31 梟 ってからの六兵衞の變り方は眼をみはらせるものがあった。葬式に ときも、自身錠をはづして桝代りの朱塗りの椀で一つ二つとかぞ 手傳ひにいった後家のお峰は、遠方から弔ひに來た泊り客が去った へ、お峰自身には手も觸れさせなかった。當分の間お峰が六兵衞の あとも引き續いて女手のない六兵衞のもとに手傅ひにいってゐた扶養をうけてゐたことは爭はれぬところであったが、それかといっ が、そのうちに六兵衞には町の手俾ひ女にあるいてゐる四十後家をて六兵衞は金となるとたとへ白銅一枚でも容易に財布の紐をゆるめ 貰ふといふ話が持ちあがった。ところが見合のときにその女が跛でることをしなかった。ところでお峰はランプの石油を買ふ金にもこ あることに氣がついたので、六兵衞は仲人の源兵衞の耳にそっとロ まって、六兵衞が山の見廻りに出かけたあと、佛壇の房婆さんの位 を寄せて女がどんな恰好で歩くか庭を歩かせて見ることを提議した牌のかげにかくしてある錢箱のなかから、銀貨を一枚掠めとったこ ことが、その女をすっかり怒らせてしまひ、その後六兵衞はちょい とを知った六兵衞は、藏に火がついたやうにあわててお峰の小屋に ちょい町へ出かけていって話をむし返さうとしたがうまくゆかなか かけつけ、毛をった鷄の首そっくりの首をのばしながら、泥棒泥 った。さうかうするうちにぶつつりその縁談が沙汰やみになったの棒と叫び立て、金盜んだものは警察へ行かねばならねえ、とお峰の も、お峰といふ新しい相手が出來たためであった。しかしお峰を家腕をひつばるといふ騷ぎ方をした。その夜、源治は若勢仲間から借 にひき入れはしなかったし、事はきはめて用心深く内證に行はれた りて來た娯樂雜誌を讀んでゐるうち、いつの間にか豆ランプをつけ ので、作男の源治でさへ、ある日野良からひょっこり鎌をとりに戻たまゝ眠りこけてゐるのを、六兵衞の怒り聲に呼びさまされた って來たとき上りがまちで行はれてゐるただならぬ様子を見、はじ が、この油の高い時節に、油をただ燃やす氣か、この穀つぶし、と めて事の意外におどろいたほどで、そのとき源治は腰の曲った六兵六兵衞はぶりぶりして喚めき散らしながら、豆ランプの灯を吹きけ 衞のどこにそんな元氣がひそんでゐるのか、張りとばされた様な幻すのであった。その様子ではどうやら晝間の六兵衞の仕打ちをうら 惑を感じた。上氣した横顔をちらと見せて、お峰が泥棒猫のやうにんでお峰が締出しを食はせたらしかった。 自家にかけ去ったあと、六兵衞は臆面もなくづかづかと源治の方へ こんな次第であるからお峰が六兵衞を避けるやうになり與吉とね 立ちあらはれて、このことを絶對に言ひふらさないこと、若し口外んごろになったとしても別段とがめるわけにはいかない。お峰がお すれば源治の兄の田地をとりあげるとおどしながら、腰の手拭をは産をする前からねん・ころになってゐた六兵衞が、産月に近づいて一 づして矢鱈に乾物じみた顔を小摺った。 時お峰を避けるやうになったのは、要するに産婆の費用を出したく それ以來、日が暮れ又ば寢てしまふ習慣の源治は、寢床に入ると ないためであるらしかった。取り上げ婆さんを傭ふ餘裕もないお峰 間もなく、六兵衞が出てゆくけはひがするあとを追ひかけて見屆けは天井につるした繩に取りすがって子を生み落すといふ始末であっ たが、ある夜など、お峰の小屋に先客があるらしく、六兵衞は歸り たが、やがてお峰が死兒の葬ひをすませ南瓜の尻のやうな黄靑い頬 おくれた猫のやうに小屋のまはりをうろっき廻り、羽目板に耳を寄が生氣をとりもどすころになると、六兵衞は早速呼びつけて煮炊き をさせるといふ現金さであった。その上その場であらぬ振舞に及ん せたり、のび上ったりしてゐるのを見て、年寄りのしつこい妄念に ぞっと背筋が寒氣立った。米箱は房婆さんの在世中もさうであっただので、お峰はかっとなって米俵でもかつぎ上げるやうな勢ひで枯 ゃうに南京錠がかけてあり、それ以來お峰に食ふ米の心配だけはされ切った六兵衞のからだを輕々とか乂へ込んで置いて、思ひきり突 きとばしたので、六兵衞は一とたまりもなく土間に轉げ落ちて尻餅 ぜなかったといっても、自分の飯を炊かせるときもお峰に米をやる
0 3 た。六兵衞の家から三丁も離れてゐる路傍に轉がってゐたその丸太町の工場から戻って來ると、まだ宵のうちといふのにかたく戸をお が六兵衞のものであるといふことは信じられなかったが、六兵衞はろして、いくら呼んでも開けなかった。嫁も亭主に情婦が出來たも それは自分の山の杉を伐り出した際運搬にあたってそこに取り落しのと吹きこまぜられてゐるところから、どうにも手がつけられない たものであるといふことを確信をもって言ひ張った。六兵衞が杉を といふ始末であった。養子が代る度に六兵衞の身代はふえるのだと 伐り出したのはもう六年も前のことであったので、その自信たつぶ いはれ、これまで、五人も六人も入れ代った養子の血の出る様な働 りな態度は、いよいよ不思議きはまるものに見えて來たが、しかも きで、六兵衞は懷手で . 