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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

本家で馬を使ふ時には、要助を賴みに來た。麥を蒔いてない田もならないで獨立しようかと思ってるの。」 かびこ すき は、蠶のでる前に鋤いて置くならはしだった。そんな時、要助が鋤「そりや結構だ。本家がなんだ。俺のとこより少しましなだけちゃ をとって、時江が馬の鼻どりをした。 ねえか。それがいい、お前は馬の鼻どりなんかしてたんぢや、今に 時江は玉を買って新聞紙に包んで袂に入れてあった。一錢で三つ死んぢまはあ。」 だった。昔は一錢で五つくれたではないか、など思ひだすのだが、 彼はそれを無責任な放言とは思はなかった。それより外に時江に 何故そんなこと思ひ出す必要がある ? と要助は考へるのだった。 は道がないと思った。二人はただ男女の性別からだけでなく、水の やはりあの時は、結婚の樂しさを思ってゐたのかなあーー・いや俺はやうに同じ方向に流れようとする共通なものがあった。けれども最 あの時にはそんなことを惡い事だと思ってゐたんだ。時江が赤くな後のところで合流をさまたげる堰にぶつつかる。それはやはり、お ったら結婚しようなどと空想し、一生懸命に説明したものだ。 互ひの「家」だったのだ。 晝になると二人は馬を休ませ、自分逹は筆の上に足を投げだし ところが、一方のクラはある日突然云ひだした。 て晝飯を喰べた。お櫃には燒いた鮭と澤庵と飯が一緒に入れてあっ 「わしはわしでやつばり獨身で暮さうと思ひます。よっちゃんはよ た。時江が飯をついで出してくれる。 っちゃんで嫁をもらって、この家を立てて貰ひたい。」 なまぐさ 俺がもし時江と夫婦になれたら、易々としてあの生臭野郎をたて 「お前はどうして獨身で暮せるだね。」 まつり、祖先をうやまふ様になるかも知れんーーーいや、さうちゃな 父親がびつくりしてたづねた。 い。この女となら、今の倍もあいつらに逆らってやるぞ、きっと 「いいえね、そりや獨身と云っても、やはりこの家に置いて位牌の もり 守をさせて貰ひます。その代りわしと子供の二人の喰べる分は、わ 「また今夜も會館に泊りに行く ? 」 しが一生懸命働いて、なるだけ迷惑をかけないやうにしたいと思ひ 「ああ行くよ。」 ます。」 「そんなことをしてどうするつもりだね ? 」 彼女の云ひ分は老人逹に批評させれば立派であった。だが實際問 「どうにかなるづら。俺は家のことより自分のことが大切だ。それ題となると、現妝と大した變化は望めないばかりか、何も家のため が結局家のためになる。お前はどうする ? お婿さんをそろそろ探になりさうもないのだった。 してやしないかね ? 」 「さういふのも無理はにやがーー」 「それこそどうなるか。兄さんも可愛さうだわ。」 父は弱って直ぐ答へが出なかった。 「だけんど、お前だけの考へはどうぢゃ。好きな婿があったら、一 「なんなら、ミイちゃんだけ兄さんの家にあづけて、小さいのとわ 立 芽緒になって本家をつぐっもりかね ? 」 しだけ、藏の二階にでも置いて貰っていいですけど、そんなら、こ の 「わしは : : : 考へてるだよ。どっちにしようかと思って。」 の子のお父さんの位牌も一絡にあっちで拜まして貰ふやうにしたら 「どっちって、そんなに澤山あるのか ? 」 どうかと。」 位牌をもって土蔵の二階に越すといふのだ。なんといふ立派な心 「いやよ。お婿さんちゃないのよ。兄さんがあれで案外丈夫になる 3 かも知れないでせう。それで、私は産婆にでもなって、誰の世話にがけだ。あくまで位牌を守らうとする、俺だってどんな事があって

2. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

は直ぐになほり、胃痛もどうやら治まったやうである。しかしかれ ことが出來る。かって自分は眞知子と良太をただ一目みたいと思っ の肌にはこの土地がどうもしつくりしない。山といへば丘に毛の生 て夜半も眠れぬことがあった。今會はうと思へばいつでも會へるば えたものばかり、海といへば湖みたいに空と一緒に眠ったり眼をあ かりでなく、共に暮し樂しむことが出來る。かって自分はただ一杯 かなへ けたりしてゐるだけである。あの鄕里の濤雷や、鼎の湧くやうな白 の飯に飢ゑ、空想のなかで良太をつれて、あらゆる飮食店を訪れ、 波や、遠く南に望む峨々たる山々。生活力のつよい漁夫、海女、農食ひ荒し廻ることを夢みてゐた、今は飽食しようとしてただ節制し 民、深い積雪、橇。ーーーそれを眼に浮べると、一度歸らうと朝吉は てゐる。そればかりでなく、あのやうな經驗のために、今日の一刻 思ふ。妻子とどこかの漁村に住んで、子供を潮風のなかで育て、強 一刻が、眞に惜愛され、味到され、盟かにされ得る。自分の意志に い子に育て、そこで自分は美しい物語を書いて、死んだら眞知子と のみは任せぬ運命が、いま自分を郷里にさうと、東京へ歸さう 一絡にそのあたりに埋めて貰ふ。そんな夢を描き急に山路を引き返 と、すべて自分は滿足である。またよしんば、自分が今後、どんな して急ぎ足になる。歸らう、かれはそれが逃避となりはしないかを 逆境におちいらうと、なほこの上生きる力がありさうである。なぜ へきそん 考へてみる。都心を離れ、文化の地を遠ざかって、北の國の僻村で なら自分は、眞知子や良太や良玖を深く愛し、また自分は愛され 物語を書くことを夢みる、この秋に當ってそれでいいのであるか。 て、この幸幅の峰を忘れることがないから。自分は眞知子ばかりを しかしおれのやうな者が都にゐたとて、どうせ郊外の片隅に垂れこ 女として愛しはしなかったが、しかし最後に彼女を深く愛し得たこ めて執筆し、自分も子供もからだを弱くするだけではないか、と朝 とを幸に思ふ。愚かで無力な彼女を赦せ : 吉は思ふ。かれはこの數年、作品といへば、大抵は鄕里の土地を背 かういった想ひで、朝吉はまた谷川の岸に出て、卯の花が流れの 景にし、村人や歸農する人間ばかり書いて來た。そんなに鄕里のあ上に傾きいてゐる前で、いつまでも流れを見詰めてゐた。川はあ たりを慕ひながら、ただもう文壇との關係が斷たれることを惧れ まり高くない、心に沁みるやうな音を立てて、まるで時間の悠久な て、東京から動けなかった。 持績そのものであるやうに流れ、そこに、朝吉が知った男女や逢着 したさまざまの人間の生涯が、はっきりした姿でではないが、丁 朝吉は下宿に歸って、妻に貸家を見つけて呉れるやう、鄕里にそ度、樟の無數の枝がそこに影をおとしてゐるやうに、思ひ出される れがなければ、東京でも近くの町でもいいと、書いて速逹に出しに のだった。流れを隔てた向ふにそびえる有名な大楠は、もう二千年 行った。 もの齡で、それがまた二千年間、ここより箱根や小田原へ山路を行 歸りにまたかれは丘地へ出て、谷川ぞひに登って、大楠のある神き交ひしたであらう人々を思はせた。 社の境内に休んでこの土地にしばらく風光を樂しむことが出來たこ ふいに非常な強い感情で、今もし自分が死んだら、眞知子や子供 とを感謝した。自分をこの土地で暮すことを得しめた何者かが、やはどんな想ひをするかと思った。それは多分、かれが、この山路を がてまた自分を去らせようとする。かって自分は、ただ一歩でいい 行き交ひしてもう死んでしまった昔の人々を想ひ描いたりしたため から野外に出て、大空を仰ぎ、地に身を投げ出したいと思ったこと であらう。かれは一刻も早く小説を書き上げて屆け、一月でも歸鄕 引がある、いま、ここに自由に山野を歩けるばかりでなく、海を見、 して安心させたいと思って歩き出した。 しげとう 2 谷川を聽き、卯の花を眺め、樟の香を嗅ぎ、また綠樹のかげに寢る 部屋に入って、しばらくすると、顏の丸い女中が來て、重藤さん

3. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

がってぶつつかって行って、そこでどうなる ? 地下に潜ったとい 岩本は眼をあげて相手を見つめ、度忘れしたものを思ひだしたか ふ :-z さへも こんなに精紳的に眞近く棲んでゐた彼等さへもその 如く嘆息した。 姿を見得なかったでありながら、自分たちが今反抗の勢力を整〈 「さうだったなあ , ーー」 ようとしてゐる相手の權力は、そのものを無雜作に捕へ、反抗に對 「才能ある作家を、連絡の レンフクとは何事だ ! その犧牲 して死をあた〈た。復仇に立ちあがるーー全團體員が = = = しかし彼にして彼の本來的な仕事を無にしてしまったちゃないか。卒伍の意 等には妻があり、子供がある。親を背負ひ、その上で獨死を睹して 志は指導者によって代表されるが、しかし、指導者の能力は卒伍に 進み得るか・ ・ = どしんと胸をたたいてその本音を聞きたい氣持であよっては到底體現されつこないんだ。考〈なくっちゃならん・ー・・個 った。 人の問題ぢゃない、階級全體の問題だと思ふ」 たうとう二人は各、、の住居に別れて行くべき四ッ辻に來た。二人 はそこで立ち止った。 「考へさせやがるーーー」と一人が云った。 ひとりになった岩本は、げつそりとした氣持を味はってゐた。痩 「全くだ」と他のものが低く答へた。 せた身體から、幾何もない筋肉がこそげ落ちるのを感じてゐる 「はっきり見通しを持たない限り、あわてふためくことは無駄とい さうした氣持を持って行くところは、妻と云ふ女が待ってゐるであ ふより、むしろ有害だと思ふ」とが云った。 らう小さな棲居ではなかった。蹌踉としたものを埋めて呉れる強い 深夜の靜けさの中でお互ひはぼやけてゐる街燈のあかりを賴りにカ , ・ー、そのやうなものが要求されたのである。彼は案内知った裏路 顔を見合はせるのであった。 を選んで、程遠からぬ團體の事務所を覗いた。嘗ってそのところに 「既に少からざる動搖が現はれてゐたんだからなあーーや z の轉團體の心臟があり、集まるものの血脈を波打たせたものなのである。 向があった。法律の改惡があった。この思想を捨てざる限り、牢獄 赤茶けたうす暗い電燈の下で、たった一人の書記が不安氣な眼を は永久に彼を解放しない。さういふ宣傳が心理的な影響を持たない あげ、こちらを見た。 とは斷言出來ないのだ。俺たちはそれをここまで喰ひ止めて來た。 「僕だよ」と、こちらは先に聲をかけた。「岩本だよ、異妝はない そこ ( 今度はの死だ。考〈なくっちゃならん。ーー」「もう實際、 かい ? 」 お互ひ個々人の生活はみんなぶち毀してどうにか生きてゐるに過ぎ 「ああ、岩本さんか ! 」と書記は溜息を洩した。「びつくりしちゃ ない。こんな妝態は一層ひどくなりこそすれ、少しもよくはならなったよ。誰かと思ってー、ー」誰かと思ってーーさういふ言葉でもっ 體いだらう。その見通しだけははっきりしてゐる。どんなに張りきっ てこの書記は刻薄な取締りの役人を指すのであった。今やこの事務 た精でも、飢をささ〈るには限度があるだらう」 所は、剥きだしにされた看板である。事ある毎に彼等は先づここを 「僕たちは法華經信者であってはならない」 襲って手がかりを引き摺りださうとした。その都度この書記は彼等 はさう云って懷手を找いた。「最も合理的な歴史の意志に添ふ の包圍の中に口を噤み、打撲に對して齒を喰ひしばらねばならなか 筈の俺たちの運動に、無理と強制が重なりすぎた。おまけにこれはった。 文化團體ちゃないかーー」 「知らぬ ? おい、知らんとは云はせんぞ ! 」さういふ風に彼

4. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

270 その瞬間の冷嘲的な表情を、私は一生忘れることは出來ないであらの如き感情をもって文學を志すとは、我を知らざるもまた甚だしい う。「女房かーーーふん、女房か : : : 」といった。私は自分の表情が と言はるべきであらう。 ひん曲るのを意識した。あの様に辛い感情を私は君に對して今更ら さて私は實に詰らぬ仕事に一日の勞力を費して歸って來る。陸海 相濟まなく思ってゐる。 軍受驗生と言ふ受驗雜誌の編輯である。陸海軍がどんなによいもの 今夜はもう一時半になった。働きに出るものは身體を休ませねばであるかといふことの卷頭言などを書き散らさなければならない。 あんくわ ならぬ。火鉢の火も消えた。これから行火でもって寢床を暖め、さ或ひは面白くもない答案の整理に頭を働かせねばならない。どうし うして寢る。君も寢てくれ、明日は最近の私の从勢をお知らせしょてこんなことになったのだ ? と君は眉をしかめて私の方を凝 う。靜かな夜た。池袋の方面に電車のきしる音がひびいてゐる。た視するだらう。守って來た思想的な節操を投げ捨てたのか だそれだけ。さうして私の枕許には眼覺し時計だけが生きて動いて私は自分の弱い精訷をかなしく思ふ。これもただ金のためであった ゐるのだ。 のだ。借金のために身を賣ったのだ。しかしそれは間違ひもなく一 つの大きな理由ではあるが、その理由によってこの仕事を持ちこま れた時、私はその交換條件に多少ともなく引きつけられてゐたので 恐らく集團生活をしなければならなく運命づけられた人間の、こ ある。浮草のやうな安原稿賣りの生活から脱れ、少しではあるがま れは哀れましい習慣であるかも知れない。何物かの對象を持たない とまった金の取れる勤め人も惡くはないと思ったのだ。時間の制 限り、生きて行くことに自信も起きなければ責任も感じなくなるの限、生活の規則化ーーーそんなあまい考へを抱いて。 である。言はば愛の對象とでも言ふべきものであらう。この場合の 私は實にくだらぬ仕事を見事にやってのける。このことは傭主の 愛とは、ふと考へた時、共に血液の交流を意識する對象である。愛方でおどろいた位だ。私にこれほど器用さがあらうとは私自身も知 するとの自覺もなく、愛せられてゐるとの感慨もなく、汝と我との らなかった。しかしこの發見が精的ルンペンを招致する原因でも 不可分にして一如の姿だ。造化の妙と言ふのであるか、男と女がさある。何も文學々々といはなくとも、生きる道はどこにでもあるで うしたものとして結びついた。よしその根源は性愛であらうとも詰はないか さう思った刹那に、私は君の愛情を忘失してしまった らしい。 るところは彼我の區別の淌滅した全と一との融合した夫と妻であ る。性愛を卑しいものと自意するのではない。ただこれこそが最初 疲れる。家に歸ったとて誰が待ってるものか。來る日も來る日も であることは事實だが、その發端と結尾の間に存在する感情は、一暗い家だ。せめては泥棒なりと這人ってゐてくれたらどんなに賑や 種異様な感情であらうと思ふ。 かなことであらう。眞實私はその樣な感慨に耽りつつ自分の家に歸 私にとって君の存在は以上の如きものであった。しかしこの感慨るのである。野っ原の中に建てられた低い家である。もしゃ灯がっ は今にしてさう思ひ當るものであり、私の淺慮と覿念的なエゴはこ いてはゐないかと、私は自分の家に近づく前に、あの曲り角で立ち の感倩を正當に意識せしめなかった。悔恨は深い。これはただ君に止り、あわただしく凝視するのだった。しかしこの家には、未來永 去られた所以ではない。尤も直接的な原因はそれであるかも知れな劫に灯のともってゐるわけはない。私といふ人間が、私の手を持っ いが、私が思ふことはものを考へ詰めることの不徹底さである。斯て電灯のスイッチを捻らない限り灯はつかないことに規定されてあ

5. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

「うへッ : のは、かれが作家として世に出ようとした頃の、内に自信と覇氣の あなたといふ人は、私が一 「何が、うへツなのよ、この人は。 滿々としてゐた今から六年ばかり前に生れた子供で、良玖の方は、 朝吉が自分の思想と生活に矛盾を感じ、自信を取り失ひ、身を恥ちヶ月でもそばにゐなかったら、もう何處 ( 行って誰と何するか分っ たもんちゃない人よ。」 て、内心いづれの方に向っても叩頭するやうな、さうした氣持のつ 「待ってくれ。それはお前、おれが五年くらゐ前に、自分自身につ づいた擧句に眞知子に宿った子供であった。そして今も、遠くの里 に歸されようとして、母の背で、無心に笑って、父親に無言の叩頭いて言ったことぢゃなかったつけ。」 「え、本人が言ったことですから。五年前だって何だって、わたし の藝を見せてゐる。 夫婦は、良に氣をとられて、二人とも話の要點を忘れてしまふ忘れつこはないんですから。ね、浮氣しないで一週間ばかり待って て下さいね、良太をつれて歸って來ますから。」 のだった。 「誰が浮氣をすると言った。おれはもう三十八だぜ、どうも馬鹿だ それで何でしたつけ、お話は。」 「あ又もう六時だ。 あ、今おれもおもひ出した、おれは昨年家へ歸って、さ 「何だっけな。 いや冗談ちゃないよ。お前が、そんなら私、歸な、 りませんと言ひ出すから、言って聞かせようと思ったんだ。どうあ、もうおれが歸ったからには、何一つ心配してくれるなと言っ た、二度ともうああいふ間違ひはやらかさぬし、また暮し向きのこ だ、歸るだらう、九時の急行で。」 とでも心配はかけない、さういっておれは良太を抱き上げ、 「え良太が待ってるわねえ。病気になると、あんなに私にすが りついて泣いた子ですもの。私の胸に顔を埋めて泣いたのに、おばや、おれはとにかくさう言っただらう ? 」 「え。」 あさんだけしか、そばにゐないなんて : : : 」 眞知子はまた幼女のやうな素直さでこくりと頷いた。 「それぢゃあ、立ってお隣へ挨拶に行っておいでよ。」 「すると、お前もお母さんも、その場でそれを信じて、もうあすか そこで眞知子はまた我に返ったやうに、奥から見開いたやうな眼 らどうして食ってゆくなんて心配はすっかり技げ出して、おれとい に、良人の眼を寫した。 「挨拶しますともーー、でも私、すぐ歸って來るんですよ。あなたふ親船の甲板に乘つかったつもりで、睛れ睛れして、子供みたいに で勉強してゐて、今度久しぶりで が、引き越しする前に歸ってくるんですから : : : 。第一、あなたひはしゃぎ出した。おれはア・ハート 歸って來たといふことにお前たちはしてゐたが、あの喜び方があん とりでこの町内でも引き越せるもんですか、この荷物。」 まり非常だったから、近所でもみな事情はわかったに違ひない。」 「よし、よし、わかったよ。」 「だって、しかし、近所ではさうでせうか。」 「あら、いま思ひ出した、わたし何だか良太のことで氣が倒して 「どうもさういふことになるど、お前の紳經はおれと違ふな。しか ゐるんだわ。あなたは、三ヶ月、ことによったら一、二年、自分を ひとりにしておいてくれと仰有ったわね。私この耳で聞いたんですし世間は寬大だった。誰もかれも寬大だった。友だちは親切だっ から。どういふおつもり ? いえどういふおつもりだって、私反對た、おれにはたった一人の友だちもないやうに思ってゐたが。 だわ。 あゝ、さうだ、私、歸りませんよ。良をおろしますか忘れちゃなるまいね。行き會ふ人がみなおれを慰めて『とんだ目に 會ったねえ、さあ、もう何も苦にしないで新しく生きろ』そんな風 ら抱き取って頂戴。」

6. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

ったかのやうな恨み口調を彼の背後に浴せかけたのであった。 2 「仕方がない ! ええッ ! 仕方がない ! 」 爪木は最も切實にこの苦境を知らせる十五文字の電文を考へなが ら、久しく觸れなかった自分の借家の表戸をあけた。その拍子に、 狹いた又きの上にぼとりと一通の封書が落ちた。爪木はその封書を 口にくはヘて性急に泥靴を脱ぎすてた。それからばちんと電燈をひ ねってつくみ、とその差出人を眺めた。封を破る間に彼はロに出し て呟いた。 「兄貴だ、兄貴だ : : : お、、兄貴大明神だーー」 しかしそれは一枚の罫紙に走り書きされたたった五行の苦言であ った。爪木ははっと足を掬はれたと思ひ、どたりと疊の上に腰をお たうとう周をおこしてしまった母親は、削りかけのコルクをい としてゐた。それだけの文句が今の今まで最も緊密につながれてゐきなり疊に投げつけて「野郞を : : : 」と喚くのであった。 たと思った血縁をばさりと斷ち切ってしまったやうな氣がした。暫「いめ / 、しいこの餓鬼ゃあ、何たら學校々々だ。この雨が見えね くたって彼は徐ろにほこりくさい部屋を見まはし、そこに正月の酒えか ! 今日は休め ! 」 がそのま殘されてゐるのを發見した。お又酒だと思ひ、「俺は正「あたいは學校い行くんだ」 月をしなかったんだ」と彼はその酒瓶にとびついた。それから彼は 富欽は狹い臺所ににげこんでさうロ答へをした。暫く彼はそこで ふんと鼻笑ひをして、兄貴の手紙を聲高く朗讀した。 ・こと・こといはせてゐたが、やがて破れ障子の間からするりと出て來 「ーー會主義者とやら云ふ人間は」と書き出してあった。「水をて蒼ぐろい顏をにやりとさせたーー「なあおっ母あ、お辨當があん 呑み石に噛りついても鬪爭するものなる由聞き及び候が、貴殿の振のに休まれつかい、あたいは雨なんておっかなくねえや」 舞は何事ぞや、一人の女のため顯倒しあまっさへ近親には迷わくを 「えっ ! この地震っ子ーー」と母親は憎惡をこめて呶鳴ってみ かけ、まことに : : : 」 たが、直ぐにそれをあきらめて今度は嫌味をならべだした。親が子に まことに、まことにーーーと彼は頭をふってみた。水をのみ石に噛向ってーーと思ひながらも彼女は、云はずに居られないのである。 りついてもーーは、こちらの氣持ちであった、が、それは今向ふか 「んぢゃあ富次、お前は學校の子になっちゃって二度と歸って來ん ら規定され、兄貴大明神までが堪 ( 兼ねたせふと共に投げつけてな」母親はおろ / 、しはじめた伜の汚い顏をじっと睨め「なあ富 寄越した。爪木は何故か瀕死の妻のもとにこれから駈けつけようか次、お前の小ぎたねえその面を見た日から、こんな苦勞がおっかぶ とも思ひ、い又や俺は二十日ぶりにゆっくり寢たかったのだとも思さって來たんだから : : : よお、歸らなくなりゃあ何ぼせい / 、する ひ、え乂面倒くさいと思ひかへして、事もあらうに一升瓶をらつば もんだか ! 」 にするのであった。 さう云はれると子供は今までの勇気がたちまち挫け、そこにきょ ( 昭和九年四月「現實」 ) とんと突っ立ってしまった。 白い壁

7. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

恆に良心をもってゐさうな、それでゐてまるで生氣を失った面相を 2 森山啓は自選短篇集『遠方の人』を昭和一一十三年四月に新潮社か 鏡に映して見た氣がして、自己嫌惡に陷ってゐた」と、その轉向心 ら刊行している。收めるところ、『遠方の人』『萱原』『流年』『誰に 理を明らかにしている。 ささげん』『暮春』『靑春』『美醜』『水邊』『餅』の九篇だが、めず しかし、これで作者は免罪符をもらったことにはならなかった。 らしくその解説を中山義秀が書いている。そのなかに、森山啓の轉 さきにしるしたように、作者は昭和十五年一月に檢擧され、十カ月向間題にふれて注目すべき發言がみえるので、左に摘記したいと思 という長期間の拘留處分に處せられたのである。昭和十六年六月のう。 《文學界》に發表された『誰にささげん』には、その間の消息がか 「僕は氏の生活を知らないが選集中の壓卷『誰にささげん』を讀む なり詳しく語られてある。 と氏はその頃轉向間題に惱んでゐたやうに思はれる。思想上の惱み 「かれは古い時代にかいた作品や論文は文句も題名も半分は忘れては解決されても自分を罪み人と意識する人間の悲しみは解決されな しまってゐた。それらの作品が載った昔の雜誌を見せつけられる い。その悲しみが『遠方の人』を生み、谷津傅八への假託となって と、かれは嘗ってはよくもこれだけのことを烈しい情熱で書いたも氏の抒情を吐露したものであらう。 ( 中略 ) 贖罪の意識に惱める人 のだと恐ろしくなった。殊にそれらが、藝術的になってゐない場はすでに半ば淨められた人でもある。森山氏が本來の自然詩人であ 合、終りまで讀み通す勇氣がなかった」 ることに疑はないが、僕が氏の作品に見出す無垢な美しさや優しさ 警察で手記を書かなければならぬ主人公は、かっての自己をこんはかういふ贖罪の謙虚な精から生れ出てきた夏の朝露のやうなう なふうに思いながら、つぎのような心理的な手記を書きつづった。 ひうひしい輝きなのではなからうか。賣文に汚れた筆致からはこの 「それ以來、私は詩人で、謂はゆる無氣力な作家となりました。私天眞このすずやかさは汲まれない。氏の作品の貴重な珠玉である。」 は自分を柳にこそ似ると思ひました。近東の詩人ハフィズの言葉を たしかに『遠方の人』の主人公谷津傳八は傷害致死の前科者であ 借りれば、『柳はいづこよりの風にも叩頭す、實のなきことを恥づ る。中山義秀のいわゆる「罪み人」にほかならない。ここに『遠方 るが故に』であります」 の人』のライトモティーフがあることはほとんど疑いない。さきに かくてその手記はようやく完成に近づき、警察の承認も得られそふれたように、作者は『遠方の人』を執筆中に檢擧され、十カ月の うだった。「すると朝吉は、殆んど涙を出すほど喜ぶのであった。 のちわずかに釋放されたものである。釋放されると同時に、作者は かれにして見れば言葉の一つ一つにまで心をこめて、十年間の思想この中篇小説を完成している。おそらく拘留中にしばしば作者の胸 と生活の推移を他に ( 知友たちに ) 累を及ぼしたくない氣持で身を中を去來したもののひとつに、未完成の『遠方の人』のことがあっ 殺ぐ努力で書いたのである」と、作者は書きそえている。夏も去ろたにちがいない。最初からその主人公は前科者に設定されていたか うとするころのことだ。つづいて秋も逝こうとするころ、主人公はどうか、いま審かにしないが、「罪み人」であればこそ、かえって人 思いがけなく起訴猶豫の霑分で釋放されたのである。この『誰にさの情の美しさにも鏡敏に反應せざるを得ないという『遠方の人』の さげん』の内容は、ほぼそのまま作者自身の體驗とみなしてもいい テーマは、また拘留中に作者自身しばしば實感したところだったろ のではないか。森山啓は實にこういう思想的推移を戦爭中にかさねうと思う。一口にいって、思想やイデオロギイを洗いさったのち ながら、作家として最後の一點を死守しようとしたのである。 に、不壞の美しさとしてのこるものこそ守るにたる最後のものだが、

8. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

はげ ど傳八の機嫌を取るのだった。するうち傳八は、新しい油繪具とと葬式後に後追ひ心中を企てたりしたのは、持ち前の劇しい、氣早 もに、色白の夏路によく似合ふ純白の服を買って來て、それを着せな、眞直で折れやすい性分のためもあらうが、元來、くに子を奪ふ た夏路の肯像晝をかきはしめたのである。それは純潔に對する傳八ゃうにして結婚したかれが、苦しんだ揚句ゃうやく彼女の心をつか の哀しい夢想を表はしたものではなかったらうか。その畫が出來上んだと思ふ間もなく、この慘事をひき起してしまったからだらう。 った夏のタに、「どうだ、白薔薇よりも見事だらう」と傳八はくに それにかれの畫家としての仕事は挫折し、かれを壓迫する時代の空 子にも云って喜ばしげに見えたが、牧場主から、はやく風呂へ入っ氣に絶望したためもあるに相違ない。しかしかれが、くに子の葬式 てしまふやうに急かされた。面倒だ、三人一しょに這人ってしまは後に猫いらず自殺を圖って失敗したときは夏路の介抱で健康を取り うと傳八は云って、先づ自分が一浴びして、流し場から、早く這人る もどし、「折角、夏ちゃんが看病してくれたんだから、夏ちゃんが ゃうにと呼び立てると、夏路もはしゃいで、まだ女となり切らぬ身一人前になるのを見とどけてから、十年、二十年後に後追ひ心中を 體を傳八の眼に曝して、氣恥しさと一しょに得たいの知れぬ喜びでしても遲くはあるまい」など云ったのだった。傳八はこの自殺の仕 湯槽に人った。それが姉の嫉妬を燃え狂はすものとなるとは、夏路ぞこねといふことを甚く笑止と思ったらしく、その後は刑務所から は氣づかなかった。くに子は、その夜は逆上した。水呑みがどこに出て來ても一度もその思ひ出を語らうとはしなかった。飯場でした あるかと訊く傳八へ、夏路は彈むやうな聲で應へて、コップを持ち告白でも、それは打ち明けてゐないのだ。しかしこんなことがあっ ただけに、夏路は傅八が自分で死ぬと云ひだしたら、あっさり死に 蓮んで行かうとした。そのとき高い聲で「出しやばるんちゃあり かねないと思ったのである。 ませんよ、この子は」と睨みつけた姉の憎しみのたぎる眼は、今も 夏路の記憶にある。姉は引ったくり取ったコップを庭石へ投げつけ 姉が、死ぬ前の苦しい息づかひの中から、「夏ちゃんのことをお て、燈影に光るものを碎けちらせた。すると傅八は、そのくに子の願ひ」と傳八の手を握って賴みこんたのは、哀れであった。それは 細そりした身を橫抱きに抱きあげて、噴飯したり苦笑したりしなが 父母のない夏路の行末を託したのだが、夏路が傳八のものとなるこ やきもち ら、「それほど嫉妬を燒けるほどなら、お前の愛が信ぜられる。さ とへの盡きない恨のやうに傳八には感じられたかも知れない。とも あ、靜かにせんか」とあやすやうに搖すぶる。くに子は脛も露はに あれ、くに子のこの最後の言葉もあったため、傳八は夏路に對して や 足をびちびちさせて、「夏路なんぞを誰が妬くもんか。生意氣だと は、いつも一歩を置いて庇護する態度を取って來た。夏路もそれに いふのよ。出てゆくがいいんだ。この男はまた、あんな白ちやけた甘んじてゐたのは、姉への義理づくといふよりも、姉の思ひ出を持 繪をかいて。裸にしてみて眼尻を下げるなんて ! 」と傳八の腕に嘴っ傳八を憚ってのことであった。しかし今は傅八の危機は、夏路の みついて悔やし涙を流した。くに子が牧場主と戲れてみせて傳八の分別も失はせてしまった。彼女は鏡に向ひながら、ふと傳八と二人 気を引かうとしたのが、却って傳八の突風のやうな嫉妬を買ったの でどこへなりと逃れて一つ家に住むことを考へた。それは同棲の生 は、それから數日後のことだ。くに子が喉をしめられ、スト 1 ヴのきた姿をとって忽ち彼女を捉へた。それはここ二、三年來彼女の纎 弱な身體をさいなんで來た過重な勞働や、叔父小母の家庭の絆から 上に斃れて、煮湯を浴びたことは、傳八が告白した通りであった。 それがくに子の再度の浮氣ではなかったことを知った傅八が、胸毛解き放たれることでもあった。叔父夫婦が、打算からではなく夏路 の生えたところを自分でストーヴに當てて燒いたり、またくに子のを引きとって暮したのは、實子が大阪の商社に勤めてゐて僅かなが

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プ 10 それならば、食ふことを止めて、活躍出來るまで靜かに待っ 先生も大變したしくして下さいまして、この子も村の方に居ました 時は全甲でしたが、東京に來ましたら、どうしたものですか、土地てゐろ、と云はれるのですか。第一、そんな寬大なところが、此の になれないせゐでせうと思ひますが、ぐっと成績が下がったもので時代の世の中にありますか。 。何し ないとは限るまいがあ : すから、一つ面倒を見て頂きたいものだと思ひますので : 官のお役人は、その様に口をにごらせる。誰でもが高等官の様 ろ、先生との馴染も淺う・こざいますから : この奧様は、先生と馴染めば、成績が上がるものと思はれてゐ に恩給で暮らせる身分であったら、何度の忠告もよいだらうが、不 る。頭の惡い子供だった。多分、酒によっ拂ってゐた時にでも拵へ幸にして、腕のない敎員であった。 若い先生方に自分から忠告したい。一升の桝には一升五合は這人 た子供なんだらう。あんまり面白くない上に、すっかりその家の奴 らないのだと。五合の餘り分をどう仕末するか。 婢扱ひにされる浮目に會って、さっそく止めてしまった。あそこま ( 昭和五年八月「敎育時論」 ) で行くと、職業ではない、奴隷だ。尤も、ギリシャ時代には、敎師 は奴隷であったといふから、何も事改めて驚くにも當らない。 馬鹿らしくて、そんなことに經は使はれないよ。お孃様、 お坊っちゃまのお相手の出來る柄でもない。 ぢゃあ、君、食うて行く路がないではないか。 全くないのだから、何とかしようと考へてゐるのだ。職業の選り 好みではない。食はれて行ければ、それで滿足して行くつもりだ。 それだのに、食うて行く路への打開がないといふことを、いろいろ に陳情して行かなければならないのだ。人の情にすがって生きて行 くことに變りがなければ、人の情を奪取してしまふことだ。 いかに貧乏で苦しいか、などと云ふことを書き立てるのは、全く 愚痴である。要するに今、明日の餌箱の問題である。 いろいろな所に突っかかっていって、いろいろな風に斷わられて 來た最後に、丁度、紙屑拾ひが塵箱をあさる様に、自分の食ふため の仕事のおこぼれを拾ひ集めて來る。此處まで來ると、個性も尊嚴 もない。ただ、これ食ふがための慾望に驅られてゐるのだ。然し、 根源はもっと深い所にある。 自分は、さまざまな訊問の末に、かう云はれたことがあった。 君が今の様な思想で、今の様なことをやってゐれば、再び教 育界に出て活躍するといふことは出來ないのではないか ?

