290 ( まえ あなたのお子まで、産しまして、その子は、もう、十一歳でござお兼おや、あんた様は、あの頃、毎日、私のお點前で、召上りま いますよ : ・ したがのウ : 善光おお、坊子は、元氣かい ? ええ ? 玉太郎は、どうした 善光また、寺の話か。もう、お止し : お兼昔が、なっかしゅうございますので、つい : : 。私は、あの お兼まだ、學校から戻りません。 ・ : 大變、頭がよろしいそうで 頃十七娘 : : : 。幸輻でございました : ・ : 。體も大變丈夫でございます : : : 。本當に、あんた樣のおか 善光今は、じやア、不幸か。 : そうか、幸輻とは言えないな げで、こうして、仕合せに育って居ります : ・ 。こんな、亭主に放ったらかされていちやアね工。 善光妻い皮肉を言われているようだなア お兼いえ、なんの。 : 私は、思い出します : 父に言われた お兼ええっ ! 何んですって。 : めっそうもない : : : あんた樣 ことでございます : : : 。東京に嫁人りいたします時でございまし 。「こら、お兼、お前の夫となる善光様は、實に、二人と 善光分ってる、分ってる : ・ ごめんよ 。お前には、とて 無い天才で、今に、日本一の大畫家となるのだぞ。ゅめゅめ、あ も、太刀打出來ないよ : : : 流石のおれもな。 : : : 變なことを言っ だおろそかには出來ないぞ : : : 。」ーーー今も、この言葉を、わた て惡かったよ : : : あやまるよ、お兼 : ・ しは、朝夕、心に唱えておりますもの : お兼とんでもございません。 ・ : あやまるなんて。 ・ : 勿體な善光それは、あながち、嘘とは言えまいね ? いや、しかし、久 い。 ・ : ああ、でも、これで、安堵いたしました : ・ しく御無沙汰したよ : ・ いつでしたろう ? お顔をお見せにな 善光だけどさ、お前、もっと、こう、くだけた : : : 都會風になれお兼あれは、この春 : ・ よ : 。その故鄕の風習をやめてさ・ ったのは : ・ 。ああ、私は忘れてしまいました : お兼ええ ? 何んのことでございますか : 善光そうだ。こんな不實な亭主は、世の中にいなかろうな : ・ 善光分った : ・ いいんだ。いいんだ : 。もっとも、おれは、 しかし、金は、きちんきちんと送っている。今後も、絶對にそれ 。何ん お前のそういうところが、堪らなく好きなんだがね工 : は安心していていいからな : いや、もう少しの辛抱だよ。な、 となく、こう、早死にしたおれの母のふところに抱かれているよ お兼。・ : ・ : お前と玉太郞は、今に御殿に住むようになるよ : ・ うでなア : ・ : 。お前の顔を見ていると、あの寺の百日紅を思い出 それは、たしかだ。 : それを信じてくれ : すよ : : : 砂漠のオアシスだな、これは : 。何と言ったって、お ところが、あの、あばずれと來たら、大變な浪費家でな。この れの渡世は、無理の連續だからなア : : : 。油斷もすきもあったも おれが儲けた金を、水のように費いやがるんだ : ・ んじやアないのさ。 ・ : まるでもって、毎日、「やまいの草紙」 あいつは、陽堂先生と、このおれを、體も魂も、しゃぶりつく だよ : ・ : 。だから、フィと、お前のその健全無心な菩薩の顔が、 す女だよ : ・ 拜みたくなるのさ : お兼「それもこれも、これすべては、善光の藝のためだ : : : 畫業の お兼お茶を、おたていたしましようか : 手段だ ・ : だから、お前は、じいっと、辛抱せにゃならぬ : : : 」 善光お抹茶か。・ : ・ : 欲しくないよ : : : せつかくだが :
て、お前、交替もヘッタクレも無えんだから。 アンリそらそうだけどよ、景氣が惡くって、そうで無くても氣が めいりそうだからよ。 ヴェルネ炭車も昇降機も停っちゃづてるしな、ボウだけのために 釜に火を入れるの無駄だって・ハリンゲルさんが言ったそうだ。 アンリ : ちしようめ。 デニスたまらねえ ! 俺あ、たまらねえー俺あ・ーー ( これは先 程から片隅の床の上にじかに置かれた藁のべッドのはじに腰をおろして、 兩手で頭をかかえこんでいた男。