資産をふとらしたことは言ふまでもなく、そ かす 六兵衞は自分は丸太が一本足りないのを六年前のそのときから氣が のために養子を人れてしぼり糟にして追ひ出すのだといはれるのに ついてゐたのだと主張した。それは事實であったらう。しかしそのは、また外に見逃せない理由があった。 六年前の丸太と昨日道路に轉がってゐた丸太とどうしてどんな關係 岩手の鑛山に十年以上も坑夫をしてゐた甥の淸太が落盤の怪我が があるかといふことについては六兵衞は一言も説明を加へなかった もとで死んだとき、山から再三返信料つきの電報が來たのに、六兵 し、却って相手の運搬夫に對して、役場の敷地に積んだ丸太のうち衞は行きもしなければ弔電一本打ちもしなかった。淸太の從弟の富 一本だけが、そんなところに轉がって來るわけがないではないかと治は汽車賃をかけてわざわざ淸太の妻子の引きとり方を交渉にやっ 逆襲してはばからなかった。事實は珍らしく町からやって來たト一フ て來たが、六兵衞はそれをもすげなく斷った。やむなく富治は一人 ックが路傍に尻をおとして動かなくなったために、人夫たちが丸太で葬式萬端を片づけ淸太の女房の梅野と二人の子供を自分の坑夫長 を持ち出して來てそのまゝ棄てていったのであったが、六兵衞はそ屋に引きとったが、まもなく淸太の不慮の死に對して會社から三百 んな造り話は信じられないと突っぱった。とどのつまり運搬夫は役圓の金が降りたときいた六兵衞は、あわてて、富治のもとにかけっ 場員をつれ出して來たりして、この悶着は六兵衞の負けになったが、 けてゆき、富治に向って、芋掘坑夫のお前などに扶養の資格はない 取込み犯人は六兵衞ではなく、その養子といふことになり、六兵衞と毒づいて梅野たちを引きつれて來た。その際富治から追悼金をと は世間に面目がないといって間もなく養子を追ひ出してしまった。 り上げたことは勿論であったが、扶養すると稱して連れて來た子供 こんなわけで、養子を追ひ出すときはきまって他人のものをかた たちは、春の陽がかがやきはじめそろそろぼろが眼立って來ても、 り取ったとか泥棒したとかいふロ實が用ひられた。人の好いあはれ向ふから着て來た垢光りのする着物のま、であった。梅野だけは頭 な養子たちは、六兵衞の山林がどこからどこまでなのか正確に知ら に椿油の臭ひをさせ頬にも薄赤みがさして、そのためもんだの爺も なかったので、六兵衞や房婆さんから指定された場所から、夢々他若返ったと取沙汰されたが、林檎賣りに町に通ってゐる間に情夫が 家のものとは知らずに杉皮を剥いで來たり、立木を伐り出して來た出來て、子供を置いたま、行方がわからなくなったあと、上の子の りするといふ罠にまんまと嵌りこむのであった。幸ひそれが問題に淸一はその年の春、小學校の卒業も俟たずに町の唐傘屋に奉公に出 ならないときには、六兵衞はひそかにその不當な利得にほくそ笑みされ、間もなく下の子も町へやられた。 ながら、離縁は次の機會まで延ばされるのであったが、それだけに こんな六兵衞が急にお峰に目をかけるやうになったといふこと 養子はますます深みにはまり込むことになった。この揚句素直に出は、誰しも不思議とするところであった。それは房婆さんに先立た て行けばよし、出てゆかなければ締め出しを食はせるのであった。 れたさびしさからに違ひなかったが、實際房がぼっくりあの世にい はま
29 阜 を飮み白首を買ったものだが、そんな景氣のどこをさがしてもない る稻がけの丸太を見つけて、あゝ、これは俺のもんだと素早く拾っ このごろ、密造が逆にふえ出したからって敢て不思議とするには足てゆくので、あツもんだの爺來た、とたちまち子供等は馳集まり、 りなかった。 一升につき四十錢も税金を呑んで腹の痛まないものは俺のもんだ俺のもんだとロ眞似しながら耳の遠い六兵衞のあとにぞ ろぞろついてあるいた。 洋服階級や旦那衆に限ったことで、百姓がどぶろくがのめないとな 人の思惑などは六兵衞にとってどうでもい乂ことだったので、客 れば、飲めるものは水ばかりであった。あるとき輻淸水といふ一升 が來ても滅多にお茶も出さず、學校の寄附や催事の祝儀なども、世 五十錢の淸酒が評判になり、 村では大分無理をしたものがあった が、誰もこれを呑んで醉ったものがないとい、ふことが判るととも話役が二度や三度かけ合ひにいっただけでは決して出さず、あちこ ち有力者の間を全部聞き廻った揚句に最低の金額しか出さなかった に、またどぶろくを呑みはじめた。莫大な罰金を馬を賣って拂ひ、 やっと勞役場行きだけはのがれたものや、出稼ぎから戻ったばかりので、後ろ指さ、れてゐることは自分でも知りながら、絶えず有力 でほとぼりのあるもの、苦しいといっても百姓ほどでない町のもの者や知合を廻りあるいて、俺のとこではどんな人間が來ても酒を出 は、一升二十錢位で飲めるなら、檢擧のきびしくなったこのごろ密さないといふことはないが、お前のとこでは客が來てもどぶろくも 造の危險を冒すよりましであるとするやうになり、梟はふえる一方出さないで平氣だべものな、とおめすおくせず大聲で叫ぶのであっ た。