と關係しているよりは、むしろ工業化の段階と密接な關係があるも のではないかと思います。 日本の場合でも、たとえばわが國古來の醇風美俗である家族制 度、そのなかにある親子の關係、夫婦の關係、そういうものはわが 谷というときには、日本の國民性と結びつけて理解 國古來の醇風美イ されています。しかし日本の工業性ないし近代化が一定の段階を越 えると、家族制度のなかでの人間關係も變わってくるのではないか と思います。 ある一つの國の文化と、また別の國の文化の違いを説明するため 今ひとつの例として男女關係をとりましよう。一つの瓧會のなか に、國民性という言葉を使うのは、われわれの長いあいだの習慣で で、男女の關係がどういう具合にあるかということは、かならずし した。しかしわたくしは國民性という言葉を使って、一一つの國、ま もその國の社會の構造、ことに經濟的な構造によってだけ決められ るものではない。それを決めるもう一つの大きな要素は、その社會 たは二つの違う地域の文化の相違を説明することには、限度がある んではないかと考えています。 が持っている價値の體系です。しかし價値の體系はまた就會の構造 一つの瓧會の文化的特徴といわれているものは、その瓧會の發展に影響を及ぼすし、社會の構造は價値の體系に影響を及ぼしますか の段階によって違うので、ことに最近の工業國では、たとえば日本ら、その二つのものは相互に關係している。その就會の構造はまた や西ヨーロツ。ハの國の場合には、工業化の段階が先へ進みますと、 日本の最近一〇年間のように、急速な工業化の過程が進めば變わら それまで國民性として説明されていたその國の文化の特徴が、消えざるをえない。したがって價値の體系も變わらざるをえないでしょ てなくなることさえたびたびあります。 たとえばフ一フンスの國民性、文化の特徴として、フ一フンス的なも したがって男女關係のあり方は、一つには變化する瓧會構造から のとして、日常生活のすみずみにまで行きわたった個人主義につい直接に影響されるし、また他方では、社會の構造が變わると、その て語ることが、いままでたびたび行なわれてきたことです。しかし瓧會の持っている價値の體系に影響を與えて、その變った價値の體 フランスのいわゆる個人主義が、フ一フンスの工業化の段階が一定の系から男女關係が影響をうけるという形でも、國民性以外の要素か 會限度を越えますと、だんだんになくなっていく可能性があるでしょ ら影響されます。その男女關係のどこまでが、國民性によって決定 されるかということは、むずかしくてなかなかわかりません。男女 本 これは可能性だけの間題だけではなくて、最近の一〇年間、一九關係にかぎらす、あるいは家族制度というようなもの、あるいはそ 五〇年代の半ばごろから急速な工業化がフランスで進みまして、そのなかにおける親子の關係というようなもの、そういうことについ のために瓧會の構造や、生活様式が變わってくると、いままでフ一フ て、國民性を語ることは非常にむずかしいです。 わたくしはそもそもそういう種類の問題について、國民性という 四ンス的なものと考えられていた個人主義に、いちじるしい影響が現 3 われてきた。ですからたとえば個人主義というものも、「國民性」概念を使うことが、事態をはっきり理解するために役立つかどう 現代日本語と就會
てたらしい、第三、そのために關東の弟子たちは大いに動搖した、 一方親鸞は息子善鸞を義絶してその立場をあきらかにした、 れが今かりに善鷺事件とよぶ事の内容であるといってよいと思う。 事件は親鸞の八〇歳前後におこり、しかも生涯の傅道の成果を根こ 親鸞の思想をみるには、「敎行信證」を措いても、まず「歎異そぎにする性質を帶びていた。所は彼の傅道の根據地關東。主謀者 抄」に就くのが普通である。「敎行信證」は著作の代表的なものでは信賴した息子善鸞。爭點はおそらく信仰の中心往生本願そのもの あり、「歎異抄」は語録の代表的なものである。敢えて後者をとるであったろう。八〇歳でみずから關東へ赴き、萬事をはじめからや のは、單に行文平明で、讀み易いという便宜上の理由によるだけでりなおすことのできない老人にとって、これが危機でなかったはず はない。晩年の親鷺のもっとも危機的な瞬間に、彼がその信仰の本はない。この危機に彼がどう對したかは關東の弟子にあてた書簡か 質を直弟子に説いた言葉がそのままそこに録されていると考えられら察することができる。しかしもっとも直接には「歎異抄」にあら るからである。危機的な瞬間とはおそらく善鸞事件である。 われていると想像することができる。 