低い、すすり泣くような聲で言いだす ) 1 プチ・ワスムの小屋 十日前まで、炭車や昇降機はガラガフ、ガ一フガ一フ唸ってた、ボウ も隝ってたし、隹、 言力が怒鳴ったり、歌ったりよ ( 立ちあがってイラ ドス黒く、貧寒なガランとした室の、奥の窓から差し入る日暮れ前の イラと床の上を歩きたす ) : それがよ、こうしてみんな聲も出さ 光の中に、四人の人間が押しだまっている。 なくなって、大も吠えねえんだ。山中がシーンとなってしまっ て、もう十日だ。 アンリ : ヴ = ルネ、もう、なん時ごろだろう ? ( こわれかけたヴ = ルネデニスよ、まあまあ落ちつけ。 椅子にかけている。右腕が肩のつけ根から無い ) ( ガ一フリと窓をあける。窓の向うに、黒く靜まり返った坑ロ ヴェルネそうさな : ・ ( これは中央の板椅子にかけて、火の消えた。ハ 近くの風景の一部が見える ) 見ろよ ! 人っ子一人歩いて無え。あ イプをくわえている。窓の方を見て ) そろそろ五時半と言うとこか んまり靜かで、俺あ耳ん中がワンワン、ワンワン言って、氣が變 な。 になりそうだ。 アンリだって、まだこんなに明るいぞ。 アンリそりやお前、スト一フィキだから、しかたが無えよ。 ヴェルネ天氣が良いと、こうだ。これで、あと二十分もして、お デニスだからよ、俺の言うのは、そのストライキがよ、こんなザ てんとさんが、ボタ山の向うに入ると、いきなりバタッと眞暗に マで、この先きどうなるんだと言ってるんだよ。會瓧じゃ、俺た なるやつだ。 ちが默って言う事を聞かないようなら、四坑とも閉鎖すると言っ 人 アンリでも、五時の交替のボウは、まだ鳴らねえぜ ? てるし、今となっちゃ、ワスム中の百軒あまりの家で十サンチー の ヴェルネ一一、三日前から、ワイスの奴あ、ボウ鳴らすの、やめて ムと金の有るとこは一軒も無えんだよ。食えるものと言えば、木 るよ 0 いちごや草の根はおろか、猫や鼠やトカゲからひきがえるまで取 アンリあ、そうだっけ。畜生め、ボウぐらい鳴らしてくれたって って食っているありさまだ。 罰は當るめえ。 アンリだってお前、そりや、そうなって來たんだから仕方が無え ヴ = ルネだけどよ、アンリ、ボウは交替の合圖だあ。こうなっ よ。スト一フィキと言やあ、まあ戦さみてえなもんだ。つまりが戦 炎の人 ゴッホ小専
タンもうそれでいいでしよう。 君クサンチッペ。美人でね。ただ少し、ロが悪かった。ハ、、、 學生又はじまった。僕は風景を描くんだぜ。オークルが無くて、 とにかく、だから小父さんはソクラテスと言う事になるじゃない 、 0 どうして描けるんだい ? タンさあ、それは私にはわかりませんな。とにかく、もう綸具は タン冗談でしよう、へへ。 有りません。 學生だから、オークルを貸せよ。 學生小父さんちは繪具屋だろう ? タン困ったなあ。 タンそりや、そうでさ。看板にもチャンと書いてあります、繪具學生それに小父さんは、貧乏繪かきのパトロンだろう ? みんな 販賣業、タンギイ。 そう言ってる。ペール・タンギイこそ、新らしい。ハリ畫壇の守り 學生だから業じゃないか。業なら客に賣らなくちゃなるまい ? 祚である ! タン賣りますよ、賣るぶんにはいくらでも。 タンおだてたって、その手には乘りません。そいつで今までずい 學生だからオークル一本。 ぶん引っかけられて來たんだから。第一あなた、こんなちつぼけ タン聞きますが、賣ると言うのは、品物をお客に渡して、お客か な店で、そうそうナニしていたんじゃ、忽ち破産ですからね。せ ら金をもらう事でしような ? あなたは、この前の分も、まだ拂 いぜい私らに出來る事は、若い繪かきさん方に時々僅かの融通を ってくださらない。 してあげる位のとこでさ。それと言うのが、私あ繪が飯よりも好 學生だから、こんだおやじから金が送って來たら、今日の分もい きですからな。 っしょに、くださろうと言ってるじゃないか。信用しないかね僕學生その若い繪かきさんじゃ僕は無いの ? だからさ、よ ! そ の言うのを ? の僅かの融通を、ね賴むよ。 ( 十字を切って ) 金が來たらきっと拂 タン信用はしますけどね : : : 困りますねえ、とにかく、家では家 う、サン・ラザールのマリヤにかけて ! 内があんた、やかましくって。 : どうも、しようがないなあ。じゃま、こんだ必らず拂っ 學生ははん、クサンチッペかーーー ( 店内を見まわす ) 今日は留守か て下さいよ。ええと、二十フランに、今日のぶんが、オークルを 加えてと、九フランと、二十サンチームと ( 言いながら、棚の タン奧に居ますけどね、とにかく私が後でえらく叱られますか 箱から繪具のチ 1 プを出して、今までの二本に加える ) ら。 