婆さんの房との間に子供のない六兵衞は、たびたび養子を入れ であった。お峰は梟に出かけての戻り路、肴町に立ち廻って縞木綿 たが、一人も三年と腰をすゑてゐたものは無かった。町の挽材會瓧 の長い財布の底にちゃらちゃらと白銅の音をたのしく聞き、何年ぶ りで鰈の二、三枚も買ひ、病夫へと下げて歸へるのであったが、こや疊表工場に稼ぎに出して、賃銀はそっくりそのま、取り上げ、朝 んなうまい商賣になるものなら何故もっと早くはじめなかったかは鹽鮭に湯をかけて、その鹽味の出た湯をのませるだけで、かんし んの鹽鮭は、夜食に食はせるといはれた。それで大抵のものはいゝ と、今更にくやむ次第であった。 加減汗と脂をしぼられた揚句、われから飛び出してしまふのであっ 新治郞が息をひきとったときにも、六兵衞はお峰が葬式を出せな い始末なのに、醫者を呼ぶ僅か三圓の車賃も貸してはくれず、香奠たが、それさへ辛棒してゐるものは、やがて嫁を貰って一年か二年 がはりに蝋燭をもって來たきりで何の手助けもしなかったので、人すると追ひ出される結果になった。もんだの爺の養子に嫁が來たと 人はいよいよ六兵衞を惡く言った。村では誰でも六兵衞と呼ぶもの いふと、人々はまたちきに生木を裂かれると豫言したが、それはき っと的中した。 がなく、もんだの爺とばかりいふのは、六兵衞は寄るとさはると、 りんき あれも俺のもんだ、これも俺のもんだと、うるさく言ふところに由 世間は六兵衞が嫁に手を出すのを房が年甲斐なく悋気する結果だ 來してゐたが、実際野良や山林で六兵衞の姿を見受けたとなると、 と言ひふらしたりしたが、その際いつも養子の方が先に追ひ出され 俺のもんだといふいつものきまり文句を二言三言聞き出すことに不 る事實は、さういふ臆測を信じさせなかった。あれも俺のもんだこ 自由はしなかった。もんだの爺が來たといふので行って見ると、六れも俺のもんだと言ひ張って、しばしば悶着を起す六兵衞は、さう 兵衞はきっと、この楢の木は俺のもんだとか、こっからこ又までは いふときに養子を手先につかふことを忘れなかった。あるとき、部 俺のもんだと、誰もき、もしないのに野良にひびきわたる聲で何べ 落はづれの道路に轉がってゐた丸太を六兵衞は養子に取り込ませた んもくり返すかと思ふと、路ばたの繩や草むらのなかに轉がってゐが、翌る日木材運搬の荷馬車曳きが押しかけて來て泥棒呼ばはりし かれひ
2 3 をついた。 のヤうにいがみか ゝり、ときに與吉に突きとばされ闘ひに負けた軍 その前から腰が痛むといってゐた六兵衞が一屠苦痛をうったへ出鷄のやうにもんどり打ってひっくり返ったが、すぐに骨ばった頸を したのは、實はそのときからのことであった。しかし痴情にのぼせ のばして起上りざま、狂氣のやうに眼玉をぎろっかせ擔棒をとって 上った六兵衞にはお峰のさういふ肱鐵砲も單なるいやがらせ以上に 打ってかゝるのを、日頃になくいきり立った與吉は狂ったやうに飛 は考へられず、その夜もの夜も六兵衞は通ひつづけたが、お峰の びかゝり相手の首っ玉をつかんで土間の水たまりにこづき廻した。 小屋の戸はいつもかたくとざされてゐた。六兵衞は夜半まで聞くに擔棒をふんだくるはずみを喰って一フンプが宙でもんどり打ってばっ たへないやうな譫言をつぶやきながら痛い腰をのばしのばし小屋のと油煙をあげ舌のやうに伸びちぢみするのを眺めてゐた子供はわッ 廻りを這ひずり廻ってゐたが、そのうち、やかましいこの野郞、いと泣き出した。顔半分泥だらけにした六兵衞が、お前俺とこ殺す氣 つまでもそのあたりに居たらただ置かねえぞ、と中から怒鳴る聲だな、人の嚊横どりしてそれで足りなくて殺す氣だな、殺すなら殺 に、六兵衞ははじめてお峰に男が出來たことに氣がっき、高みからせばええ、と哮え立てながら戸外に尻込みしてゆくのに、煮湯をの 突き落されたやうにはっとして尻込みしたが、それまで骨ばったかまされたやうな顔でうろ / \ してゐたお峰は、お前怪我しなかった らだの精根をかたむけてゐた女の脂肪の乘った生あたゝかい肉體を か、怪我なかったかと摺り寄ってゆくのを、與吉は一刻もそんなお 他人に奪はれたと思ふと、腹の底をかきむしるやうないらだたしさ峰を見てゐられないといふいらだたしさで、お前どこさ行く氣だ、 に突きのめされ、闇の中で身もがきながら、にはかに泥棒々々と叫と怒鳴りつけて呼び戻した。こんなことは、この夜にかぎったこと び立てた。だがそれはとんでもない失敗を仕出かしたもので、なか ではなかったが、お峰に突き離された六兵衞は晝間からどぶろくを からも同じゃうに泥棒々々と繰り返され、その心臓の強い哮えるやのんでうろっき廻るので、もんだの爺もあんまり慾張りすぎて氣が うな聲が野面の闇に大きい波紋を描いてひろがってゆくのに氣がっちがったといはれ、夜更けにお峰の小屋の造作に蛭のやうにへばり いた六兵衞は、唐蜀黍を押し倒し、茄子を踏んづけながら、がさが ついてゐたり、そこらのに倒れてぶつぶつわけのわからないこと を喚き散らしてゐることもめづらしくなかった。 