年譜によれば、一一七三年京都に生れた親鷺は、源平爭闘の時代「歎異抄」の成立について、確實に知られていることは、多くな に育ち、二九歳で法然の門に人る ( 一二〇一 ) 。六年後法然とその弟い。著者はおそらく唯圓坊であり、雎圓は多分親鸞の關東の弟子の 子たちに對する彈がはじまり、親鸞は信籍を剥奪されて越後に流一人であった。「歎異抄」全一八節のなかで、はじめの九節は親鸞 される ( 一二〇七 ) 。越後で彼は妻帶し ( 惠信尼 ) 、子供を設けるが、 の弟子との問答をそのまま書きしるし、のこり九節は著者が親鸞の その長男が善鷺である。同時に傅道し、配流赦免のことがあって、 敎説の本義とするものを、異説を反駁しながら、解説している。序 おそらく一二一四年の頃、家族と共に關東へ行く。一二三五年京都文に「故親鸞聖人御物語之趣、所留耳底、聊註之」といい、本文に 〈歸るまで、すなわち四〇歳代のはじめから六〇歳代のはじめまで繰返して故聖人がこういったということから、趣旨が語録であるこ のおよそ二〇年間、親鸞は關東にとどまり、主著「敎行信證」を書とは、あきらかである。そこで問題の第一は、前半九節が親鸞の弟 き、傳道に沒頭し、多くの弟子をつくり、 淨上眞宗の基礎をその地子との間答であるとして、その問答はどういう機會に行われたか。 に据えた。現存する「親鸞聖人門弟交名牒」に擧げられている直弟また第一一に、語録は「故聖人」という以上親鸞死後 ( すなわち一一一 子は四九人、そのなかで常陸二一人を筆頭とする關東諸國が三八六二年親鸞九〇歳の死以後 ) につくられたにちがいないがどれほど 人、京都はわずか八人にすぎない。そのことからも、親鸞にとって 忠實であろうか、ということである。私見によれば、この問題は同 の關東の意味が察せられるであろう。京都へ歸ってからの彼は、關 時に解かれなければならない。證據は本文である。少くとも前半語 東と連絡をとりながらも、ただひとりで著作に從った。家族は關東録の部分の第二節には、次の言葉がある。 にのこした。殊に善鸞が彼地にのこった。往復書簡によって察せら 「をのをの十餘ケ國のさかひをこえて、身命をかへりみずして、た れるところからみれば、第一、親鸞の去った後の關東では善鷺は重づねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極樂のみちをと 要な人物であったろう、第二、内容ははっきりわからないけれどひきかんがためなり。」 3 も、とにかく善鸞がその地位を利用して親鸞直傅と稱する異説をた 「十餘ケ國」は關東である。關東の弟子が「身命をかへりみず」大 2 彼岸への道 こ
308 擧して京都 ( のぼり、「往生極樂のみち」を問おうとして」ること鸞は聖人 0 「御智慧才覺」は別だが、「往生の信心」は同じものだ は、これによ 0 てあきらかだが、そういうことの背景には、「往生と主張し、決着に到らず、遂に法然その人に伺いをたてることにな 極樂」と」う信仰の中心に關する關東 0 信徒の疑問・動搖を想定す「た。法然 0 答として傅えられるのは、こうである、「源空 ( 法然 ) が信心も如來よりたまはりたる信心なり、善信房の信心も如來より るのが自然であろう。第一に想出されるのは、善鸞事件である。 たまはらせたまひたる信心なり、さればただひとつなり。」ーー。・他 またその後本文のなかで親鸞のことばとされるものは、激しい論 のことを考えている諸君は、「源空がまひらんずる淨土」 ( 行くこ 戦の調子を帶びている。おのずからそこに背水の陣の氣配があっ とは到底のぞめないだろうと。「弟子一人ももたずさふらふ」は、 て、ほとんど殺氣の人に迫るものがある。たとえば、 「専修念佛のともがら 0 、わが弟子、ひとの弟子と」ふ相論 0 さふ同じことを繰返して」るにすぎなしかしその表現 0 激しさは、 たとえば親鸞からみて誰がいちばん正統の弟子であるかというよう らふらんこと、もてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずさ ふらふ。そのゆ ( は、わがはからひにて、ひとに念佛をまうさせさな議論が、その言葉の背景にあ「たのではな」かと」うことを想像 させる、 ふらはばこそ、弟子にてもさふらはめ、ひと〈に彌陀の御もよほし また念佛を論じ、往生を説いて、親鸞はその言葉をのように結 にあづかて念佛まうしさふらふひとを、わが弟子とまうすこと、き んでいる。 はめたる荒涼のことなり。」 ( 第六節 ) 「このう ( は、念佛をとりて信じたてまつらんとも、またすてんと 「もてのほかの子細」といい、「きわめたる荒涼のこと」というの も、面々の御はからひなり」 ( 第二節 ) は、ことばとして強いだろう。