イイ 6 杉山平助「『軟化病』を評す」 ( 朝日新聞昭和一五・八 ) 橋本英吉參考文獻 岩上順一「系圖について」 ( 現代文學昭和一七・六 ) 半澤弘「轉向作家の系譜」 一單行本所收のもの ( 解釋と鑑賞昭和三六・九 ) 中野重治「橋本英吉のこと」 岩上順一「抒情と寓意」 ( 風景號昭和三九・一一 ) ( 桃書房「文學の主體」昭和一七・ ll) 栗山一枝「富士山頂」 藏原惟人「一九二八年一月のプロレタリア文學」 ( 日本文學昭和四一・五 ) 「最近のプロレタリア文學と新作家」 國岡彬一「昭和十年前後における文學變質に關 ( 潮流瓧「藝術邇動」昭和一一ニ・ ( 國語と國文學昭和四ニ・一 ) する一考察」 山田淸三郎「日本プロレタリア文學史下」 ( 三一書房昭和二九・九 ) 横光利一「天才と象徴」 ( 河出書房「横光利一全集 德永直「解説」 第十一卷」昭和三一・四 ) ( 新興出版社「棺と赤旗」昭和一一一・ 山田淸三郞「轉向記霧の時代」 ( 細川書店「近代日本文 中島健藏「解説」 ( 理論社昭和三二・五 ) 學選集」昭和二四・六 ) ( 筑摩書房「中野重治全集 中野重治「控え帳六」 ( 河出書房「現代日本小説 第七卷」昭和三四・七 ) 中野重治「解説」 大系第四一巻」昭和一一五・一 0 ) 中野重治「ねちねちした進み方の必要」 ( 筑摩 書房「中野重治全集第八卷」昭和三五・四 ) 山田淸三郞「橋本英吉と『炭坑』について」 ( 三一書房「日本プロレタリア 立野信之「檢擧」 長編小説集」⑥昭和三 0 ・一 ) ( 河出書房「靑春物語」昭和三七・一 ) ( 筑摩書房「現代日本文學全 日井吉見「解説」 半澤弘「勞働者作家」 集第八六卷」昭和三二・五 ) ( 新日本出版「日本プロレタ ( 平几瓧「轉向中」昭和三七・五 ) 小林茂夫「解題」 リア小説集①」昭和三八・五 ) 二新聞・雜誌掲載のもの ( 三一書房「日本プロレタ 橋本英吉「略年譜」 伊藤永之介「十一月の創作」 リア長編小説集」⑥昭利三 0 ・一 ) ( 交囈時代大正一五・一一 D 本庄陸男「橋本英吉論」 編集國岡彬一 ( プロレタリア文學ー白楊社版昭和五・八 ) 島木健作・沼田英一その他「新人座談會」 ( 交學評論昭和一〇・一こ 寺田健一「「共同耕作』について」 ( 文學評論昭和一一・五 ) 徳永直「『炭坑』その他」 ( 交學界昭和一一・ 龜井勝一郞「田園詩人 ( 橋木英吉「欅の芽立」 ( 文學界昭和一四・五 )
( 文學評論昭和九・七 ) 平野謙「社會主義リアリズム」 龜井勝一郎「批評以前ー森山啓氏らへ一言ー」 ( 文學界昭和三六・九 ) 森山啓參考文獻 ( 文學評論昭和九・八 ) 中村完「瓧會主義リアリズムの問題ー森山啓 久保榮「迷へるリアリズム」 の評論を中心にー」 ( 都新聞昭和一 0 ・一 ) ( 國文學研究二五集昭和三七・三 ) 勝本淸一郞「行動主義・新浪漫主義批判」 谷忠孝「森山啓ー中野重治との論爭を中心に 一單行本に所收のもの ( 文藝昭和一〇・一 ) ( 位置七號昭和四一・一 龜井勝一郞「浪曼的自我の問題」 中河與一「偶然論への反撃ー森山啓氏にー」 谷忠孝「森山啓の評論ー瓧會主義リアリズム ( 日本浪曼派昭和一 0 ・三 ) ( 第一書房「偶然と文學」昭和一 0 ・一一 ) 論爭前後ー」 金親淸「森山の『文學論』を推す」 阿部知二「ヒューマニズムと文學」 ( 北大・國語國文研究三六號昭和四ニ・ II) ( 河出書房「文學論集」昭和一三・ ( 文學評論昭和一 0 ・八 ) 谷忠孝「森山啓著作年譜」 ( 新潮昭和一 0 ・九 ) ( 日本公石原純「偶然の問題」 佐藤民寳「農民文學とリアリズム」 ( 位置八號昭和四二・一 0 ) 論社「新農民交學論」昭和一四・四 ) 石原辰郎「科學的獲展観と輪廻説」 三解説その他 ( 人文書院「浪曼派的 ( 雎物論研究昭和一一・七 ) 保田與重郞「文壇的統制」 文藝批評」昭和一四・一〇 ) 三波利夫「文藝時評」 ( 三田文學昭和一一 ・一 (l) 中野重治「解説」 ( 