感ぜられ、その一つの屋根の下で、切端つまって途方にくれてゐるは、ロ許に嘲笑を漂はしてゐた。 自分を忌々しく思った。「どうだ ? どうだ ? 」と荻村重吉は元氣「君はいまどこに住んでるんかね ? 」と荻村は訊ねた。 「やつばし古集さ。千住だよ」 な聲で子供に話しかけた、「なあ健坊、お前もうんと勉強してこん 「千住ーー」と語尾をひつばって繰りかへした荻村重吉は、もうこ なに傑くなるんだぞ、なあ、ーー」「日本一の富士山よか低いね ? 」 の男の前で見榮を張っても駄目だと諦めるのであった。すると彼は と健太郞は父親の顏をのぞきこんだ。「でもお前、東京一だ、東京 一だったら日本一と同じみたいなもんだ」しかしそこで料金がきれ何か心が晴れたやうな氣がして急に口調が輕くなった。「さうか、 た。彼等も降された。高い梯子段は登るときよりも降りる時が一層千住か・ーー全く久しぶりだなあ : : : 」 その昔ーー彼等は千住大橋のたもとに近い街で育った。都會の生 ひや / 、するのである。一段々々踏みしめ、前後に氣を配りながら 活から掃き出された一群が、いっかそこに聚落をなしてゐた。河を 長いことかゝって下りきった。ほっとして腕の猛をそこにおろし、 と荻村重吉はこ越して行けば都會に棄てられるやうに思はれるのである。河の縁ま 煙草の一服でもと思った時 ( 何事であるか ! の場面を後になって憶ひ描き齒ぎしりをした ) 彼の前には小宮山俊で追ひつめられ、そこでごみごみした生活をしてゐた。いびつな棟 割長屋に居住してゐた彼等の親たちは、何といふことなしにいつも 助が立ってゐた。顎の出ばった小宮山は人懷こさうに眼をほそめ、 さうしてにや / 、笑った。「やあ、やつばし : : : 」と彼は云ひだし失業してゐた。仕事はあったり無かったりーー・つまり定職といふも のを持ってゐなかった。震災には幸か不幸か燒け殘って屋並は相か た。「やつばし君だったね、さうか、さうか、やあーー」 昔の友逹であった小宮山俊助の顔から、人懷こさうな表情が消えはらず汚なかった。しかし彼等は震災の有がたさを膽に銘じて記憶 してゐるーーー建築界の景氣が出た。高須工務所の給仕のやうな下働 ると、荻村重吉は油斷がならぬと内心警戒を呼び起すのであった。 堙草の脂で黒く染った齒をだしながら、小宮山俊助は舊友の肩に手きに使はれてゐた荻村と小宮山も相當な報酬がまはって來るやうに なった。常日頃貧乏ぐらしの人間は、偶よ金を手にすると空想化さ をかけて話しだした。 「今更君にたかれた義理合でもないんだから安心したま〈、ところれてゐた欲望にうづ / 、して來るのであった。荻村重吉はそのすさ で久しぶりだ、昔話でもしたくなって、ね。いやどうも、どうも先まじい欲望をじっと耐〈た。後日の市民生活に必要な資金を稼ぎた めようと決心したのである。それは、小生意氣な若い衆になってゐ 刻から君によく似た男だと思って、實はあとを跟けながら注意して た小宮山俊助に對象されて、この一廓の社會に美談化された。高須 ゐたんだよ」荻村重吉は露骨に眉根をしかめてみせた。「だが君、 安心したまへ、君は酒屋の主人に收まったといふが景氣はどうだ工務所と取引きしてゐた材木屋の娘に、荻村の妻ふみがゐた。彼女 と彼が仲よくなったのも、ふみの父親がそれを許したのも、「もう ね ? 今日は公休日 ? そこで一家團欒のたのしみか。いやお羨し 三百圓も貯金があるんだとさ」といふ驚嘆す・ヘき前途ある靑年に望 いことで : : : しかし今時ちっと許りの資本で商賣をはじめるなんて みがか & ってゐたからである。さびれた町内は、さびれた外景とは 愚だね」 そこまで苦笑してゐた荻村重吉は、小宮山の最後の言葉を聞くや反對に仁義を重んじてゐた。そこだけは淀み固定し、うねってゐる 都會の動きから置き忘れられた片隅で、じっとりとした故鄕の感觸 否や、ついと一足相手を離れた、それから小宮山の風體をじろ / 、 と眺めまはした。柄もの又背廣にレンコートをひっかけたその男を彼等に植ゑつけたのである。いよ / \ 「お店を持ったあきんどに
250 いた。女は素直にひきずられた。すると猛り立たうとしてゐた男のけろりとした面で雨空を見てゐた。 出て來た荻村は、しょぼっく雨の中に立ってゐる妻と子を見て、 氣力が抵抗をうしなひ、荻村は聲を落して云ふのである。「落ちつい どきんとしたやうに立ち止った。ふみは訊ねた。 て話せばわかるんだからなあ、隣近所に見つともないぢゃないか」 「どうだったの ? 當分待って貰ふことにした ? 」 ふみは首を仰向けて、夫の眼をしげ / 、と覗きこんだ。 「ううん : : : 」荻村は曖昧にうなづいて、「どうにかならあーー」 「夜が明けたら途中まで送って行ってやらあ , ーー」と荻村は云ひっ づけた。「ほら、こに塚本の内容證明が來てゐる。子供だって可と云った。