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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

あげて暴れ牛のように追いかけてきた。僕らは、背筋に戦慄をおぼ に違いない。消え入るような思いをしていると、先生は、 0 幻「よし、もう一人は手を上げないが、大體誰かはわかったし、惡いえながら、西別院の裏手の墓地へ、われ先にと逃げこんだ。農夫が 引き上げてゆくと、墓地に集った僕たちは、足羽川の上流へまで遠 と悟ったようだ。これからは、お堀は勿論、あぶないところでは誰 征する相談をした。泳げる川が近くになかったのだ。僕たちは、一 も泳がないように。」 まだ若いのに寬大で心の暖かな先生の顏を、僕はやっと見上げ時間以上も歩いて、水の淸い足羽川の上流に出ると、武裝を解いて た。見るからに眞面目そうな先生の圓顔が、血色よく、つやつやし河童に變った。靑い淵を横切って泳ぎ、また淵を横切って泳ぎもど ていた。先生は、わざと僕の顔を見ないようにしていた。僕の胸る。靑い水と靑い空と、魚のような自分の體と、白波を立てて騒い は、感謝でいつばいになった。子供心にも、敎師の愛情や寬大さはでいる淺瀬など、すべて僕を有頂天にした。ーーーは、この日か よくわかるものだ。こんなことがある以前から先生の人柄が、ぼら、小畑先生のことも忘れ果て、眞鍮ラツ・ハも放り出して、足羽川 あだな くたち子供にはよくわかっていて、先生にだけは、渾名をつける通いに夢中となった。靑空と靑い流れほど樂しいものはなかった。 ことができなかった。いつも僕たちを叱りつけ、嘘を言った子供に 輻井市中に・ハスも電車もなかった時代だし、自轉車をもっている 「舌を拔いてやる」なぞと憎々しく言い放った敎師には、子供たち子供たちも僕らの仲間にはいなかった。しかし往復の途上にも色ん な樂しみがあったので、一時間以上歩くことを面倒臭いと思ったこ は、ひどい渾名をつけていた。 僕には、先生の前に手を上げなかったことが、小學生時代を通とがなかった。 父は、泳ぎに夢中の僕を、三國の海水浴場につれて行き、旅館に じて一番氣とがめのする、恥ずかしいことだった。翌日も思い出し 十日ほど滯在した。九頭龍河口の汽船や帆船が、水平線の煙や、砂 ては、自分の手を抓ったり、頭を自分で毆ったりした。 借家暮しの父は、市内の八軒町から遠く西別院の近くへ引越した濱の貝殼とともに、供を夢みるような心地にした。波と日光と潮風 ので、僕は暑中休暇中は、西別院の境内と、その背後のほうにあるは、僕が自然の子であることを知らせるかのように、來る日も來る 野原で遊ぶようになった。子供たちは竹筒に針金を仕込んだ刀を腰日も僕を愛撫した。自然と一體になっている有頂天な喜びは、僕が 大人となってからは二度と取りもどすことが出來ないものだった。 にさし、眞鍮一フッパを吹き鳴らし、隊を組んで兵隊ごっこをした。 小學校にまで軍人がやってきて、日米はいっか戦うであろうと、軍毎朝、靑空を見ただけで、小躍りして歡聲を上げたあの歡びの烈し さも、二度ともどっては來ない。左手の長い波止場の近くでは、海 國熱を吹き込んで行った時代だった。今日では、子供たちも戦爭を 嫌うようになっているのは幸いだが、子供のころの僕たちは、街を水が渦卷いている場所があるというので、水浴が禁止されていた が、大人の男がそこへ泳ぎに行って、濱にいる僕たちに向かって手 行進してゆく軍除のラッパ卒たちにむやみに憬れたものだ。僕も、 をあげて何か大聲で叫んだと見るまに、渦に吸いこまれて溺死して 父にねだって眞鍮ラッパを買い、耳が痛くなるまで毎日吹き鳴らし しまった。その事件だけが子供心をも悲しくさせた。父もその場所 た。隊伍を組んだ子供たちは、野に出て行って、他校の子供たちと へ行って泳ぎはしないかと僕は不安になり、決してその場所では泳 對峙して「戦爭」をした。しかし「撃劍」を習っていた僕でさえ、 針金を仕込んだ刀を振り上げても、敵側の子供たちの誰一人をも傷がぬというロ約束を父から聞かねば安心できなかった。子供の僕の つけようとはしなかった。畦豆を踏み倒された農夫が怒り、罵聲をほうが、八字髭を生やした中學敎師の父に、溺死をしないように、 つわ まるがお

2. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

126 ゐた使丁は、自分の聲に駭いて急に靜まった教室を見まはし、ちょ 一應は正面を向い もの、洟汁を絶えす舌の先で吸ってゐるもの っと氣まづげに云ひ足したーーー「何ですぜ杉本さん、校長さんが湯 て、何か敎師の云ひ出すことを待ち設けてゐる恰好はしてゐたが、 實のところそれは何年かの學校生活で養はれた一つの習慣であっ気をたてゝんだからねえーー」 ふさは 杉本はその間に、やつばり今日の修身も講談にしようと決心し た。低能兒はそれに相應しくぼかんとさうしてゐる。敎師もまたぼ 修身々々と云ってよろこぶ子供たちもまた、それによって「あ かんとして子供の顔を一眸にをさめてゐた。 とはこの次に」なってゐた講談を思ひ浮べてゐた。 「先生ーー」と思ひだしてまた一人が叫ぶのであった。「さ、早く 「先生ーー大久保彦ぜえ門 ! 」と子供が催促した。「よし、彦左衞 修身をやらうよ、先生 : : : 」 門」と杉本は答〈る。それを合圖に子供たちは居ずまひを正し、ご 「よろしい、では修身 ! 」 それを聞くと子供たちはがた / \ 机の蓋を鳴らした。彼等は薄つくりと唾をのみこむ音が聞えるのであった。敎師はもうやけくそに べらなその敎科書をひきすり出す。そして中には足をふみならしてなって御前試合の一くさりに手振り身振りまで加〈る。その最高潮 に達したところで、席の眞中にゐた一人の子供が、再びびよこんと 何か喜ばしさうに、修身だあ修身だあと節をつけたり口笛を吹いた 立ちあがった。 りした。 「先生え : : : ちょ、ちょっ、ちょっと」 杉本は敎案簿をばたりと開く、とそこには、勤勉といふ題下に三 「何んだ ? 元木ーーー」 井某の燈心行商がこまん、と書きこまれてあり、「きんべんは成功 しかし元木武夫はもう自分の席からとび出して來て、ぬうっと敎 のもとゐ」といふ格言まで書きこまれてあった。杉本は前の日いろ いろな參考書を檢べてその敎材を準備した。だが今、こんながらん師の鼻の下に突っ立つのであった。さうした突飛な行動に杉本は馴 れきってゐた。彼は元木を無視して更に話をつゞけ出した。所在な 洞の子供の顏を視て彼は欽第にその努力が情なくなり、最後には : ・ くなったその子供は敎卓に凭れか乂った。そこから暫く、がく / 、 、敎案簿を閉ちてしまふ。すると一人の子供が と動いてゐる敎師の顎を眺め、眺めてゐるうちに彼のだらしない唇 によっきり棒立ちになった。 のすみからは涎が垂れ落ちた。元木武夫は言をおとした。そして敎 「先生 ! 」と彼は叫んで股倉を押〈た。「おしつこ、よう、ち ' えっ 卓にたまった涎の海に指をつつこみ出鱈目な繪を描き、その繪がま ちえっちえ : : : まかれてしまふよう ! 」 だ描きあがらぬうちに礑と自分の疑間に思ひ當った。もはや矢も楯 一人の子供の尿意が忽ちすべての子供に感染した。「先生あたい もたまらなくなるのであった。「先生 ! 」と一際高らかに叫んで敎 も」「あっ、まけさうだ」「やらせなきゃあ垂れ流しちまふから」 師の腰にばっとしがみ着いた。元木は「大久保彦ぜえ門のお内儀さ 「あたいもだあ」さうロ々に連呼しながら彼等は廊下に駈け出した。 もはや成り行きに委せるより外はなかった。杉本の耳はがん / 、遠んは意地惡るばゞあだったのかい」と一氣に叫びつづけ、「ようよ う、よう」とその腰骨を搖ぶるのであった。途端に杉本は一足身體 くなり咽喉はかすれた。彼はぼんやり突っ立ってゐた。 圖體の大きい使丁が物音に駭いて凄い劍幕を見せながら跳びこんを退き子供の眞面目くさった質問を避けようとした。すると元木武 で來る、彼は氣短かに呶鳴り續けた。この敎室の騷々しさが = ンク夫はくわっと逆上し、どがんと敎師の股倉めがけて毆りつけて來 リートの壁を徹して他の課業を妨害するといふのである。がなってた。 よだれ はた

3. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

53 蕪 ・ヘものな、と言ひながら、お燒屋の後家が今燒いたばかりのお燒を 持って來て子供に押しつけ、泣くな / \ 今お母のとこさ連れて行っ てやるべから、と一生懸命賺しはじめた。腹が空いてゐるらしい子 供は夢中でお燒にりついたが、食ひながらも泣きっゞけてゐるの よだれ で、 トマトのやうに赤くなったその顔は涙と涎と餡でぬかるみのや うに汚れてしまった。近所のお主婦さんたちも集って來て、みんな で交る代るたづねたが、子供はただ、あっち / 、、と東の方向を指 すのみで、ちっとも様子がわからなかった ' しかし、この陽氣たと あはせ 並んでゐる三文店の向ふ端れのお燒屋の軒下で、黒々と陽に燒けいふのに、洗ひざらしの袷を一一枚も重ねてゐるところ、どう見ても た鳥のやうな顏つきの蝙蝠傘直しが、道具箱の上に腰かけ、ひろげ町の子供ではなく、百姓の子供にちがひないのと、子供の指差す方 た股の間に裏返しに抱いた剥げちょろけの蝙蝠を直してゐたが、ふ向から考へ合はせて、これあ石脇のものだ・ヘ、そんなに遠方から來 るはず無いし、靑物賣りのお母さでも尾いて來たなだべ、と赤兒を と仕事の手を休めて、ちっと往來の向ふのひとところを見やった。 まるで人通りのない白々と乾いた往來の一町ほどさきから小さい女おぶったポン。フ屋のお主婦さんが言ひ出したのを聞きつけて、仕事 の子が泣きながらやって來るのであったが、顔を眞っ赤にして咽喉の手を急がせてゐた蝙蝠直しの理助は、んだか、んだら俺連れてい も張り裂けるばかりにうわあ , ・ ( 、と泣き喚く女の子は、ひとしきりって見らあ、と骨を繼ぎ終った蝙蝠傘をばちんと音させてつぼめて 泣いては立ちどまってきよろ / 、あたりを見廻はしてゐるが、また立ちあがった。 いつもは肩にかけてルく道具箱の風呂敷包みを、修繕用の蝙蝠傘 すぐあらんかぎりの聲で泣きながら誰かを追ひかけてゐるやうに小 走りになった。だん / 、こっちに近づくにしたがってその泣き聲の東に吊して後ろ手に腰にあてがひ、さ、あと泣かねたってええ、 のなかに、お母居ない / 、、とくり返すのがわかり、それを聞きっ お母とこさ連れて行ってやるがら、と理助が背中を向けると、子供 けたお主婦さんたちが軒下から出て來て女の子になにかたづねてゐは素直にその背中につかまっておぶはれた。二、三町の間はこそば ゆい身じろぎを理助の背中にったへてしやくり上げるだけであった たが、子供は気が狂ったやうにただ泣き喚くだけで、間もなく蝙蝠 が、子供はまたもや不安に脅えるやうにうわあ / 、と泣き喚きはじ 傘直しの前までやって來てゐた。 また仕事をはじめてゐた理助の手もとを、女の子は一寸きよとんめた。英子屋の前まで來ると理助は子供を降ろしてキャラメルを買 とした顏つきで見てゐたが、坊んぼ子、なんとした、と理助が顏をつてやり、また背負ってあるき出した。もう泣き聲はしなくなり、 子供は一心にキャラメルの包み紙をむいてゐるらしかったが、やが 上げた途端に、また顔を滅茶苦茶に歪めて、うわあお母居ない / 、 ていやに重くなって來たので、木の根のやうにねぢくれた頸をうし とからだを搖って泣き出した。おや、お母居ないって、お前、どっ から來た、うん、お前どっちから來た、と理助は道具箱から腰を上ろに捻って見ると、泣き疲れてぐったりと眠りこんでしまってゐる げてなだめにかかったが、まるで耳に這人らないやうに喚きっゞけのであった。ここから十里ばかり海岸寄りの町に女房子供を置いて / 、、まんづ、可哀さうに迷ってしまった世の旅をつゞけてゐた理助は、一昨年の夏、その子には死なれ間 てゐるのを見ると、おや

4. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

が一圖に荻村重吉をつき動かした。意地と義理で踏みこたへてゐた 錢白銅貨を握りしめてこの坂をせか / \ とのぼって來る。さうして その意氣張りがへた / \ と崩れて、今はどうともなれと思った。も 受付けの窓口に預り料をこつんと置き、わが子の名前をたからかに 呼ぶのであった。・ハラ - ック建ての家屋をつきぬいて女の聲はひびき一度女がこの空所を埋めて呉れたならば、それだけ凡てのことが好 渡り、群れからとびだしたかさぶただらけの子供が廊下を一散に駈轉するとも思はれだした。荻村重吉は咽喉ぼとけをごくりとさせて 「泣くな坊主 , ーーなあ : : : 」と云った。「そんなにむづかるなら、も けだして來た。「お又・ ・ : 」と母親は胸の中に子供を抱きすくめ、 う一ペんだけお爺ちゃんとこい行って、賴んで見るとしようか、せ 一日堰かれてゐた愛情をもって、子供の頸筋をかじるやうな唸り聲 めては子供だけでもなあーーー」すっかり暗くなってから彼等は電車 を立てた。さうして二十疊敷ほどの遊び場に群れてゐた子供は、一 人減り二人減り、電燈がはいる頃は四五人になってしまった。彼等に乘りこんだ。父親の沈うつな腕に抱かれた猛は、動く電車にさへ はあそぶ勇氣をうしなった。窓に倚りかゝって蒼然と暮れかゝる坂少しも機嫌を直さなかった。健太郎は父親の動くま又に陰のやうに ついてまはった。持て餘し氣味の荻村は、ぼんやり中央の昇降口を 路を見つめてゐる。玄關に人の氣配がするーー子供の眼は虚空をに そばだ らみ耳だけが聳立ってゐた。一聲洩れるーー・と實に敏感に親の聲音見てゐた。がらんとした車内に、白い埃が何度となく蜷きこんで來 た。長い電車であったが着いてみると餘りにも短かかった。電燈の を聞き分け、子供の一人はまっしぐらに廊下に消えた。そのやうに あかるい表の店先からはいる勇氣のない荻村は、惡いことでもする して、たうとう一人ーー保姆はもう話すこともなくなり無言のま ものゝゃうにこっそり裏木戸をあけた。臺所の磨硝子戸から光が洩 子供と顏を見合はせてゐた。すると子供の顏は次第に淋しげに曇り やがて間もなくぼろりと涙が滴る。「あゝ強い子、強い子 : ・ : 泣かれてゐた。その戸の前に突っ立った荻村重吉には、ちゃうど自分の ないわねえ、坊や。泣くのはチャンコロチャンノ \ 坊主、日本男子眼のたかさにある素通しの硝子戸から、内部が見えるのであった。 はわっはつは、わっはつは : : : 」保姆はさう云って無理なおどけた白い割烹着をつけたふみが茶碗を洗ってゐた。彼女はふと戸の外に 眞似を見せる。子供は聲ではあ、はあと笑ひ乍ら、眼からは一層は人間の氣配を感じたらしく顔をあげた。さうして叫んだ。 「まあーーー」 げしく涙をこぼしてゐた。 がたっと硝子戸に手をかけたが、彼女はそれを開けるのを止め 荻村重吉はその部屋の前に立った。は保姆の手を突きのけてそ た。そして何故か急に顔を奧の方に向けてあわたゞしく呼ばった。 のものに駈けよらうとした。幼いもの長脚が彼の感情の通りに動い ては呉れなかった。猛は疊の上に轉んだ。轉んでしまってから、今「とうさん、父さん、ちょっと ! 」あとは息をはずませた金切聲に はもう誰に遠慮をする必要もなく大聲に泣くことが出來たのであつなってゐた。「荻村が來ました、よう ! 父さん ! 」 女のその聲は喜びであったか呪ひであったか、荻村には判斷がっ かなかった。たゞ彼はその叫びを聞き終へた時、「失敗った ! 」と ゐるべき妻のゐない家の中で、父親の腕に抱かれた子供はむづか 思ったが、既にそれはもう遲かった。がらっと臺所の硝子戸をひき りを止めなかった。健太郞も瞳を濕ましてぼんやりしてゐた。そこ しきゐ にはひどく大きな空ん洞があった。子供たちの母親、さうして荻村あけて、舅の深見甚造が閾の上に立ちはだかってゐた。晩酌で頭の 芯まで赭くしてゐた舅は意地惡さうににた / 、してゐた。 にとっては妻ーー・十年の間生活を倶にして來てゐたものが、遠のい 「噂をすれば影とやらでな、今もお前さんが泣き面をかゝへて現は てしまった瞬間、身體が捻れるやうな愛着が湧くのであった。未練

5. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

と云って、その部屋から外へ出してやった。それから大人逹の好奇 裸體になったとき、その子供たちの不幸が一度にさらけ出される 6 心を滿たさねばならなかった。 のであった。しちむづかしい病名が、まっ黒になるほど書きあげら かざり 「錺の職人ですよ。つまり鳶人足なんですが、今では御多分に洩れれた。醫師はそれによって今更の如く感心してみせた。「健全な精 ず半分は失業してると同じことで : : : 」 禪は健全な肉體に宿る : : : 昔の人はい乂ことを云ったもんですな 杉本はさう答へて、次の子供のシャツを脱ぐ手だすけにか又つあ、え ? さうぢゃありませんか ? 」すると校長もそれに答へるの である。「こんな不健全な身體では智能發逹の劣るのも無理はあり 椅子にかへった醫師は、尖った顏をぐいと引いてまた去の子供を まぜんですな、いや、全くもって家庭が惡い ! 」 呼ぶのであった。 寒い日で子供たちの首筋には毛孔が立ってゐた。袴などは勿論な 「さ、次の番 ! 」 かった。上履さへ買って貰へない彼等は、床油を塗ったので、油が 待ってましたと許りに久慈惠介はすつばり丸裸になり、元気よく べとっく板の上をべた / 、歩いた。さいはひに彼等は不幸に馴れ切 醫師の前に立った。 ってゐた。直接不愴快な場所を脱け出すとすぐにそれを忘れた。そ ていでいせんそく 「府聹栓塞、アデノイド、帶溝胸ーーふん ! 」醫師は眼鏡を光らせして金切り聲を天井にひゞかしたり、出鱈目な節まはしにロ笛を吹 なだ て、はじめて感情をふくめたよろこびの聲をあげた。 きあげたりして、凡そ無意味な騷音を立てながら自分の敎室に雪崩 れこんで行った。 「お、これはみごとな帶溝胸だ、ごらんなさい、どうです ? 」 傍にゐた看護婦は立ちあがって來たし、校長はたるんだ瞼を引き 白い壁が一二方を立てこめてゐるこの敎室にはいると彼等は、何か しめた。 自分の家に辿りついたやうな安心を覺え、鼻唄まじりに周圍を見ま 「あたいん家はね、東京市の電氣局だよ」と久慈は元氣よく金切聲はすのであった。敎卓に頬杖をついた杉本も、子供たちとお互の面 をあげた。 を改めて見合はせるーー齒の拔けた痕の様に、元木武夫の席が空い てゐた。無力な敎師は、顏をしかめてぼんやりしてゐた。その顏を 醫師はその整を無視した。彼の興味は家庭の妝況よりも、殆ど畸 型に近い久慈惠介の胸にかかってゐたのた。彼はすかして見たり、 見て子供たちは殊更おどけ、眼を釣りあげたり齒をむいたりして見 深さを測ってみたりした。さうして益よ感心し「ふうんーーー」と鼻せる。どうかして朗らかになりたいと子供たちも焦るのである。 をらすのであった。 「先生えーーー」。ほかっと、古沼に浮きあがった水泡のやうに、思ひ がけなく塚原義夫が立ちあがった。「先生え、修身、修身ーーーまた 順番を待ってゐた子供の中から、妬つかんに聲が洩れて來た。 「久慈いーーーちんちん、ごう / \ 、おあとが閊へてゐます。久慈い修身をやらうよ、よう ! 」 おあとが閊へてゐるよ、早くかはんな」 すると、にた / 、しながらすぐに喋り出す元木武夫はもうゐなか それを聞くと久慈惠介は急に全身で眞赤になった。彼はまだしきった。勿體ぶってしゃ / 、張り出す例の久慈惠介は、先刻の衝げき りに撫でゝゐる醫師の手をふり拂った。自分自身の體の醜さに氣づ が未だ彼の頭から完全に消えず、赤らんだ瞳をきよとんとさせてゐ き、それと父親の仕事が嘲られた口惜しさが一しよくたになった。 るだけであった。涎を垂らしてゐる子供、靑っ洟を少しづ、舐めて 彼は素っ裸のまゝ聲を立てゝ泣きだした。 ゐる子供、うしろにのけ反ったり、机にうつ伏せたり、脚を腰かけ うはばき

6. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

ろに噛りつくのであった。涎と鼻くそと手垢をこすりつけ、何故か 「か、かあいさうなのはこちとらぢゃねえか ! 腕を持って乂腕が しやば さうして滿足し野方圖にはしゃぎまはった。 使へねえこんな娑婆に生きながらへてゐるこちとらちゃねえかー 子供のことまで文句をつけて貰ふめえ」 頑丈な金網をその周圍に高々と張りめぐらしてゐる屋上運動場 子供は學校にあげねばならぬお」てだといふから上げてゐる。數は、それだけで動物園の大きい檻を連想させた。そこだけが日沒ま さうー′、ー 年前、米屋が桝を使用してゐた時代には彼は錚々たる職人として桝で彼等にとって唯一の遊び場所になってゐた。けれどもそこで一あ ばれすれば、初冬の陽がたちまち傾き、吹き拔ける風が目立って冷 取業をしてゐた。彼の腕にかゝれば、必要に應じて、一斗の米が一 斗五升にも八升にも斗りかへられた。それだのに、何の因果でか、 めたくなるのである。子供たちの唇は一様に紫色にかはる、その冷 ある日から忽然と、米屋と云ふ米屋は瓩を使はねばならなくなっ めたさを撥じきかへしてやらうといふ氣力はなかった。たゞ變な顰 た。「この腕がお前ーー」と彼はたうとう嘆きだした。「使ひ道がねめ面をして默りこみ、仕方なしの様に金網にへばり着く。すると網 えちゃねえか。なあ義ーーーーと、こんどはきよろ / 、してゐる伜に の目から、歸らねばならぬ自分の家が見える。汚れた場末の黑く汚 向ひ「お前も可哀さうな餓鬼だよ、震災ちゃあ、おっ母がおっ潰された屋根の下に自分の家を考へていよ、 , 不機嫌になるのだった。 れっちまふしよ。しかし何だぞ、眼鏡なんてしやら臭くって掛けら それが彼等に幸輻かどうかは判らないが、杉本は一刻でも多く子供 れるもんぢや無えからな」 だけの世界に彼等を引き止めようとする 紙芝居の拍子木がカチど、ひびき渡って、ろち裏から子供たちが 「阿部、阿部ーー」へうきんな、さい槌頭の阿部が「何でえーーー」 ぞろ / \ 集まって來たが、一錢玉一つも持ってゐない子供はそこで と答へながら敎師の方へふりかへる、「お前の家はどこにあるん も除け者にされるのであった。長屋の中は暗くじめじめしてゐた。 だ ? 」 それに被べると學校はひろく勝手氣ま又に跳びはねることが出來る 「あたいん家か ? あたいん家はねえ」と阿部は少しでも高くなっ のだ。放課後になると、これは子供より何よりも、校舍を汚されるて展望をきかせたいと思ひ、金網に縋ってかうもりのやうにぶら吊 ことだけが自分の馘と同じ位怖ろしいと觀念してゐる使丁逹に階下った。「ほら、あそこに、ほら白い屋根が見えんだらう、そいから の泣び場を追ひまくられ、子供等は吹きっさらしの屋上運動場に逃深川八幡様だ、あそことあそこの間にあんだけえどなあ : : : 」彼は げあがって行った。そこでは、家に歸ってもつまんねえーーーと指を何とかして適確にそれを示したいと伸びたり縮んだりしたが、結局 くはヘる子供等が、大ころのやうに他愛なくふざけちらしてゐた。 どれもこれも同じ黒い屋根で一しよくたになり、ちえっと舌打ちし 「先生、あたいも遊んで行かあ , ー」と塚原義夫は父親と別れ、敎て「あんまり小っちゃくて見えねんだよ、先生 ! 」 「先生ーーあたいん家を敎へてやらあ」と次の子が造作なく調子に 師の腕にすがるのであった。うす暗い階段を螺旋まきに駈けあがり 天井を拔けると、さゝくれ立ったコンクリートの屋上に出る。「お乘って來た。「ほら、あっこに大い池があんだろ ? あれが木場で よ、あの橫にあんだが : : : 鐵工場が邪魔になって、よく見ねえや」 ーい」と塚原がわめいて跳ねあがる。すると澤山の子供が四方から っゞいて月島の方角に面した金網では、地團駄ふんでゐる子供が今 ばら / \ 集まって來る。彼等はそこに現はれた敎師を見て心のつつ ちゃん だとばかり懸命に詭明するのだった。「あたいん家の父は、あので 芻かへ棒を發見し、うれしくて堪らなくなるのだ。わあわっわ : : : と けむ およ 叫んで、敎師の首と云はす肩といはず、凡そぶら下り觸れ得るとこかい工場だ、ようーーーおーーいみんな來て見ろーーーな、煙がまっ黑 はか でか さが