10. 日本現代文學全集・講談社版 89 伊藤永之介 本庄陸男 森山啓 橋本英吉集

娘のやったことは、無理といふのが無理ちふもんだと反駁してゐに渡って來た書類をひっくりかへして、司直の抱いたかういふ意味 6 た、ーー保護者の父親は全くしがない人力車夫た、街を歩けば手輕を素直に悟った、そして今彼の前にその本人が立ってゐるのであ につつ走しる圓タクがうろついてゐる、片手をあげておいと云へばる、肌が汚れ、着物はくたびれて肩あげのあとが見えるのだが、髪 自分の家まで送って呉れる、誰が人力車になんか乘るものか、だがは黒く姿はすらりと伸びてゐた、不自由のない衣食住を惠んでやれ 哀れさは案外自分のことかも知れんぞ、 さう思ひかへし、それば、自分の娘より美しく見えるかも知れない、云はゞ彼女がこんな に思ひ當るや否や、女の子のあはれさは何故か自分の姿に浸み渡っところまでずれ墮ちて來た原因は、おのづから萌え出て來る内らの て來た。そこで彼らはまた顔をあげる。矢絣の胴に黄色い帶をまき ものに、外側の事情が適應して呉れなかったといふその哀しさに盡 終へた佐原とき子は、冷飯草履を自分の駒下駄に履きかへた。そし きるであらう さうではないか、さうであらう、あらねばならぬ ひた て暫らく馴染になった周圍を眺めまはした。彼女の視線は丁度そこ として彼は探りを入れはじめた。靜脈が浮きだして襞をつくった骨 に待ち構へてゐた飯田三欽の眼にぶつつかった。 つぼい腕をのばし、しかしその先には優しさを籠めて子供の肩を搖 「年が足らねえようーー」金網に取りすがった男の子がそれにカづ ぶった。 けたのである、「いからお前、何でも彼でも、詫っちまへばいゝ 「お前のほしいものはたくさんあるんだが、誰もそれを買っては呉 んだぞ、あやまっちまへようー」 れないんだな、お前のおッ母さんはちっともお前を可愛がっちゃ呉 れないんだろ ? 働いたお金はみんな取りあげられる、お小遺ひは ちっとも呉れない : : : 」 その子の一件書類の一番はじめには、判讀しなければ意味が取れ 保護司は相手を見まもった、これだけやさしく誘ひかけたこちら ないほど下手くそな文字が書きこまれてゐた。犯行の次第を敍したの言葉に、どう動いて來る子供であらうか ? しかし、佐原と 告發書だ。彼女の自白を書きとめた聽書がその上に重なってゐる。 き子は首を振ってそれを否定した。 くにやくにやにのたくった複寫文字であったが、それは右の通りに 「そいぢやアお前はお店のものを取ったんちゃないんだらう ? 」 相違ございませんと認めてゐた。本人の口から語られたこの事實 う、うんーーーと、またお河童が動いた。 は、告發者の見通しを裏書きしたし、取調べたもの又おもはくをそ 「とったのか ! 」と保護司は悲鳴に似た聲で頸を折り、深く息を吸 の壺々で捺へた、もはや疑點もなければこゝに送られて來た過程に びこんだ、「さうかーーそれならそれで仕方がない、ぢやお前、ど も無理はない、審判所がつけた型通りの思料書は少年法第四條第六んなふうにしてやったんだか、私の前でそれをやってみせてごら 項の處分を云ひ渡さざるを得なかった、それが結論だったのだ、佐ん」 原とき子はさういふ順序を經て少年保護司の察に付することにな 爪先を見てゐたとき子は肩を低め、輕く保護司の手を外した。 った、戒めただけで親のもとに歸すことは少からず危險である、そ 老人の手は卓の上に戻った。彼はその上にあった書類をめくっ れならばと開き直って、さっさと隔離してしまへば手つ取り早いのた。視角の距離を遠ざけながら文字を讀んだ。刑罰法令に觸る又行 であるが、それにはまだ、初犯のこの子が痛ましすぎる、暫らく様爲をなしたるものにちがひない、その子のこんな頑固さが、あたへ 子を見た上でいづれか決めれば宜いのだからーー保護司は自分の手られた處分を當然のものと思はせる、すると、官廳用紙に書かれた