河出書房「現代日本小説大系」 ( 中央公論社「現代文中野重治「肉感性の不足」 窪川鶴次郎「農民文學論」 昭和二七・七 ) ( 帝國大學新聞昭和一一一・ 學論」昭和一四・一一 ) ・一 ) 日井吉見「解説」 ( 筑阜書房「現代日本文學全集」 ( 靑年書房「集團主田宮虎彦「小説以前ー森山啓『收穫以前』ー」 岡澤秀虎「森山啓小論」 昭和三二・五 ) ( 人民文庫昭和一二 義の文藝」昭和一五・六 ) ( 角川文庫「現代詩人全集」第 ・三 ) 伊藤信吉「解説」 伊藤整「『收穫以前』について」 寺岡峰夫「收穫以前について」 六巻昭和三六・ ( 砂子屋書房「文學求眞」昭和一五・七 ) 甘粕石介「藝術における日本的なもの」 高見順「詩人の小説について」 田宮虎彦「貫く愛情の美しさ」 ( 中央公論昭和一一一・ ( 昭森社「文藝的雜談」昭和一五・一 l) ( 角川書店「靑海の簾」扉昭和三一・ 靑野季吉「若き批評家について」 伊藤整「小説の單純性 ( 誰にささげん ) 」 編集溿谷忠孝 ( 新潮昭和一二・四 ) ( 報國瓧「小設の世界」昭和一七・一 ) 中野重治「一般的なものに對する呪ひ」 伊藤整「誰にささげん」「遠方の人」 ( 新潮昭和一ニ・四 ) ( 四海書房「感動の再建」昭和一七・一 0 ) ( 新潮昭和一一一・五 ) 中野重治「批評と常識」 古谷綱武「文藝時評」 ( 三笠書房「文學の世界」昭和一八・四 ) 中野重治「眞實は下等であり得るか」 ( 新潮昭和一一一・九 ) ( 三一書房「日本 討論「森山啓との論爭」 プロレタリア文學運動史」昭和三 0 ・五 ) 村山知義「文藝時評ー『濤聲』」 ( 東京朝日新聞昭和一二・ ( 筑摩書房 獻中野重治「森山啓へ」 ( 書簡七通 ) 「中野重治全集」第十九卷昭和三八・九 ) 川端康成「文藝時評ー『野葡萄』」 ( 東京朝日新聞昭和一三・一 0 ・三 ) 参菊地康雄「現代詩の胎動期」 ( 現文社昭和四ニ・一 0 ) 匿名「人物批評『森山啓』」 山 ( 文藝昭和一四・三 ) 一一新聞・雜誌に掲載のもの 河上徹太郎・龜井勝一郎「對談新著評論『遠方の ( 文學界昭和一七・三 ) 人』」 徳永直「藝術至上主義的傾向と鬪へ」 5 ( 改造昭和九・六 ) 本多秋五「文學精飾の行方ひとっ」 長谷川一郞「森山氏に理論的競走を提議する」 ( 文學界昭和一七・一こ
にものをいうのは作品そのものの藝術的な力である。本卷もそうい う視點から、昭和初年代から昭和十年代というたいへん困難な時期 に、實作者としてプロレタリア文學の火をそれぞれ守りとおそうと した四人の文學者の業績を作品本位にあつめたものである。 伊藤永之介 伊藤永之介は戰前、戰中、戰後にわたって、ひとりの不屈な農民 平野謙 文學者としてたたかいつづけてきた人だが、私一個の印象によれ ば、昭和十年代にいちばん奮鬪した人といえる氣がする。そこに伊 最初に一言しておけば、本卷の伊藤永之介、本庄陸男、森山啓、 橋本英吉の四人は、それぞれの年譜に明らかなように、昭和初年代藤永之介の藝術的なプ一フスとイナスがあるのではないか。 昭和十年代に新潮社から「昭和名作選集」という定價一圓の叢書 のプロレタリア文學運動に獻身し、その組織に所屬した人々だっ が刊行されたことがある。全體で何十點刊行されたか、いま審かに た。そこに彼らに共通の特徴がある。ただし、おなじプロレタリア 文學の組織といっても、伊藤永之介の所屬していたそれと、橋本英しないが、それが全體として昭和十年代における中堅作家の代表作 の一集大成となったことは、ほとんど疑いない。昭和十四年五月に 吉らの所屬していたそれとは異なっていて、前者の組織は日本勞農 藝術家連盟 ( 略稱勞藝 ) といい、後者の組織は全日本無産者藝術團體橫光利一、尾崎士郎、坪田讓治、林芙美子の四人の作品集がまず刊 協議會 ( 略稱ナ , プ ) といった。ひとしくルクス主義的な藝術團體行され、つづいて同年七月に石坂洋次郎、岡本かの子とならんでわ を標榜しながら、組織を異にして、お互に對立しあった最大の理由が伊藤永之介の作品集が刊行されたのである。