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では、明日から來なくとも宜しい : : : と云ふことになって、受持 兒童のところへ、一寸そのことを話しに出かけた。子供は、すっと ん狂な顏をして見てゐたが、「失業したんでえ」といふ一「〔葉をよく 覺えてゐた。 船頭の子供は、先生、それちゃあ船に乘んな、船はねえ、儲かる よ、といったし、そば屋の子供は、ぢゃあ先生、出前をやんなよ、 先生、自轉車にのれるけえ ? : その他、様々なことを云ひ、げ らげら笑った。 「覺悟して貰はなければならない ! 」 この子供逹は低劣兒童の組であった。ここで自分は、一年ばかり さう云はれて、自分は監督者の顔を見た。 子供と一緒に遊んで來たのだ。げらげら笑ふだけで、罪がなくて面 「それは一體、何處から出た意志ですか ? 」 白いぢゃないか。けれども、面白くないのは、此方の身の振り方で すると、警察だ、と云った。警察であるにしろ、ないにしろ、月ある。 給七十圓を棒にすることは、悲しかった弐第だ。が、どうせたすか その前、自分は山の手の方の立派な學校の先生をしてゐた。そこ たんか らない命なら、負け惜しみに、少し啖呵でも切ってやりたくなる。 は、ひまな父兄逹がよく出かけて來て、いろんなことを云った。勿 うるさ 「勿論、覺悟の上です ! 」 そもそも 論、敎育に熱心の餘りではある。が、これは五月蠅いことである。 しかし、それが抑よ、自分のロを自分でふさぐ愚かさである。 天下の親といふ親は、みんな自分の子供を秀才と思ってゐる。思は 今更になって、その當時の個人的な問題をほじくり返したって何ないまでも、先生の指導のよろしきを得たならば、立派な子供にな にならう。どうした風の吹きまはしで、又、御厄介にならぬとも云れるだらう、と思はれてゐる。 小さな敎室に七十人も子供を押しこ 〈ぬ果敢ない望みには相違ないが = = = 全く御親切な校長先生であんで、立派な成績を上げるのだから、その學校の先生は妻い腕を持 り、視學様々であったわけだ。ただ、參考のために、あとで聞いた ってゐた。 ことを付け加へれば、警察は何もそんなことを云ったことはない、 が、何しろ、非生産的なプルジョア階級は鼻もちならぬ。自分は どうも警察はにくまれるだけさ : ・ : と、當事者の方が云はれた。尤生まれたときから、食ふや食はずで育て上げられたんぢゃあない も、内務省から各府縣にまはったなら止むを得まいが、赤化宣俾を か。さうでなければ、兵隊屋敷みたいな師範學校にこづきまはされ したわけではないし、生活權の擁護位を問題にしてゐるのが、それて、こんな半端な人間にならなかったらう。で、どうせ敎員するな 敎ほど危險思想なら、小學校敎員なんて、大の様に暮さなければなら ら、生産階級の兒童に接してゐたかったわけだ。 失なくなるだらう。 下町の方もやつばり東京であったことに違ひはない。が、よっ。ほ 辭表を書かされてから、仕事は迅速になされたらしい。實は、義ど氣持が接近して來た。どだい生まれと育ちが惡い上に、この上ど 礦務年限も少し許りあったんだが、そんなものはどうでもいい、と云んなに眞面目にやったって、プルジ「アになれる氣づかひのない吾 ふわけである。話は至極簡單に片づいた。 吾は、嫌に上品な言葉を使ってみたり、商品切手で三越の買物をし 失業敎員

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に於てであった。「なあに荒牧さん、やったといふことだけはっき無學から由來されたやうに思はれたらしい。さうして伜のこんな立 りすればいいんですよ」と、校長も云った。「何しろこんな特殊な派な ( ? ) 成績が、光明ある生活の將來を全く確定づけたかのやう 土地の學校であり、父兄と云ったってばた屋稼業ちゃ、子供を喰ひに昻奮してゐた。「俺らは食はねえでも、この子だけは學校さあげ 物にすることは考へてゐても、敎育なんてこたあ考へても見ませんねばならねえと決心してゐますからね、それにまあ、この子はなか よ、來いったって來るもんですかーー」荒牧雄助は、「全くさうでなかに勉強好きな子供でね、先生様、何ですで、家さ歸っても必ず ぜうねえ , ーー」と合槌を打った。そしてその前の日、彼は受持兒童本を讀むんだし、買喰ひなんか少しもしねえ、買って呉んろと云ふ はぐき の成績品ーーー圖畫と。ヘン習字をことごとく敎室の壁にはりつけ、さ ものは本ばかしだね」厚い齒齦の先にぶつぶつ並んだ汚ならしい齒 うして子供逹に云った。「明日はお前逹のお父つあんやおっ母さんをかちかち云はぜながら、その母親は限りもなく子供の自慢をはじ に見て貰ふために、大變よく出來た成績を張り出しておいたよ、自めた。子供が立派な成績を取ったといふ観念がこの兩親にあって もたら 分の繪やお習字が出てゐる者はどうでもお父つあんおっ母さんに學は、いきなり自分逹の蓮命の再評價を齎したのである。荒牧雄助は 校に來て貰って、ようく見て貰ふんだな、いいか、今日歸ったら皆頭だけで合槌を示してゐた。敎師の立場からは少しもその子供の將 さう話すんだぞ」あたい・も張り出されてらあ、あたいもだ : : : 子供來に期待をかけてゐなかった。その上、彼はしまひには重苦しいも 等は胸をたたいたり跳ねあがったりして一目散に自分の家に散らばのを感じて來たのである。深い愛情はそれに相當する報酬の要求を てきめん 言外に含まぜてゐた。 って行った。效果は面にあらはれたのである。その日は少しばか 今も河野の親父は眼を輝かしながら子供の自慢を高々と話しつづ り小ざっぱりした恰好でもって彼等の父兄は子供の成績を見に來 けた。それを話すことによって、この敎師から何程でも酒手が引出 た。河野武男の父兄は夫婦そろってやって來た。彼等の間に武坊が せるやうな飮みつぶりであった。 挾ってゐなければ、或は、荒牧はこの男を河野であることを認める 「有難えよ、なあ先生、そいだから不動様は信心しなきゃならねえ、 ことが出來なかったかも知れない。大きな短册のやうに天井からぶ ら下がってゐる成績品をつくづくと見惚れてゐる父と母との間か見ろな、今晩かうして先生様と特別の懇意を願ふ段取りになったの ら、子供は窓際にゐる敎師を見かへり、何度となく袖を引いた。遂も、これまた不動様のお引合せでなくて何だあね、おい、そちらの に兩親はうしろをふりかへった。荒牧雄助の眼と彼等の眼とが衝突若えの、俺らの先生様の盃を一杯頂かして貰ひなよ」ぐいと泡盛を した。背丈の低いいい年輩の夫婦が、可憐なほどどぎまぎして敎師あふり、この頃から親父は醉っ拂って來たのである。荒牧もまた醉 に近づいて來た。荒牧も近よって行った。敎室の眞中どころで彼等漢の暴言を間遠ほに聞いてゐた。「ばた屋ばた屋と世間の奴等あ俺 は挨拶をした。「先生様ー , ーまあ、有難いことだのうーー」と、おらのことを輕蔑してゐやがるが、これでも俺らあ政府差許しのちゃ の袋が最初に感嘆の聲を洩した。「お陰で、はあ、この坊主も大したんとした商人だからね、ね、先生ーーロ惜しかったら鑑札を見せて 河 物知りになるんだなあ」「先生様、ーーへえ」と、今度は父親が深くやらうかってなわけさ、所で先生、俺らだってお天道様さへ顏を見 せて呉れりや、儲からねえまでも食ふにや困らねえ、ああ、食ふに 腰を折った。「俺らの望みはみんなこの坊主にかかってゐるわけで、 いや、學校ってもなあ有難いところだなあ、ーー俺らも今から考へてや困らねえとも、晩げになりや一風呂浴びてよ、やい亭主、一杯っ 見るとーーー」さういふ彼等は、現在のしがない境涯はすべて彼等のげえッと呶鳴りつけてやるんだ、さうちゃねえかね ? 錢さへあり