「さ、お前は早く千住に行ってしまったがいをまたお 前の親爺さんがうるせえからな」 哀さうだが、大人はなほその上だ」 ふみは傘で顔をかくしながらのろ / 、と歩いた。 四 「あたい、學校、どうするんだろ ? 」健太郞はさう呟やくのであっ ふみは小さな方を背中に負ひ、健太郞の手をひいて電車の停留場たが、自動車の疾走する音にたちまちかき消されてしまった。 ゃうやく、とに角實家にもう一度行かうと決心したふみは、傘を に待ってゐた。コンクリートの道が雨に濡れて冷たく光ってゐた。 何臺かの電車が彼女逹の前を、誠に無愛想に往來した。自動車がしすぼめて男を見かへった。 「ふ、ふうをーー」と荻村は何か他のことを考へながら獨り言ちて ぶきをきって絶えす彼女等の前を疾驅した。「濡れないやうにしろ よーーー」時々彼女はさう云って子供を引きよせるやうにした。「濡ゐた。「ーーあんたは深見甚造さんの信用さ〈も殘っちゃゐない : か、大塚の高利貸めッ ! 」 れると病氣になるからな、病氣になって見ろ、いっかのお母ちゃん 荻村重吉もまた、材木屋の舅深見甚造のやうに成りあがる豫定で みたいに、また大變なもの人りだ」さうして待ってゐると、直ぐ話 をつけて來るからーーーと云った夫の荻村が次第に氣の毒になって來あった。その日 / 、の糧を得るたゞそれだけのために、精根を使ひ れつき るのだった。彼女の病氣を癒すために用立てた、高利貸塚本からの果してゐるあはれな生活を拔けだして、歴乎とした一人前の市民に 借金の云ひわけ。その當人が、今かうしてこ又に立ってゐるすぐ後なる理想であった。持ってゐるものをすべて資本にして、最大限の の横丁で、自分の夫が平身低頭してゐるかと思ふと氣が氣でなかっ智慧を絞り愼重に店舖を借り入れたのである。繁華な通に陣取る資 金はなかったし、お屋敷町に喰ひ入る餘地はなかった。細かく商っ た。夫の困窮が自分の身内に音たてて傅はって來るやうに思はれ、 て數でこなすーーーそのことを相談に行った時、舅は膝を打って賛成 彼女は健太郎の手をひき寄せて「おそいなあーーー」と呟いた。さう した。「お前の商ひはどこの家でも必ず要るものだ。その心掛けな してゴム引き合羽の中に、紫色の唇をしてゐる子の顏を覗きこみ、 らば間違ひはねえーー」と深見甚造は頷いてみせた。それがこの樣 促した。 にうまく行かなくなったのである。怠けものであっただらうか 「行って見よう、行って見ようーーお父ちゃんのところに : : : 」 そこもまた崖下の、古ぼけた家であった。金貸業といふもの曳意と荻村は自問し自答したーーーいや、一日として安閑とした思ひはな い。子供を持て餘した今になって、子供のことさへ碌々考へなかっ 想に反した小さなしもた屋であった。露地からとつつきの狹い玄閂 が開け放たれてゐた。お辭儀をしてゐる荻村の後姿を見て彼女らはた自分を發見してゐた。考 ( ると、何か自分たちとは全然かけ離れ た巨大な、目に見えぬものによって絶えす壓迫され、さうしてこの たち止った。様子をうかがふと、相手は上り框に突っ立ったまゝ、
何故かちっとして居られず聲を焦立たせるのであった。 と見透してから、女は男の側を逃げだしてしまふーー出て行く女房 「來い、健坊ーー・歸へるんだ ! 」 を勝手にしろと荻村は思った。が、いよ / 、出て行ってしまふと荻 敎室の中が一時にしーんと靜かになり、彼女は耳を眞赤にして低村重吉は自分で自分が統制出來ないやうな心許なさであった。子供 く呼びつゞけた。 まで連れて行かれてしまへば、落して行くものに取って完全に足 「來い、健太郎ーー・早く、さっさと : : : 」 が乂りをうしなふことである。さう思ふと荻村重吉はちっとしてゐ 「これはまたどうしたことですか ? 」と教師はふみに向き直ってゐ ることが出來なかった。是が非でも子供だけは手許に置かなければ た。 ならぬーーー次第に、何かさうすることによってのみ、すべての事態 「あの子はあたしの子供ですもんでーーー」ふみは一層低い聲にな が立ち直るやうに考へてしまった。彼は衝かれたやうに立ちあが り、眼を伏せて云ひっゞけた。「はい、すぐ連れてかへらねばなら り、そこらにあった下駄をひっかけ、さテして小學校に駈けつけて んことが出來ましたもんですから、何でございます。あたしもいろ來た。 いろ考へてみましたが、考へぬいた揚句のことでして : : : 」さう云 年輩の校長は、顎をなで下しながら云った。 らづくま ひながら彼女はたうとうそこに蹲ってしまった。自分にとっては 「夫婦けんくわといふものは、一夜あければ、先づ先づけろりと片 がつくもんでさあーー」 思ひつめた最善の結論であったが、今かうして他人に話さうとする と、どこからその緒口を引きだしてよいか判らないのである。みじ 親子四人は一塊りになって、裏路をえらびえらび歸って來た。