「弟子」たちが關東から「身命をか おそらく單純な修辭ではあるまい。問題はすなわち離敎である。 〈りみずして」登ってきているときに、「親鸞は弟子一人ももたず さふらふ」は、斷乎たる表現に容赦ない態度の激しさを窺わせて充「身命をか ~ りみずに」どれほどの代償を支拂 0 ても親鸞と會「て 分だろう。「弟子一人ももたず」は、おまえたちが弟子に値しない話すために京 ( のぼ 0 た關東の面において、問題にな「ていたの も、敎義學的細部に關する技術的な疑點ではなく、離敎如何の瀬戸 という意味ではない。親鸞は繰返して、念佛同行、同志仲間という ことはあるが、師弟關係は、こと念佛に關してはありえないといっ際であ「たと考えるべきであろう。それならば親鸞晩年の一時期に 善鸞義絶のときを除いて、關東の念佛信者に離敎如何の大動搖のお ている。信仰は超越者の側からの働きかけによって成りたつので、 こったことがあるだろうか。ないとはいえない。しかし知られてい 人間の側からの努力によって成りたつものではないからである。念 るかぎりの知識では、何よりもまず善鸞事件を考えるのが自然であ 佛に關して師弟關係がありえないというのは、從って日本佛敎が到 ろう。「歎異抄」前半の問答は、この事件を背景としていた、 逹したもっとも超越的な信仰の核心に係っているといってよいだろ という確證はないが、そう推定する根據は充分にある。もしこの推 う。親鸞はおそらく三〇歳代で法然門下にあり、善信坊と稱してい たときに、すでにその確信に逹していた。「歎異抄」 ( 第十八節 ) に定が正しいとすれば、問答の時期は、一二五六年親鸞八四歳の前後 も、一 0 の挿話が語られている。法然の弟子のあ「まりで、後の親であ「たはずである。親鷺の死んだのは九〇歳、「歎異抄」の書か れたのはその死後であるから、「歎異抄」の著者が問答をきいたと 鸞・善信坊は、「善信が信心も聖人 ( 法然 ) の御信心もひとつなり」 と」い、相論とな「た。他の弟子たちは善信の不遜を咎め、一方親きと、語録執筆のときとの間には、少くとも五年以上の歳月が流れ
366 どういうひとだったのですか。 がよいでしよう。 いや、その數學的秩序に美しさを感じるほど覺めていれば、 よく笑いましたな。 といいたい。 あなたはその笑い聲を好きだったのでしよう ? そう、そういえるのだろうな。しかし何がおかしいのか、大 全く、あなたは徹底していますね。 徹底しているかどうか知らないが、少くともはったりはいっ抵の場合にわからなかった。 ていませんよ。 小さなことがおもしろかったのでしようね、若い娘さんのこ それはそうでしよう。あなたは徹底している、ついでにいえとだから。 「わらんへ草」に : ば、あなたが徹底しているのは、あなたが死んでいるからではない え、何ですって ? ですか。 「笑に、をかしき事を見聞きての笑、挨拶に笑、何事もなき 身體がない ? むさとしての笑、こそぐられての笑 : : : 」などと、十三種の笑が大 もう、純粹の精だからです。 蔵虎明の「わらんへ草」に擧げてあります。「嬉しき時の笑」はそ 美しいものの極致は、數の秩序である。 の一つにすぎない。とすれば、よく笑った女にとって、ほんとうに 今のあなたにはね。 いや、生きていたときにも病身でしたよ、泳いだこともな世の中がおもしろかったのかどうか。 よく泣いた女よりは、多分おもしろかったのではないです い、走ったこともない : , 刀 とにかく私はあなたと全くちがう意見です。 いや、涙をうかべることも多かったのです。 それでは、あなたにとっていちばん美しいものは何ですか。 それもなぜ悲しいのかわからないことが多かった ? さあ、女でしようか。 いや、そうではない、わからないのは、なぜ悲しいかではな ああ、それは別間題だ、ある女の、あるときの : くて、第一、涙と悲しみとの間に關係があったかどうか、第二、關 眼の媚び、整のなまめかしさ、 係があるとすれば、それがどういう關係だったか、ということで すべて移り易いものにすぎない。 話をもとへ戻しましよう。あなたにとって、戀という言葉す。「ひそめ草」にも、「人のい ( るをきけば、涙に品々有」とし は、他動詞的な内容のものだったのですか、それとも自動詞的なて、これも十三種を算えています。そのなかに「歡喜の涙」もあ り、「空泣きの涙」もあり、「目に粉藥をさしてこぼるる涙」や「辛 「もの思ふ」だったのですか。 ああ、萬葉・古今の話でしたね、あの頃の大阪はどっちでも子の過たる料理を食うての涙」もある。ということは、涙と悲しみ なかったでしよう、いや、兩方だったといった方がよいかもしれなとの間に關係がある場合もあり、全く關係のない場合もあるという ことでしよう。大きく見開いた眼が、じっとあなたを見つめなが ら、うるんで輝きはじめたとき、あなたにそれが何を意味するのか 想出すひとはありませんか。 必ずしもわからない : 覺えています、しかし今想出すことは少い : 、 0
