であり、戰後、中村眞一郎、輻永武彦と共に の具體的で、しかも基本的な考え方やが、おもしろいのである。こ ういう作家論・作品論は日本文學については稀有であり、貴重であ『 1946 ・文學的考察』を刊行して、戰後文學に逸早く登場した。 詩・小説・評論の各分野にわたって活動しており、自然科學から人 『藝術家と藝人』は高村光雲と光太郞父子によって、藝人の藝と職文科學にわたる廣汎な仕事のために、森鷓外に擬せられるし、彼自 人の技とを詳しく考えながら、近代藝術家の發生に及ぶものであ身も『森外』について一見識をもっている。彼自身の言い方を借 りると、鷓外の立場は、「明治の政治權力の内側でもっとも自由主 る。私は寺田文によって私自身の考え方を深く反省させられたばか りでなく、一種の啓示を得た。たしかに藝や技の利點が藝術の職人義的な考え方を代表する」ということになり、この考え方には種《 仕事や藝人藝 ( の轉落の原因とはなるが、逆に藝術・人間の近代化な條件をつけなければならぬと思われるが、加藤周一は東西の文化 とは始源 ( の遡行であること、また寫實が西洋の藝として輸人されの表裏を心得た上での國際的な自由思想家であり、安易に鷓外に擬 て起る轉落、日本藝術の抽象性の輕視等、ここに多くの根本問題がすることは歴史の條件を考えても、いさ乂か類比の虚僞をふくみ、 私は彼のためにも採りたくない。 含まれていることは、注意深い讀者に多大の糧をもたらすだろう。 『讀書の想い出』は、彼が早くから日本の古典文學と西洋文學とに もちろん、その指摘を個々に拾いだせば珍しくないものもあるが、 親しみ、マルクスの方法を「大勢非順應主義、として知的に學んで 分析と論理とによって剔抉される實質の鮮烈さである。 『「近代繪畫」讀後』は小林秀雄論であり、『アトリ訪間』は鳥海いたことを語っている。これが戦後に中村・輻永と共に文學活動を 靑兒論である。前者は以前に書いた小林秀雄論より一歩つつこんさせながら、就會的視野をもった異った歩き方をさせたことを説明 で、「絶えざる還元家」の面目をしめすと共に、近代繪畫を現代文している。芥川龍之介に反軍國主義、歴史の偶像破壞、道德談義〈 明批評とした中村光夫に不服をとなえ、雄偉な畫家の内的問題を明の反撥、大勢順應を肯じない批判精をみたということ、つまり「 ルクスの理解の仕方の根本と同じであり、中村・・輻永の方向からの かにしようとして、。ヒカソの在り方から内部からの決定的脱走とな ったと考え、或は『私小説論』に、小林が傅統主義者としての立場脱出であることとを、考え併せてみればわかる。『文學とは何か』
8 7 ば、小さい物語めいた處もあれば、考證らしい處もあった。」と自 した。然しいずれも自分以外のもの、外のものであった。ここが漱 ら言うようなものであった。森林太郎が惡くもないと思っていた大石と違うところである。 臣にもなれなかった。行住坐臥に道を行う人にもなれなかった。こ のとき距離の観念は他に對して批評的冷笑的或は一轉して政策的と 漱石は「藝術は自己の表現に始って、自己の表現に終るものであ なりうるとともに、高き價値は己れを律する規範となって、「永遠る」と言った ( 『文展と藝術』大正元年 ) 。そしてそれに藝術の最初最 の不平家」ともなれば、たえず目標をわが眼前において、地に脚の 終の大目的は他人とは沒交渉であるということであると註した。だ つかない思いにもかられることになる。この場合規範は観念にすぎ から徹頭徹尾自己と終始し得ない藝術は自己に取って空虚な藝術で ぬ。そうしてこの場合は文明批評や自己辯護はありえても、創作はあると結論した。藝術を外側から規制する何物もない。道徳も就會 ない。規範が眼前にイメエジをもって現われないところには、内か も歴史も藝術家の自己を束縛することは出來ぬ。自己はそういうも らの衝撃が湧く筈がない。歴史小説以前の鸛外はそういうものであのを超越している。また逆に、自己以外のものを目當とする藝術と った。鷓外は乃木殉死によってイメエジをもった。規範が具體化し いうものは、藝術の名に價しない。そういう生活もまた鮠落したも た。具體化された規範は『興津彌五右衞門の遺書』では主君の命と のである。梶をとる、あやす、安協する、すべて墮落といわねばな なった。それを書終えた鷦外には新しい道がひらけた。武士の規範らぬ。藝術を制約する規範が外にない如く、自己を制約する規範も は念の上で始末のつく筈のものではない。命のやりとりの舞臺でまた外にはない。これをあるとするのは便宜にあらずんば抽象であ ある。高い價値は命をかけてのものとなっている。價値と現實とのる。抽象は科學者にとってやむを得ない指針ではある。觀察と實驗 距離、その距離から來る他に對する批判は、ここに消える。文明批とをもってたっ科學者は、顴察者、傍觀者である。察者は自然の 評或は自己辯護から創作へである。