見 めなものゝ連續が咽喉にこみあげて來た。今は背中の子供も身悶え知り越しの人に會ふことを、何としてでも避けたい氣持であった。 をはじめた。焦立たしさと口惜さと、さうして自分ひとりに苦しみしかし、ごみ / \ した街は人通りが絶えるわけではなかった。「や がのしかゝって來てゐると考へた時の腹立たしさに、彼女はきっとあーーー」と聲をかけられる度に荻村重吉は、聲の方を見向かうとも 顔をあげた。驚いたまゝ。ほかんと自分を見てゐる健太郞が急に憎ら しないでペこんと頭を低げた。ふみもまた俯向いたま又決して顔を しくなって來た。 あげなかった。彼等は彼等の必要な話を一言も交さないで歩いた。 いくつかの小路を折れて、少しばかり賑やかな二間道路に出るとも 「健坊ーーーさあ」と彼女は叫んだ。「さっさと來るんだ ! 」 けれどもその時そこには、先刻の橫柄さうな使丁が先づ現はれう半分は小走りになってゐた。どぶ板をふんで、家と家の合間に辛 うじて通じてゐる裏口に拔ける路に、眞っ先に健太郎が驅けこん て、感慨ぶかげに首をかしげた校長が立ってゐた。 それからっゞいて荻村重吉が思ひ切ったやうにはいって來た。彼だ。ふみは身體を斜向きにして背中の子供を板壁に二三度ぶつつけ は蹲ってゐる女房を睨みつけ押し殺すやうな聲で云った。 た。最後に荻村重吉が、その狹い隙間を自分の身體で堰をするやう 物「この耻さらしめッ ! 」 にしながら潜って來た。 の 裏口をびしやりと後向きに閉めきった荻村重吉は、まだ臺所の板 敷で、やっと背中の猛をおろしたふみを眞向ふから睨みつけてゐ た。氣配に脅えた猛が茶の間にあとずさりしてゐた。 「馬鹿な女だな、え」と荻村は云った。「よくもあんな所まで耻を 四方八方から詰め寄る重苦しいものにあやふく挫けかけるとき、 女房はそれの突っかへ棒になってゐた。それがもう到底防ぎきれぬ
なる」といふことを彼等は祝幅した。荻村重吉はふみと夫婦にな と小宮山は投げだすやうに云った。 り、舅の材木屋から五百圓の資金を融通させて「故鄕」を出た。遙「蓮なんてもなあわれノ \ の處には、金輪際ころげこまねえよ」 かに距った と彼等は思ったーーー山の手の、しかしその裏通の、 「そいつを轉げ込ましたらどんなもんだね」 凹んた街に酒屋を開業した。 小官山は揉手をしてさう嘯きながら、ちらっと荻村の顔を覗い 「今時俺たちが逆立ちしたって、うだっはあがりつこないよ。うだ た。ちゃうど荻村がさしだした・ハットにお辭儀をして、一本・ハ つをあげるには、一か八 かってな」小宮山俊助は荻村の變化を を拔きたしてから自分でマッチを擦った。それから燃えてゐる軸木 見てもうあけすけになってゐた。二人は並んで人混みの中を歩きだをばっと投げ棄て「ちょっ、この火でもよ、お前 」と云った。 した。「俺は毎日かうして淺草で暇を潰してゐるんさ。そのうちに 」と何かに激突したやうな表情で荻村は小宮山を見 何かうまい儲け口を見つけるかも知れん。儲けと云へばお前、聞い かへるのだった。 たか ? 河原三造の話をよ」小宮山はさう云ひ乍らべンチに腰をお 「さうーー。いかにも、火、火だ」さう云って小宮山はすっくりと立 ・ , にある。 ろした。「よう、これが君の第二世か ? 二人とも利巧さうな顔をちあがり「保險 : 運がころげ しとるぢゃないか、なかなか美男子だなーーーと、さあ、こ、い掛け こんだとしたら : : : それ、君も知ってゐる河原三造の話だ。 なよ、風があたらんから。いや、商賣も毎日公休日ちゃあおしまひと、さて、食堂で何か食ふとするかーーー」 だ。ところで俺も全く尾羽うち枯らしてこの有様だ、高須が潰れた 子供の椅子にちょこなんと生らせられた猛は、てつか卷を指で握 のは當り前だが、會計係の俺がちょいと遣ひこんだといふ寸法だ。 りしめてゐた。その横に腰かけた健太郞は度々胸を伸びあがらせた。 お蔭で、喰ったよ、しばらく、だがね」 彼はさうしててつか卷をむらさきに浸しながら、向ひ合った大人の 荻村市吉は蹐せた顏を硬直させて、思はず腰を浮しながら叫ん會話を小耳に挾むのであった。父親の關心が知らぬ小父さんにばか り集中することは子供にとって淋しく不平であった。ト / さな子は直 「喰ったあ ? 」 ぐそれを動作にだして、空いた方の掌を冷たい陶器の卓にた又きっ 小宮山は首をすくめた。眼尻に妙な小皺をた、んで一瞬鳶色の瞳けた。その度に荻村はちょっと振りかへって子供に愛想を云った。 を相手に釘づけたが、直ぐそれをくづして「まあ、生れーー・」と云けれども今はもう彼の心を、小宮山俊助の話が完全に占領してゐ った。 た。晝食時はとっくに過ぎてゐたが、この廣い食堂には雜多な人間 「何もそんなものノ . 、しい恰好をしなくたってい、ちゃないか。こ がごった返してゐた。呼吸ぐるしい日々の生活に追ひつめられてゐ 語んなことは常識だね。