普通ひとは自分の感動を一々表現しようとするものではない。ひとかいうような言葉では説明しえない、異様に腥く、深刻な、執着 とがその感動を語るのは、普通は、その感動において現れた對象であるように思われてくる。それを男らしく客観視しようとする點 の、充分にはみとめられていない重要さ、他人もまたそこに留意し に、かれの批評の特質が生ずるが、かれが、そのピカソのがらくた て、それを組みこんだ一つの新しい價値の體系を作るべきだと、意集めに對する共感によって暗示した淸算ぎらい、整理ぎらい、 識的か無意識的かはともかくとして、考える場合である。さもなく 執念の深さは、その寬容剛毅に關する傅説にもかかわらず、供まで ば、それによって自分の能力の特異さを表現したく思うときであろ匂うと言わねばならぬのだ。 う。小林の行き方はどちらか。前者であるように思う餘地がなくは よしんば同時に好いたり、感動を與えられたりすることはありえ ない。が、しかし、かれを感動させたさまざまの存在は、ここにも ないとある人々には思われるかずかずの對象を、小林が好きになっ 見られるように、かれがそこを通って新しい旅程にのぼり、かれのたり、それらから感動を與えられたりしても、それが本當なら、無 面貌をかえるような試練や事件に向って進むための關門ではなく 論仕方のないことである。しかしかれがそれらについて一々文章を て、いつまでもかれの周圍に佇む別のかれにすぎないのである。こ かかずにはいないということ、それらのもたらす感動を一々文學化 こもそうだが、かれの感動の表現の眞の目的は、かれ自身の豐富なせずにはいないということこれは一どうしたことだろう。それは 精神のうごきの顯彰にしかなりはしないのである。 何のためだったのだろう。 一フンポーはかれを「手術」したかも知れない。しかしその他の誰 中村光夫は、「小林秀雄氏は、批評家としては例外といって も、ドストエフスキーだって、かれを變えはしないのである。 ( し よいほど多くの批評の對象になってゐます。これは氏の書くもの かし僕がこう書くのは、一フンポーをマフルメに從って「生き乍ら、 が、讀者を陶醉させると同時に反撥させる魅力を持ってゐるためで 詩に手術される人間」とした小林の解釋を思い浮べてのことなのだあり、それがたんに文學や藝術にたいする批判ではなく、それ自身 が、實はそれは小林の誤解である。マ一フルメは、かれランポーが、 文學であるためでせう。しかしそれらの批判の大部分は、氏の評論 「生きてゐるうちに、自分で自分の詩を切斷手術」したと言ったに が讀者に及ぼす影響の分析や氏の文壇にたいする態度などに止まっ すぎないのだ。すぎない ? すぎないのではなく、正しくそうて、氏の作品の氏自身にたいする關係を見ようとするものは少ない 讀めば、自我とその大事な内面的寶との關係という、ちょうど今こやうです」と言っているが、以上のように問いを立てた範圍でも、 こで論じている問題に、マ一フルメは、隨分皮肉な半疊を人れたこと 小林の評論の小林自身に對する關係を深追いすることには、問題を 後 になるだろう。小林は、ランポーのように自分で自分を手術する人ただ文學的乃至文學論的にすますわけには行かない、人間的に醜惡 』間ではあるまいという今の論點に、いまひとつの話題が加えられる なところへ小林を引きずりこむことになるのではないかと豫感され るための、具合のわるさがあるのだ。 からである。 ) 近 だからこそかれはゴッホとルノワールを同時に敬重でき、またゴ 中村氏は、小林が、ランポーという事件の渦中にまきこまれて、 1 ギャンとセザンヌを同時に愛好しうるのだ。 そこで靑春を生ききったと信じている事實を繰りかえし指摘してい こういう風に書いて來ると、かれのこれらの畫家のみならず、か るが、これにしても、それは具體的にはどういう事件だったのか。 れが問題としたあらゆる詩人文學者とかれとの關係は、愛とか奪重かれのランポー論が語るように、思想や観念、いや言葉さえ事件で 273