當時のジャーナリズ ムにおける伊藤永之介の位置づけをおのずと推定させるにたる事實 は、當時の非合法政黨だった日本共産黨を直接に支持するかしない かの一點にかかっていた、といってもよかろう。その點に關する當だろう。 伊藤永之介の作品集は『鴉』と題され、『鴉』『萬寶山』『狐』の 時の理論的表明としては、佐藤耕一の筆名で發表された藏原惟人の 『ナップ藝術家の新しき任務』をあげることができよう。昭和五年三作が作者によって自選された。作者の序文のなかの『萬寶山』に 觸れた個所を引用してみると、「『萬寶山』はこれに反して、昭和六 四月に發表されたこの論文は、日本共産黨の政策を制作モティーフ の源泉にせよというナップ所屬の藝術家の新しい任務を力説したも年の秋にこゝに描かれた事件の起った二、三ヶ月目に書いたもので ので、ナップに對立する勞藝の立場を「瓧會ファシズム」として貶ある。今の言葉でい ( ば報告文學といっても差支ないやうなもので 解めたものである。しかし、そういう蔵原惟人の提唱は、今日からみあるが、自分では決してさう言ったやうな實用だけのものに終って ゐないと思ってゐる。よくもそんな際どいことが出來たものだとい れば、大衆團體の組織原則にもとる小プルジョア急進主義的なもの 作 ふ氣がするが、この作品がそれほど上すべりしてゐないのは、當時 であり、勞藝の指導的な政治理論だった山川均の業績を「社會ファ 7 シズム」の名のもとに葬りさることの不當なことも、また明らかだの自分がのつびきならぬ窮迫のどん底に直面してゐたためかも知れ ろう。どのような政治理論、文學理論のもとに書かれようと、最後ない」と、作者自身ひそかな自信を物語っているのである。私の記 作品解詭
日本現代文學全集 89 ・本庄陸男集 伊藤永之介 森山啓・橋本英吉 編集 整郎夫謙吉 レじ 藤膨 . 予 伊龜中平山 昭和 43 年 7 月 10 日印刷 昭和 43 年 7 月 19 日發行 定價 600 圓 ◎ KODANSHA 1968 1 すけ い とうえいの 伊藤永之介 にん じようむつ 男 本 庄陸 けい やま もり 山 戸攵 林 きち もとえい はし : 本英 橋 [ コ 野 間省 發行者 島織 北 印刷者 株式會社講談社 發行所 東京都文京區音羽 2 ー・ 12 ー 21 郵便番號 112 電話東京 ( 942 ) 1111 ( 大代表 ) 振替東京 3 9 3 0 大日本印刷株式會社 印 刷 寫 眞 製 株式會社興陽瓧 印 刷 版 本 大製株式會社 製 株式會社岡山紙器所 製 株式會社第一紙藝社 革 小林榮商事株式會社 背 日本クロス工業株式會社 表紙クロス 日本加工製紙株式會社 ロ繪用紙 本州製紙株式會瓧 本文用紙 安倍川工業株式會社 函貼用紙 三菱製紙株式會社 見返し用紙 紳崎製紙株式會社 扉用紙 落丁本・亂丁本はお取り替えいたします。
伊藤永之介本庄陸男 森山啓橋本英ロ 日本現代文學全集。講談社版 89
伊藤永之介「文學的自敍傳」 ( 文藝昭和一四こ ) 永之介についてのノート」 ( 右同第三 0 昭和三七・一一 l) 岡澤秀虎「伊藤永之介論」 ( 早稻田文學昭和一四・一二、のち「集團鞠尾淳「リアリズムの挫折ー第三・戦後の伊 主義の文藝」昭和一五・六亠円年書房刊に收録 ) 藤、水之介についてのノート」 ( 右同第三二號昭和三八・六 ) 川鶴次郎「農民作家論」 ( 文薹昭和一四・三、の ち「現代文學論大系第四」に收録分銅志靜「伊藤永之介ー人ーーその思想と生涯」 昭和二九・一河出書房 ) ( あきた昭和四二・一 鶴田知也「新潮社文藝賞第一一回受賞作品につい 一新聞・離誌等に掲載されたもの 二單行本に所收のもの・解説など てー伊藤永之介君のこと」 ( 新潮昭和一四・四 ) 「伊藤永之介追悼特集號」 ( 日本公論社 月端康成「小説と批評 ( 文藝時評 ) 」 * 「鶴」「」評佐藤民寳「「娘地主』について」 ( 農民文學第一八號昭和三四・九 ) ( 文藝春秋昭和一四・五 ) 「新農民文學論」昭和一四・四 ) 「伊藤永之介追悼」 ( 新潮社「鴉」昭和一四・七 ) 片岡鍼兵「呪はれた才能 ( 文藝時評 ) 」 * 「鱒」計森山啓「解説」 ( 秋田文學第九號昭和三四・九 ) ( 文藝春秋昭和一四・九 ) 板垣直子「和田傳、伊藤永之介の文學」 「伊藤永之介追悼號」 杉山英樹「農民の現實と作家の感覺」 * 「鶯」「牛」 ( 第一書房「事變下の文學」昭和一六・五 ) 論他 ( 瓧會主義文學第一一號昭和三四・一こ ( 河出書房「現代日本小説大系 ( 槐第一 0 號昭和一四・一〇 ) 靑野季吉「解説」 「伊藤永之介追悼特集」 丹羽文雄「中堅作家論」 ( 改造昭和一四・一一 l) 第四九卷」昭和二五・一 ) ( 河出書房「現代日本小設大・系 ( 文藝秋田第四號昭和三四・一ニ ) 中村武羅夫「報告文學と農民文學」 中島健蔵「解説」 「伊藤永之介・追悼の記」 ( 文藝昭和一五・五 ) 第五八卷」昭和二七・六 ) ( 羽後文學別册單行昭和三五・一 (l) 花田淸輝他「創作合評」 ー「代とその一家」につ森山啓「解説」 ( 角川市民文庫「伊藤永之介集」 いてー ( 群像昭和二四・五 ) 昭和二八・五 ) 杉山平助「輕さ重さ上品さーー伊藤永之介と芹寺崎浩他「小説月評」 * 「コン先生」評 河盛好藏「解説」 ( 朝日新聞昭和一三・五・ニ八 ) 澤光治良」 ( 文學界昭和一一七・八 ) ( 新潮文庫「鴉・鶯・梟」昭和ニ八・一 0 ) 佐藤民寳「農民性の文學的再現ー・「梟』『鶯』平野謙他「小説月評」 * 「豫備隊へ」評 和田傅「解説」 ( 槐第一號昭和一三・ ( 文學界昭和一一七・一〇 ) ( 角川文庫「警察日記」昭和二八・一 II) 「鴉』を中心に」 平野謙「解説」 名取勘助「小説月評」 * 「鶯」「燕」「塒」「鷂」評日井吉見他「創作合評」 * 「電源エ事場」評 ( 群像昭和二八・一一 D ( 角川書店「昭和文學全集」昭和三 0 ・ニ ) ( 新胡昭和一三・七、八、九 ) 佐藤鐵章「日本農民文學概観」 本多秋五「解説」 森山啓「文學の新世代ー農民小説の特徴」 ( 農民文學創刊號昭和三 0 ・五 ) ( 角川文庫「梟・鶯・馬」昭和三 0 ・一 l) ( 交藝昭和一三・八 ) えのきたかし「農民文學の道程についてー伊藤永荒正人「解説」 三戸斌「創作月評」 * 「燕」 ( 文學計論昭和三一・四 ) ( 角川文庫「績警察日記」昭和三 0 ・八 ) ( 文昭和一三・八 ) 之介論」 森山啓「解説」 ( 河出文庫「鶯」昭和三一・ 貴司山治「伊藤永之介小論」 文佐藤春夫・室生犀星他「芥川賞經緯」 考 ( 文藝春秋特別號昭和一三・ ( 瓧會主義文學第一一號昭和三四・一一 ) 日井吉見「解説」 ( 筑阜書房「現代日本文學全集第 * 上記「追悼號」のうち 八六卷」昭和一一三・五 ) 介伊藤永之介「鳥類物までー自作案内」 之 ( 文昭和一三 ・一一 ) 分鋼惇作「伊藤永之介論」 ( 右同 ) 澁川驍「伊藤永之介」 ( 明治書院「人と作品・ 現代文學講座ー昭和篇ー」昭和三六こ D 江口渙「死んだ伊藤永之介」 藤今村太平「文藝映晝論ー一鶯』」 ( 明治書院「現代日本 伊 ( 文藝昭和一三・ ( 新日本文學昭和三五・一 ) 高橋春雄「伊藤永之介」 文學大事典」昭和四 0 ・一一 ) 鞠尾淳「リアリ . ズムの再現ー戦後の伊藤永之 澤村勉「鳥類物ー素朴な映畫論」 小田切進「伊藤永之介」 ( 文藝昭和一三・ 一ニ ) 介についてのノート」 3 ( 新潮瓧「新潮日本文學小辭典」昭和四三・一 ) ( 農民文學第二九號昭和三七・八 ) 岡田三郎「昭和十三年の小設界メモ」 ( 新潮昭和一三 ・一一 l) 鞠尾淳「リアリズムの典型ー績・戰後の伊藤 編集高橋春雄 伊藤永之介參考文獻