さと音させてその場を逃げ出さざるを得なかった。 六兵衞のところから二、三枚の畑をへだてたお峰の小屋は部落か ら少し離れた山際にあったので、三日にあげず繰返されるさういふ 與吉との間のことが人々のロの端にのぼり、お峰の腹が目立っこ 痴情沙汰も殆んど世間に知れなかったが、それ以來お峰は無論六兵ろになると、女房の菊代は納まらず、與吉の家では三日にあげず夫 衞のもとに手俾ひに來なくなったのに對して、六兵衞の方は殆んど婦喧嘩が繰り返されて、風波は絶えなかった。乳呑兒を背負って畑 毎夜のやうにどぶろくで勢ひをつけて押しかけていって、與吉とい のものをつけた車をひき、町へ商ひに行って戻って來ると、その足 がみ合ひをくり返してゐた。別段筋の立った文句のつけやうがない で鍬をもって畑に行く、その間田の草もとれば、二人の子供の面倒 も見るといふ男まさりの菊代は、ロ數こそ少ないが、一たん怒り出 ので、六兵衞の楯にとるのは、お峰は亡夫の新治郎から自分があづ かったからだ故、他人が立ち人るべきではない、そんなことになっすと手がつけられない暴れ方で、薪でも鍋の蓋でも手あたり次第技 ては地下の新治郞に對し顔向けがならないといふ決り文句であっげつけるのには、からだこそ鬼をもひしぐゃうでも、氣の弱い與吉 た。これだけのことを毎夜のやうに七くどくくり返し、振られた猫はすっかりけおされ、ただあきれてばかんとして見てゐるといふ風 しゃ
「おクラさん。お前は何するだ。わしの家に行ってな ! 俊一、つ が、後頭部の髮を染め、疊の上に垂れてゐた。彼は齒をくひしばっ て堪へてゐるので、低い呻きさへきこえなかったら、人々は死んでれて行け ! 」 庄左衞門は位牌をクラの手からひったくるやうにして、 ゐるのかと思ふほど、ぢっとしてゐた。 じゃうぶつ みみたぶ 「お前もつらからうが成佛しなよ。」 耳朶が少し切れ、それからもみかげの上まで一寸四五分ばかり皮 と位牌を拜んで蠶棚にのせた。 膚が裂れ、その奧には白いものが見えた。 それから傷の手當にかかった。 ぐったりなってゐる奴を庄左衞門がひき起し、 「大したこたあねえ。骨にやかかってにやだ。」 「しつかりせい ! 大したことはない ! 親からこんな目にあった 庄左衞門は、凍ったやうに坐りこんで動かない要助の父に、とき んだ。よくよくちゃないど。」 どき傷口を見せるやうにして話しかけた。 耳に口をあてるやうにして叫んた。お年玉の手拭をありったけ、 「何でもねえ、もう済んだ。要助もこれからはこりて性根を入れか 傷の上から眼のかくれるほど卷きつけ、動けさうにもないので、 へるづら。さあ皆氣をかへて蠶に葉をやりな。氣を變へな。いつま 「リアカーを持ってくる ! 」 でも考へこんでちや仕様がねえ。さあ大將のお前から立ちな。」 と云って出ようとする俊一に、 父はぶらっと氣の找けたやうに立って蠶棚の間に入って行った。 「待て待て、あわてるな ! お前逹は誰も默ってゐろ ! 俺が一寸 母も立った。庄左衞門は棚に置きつばなしの位牌をおろして來た。 いって來る。」 「要助 ! お前はこれが見えるか ! 」 庄左衞門が、父を連れて出ていった。人に聞かれてはならない。 要助の眼の前につきつけた。彼はぼんやり眼をあけた。彼の混亂 が子に傷つけたって、罪にちがひない。若し人に聞かれたら警察 ちょうえき に知れるだらう。懲役に行かなくとも、この際、一家中が調べられした頭に、兄の死の姿が浮んで來た。彼の手を握った時の顔。頭を はるご たら春蠶は滅茶になる。こっそり醫者に賴むが、何かうまい口實は剃る時の精紳を失った姿。それから棺を深い穴に下す時のせつな ないか ? しかし體一面の傷では、あやまって怪我をしたとも云へさ。白い木片でなく、その底にはそれだけの實感が件ってゐる。 要助は思ふまいとして眼をつぶった。その時、庄左衞門の疉をど ないから、内密で賴むよりほかないのだった。しかし内密といふの も實にあやふやで、ことわらるればそれまでである。そんなことをんどんと叩く音がした。 「わかったか ! わかったならそれでいい。俺は何も今夜は云は 庄左衞門は要助の父と相談するつもりだったが、父は「あんな奴は ぬ。ようく考へて見ろ ! 」 死ぬがよい。醫者なんてもっての外だ。」といふのである。 しかし彼は、まだまだ俺は參りはせぬぞと固く決意するのだっ 仕方がないので、藥屋に行ってたづねると、 立 芽「さあ、オキシフルで洗って、ヨードホルムでも塗ったら治るでせた。 の ( 昭和十一年五月「文學界」 ) といふので、それだけ買って來た。 歸って見るとク一フは二人の子供によそ行きの着物を着せて、亡夫 00 の位牌を抱いて泣いてゐるのだった。