いまの日本瓧會のなかに、ある種のことについては、それを正確に るか、であるか、を推定するほかはありません。 しかしこの前後の關係というのは、單にその文章だけではなくつきとめてはっきり言おうという欲求が弱いからでしよう。という ことは、もはや、言葉だけの問題ではない。鎌倉時代の日本人は、 て、その言葉が日本語のなかで、長いあいだ使われてきた習慣と關 彼らが言いたいと思ったことを、なるべく正確に言おうという強い 迚しています。そういう習慣のない言葉について、前後の關係か 欲求をもっていたらしい。いまの英國人でも日本の著者に比べれ ら、その言葉の意味を推定することはむずかしい。ですからその意 味では、現代日本語でいちばん大きな障害になっているのは、外來ば、そういう欲求が強いのでしよう。いま日本語を書いている多く の人々は、言いたいことを正確に言おうという欲求よりも、別の動 語だろうと思います。日本語のなかに外來語を使いますと、外來語 機に動かされている場合が多いんじゃないかと思います。この動機 は日本語で長いあいだ使われてきた言葉でありませんから、それが 定義されていないときには、前後の關係から、その言葉の意味を推は、しいていえば心理的な動機です。心理的な動機に動かされて、 自分の氣持、書いた人の氣持を傅えることが主で、書かれたこと自 察するということはいちじるしく困難か、あるいは不可能になる。 ところがそういう外來語が次第に廣く用いられるようになってきま體が、それ自身としてどれだけ正確であるか、ということにカ點の ない場合が多いのではないかと思います。このことは言葉の間題を した。商品の廣告のような場合には、はっきりわからなくてもいい はなれて考えると、あまり樂天的にみることのできない傾向です。 といってしまえばそれまでですけれども、もうすこしはっきりわか ったほうがいい場合でも、外國語がはいってきて、その外國語が定なぜならば、一つの瓧會が何事につけても、ことに自分自身につい 義されていないと、文章全體の意味があいまいになる。あいまいなて正確に考える習慣がなくなると、その瓧會は、ある一つの方角へ 氣分とともに流れていく可能性が大きい。その方角が、ある場合に 命題について、賛否を論じるのは、時間の無駄です。 はよい方角である場合もあるでしようけれども、またある場合に そういうわけで、現代日本語には、ことに外來語との關連におい は、惡い方角である場合もあるでしよう。そのもっとも悲劇的な例 て、たいへんいちじるしいあいまい性がある。どこの國の言葉で も、またいつの時代の言葉でも、まったく正確なものではありませが、このまえのいくさでした。 ( 昭和四十年三月 Z 京都放逡會館落成記念として行なわれた んけれども、しかし現代日本語のあいまいさは、鎌倉時代の日本語 「敎養特集」として一フジオ放送された講演の再録 ) と比べても、はるかにひどくなっている。また現代の英語と比べて も、はるかにあいまいでしよう。これもまたその意味で、現代日本 社語の特徴ということがいえます。これを克服する道は、いま申しあ げた分析からおわかりになると思いますけれども、言葉を定義する 語 本 ことがいちばん大事なことでしよう。直接に定義することができな 代 い言葉を、なるべく使わないようにするという氣風ができあがらな いと、あいまいさから脱却することはむずかしいんじゃないかと思 います。 3 それならばなぜ定義を多くの著者が避けようとするのか。それは
化」というもの、一つ一つの専門家がそれぞれの殼に閉じこもっ でも「一つの」ものというのと、「若干」のものというのと、「すべ 6 芻て、そのなかではたい ( んよく意思が疎通しているけれども、別の ての」ものというのでは、たいへん大きなちがいですね。そのちが グループの人と話しを通じることはたいへんむずかしいという妝況いをいいあらわすのに、日本語ではむずかしい、複數がないため と見合うでしよう。丸山眞男さんは、「たこつぼ文化」の構造を、 に。ですから新聞でも、飛行機が國境を越えたという、越境事件の 日本瓧會の分析の一つの軸としています。もしそれが正しいとすれような場合に、その飛行機が單數でも、複數でもかまわぬというわ ば、そのことはたいへんよく日本語の現妝に反映している。 けにゆきませんから、カッコして複數と書いてある。「國籍不明の いま、わたくしの申しあげた現代日本語の特徴は、早く變わって飛行機 ( 複數 ) がどこそこの國境を越えて進入したーと、こういう いくことと、グループ内意思疎通が容易で、グループ相互の意思疎ふうに新聞に出てくるわけですね。そのことは、いかに複數の表現 通がたいへんむずかしいということです。