イ 44 ( コギト昭和九・六 ) 山田昭夫「『石狩川』と本庄陸男」 山田淸三郞「プロ文壇に遺す言葉」 本庄陸男參考文獻 ( 國文學昭和三九・八 ) ( 文藝昭和九・一 0 、一こ布野榮一「『石狩川』未完の構想」 菊池克己「本庄陸男の巧さ」 ( 位置第五號昭和三九・一一 ) ( 人民文庫昭和一一 ・一一 I) 小笠原克「讀書ノート」 小林歩三「本庄氏の憶ひ出」 一特集誌 ( 新日本文學昭和三九・一二 ) 三六新報昭和一四・八・八 ) 高橋春雄「『石狩川』論」 平野謙他「『槐』本庄陸男追悼號」 堀田昇一「本庄陸男について」 ( 日本近代文學第四集昭和四一・五 ) ( 昭和一四・八 ) ( 知性昭和一四・九 ) 布野榮一「『石狩川』の主從の北海道紀行ー『從 川端康成他「「石狩川』批評集」 大井廣介「本庄陸男の場合」 ( 日大・法學紀要昭和四一 ) 駕日録』抄」 ( 大堂昭和一五・一一 l) ( セルバン昭和一五・一 D 布野榮一「本庄陸男『團體』小論」 龜井勝一郞他「『石狩川』公演パンフレット」 宮尾誠勝「本庄陸男論」 ( 三田文學昭和一五・七 ) ( 語文第二四輯昭和四一・六 ) ( 新協劇團昭和三〇・一一 ) 中村新太郎「本庄陸男と『石狩川』」 山田昭夫「本庄陸男『橋梁』の失業敎員」 伊藤整他「本庄陸男ーその人と作品」 ( 文學 ( 日本文學昭和二八・一一 ) ( 北海敎育評論昭和四一・一 0 ) 碑「石狩川」建立委員會昭和三九・七 ) 立花久子「『石狩川』と本庄陸男」 山田昭夫「敎育運動時代の本庄陸男」 ( ふじ第四號昭和三 0 ・三 ) ( 北海敎育評論昭和四一一・一 ) 二單行本所收のもの 布野榮一「小説『石狩川』の描いた開拓集團」布野榮一「『石狩川』モデル考」 曰 ( 日本文學昭和三一・ ( 語文第二六輯昭和四一一・四 ) 武田麟太郎「本庄陸男君」 山田昭夫「本庄陸男の側面・年譜・文獻目録」木戸若雄「本庄陸男と義足瓧」 ( 金星堂「市井談義」昭和一四・一 0 ) ( 文學昭和三ニ・一〇 ) ( 學校運營昭和四三・一 D 中村新太郞「本庄陸男について」他 鞠尾淳「『石狩川』小論」 木戸若雄「本庄陸男と文藝行動社」 ( モナス「敎育文學論」昭和一五・一一 ) ( 農民文學第一一號昭和三一一・ ( 學校邏營昭和四三・四 ) 岩上順一「「夜明け前』と『石狩川』」 布野榮一「『石狩川』小論」 小林歩三「陸男の文學」 ( 北方文藝昭和四三・七 ) ( 萬里閣「人間の確立」昭和一一二・ ( 國語國文研究第一四號昭和三四・一 0 ) 松島榮一「石狩川」 ( 御茶の水書房「國民の文學」 坂田資宏「小説『石狩川』のモデル松岡長吉に 四解説 近代篇昭和三 0 ・五 ) ( 堤影第一〇號昭和三七・一 ) ついて」 田宮虎彦「明治維新と『石狩川』」 細野孝一一郎「本庄陸男の文學」 ( 近代生活瓧「文學間答」昭和三一・九 ) 小笠原克「本庄陸男『石狩川』」 ( 三一書房「白い壁」昭和二三・五 ) ( 北海警友昭和三七・七 ) 高見順「昭和文學盛衰史」三 ) 中野重治「現代日本小説大系」第五五卷 ( 文藝春秋新社昭和三三 ・一こ山田昭夫「晩年の本庄陸男」 ( 河出書房昭和二七・七 ) ( 位置第一號昭和三七・一一 ) 布野榮一「本庄陸男」 ( 角川文庫昭和二八・九 ) 龜井勝一郞「石狩川」 ( 學「近代文學研究必携」昭和三六・九 ) 山田多賀市「本庄陸男回想」 ( 三一書房「プロレタリア長 ( 位置第ニ號昭和三八・六 ) 細野孝二郎「石狩川」 和田謹吾「本庄陸男」 編小設全集第八卷」昭和三〇・ ll) ( 北書房「風土のなかの文學」昭和四〇・九 ) 榎本隆司「『人民文庫』ノート」 ( 新潮文庫昭和三〇・七 ) ( 國文學研究第二八集昭和三八・九 ) 窪川鶴次郎「石狩川」 ( 河出書房「物語・北海道文 山田昭夫「石狩川」 日井吉見「現代日本文學全集」第八七卷 學盛衰史」昭和四二・六 ) 山田昭夫「『卒伍』から『團體』へ」 ( 筑摩書房昭和三三・ ( 位置第三號昭和三八・一 0 ) 山田昭夫「本庄陸男遺稿集」 三新聞・雜誌所載のもの 伊藤整「小林多喜一一と本庄陸男」 ( 北書房昭和三九・七 ) ( 北海道新聞昭和三八・一一一 ・一一六、二七 ) ( 敎師の友社昭和四三・一 I) ( 位置木戸若雄「橋梁」 立野信之「推獎する新人」 ( 創作月刊昭和四・一 ) 小笠原克「『石狩川』の流域」上下 保田與重郞「本庄陸男の「白い壁』について」 第四、八號昭和三九・四、四ニ・一 0 ) 編集山田昭夫
