佐佐木茂索 - みる会図書館


検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

( 筑攣書房「現代日本文學全集」四昭和三一・七 ) 佐佐木茂索參考文獻 淺井淸「十一谷義三郎」 十一谷義三郎參考文獻 ( 明治書院「現代文學講座」第八集昭和三六 編集保昌正夫・栗坪良樹克木克三「新進作家論ー佐佐木茂索氏の『曠日』」 中村還一「個性への歸屬ー十一谷氏の所論に觸 ( 文藝時代大正一三・ ( 文藝時代大正一四・五 ) れつゝ 芥川龍之介「春の外套」序 片岡鐡兵參考文獻 川端康成「五月諸雜誌創作評ー十一谷義三郎氏 ( 金星堂「春の外套」大正一三・ ( 文藝時代大正一四・六 ) 「冷たい握手』」 川端康成「永久の新人鐵兵」・「片岡鉞兵氏の生片岡鉞兵「『春の外套』を讀む」 木蘇穀「「靑草』を讀む」 ( 文藝時代大正一三・ ( 文藝時代大正一四・九 ) 活」 ( 改造社「川端康成歌集第七卷」昭和一三・九 ) 武川重太郎「佐佐木茂索小論」 赤木健介コ一秀作」 ( 文藝時代大正一四・一こ宇野浩二「片岡の『少女讃美』」ほか ( 文藝時代大正一三・ ( 中央公論社「文學の十三年」昭和一七・八 ) 舟橋聖一「十一谷義三郞作『一夜』」 南幸夫「雨佐佐木」 ( 文藝時代大正一四・三 ) ( 文藝時代昭和一一・四 ) 吉村正一郎「片岡鐵兵終焉記」・「鉞兵さんの『若 齋藤龍太郞「『夢ほどの話』を讀みて」 ( 高桐書院「文學と良識」昭和二四・ = l) ( 右同 ) さ』」 崎淸「右同」 ( 文藝時代大正一四・九 ) 淺見淵「十一谷・下村・片岡ー『中央公論』 芥川龍之介・川崎備寛・小島政二郎・藤森淳三・片 ( 創作月刊昭和三・三 ) 一一月號創作欄に於ける」 岡鐵兵・久米正雄「新進作家の人と作との印象ー ( 右同 ) 小堀甚二「新感覺派からプロレタリア文學へ ! 」 石濱金作「二月創作評ー『灯と唾』」 ( 新潮大正一五・四 ) 佐佐木茂索と大養健」 ( ほか靑野季吉・平林たい子・靑木壯一郎・金子洋文・細 横光利一「文時評ー『唐人お吉一」 ( 文藝時代昭和一一・五 ) 戸川貞雄「話しが : ・」 ( 文藝春秋昭和三・一ニ ) 田民樹・今野賢三・石井安一・伊藤榮一一・岩藤雪夫・里村 ( 新潮昭和一一・七 ) 藤森淳三「佐佐木茂索論」 欣三が執筆 ) 川端康成他「横光利一と十一谷義三郎」 ( 「文藝戦線」昭和三・五 " 社會主義の方へー小プ石濱金作「新年創作評」 ( ともに老ゅ、或冬の日に、 ( 新潮昭和四・一 l) ( 創作月刊昭和三・ ll) ) など ) ルジョア作家の轉向を吾等は何と見るか ? ー 上林曉「十一谷義三郞論」 ( 創作月刊昭和三・三 ) 永井龍男「生活體温」 藤澤桓夫「片岡鐵兵氏と『明日』」 ( 新文學研究昭和六こ l) ( ほか村山知義・淺原六明・川端康成・廣津和郎が執筆 ) 河本寂「佐佐木茂索小論」 舟橋聖一「十一谷理の憶ひ出」 ( 新潮昭和三・一〇を新作家の ( 創作月刊昭和三・六 ) ( 報知新聞昭和一ニ・四・五 ) 人と藝術ー片岡鐵兵氏の印象ーし阿部知二「佐佐木茂索論」 齋藤龍太郞「十一谷義三郎」 ( 文學 ( 第一書房〉昭和五・一 ) ( 都新聞昭和一二・四・六 ) 日井吉見「解説」 豐島與志雄「十一谷義三郎を語る」 ( 筑摩版「現代日本文學全集」卷昭和三ニ・ 角田恒「片岡鐵兵観」 ( 文藝時代大正一四・一 l) ( 改造昭和一ニ・五 ) 上林曉・高見順「大正の作家・作品」 ( 對談 ) 川端康成「片岡・横光等の立場」 川端康成「十一谷義三郞」 ( 文藝春秋昭和三・一 ) ( 右同月報 ) ( 中央公論昭和一ニ・五 ) ( 文藝春秋版 車谷弘「佐佐木茂索年譜」 淺原六朗「片岡鐵兵君に辭を返す」 川端康成「十一谷義三郎氏の『通百丁目ヒ 「佐佐木茂索」隨筆集昭和四一一・一一 I) ( 不同調昭和三・七 ) ( 改造社「川端康成選集」第八卷昭和一三・ 吉村鐵太郎「片岡鐵兵氏に」 ( 文學昭和四・一一 l) 紙魚「佐佐木茂索の見事な描寫力」 正宗白鳥「直木三十五と十一谷義三郎其他」 ( 東京新聞昭和四三・一・一 0 ) ( 創元社「作家論三 ) 」昭和一七・一 ) 立野信之「二つの歴史ー片岡鉞兵・その死の前 ( 文藝往來昭和二四・三 ) 三浦朱門・江藤淳 ( 對談 ) 「『佐佐木茂索』を讀む」 十返肇「十一谷義三郎」 ( 萬里閣「現代文學後ー」 ( 銀座百點號昭和四三・一 l) 代表作全集」第ニ卷昭和一一三・八 ) 小笠原克「いわゆる″左傾みをめぐる諸問題ー 編集紅野郎 昭和初期文壇におけるインテリゲンチャ作家の位 伊藤整「解説」 ( 藤女子大紀要昭和三八・三 ) ( 河出書房「現代日本小設大系」四十四卷昭和二五・三 ) 相ー」 犬養健參考文獻 平野謙「解説」 編集小笠原克

2. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

昭 佐 ←大正十四年右茂索左妻ふさ 索島寛和 郎米五 夫正年 人雄頃 佐久有 佐米か 木夫ら ◆や◆ い、 一←昭和六年十一月右から久保田 万太郎茂索德田秋謐牧野信 イみプ廴 →佐佐木茂索筆蹟

3. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

新感覺派文學集目次 卷頭寫眞 十一谷義三郎 靜物 : ヒ 4 . 靑草 : 白樺になる男 : 風騷ぐ : あの道この道 : 仕立屋マリ子の半生 : 片岡鐵兵 幽靈船 : 生ける人形 : 佐佐木茂索 おぢいさんとおばあさんの話 : 曠日 : 選擧立會人 : 困った人逹・ : 大養健 牧歌 :

4. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

いるおもむきがある。すでに個性たしかな存ているが、それの行きついたところが、前記、 とではない。プロレタリア文學におけるモダ 8 引在だったのである。 『人間』の「新進作家創作集」の處女作「舌」ニズムは、この時期の片岡の作に一つの端的 であった。この六十枚ほどの作品を四日間でなあらわれをみせている。 片岡鐵兵 書きあげたというのだから、すでに逹者な書 佐佐木茂索 太平洋戦爭のさなか、旅行さきの和歌山縣き手だったのである。このあたりまでのこと 田邊で片岡鐵兵が急逝したとき、新感覺派時は、「文壇的自敍傅ーーー梗概的自傅」 ( 昭和十『文藝春秋』を主宰した菊池寛の大正十四年 代の僚友であり、その後もこの作家とは親し年『新潮』六月號 ) によっても識ることができに書いた一文に「文壇交友録」というものが つきあ あり、「二人限りにて交際ひたることある人」 い附きあいをもった横光利一は追悼記としてる。 を「友人」として擧げて、芥川龍之介以下に 「典型人の死」と題する一文を書いた。「近來『文藝時代』同人としての片岡は横光、 文壇の二十年史を誰か書かうとして、もしこ端、今東光、中河與一らとともに、その中心ついて一言ずついっている。佐佐木茂索の條 の時代の典型を文壇人から求めるとしたら、的存在であった。また、論客の先鋒でもあつには、「交友六七年。グッドセンスあり。」と 片岡鉞兵の生活と人以外には、一人もゐないた。「若き讀者に訴ふ」をはじめとする評論ある。六、七年といえば佐佐木が處女作である だらう。 ( 中略 ) 新感覺派の創始者、速力に對はおのずから獅子奮迅記の體をなす。作品で「おちいさんとおばあさんの話」を書いたこ する感覺の發見者、ひいては唯物史觀への行は「幽靈船」 ( 大正十三年『文藝時代』十二月號 ) 、ろからである。そして、この「グッドセン 轉と實踐者、またそれからの轉向と傳統への「綱の上の少女」 ( 十五年『改造』二月號 ) などス」こそ、たしかに佐佐木の身上といってよ 憧憬者にして、支那への橋梁の建設者。」とが評判にのぼった。このころの一著に『モダいものであった。しかもそれは、この作家の あるのは、その一節である。片岡の生涯を「時ンガールの研究』があるが、新しい女性のあ作品にも行きわたって、その作風をもなして 代の典型」とみるのはいささか親友的評價でりかたをつねに意識してやまなかった作家にいる。 『文藝時代』の旗揚げの前年、『文藝春秋』 あり、かっ追悼的記述であるとしても、この似つかわしいエッセイ集として注意を惹く。 