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雨が夜明けからどしゃ降りであることは知ってゐたが、その時刻 てゐる雨の中にとび出した。大通りは河になって流れてゐた。 2 お が來ると同時に、子供は嫌な仕事をさっさと投げ出した。朝つばらつばにくるまった髯の交通巡査が、學校がよひの子供を自動車や電 から無理強ひされるコルク削りの内職手傅ひは、いゝ加減に子供の車から守り、子供逹の敬禮ににこ / \ してみせた。 心をくさど、させた。そして富次は學校に行きたいと一圖に考へる のであった。別に勉強がしたいなど又云ふ殊勝な心ではなかった、 城砦型に建てられた鐡筋コンクリート の小學校は、雨の日は見事 たゞこの陰氣くさい長屋よりも、礦々とした學校が百層倍も居心地に出水する下町の中で、いやに目立って聳えてゐた。この一帶は一 よかったのだ。年中寢てゐる病氣の父親と、コルク削りで死にもの 昔前、震災でペろり燒け頽れた。生き殘った住民たちはあたふた舞 狂ひになってゐる母親の喧嘩には、たまらないと思ふ漠然とした氣ひ戻ったのであるが、彼等は前よりも一層危かしい家に住まねばな 持でーーーしかし母親の劍幕が一番おそろしく、富次は紐のちぎれた らなかった。たゞ小學校だけはーー流石に政府の仕事だけあって、實 鞄を小脇にしつかり押へ、こんな場合仕方なしに父親を視た。床の に堂々と出來あがった。例へばそれは、こんな雨の日でも、子供逹の 上に長くなってゐる父親は、いっか學校で見た磔されるキリストみ視力を傷めないためにその採光設備を誇ったりした。それで内部の たいなひげ面で、眼ばかり異様に蒼光からせてゐた。富次はぎよろ壁と云ふ壁はまっ白く塗られてゐた。無數の子供等が今朝も喚きあ りと動いたその眼にあわて・、視線を壁に移した。するとそこには、 ってこの建物に吸ひこまれる。傘をふりまはしたり、ゴム引マントを 醫藥に賴れない病人が紳佛に賴るならはし通りに、不動明王の繪が敲きつけたり、 とに角昇降ロは彼等の叫喚に震へるのであった。 貼りつけてあった。 子供逹はさうすることが何故か嬉しいのだ。然し敎員は反對に益よ 「學校なんて行ったってーーー」と母親の言葉が急にやさしくなっ陰氣な顔をしてこの騷ぎを看てゐた。朝つばらから疲れ切ったやう た。「なあ富、損しることはあっても一錢だって貰へるんぢゃねに、ズボンのポケットに兩手を突っ張ってぼかんとしてゐた。駈け えからよ、それよかお母あの仕事を手俾ふもんだ、な、そしたらこ こんで來た子供はそれにぶつつかって、はっとする、そしてそこから んだ淺草へ連れてくからよ」 急に取り澄まし白い壁の敎室にのろ / 、はいって行くのであった。 「小學校も出てねえぢや、今時、小信にも出られねえからよ」と父 この建物の直接的な管理は、いかに義務敎育を效果あらしめたか 親が口を挾むのであった。富次はほっとして母親を視た。彼女は外 といふ責任とともに、すべて月俸二百圓也のそこの校長の肩に 方を向いてへんと云ふ風に鼻をしかめた。 かゝってゐた。師範學校を出ただけの彼が、長い年月か又って捷ち 「なあ、俺が丈夫になれば何とかしるからよ、子供に罪は無えんだ 得たこの地位は、彼の白髮をうすくし、常に後手を組まなければ腕 庭し、學校にだけは出してやれよ」 が曲って見える危險さへ件ふ、それほどの努力の結果であった。そ い「芝居みてえな口は聞き飽きたよ、え ? お前さんも早く何とか片れを思ふと彼は肩が凝り荷が重いのである。だが彼も亦最後の望み 白附くことだ」 にこの帝都有數の校長として、せめては最高俸二百四十圓也に辿り 母親はさう云って亭主を一嘗し、富次に向っては一喝した。 つきたい、それには何をさて措いても と彼は頭をふりふり考へ 3 2 「さっさと行っちまへ、このいやな餓鬼ゃあ、ーーー」 るのであった , ーー先づ第一に校舍を淸淨に生命のある限り保たねば 柏原富次は右手に鞄を抱 ( 、左手は傘の柄にからまして、しぶいならぬ。市會議員は云ふ迄もなく、敎育畑の視學でさ〈最初に気づ