澀江抽齋という一人物との邂逅雜多を捨てて、ひとつの法則、一定の形式、固定の型を選ぶ。選ば によって、具體化された念は更に飛躍して具體的人物になる。規れた形式は固定するとともに、選ばれなかった中味は切捨てられ 範が生きた人間になる。『澀江抽齋』においては鷦外の、水遠の不平 る。然し實は切捨てられた部分にものの生命はあるのである。具體 も、生活と思慕の遊離から來る焦躁も消え失せる。「萬有を領略すは生命をもてる中味のうちにある。その具體をつかもうとするのが たたす る」という亠円臭い議論も消え果てる。「自分の悟性が情熱を枯らし藝術である。「彼等 ( 學者 ) は彼等の取扱ふ材料から一歩退いて佇立 たやうなのは表面だけの事である。、水遠の氷に掩はれてゐる地極のむ癖がある。云ひ換へれば研究の對象を何處迄も自分から離して眼 底にも、火山を突き上げる猛火は燃えてゐる」という『ヰタ』の末の前に置かうとする。徹頭徹尾觀察者である。潤察者である以上は 尾の曖な辯疏もいまはいらない。抽齋という人物に對する傾倒が 相手と同化する事は殆ど望めない。相手を研究し相手を知るといふ 一切をかたづけた。梶をとるという生意氣なことはもう二度と出な のは離れて知るの意で、其物になりすまして之を體得するのとは全 い。用不用を間わない、ただ書きたくて書いているという取憑かれ く趣が違ふ」 ( 『中味と形式』明治四十四年 ) 。 た三咊がひらけてゆく。 漱石は自己本位と言った。「自白すれば私は其四字から新たに出 ここに注意したいのは、鷓外の規範が常に外にあったことであ立したのである」と書き、その四字はいまにいたるも依然としてつ る。それは要求であったり、観念であったり、或は人物であったり づいていると言った ( 『私の個人主義』大正三年 ) 。自己本位と自己辯
評價する上での絶對主義的態度だとも言えるだろう。 光太郞が自分のうちにみとめた「離群性」はただかれの個性であ 光雲を光太郎に比較するとき、われわれは東京の市民に對する一 るのみではなかったろう。それによってしか、ひとは藝術家になり 九えがく江戸庶民の自由さを、見る思いもたしかにしはするのだえなかったとともに、少くともそれが明治末期から大正期を通じて が、反面、今世阿彌をひきあいに出して論じたような暗さ、閉鎖の藝術家の一特徴となったのであった。 性、さらに人間活動の諸分野とそれぞれの分野の専門家達のあいだ しかし一方あの職人たちの朋輩づきあいの情誼の深さは、それが に隔絶を導き入れる執拗な専門意識、「道」や「畑」の觀念、社會成り立っと、一般の人間瓧會はその外に追いやられ、無きにひとし から遺棄されてあるという感じをも見出さないわけに行かないので い扱いをうける、そういう排他的な連帶性だったということも見の ある。 がすわけには行くまい。その傍證のひとっとして、供は、能や歌舞 伎の役者の藝談から共通の感じ方をひき出すことができる。喜多六 以上の考察は、さきに引照した光太郞の『現代の彫刻』中の觀察平太はかれの若かった頃の囃子方の思い出を語り、樂屋でこういう が當を得たものであることをふたたび證明するが、しかし光太郞の人々がその日の出來についてかれに加えた藝評が、新聞などに出る 論斷からはあの父光雲と石川光明の接近のような佳話の存在を窺う批評などとは比べものにならないくらい恐しい、急所をついたもの ことはできないであろう。 だったこと、それだけに「この連中から賞められたときは、藝とし 光明は明治七、八年、二十三歳の年季あけを前にして師匠の仕事てほんたうに賞められたことになりますので、うれしいことも無上 場に通いで勤めるようになったが、その頃、これもひとり立ちして です」とかって語った。昭和十年代に時ならぬ花のさかりを見せた 師匠のもとに通っていた光雲の仕事を、毎日道すがら眺め、記憶に歌舞伎の大名題たちの語る九代目團十郎の思い出も結局そこに歸着 とめていた。光明のすすめで美術協會主催第一回新古美術展に出品する。あの傅説的な名優と一座して同じ舞臺を踏むと、かれらは、 することによってはじめて同業以外の人々の注意をうけるようにな團十郞にどう見られているかということばかり氣にかかり、見物の り、從って世に知られるとともに世を知るようにもはじめてなった ことなど全く念頭になかったというのである。 ( この點は、世阿彌 光雲だが、その仕事を、光明は無名のうちからみとめ、十年忘れずがくりかえし説いている見所の感、世の名望、褒美などを根本的に にいたのである。十年たってすでに弟子もとり自分の仕事場も持つ大切なものとするあの考えとは、ひどく違っているが、まるきり無 ていた光雲の仕事を、表通りから毎日のように眺めている男があ 關係とも見られない。なぜなら、六平太の語る囃子方や團十郞は、 る。