大哭裟にやらかす政治家なんてものはなかなる巷の人々が、たま / \ の淺草遊びに、百貨店の食堂に坐るといふ : ねえが、 ・ : には容赦はねえ。勤儉力行の手こと、これは一帶の下層生活者に樂しい優越感を味は、せるのであ 火本みてえなお前も左前だと聞いて、俺はつくん、 考へたね。どうった。彼等は見え透いた鷹揚さで料理を運ばせ、次から次へと喋り たいことが斷えなかった。それ故食堂は、何か耳を聾するやうな騷 4 「何が一口だ ? 」 音に滿ちてゐた。その肉聲の混合の中に、小宮山俊助のいくらか潰 「ころげこむがあったらーーちふわけさ」 れた聲が吐き出されてゐた。 ーーー高須工務所の二階から見すかされ 「火い ? 、っそふ
動車をやり過すために、まだ線路の向ふ側に立ちどまってゐる父親にとって物の數でもなかった。遊場の間に殊更くねらかしてつく を、もどかしきうに手をふって引きよせるのであった。彼等は上野った路に、大人や子供や男や女が河をなして流れ動いてゐるのであ った。隅田川が一入蒼く見おろされた。白いコンクリートの舗道か から地下鐵に乘った。仲店を往復してから荻村重吉は健太郞に云っ ひろ らゴー ・ストップに整理された自動車の一群が濶い橋の上にさしか 「活動なんてみると、先生に叱られるなあ、なあ健坊ーー・」子供はかる。疾走する車體は橋桁に切断されてちらっき、そして一齊に河 向ふの街に消えて行くのであった。一眸にはいる河向ふの街には、 それに對して別に何とも反對しなかった。彼は父親の着物を片手で いつの間に新裝道路が折目をつけてしまったのか・ーー・おそらくは自 掴まへるやうにして人混みの中をくぐり拔けながら踉いて歩い 「松屋にあがって見るか ? なあ健坊ーー面白いぞ」父親はきう云動車のタイヤに磨かれたであらう舖道のコンクリがところみ、陽光 を白く反射し、絲をひいたやうな電車線路が不透明な都會の空氣に ふだけで子供の同意を得たものと思ふのである。子供もまた自分の 意志は捨て、ゐを財布を持ってゐるもの乂考へがすべてを處理すとけ込んでゐる。勝手氣まゝに大小きまん \ の煙突が煙と埃を吐き だしてゐる一帶の下町ーーーさうして汚れた空氣は強第に遠ざかって べきものと念してゐた。 いよ / 、不透明に、やがて街と空が灰白色の空氣にぼかされ、これ 松屋の階段は金具がびか / 、光ってゐた。絢爛とした店舖にはな かあれかといふ區別を見せまいとするかのやうであった。街そのも るべく眼を避けるやうにして荻村重吉は上へ上へと登って行った。 腕に抱いた猛に、子供の言葉でお天氣のことを話した。をどり場をのには何の焦燥もないやうに見えた。网田川の蒸汽船は相變らず波 蹴たてゝ上下し、傳馬船は岸をえらんでゆる / 、と棹さ長れ、た 曲る毎に健太郎を見下して大きな聲で注意した。 くさんの橋は永劫身じろぎをしないやうにどっしり腰をすゑてゐ 「まひ兒になんな、よ、健坊ーー」 最上階の遊戲場に辿り着いた荻村重吉は、癪をたよきつける遊た。 器の前でむつつり立ち止った。「どら、坊主ーーこと彼は猛を床「お父うちゃん」と健太郞が袖をひつばった。 「あすばうよ、遊んでもい ? 」 におろした。さうして突然、傲然と構へこんだ人形の腦天をぐわん 荻村重吉はくるりと向き直った。 と毆りつけたのである。人形はぐらんと搖れ、またによっきり立ち 「今日は日曜ーーーぢゃなかったな ? 」 : 」と叫んだ。 あがって平然と荻村を見てゐた。荻村は「野郎ッ 健太郞はそれに答へて云った いきなりそのものを捻ぢ伏をたい衝動に憑かれた。傍にゐた健太郎 「ずゐぶん遊んでゐる人がゐるんだね」 が悲鳴をあげて、父親の腰にまつはりついた。小さな子が尻餅をつ 荻村重吉は人混を掻きわけだした。百貨店の屋上の、そこで一番 語いて泣き喚いた。衆人環視の中であった。それに氣づくと荻村重吉 たかい飛行船型のゴンドラに乘ってみようと思った。裏板のない危 はみじめなほど赤くなった。彼は泣き喚く猛をきっと抱きあげ、 の なっかしい鐵梯子を登りつめたところから、對になった向側の櫓に 火「健、來い ! 」と兄の方に言葉を投げかけ、逃げるやうにしてそこ を涌り找けた 鐵索を張り、ゴンドフはそれを傅って泳ぎだすのであった。ゴンド 屋上には、白っぽい春先の陽光が滿ちて、冷たい風が音を立てなラの窓からは東京全市が見くだされる。地上からこんなに妻まじく がら吹きぬけてゐをしかし風の冷たさなどはそこに蝟集した人間高くはなれてしまふと、見下すどちやごちゃした低い屋根が慘めに