學生ありがたい、助かるよ : : : ( と、ホクホクしながら、そのへんを 學生クサンチッペとはよく言ったな。ゴーガンが初め言い出した 人 見まわしていたが、「タンギイ像」に目をとめて ) ほう、小父さん描い んだって ? の たの ? 似てるなあ。自畫像ってわけだね ? タンそうですがね、ありや、どう言うわけがあるんですかね ? 英 タンへへへ、やあ、そういうわけでもありませんけどね : : : ちょ 學生へえ、知らないのかい ? ノハハ、こいつは良いや ! っと、そのーーーはい、これ。 ( とチ、ープを渡す ) 礙タンどうでゴーガンさんだ、やつばり惡ロでしような ? 學生ふむ。 ・ ( 繪をジロジロと見て ) おもしろいじゃないか。思 學生いいや、褒めたんだよ。ギリシャの大哲學者ソクラテスの妻 い切って荒つぼい所が良いよ。われわれ玄人には、こうは描けん
17 イ たら、一度に返す。 ( 彼の言い方には妙に壓力がある。タンギイは、そ れに押されて、しぶしぶしながら、ポケットの財布から金を出して、ゴー ガンに渡す。・ : ・ : ゴーガンは別にを言わず、それをポケットにほうり込 んで、出て行きかける。他の四人は人口の所で待っている ) ヴィン ・ ( 繪の凝視から不意に醒めて、あわててゴーガンの前に廻っ て ) ま、待ってくれ。供の言っているのはね、いや、いや、この 繪はそうかも知れない、メチャメチャかも知れない。トーンが無 いのは、君の言う通りかも知れない。その事じゃないんだ。僕の 言いたいのは、それじゃないんだよ。わかってくれ、ゴーガン。 君は僕の先輩だ。すぐれた家だ。賴りにしている僕は。ね、わ かってくれ、僕が實在だと言うのは、この、つまり、タンギイな らタンギイの、こう描いてある着物の下にだなーーー・いや、僕でも ( と、せき込んで言っている内に氣 良い。この、この着物の下に がいらって、いきなりナツ。ハ服を脱いでしまう。下には襟なしのシャツだ け ) こうして、身體がチャンと在る。こ、これが人間だ。ヴィン セント・ヴァン・ゴッホだ。これが實在なんだ。 ( ズボンまでぬい でしまう。滑稽なズボンした ) ね ! ね ! それを畫家は描かなき ゃならないんだ。表面の着物だけでなくだ、色たけでなくーー・そ れを僕はーーー・わかってくれゴーガン。賴むから ! ( ゴーガンの膝に 取りついて、何度も頭を下げる ) ゴー僕は君に忠告する。そこをどきたまい。そして、もう少し落 ち着きたまい。 ロート ( 笑って歩き出しながら ) さあ、もう行くぜ。 ヴィンま、待って、トウールズ ! ベルナール ! どうか賴むか らーーー ( と、そちらへ向ってもお辭儀をする ) うるさい。 ( すがりついて來るヴィンセントを、いきなり輕々 とひっかかえて、わきの賣臺の上にヒョイとのせ、サッサと出て行く。ゴ ーガンを迎えた四人は、こちらを振返って見ながら、向うへ立ち去って行 ゴ : ・賣臺の上に滑稽な下着だけで、兩足をプ一フリとさせて、默りこん でしまってキョロンと坐ったヴィンセントの寂しい姿。それをタンギ イが氣の毒そうに眺めている ) 。どこかで、微かな鐘が鳴る ) タンゴッホさん。 ヴィン タン風を、引きますよ。 ・ : そんな恰好で、いつまでもいると。 ヴィン ( おかみは奧で居眠りでもしている ・ ( 奧 0 おい、お前 か、返事なし。タンギイ、賣臺の方へ寄って行き、落ちているズボンと上 着を拾って、臺の上に置く ) さあさ、着なすったら : ヴィン ・ ( 唖になったよう。顔も急にいんうつになり、眼の色も暗く 鈍くなっている ) ・ ( しかたなく、垂れた足にズボンをはかせる ) どうしました ? : あんまり、あなた ・ : なに、ゴーガンさんは善い人でさ。 が、昻奮して言いなさるもんだから。フフ、そんな、あなた、先 きは永いんだから : ヴィン ( 人がちがったようにノロノロした動作で賣臺からおりて、 ズボンのボタンをかけ、上着に手を通す ) ・ ・ ( 非常に沈んだ聲で ) ど うして、こうなんだろう僕は ? ・ : ゴーガンは偉い人間だ、た しかに。 ・ ( 言 : ホントだ、僕は昻奮しすぎる。僕が、惡い。 いながらユックリ歩いて「タンギイ像」の前に來て、無意識にそれを見て いる ) ふん。 : 先きは永い : : : 先きは永い ? ( ヒョイとタンギイ を見る ) ・ : いや、そうじゃない。僕は急がなきゃならない。 ( 再び「タンギイ像」に眼をやる。片手を前に出して、畫面をいろいろに さえぎって見ながら ) : トーン ? アルモニイかイマージュ。 ・ ( ほとんど無意識に先程投げ出してあった繪具箱の方へ行き、それを 抱えて繪の方へ行き、箱を開け、パレットと筆を出して、椅子を引き寄せ て繪に向っている ) ( 不意に店にはヴィンセントとタンギイの二人だけが殘されてしまう。