間「文學評論」に「主観的作家」。「唯物論研新」二月號に「今日の農民文學」。「文學 について」、「早稻田文學」に「思想の人 化」。三月號の「文學評論」に「瓧會主義究」八月號に「『何の爲の藝術か』につい界」三月號に小説「日本海邊」 ( 四月まで て」。「文學界」九月號に「死の思想との袂二回 ) 。「文學界」五月號に「諸作家の性格」。 的リアリズムの『批判』」、「文藝」に「ジ ーマニズム「文學界ー六月號に「民族主義文學論」。七 イドにおくる詩」。四月號の「文學評論」別」。「文藝春秋」十月號に「ヒュ 月號の「短歌研究」に「啄木斷片」、「文 に「プロレタリアリアリズムと瓧會主義的 論議」。「新潮」十二月號に「作家の性格」。 藝」に「常道と飛躍」。八月號の「新潮ー リアリズム」。五月號の「文學評論」に「中 昭和十一一年 ( 一九三七 ) 三十四歳 に「知識人と實生活」、「文藝」に「文學の 條の『乳房』その他」、「文藝」に「小説論 における必然と偶然」。五月、唯物論全書「朝日新聞」に一月二十九日から三回にわ新世代ーー農民小説の特徴ーーー」。九月號 の「文學界」に「陣中文學と文藝政策」、 の一册として『文學論』を三笠書房より刊たって文藝時評「日本の民族性」を書き、 行。長男健介誕生。七月、詩集『潮流』を中野重治との論爭の發端となる。「文藝」 「解釋と鑑賞」に「現代文學に於ける短 ナウカ瓧より刊行。八月、『文學論爭』を二月號に亡弟秀夫への悲歌の意味をもっ長歌」。「文學界」十月號に小説「野葡萄」。 ナウカ社より刊行。九月號の「行動」に編小説「收穫以前」。三月號の「文藝」で十月十一日から三回「中外商業新報」に ーマニズム及び文藝復興と現代」、 伊藤整と「文學間答『收穫以前』」、「文學「農民文學の新生」。十一月號の「文藝」に 「文學界」に「中野の引筆評論」。十一月號界」に「文壇管見 ( 川上喜久子論 ) 」、「文藝懇「坪田讓治論」、「文學界」に「文學上の「健 の「文藝」に「島木健作と丹羽文雄」、「思話會」に「民族性私見」、「早稻田文學」に康性』」。十一月、農民文學懇話會に結成と 想」に「漱石についての小感」。 「作家の生活」。五月號の「文藝」に「『萬同時に參加。 葉に還れ』の意義」、「中央公論」に「文藝 昭和十一年 ( 一九三六 ) 三十三歳 昭和十四年 ( 一九三九 ) 三十六歳 雜記帳」、「文學界」に「公式性と具體性」、 一月、島木健作とともに「文學界」同人と「新潮」に「文學と時代苦」。「文學界」七「文學界」一月號に小説「雪の下」 ( 一一月號と なる。一月號の「文學評論」に「供の『文月號に「『思想の調念』の自由」。「日本評五月號に績く ) 。三月號の「文藝」に「私の小 學界』入りについて」、「中央公論」に詩論」八月號に「日本詩はどうなる」。十月説勉強」。四月、新農民文學叢書第一一篇と 「むかし或る國に或る男があった」。「文學號の「短歌研究」に「現代文學に於ける詩して『日本海邊』を砂子屋書房より刊行。 案内」三月號に「平林たい子論」。「文學歌の地位」、「新潮」に「一文學者の眞實「新潮ー五月號に「文學の言葉と農民」。七 界」四月號に「文學の價値とリアリズム」。 中野重治にーー」、「中央公論」に「明月號の「中央公論」に「農民文學と『藝術 五月號の「文藝」に「作家的苦惱と自殺」、治大正の文學傅統」。「文學界」十一月號に派』」、「文藝」に「散文精紳について」。七 山 「文學界」に「人間性の間題」。六月號の 小説「濤聲」 ( 十二月號まで二回 ) 。 月、評論集『文學評論』を河出書房より刊 「中央公論」に「何の爲の藝術か」、「日本 行。「文學界」八月號に「作家精の内と 昭和十三年 ( 一九三八 ) 三十五歳 外」。九月號の「新潮」に「作品の動機の 評論」に「「詩人は認識不足』論是非」。七 月號の「文藝」に「美的なものについて」、 「文藝」一月號に小説「父親しるす」。「革よさ」、「短歌研究」に「詩歌の情熱」。「文
