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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

伊藤文學の大きな特色の一つは、その結末の明るさである。戦前らしたことばを、ぼくは今でも忘れることができない。 ( 東京敎育大敎授 ) 戦後を通じて、そのほとんどの作品に一貫して一定の結び方が見受 けられる。かれが熱愛したチェホフの作風に似通っている。「梟」 の結末では、義父を毒殺した疑いの睛れた與吉が、産院にお峰を訪 わが本庄陸男 れて手を取り合って喜ぶ。「鶯」ではキン婆さんが警察で養女のヨ シ工と二十年ぶりに再會する。結末で、時に不自然なまでに明るさ 小田切秀雄 を點ぜずには作品を終ることのできないかれの作法は、そのリアリ ズムの弱點であるかのように早くから指摘されてきた。そうして批石狩川、といっても本庄陸男の『石狩川』の舞臺となったところ 判をじゅうぶん承知で、かれは生涯その作法を改めなかった。晩年よりもはるか上流の、旭川市の石狩川ぞいの常盤公園に、小熊秀雄 の作品では、「南米航路」の結び方がその顯著な一例である。こうの詩碑が建ったのは咋年のことだった。本庄の碑はその三年前に當 した獨得の作品の結び方は、通俗な讀者に迎合しようとする計算か別町に建った。光宣俾用でないこういう詩碑がつくられるのは、 ら生まれているかのように誤解されやすいが、決してそうではないいことである。ことに、プロレタリア作家・詩人の碑が建っとい い。彼は作品に光をともすというよりも、未來に光をともさずにはうのは、いい。小熊はようやく最近になって一般的にも高く評價さ おれなかった作家なのだ。彼の < 愛と怒り > の作家精はそういうれるようになり、しばらく前に『小熊秀雄全詩集』、『小熊秀雄評論 形をとらずにはケリのつかないほど深いものであった。だからかれ集』があいついで出たばかりでなく、新潮社版の『日本詩人全集』 の小説の結末の作法は、作品論ではなく、作家論の立場から批判さのなかには中野重治・壺井繁治と一絡で三人一册の形で出た。ま れるべき筋合のものなのである。 た、旭川市の篤實な研究者佐藤喜一による『小熊秀雄論考』一卷が 旭川圖書館から刊行され、『北海道新聞』の文學賞第一回受賞書 ぼくが伊藤さんと親しくなったのは、まだ學生時代で、伊藤さんとなり、いまでは札幌の北書房から增補版が發賣されている。さら が「雪代とその一家」を發表して、疎開先きの秋田から上京されたに、旭川市の文化團體協議會は毎年五月に小熊秀雄祭を行なうこと ころである。それから十數年間、なくなられるまで會わない月はなを定め、そのさいの行事の一つとして、市の應援を得て「小熊秀雄 かったであろう。 賞」を設け、北海道内の詩人を對象とし、今年は第一回の授賞が行 ことに「社會主義文學」を出していたころは、會合のあるたびなわれた。 に、酒のお供をした。大變な酒豪だったが、どうも「豪」という字わたしは旭川のその小熊祭に行ってきたばかりなので 月・《貝のこ がびったりしない、おだやかな明るい飮みつぶりであった。ロ數少とから書きはじめたのだが、小熊とともに念頭を去來してやまなか く、チビリチビリといつまでもたのしむという趣きで、歸りには飮ったのは本庄陸男のことであった。『小熊秀雄論考』の增補市販本 み屋の女の子にチップを渡すのを忘れなかった。「うちの娘と同じを出した北書房主の詩人入江好之氏が小熊祭に來ていたので、同氏 年ごろだと思うとね : : : 。」と、いつだったか、ただ一度ぼつんともが四年前に出した山田昭夫編『本庄陸男遺稿集』について、あれは 3

2. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

しあって、一しょに料理屋にでも勤めましようと、わたしはここに人を思いだして、何か寢ざめの悪い思いだった。 ひと 勤めるし、その女は、月明館へ住みこんだわ。きっと月明館のまち がいよ。その女の子は、やつばり、めくらのお父さんにほんとのこ 盲人と少女の散歩時間もきまっているらしく、洋太はタぐれに 川の大橋の上で、また二人に出あった。少女は、手すりに手をおき とを云えなくて、わざと臨川亭と云ったのでしよう。きっとそう みかげいし ながら父親に云っていた。「この手すりね、コンクリートに御影石 がかぶせてあるのか知ら。御影石みたいなものが剥げてるのよ。」 「そうかな。うむ、なるほど」と洋太はもう夢子の言葉を信じはじ めた。「してみると、女ってものは、やつばり少女のころから、嘘タ陽を受けた少女の顔を、洋太は美しいと思った。美しくて愛らし かった。思わず見返っていると、肩をポンとたたく者がいた。寺 つきの名人なのかね。妙子って女の子、あんなしおらしい子だの の番僧をしている從兄の願海だった。洋太は願海と一しょに歩きだ に、よくも咄嗟に臨川亭と嘘ついたものだ。めくらの父親も僕もだ して、 まされた。」 「あの女の子を知らんかい。」 「女は嘘つきかも知れませんけれど、ずいぶん苦しい思いで嘘を云 「何じゃ、惚れとるんか。」 うこともあるのよ。」 願海は少女を振りかえってみて、大聲で笑いだした。彼の聲は普 「アレ、何だと ? それじゃ君も、いま苦しい思いで嘘を云ったの 段も大きい。 かい。」 「阿呆らし。可愛い子じゃが、まだ蕾にもなり切らぬ花の芽だ。」 「冗談おっしやっちゃ困るわ。わたしは何もかくし立てをしやしま 「今年、寺に間借りをしてゐて、月明館へ引越して行った女を知 せんよ。かくしてもすぐわかることよ。でもその妙子とかいう女の らないか。」 子は、嘘を云っても、いじらしいじゃありませんか。苦しい嘘だ 「月明館に ? うむ、そいつア臨川亭の間違いだろう。寺にい て、お前のところへ行ったのは、云わずと知れた夢子じゃないか。 「そうだ、あの子はいじらしい。あの子の嘘ならばいじらしい。」 燈臺もと暗し。その後夢子はどうしている。え ? 好い女じゃない そこへ萩子という仲居の聲がして、 か。あんまり好い女だから、素性は知れないが、かくまってやり、 「若旦那、せつかくですけれど、お客さんが夢ちゃんに來てほしい わしはよっぽど手を出そうかと思うたが、見とれているうちに逃が んですって。手が足りませんしね。夢ちゃんも、いい加減にして、 いてしもうた。ハハハ。どや、お前は色氣なしやで、いつまでたっ お銚子もって上って來て頂戴。」 ても菩提心が起らぬゃうだが、一度飲みにゆくでナ、夢子を取り持 痕夢子は愛想のいい聲で、 たんか。」 「ハイ、すみません、ただいま。きびしい訊問だけがすんだところ 稀代の生臭坊主だから、本氣かも知れなかった。寺には近年、 その夜、夢子は、他の仲居たちの嫉妬を無視して、やはり洋太の夢子のほかには女を預った覺えはない、と云った。 洋太は、夢子がやはり盲人の細君ではないかという疑いを濃くす 部屋で寢た。前夜までのようには、夢中にも奔放にもならなかっ 2 た。それでまた、洋太の胸には一抹の疑いが生じ、あくる朝には盲ると同時に、印座にその疑いを晴らしたかった。彼は引き返して、

3. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

188 男は、傘の下に身體を縮めて尻込みをはじめた。通じないこちらの覺を冒すのであった。それだのにこの飯屋は、彼等の生活の一部分 好意にもどかしくなって、荒牧は一足前に進み、思はず聲を高くし とさへなってゐたのである。こんな謙遜な生活意欲が、他の何處に てゐた。 見出せるであらうかーーすると荒牧は、二、三日も飯らしい飯にあ 「おい ! 」 りつけなかった子供を捉へて、迂濶千萬にも「朝飯はまだだらう ? 」 しようぜん 傘をはね退けて子供は敎師の相貌をしげしげと計量した。たった と訊ねた自分の愚かさに思ひ當り、竦然とした。自分の身の安全を 今、叱責の口調になってゐた大人の感情が、その時〈た〈たと崩まもらうとする淺墓な心理が、子供と自分との間に測り知れぬ距離 れ、見るも情なく崩れて行くのを發見した。子供は頷いた。それか を築いて、骨身のよち折れるやうな寂寥に取り憑かれてしまった。 ら先に立って歩きだした。 この感倩を反省することは不思議に、自己虐待の疎ましい痛々しさ 「さうだ、お前の馴染みの飯屋に連れて行けーー」 を覺えた。丼に盛られた組惡な米の香氣や、缺けた碗に濁ってゐる 言葉の半分を口の中でさう呟き、荒牧雄助は雨の中をゆっくり歩味噌汁の味が、同じものでありながら、この子供に取っては充全の いたのである。 滿足であるかの様ににこやかなのである。この滿足を子供にあたへ 子供の感覺の中に、敎師が當り前の人間となって現はれた。先生ることが出來たならばーー一人ではない、五人、十人の・・ = ・・荒牧は もまた飯を食ふのであるか ? 手垢や水垢に黒光りのする木板の卓さう思ひ、頬杖をついたまま、自分の體内に積まれてゐるさうした を間にして、武男は、奇異の感情が次第に落ち着いて來るのを覺え力を覗いて見るやうなおどんだ眼になってゐた。河野武男は全く子 た。すると子供は温かいものを胸一ばいに感じて、もうこの先生を供のあどけなさに立ち戻ってゐた。眼をかがやかしてじーっと敎師 自分の直ぐ身近に見直すのである。一つには久しぶりに滿腹したと を見あげ、何かもの云ひたげに唇をすぼめたり開いたりした。遂に 思ふ生理的なゆたかさに包まれてゐた。感情がほぐれて血色が增云った し、うれしくて堪らぬ動作が手足を輕々とさせる、その頬さ ( 目立「先生ーーあたいん家に來て呉れるかい ? 」 って紅潮して來たやうに思はれた。 意味の遠い話を確かめるやうに、荒牧は答へた。 「もういいか ? 」と、敎師は箸を置きながら訊いた。「も一つ、 「ああ」そして腰をあげるのである。「またお前、お腹が空いたら 盛りのやつを貰ってやらう、なあ、小さいのを一つーーそいでお先生のところに來るがいいや、なあーー」 前、學校に來るのは嫌ひぢゃないのかい ? 」 手を拍って、土間にとびあがって武男は聲をはずませた。 「どうして ? 」と、その眼が聞きか〈した。それから頸を振って否「ほんたう ? ああ、行くとも ! さ」 定した。 「まあ、いいから食ひたいだけ食ひなよ」 けんたん 灰色の雨にざんざん打たれたトタン造りの家々は、沼に浮んだ箱 健啖の美しさを荒牧は上から見おろしてゐた。胸にかすれる或る のやうに見える。沼澤地に向かって附近の雨水が流れ寄って來るの 酢つばい感情が、だんだんと自分の眼儉に浸んで來るのを自覺しであった。するとこの一廓では、たちまちのうちに雨水の河が氾濫 た。汚れた木椅子と木板の卓が並べられただけの飯屋である。濕つを起こし、平べったい屋並々々の倒影が打ちふる ( ておろおろし ぽい土間には、異様に生臭い食物の臭氣が、何か大變汚ならしく視た。住居は立ってゐることだけさ〈大變あぶなっかし氣に見えた。

4. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

感ぜられ、その一つの屋根の下で、切端つまって途方にくれてゐるは、ロ許に嘲笑を漂はしてゐた。 自分を忌々しく思った。「どうだ ? どうだ ? 」と荻村重吉は元氣「君はいまどこに住んでるんかね ? 」と荻村は訊ねた。 「やつばし古集さ。千住だよ」 な聲で子供に話しかけた、「なあ健坊、お前もうんと勉強してこん 「千住ーー」と語尾をひつばって繰りかへした荻村重吉は、もうこ なに傑くなるんだぞ、なあ、ーー」「日本一の富士山よか低いね ? 」 の男の前で見榮を張っても駄目だと諦めるのであった。すると彼は と健太郞は父親の顏をのぞきこんだ。「でもお前、東京一だ、東京 一だったら日本一と同じみたいなもんだ」しかしそこで料金がきれ何か心が晴れたやうな氣がして急に口調が輕くなった。「さうか、 た。彼等も降された。高い梯子段は登るときよりも降りる時が一層千住か・ーー全く久しぶりだなあ : : : 」 その昔ーー彼等は千住大橋のたもとに近い街で育った。都會の生 ひや / 、するのである。一段々々踏みしめ、前後に氣を配りながら 活から掃き出された一群が、いっかそこに聚落をなしてゐた。河を 長いことかゝって下りきった。ほっとして腕の猛をそこにおろし、 と荻村重吉はこ越して行けば都會に棄てられるやうに思はれるのである。河の縁ま 煙草の一服でもと思った時 ( 何事であるか ! の場面を後になって憶ひ描き齒ぎしりをした ) 彼の前には小宮山俊で追ひつめられ、そこでごみごみした生活をしてゐた。いびつな棟 割長屋に居住してゐた彼等の親たちは、何といふことなしにいつも 助が立ってゐた。顎の出ばった小宮山は人懷こさうに眼をほそめ、 さうしてにや / 、笑った。「やあ、やつばし : : : 」と彼は云ひだし失業してゐた。仕事はあったり無かったりーー・つまり定職といふも のを持ってゐなかった。震災には幸か不幸か燒け殘って屋並は相か た。「やつばし君だったね、さうか、さうか、やあーー」 昔の友逹であった小宮山俊助の顔から、人懷こさうな表情が消えはらず汚なかった。しかし彼等は震災の有がたさを膽に銘じて記憶 してゐるーーー建築界の景氣が出た。高須工務所の給仕のやうな下働 ると、荻村重吉は油斷がならぬと内心警戒を呼び起すのであった。 堙草の脂で黒く染った齒をだしながら、小宮山俊助は舊友の肩に手きに使はれてゐた荻村と小宮山も相當な報酬がまはって來るやうに なった。常日頃貧乏ぐらしの人間は、偶よ金を手にすると空想化さ をかけて話しだした。 「今更君にたかれた義理合でもないんだから安心したま〈、ところれてゐた欲望にうづ / 、して來るのであった。荻村重吉はそのすさ で久しぶりだ、昔話でもしたくなって、ね。いやどうも、どうも先まじい欲望をじっと耐〈た。後日の市民生活に必要な資金を稼ぎた めようと決心したのである。それは、小生意氣な若い衆になってゐ 刻から君によく似た男だと思って、實はあとを跟けながら注意して た小宮山俊助に對象されて、この一廓の社會に美談化された。高須 ゐたんだよ」荻村重吉は露骨に眉根をしかめてみせた。「だが君、 安心したまへ、君は酒屋の主人に收まったといふが景氣はどうだ工務所と取引きしてゐた材木屋の娘に、荻村の妻ふみがゐた。彼女 と彼が仲よくなったのも、ふみの父親がそれを許したのも、「もう ね ? 今日は公休日 ? そこで一家團欒のたのしみか。いやお羨し 三百圓も貯金があるんだとさ」といふ驚嘆す・ヘき前途ある靑年に望 いことで : : : しかし今時ちっと許りの資本で商賣をはじめるなんて みがか & ってゐたからである。さびれた町内は、さびれた外景とは 愚だね」 そこまで苦笑してゐた荻村重吉は、小宮山の最後の言葉を聞くや反對に仁義を重んじてゐた。そこだけは淀み固定し、うねってゐる 都會の動きから置き忘れられた片隅で、じっとりとした故鄕の感觸 否や、ついと一足相手を離れた、それから小宮山の風體をじろ / 、 と眺めまはした。柄もの又背廣にレンコートをひっかけたその男を彼等に植ゑつけたのである。いよ / \ 「お店を持ったあきんどに

5. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

そのときうしろの山の上に、藁のはぜる音がして、ばっと炎があ 「來てよかったなあ。」 6 がった。炎は三つ四つと橫にふえだした。 文藏にある男はさう云って、道ばたの草におりた霜をさした。 「おりだしたかや ! 」 「あすの朝はどうづら ? 」 文蔵は上の人にさけんだ。 「風の具合だからなあ。北風が吹くと危いよ。下の方は南風でも、 「大したこたあねえぞう ! 」 空の高いところを北風がふいてると、やつばり冷えるってこんだ 上からこたへた。文藏は伜をおこして桑の間にはいり、一本の枝よ。」 をまげて頬にあててみた。まだ霜はついてゐない。 あすは祭りであった。今日は家のまはりをかたづけるのが男の仕 「勝、やってみい ! 」 事で、女逹は煮物に一日かかる。 電燈をふりまはしてゐる伜に云ひつけた。 「おめえの頬べたは皮がうすいから、よくわかるづら。」 その日、高等科の子供が十人ばかり寄ってゐた。勝雄などもまざ けな 健げな子供をほめるやうにわらった。 ってゐたが、何をしたら爲になるか見當がっかなかったので、文藏 「なめた方がいゝだよ。」 に相談に來た。 勝雄は葉をなめた。また一段低いところで藁火が燃えだして、だ 「庭の草でもとって、掃除するだなあ。」 んだん山裾へおりてくる。 子供は根上の家に行き、すぐ草をむしってしまった。先生に云は 「おれ見てくるよ。」 れて出征兵士の家の手傅ひにあつまったのである。文藏が見に行く くぬギ、 勝雄は電燈をつけて、いっさんに山の上にかけのぼった。 と子供らは、擽の薪を割ってあそんでゐた。女房は赤ん坊を負ぶつ 「おーい、とっちゃん。うんと凍ってるぞ。」 て臺所で煮物をしてゐた。 勝雄がさけんだ。文藏はまるめた新聞紙をふところからだして、 「そんな危ねえことはやめて、桑畑の草をむしって土よせをしな。 あっちこっちに配っておいた藁の一番上手から火をつけた。風のあそのくらゐはできるづら。」 るときは風上から、こんな朝は高いところから下へ煙りを流す。煙 云ひつけたが鍬が足りない。有る鍬も一つはゆるんだ柄に釘をう りぐらゐでも、若芽につく霜をとかす力があった。一度に燃してし ちこんでとめてあり、他のは刃がにぶって切れさうにない。自分の まはず、濕ったのをいぶすのである。 家のを子供に持たせてやり、根上の家の道具をかたつばしからしら 山つきに畑をもってゐる家では、たいがい霜よけにでてゐたの べると皆わるくなったま乂である。唐鍬などは一貫五百もある開墾 で、高いところから段々をつくって、火はほとんど一面にもえひろ用のものをつかってゐるといふ。これは一日に一升一一一一一合も飯を喰 がってゐる。夜明け前のくらさは、そのためいっそうくらく、くらふ開墾人夫しか使はないものだった。輕い方は柄がをれてゐる。五 さに匂ひがあるなら、にほひさうだった。 丁の鎌は厚刃も薄刃も、たゞ光ってゐるだけで、本當にといでな 氣がついたときには、東の空は窓のやうにすきとほってゐた。人い。女には研げないのである。それを一々よくしてゐるとタ方にな 逹は火を消して、頬かぶりをとって灰をはらひ、家へかへって行っ った。子供がかへってきたので、きぬはふかした芋をだした。 「お前らはまた來るだぞ。俺が仕事を探しといてやるだで。をばさ

6. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

「漕げこげ ! 漕ぎぬけたら賞をあたへるぞ ! 考一等を加へ釋放かぬ疑惑の色がうかんだ。近づくにつれ赤に卍を染めぬいた旗印 4 和するぞ ! 」 や、裸に甲をつけた姿や、槍や弩弓などまで明瞭に映ってきた。故 しかしその聲もやがてきかれなくなる。潮を汲みだす方が大事に 鄕にゐたとき、かの韓人の虎三五からきいた、海賊の話をおもひだ なる。役人ももうあきらめたらしい。 すまでもなかった。虎三五は韓の漁夫で、海賊の仲間にもゐたこと 「祈るだけですよ。あきらめることはない。祈って助からない事はのある男だが、今では荒魚の留守をまもって、葦の浦の漁業になく 一つもないですよ」 てはならぬ重寶のものとなってゐた。海賊は既にこの頃から、日本 荒魚はカのぬけたまゝ、ぐんなり船板に眼はつぶってもたれてゐ海、東支那海を橫行してゐた。そのなかには日本人もあれば韓人も たが、急に體をおこして叫んだ。。 ひっくりして役人も奴隷も我にか漢人もあった。殊に新羅と日本の國交が、表面上の靜和にか又はら へった。「海原の邊にも、沖にも禪づまりうじはきいます諸の大御ず、内面的には新羅が日本の覊絆から脱して、對等の位置を得よう 禪たち、船舳に道びきましを、天地の大御溿たち、倭の大國靈 : : : 」と意圖した天智帝以後には、心理上の懸引がさかんとなり、わが國 風と波濤が祈りの壽言をちぎってとぶ。夜どほし漂流した船は、 は巨船を用意して示威すると共に筑紫や四國の海盜を暗に支持し とにかく沈沒もせず、翌朝波のや又鎭まった海のいづことも知らぬ て、韓半島の海邊を劫略せしめる策にでた。天平三年、三百艘の賊 はてに、半ば機能を失った赤塗りの船體をうかべてゐた。北になが船が新羅をおそったと、韓の史書にみえるだけで、わが國の文獻に れる切れえ、の雲、カッノ、と耀く陽光、船は大うねりと風にのっその事實が殘ってゐないのも、その間の事情を語ってゐる。 て、自然の流れにまかせてゐた。五挺の櫓は二本しか殘ってゐなか 海賊とわかると、品々をのこしたま、いっせいに本船にとびうつ った。すると同じ運命におちた官船の一艘が、はるかの波間から白った。しかし、敵が韓人であるか、それとも漢人なのか、誰にも見 布をふって、救援をもとめてゐるのを發見した。送領使や船司は急きはめはつかなかった。いづれにしても根かぎり戦はうと上下して にカづき、漕手をはげました。二艘の官船が舷をならべた。向うの肚をきめた。漕手は糲をとり、船吏たちは弓や槍や有りあはせの少 船は舷側と舵を大破して、傾きかけてゐる上に、乘員の半ばを波に數の武器をとって、舷側にひしめき並んだ。だが、武器でも人數で さらはれる始末で、殘った食糧だけを移して、本船を棄てることに もまた、船の速力でも彼に敵ふところでなく、たゞ血戦して切りぬ ける外道はなかった。 なった。しかしその作業は樂ではなかった。 荒魚は裸のまゝ難破船の舳にたって、もやひ綱をとって本船との 間隔を保ってゐた。ぬれた荷物のうち大切の物だけが、一つイ、積 船司は弓をふりながら舳でさけんでゐる。敵は矢ごろに逹してゐ みかへられてゐる。ぼんやり北の空に眼をやってゐた荒魚は、ふと たが、こちらが戰鬪力のある官船とみると、急に攻撃する不利をさ 波間に黑點をみつけた。それは次の瞬間には、三艘の細長い船とな とったか、本船を遠卷きにしようと、後續の二艘は大きく回轉しは って、うねりの上に盛りあがってきた。刳舟らしい小舟だが、非常じめた。その間に本船は、敵の先頭の船にまっしぐらに突っかけ な速力で接近してくる。 た。嵐にあって弱體とはなったが、とにかくこちらは航洋船であ 「韓人の船らしいが、救援にくるのだらうか ? 」 り、大きさ堅牢さでは數段まさってゐたので、個々に撃破する戦略 荒魚の指した方に眼をやった送領使の顔に、希望とも不安ともっ にでたが、敵はすばやく方向かへて遠のき、そしてたえず遠まきに きはん

7. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

の本立は、いつまでかうして立たせておくんだ、と云はぬばかりの 恰好で右方へしなだれながらもう五年間といふもの、かうして立っ てゐるのだ。そして床の間にも、これと同じゃうなのつぼの本立が 相棒のやうに顔を合はせてゐる。この二つの大儀さうな本立のほか に、も一つ硝子戸入りの本箱が、生れ出る子のために買はれた小簟 笥と並んで立ち、まるで草を屋根づたひに繁殖させたやうに、その 小簟笥の上にも書物を立ち並ばせてゐるのだ。 「まだ本はあるから、産婆さんもさうメトにはせんやろう」と義母 それはもう過ぎ去ってしまった年の出來事で、濱屋朝吉の前から が言ふのに、朝吉は恥も感ぜず、碌でもない古本の密集を見まはす は、かれの二度とは歸らぬ孤愁を乘せて、汽船のやうに、日に日に のであった。簡易保險の金もすっかり借り出して出産に備へてあっ 水平線へ遠のいてゆく。しかし濱屋はその期間の愛と反省の經驗のたから、古本を賣り拂って二百圓位になるかを、心もとなく値ぶみ ために、いつまでもそれを見失ふまいとする。 したのである。義母は附け加へて、 「でも萬一、眞知子が死んだりしたら、すぐ困ってしまふなあ」 その年のはじめに、眞知子は洗髮の頭に、田舍子守のやうな鉢卷「縁起でもないことを言って駄目ですよ」 をしめ、この期に及んで薄化粧をした額に脂汗をにじませて、蒲團 そんなことをひそひそ言ひ交しながら大みそかの掃除をしたが、 の襟をみしめてゐた。薔薇いろの大柄な晴着の一つを解いて作っ眞知子自身は何かを信じ切った様子で、不安な氣ぶりも見せなかっ たその掛蒲團には、白い人絹の襟がついてゐたが、兩手のあたる部た。 さかご 分がむしり取られ、揉みくしやにされてゐた。逆兒の位置に顯倒し 朝吉は元旦の朝から机に向って原稿を書きいそいでゐたが、ふい た胎兒が世に出ようとして、陣痛がのたうちはじめてからもう三時に筆をおいて、林檎や牛乳や鷄肉やカステ一フを買ひに行き、毎日そ 間はたってゐた。 れがつづいた。 體格のいい産婆の赤らがほが、引き緊って、上氣して、まるで湯「ーー。最後の心づくしね」 氣を立ててゐるやうに見えたのは、かたはらの藥罐が、白い息を噴「ーー最後のって何だい」 き上げてゐたためでもあらう。難産を見て慌てるやうな産婆ではな 眞知子は默って見詰めてゐた。自分でも今度は難産であることは れかったが、産婦と一絡に苦しんだりほっとしたりする感受性を、職意識してゐたのである。朝吉はここ數年間、眞知子と一緒に連れ立 業柄の・餘裕に包み切れないのであった。 って歩くこともなく、家でもゆっくり談笑したことさへなかった自 に 誰 そこは朝吉のみすぼらしい居間で、古本がぎっしり立ち並んだ高分を思ひ返さずにはをれなかった。かれは末知の女からの面會申込 さ六尺鐱の大型の本立が片隅に立ってゐて、うしろの柱へ、ひそかみの手紙を受けた時、一日かかって斷り状を書き上げたことを思ひ に針金で耳を結はひつけられてゐた。地震はおろか、くしやみ一つ出してゐた。これは親切すぎる、これは不親切すぎる、これは惡文 2 にも、ドタドタと産婦の頭上へ崩れ兼ねないやうな、この古本滿載だ、さう考へてまる一日をつぶして結局返事を書かずじまひになっ 誰にささげん やくわん

8. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

756 こには背廣の男が二人、兩方から向ひ合って挾み見るやうに蹲った 「おっ母さんー・ー」と繰りかへしながら他の男がやにはに飛びだし て行った。「さあ、あんたは疲れてゐるんだ。」さういって彼は母親まま煙草を吹かしてゐた。「何處に行くんた ? 」とその一人が訊ね た。「家に歸るんだ」とが云った。「何時まで坐ってゐたって同し の手を押 ( つけた。「さあ、向ふに行って休まなくっちや不可ない。 ことだからなあーーー」 さあ、ちょっと ! 」彼はぼんやりしてゐる目の前の男を吐鳴りつけ そして二人は街路に出た。 冷たい眞冬の深夜であった。凍結した空氣を斷ち割るやうにして 「そこの唐紙をあけて呉れんか ! 」 二人の男は歩きだした。顏はびりびりと寒氣が掻きむしった。自分 抱きかか〈られるやうにして、その母親が去の間に姿を消した。 たちの靴音だけが唯一の生きもののやうに冴えた音をひびかせて追 すると人々はほっとしたものを感じたのである。詰めてゐた呼吸を 一度に吐きだし、ざわざわとその部屋の空氣は搖れ動いた。ゃうやっかけて來た。寢鎭まって郊外の家々は彼等の近所にこんな昻奮が く人々はおのれ自身に立ち歸った氣がした。その時彼等は規範に載漂ってゐることを少しも知らない。恐らく永久に知らす、或はたか だか茶飮み話に思ひ出される三面記事の話題に等しいかと思はれる ってゐる自分たちがこの際、何をどう處置しなければならないか そのことが習慣的に思ひ浮ぶのであった。部屋の隅に陣取って程、全く寢鎭まってゐるのである。そしてかうした街々は、何處ま しは でもつづくが如くであった。凍った道にかっかっと鳴る自分たちの ゐた彼等の首腦部が、嗄がれた聲を傅〈て一人の男を呼んだ。 跫音、何度となくすすり上げる水洟の音、即座に取りかからねばな 「岩本君ー・ちょっと」 呼ばれた男はぎくりとしたやうにあわて、痩せた體を聲に向ってらぬ問題を持ちながら、それを改めて云ひだし得ぬものを感じてゐ た。現在を基點として、心はくるりとそれぞれの過去を覗きこんで 折り曲げた。前向きのまま彼は嗄れ聲を聞き取ってゐた。 「逆襲の準備」さういふ激しい言葉が命令となって響いて來た。既ゐた。雲の如く湧き上る遠い日からその日の朝までの自己を繰りひ ろげ、今の現在に必要とされてゐる行動のための條件を拾ひ集めよ にそのものと首腦部の間には、一つの團體行動に據る上と下の關係 うとした。一つの反抗的な團體がある。はじめそれは時代の意志に が成立してゐた。岩本は微かに頷きながら、この抽象的な言葉を印 座に自分の仕事のプ。グラムに描き直した。「委細の指示は明朝中衝き動かされた人々の感情を統一した。統一されたものは自ら反抗 にーー」と嗄れ聲は人々の合圖を掻き分けて進んで來た。「西村の團體と意識し、その中に含まれてゐる個人の意志や感情を一つの 色彩に塗り潰した。誇りをもって團體に參加し、その行動に胸のふ さう西村一二郎を君のところに廻す。準備に拔かりのないやう る ( る生き甲斐を感じた。すべてそれら團體的意志の最先端に立 岩本は何故ともなく腹をおさ〈、さうしてもぢもちと腰をあげつて大聲叱呼したのが、あのだ。反抗の感情はいよいよ昻り、そ た。立ちあがると一時に寒氣が背筋を濡した。思はず一座の頭を見しては餘儀なく地下に姿を消した。地下と、地表の間に跨ってゐ まはし、今の場合の共力者を索めるのである。眼差でもって同じ部るこの反抗の組織、決して支配者たちに見ぜてはならぬものと、さ 署の逞ましいを呼び、二人はつながって庭先までせせくり出してらけ出された部分との、丁度その堺目に佇んでゐるに等しいーーさ 來た。下駄や草履や靴や、たくさんの履物が粗末な門の側まで連つう自らを感ずる岩本との部署、首腦部は逆襲を命ずるーー・それは てゐた。辛うじて探しあてた短靴を爪先に引っかけ、門を出るとそ奪はれた指導者の殘した恨みのために立ちあがることだ。立ちあ