懸崖まで追ひ詰められたやうに思はれるのであった。法外な權利金 と荻村重吉は手を突いて口説いたのである。「ロで三百といや といふもの、五つの敷金、さまみ \ の設備費。舅から引きだした資あ何でもないが、こちとら風情に取っちや大金だ。金輪際迷わくは 金をそっくり手づけにして仕入れた商品、こもかぶりやはだかの陳掛けねえと誓約出來るか ? 」さう駄目を押された荻村重吉は、疊に 列、開店披露、特賣デーのおひろめ宣傳、得意まはりの卑屈なお世額を擦りつけてゐた。何でも彼でも得意を殖すことだ。さうしてそ 辭から他店に對するそれの爭奪戦、夜になっても休む閑はなかっ の努力が谷あひのやうな街の、低くなった方面にばかり深入りして た。たまを入れたり、樽をうっしたり、 問屋にかけ合ったり、さう しまったのである。そこでは、取りたいにも取るべきものが何一つ して傳票を調べてしまふと深夜になってゐた。それだけ働いても足なかった。が、自分のふところからは、食ふこと又税金と金利とが らなかったのである。店を張り生きて行くためには他人のことを考容赦なく控ぎ取られて行った。何ものとも知れぬ強じんな網が彼の へてゐる餘裕はなかった。幾多の競爭店に打ち捷っ爲には、賣値を 咽喉にからまってゐた。その重苦しさのなかで、やっと切ない呼吸 墮して品質をあげねばならなかった。目に見える原價喰ひこみさへをしてゐた時、その時ふみがどっと倒れたのである。過勞が腹膜を 後日のためとして耐へ忍んだ。そんな苦しさの中で猶ほ間屋の信用化膿させた。不思議に助かったと思って店に歸ったが、先づその隙 を繋ぐためには、金ーーー金だ、彼等は最少限度を計算した。お得意に同業者が意趣睛し的に目星しい得意をさらってしまってゐた。問 まはりの一日賣あげが十五圓、店賣が五圓、計二十圓、月六百圓と屋が入荷を拒んだ。電燈會瓧は送電を停止してしまった。家屋は家 してその中未回收をおよそ五割に見積り、一月の收人三百八十圓内賃の督促ではなく今は立ち退きを強要して來た。近所合壁が背中を 外。問屋の支拂ひを三百圓と見て殘額八十圓。その金でもって第一向けた。連帶保證の苦しさに業を煮した舅が、妻と子を拉し去った に家賃、食ひ扶持、ガス、電氣、税金、修理費、雜費 : : : さうして まだ金利が不足してゐる。土地の酒商組合の規約を無視して公休日 荻村重吉は、げそっとして眼をさました。さうしてまた店に匐ひ をやめた。特賣デーを一日殖してチンドン屋に景氣をつけさせた。 だし、賣れ殘りの酒を冷のまゝ桝口からあふってゐた。 案の定、同業組合の役員が佛頂面をして乘りこんで來た。規約を楯 その日の正午すぎに、今時珍らしい人力車が荻村酒店の前に停っ に云ひがりをつけだした。相手に云ふだけ云はしてから荻村重吉 た。中から太った洋服の男が出て來た。彼は手に持った書類と、そ は答へた。「あんた方はそれでいだらうが、こっちはそれちゃ遣 の家の標札を見較べた。それから硝子戸を開けるとばっとカーテン りきれません。そんなに考へがちがふなら、よろしいーーーうちはう を撥ね退け、づか / \ と店にはいって來た。執逹吏であった。債權 ち流にやります。話はよく判りました。左様 たかい組合費を拂者はその瞬間から、あの底知れぬ不氣味な姿で・ 語って商賣の邪魔だてされるなら、それでは今日今から、きつばりと : ものと、全く一しょになってゐたのである。何故か荻村は、そ 物組合を脱けさせて貰ひませうーー」 れには到底勝てまいものゝゃうに立竦んだま・ゝ眺めてゐた。身體が 火何十年か前にさう云ふ意氣ごみで商賣をはじめた筈の深見甚造しぼまったやうに彼は默然とそこに蹲った。さうして日暮になっ は、婿がこの話をいきほひ込んで持って來たとき、顏をしかめ、舌た。そして遂に來たーーー米濟の資金三百圓に對する連帶保證人強制 打ちさへしてみせた。っゞいて三百圓の借金の保證を云ひだすと、 執行の威嚇だ。動巓した深見甚造は千住から圓タクをぶっとばし、 彼は明らかに「いやなこった」と云った。その金で一押し押せば呼吸せききって荻村重吉の前に現はれた。彼はそこにぼつねんと坐
して歩いて行くのであった。荻村重吉は、それらの人々とともに俯 ってゐた男の胸倉を、いきなりんで搖ぶった。生命と同等くらゐ 2 に大切な自分の私有物權を、この馬鹿面をした男が脅やかしてゐる向いて歩いた。氣がついた時には職業紹介所の煤ぼけた建物の前に のだ ゐた。商賣の時の顔見知りが、ここでは何彼と話しかけて來た。 さう思ったとき深見甚造は、相手を捻ち伏せてもまだ足ら ぬ、何かかう、にえくりかへる憎しみに湧き立ってゐた。荻村重吉「酒屋の大將、お前さんもたうとうお出でなすったね」と一人が云 なり った、「しかし何だぜ、そんなぞろっとした服裝で、下駄履きなん は暫らくとづきまはされてゐるうちに、舅の浴せる罵詈雜言を聞き わけることが出來た。彼は次第に顏を充血させ、やがてすっくと立かしてゐちゃあ、百日待ってもものにゃならねえぜ」 「いや、なに : : : 」と荻村は云った。「淺草の問屋までだがね、何 ちあがった。「うるぜえ ? 」と彼は舅の腕を拂った。 「よろしい、わかったーーー」と荻村重吉は云った。