「漕げこげ ! 漕ぎぬけたら賞をあたへるぞ ! 考一等を加へ釋放かぬ疑惑の色がうかんだ。近づくにつれ赤に卍を染めぬいた旗印 4 和するぞ ! 」 や、裸に甲をつけた姿や、槍や弩弓などまで明瞭に映ってきた。故 しかしその聲もやがてきかれなくなる。潮を汲みだす方が大事に 鄕にゐたとき、かの韓人の虎三五からきいた、海賊の話をおもひだ なる。役人ももうあきらめたらしい。 すまでもなかった。虎三五は韓の漁夫で、海賊の仲間にもゐたこと 「祈るだけですよ。あきらめることはない。祈って助からない事はのある男だが、今では荒魚の留守をまもって、葦の浦の漁業になく 一つもないですよ」 てはならぬ重寶のものとなってゐた。海賊は既にこの頃から、日本 荒魚はカのぬけたまゝ、ぐんなり船板に眼はつぶってもたれてゐ海、東支那海を橫行してゐた。そのなかには日本人もあれば韓人も たが、急に體をおこして叫んだ。。 ひっくりして役人も奴隷も我にか漢人もあった。殊に新羅と日本の國交が、表面上の靜和にか又はら へった。「海原の邊にも、沖にも禪づまりうじはきいます諸の大御ず、内面的には新羅が日本の覊絆から脱して、對等の位置を得よう 禪たち、船舳に道びきましを、天地の大御溿たち、倭の大國靈 : : : 」と意圖した天智帝以後には、心理上の懸引がさかんとなり、わが國 風と波濤が祈りの壽言をちぎってとぶ。夜どほし漂流した船は、 は巨船を用意して示威すると共に筑紫や四國の海盜を暗に支持し とにかく沈沒もせず、翌朝波のや又鎭まった海のいづことも知らぬ て、韓半島の海邊を劫略せしめる策にでた。天平三年、三百艘の賊 はてに、半ば機能を失った赤塗りの船體をうかべてゐた。北になが船が新羅をおそったと、韓の史書にみえるだけで、わが國の文獻に れる切れえ、の雲、カッノ、と耀く陽光、船は大うねりと風にのっその事實が殘ってゐないのも、その間の事情を語ってゐる。 て、自然の流れにまかせてゐた。五挺の櫓は二本しか殘ってゐなか 海賊とわかると、品々をのこしたま、いっせいに本船にとびうつ った。すると同じ運命におちた官船の一艘が、はるかの波間から白った。しかし、敵が韓人であるか、それとも漢人なのか、誰にも見 布をふって、救援をもとめてゐるのを發見した。送領使や船司は急きはめはつかなかった。いづれにしても根かぎり戦はうと上下して にカづき、漕手をはげました。二艘の官船が舷をならべた。向うの肚をきめた。漕手は糲をとり、船吏たちは弓や槍や有りあはせの少 船は舷側と舵を大破して、傾きかけてゐる上に、乘員の半ばを波に數の武器をとって、舷側にひしめき並んだ。だが、武器でも人數で さらはれる始末で、殘った食糧だけを移して、本船を棄てることに もまた、船の速力でも彼に敵ふところでなく、たゞ血戦して切りぬ ける外道はなかった。 なった。しかしその作業は樂ではなかった。 荒魚は裸のまゝ難破船の舳にたって、もやひ綱をとって本船との 間隔を保ってゐた。ぬれた荷物のうち大切の物だけが、一つイ、積 船司は弓をふりながら舳でさけんでゐる。敵は矢ごろに逹してゐ みかへられてゐる。ぼんやり北の空に眼をやってゐた荒魚は、ふと たが、こちらが戰鬪力のある官船とみると、急に攻撃する不利をさ 波間に黑點をみつけた。それは次の瞬間には、三艘の細長い船とな とったか、本船を遠卷きにしようと、後續の二艘は大きく回轉しは って、うねりの上に盛りあがってきた。刳舟らしい小舟だが、非常じめた。その間に本船は、敵の先頭の船にまっしぐらに突っかけ な速力で接近してくる。 た。嵐にあって弱體とはなったが、とにかくこちらは航洋船であ 「韓人の船らしいが、救援にくるのだらうか ? 」 り、大きさ堅牢さでは數段まさってゐたので、個々に撃破する戦略 荒魚の指した方に眼をやった送領使の顔に、希望とも不安ともっ にでたが、敵はすばやく方向かへて遠のき、そしてたえず遠まきに きはん