120 かな ? 早くハッキリ云って下さい、この忙しいのに、ホントに ( 自分一人でうなづいて ) でと、肴には凍豆腐の煮付けと、 ( 更にお キモの煮える ! に ) ニンジンのゴマアへは出來たなあ ? ( 帶の上を平手でトントン 吉春いや、本人さへそれでよければ、それでいいやうなもんちゃ と叩きながら ) ( まだ言ってゐる ) けど 雪 : : : 出來てる。 紋あにを、そんな浮かない聲を出すな ? もっとハキハキせん紋だから、一體全體、何がどうなんですよ ? するとーーーする と、なんですか、お雪が小宮山へ行くと決めたのを、今になっ と ! チャンとい白粉でも附けて : : : 去年買ったのが、まだ有っ て、どうにかならんかとおっしやるんですか ? たらうが ? え、お雪 ? 吉春だから、本人さへ、それでよければ 雪うん : : : でも 絞なあに、恥かしい事なんぞ有りはせん。一世一代の日ぢやも紋 ( たうとう怒鳴りはじめる ) そいぢや、そいぢや、本人が望まない のに私が無理押しつけに行かせる事にしたとでも言ふんですか ? の、思ひきり綺麗にして、向ふの家をビック一フさせてやるがえゝ よ。 気の立った高笑ひで、袖や襟の具合などをなほして そんな事を今更になってあた言ふんですか ? そいちゃ、そい ゐる ) ぢや、雪は私の實の子ぢゃないんですか ? 自分の腹をいためて 此處までチャンと育てて來た自分の子を、この私が無理押しつけ 吉春 : : : なあ・ーー ( これは何か考〈考へ、まだ白ちりめんの帶を締めな に片附けようとしてゐるわけですか ? ホントに馬鹿も休み休み がら ) ・ : ・ : だども、へえ : : : なんとかならんかな ? 私がし 云って下さい ! そりや、話は私が運んで來ましたよ ! : なにがですな ? 絞なんとか ? なければ、あゝたはその調子で何處へ行っても口一つきけやしな 吉春む、いや : : : そのう いちゃありませんか。私が邇ばないで誰がしてくれますな ? そ 紋酒ですかな ? そりや、今日は特別ぢやから、あ又たにも飮ん れと云ふのも、私やお雪の行末が仕合せになるやうに、それにや でいたゞくとして、だから、内のぶんのほかに二升餘り借りてあ 家がらばかり良くっても内みてえに貧乏な家でなく、チットは樂 るから の出來る家へと思ってーーーさうですとも、貧乏世帶を背負って、 吉春いや、その : : : 雪のことさ。 あ又たみたいな甲斐性の無い人を相手にやりくりばかりして働き 紋雪がどうしやした ? 通して來た苦勞は、私だけでたくさんです。お雪にや、そんな苦 小宮山の方のこと : : : わしはどうもその 吉春いやさ、その : ( いっか涙聲になってゐる ) さう思うて、さう 勞はさせたく無い ! 思やこそ、小宮山の家では嫁になり手のロはいくらでも有るの 絞また、何をウダウダ言うてゐます ? ハッキリ言うて下さい を、サンザ苦勞をして、ようやっとの事で、私は話を此處まで運 月《山がどうしましたな ? どうかならんかとは、何がで んで來たと言ふのにーーあ又たの言ふ事を聞いてりや、まるで私 すな ? がウヌが見榮やええうのために娘の仕合せなんど考へもしねえ 吉春いやさ、俺あ、たゞ、その : : : チョットそんな氣がしたで で、いゝくらかげんの所に無理に片附けようとしてもゐるやう にーーそんな、そんな事を今更云はれて 絞 ( ジレテ ) だから、だから何が、全體何がそんな氣がしたんです