8 3 腰の曲りかけた六兵衞は今にも喰ひっきさうな顔つきで身櫞へて かたくなに默ってゐた。 なんといふことなくただ恐ろしく、のしかゝって來る運命に身體ゐたが、大きな體の與吉が入口狹しとのっそり這人って來ると、大 にねらはれた鷄のやうに素早くその傍をすりぬけて、この牢破り覺 を縮めてしたがってゐるより外ないといふかたくなさをどうするこ とも出來ず、ときどき突き上げて來る與吉への執着はすぐ姿を消しえて居れ、駐在所さ知らせて來らあ、と叫んで走り去った。脱定し て、恐れとあきらめがかたくその肉體をとりおさへた。だが事熊はて來た與吉をその場で巡査の手で首っ玉を押へてしまふことは、い それだけではすまなかった。なかからは六兵衞が何かお峰の耳に呟つばったりと往生するかも知れぬ自分の年を忘れて前後不覺にお峰 におぼれてゐる六兵衞に野良大をたゝき殺すやうな種類の快感を與 く聲がきこえて來た。もうかうなってはお峰に聲をかけても無駄だ と知り、本能的に六兵衞を怒らせておびき出すことに思ひついた與へるのであった。しかし當の與吉はこのまゝ追手をのがれられると をなご 吉は、こら、もんだの爺、お前の家火事だや、いゝ年して女子狂ひも思ってゐなかったし、少しもそれを恐れてはゐなかった。うなだ してゐる間にお前の家全燒けだぞと怒鳴った。なんだ、お前は監獄れて默ってゐるお峰の顔には明らかに何十日ぶりで與吉に會った昻 ぬけて人の家さ火つけに來たか、と六兵衞はやり返したが、さうな奮がうごいてゐた。事實、もう先刻までの不安とわけのわからない 恐怖はどこかへ吹っ飛んで、お峰の眼の前には肩巾の廣いねっちり ると與吉の戦術は半ば成功したといふべきであった。 とした與吉があるたけであった。俺あ行ってしまったらまたもんた 人の留守に夜這ひに這人りやがって何を大きな口きく、このくた の爺とこっ引ばりこむべな、お前は : : : としばらくしていふのに、 ばりぞくなひめ、言ふことあったら出て來い、と與吉はわめき立て お峰は無言のまゝ首をふると同時に、闇の中で與吉の強い腕がのび た。お峰は早くも與吉の罠に氣がついて、はらはらして六兵衞のロ 返答を制するらしかった。六兵衞は出ようが出まいが牢破りの差圖て來たのを感じた。 など受けねえとやり返した。と與吉は得たりとばかり俺牢破りして もお前のやうな人非人でねえ、新治郎の生きてる間お前はどんなこ 與吉はその夜のうちにお峰のところで逮捕されたが、事情が事情 とした、田畑はとり上げるし、病氣になっても振り向きもしなかつだけにそれにあたった署員や看守からも同情され丁寧な取り扱ひを たべ、この人でなしの癩病の性、よしツ、出て來なかったら俺あ引 されたばかりでなく、格別懲罰も受けずにすんだ。ただ砂利運びの きずり出してやる、いゝかこの野郎と、わめきながら戸板にからだ勞役に出てゐるとき脱走したといふので、構内の草取り仕事や營繕 をぶつつけはじめた。六兵衞も痩頸をもたげて、この牢破り警察さの石運びや道路修繕などがあっても與吉は除外されて、明けるから みイなはた 知らぜてやるぞ、と起き上るのをお峰はすがりついて押へたが、與暮れるまで工場に坐りつきりで實子繩綯ひの居職仕事は、カ仕事の 吉がどしどしとからだを打つつける度に戸板は今にも折れてしまひ得手な與吉にとってはかなり辛いものであった。睹博や一寸した事 しな さうに内側にめりめりと撓った。それと同時に、それまで壓へつけ件で來てゐるものもあったが、大部分は濁密犯人であったから、同 られてゐた與吉への執着が、突然熱湯のやうに吹き上げて來た。お房の連中はみんなお互によく氣が合ってなぐさめ合ふといふ風で、 峰ははっと我に歸って、急に泣き出しさうな顔になり、跣足のま 受持看守も彼等がこんなところに來るのは食はれないからであり、 土間に飛び下り、今開けるんて、お前もなんとか騷がねえで、と必農村の窮迫にしたがってますます濁密はふえるばかりで、殊に凶作 死に叫びながら戸締りをはづした。 地のものにそれが多いといふことを知り過ぎるほど知ってゐたか
37 第 なかった。お前飯食ったかといふと眞太はうん、山下のお母來て飯應報を恐れ宿命のおそろしさに脅やかされがちなお峰をなやましつ 炊いて始末して呉れたと言った。それはお峰のことで、葬ひのとき づけた朝その手でじりじりと相手の手元にとびこんで行き、なんで は世間ていもあってお峰には會はずじまひであったが、お峰の方でも素直にうけ人れてしまふことで、いつも自分を不幸にしてゐる可 はそこにぬかりはなかった。早速戸棚からお峰の炊いた飯をとり出哀さうなお峰を再びとりこにしてゐた。 してつめこみ、すっかり暗くなるまで、田圃に出てゐた。田の草は それにはまた密造を檢擧されて以來、いくらなんでも擧げられた ふくろふ そのまゝにして置いたら稻を滅茶苦茶にしてしまふほど伸び放題に尻から梟に出てどぶろくを賣りあるくわけにはいかなかったし、 伸びてゐた。 かう腹が大きくなって來ては日雇仕事にも出られず、畑のものを町 お峰に會はないうちに追手がか乂るかも知れないと思ふと、氣が に賣りにいく位では、親子三人のロはす又げぬのに對して、六兵衞 氣でなかったが、い、加減草をとってしまふと、また自分の家に歸は金以外のものなら米味噌とか野菜とか何でも持ち運んだことも手 っていった。