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270 渡したとき、ママはいまどこに住んでいるか、本當は、妙子に云っ てきかぜたんだろう ? 」 「いえ、違うわ。あのね、。ハ。ハ。そのときもね、ママはどこに住ん でいるか、なんにも云わなかったのよ。」 「妙子もママも、東京へ歸りたいだろう。ママは、東京へ行くとは 云わなかったかい ? 」 「ママは、戦爭のうちは、東京へ歸らないほうがいいんですって。 わたしはね、。ハ。ハ、東京へ歸れるなら歸りたいわ。」 暑中休暇に北陸の町に歸省した東大學生の水町洋太は、夕方の 「そうとも。妙子は淋しいだろうからね。妙子は、ちっとも子供ら 散歩の折、肓目の男の手をひいた少女によく出あった。少女は十しいところが無くなってしまった。」 四、五歳で、盲人を「パパ」と呼んでいた。トラックが突進して來「わたし、そんなに淋しいとは思わないわ。淋しいのは、 ' ハバが歸 、わたしにおっ たとき、あばれ馬に出あったように狼狽して「パパ って來るまでだったの。毎にち毎晩、ママと二人で祈っていたわ。 かまり」と叫びながら、却って父親に抱きついた。父親も杖をもっ彈丸にもあたらず病氣にもなりまぜんようにつて。そして毎にち待 たままよろめいて、盲目の世界に馴れきっていないふうだった。彼っていたわ。ママと二人でよ。」 の眉間から兩の眼ぶたにかけて、何かおそろしい、引き縮った傷痕「そんなに待っていてくれたママが、今はどうだろう。今は・ハバが があった。 待っていても、會いに來てさえくれなくなった。めくらになって、 雨ふりの或るタぐれにも、盲人は蛇目傘を少女の頭上にさしか 。ハバの顔つきは、みつともなくなった。二目と見られた顏じゃない け、少女は盲人の腰を左手で抱くようにして歩いてきた。少女は右んだからね。」 手では自分の浴衣の裾を、膝小僧の上までまくりあげていて、細っ 「またそんなことを云いだして。二目と見られないなんて、そんな そりした脛を雨でぬらしていた。いつ見ても愁い顔だったが、やが ことないわ。パ・ハは鏡を見られないから、そう思うのよ。」 て美貌の女となることを思わせる美しくて鐃い線が、もうその眼や 盲人は何か云おうとしたが、聲を呑んで、默ってしまった。しば 鼻筋にあらわれていた。その上、この顏立は、洋太には、何やら懷らくかれらは言葉がなかった。かれらのすぐ前方に濱納屋があっ しいものでもあった。 た。その屋根にとまった一羽の鴉が、寂然と、いつまでたっても身 うらぼん たまたま するうち洋太は、八月の盂閉盆をすぎてから、偶よ、盲人と少女動ぎもしなかった。海はまたその前方に、目も綾なタ映えをうつ の會話をきいて、思いあたることがあり愕然とした。 し、大湖のように凪いでいた。 それは、濱の松原で、寢そべりながら本を讀んでいたときだ。思 「ああパパは男のくぜに、どうも愚痴つにくなっていけない。こん いがけず、少女と盲人が何か夢中で喋りながらやってきて、洋太の な馬鹿者が又といるだろうか。大人にもなりきらぬ妙子に甘えて、 身近く、斜前方に腰をおろした。 こんな愚痴を並べたてる馬者が。」 「ねえ、妙子。」父親が優しい調子で云った、「ママが妙子に金を手「・ハ・ハは夕日を見たくても見えす、波を見たくても見られないんだ

10. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

聲を出しはじめた。しかし、子供に手をひつばられてゐることさへき一層こんぐらがった顔つきになった女の方にからだを屈め、んだ 感じないらしいその背丈のひくい堅肥りのもっぺを穿いた母親は、 らお前、戻りに病院さ寄って、診てもらふやうに賴んで行けや、と はら べったり汗でヘばりついてゐる後れ毛を掻き上げようともせず、憑 急に肚をきめた顔で言った。いよ / \ 出征だといふので、張りつめ かれたやうな顔つきで、何やら話しこんでゐたが、その相手の男はてゐた草階金治はいつもより早く暗いうちに起きたが、金治よりも くる / 、と國旗を卷きつけた竹竿を杖にしてゐるところを見ると應さきに蒲團の上に起き上ってゐたヒサが顏色を變へて二番目の五つ 召兵らしかったが、いま川から上って來たやうな襯衣から軍服まで になる銀二が、火のやうに熱くなってゐると言った。驚ろいて傍へ ぐっしより汗に濡れてゐる胸をはたけようともせず、ちらと子供の 行って見ると、眞っ赤な顏でちっと薄眼をあけて宙を見てゐる銀一一 方を見たきりで、これも突き刺すやうな眼つきで夢中に話し込んで は、からだをゆすぶっても返事もしなかった。あわてて濡手拭で頭 ゐた。子供はそんなことにはおかまひなくます / 、はげしく母親のを冷すや、富山の藥袋から熱さましを探し出して嚥ませたりした 手をひつばって駄々をこねる様子に、一つやれてば、な、また買っが、一向熱が下りさうもなく、輕いひきつけさへ起る有様に、金治 てやるからな、と卯之吉はくり返したが、盆と正月以外には砂糖もは軍服に着換へながらまご / \ してゐるところへ、もう村長の二男 舐めたことのないスミノは、やだ / 、 ~ / 、、と顏に血をのぼらせてをはじめ應召兵がみんな役場の前に勢揃ひしてゐるからといふ役場 泣き出しさうにした。一つ二つしゃぶってゐるうちに蝙蝠傘直しの からの使ひに、せめて隣り部落の産婆のところへ手當を聞きにいっ 背中で眠ってしまったのでキャラメルはまだ半分以上殘ってゐるのたヒサがもどって來るまでと、あとから停車場にまっすぐ駈けつけ にと思ふと、卯之吉は吾が子ながら倩なくなった顏を歪めて、う るから皆さんにはさきに行って貰ふといふ返事をして、また銀二の ん、この我鬼あ、一つ位やったってなんたことあるって、なんぼ慾そばに坐りなほした。やがて駈け戻って來たヒサは、疫痢か何かの たち だもんだべ、たった一つやれてば、とキャラメルの箱を握った手を質のわるい病氣にちがひないから醫者にかけなければあぶないと産 たたき 押へようとするや否や、スミノはいきなり三和土の上にでんぐり返婆に言はれたといふなり、押しつぶされたやうにそこに膝をつい り顔を眞っ赤にしてじたばたやりはじめた。その騒ぎに男の子の母た。いつの年も春にもならないケちに飯米を切らしてしまふやうな きっ わらし 親も強く眼を見据ゑた顏をふりむけ、なんだ、この子供あ、まあ、 暮らし向きでは一度呼んだだけで自動車賃と往診料とで米の二俵分 と我が子の胸もとを小突き返してから、なんと、濟まないすな、こ もとられる町の醫者に診てもらふことなぞは思ひも及ばず、去年の れとこだば、かまはないで置いて呉れせ、と卯之吉に言ひかけた 秋、爺さんが惡くなって亡くなったときも一度も醫者にかけられな が、すぐまた心も空な顏をあわたゞしく亭主の方にもどした。さうかった金治とヒサは、ただ銀二の高熱にうだった顔の上に眼をまご いふ母親の調子で、とても買ってなぞもらへさうもないと観念した つかせてゐたが、應召兵を送ることでざわっいてゐた村はひっそり らしい男の子は、しかし甘いものを食ひたいよりも空腹に耐へない としづまり返り、時間は刻々に迫って來るので、手足まとひになる 顏つきで、それからのちも一刻もスミノの手に握られてゐるキャ一フ金一は置いて行くことにし、隣りのものに銀二をみとってもらひ、 メルから眼を離さなかった。そのとき、改札ロの方から、草階君草夫婦はあわてて外へ飛び出した。しかるに一旦納得した金一がわあ 階君、と誰か大聲で怒鳴ったので、男の子の父親は背伸びをしてそっと泣き聲をあげながら追ひかけて來て、どうしても言ふことをき っちに顏を向け、はあい、ただ今あ、と呼び返して置いて、そのと かないで、金治は軍服の上まで汗だくになりながら足ののろい金一