伊豆持越金山の爭議や救農堤防工事の爭議にれ / 、および祖先たちは、どんな仕事を遺しプロレタリア文學蓮動、文化運動の波がしら も關係するなど、世のいわゆる暗い轉向體驗てくれたか」という題目に移っていき、「富をまともにかぶり、そのなかに直接立ち入っ 士」 ( 漆工業の發達と梅雨との關係 ) や「寵兒のて文學活動をはじめ、しかも、その運動壞滅 とはちがう生き方をしている。 昭和十一年五月、「文學界」に發表し、文生涯」 ( 左官職人や壁畫家が主人公 ) や班田制にの直後あたりから、ねばり強くおのがじしの 學界賞を得た「欅の芽立」は、かっての新感取材した「天平」 ( 土地による生産と人間生活と代表作を世に間うている、ということであろ う。れつきとしたプロレタリア文學者であっ 覺派風の描法も、プロレタリア文學のなまなの野應 ) のような作品が書かれていく。また、 イデオロギーも、おちついた文體のなかにう土地の所有關係の變化のなかで展開したといたと同時に、昭和十年代には、それぞれの資 まくとかしこまれ、そのことによって本當のう欟點から曾我物語を描いた「系圖」 ( 昭和質を生かした中堅作家としての花をみごとに 農村の實體がリアルに浮きぼりにされた作品十七年一月 ) 、判澤弘によって戰時中の抵抗文喙かせたという點では、まさしく一致してい である。「今あるものを一度ほろぼさねばな學、反戦文學の傑作と評價された『忠義』る。こんにちいうところの「昭和十年代作 らぬ」「冬の空に突っ立ってゐる欅が、煙突 ( 昭和十八年三月 ) などの作品を書き、節を曲家」のイメージとは大變に異なるが、かれら より美しく猛々しいのはなぜか ? 繼ぎあはげぬ姿勢をとりつづけた。もちろん、維新のこそが、じつは昭和十年代作家の中軸に位置 せたものではないからだ。灰色から褐紫色に武士の行なった靜岡縣の牧の原開墾史から、づけられて然るべきだとさえ思う。昭和十年 なる。葉が落ちてもお陀佛にはならない。か當今の職業間題に結びつけた『東方の種族』代作家の険かせた花のなかでは、かれらの花 らっ風のなかで、ざあざあ音をたてて搖れて ( 昭和十八年十二月 ) のような作品集 ( 翼賛出版は、きわめて地味で質朴ではあるが、かれら ゐる。それでゆっくり芽を出して來やがる」協會の農村建設文學叢書の一册 ) もなくはない。は、いずれも農山漁村や都市の下積みの日本 「俺の出發を、靑つぼいと笑ふ奴は笑へ ! 」戰爭末期の「富士と水銀」からはじまった人の姿と心を、力をこめて描き通したのであ という一節や、文末の「しかし彼は、まだま孤高の科學者野中至夫妻の物語は、戦後、「人る。この功績は、じつは大變に大きいはず だ俺は參りはせぬぞ」と固く決意する部分あ間」に連載された「富士山頂ーとして實を結である。かれらとつながりのあったいくつか たりには、昭和十年代をひとりで耐えぬく男び、彼の代表作ともなっている。それと同時の地域、かれらの關係してきたいくつかの職 に、戦後、眞劍な内省を經ぬままにすべり出業、それらはかれらによって我々の前に持ち の意地がよく表明されている。 砂子屋書房から刊行された新農民文學叢書してしまった民主主義蓮動、新日本文學會の出された。プロレタリア文學運動や昭和文學 の一册である『衣食住その他』 ( 昭和十四年一動向に心服できず、ひとりの道を歩もうとしを、ひとひだずつ新しく見直していこうとす 月 ) には、同名の短編のほか「ところはちぶ」た姿勢についても、再評價しなければならぬるとき、かれらのさし出した肌は、ことのほ か新鮮である。この四人ひとまとめの卷が編 「自然と人生について」なども收められてい問題が多くみられるのである。 まれたことの意味は、考えられていたこと以 て、生産文學的においのほとんどない農民文 學として珍らしい存在といわねばなるまい。 明治三十年代生まれの、地方出身者の伊藤上に重いものだと思う。 やがて「草上の饗宴』 ( 昭和十五年十月 ) を經永之介・本庄陸男・森山啓・橋本英吉の四人 て、橋本の關心は、「日本的自然のなかで、わの作家に共通していえることは、昭和初期の