「いかにもそのしろ貧乏ひまなしだ」 さうして事實彼はまた淺草に來てしまってゐた。仲見世を找けて 期日までに所用の金をつくりまぜう」 松屋を見あげたが、まだ開場してゐなかった。彼は引きかへして六 深見甚造は吃りながら聞きかへした。 區を通り拔け吉原の方に向って歩いた。嫖客を粧ふつもりであった 「ど、どうして : : : どこで、そのうちーーー」 がこれは道が反對だと思って附近の飯屋に寄った。一箸つけただけ 「假處分解除の金ぐらゐーー」さう云ひながら荻村重吉はくるりと で飯屋を出た。それから吾妻橋の上に立って大川を覗きこんだ。水 尻をまくってそこに坐りこんだ。「おい、お父つあん、お前さんは、 俺の女房子供を人質にとったと云ふわけだね。萬止むを得なきやは濁って、波のうねりが粘って見えた。さっさとそこを通りぬける あーー」彼はそこで何か云ひださうとする舅を突きとばすやうに我と、バスが走ってゐた。・ハスの停留所に突っ立って何故か三臺目の やつにとびのり、再び逆もどりして雷門に來た。それから傍目もふ 鳴った。 らす隅田公園にはいった。汽笛ゃべルが何度となく彼を脅やかし 「女房の身體をた、き賣るまでだ。かうーーーふみは昔あお前さんの 娘だったか知らねえが、今ちゃあ立派に俺の女房だ。文句はあるめた。べンチは澤山あったがどこにも腰を落ちつける場所は見つから えさーーーそれとも : : : 」彼は二三度瞬たきをして、「ようーーー」となかった。路といふ路がいやに短かくて、すぐ行き詰りになった。 彼は方向をかへた。するとそこにもう商賣に來たらしいーー或は昨 ・、千圓 云った。「今夜にでも火事 : : するかーー」彼はもう落夜からこの邊にうろついてゐたのかーー・乞食の母と子がゐた。乞食 とも限らねえんだ。どれ : ちついて立ちあがることが出來た。「さ、お父つあん、判ったらさの子供は鼻汁をなめながらひとりで遊んでゐた。土の上に指をひろ げて輪を描き、それに何か意味をもたせてゐるらしかった。荻村重 っさと引き取んなすって : : : 」 吉は暫らくそれを見てゐたが、ちゃうどその時どこか工場の汽笛が 翌朝荻村重吉は、夜が明けるや否やこの家を出た。通にぼつぼっ 影のやうに、人が歩いてゐた。見知り・こしの男が聲をかけた。「や隝ったので、びくりとしながら、またそのびくついたことに脅え て、ぢっとーー左右を見まはした。その時こちらを見てゐた背廣の あ、酒屋の大將、えらい早いことですなあーーー」「いや、なにーー」 と彼はロの中で呟いて立ち止った。さうして空を仰いだ。曇り空の男が、「おい ! 」と呼んだ。彼は自分でも呆れる程どきっとして、 いきなり駈けだした。いくらも駈けないうちに彼は肩をまれてし いたいやうな空氣であった。こんなに朝早く、凹んだこの街から まった。 は、いろ / 、な恰好をした男が何か怒ってでもゐるやうにむつつり
が一圖に荻村重吉をつき動かした。意地と義理で踏みこたへてゐた 錢白銅貨を握りしめてこの坂をせか / \ とのぼって來る。さうして その意氣張りがへた / \ と崩れて、今はどうともなれと思った。も 受付けの窓口に預り料をこつんと置き、わが子の名前をたからかに 呼ぶのであった。・ハラ - ック建ての家屋をつきぬいて女の聲はひびき一度女がこの空所を埋めて呉れたならば、それだけ凡てのことが好 渡り、群れからとびだしたかさぶただらけの子供が廊下を一散に駈轉するとも思はれだした。荻村重吉は咽喉ぼとけをごくりとさせて 「泣くな坊主 , ーーなあ : : : 」と云った。「そんなにむづかるなら、も けだして來た。「お又・ ・ : 」と母親は胸の中に子供を抱きすくめ、 う一ペんだけお爺ちゃんとこい行って、賴んで見るとしようか、せ 一日堰かれてゐた愛情をもって、子供の頸筋をかじるやうな唸り聲 めては子供だけでもなあーーー」すっかり暗くなってから彼等は電車 を立てた。さうして二十疊敷ほどの遊び場に群れてゐた子供は、一 人減り二人減り、電燈がはいる頃は四五人になってしまった。彼等に乘りこんだ。父親の沈うつな腕に抱かれた猛は、動く電車にさへ はあそぶ勇氣をうしなった。窓に倚りかゝって蒼然と暮れかゝる坂少しも機嫌を直さなかった。健太郎は父親の動くま又に陰のやうに ついてまはった。持て餘し氣味の荻村は、ぼんやり中央の昇降口を 路を見つめてゐる。玄關に人の氣配がするーー子供の眼は虚空をに そばだ らみ耳だけが聳立ってゐた。一聲洩れるーー・と實に敏感に親の聲音見てゐた。がらんとした車内に、白い埃が何度となく蜷きこんで來 た。長い電車であったが着いてみると餘りにも短かかった。電燈の を聞き分け、子供の一人はまっしぐらに廊下に消えた。そのやうに あかるい表の店先からはいる勇氣のない荻村は、惡いことでもする して、たうとう一人ーー保姆はもう話すこともなくなり無言のま ものゝゃうにこっそり裏木戸をあけた。