もう夜になってゐたので、さあ、寢れ、夜鷹に掠はれ傳ってゐた。それでもお峰は毎朝夜のあけないうちに、世間の眼を れば大變だからな、と與吉は菊代がさうしてゐたやうに小さい眞次ぬすんで、與吉の子供たちを見にいくことだけは忘れなかったが、 に添寢してゐたが、一寸身動きすると眞次は眼をあけて父親の顔を菊代の怨靈の恐ろしさにふるヘる心に、ふと自分のからだのなかで ちらと見守った。また父親に逃げられはしないかといふ意識がそこ 日にまし大きくなってゆく與吉の子に氣がっき、彈き飛ばされたや には働いてゐるやうに思はれてぎくりとしたが、燒きつく思ひはお うに、殆んど與吉をあきらめかけてゐる自分を空恐ろしく思ひ返す 峰の方に走ってゐた朝やがてこくりと眞次が眠りこけたのを見る ほど、ずるずると六兵衞の親切ごかしにほだされる人のよさを露き と、大きな體を起して、先刻から突きはなされたやうな飢ゑた顏つ出してゐた。 きでちっと宙を睨んでゐる眞太に、眞、お前隣りのお父さ訊いて さういふわけであったから、突然お峰お峰と戸口にすり寄って呼 な、田圃見て呉れや、草のびたら草除ってな、學校から歸ったら眞 ぶ聲がしたとき、お峰はぎくりとしてからだがとめどなくふるヘ出 次とこよく見てやれ、上産買って來てやるからな、すぐ歸って來る したほどであった。はじめそれは、まだ當分勞場から出て來るは から、と言ひのこしてあわただしく出ていった。 すがない與吉の聲とは信じられなかった。お峰は硬ばった顏でしば しかるにそのときお峰のところには六兵衞が來てゐた。與吉が勞 らくじっと闇を見つめてゐたが、やがてはっきり與吉であることが 役場送りになった事は六兵衞にとってはもつけの幸で、再びしつこわかっても、重くのしか乂る恐れを拂ひのけることが出來ず、何か くお峰に言ひ寄る機會をあたへたことはいふまでもなかった。それ警戒する気持ちがかたくなにお峰を沈默させた。與吉の頭にはすぐ に菊代が首をくくったことは六兵衞にとっては、願ってもない口實に六兵衞が浮んで來てゐたが、お峰、俺だ、俺だと呼びつづけてゐ をんりゃう となって、菊代の怨靈をひたすら恐れて商ひに出るときの外は戸の るうち、かってそれほどまでに感じたことのない烈しいお峰に對す ロ三寸出るのも、世間の人々に顔むけがならないこととしてゐたおる執着が全身を熱くかけ廻り、六兵衞に對する怒りが腹の底から滅 峰に向って、世間はお前がとり殺したといって専ら評判してゐるこ茶苦茶にあばれ出して來るのを感じた。さういふ自分に吾れから驚 と、若しこの上お前が與吉との關係をつづけるなら、亡靈のたり きながら、お峰俺を忘れたか、忘れられる義理だか、と荒つぼく戸 はきっとお前を狂ひ死させるに違ひないとしつこく繰返して、因果をたゝき小屋の廻りをぐるぐる狂ひ廻ってゐたが、それでもお峰は
とよく相談してみることだ。そしてわしの寺まで來ることが出來れ守に忠義だてし、かたがた自分も暖まらうとしてゐるのに違ひあり ません。で亂妨をすぐに留めるには、二つの方法があります。第一 ば、あとはもう何の氣づかひもいらないのちゃ。寺は東大寺の支配 ぢやから、國の司でも踏みこめないのだ。」 は大霜五ケ庄を灌漑してゐる水路を止めることでせう。これで大概 曇猛は津志王の顏をのぞきこみ、心のうごきを計る様子であっは悟ってくれようが、また別途に第二段の手だてをめぐらしてもよ ろしいですな。しかしこれはもう申すまでもなく、お察し下さるで 。彼は國分寺の上座を命ぜられて、東大寺から下ってきた時のこ とを思ひだしてゐた。丹後にある四つの寺領のうち、國分寺供養田せうな。」 曇猛が困ってゐるとき由良の使者で、やはり實情を知らない彼に の二つは寺の近くにあって、住信の暮し向き、寺の諸費にあてら れ、殘りは東大寺の直封であったが、新しく赴任した國司の介が庄かう智慧をかしてくれたのだった。これは國司の壓力が自分のとこ 園券契の不確さを名目にして、供養田の一部を收公すると云ひだし ろに及ぶのを避けるためだったことが、後になって分ったのだが、 それにしても曇猛は由良に感謝しなければならなかった。まづ國司 たのだった。この田は新墾地ではあるが、寺が費用をだして庄民に 開かせたもので、前の國司の許しをうけ不輸租の證券も下附されて側は折れてきたし、また記録所からも從來どほり寺領を認められて あひくち ほっとしたのだが、やがてこの水路は兩刃のヒ首となって、寺領に あった。介の云ひ分は、寬德二年以後に新立された庄園は、たとひ つきつけられたのである。 券契があっても禁止せよ、といふ命令であるからやむを得ない、と たけだけしく領地に人りこんで、穀倉をあける亂妨ぶりだった。そ つまり此の水路の修繕、維持のために、冬の三ヶ月、流域の庄民 こですぐ東大寺から朝廷の記録所に解妝を奉ることになった。 の勞役を求めてきたからである。もしこれをこばめば、由良港をお そのとき解決をいよいよ面倒にする事件がおこった。といふのさへてゐる左衞門尉は、鹽をはじめとして綿、魚、油の輸送をとめ ることができるのだった。