287 善光の一生 金富突如として、陽堂の繪が、暴騰したんですよ。 : ・みんな血 流れ込んで來た : あれよ、あれよという始末。・・・・ : もとより まなこで、陽堂を奪い合いしている : 。いや、世間の旦那連中 ね、私なんざ、分り切っている : 。陽堂先生の繪なんかね、新 がね。・ : ・ : 陽堂々々って。 : 外人まで血まなこだ。 ・ : 前代未 畫じゃないか ! 故人と言ったってさ。 : ところが、ムチャク 聞の大人氣ですよ : チャだ。私らの目效きなんぞ、てんで受付けない勢いでさア : 善光結構じゃないか = = = 。儲けるのは、あんたらばかりだ = ・ それに、あんた、あの陽山先生さ : : : 陽堂先生の第一の高弟だ 金富ところが、こっちは、陽堂ものの持荷は、とうの昔、手ばな ・ : あんたも百も承知だね。 ・ : あの先生の鑑定さえ、怪しいと していまさア : いう逆宣俾ですよ。 ・ : ええ ? 先生、烈火の如く怒って居られ 善光運が惡いねエ・ ・ ( 苦笑 ) ましたがね工 : 金富こんなバカバカしい野火をひろげたのは、善光さん、あんた善光そうかね。 だよ : 金富そうかね、じやアありませんよ。こうなると、善光先生以外 善光何故ね ? に、信用出來る鑑定家はないという騷ぎだ : : : 何んと言っても、 金富あんたが、日本橋あたりに出現して、新米の連中をかり集め 不思議だ : て、陽堂の鑑定を始めたからですよ ! 善光そりやそうだろう : 善光そりやア、賴まれればね、いやとは言わんね = : : ボクは : 金富ええっ ? 金富あきれかえったことはね : : : あんた : 。サア、ここが肝腎善光いや、だってね、世間てものは、結局正直なんじゃないかな なとこだ : : : つまり、殿村善光鑑定の極め付のないものは、みん : ? そう混亂して來たら : : : たしかに、この私以外に無いも な、僞物だっていう、どえらい評判が立っちまったんですよ・ のね : : : いや、陽堂の眞物を見極めるものはさ : みんな、あの若い奴らの惡宣傅でさ ! 金富ふうむ : くろうと 善光そいつを、もみ消せばいい : いや、あんたら、古い玄人善光だって、そりやアあたりまえでしよう : さん逹がさ : 一番、そいつを知ってる筈じやアないかな : ・ 金富鴨川の水を逆さに流すようなもんですよ。 = = ・・實に、滔々と金富ふうむ。 して、この勢では : 。ええ ? 陽堂は無いか、陽堂は無いか。 善光 わたくしといたしましたら、そんな事は、何んでもない ・ : 旦那衆は、まるで氣違いだ・ となると、あんた、先刻御 ことでございますよ : 。何しろ、わたくしの目に狂いが生じる 承知でしよう ? 今度は、わんさと、本當のつまり僞物が飛び出 わけはございませんよ。いや、その繪は、みんな、わたくしが描 して來た ! 惡い奴らですよ。わしら商賣の面よごしだ : : ・若い いたも同然でございますからな : : : これは、目をつぶっても、間 仲間が、得たりとばかり、お客に、そういう怪し氣な陽堂ものを 違う筈はございませんよ・ : と言ったら、供は、大いかさま師か どんどん賣りつける : ね ? アハハハ。おい ! コーヒーは、どうした ! ね工 ? ここだよ、善光先生 : こうなると手がつけられな絹枝金富さんには、コーヒーより、この方がよろしいのよ。 かん : ・僞物が、京大阪、いや九州からまで、わんさと東京〈、 サア、丁度いいお燗よ : : : 。大變、昻奮しているようだから : 。あんたなんか、
プ 75 炎の人 タン坐るんですか ? 今日は、よしにしといたら、どうですか タンテオさんて方は、まったく良い弟さんだ。兄さんのことをあ んだけ氣にかけている弟と言うのは見たことがありませんね。 ヴィン ・ ( そう言っているタンギイを、既に書家の眼でみつめ、筆が ヴィン僕にはもったいない弟だ。だのに、僕は一生あれの厄介に 知らず知らず。 ( レットに行っている。タンギイは、それから縛られたよう なり、あれを苦しめなけりゃならない。だって、僕の繪はまだ一 になって、ひとりでに、いつもモデルとして掛けることになっている壁の 枚も賣れない。 前の椅子に行って掛けている ) タンなに、その内に賣れますよ。これだけ立派な繪を描いていら ヴィンシャッポは ? っしやるんだ。そりや、みんな、すぐれた繪かきさんは、なかな タンああ、そうそう。 ( と、壁の下方にかけてある麥わら帽子をかぶ か認められません。現にピッサロさんやマネ工さんなどもう五十 る。「タンギイ像」のタンギイになる ) 過ぎです。それが、やっと賣れはじめたのは此の二、三年のこっ ヴィン ・ ( それを見、次ぎに。