臺所の磨硝子戸から光が洩 子供と顏を見合はせてゐた。すると子供の顏は次第に淋しげに曇り やがて間もなくぼろりと涙が滴る。「あゝ強い子、強い子 : ・ : 泣かれてゐた。その戸の前に突っ立った荻村重吉には、ちゃうど自分の ないわねえ、坊や。泣くのはチャンコロチャンノ \ 坊主、日本男子眼のたかさにある素通しの硝子戸から、内部が見えるのであった。 はわっはつは、わっはつは : : : 」保姆はさう云って無理なおどけた白い割烹着をつけたふみが茶碗を洗ってゐた。彼女はふと戸の外に 眞似を見せる。子供は聲ではあ、はあと笑ひ乍ら、眼からは一層は人間の氣配を感じたらしく顔をあげた。さうして叫んだ。 「まあーーー」 げしく涙をこぼしてゐた。 がたっと硝子戸に手をかけたが、彼女はそれを開けるのを止め 荻村重吉はその部屋の前に立った。は保姆の手を突きのけてそ た。そして何故か急に顔を奧の方に向けてあわたゞしく呼ばった。 のものに駈けよらうとした。幼いもの長脚が彼の感情の通りに動い ては呉れなかった。猛は疊の上に轉んだ。轉んでしまってから、今「とうさん、父さん、ちょっと ! 」あとは息をはずませた金切聲に はもう誰に遠慮をする必要もなく大聲に泣くことが出來たのであつなってゐた。「荻村が來ました、よう ! 父さん ! 」 女のその聲は喜びであったか呪ひであったか、荻村には判斷がっ かなかった。たゞ彼はその叫びを聞き終へた時、「失敗った ! 」と ゐるべき妻のゐない家の中で、父親の腕に抱かれた子供はむづか 思ったが、既にそれはもう遲かった。がらっと臺所の硝子戸をひき りを止めなかった。健太郞も瞳を濕ましてぼんやりしてゐた。そこ しきゐ にはひどく大きな空ん洞があった。子供たちの母親、さうして荻村あけて、舅の深見甚造が閾の上に立ちはだかってゐた。晩酌で頭の 芯まで赭くしてゐた舅は意地惡さうににた / 、してゐた。 にとっては妻ーー・十年の間生活を倶にして來てゐたものが、遠のい 「噂をすれば影とやらでな、今もお前さんが泣き面をかゝへて現は てしまった瞬間、身體が捻れるやうな愛着が湧くのであった。未練
れる頃ぢやらうと、話しよった所だった」 彼女は彼からなるべく離れて坐った。夜風に上氣した頬が赤らん 吐きだすやうにさう云った深見甚造が、荻村とふみの間を完全に でゐた。彼女は暫らくさうして坐り、急いだために荒立った呼吸を 遮斷してしまった。彼は厚い唇をなめづりながら、更につゞけた。 鎭めるのであった。それから話しだした。 「お他人様の前でまともに面も會はせられないやうな人間には、な 「お父つあんは、あたし逹のことを心配すればこそ、あんなきつい あ、成りさがりたくねえもんだ。わしはかう見えても、つまり江戸ことを云ふんだよ。赤の他人ならこんな破目になったら見向きもし っ子でな、男の顔を惜しまねえものは人間と思っちゃゐねえ。そこやしないー いらに佇んでゐるものが人間ならば ( と彼は喚いた、優越を意識し 「ふん ! 」と荻村重吉は向き直った。 たものが相手を思ひきり蔑む口調であった ) ーー面をあげて見ろ。 「ね、あたしだって辛いんだよ。あたしあ昨夜夢を見てね、お得意 深見甚造さまはな、鳶一本に、この腕一本で、こ又まで男をあげた が五十軒になったら小僧を傭ふって云ってた頃さ。あんたが新しい んだ。手前の云ひ分は無理無態でも、俺の云ひ分には間違ひは無半纒を風にひら / ( 、させて、びか / 、光る自轉車で、すうっと店に え。五百圓の生きた金を融通してやったのは一體誰だ ? 昨日や一乘りつけたちゃないの、おいーーーとあんたがあたしを呼んだもん 昨日の話たあちがひますぜ。かう云ふ深見甚造を保證人に泣き落し さ、今日もまた二軒ふえたぜ、品がよくて安いとなりあ誰だって喜 たあとの三百兩はどうしたんだ ? お禮にお前は執逹吏をさし向け ばあね、しつかりやらうね、なあに今に見ろーーーとあんたは云っ るといふ寸法か ? ゃい、面をあげろ、面を ! どうでも欲しいと た、云ったんだけれど、ねえ : : : 」 云った女房が病氣したーーー入院費が無えーー助けると思ってお父っ 「つまんない夢を見たもんだな。そいで ? 」 あん : : : と手を突いたのはどの男だった。日歩十五錢の金が今頃ど 「そいであんた、掛賣の整理がっきあどうにかなるんだらう ? そ こに轉ってると思ってやがるんだ。掛け賣金の回收が出來ねえ いでね、あんた、子供がゐちゃあ働けまいから、あたしーーー」ふみ それが今日のあきんどか ? よう、これ、女房が、か〈して貰ひたはそこで視線を外らし、あとは一氣に云った。 くば、表の方から三つ指ついて現はれろ」 「子供を連れに來たんだけど : : : 」 荻村重吉は眼を血走らせて歸って來た。