それが、人を介して刺を通ずるのを見れば、當時時めいていた それぞれそれ自身すでに、世の名望、褒美をえて、最高度に見所の 藝石川であったのだ。かれは舊事をかたり、光雲に木彫を展覽會に出感に入っている存在であって、從ってもっとも硬い藝の試金石であ すことをすすめ、自分も木彫をはじめる。 るとともに、もっとも高級な見物人だったからである。 ) 家 無論、技術と言い藝と言い、それを歌舞音曲演劇の畑と、彫刻繪 こういう逸事は、藝人や職人が、個我の意識にめざめ、仕事より 前に主張や情熱を通じて相互に知り合い、交りを深められうると信晝建築などの造型的部門とをつきくるめて、同日に談ずることがで じ、より人間的にふるまおうとし、要するに藝術家になるに從つきないのは言うまでもない。かって伊藤整氏がその著『文藝讀本』 2 て、かえって影をひそめる種類の逸事のように思われる。 を上梓したとき、僕は公に發表した書評とは別に、そこで極めて大
あるような、そういう心的な事件がそれだとしても、それが具體的 學の貧困』にふれての言葉だが、あの。ヒカソについての考えと同じ 4 な人生の舞臺で小林にどういう行爲を演じさせたか、かれは何の役次のような考えをしるすことができたのである。「全自然が一つの を演じたのか。もう小林にとっても判然とはしないというその事件運動ならば、もはや、人間は自然の外側に立って、存在する眞理を が、明示されないかぎり、實は何かを言ったこととならないのでは認識し、表現する者として現はれはしない。認識する主觀も、認識 なかろうか。そしてそれは、小林の靑春に近しかったひとには餘計される客覿も對立して存在するものとして現はれはしない。思惟と 言いづらいことだろうと僕には思われるようなことなのである。 存在との區別もただそんなたとへ話しも可能であるといふに過ぎ 恐らく、小林というひとほど現代の文學者のうちで、無私で實證ぬ。すべては邇動の形態である。人間といふ形態が生産され、人間 的な傅記のかかれねばならぬひとはないのである。 の腦髓を通過した様々な觀念形態が、事實上在るといふに過ぎぬ。 もとへ戻ろう。かれがピカソの想像の自由について言ったこと 自然の運動が人間精を造型したのなら、人間精が生産した多種 は、一體、何だったか。自然のフォルムが本質的に不定である以多様な觀念形態の運動も、原理的には異った性質のものではない」 上、あるいは自然のフォルムとは、見る人間の見方によってきまっ て來る、未確定なものである以上、一見恣意と見えるフォルムの決 この考えはいわばマルクスの思想の小林流反譯であるが、これに 定も許されることだというニヒリズムと、人間の想像力というもの 小林は次のような註釋を加えた。「かかる常識の立場は、藝術活動 と、自然のフォルムというこれから確定さるべきものとを等價存在の正當な奪敬と正當な輕蔑との爲に必須のものであって、藝術とい と見る、懷疑主義、この二つであったという風に言えるだろう。 ふものを對象化して考へる時、私にはこれ以外の如何なる高級な立 しかしそれは小林にあっては虚無でも懷疑でもない。なぜなら、 場も退屈であり、無益である」と。 かれは、これらについて、ひとつには、これらを積極的肯定的な價 しかし繪畫を論ずる場合は、小林は、藝術を對象化して考える立 値に轉換する表現の力というものを信じているからであり、またひ場以外の立場はとりえない。文藝批評なら、文藝という藝術を對象 とつには、自然というものに、人間を生み、人間を通じて藝術を生化して考えつつも、批評文という一つの文學形態を作る實踐におい ませる至大の力をみとっているからである。ピカソのデフォルマシ て、かれは藝術を主體として行ずることになるが、繪畫を主體的に オンは、自然のやっていることだから、その名において許されるか論じうるのは、繪畫だけだろうからである。 も知れないとかれは考えるのだ。 そうしてみればこれと、あのピカソに觸れて述べられた考えは全 セザンヌがかれの深い共感をそそるのも、あのエクスの畫家にあく同じだと言わねばなるまい。ここにも中村氏のいう、「外面はい っては、「自然の方が人間の意識の中に解消されるなどとは露ほど つも新しい對象にたいする新しい情熱に燃えてゐるやうに見える氏 も考へてゐない」からである。「自然を見るといふより、寧ろ自然の評論が結局思想的に言へば同じ。ハターンのくりかへした適用にな に見られる事」が大事だ、それだけが本質的なことだと、セザンヌ る」一例があるということを、あえて言う必要があるだろうか。 は信じ、「自然が彼の生存の構造と化してゐる」ようでさえあるか 間題はほかにある。すなわち「藝術活動の正當な奪敬と正當な輕 らなのた。 蔑」ということ。これは、もっとも根本的には、藝術とは人間活動 だから今から二十八年前、これが先程豫告した、マルクスの『哲の一様式であり、それ以上でも以下でもないとはっきりと認めるこ