ハレットの上で繪具をつけた筆をカン・ハ てす。世間と言うものはそんなもんでさ。目の前で天才が飢えて スに持って行き、塗りかけるが、塗らないで、筆を持った手で、自分の額 死んでも知らん顔をしているくせに、ズーツと後になるとヤイヤ をつかむ ) イもてはやす。世間と言うものは、そういう馬鹿でさ、私なん : どうしました ? ぞ、なんにも深い事はわかりやしませんけど、繪が好きですから ヴィン : 頭が痛い。 ね、とにかく良い繪と惡い繪ぐらいはわかりますからね、まあと タンあんまり、この、昻奮なさるから。 : いっとき休んでいた にかく、すぐれた繪かきさんで、世間の馬鹿が認めないために貧 らどうですかな。 乏している皆さんのために、ホンの少しでも役に立てばと思っ ヴィンいや、大した事はない。近頃ちょいちょい、こんな事があ て、こうやって繪具屋をやっていますが るんだ。・ : ・ : 痛むと言うよりも、何か鳴るんだ。キ = ーンと鳴っヴィン 小父さんには、いつも、ありがたいと思ってる。 : でも て、そこら中がキラキラと白く見える。 僕は時々、自分が繪かきになったのは間違っていたんじゃないか タンあんまり根をつめて描き過ぎるんじゃありませんかねえ。 と思うことがある。もう、よしちまおうかと思うことがあるん : すこし旅行でもなすったら ? : : アルルかニースあたりに だ。實際、人に厄介をかけるだけだ。こうしていると。 : しか 行ったらって、ロートレックさんも、こないだ言ってらしたじゃ し、よせない。繪を描かないではいられない。人から誰一人、認 ありませんか ? められなくても ヴィン 01 トレ ' ク = = , あれは良い男だ。アルル = = = でも、そんタン認められないなんて、そんな事はありませんよ。現に 0 ート な事をすると、又金がかかる。テオドールに苦勞をかけることに レックさんもベルナールさんもモリソウさんも、あなたの繪を認 なる。 : そうでなくても、テオは樂ではない。そりや、僕の描 めています。たった今さっきも、この繪を、モリソウの奧さんな いた繪はみんなテオの物になると言う約束で金を出してくれてい ど、綺麗だって、そりゃあなた て、嫌な顔などテオはしない。しないけど時々僕は、すまなくな ヴィンモリソウさんは、ありや君、繪は描くが、結局は金持の奧 る事がある。 さんで、僕らの行き方とは違う。それから、ロートレックやベル
176 ける程度じゃないですかねえ。よしんば、家からよこすと言って ナールが、そう言ってくれるのは、友達だから、同情すると言う も、あの氣性じや受け取りはしないでしよう。 か、憐れんで褒めてくれてるのかも知れない。 ヴィンあれだけの偉大な繪かきが、食う物がない。 : : : 畜生 ! タンそりや、疑い深か過ぎると言うもんですよ。じやゴーガンさ 世の中の人間はみんな阿呆だ ! と言っても世の中の人間が急に んは、どうです ? ゴーガンさんは、あなたの來る前には、この 變ったりはしない。すると、やつばり僕が始終言っている貧乏な 繪をえらく褒めていましたよ ? 書家が集まって共同生活をする計晝を一日も早く實行する必要が ヴィンゴーガンが褒めた ? ホントかね ? 何と言って ? ある。 タンよく憶えてはいませんが、ゴタゴタして下手な所もあるが、 しかし、良い繪であることは間違いない。敬禮しろとか何とかっタン共産コロニイですか ? そりや出來ればよござんすけどね え。 てね。ホントです。 ・ : だのに、僕の前で、どうしてあんなにくさすヴィン出來るとも、皆がその氣になれば。そりや初めは理想的に ヴィンふうん。 は行くまい。だから初めは氣の合った者が二人でも三人でも集ま んだろう ? ってーーそう、ハ ' リじゃまずい、田舍へ行く。そこで、みんなセ タンそこんところは、わかりませんねえ。變りもんですからね ッセと繪を描いて、それをパリへ送ってテオの手で賣って貰う。 え、なんしろ。 誰の繪が賣れてもその金はコロニイ全體の收入として、それで食 ヴィン : ゴーガンは天才だ。しかし、意地が惡い。あの男の氣 料や繪の道具を買って、それを皆が入用なだけ使ってやって行 持は僕にはわからない。しかし見ていると、あの力強い無愛想さ く。どうだね ? ゴーガンやベルナールにも話したら、不賛成で に僕は引きつけられる。それでいて時々腹の底から憎くなる。 はないようだった。 ・ : 奪敬している。しかし先刻みたいな事をされると、畜生 ! タン場所は南の明るい所が良いですね。いっそアルルはどうで ・ : あれは小父さん、氣ちがいだ。 と思う。 、向 す ? タン ( 笑う。そして笑えるような空氣になったことを喜こんで ) うでは、あなたの事を氣ちがいだと思っているかも知れませんヴィンそうなったら、小父さんも一緒に來ないか ? タン行きたいですね。しかし、こう老いぼれては、駄目でさあ。 な。 ( 奧の方をうか それに店も有るし、第一、家の奴が何と言うか : ヴィン ( これもチョット笑って ) : : : だけど、ゴーガンは小父さんに がう ) 金を借りて行ったが、昨日から何も食っていないんだって ? ホ ヴィンコンミューンの勇士が、何をいくじない事を言うんだ ? ントにそんなに貧乏なのかな ? タンそうらしいですね。食い物がないのはチョイチョイらしいでタンそれを言わないで下さい。あれも若い時の血氣と言うもんで すよ。 。ハリにコン ヴィンだって嘘じゃないんだろ ? 普佛戰爭終り ヴィン家の奥さんの方からは、金はよこさないんだろうか ? だ ミュ 1 ン新政府樹立さる。人はすべて自由に平等の權利を以て生 って、家は金持なんだろう ? れ、かっ生活す、か。自由、平等、博愛。ガンべッタ萬歳 ! タンさあ、金が有ると言っても、奥さんと子供さん逹がやって行
169 炎の人 は、これを託するに酒がある。ヴィンセントにはカン・ハスが有る の正體だよ。だからあの男は、うわっらはヒステリイ猿だが、シ だけだ。そうして、わが輩は酒と心中する。ヴィンセントは間も ンは眞人間だよ。憐れんだりしていると、罰が當るぞ。帽子を脱 無くカン・ハスに頭をぶつつけて死ぬよ。そういう運命だ、心配し いで、この繪に敬禮してればそれでいいんだ君たちは。 たもうな。 テオ ( 感動して立ち上っている ) ほ、ほんとうですかゴーガンさん ? ゴー始まった、猿の哲學が。 ほんとうにそう思いますか ? すると、兄は、兄は、もう立派な ロートうん ? わが輩のが猿の哲學なら、お前さんのは牛の哲學 一人前の畫家になったと思ってもよいのでしようか ? ・ ( 不愴快そうな顔でそちらを見る。テオの感 かね ? いや、哲學じゃない、牛の、いちもつだ。 ( ベルトに ) こ ゴーなんですか ? れは失禮。 動が、この男には輕薄に見えて、不快なのである ) ゴー ( 相手の言葉は齒牙にかけないで ) ああの、こうのと諸君はヴィ テオいえ、もしそうだとすれば、私は弟としてどんなに嬉しい ンセントを憐れんだり、心齔したりしているが、ふつ ! 君逹に か ! ありがたいのです ! 兄のことを、めんどう見て來た甲斐 そんな資格が有るのかね ? なるほど、人間としてはあの男は、 が有って私は、このーーーゴーガンさん、ありがたいのです ! 私 ウジウジした、オフンダの田舍者だ。キャアキャア騷いだりメン は、私は兄のためなら、どんな事でもします ! どうか、頼みま メソしたり、うるさい男だよ、ヨーロツ。ハ文明のオリの中に飼わ す、兄のことを、ゴーガンさん、よろしくお願いします ! ( 。ハ一フ 。ハラと涙を流し、ほとんどオロオロせんばかりに言う ) れてヒステリイになっている猿さ。諸君と同じようにね。しか ・ ( 相手を全く輕蔑して、ムッとして、三、四歩テオを避 し、これを見ろ。 ( と「タンギイ像」を示す ) こいつは猿の描いた繪ゴーふむ。 じゃないよ。ウジウジしたりキャアキャア言ったりメソメソなん けながら ) どんな事でもしますと言っている人が、ホンの先程ま ぞ、まるきりしてない。惚れ込んで、なんにも疑わないで、ウッ では、一緖に暮すことさえ出來ないと言っていた。 トリして、堂々と描いてる。色にしたって、そうだ。塗り方には テオ ( 相手の言葉を理解しないで ) 兄のためなら、私は私の持ってい スー一フやピッサロなんぞの點描が入って來ているんで少し氣に食 る一切のもの、血液を全部でも、命でも、やります ! どうか頼 わんが、まじりつけ無しだ。マルチニックの透き通った海の水の みますから 中から太陽を見た時と同じ色だ、こりあ。まるで土人の眼だ、こ ( 彼は彼で、そう言う矛盾した子供らしいテオの姿の中に在る眞情の いつは。 偉大さを理解せず、テオの涙はただ感傷的な三文芝居のように見えるだけ なので、ほとんど怒って ) ューゴー好みの抒情詩か。