それが、瓧會と言葉の密 の手段のないということが、日常生活に大きな不便を提出するかと いうことをあらわしていると思います。しかしそれもだいたいは、 接にからんでいる點です。 なんとか克服できる場合が多い。 もう一つ、現代日本語に關して大切なことは、變化の面ではなく て、日本語がいつでも持っていた特徴と關係している問題です。そ れには二つあって、一つは文法の間題です。これは簡單に克服する しかしもっと實際に印してみて、いま書かれている日本語の場合 ことはできない、文法を變えることはできない。しかし實際問題と に、文學のことは別にして、大きな問題は、言葉の定義でしよう。 しては、それほど大きな障害をわれわれに提供しているとはいわた大切な言葉にみずから定義をあたえないで、その言葉を議論のなか くしには思えません。 に使うということがたいへん多い。そこで讀者の側からみれば、ど ういう手つづきをとることができるでしようか。まず文法的にみ 日本語の文法、文章法について、世間でよくいわれていること は、いわゆる主語をはっきり言わない習慣です。しかし主語を言うて、問題の言葉には、三つの意味が可能であるとしましよう。その 必要があれば言ってもいい。たいていの日本人が主語を言わないの意味を、、、 O とします。、、 O という意味のどの一つ を、その言葉にあてはめてみても、その言葉をふくんでいる文章が は、言わなくてもわかるから言わないのです。私はそれは大きな問 題ではないと思います。大きな間題は、わたくしの考えでは、句と意味をなす。という場合に、どの意味が著者の考えたものであるか という問題。もしをあてはめてみて、そうすれば論理的にいって う點です。句とう點の規則は現代日本語では決ってない。句とう點 その文章が意味をなして、、 O をあてはめた場合には、文法的に の規則が決ってないということは、文章の一部分が他の部分とどう いう關係にあるか、ことにある一部分の影響が文章のほかの部分にはあてはめることはできるけれども、論理上意味をなさないという ときには、その定義されていない言葉の意味は、、、 O のなか およぶときに、どこまでおよぶのかという範圍が容易に決められな のであるということはいえるでしよう。しかしそうでなくて、 いということです。そのために實に大きな障害を起こしています。 、、どちらをとっても論理上文章が意味をなして、 O をとると ことにいいあらわそうとする考えが複雜な場合、たとえば哲學のよ きにだけ、意味をなさないという場合には、 < であるか、である うな場合には、その障害はほとんど無限に大きくなってくる。 か定義がないとわからない。そのときには前後の關係から、であ 文法に關する第二の問題は、單數・複數ということです。論理學
ない。どこの國のどの時代の獨裁君主にもありそうな話である。しったことは一度もないし、たち得る可能性を感じたこともおそらく かしおそらく寵愛の女二人の回心は、機會であって、原因ではなか 一度もなかったろうということである。叡山と天台を捨てて、法然 ったろう。彈壓の原因は、おそらく内紛相次ぐ支配層の側での不安 へ赴いたときに、すでに京都の貴族瓧會ではなく、關東の農民と武 であり、不安を通じて敏感に感じとった念佛宗の潜在的脅威であっ 士豪族の間で布敎すべき親鸞の蓮命はきまったといえるだろう。ま たにちがいない。そうでなかったと考えるためには、彈壓はあまり たそのときに、聖道門ではなく、易道門、信院佛敎ではなく、在家 に徹底していた。後鳥羽上皇は、法然とその弟子七人の信籍を奪っ佛敎の道もきまった。すなわち一方にはひとつながりのものとして て流罪とし、弟子四人を死罪とした。親鸞の「敎行信證ーの後序に の叡山の天台宗・後鳥羽上皇の權カ・貴族瓧會・京都があり、他方 よれば、 には法然の念佛宗・地方武士と農民・關東があった。親鸞の弟子の いかり 「主上臣下、法に背き、義に違ひ、忿を成し、怨を結ぶ、これによ大部分が常陸を中心とする關東一帶に多かったことはすでに觸れて りて眞宗興隆の太祖源空法師ならびに門徒數輩、罪科を考へず、みきた通りであるが、念佛宗はその關東のなかでも、京都につながる だりに死罪に坐す。あるひは、僧儀を改めて、姓名を賜うて、遠流部分よりはつながらぬ部分、支配する層よりは支配される層に擴っ に處す。」 たと想像する理山が充分にある。 「主上臣下、法に背き、義に違ひ」という以上、親鸞において「法」 「此の世の習にて、念佛を妨たげん人は、共の所の領家地頭名主 と「義」は、「主上」に超越するものであった。われわれはここで の、様あることにてこそ候はめ。兎角申すべきにあらず。