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188 男は、傘の下に身體を縮めて尻込みをはじめた。通じないこちらの覺を冒すのであった。それだのにこの飯屋は、彼等の生活の一部分 好意にもどかしくなって、荒牧は一足前に進み、思はず聲を高くし とさへなってゐたのである。こんな謙遜な生活意欲が、他の何處に てゐた。 見出せるであらうかーーすると荒牧は、二、三日も飯らしい飯にあ 「おい ! 」 りつけなかった子供を捉へて、迂濶千萬にも「朝飯はまだだらう ? 」 しようぜん 傘をはね退けて子供は敎師の相貌をしげしげと計量した。たった と訊ねた自分の愚かさに思ひ當り、竦然とした。自分の身の安全を 今、叱責の口調になってゐた大人の感情が、その時〈た〈たと崩まもらうとする淺墓な心理が、子供と自分との間に測り知れぬ距離 れ、見るも情なく崩れて行くのを發見した。子供は頷いた。それか を築いて、骨身のよち折れるやうな寂寥に取り憑かれてしまった。 ら先に立って歩きだした。 この感倩を反省することは不思議に、自己虐待の疎ましい痛々しさ 「さうだ、お前の馴染みの飯屋に連れて行けーー」 を覺えた。丼に盛られた組惡な米の香氣や、缺けた碗に濁ってゐる 言葉の半分を口の中でさう呟き、荒牧雄助は雨の中をゆっくり歩味噌汁の味が、同じものでありながら、この子供に取っては充全の いたのである。 滿足であるかの様ににこやかなのである。この滿足を子供にあたへ 子供の感覺の中に、敎師が當り前の人間となって現はれた。先生ることが出來たならばーー一人ではない、五人、十人の・・ = ・・荒牧は もまた飯を食ふのであるか ? 手垢や水垢に黒光りのする木板の卓さう思ひ、頬杖をついたまま、自分の體内に積まれてゐるさうした を間にして、武男は、奇異の感情が次第に落ち着いて來るのを覺え力を覗いて見るやうなおどんだ眼になってゐた。河野武男は全く子 た。すると子供は温かいものを胸一ばいに感じて、もうこの先生を供のあどけなさに立ち戻ってゐた。眼をかがやかしてじーっと敎師 自分の直ぐ身近に見直すのである。一つには久しぶりに滿腹したと を見あげ、何かもの云ひたげに唇をすぼめたり開いたりした。遂に 思ふ生理的なゆたかさに包まれてゐた。感情がほぐれて血色が增云った し、うれしくて堪らぬ動作が手足を輕々とさせる、その頬さ ( 目立「先生ーーあたいん家に來て呉れるかい ? 」 って紅潮して來たやうに思はれた。 意味の遠い話を確かめるやうに、荒牧は答へた。 「もういいか ? 」と、敎師は箸を置きながら訊いた。「も一つ、 「ああ」そして腰をあげるのである。「またお前、お腹が空いたら 盛りのやつを貰ってやらう、なあ、小さいのを一つーーそいでお先生のところに來るがいいや、なあーー」 前、學校に來るのは嫌ひぢゃないのかい ? 」 手を拍って、土間にとびあがって武男は聲をはずませた。 「どうして ? 」と、その眼が聞きか〈した。それから頸を振って否「ほんたう ? ああ、行くとも ! さ」 定した。 「まあ、いいから食ひたいだけ食ひなよ」 けんたん 灰色の雨にざんざん打たれたトタン造りの家々は、沼に浮んだ箱 健啖の美しさを荒牧は上から見おろしてゐた。胸にかすれる或る のやうに見える。沼澤地に向かって附近の雨水が流れ寄って來るの 酢つばい感情が、だんだんと自分の眼儉に浸んで來るのを自覺しであった。するとこの一廓では、たちまちのうちに雨水の河が氾濫 た。汚れた木椅子と木板の卓が並べられただけの飯屋である。濕つを起こし、平べったい屋並々々の倒影が打ちふる ( ておろおろし ぽい土間には、異様に生臭い食物の臭氣が、何か大變汚ならしく視た。住居は立ってゐることだけさ〈大變あぶなっかし氣に見えた。