寒い夜更けの風が低まっ 荻村重吉は、坐り直してきつばり答へた。 た街を吹きあれてゐた。むづかり疲れた猛は腕の中で睡ってしまっ 「子供は何度云っても俺の子だ」 た。おづ / \ した健太郞は、父親の帶を捉へて離さなかった。臺所 女は目の擦りきれた疊を平手でばた / 、、とたたいた。 の鍵をこっそり外して家の中にはいった。電燈をひねって默ったま 「い又や、子供はあたしのものだ」 ま蒲團を敷いた。二人の子供を蒲團の中に入れ、さうしてそこにど 「だったらどうだといふんだ ? 」 物つかり腰をおろすと、荻村重吉はぶるっと身ぶるひをした。火鉢を 「いゝや、あたしの子供だ」ふみはさう叫びながら膝を立て又蒲團 の 掻きまはして煙草を一服喫ひつけた。それから部屋の隅に積みあげににじり寄った。「これ、健太郞ーー・猛ーー、起きてみな、あたしに てある帳簿をぼんやり眺めてゐた。 つくかあんたにつくか、子供に聞いてみればわかるんだ、これ、健 そこへ思ひがけなく、女房のふみが裏口からはいって來たのであ坊、ーーーたけし : : : 」 「つまらん眞似を , ーー」荻村は腕をのばして女の襟がみをぐいと引
おとな きらしに行きやがった」ロは温順しく出ながら、外方を向いて相手な、お前は傑え子だとよ、先生が今日も賞めてたつけよ。淺草い迚 2 になることを拒んだやうな女を見ると、荻村はむか / \ として來れてってやるぞ。淺草い。」 た。彼の腕が勝手にとびだしたやうに女の頬桁を毆ってゐた。ふみ 「あ、さ、く、さ」途切れノ \ にさう云って健太郞は向き直るので は、ぎあっ ! といふやうな悲鳴をあげてのけぞり、ガスこんろをあった。くすんだ家の中に押しこめられたやうな子供の心に、その ひっくりかへした。 一つの言葉がぼっかりと明るい窓をひらいたらしかった。健太郞は 「きあ、さあ、貴様のやうな女は勝手なところに出て行ってくれ」朖を輝かせ、ロをすぼめて父親の機嫌にすねるやうな口調をだし ふみは血の氣のうせた頬をびくノ、痙攣させて、ふいと後向きにた。 なり、腕を子供にのばすのであった。 「ね、お父うちゃん、今日ぢや駄目 ? 」 「さあ、坊、出て行きますよ、さあーー」さう云って落ちつかう落「さうよなあ、今日はなあーーー」 ちつかうとしながら胸がにえくりかへってゐた。竦んだま又まるく 「そしたらあたい、猛のお守なんか毎日してやらあ。うん、ほんと なってゐる猛のえりがみにつかみか又った。それから顏は茶の間にだよ」子供は沈みきった父親の考へを奮ひ立たせるために勢よく立 向ひ長男を呼んでゐた。 ちあがり、力をこめて附け足した。 「健太郞ーーさあ、行くんだよ」 「ほんとだとも ! 」 「子供は置いて行くんだ」荻村重吉は冷たくきう命令した。彼は裏 都會の下層に育った人間は何かにつけてすぐ反射的に淺草を憶ひ をり ロの戸をがらっと開け、そこを顎で示して「さあーーこと云った。 だすのであった。それは庶民の胸にたまった凝のやうなものを吐き 出すところであるらしかった。うれしいにつけ哀しいにつけ彼等 「さあさあ、勝手に出て行ったがい乂」 冷たい風がさっと吹きあげて來た。ふみの赤茶けた髮毛が血の氣は、なけなしの財布をはたいて淺草に駈けつける。何時行ってみて のない顔にみだれか又った。彼女は棒立ちになって凝然と男の顔を もそこには歡樂が渦卷いてゐるやうに思はれた。よろこびは二重に 見つめてゐた。やがて彼女は帶の間に兩手をつき立てゝ俯向いた。 大きくなり、哀しみは消しとんで何か新たな力を呼び起した。日々 さうして裏口を出た。荻村重吉は、溝のつぶれた裏戸をしめるのに の生活から押しつぶされさうな人間がそこを一まはりしてゐるうち 長いことか又ってゐた。 に急に淸々しくなり、きうして迫って來るものに自己を適應させる けれども、わっと泣きだした子供逹はどうして貰ひたかったのか べくいきほひづけるーー・荻村重吉は小さい子を抱きあげて云った。 暫くして彼は云った。 「ようし、さあ坊主・ーー草い行かう、淺草ヘーーチンチンゴ 1 ゴ 「健坊ーーー腹がヘりやしねえか ? 」 、電車に乘ってププ : : : プウ、プウーーーってな」 「あたい ? あたいそれよか學校に行きてえなあーーー・」 外は空っ風が埃をまきあげてゐた。一廓ーーー彼等の住みなれた凹 「あゝ、明日からまた行くーーんだ。今日はな、今日は先生に斷つんだ街を通り拔けて、山の手の閑散とした電車通りに出た。學帽を えれ て來たから休んでもいゝんだ。お前傑え子だからお父ちゃんがうま眼深かにかぶった健太郞は、大人ぶった恰好で兩手を半ズボンのポ いもの食はしてやるぞ。腹が出來たら猛坊と遊んでるんだな。お父ケットに突っこんでゐた。彼は常に父親の二三間先を駈けてゐた。 ちゃんはお得意まはりしてよ、お金をうんとこさ儲けて來るからな。 さうして吹きさらしの安全地帶に突っ立ち、折から疾走して來る自