ふん。そんな 又土人か。ぜんたい、それは褒めてるのかい、くさしてい るのかい ? ふうに、チンコロみたいに騷ぐのは、私は好きませんよ。あんた とヴィンセント君が、そう言う風にもつれ合って、キャンキャ ゴー默れ、トウルーズ ! 君たちヒステリイ猿どもは、繪を見る には褒めるのとくさすのと二色しか無いと思っている。ところが ン、キューキューやっているのを見ると、兩方とも一緒に踏みつ ぶしてしまいたくなるね私は。 繪は繪だ。マンゴウがマンゴウであるように繪は繪だ。ホンモノ ロート とニセモノが有るきりで、理窟はいらん。こいつは下手クンだが 正に土人だ。いや蕃人だね。 ホンモノだよ。土人の繪だ。眞人間の描いた繪だ。これがゴッホ テオえ ! ( けげんそうにゴーガンを見るが、相手が冗談を言っていると
155 の人 と一絡になってから、やっと變な男たちを相手にしなくなりまし も、もう二、三日すれば拂うからとか何とか言って、あたしん所 たし、酒も飲まなくなった。それを又、僕が突き離すと、どうな だってお前さん、慈善事業で食料品や野菜を扱っているんじゃな ると思うんです ? いんですからね。 ワイセハハハ、だからそう言うミシ = レ好みの感傷主義を捨てろヴィンわかっている。わかっているから、今度金が來たら、必ず とわしは言っているんだよ。書家は繪のためには一切のものを踏 みにじり、捨てなきや、いかん。たかが女一人が何だね ? モーヴ ( 椅子からスッと立って ) ゴッホ君、これで話は片附いたと言 ヴィンでも、僕には現在、全世界よりもシイヌ一人の方が大事な うものだ。君は君の好きにやるさ。ただ今後、私の所には一切來 んです。僕は間も無くあれと正式に結婚しようと思っています。 てくれたもうな。では。 ( サッサと出て行く ) モーヴ結 ・ : 本氛で君は、それを、言っているのか ? ヴィン ( それに追いすがって ) 待って下さい、アントン、待って下さ ヴィン本氣です。 い。 ( 振り切ってモーヴは戸外へ消える ) ワイセやれやれ。 ( 兩肩をすくめる ) ルノウどうしたんだよう ! ( そこへゴトゴトと外からサポの音がして、ノックもしないで、ルノ ワイセ ( これも立ち去りかけながら ) さては、お前さんとこだね、ハ ウのおかみさんが入って來る。身なりはひどく汚いが、まだどこか綺 トバの近くで、食料品のほかにも色々商なっているルノウと言う 麗な四十前後の女 ) のは ? ルノウ ( 入って來てキョロキョロ室内を見まわし、モーヴやワイセンプル ルノウ ( ジロジロと相手を見て ) そりゃあね、世の中あセチがろうご 1 フを認めるが、挨拶もしないでヴィンセントに向って、いきなり、まく ざんすからね。なんでも賣りますよ、儲けにさえなりや。 し立てる ) ああ、やっと居たねゴッホさん ? やれやれ、私は昨ワイセ帆立貝なども賣ってるかね ? 日も一昨日も來たのに、繪を描きに寫生に行ってるとかって、た ルノウ賣りますね、注文さえ有れば。へへ。 んびに無駄足ばかりさせられて、ホントにまあ、繪だか屁だか知ワイセじゃ、こんだ注文に行くかな。 らんけど、しとを茶にするのもいいかげんにして下さいよ。や ( 言いながら、おかみのふくらんだ尻をキュッとこすって、すまして れ、どっこいしよと。 ( と勝手に椅子に掛ける ) 出て行く ) ヴィンああ、ルノウのおかみさん。 ルノウ助平爺いめ。 : ねえ、さ、ゴッホさん ! どうしてくれ ルノウルノウのおかみさんじゃ、ありませんよ ! あんた一體、 るんですかね ? 今日は、あたしあ、拂いをいただかなきや、テ 内の借金をどうしてくれる氣ですよ ? こうして、ツケを持って コでも歸りやしませんよ。 來たがね、ごらんなさいよ、ミルク、ヾ ヴィン ノ夕、玉ねぎ、ジャガイ ・ ( 戸のわきにポンヤリと立っていたのが、ユックリこちらへ モ、そいからニシンと、みんな先月から溜っていて、みんなで四 歩いて來ながら ) すまない。ホントにすまない。なんとか直ぐに 十フランあまり、それに。ハン代の立て替えが二十フ一フン、しめて 六十フ一フン。いいかね ? 時々クリスチィネがやって來ちゃ引っ ルノウただすまないで、すむと思うんですか ? あたしんちだっ かけて行くヂンのお代は勘定に入れなくてもですよ。いっ來て て、ああしてあんた、露店に毛の生えたような店なんですから