ただ出費をいとはずに、宮津港を利用す は、開墾のむづかしいのは用水の得られないためであって、土地が るの途が一つ殘されてゐたが。 廣くて平らといふだけでは、當時としては水田にするだけの技術が その外にも日常のこまごまとしたことに、左衞門尉の力が加はっ 整はなかった。だから平野よりもかへって谷間のやうなところが早 く開けたが、それだけでも收穫までの衣食の料、材料や勞力の取りてゐることを、曇猛はだんだんと知らされた。それはきっと國の介 あつめ、さらに種もみなどと莫大な出費が人るので、農民は労力はでもおなじだったらう。いや曇猛の眼には、國の介はむしろ左衞門 あまってゐても手が出せないのだった。 尉に媚びることで、いやな爭ひで得る以上の成績をあげてゐるやう 問題の新墾地は、一方は國衞領につづいて居って、水上には由良だった。よく云へば地方の實倩に通じたことになり、惡く形容すれ 左衞門尉 ( 未だその頃は左衞門尉に任官してゐないし、したがって ば酢でなまされたのである。 曇猛は津志王の氣品のある物腰や言葉使ひから、たしかに同情を 大大夫とも呼ばず、ただの下司、専當でしかなかった ) の領地がある といふ面倒なところを占めてゐた。そしてその中で暮してゐる庄民おこしたのであるが、さういふいきさつが肚の底にあって、彼を救 は、谷川の名にちなんで大霜五ケ庄などと呼び、領主の爭ひを別ひださうと考へたけれど表面に立って三庄大夫と仲たがひをしてま でもとは思はなかった。最後となれば國司には國司の力があり、國 に、ひたすら耕作のしよいやうに勵んでゐた。 3 「今度の介の守は地方の實情をすこしも知らず、ただ都にゐる國の分寺には東大寺といふ背景があると思っても、はたして片田舍まで
0 5 た。年寄りが多いので、冷い夜氣が迫って來るにしたがって、赤子をあづかっても呉れず、菊代が首をくくるほど窮迫してゐるのにも の脅えたやうな泣聲にまじって、ぜいぜいいふ咳の響きは次第にや何の助力もして呉れなかった義父の無情をうらみ、女房に死なれ男 かましくなっていったが、そのなかで一ときは高い喘息婆さんの咳手に子供をか乂へての自棄も手傅って、どぶろくにかぶと菊を投げ きこみは、殆んどいっ絶えるともなくつづき、夜明前にはそれが絶入れて毒殺したものとして與吉が嫌疑をうけたのもやむを得なかっ はらわた 頂に逹するのであった。腸を引きずり出さうとでもするやうに際た。 限なくつづくその咳に眼をさまされると、きいてゐる方が胸苦しく あとでわかったのであるが、その日作左衞門は、死んだ菊代を弔 なって、しまひに起き出してしまったが、もうそのころにはカむたひかたがた、また與吉には話してなかった菊代が親方 ( 地主 ) のと さらしもめん めの充血も去って婆さんの顔は晒木綿のやうに白っぽくなり、絶間 ころから米を盜まうとした事件について、それが親方の耳に這入っ なく込み上げて來る咽喉をゑぐるやうな苦しみで、婆さんのからだ た結果、忘恩の行爲として小作をとりあげかねまじく怒ってゐるこ はそこいら中を毛蟲のやうによぢれ廻った。 と、それについて何とか親方に謝罪することをす、めにやって來た 起き出したものは婆様々々と呼びつづけながら、骨張った婆さんのであったが、そのとき與吉は義父をもてなすために山へいってど の背中を男のやうに厚い掌で叩いたり撫でたりしたが、婆さんは間 ぶろくを掬み出して來た。一寸手足洗って來るから、先に一杯やっ 斷のないせきこみの間に、死んとこだ、死んとこだといふ言葉を無てゐて呉れせと、與吉は戸棚から味噌漬の皿と茶呑茶碗をとり出し 理に押しこみながら、俯伏になったり仰向になったりして轉げまはて來て德利に添へて置いて、裏の小川の方へ出ていった。 った。ほんとに死ぬでねえべか、と人々は薄闇のなかに不安な額を 戻って來るまでにかなりの時間があったといふのは、一たん手を 寄せ集めたが、この苦しみは看守が病監に走って頓服藥をもって來洗って戻って來る途中、まだそこまで手が廻らず草がのびてゐる西 るときまで決してやまないのであった。しかもこれは、夜明前の時瓜畑の方に廻ったからであった。しばらくして戻って來ると、作左 刻にきまってゐたので、三度も四度も病監に走らされた看守はしま衞門は腹に手をあて、仰向けにひっくり返ってゐた。爺様どした爺 ひにすっかり氣を腐らして、一ペんに四五回分の頓服を持って來て様、と與吉は叫んだが、作左衞門はうん、腹痛めるどもすぐなほる 婆さんにあてがって置いた程であった。 ・ヘと言ひ、なんでもないやうに起きあがったが、またすぐ横倒れに しかしもっと厄介なことがもちあがった。お峰が夜半にはかに産なって苦しみはじめた。作左衞門には胃弱の持病があったので、い 氣づいたからである。それには次のやうな事件に対する驚愕が手傅つもの腹痛み位に考へたのも無理ではなかった。もし與吉がすぐ戻 ってゐたかも知れなかった。