念佛をも ねんごろ も、往生のことが倫理・人情・知識に超越する以上、法と義の概念 懇に申して、妨げなさんを助け給ふべしとこそ、古き人は申され よくよく もまた國家權力に超越するという思想的構造をたしかめることがで候ひしか。能々御尋ねあるべきことなり。」 きると思う。 念佛を妨げるのが、その土地の領家地頭名主であるのは、世の習 法然ははじめから權力の側にはなかった。地方官吏の息子で、地だという以上、念佛宗が領家地頭名主つまり地方權力の側ではな 方の寺で敎育をうけてから叡山に送られたという事情だけからも、 く、それに對立する側に主として浸透していたと考えないわけにゆ 彼にとって京都の權カ組織が全く異質なものであったであろうと想かないだろう。親鷺は京都の貴族瓧會に對して、關東の武士・農民 像することができる。親鸞は京都の出で、貴族の血をひいていたらの側にたったばかりでなく、一般に支配する者の側にではなく、支 しい。しかし彼の生家は多分貧乏貴族にすぎなかった。少くとも道配される者の側にたった。ところが支配する者の側には、組織があ 元にとっての貴族瓧會が、そこから逃れ出るべき本來の環境であつり、 機構があり、體制があるはずであり、「主上臣下」一體のつな たのとは、まるでちがう事情であったろう。しかも幼時からの叡山がりがあって、後鳥羽上皇から貴族、貴族から鎌倉幕府、鎌倉から 二〇年の生活において、親鸞の地位は高くなかったと考えられてい 「領家地頭名主」にまで及んでいるとすれば、その全體に一個の思 る。天台のすでに樹立された秩序のなかで、彼は不遇であった。そ想的武器をあたえるのが、叡山・興輻寺その他の役割であったとい れが二九歳までの話である。それから法然の門に投じ、三五歳のとえよう。思想上の叡山・興輻寺その他に對する徹底的な反撃は、從 って京都に對しては關東、貴族に對しては武士、領家地頭名主に對 きに流罪、「信儀を改め」越後へ向う。ほとんど疑う餘地のないこ とは、彼が貴族と信侶との權カ支配機構の内側で、支配する側にた しては農民大衆の本質的な平等を意味するものでなければならなか
國の力をいくらかでも弱めることであり、米國の力がいくらかでも において比較し得るものであった。その軍隊の規律と道義的高さ、 2 また民衆の支持・反撥の感情は、量において比較し難いものであっ弱まれば、敵味方のカ關係は、敵に有利、味方に不利、とりもなお さず日本にとって不利とならなければならない。すなわち自主獨立 た。量において比較し得るものだけを比較して天下の形勢を考える は、安保條約の禪聖な目的そのものに反するのである。爭い〈參加 思考上の習慣は、内戦の結着についての判斷を、大いに誤らせたと するときには、第一に、爭いの目的そのものを問う自主的判斷を捨 いうことができるだろう。 冷戦參加主義は、状況判斷の現實主義の放集である。爭いの渦中てなければならない。第二に、爭いの方法を撰ぶ自主的判斷も制限 に身を投じれば、ものの考え方が、非現實的になる傾向を避け難しなければならない。 ( 指揮者に、同盟國がいくさの方法に關する い。逆に爭いへ參加することを拒絶すれば、ものの考え方がより現意見を述べることはできるかもしれない。しかし同じ陣營内で方法 實的になる道がひらける。中立主義は、國際情勢の現實的な判斷を上の意見のくいちがいがあまりに多ければ、爭いにおいて味方を不 利にするだろう。 ) 「冷戦」參加主義と、自主獨立は折り合わない。 可能にする第一歩である。 しかし中立主義は、妝況の判斷における現實主義の前提であるに自主獨立は、「冷戦」に對する中立を前提として、はじめて具體的 になるのである。 とどまらない。また一國の自主獨立の前提でもある。「冷戦」の二 大陣營が、指導國と同盟國とから成ることは、軍隊が指揮官と兵卒「冷戦」の現實を前提として、中立主義は、第一に妝況の判斷に關 して、現實主義の基礎であり、第二に、一國の國際的立場に關し から成るのに似ている。戰鬪中の軍隊において、兵卒の自主獨立に ついて語るのは、意味をなさない。同様に「冷戰」の前提をそのまて、自主獨立の條件である。 ( もちろんこの意味での中立主義には程度の ま受け入れて、爭いに參加する以上、指導國に從わないのは、すじ差があるから、もっと正確にいえば、對立する二つの陣營との關係におい が通らない。指導國に從うのは、自主獨立ではなくて、忠誠從順で て、一國が中立主義的であればあるほど、その國の状況判斷の現實的である ある。忠誠從順が自發的であるということはできるが、自發的に國確率が大きく、またその國の立場がいよいよ自主的になる場合が多い、とい 難に赴いた兵卒が、軍隊のなかで、自主獨立だということはできなうことである。 ) しかし「冷戦」の現實は、動かない前提ではない。それは國際情 い。「米國の指導する陣營に參加した以上、米國の利益はわが身の 利益、米國のすることが正しいとか正しくないとかいってもはじま勢の全體と共に變化する。緊張は一般に增すこともあり、緩和する こともある。またその緊張關係は、世界中のどこでも同様に消長す らない」という輻田恆存氏の議論は、「冷戦」の理想的な兵卒とし るのではなく、地域によって多かれ少なかれちがう。ことに後者の てすじの通った言分である。しかしたとえば「日米對等の安保條約 をもととして、自主獨立の外交を進める」といった岸信介氏の議論場合には、地域の情勢に密接な小國が「冷戦」の消長にあたえる影 響は大きいだろう。「冷戦」の現實は、それ自身動く現實であるば は、おかしい。安保條約は本來、「カの眞空」にしのびこもうと、 かりでなく、また小國の立場からみても動かすことのできる現實で 手ぐすねひいて待つ「共産圈」に對抗するための御聖な國際協定で ある。そこで一般に、「冷戦」の現實の動かぬ面、動かすことので あるはずだろう。そのおそるべき「共産圈」を防ぐ力の中心は、い きぬ面、ーーーそれはたしかにあるーーを強調し、その前提のもと うまでもなく米國である。日本の外交が、その米國の線に副わず、 自主獨立と稱して米國の線から少しでもはずれるならば、それは米で、一方の陣營に參加しながら、軍事同盟によって自國の安全を計
とえば、トルストイとはちがう。ちがったって、かまわないが、と 本の國家の組織との關係、さらに國民生活との關係、そういうもの 6 紹の中に、作者の關心が人りこんで行くはずのものですが、この作者にかくちがう。トルストイはどんなに名聲と地位が高くなり、どん なに物質的に惠まれても、自分の思想に追っ立てられて、ついには の場合、そういうことにはならない。現に自分の目に見ないもの は、かまわないということになるわけです。だから、志賀直哉の文家出をして、のたれ死に同様な生涯を閉じるわけでしよう。年をと 學は、本質的に肉體の文學、靑春文學といっていいかと思います。 ればとるほど、煮詰まってくをのが思想というものの本體です。年 をとればとるほど、うっすらして、水つ。ほくなって、しまいには、 自分の周圍に自分のわがままを通せないような條件が存在すれば、 忽ちこれと對立し、緊張し、負けてたまるものかということにな朝顔でも眺めて樂しむてのは、これは思想とは關係がない。思想と る。 いうのは、年をとればとるほど煮詰まってきて、二十四時間本人を それは、感受性の世界だけの緊張であって、それが思想としてか規定してやまないものです。そういう作家とは、およそ縁のないの が志賀直哉ということになります。 かわってくるのではないのだから、肉體的のものと考えていいでし こういう點で武者小路とどうつながるか、さらに、たとえば、瀬 よう。だんだん社會的な地位が高まり、年もとって、自分の周圍に 自分をいらいらさせるような條件がなくなってくる。崇拜者にかこ沼さんの話された有島武郎という作家とは、どこが異質で、どこが まれて、對立者がいなくなる。そうなると、彼を刺激し、彼を緊張どうつながるか、そんな點について考えてみれば、白樺派というも させるものはなくなってくる。それは、とりもなおさず、彼の文學のについて、興味と理解を深めることができると思います。 ( 昭和三十九年七月 ) の枯渇を意味します。 そこへいくと、武者小路は感受性に生きる作家ではなく、むしろ 夢想的な詩人だから、戦後、高齡になっても、創作力は衰えを見せ ず、「眞理先生」とか、「馬鹿一」とか、溢れるような大作を見せて います。志賀直哉の場合、自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の からだで觸れた限りにおいて、不自然なもの、不愉快なもの、醜悪 なものの存在をゆるさない。だが、不自然なもの、不合理なもの、 なんとも話にならないひどいものが、いよいよ增大しつつある現代 なのに、それらは、志賀直哉の感受性には訴えるところがないらし い。ここに志賀直哉の文學の驚くべき性格が、はっきりしてくるよ うに思います。一方に、そういう不具性がある代りに、一方では質 的に充實した緊張と美しさがあるということになりましよう。 さびしいことですが、志賀直哉の文學は、本質的に肉體の文學、 靑春の文學であって、年を加えれば加えるほど、大きさなり、深さ なりを加える文學とはちがうということです。そういう意味で、た