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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

イ 37 森山啓年譜 「小説新潮」四月號に「太陽が大好きだ」 に「見返り橋」、七月號に「或る水夫の死」、 昭和三十二年 ( 一九五七 ) 五十四歳 ( 日活映晝化 ) 、六月號に「冬の女」。 十一月號に「鶉の床」。 「別册小説新潮」一月號に「出産まで」、五 昭和三十九年 ( 一九六四 ) 六十一歳 四十九歳 昭和二十七年 ( 一九五一 l) 月號に「美しい鏡」。「新潮」十月號に「夢 五ロ」 0 「新潮」三月號に「君を死なせはしない」。 「自由」三月號に「腕時計」。「別册小説新 潮」七月號に「孤壘」。 「小説新潮」五月號に「靜かな柳」、九月號 昭和三十三年 ( 一九五八 ) 五十五歳 に「波の泡」。「群像」十一月號に「貧しい 昭和四十年 ( 一九六五 ) 六十二歳 寡婦と靑年」。 「新潮」四月號に「濡」。「別册小説新潮」 十月號に「霰」。 一月、「北國新聞」に回想録「霜柱一一十年」 昭和一一十八年 ( 一九五三 ) 五十歳 ( 一月四日より三月十九日まで六十四回 ) 。「小説新 昭和三十四年 ( 一九五九 ) 五卞六歳 潮」十月號に「農婦病」。 「新潮」一月號に「出かせぎ」。「群像」四 月號に「愛別」。五月、河出文庫「伊藤永「別册小説新潮」五月號に「翼のない天 昭和四十一年 ( 一九六六 ) 之介集」解説。 使」。「小説新潮」七月號に「若いいのち」 ( 日活映晝「雜草のような命」原作 ) 。 「別册小説新潮」七月號に「七つの願望」、 昭和二十九年 ( 一九五四 ) 五十一歳 十月號に「思春期」。 昭和三十五年 ( 一九六〇 ) 五十七歳 「小説新潮」三月號に「朝影」、四月號に 昭和四十二年 ( 一九六七 ) 六十四歳 「花蜜」、七月號に「寢待ちの月」、九月號「地上」一一月號に「砂」。「新潮」六月號に に「濡衣」。 「綠の袴」。 「別册小説新潮」四月號に「半年どとの孤 閨」、十月號に「姿舟」。 昭和三十年 ( 一九五五 ) 五十二歳 昭和三十六年 ( 一九六一 ) 五十八歳 昭和四十三年 ( 一九六八 ) 六十五歳 「新潮」八月號に「杞人の憂」。「小説新潮」「小説新潮」一月號に「幼馴染の三人」。 八月號に「靑海の簾」。 「別册小説新潮」四月號に「復讐」。六月十 「新潮」十月號に「宿敵」。 一日、輻井市文化會館で高田博厚、中野重 昭和三十一年 ( 一九五六 ) 五十三歳 昭和三十七年 ( 一九六一 l) 五十九歳 治、深田久彌、水上勉、多田裕計の五氏と 「新潮」四月號に「春の雨」、九月號に「風「小説新潮」一月號に「山茶花」、三月號にともに講演。住所、石川縣小松市白松町一 の吹く道」。「小説新潮」十月號に「結婚前「鄙美人」。「別册小説新潮」七月號に「三五五の一一。 * 紙幅の都合で、かなり大幅に作品等の取捨選擡を行 後」。十二月、『靑海の簾』を角川書店より 部と若枝」 ( 日活映畫「非行少女」原作 ) 。 なった年譜であることをおことわりします。 昭和三十八年 ( 一九六一一 l) 六十歳 禪谷忠孝作製 六十三歳

2. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

四月、父、輻井縣立輻井中學校〈轉勤とな四高出身學生の同人誌「山上」に森松一雄 り、輻井市立寶永尋常小學校に轉入學。級の筆名で習作を發表。 ( 「山上」は三號「刊、同 友と劍道を習いに通う。父、高岡市の小學人は岡良一、樫村實、坂田精一、津村〈矢部〉堯一、脇 山康之助ら。 ) 「朱門、の創刊準備會に山上同 校敎員だった大窪薫と再婚。 人として出席、阿部知一一、舟橋聖一を見お 大正二年 ( 一九一三 ) 十歳 ぼえたが、「朱門」グループを離れ、中野 明治三十七年 ( 一九〇四 ) 七月、善良な繼母となった薫と父との間に重治が指導的役割を演じていた「社會文藝 弟秀夫生まる。 ( 筆名阿部秀夫で「詩精き「文學評研究會」に入る。年末に中野の紹介で學内 三月十日、新潟縣岩船郡村上本町で出生。 の「新人會」に入る。この年、スピノー 本名、森松慶治。父、瀬造、母、ゆきの次論」に評論を書」たが、昭和 + 年 + 二月夭逝。 ) ザ、ゲーテ、ハイネの著作を讀む。 男。父母ともに富山縣出身で、父の本籍地 大正五年 ( 一九一六 ) 十三歳 二十四歳 は富山縣本礪波郡野尻村本江三八三。當時 昭和二年 ( 一九二七 ) 三月、縣立輻井中學校の入試を一番で通 父は新潟縣立村上中學校の數學敎師。啓の 六月、分裂後の「プロレタリア藝術聯盟」 過。以後中學時代を首席で通す。 兄は茂造 ( 明治四 + 一一年歿 ) 、姉はせき。 に參加。十二月號の「プロレタリア藝術」 大正九年 ( 一九二〇 ) 十七蔵 に詩「犧牲者の身うち」、評論「看板主 明治四十三年 ( 一九一〇 ) 七歳 高岡市立定塚町尋常小學校に入學、級長と = 一月、中學四年修了。輻井中學では、三年義」。この年、繼母、胃癌で逝く。 先輩に中野重治、高田博厚、同學年に深田 一一十五歳 なる。擔任は吉田はる先生。 昭和三年 ( 一九二八 ) 久彌、後輩に多田裕計、宇野重吉がいた。 明治四十四年 ( 一九一一 ) 九月、第四高等學校に人學。上級に中野重父が直腸癌となったため歸省し、卒業論文 「スピノーザとゲーテ、ハイネ」がしめき 弟の勇、誕生後まもなく歿。母の産後の肥治、窪川鶴玖郞がいた。 りに五分おくれて受理されす、東大中退。 立ちが惡い折から、啓とその姉は七月末よ 大正十年 ( 一九二一 ) 十八歳 「プロレタリア藝術」一月號に長詩「レー り相ついで腸チフスとなり、母の不休の看 ニン及びカールとローザ」、三月號に詩「松 北陸女學校の學生角谷みよとの交際はじま 病を受けて助かる。母は不眠續きと經濟的 葉杖の發兵」、小説「何も持たぬ男」、四月 る。この年、肋膜炎を病み一年休學。 事情も手傅い、九月九日の未明、臺所で剃 號に詩「恐怖に抗して」。「戦旗」五月號に 二十二歳 刀自殺を遂ぐ。享年一一十八歳。大衝撃を受 大正十四年 ( 一九二五 ) 小説「火」、六月號に「プロレタリア詩に 山け、姉と抱き合って哭く。 ついて」、八月號に詩「年寄った水夫」、九 東京帝國大學文學部哲學美學科に入學。 月號に「再び詩に關して」、十月號に詩 明治四十五年 ( 一九一一 l) 九歳 二十一一 大正元 大正十五年 ( 一九二六 ) 「河」、十一月號に詩「港町」。「プロレタリ 4 昭和元 森山啓年譜

3. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

428 長の勤續二十五年と七十の賀を祝して「瀧 大正八年 ( 一九一九 ) 十五歳 澤先生祝賀の歌」を作詩し、全校生によっ 三月、紋別高等小學校卒業。四月、第三渚て歌われた。瀧澤先生祝賀會編『瀧澤菊太 滑尋常小學校の代用敎員になった。月俸十郞先生』に在校生を代表し、唯一人「瀧澤 六圓、國木田獨歩を好んで讀んだ。 先生の印象斷片」を寄せた。 大正九年 ( 一九二〇 ) 十六歳 大正十四年 ( 一九二五 ) 二十一歳 明治三十八年 ( 一九〇五 ) 三月、代用敎員を辭して渚滑村役場に臨時一月、ガリ版雜誌「沙漠」創刊號に「タ暮 二月二十日、北海道石狩川のほとり、當別雇員として勤めたが、六月、向學心を祕める乂」 ( 筆名、本莊睦夫 ) を、一一月、「警世時論」 村字太美ビトエ番外地 ( 現在、 + 三線二號地 ) にて樺太に渡り、年齡を十八歳と僞って兄廉に「氷の上を渡るまで」を發表、山田淸三 父一興、母ハヤの六男一女の末子として生一の勤めていた王子製紙盟原工場の職工と 郎編集「新興文學」にも小品を投じたりし まれた。父は士族、佐賀縣出身、明治三十なる。職種は製藥室計量係と賃金計算係た。三月、靑山師範學校卒業、學藝部員と 一年十二月に開拓農民として一家を擧げてで、日給七十五錢。この頃、加能作次郞のしての功績によって表彰された。四月、本 移住し、明治末年には荒物小賣商を營ん作品を愛讀。 鄕の誠之小學校に奉職。本鄕菊坂八一一の大 正館に武田三郞とともに下宿した。 大正十年 ( 一九一一一 ) 十七歳 明治四十四年 ( 一九一一 ) 七歳 昭和二年 ( 一九二七 ) 二十三歳 三月、ほぼ十カ月間働いて貯えた若干の金 當別村の太美尋常小學校に人學。一、二年をふところに上京、母方の叔父、原主一方四月、「坦途」のメン・ ( ーが中心となって とも全甲の成績であった。 に寄留して靑山師範學校本科一年に編入同人雜誌「義足」發刊。同人は本庄のほか 學。まもなく寄宿舍に移り、文學愛好者の佐野五郞・松永貴平・小林樹・上坊仁・武 大正一一年 ( 一九一三 ) 九歳 グル 1 プに加わって回覧雜誌「坦途」を出田三郎・深田初太郎・鳥居吉人・渡邊雪 五月、武家の商法で家業倒産、一家は北見した。十一年一月二十日、父死去、享年七雄・佐藤幸次郎・野津一郞。毎號に作品を の渚滑村字オアフンべ七號二五番地の開墾十四歳。同年十二月、「文學世界」に「離書いたこと確實であるが、判明しているの 地に再度移住、麥を常食とする忍苦の生活れゆくもの」 ( 筆名、本莊睦男 ) 、十三年二月、 は、第五號「十五號室の主」、第六號「秋 が續いた。大正六年、上渚滑尋常小學校卒「文章倶樂部」に「夜の男と女」 ( 筆名、北葉風の吹く一つの風景」の二篇。「義足」は 業後、紋別の知人宅に下宿して紋別高等小 子 ) をそれぞれ投じて掲載された。同年四年末に第六號から「文藝行動」と改稱、翌 學校に入學、成績拔群で同級生は″聖人〃 月、ガリ版雜誌「 wakakusa 」に小品・詩二年一月廢刊。八月に歸鄕、上京後に大屋 なるニック・ネームをつけた。 を載せ、室生犀星を愛讀し、古田大次郞の淸子と結婚。仁木一一郞の勸誘により前衞藝 『死の懺悔』に感銘した。同年十月、學校術家聯盟に參加。 本庄陸男年導

4. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

6 3 荻ご十月號に小説「風のロ笛」。十一月、 にもどる。「新人」六月號に「落穗」。十月、 昭和十七年 ( 一九四一 l) 小説集『北窓ひらく』を敎材社より刊行。 東邦物産文化部より『渚』を刊行。この 十二月號の「文學界」に中島健藏との對談「文學界」一月號に「肉親」。「新潮」三月年、中野重治と = 一國中學校で講演。 「文學と世相」、「新潮」に「昭和時代の代號に「田舍の人」。四月、みよの母いと病 昭和一一十一一年 ( 一九四七 ) 四十四歳 表作」、「文藝」に「明治・大正文學史抄」 歿。七月、『海の扇』を文藝春秋瓧より刊 ( 十五年ニ月號まで三回 ) 。 行。 ( 翌 + 八年に第六回新潮瓧文藝賞を受賞。 ) 十一月九月號の「文學會議」に「蜘蛛の集」、「文 昭和十五年 ( 一九四〇 ) 號の「文學界」に「タ立」、「新潮」に「蒔學界」に「島木健作論」。「文明」十二月號 三十七歳 繪萩」。十二月、敎材瓧刊行の『現代人生に「醜聞」。十二月、白山書房より『笹村一 一月十一一日、欽男勤誕生。「遠方の人」執論』に「人生と褻術」。 家と光枝』を刊行。この年、共産黨に人黨。 筆中の一月二十九日、「唯物論研究會」へ ( 昭和二十五年十月に離黨。 ) 昭和十八年 ( 一九四一一 l) 四十歳 の思想彈壓に連坐して若林署へ連行され、 昭和二十三年 ( 一九四八 ) 四十五歳 十月末まで約十 , 月、蒸し返し留置の後釋「文學界」二月號に「傳説と創作」。「新潮」 放。拘束中の家族の生活は、「文學界」の四月號に、「水の音」。「新潮」六月號に「山「文藝復興」一月號に「島木健作の文學」。 人びと、農民文學懇話會の橋本英吉、和田徑」。七月『萱原』を靑木書店より刊行。 「小説新潮」一一月號に「掛蒲團」。「丹頂」 傳、丸山義一一、島木健作、有馬賴寧、世田十月號の「文學界」に「藤波」、「知性」に六月號に「野茨」。八月、三男誕生。 谷在住の中野重治、靑野季吉、渡邊順三、 「葛花集」。十月十六日、欽男勤病歿。 昭和二十四年 ( 一九四九 ) 四十六歳 間宮茂輔、德永直、大竹博吉らの援助で支 昭和十九年 ( 一九四四 ) 四十一歳 えられた。釋放後「遠方の人」を書く。 「人間」五月號に「美しいもの・醜いもの」 「新潮」一月號に「石地藏」。「新潮」三月號 ( 七月號まで三回 ) 。「東北文學」七月號に「あ 昭和十六年 ( 一九四一 ) 三十八歳 に「私小説と日本的性格」。四月、『昭和文る男」。八月、「文學季刊」に「ある女の告 一一月、小説集『野葡萄』を昭和書房より刊學作家論』 ( 小學館 ) に「横光利一論」。 白」。この年胃潰瘍となる。 行。「文學界」三月號に小説「小さな世界」。 昭和一一十年 ( 一九四五 ) 四十一一歳 昭和二十五年 ( 一九五〇 ) 四十七歳 「文學界」五月號に「遠方の人」。「文學界」 六月號に「誰にささげん」。「新潮」七月號春、小松農學校の敎師となる。十月、石川 「文藝」四月號に「貧者の愛」。「人間」六 に「暮春」。「文學界」八月號に小説「逸脱文化懇話會が結成され總務部に所屬。 月號に「淸洲橋」。「中央公論」七月號に と倫理」。「文學界」十一月號に「女人譜」 「夏雲」。 昭和一一十一年 ( 一九四六 ) 四十三歳 ( + 二月號まで ) 。十二月、石塚友二の厚意で 昭和一一十六年 ( 一九五一 ) 四十八歳 『遠方の人』を甲鳥書林より刊行。三 + 三年「新潮」二月號に「雁來紅」。「文明」 = 一月 六月に新潮瓧より改訂新版。 ) 號に「獸性」。四月、敎師をやめ作家生活「小説新潮」五月號に「白鷺の湯」、六月號

5. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

イイ 2 一一月、「別册文藝春秋」に「煙管の獨白」。 の廣場にて』を改造社より刊行。十二月、 昭和二十八年 ( 一九五三 ) 五十六歳 六月、作品集『睹ける女』を新太陽瓧より「思潮」に「原始林」。 刊行。七月、この月より十月まで「人間」 二月、「新潮」に「あやつり人形」。八月、 昭和二十四年 ( 一九四九 ) 五十二歳 に「富士山頂」を連載。九月、「大地」に 「群像」に「果樹園の中」、「明窓」に「幸 「昔風な女」。十一月、「新女苑」に「タ凪」。 一月、「改造文藝」に「地獄極樂」。一一月、 禧への途上」。十月、「小説公園」に「基地 十二月、「文藝春秋」に「秋の宿」、作品集「知識人」に「村落新誌」。三月、「別册藝 の惡の華」。 「棺と赤旗』を新興出版瓧より刊行。 術」に「かみ合せの齒車」。四月、「別册風 昭和二十九年 ( 一九五四 ) 五十七歳 雪」に「憂愁手帖」。十ニ月、「人間」に 昭和一一十一一年 ( 一九四七 ) 五十歳 「ムチについての追憶」。 一月、「新潮」に「鸚鵡」。 二月、「群像」に「遠方からの香り」。六月、 昭和二十五年 ( 一九五〇 ) 五十三歳 昭和三十年 ( 一九五五 ) 五十八歳 「朝日評論」に「虚空の祝祭」。八月、この 月より十月まで「地上」に「稻株騷動ー 四月、「改造文藝」に「生と死と」。五月、 一月、「群像」に「黑い掌」。四月、「新潮」 を、單行本『現代農民小説集第一集』 ( 家 0 「風雪」に「天眞爛漫」。十月、「小説公園」に「ぼたん雪」。七月、「小説公園」に「女 光協會刊 ) に「やがて春を」を掲載。九月、 に「最後の挽歌」。 の園」。 「小説と讀物」に「斷層」。十月、「苦樂」 昭和二十六年 ( 一九五一 ) 五十四歳 昭和三十一年 ( 一九五六 ) 五十九歳 に「泉町の侠兒」。 四月、「小説公園」に「紫色の愛情論」。六 五月、「小説公園」に「荒野の白い鳥」。八 昭和二十三年 ( 一九四八 ) 五十一歳 月、「日本評論」に「豐漁」。七月、「馬醉月、「新潮」に「德永直との三十年」。以後、 三月、「文藝」に「観念の圖表」、「新潮」木」に「田園風景」。八月、「地上」に「靑四十三年にいたるこの間、長編歴史小説 に「高壓線」を發表。長編『富士山頂』を空のように」。十一月、「地上」に「川狂ひ「聖德太子」四、五百枚を書きつづける。 倉文庫より刊行。四月、この月、橫光利山狂ひー・・ー・金原明善の生涯ーー」。十二月、 一全集 ( 改造社版 ) の編集委員となる ( 他に、 六十三歳 「小説公園」に「南の海の幻想」。この年八昭和三十五年 ( 一九六〇 ) 池寬、中山義秀、小林秀雄、河上徹太郎、川端康成 ) 。 月より三十年七月まで、世田谷區上馬二丁 二月二十二日、妻キネ死去。 五月、「新小説」に「或る財寳」、「現代人」目に長女スミとともに間借りをしていた。 に「星の夜の廣場にて」。六月、「世界文 昭和四十三年 ( 一九六八 ) 七十一歳 昭和一一十七年 ( 一九五一 D 五十五歳 化」に「死の周邊」、「モダン日本」に「知 四月、「新潮」に「朝のうたげ」。 った男」、七月、「丹頂」に「思慕」。八月、四月、「明窓」に「娘の縁談」。十月、「小 * 著者の經については直話をもとにしている。 「風雪」に「くらやみの歌聲」。十月、『マ説公園」に「我が家の小徑」。十一月、「文 ルクスの微笑』を河出書房より、『星の夜藝」に「知性の意匠」。 國岡彬一作製

6. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

、 : ~ ぐ : を 33 ←昭和三十七、八年頃 、 2 00 ぐ《 ~ ~ アサヒ放送にて幅井 ~ 、を : ・、ツ中學時代の同窓生と : 、 : ら・右から啓深田久彌 0 ト一字野重吉 ↑父瀬造 ↓昭和十年 ↑昭和十三年十一月農民文學懇話 會發會式後丸の内中央亭にて 前列右から二人目加藤武雄新 居格有馬賴寧丸山義二吉江 孤雁藤森成吉中列右から一一人 おいて有馬賴義橋本英吉啓 和田傳間宮茂輔鑓田研一一 人おいて中本たか子一人おい て佐藤民寶 ←昭和三十三年七月石 月縣内灘にて ↑昭和三十四年四月 右から妻みよ その後健介私風

7. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

←昭和四十三年六月十三日靜岡縣田方 郡大仁町の自宅にて橋本英吉 、唸紀奮吊會高寺 月と翆 + 人 ↑大正十年七月後列右から四人目英吉 ←昭和二、三年頃右から橫光利一永 井龍男その後英吉馬海松

8. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

・「秋景一場」 ( 文藝戦線、十月 ) 等の創作も同誌に發表。また「少女畫報」に例月短篇 ( 改造 ) 等の農民小説を發表、また、六月、 4 發表する。 を書く。 「新農民交學論」 ( 時事新報 ) 、七月、「農民文 學のために」 ( 文戦 ) 、九月、「文藝時評 昭和四年 ( 一九二九 ) 二十七歳 大正十五 年 ( 一九二六 ) 二十四歳 農村窮乏と文學」 ( 改造 ) 等數篇の農民文學 昭和元 「文藝戦線」に「山の一頁」 ( 四月 ) や、金論を書く。すでに前田河廣一郞・葉山嘉 一月、小説「泥溝ー ( 文藝市場 * 再掲 ) ・「洋灯融恐慌を描いた「恐慌」 ( 十二月 ) などの小 樹・里村欣三らも去り、小牧近江・金子洋 が消える」 ( 文黨 ) を、三月、隨筆「しぐれ」説のほか、「一月の作品についてのノー 文・鶴田知也ら僅か數名の連盟員を擁する ト」 ( 二月 ) ほかの時評や小品を載せる。 ( 文藝時代 ) 、六月、「女流作家の魅力」 ( 文藝 だけとなってその編集に携わっていた「文 時代 ) 、七月、「諸家の心境小説」 ( 新潮 ) 、 戦」も七月をもって寘刊され、左翼文學が 昭和五年 ( 一九三〇 ) 二十八歳 九月、「それはセンチメンタリズムだ」 ( 文 敗退するとともに、苦しい生活を續けなが 藝時代 ) ・「農民文學に就て」 ( 地方 ) 、十一一五月、文藝戰線叢書第九篇として『恐慌』 ら數篇の作品を草し、九年のころから川合 月、「十一月の創作」 ( 文藝時代 ) を書き、 ( * 他に四篇を收める ) を文藝戦線出版部から刊仁の新聞文藝社の仕事に携わる。 また、この月、中篇小詭「海獸」 ( 文藝時代 ) 行。十一月、「文藝戦線」に小説「總督府 三十四歳 を發表する。 模範竹林」を發表、新作長篇小説選集第一一昭和十一年 ( 一九三六 ) 卷として『暴動』を日本評論瓧から出し、 九月、鶴田知也・五十公野淸一らとの同人 昭和一一年 ( 一九二七 ) 二十五歳 十二月、「中央公論」に「平地蕃人」を載 誌「小説」に「梟」を發表。創刊號に載った 三月、「斷層的な時評」、四月、「作品評的せる。 鶴田の「コシャマイン記」が芥川賞を受け な時評」等を「文藝時代」に書いたが、同 たのに刺激されて書いたと自ら述懷する。 昭和六年 ( 一九三一 ) 二十九歳 誌が五月號をもって終刊されるとともに筆 三十五歳 を絶って、思想的な問題をかかえ、一時秋四月、「親牛とその犢牛の話」、五月、「葬昭和十一一年 ( 一九三七 ) 田に歸る。十月、同鄕の和崎輝子と結婚し、式デモ」、九月、「報告演説會」、十一・二 再び上京する。 月 ( 合併號 ) 、「夜襲」の小説をそれぞれ「文前年の「梟、が認められ、手を入れて「文 戦」に發表。また、滿洲を放浪する朝鮮農學界」七月號に轉載。この月、版畫莊文庫 昭和三年 ( 一九二八 ) 二十六歳 2 として『春遠し』が、十一月、版書莊文 民を描いた「萬寶山」 ( 改造、十月 ) は好評 暫く沈默していたが、この年、勞農藝術家を博し、このころから農民文學を中心とす庫として『梟』が刊行される。 るようになる。 逋盟に加入、七年に刊されるまで、おも 三十六歳 昭和十三年 ( 一九三八 ) に「文藝戰線」 ( * 昭和六・一から「文戦」と改題 ) 昭和七年 ( 一九三一 l) 一一月、『小設集娘地主』、五月、長篇『鴉』を に據って活動する。六月、「見えない鑛山」、 九月、「木枕」、十二月、「山越え」などを二月、「濁り酒」 ( 文戦 ) 、三月、「裸の土地」ともに版晝莊から刊行。六月、「文藝春秋」

9. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

イ 38 いて中學講義録をとっていた。一方文學好紙の會瓧の工場〈出かけて行ってのオルグ きで、小説を讀んだり詩を作ったりし、講活動、スト一フィキ煽動などの活動をした。 義録の附録の文藝投稿欄に詩が入選したこ德永直とは一緒に關東出版勞組の執行委員 ともあった。この頃の炭坑では、意識的なをしていたので互いに知っていたが、組合 機械方の會主義的内容のビラがまかれた内では、熟練した植字ェであった德永は、 明治三十一年 ( 一八九八 ) り、スト一フィキがあったりして、その影響愼重派で、いわば「ダラ幹」であった。文 を受けていた。 學に興味を持っていることはお互いに知ら 市築上郡吉富町幸子に橋 なかった。住居、小石川傳通院裏、そこか 大正十一年 ( 一九一三 ) 二十五歳 本周右衞門の男として生まれた。本名龜 ら竹早町。 吉。父は製材職工、母は農業をしていた。 この年の春、苦學しながら專門學校への資 大正十五 姉、兄 ( 左官 ) は健在、弟 ( 大工 ) は十數年前格檢定をとる目的で上京。小學校の先輩の 二十九歳 昭和元年 ( 一九二六 ) に死去。明治三十七年、父が死去したた勤務先である厩橋の職業紹介所一一階に寄寓 め、叔母の縁家先、白石家の養子となった した。その先輩の世話で日本タイプフィタ 一月、五十八日に及ぶ大スト一フィキが起こ ( ただし入籍を怠っていて、長女の人籍の時正式に白石 ー株式會瓧の試驗を受けて練習生となり、 った。共産黨系の評議會の指導であったの 龜吉となる ) 。 敎習所に通った。厩橋には一年あまり住んで、地下組織が作られ、そこに直し、護 明治三十八年 ( 一九〇五 ) 八歳 で、その後澁谷の羽根木町に下宿した。そ衞隊長として激しく警官隊などと衝突する の頃震災が起こり、空地に餘震を避けていなどした。しかし間もなく自分のやってい 四月、田川郡伊田村で、村立伊田村尋常小 た際、看護婦の桐澤キネと知り合い、戀愛ることが遊戲のように思えて來たので、他 學校入學。 關係から間もなく同居し、事實上の結婚生人にその仕事を任せて、そこから手を引い 活に入った。 大正二年 ( 一 た。三月、ストライキに敗れて馘首され 九一三 ) 十六歳 た。その後、關東出版のオルグとして、桐 大正十三年 ( 一九二四 ) 二十七歳 同地の高等小學校卒業。この年郵便局員と 生・足尾の鑛山に出かけて行くなどして、 なり、一年以上續けた。白石の家が豆腐屋一月、博文館印刷 ( 後 0 共同印刷 ) にモノタイ一一 、三カ月を過した。また中尾勝男から、 であったので、豆腐行商もしばらくやった。 プエとして入瓧。入就直前に勝利したスト 當時密かに組織されつつあった共産黨へ入 ライキがあり、工場内部に勞働者のクラブるよう勸められたが、生活が成り立ってゆ 大正三年 ( 一九一四 ) 十七歳 が出來ていた。既に炭鑛に於て勞働者意識かないと思い、入黨しなかった。當時、妻 この年、三井田川鑛業所に入り、伊田鑛でを持「ていたこともあ 0 て、尖鋧な活動家は看護婦として生計を支えていた。既に博 支柱夫とな 0 た。これ以後、八年間ほど支とな 0 た。このクラブを評議會系の關東出文館印刷に人 0 た頃から新聞懸賞小説に應 柱夫生活を送 0 た。當時、進學の望みを抱版勞働組合に入れる活動や、他の印刷、製募したりしていた。傳通院裏に住んでいた 橋本英吉年譜

10. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

↑昭和九年六月新宿白十字にて 山田淸三郎下獄記念第一列右か ら二人目德永直壺井繁治江 ロ渙・林房雄一人おいて山田 淸三郎藏原惟郭一人おいて 秋田雨雀二人おいて加藤勘十 第二列右から陸男立野信之 小熊秀雄第二列左端中西伊之 助第三列左から窪川鶴次郎 細田民樹 ←昭和十二年秋右陸男 ↑昭和十三年十二月湯 河原にて さ第小田おお右赤前周小昭 、を澤麟いいか木列年劇和 榮太ててら蘭右記場十 子か念に四 妻松長ら公て年 本田瀧 1 寅十 人た克秀澤秋ー 1 新一 おま平雄修田石協月 雨狩劇 一後雀川團築