その日お峰とは梟仲間で顔見知りの隣って來てゐたら、酒飲みの與吉のことだから、同じ運命におちてゐ り村のリヱが送りこまれて來たが、リヱは與吉が勞役場を出て間も たに違ひなかったが、そのとき與吉の頭に浮んで來たのは、かぶと なく殺人の嫌疑でひつばられたことを知らせた。しかも殺されたの菊の根をしぼった毒汁をどぶろくに入れて毒殺したといふ數年前に は與吉の義父の作左衞門であった。その日與吉をたづねた作左衞門 起ったある事件の記憶であった。やがて與吉は佛壇から富山の藥袋 は、與吉が山から掬んで來たどぶろくを飲むと間もなく苦悶しはじ をとり出して來て熊の瞻をのませて見たが、それは何のきゝめもな めその日のうちに死んでしまったが、當の與吉は一滴もそのどぶろかった。しまひには呻き聲さへ微かになり、血の氣のなくなった額 くを口にしなかったとあっては、自分が勞役場に送られるとき子供に冷汗が浮かび、眼が恐ろしく据って來てゐた。兎も角與吉はしま
そうそう れて、その六兵衞にいぢめぬかれて來た上に、不幸績きのお峰が擧れはいつまでも食客もしてゐられないと匆々に尻をあげることにな 2 げられるとは、世は逆さまだと人々はなげいた。五年前、新治郞一 って、その日から屋根にこまる始末であった。手に職のないものに 家が上京したのも、六兵衞に村をたゝき出されたやうなものであっ都合のい又仕事の落こぼれもなく、とどのつまりは登録勞働者にな ったが、これも一日働けば三日あぶれ、一日三合の給食米にしがみ た。遠い親戚關係があったので、新治郞は親の代から一町歩近い六 兵衞の田を小作してゐたが、その年は何十年來の凶作でどこでも田ついてゐるうちに、なんでもない熱と考へてゐたのが、氣管支から 徳を半分も納めなかったので新治邯も御多分にもれず未納した。そ肺炎に進み、お峰も乳呑兒をかゝへては手のつけやうがなく、二度 れでも夏まで食ふ米を殘したわけではなかったが、春とはいへまだ 目の秋には、こっそり人眼をはばかるていに村に舞ひ戻って來た。 住家だけは六兵衞の畑にある納屋に手入してどうにか雨露をしの 雪も消えない時分、自分の田に隣り部落の作太郞が堆肥を蓮んでゐ るのを見つけた。驚いて六兵衞にかけ合ひに行って見ると、もうと ぐことが出來たが、女手に病夫を抱へてはどうにもならず、とどの つくに作太郞に小作させることに契約したとの、にべもない返事だ つまりは、お峰はどぶろくをつくって賣りにあるいた。専ら自家用 った。永小作のつもりでゐたが父親の手落から契約書もとりかはしであったどぶろくを、このごろ賣りにあるくものがめつきりふえ、 てゐない以上、どうにもならなかった。 白晝は危險なので夜のあけないうちに村から村へ飛びあるくのでそ くろか 茶屋酒などを喰って借金に苦しんでゐる新治郞はたとへ上作でもれは梟といはれ、兎角朝寢坊な町者である酒役人は手を燒いてゐ 、密造檢擧がはげしくなると多少でも餘裕のあるものは、五十 滿足に田德を入れられないものと六兵衞は都合をよく見かぎりをつ け、耕作地がないために出稼ぎにばかりあるいてゐる作太郎を見込圓も百圓も罰金をかけられる危險を敢てするよりも、梟から買って んで、前の年北海道へ渡って小金を胴卷に入れて來たほとぼりのさ飮むことを得策としたし、それやこれやで梟の數はめきめきとふえ めないうちに、水呑百姓にして見れば眼玉の飛び出るほどの契約金ていった。 以前は税務署だけでしたものがこのごろではところによって税務 をとって耕作させることにした。このことあって新治郎は八方奔走 して見たが、男手のふんだんに餘ってゐるこのあたりは、どこにも署と役場と警察とが協力して檢擧と矯正にあたり、手きびしい檢擧 猫の額ほどの田畑もなく、小作だけでは明日の飯米にも差支へるの に加へるに矯正組合をつくったり、講演をしたり、ビフを刷って配 でわれもわれもと人夫仕事に出るこのごろでは、町の日雇仕事も五つたり、あらゆる手をつくしてゐたが、それでも百姓たちは自分の 日に一度もないので、十年前新治郎と同じゃうな理由で上京してゐ米で自分の手で造って自分で飮むことが何故惡いのか、一向腑に落 る親戚の忠藏から何年ぶりかで蚯蚓が這ったやうな文字の便りが來ちないこととしてゐるのは、舊藩當時には水呑百姓の慰めはそれよ り外にないものとしてどぶろくを奬勵した時代があったほどだし、 たのに追ひすがるやうに、家をた乂んで上京した。さて行って見る 一年二圓の税金で許されてゐた明治の中頃までは、茶道具が無い家 と、このごろはどうにか三度の飯を滿足に食ってゐるといふ忠蔵の 家も、棟割長屋の三疊と六疊に、忠薮夫婦を加へて中風で動けないはあっても濁酒のロ鍋と德利と盃のない家は一軒も無かったほど 婆さんに子供が六人もゐるといふ蛆が湧いたやうな有様に、家賃はで、それは百姓が米をつくるとともに、その米のしかも屑米や靑米 どの位のものと訊ねると、六圓と聞かされ、うえツ、まるで金の でどぶろくをつくることは當り前のこととされてゐた。米の値が天 上さ生ってゐるやうなものだな、と莉治郎はびつくり仰天して、こ井知らすにはね上った歐洲戦爭時分には百姓でも羽織を着て茶屋酒