作家の文壇登場以後はここにほとんどたどら『文藝時代』末期の片岡は、あるいはときにの創刊があって、そのころの『文藝春秋』は れている。「支那への橋梁」とあるのは、そ「左傾」を意識するようなことがあったかも同人制をとっていた。菊池、芥川、久米正雄、 の晩年に軍の要詞で中國におもむいたときのしれない。昭和二年、『手帖』十月號の短文山本有三、小島政一一郞、それに佐佐木といっ ことをいうのであろう。「轉向」以後の片岡には、「俺は今、思想的に苦しんで居る。」のたところは同人、横光、川端、石濱金作、酒 は、そのいたましさを漸次深めていっている文字がみえる。そして、翌三年には、はやく井眞人、鈴木彦弐郞、今東光、佐々木味津三、 も前衞藝術家同盟への參加が果たされる。こ南幸夫、中河與一ら、やがて『文藝時代』同 ようにみえる。 いつぼう、この「新感覺派の創始者」以前の前後から三、四年の間がこの作家の仕事に人の半數ほどを占めた面面は編集同人であっ のところを、片岡みずからがしるしていると最もみるべきもののあらわれた時期だろう。た。佐佐木は格づけが一枚うえの扱いであ ころにさぐると、「自然主義から耽美派・象しかしそれは「左傾」を果たしたことにおいる。『文藝時代』の同人では佐佐木、片岡、 徴派〈の心醉」 ( 「片岡鐵兵全集序」 ) と要約されて、「新感覺」の流儀が捨てられたというこ岸田が年長者であるが、ことに佐佐木にはい

5. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

ををーを〉第いはにー ( ↑昭和七年頃十一谷義三郎 ←十一谷義三郎筆蹟 おを玄、プ ↑昭和十二、三年頃片岡鐵兵 ←昭和二年一月右鐵兵左妻光枝 ↑昭和十三年頃 、冖 , 」右橫光利一 左鐵兵 ( 撮影川端康成 ) ←昭和二年頃右 から二人目 島政二郎岸田 國士三上於嵬 吉小林秀雄 その後佐佐木 茂索鐵兵菊 ー ~ 池寛吉川英治

6. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

412 の短篇一つを採った。周圍の靑年の僞善にあき、無能で優柔な金滿を念頭において書いていることは、作品の結構からみても諒解され 家の長男と結婚した女が、小助靑年を知り、次第に愛情にめざめる る。佐佐木は鸛外の簡潔な歴史小説とは異って、家出した養子から 過程を、芝居見物とか、ストリンドベリとか、賑かな小道具をもち長文の手紙を受取った老夫婦の微妙な心理の搖れ動きを的確に描く いて明るいスタイルで描きあげる。小助靑年からみると、貧乏と純にある。老夫婦は、ロでは家出を批難しながら、すでにこれを許し 愛とが情感のうちに描き出され、美しいリリシズムとなっている。 愛していながら、二人の間で、お互いにそれとは隱してさぐりあう 十一谷と同じく夭折した作家に池谷信三郞がある。池谷は東大英ところが、見事に描き出されている。この纎細な情緒のニアンス 法科に在學中にドイツ留學、そのベルリン時代を描いた『望鄕』 をあふれさせるところに、現代的な氣品がただよい、美しい人生模 ( 大正一四・一・一 ーー六・一〇・時事新報 ) が懸賞當選して、作家生活に様がみえている。 入った。第一次大戦後のインフレ時代に、ドイツ各地に大罷業の勃 その後、ちょっとした見どころの面白さから書いたような『選擧 發する反面、留學生は爲替相場を利用して富裕であり、浪漫的戀愛立會人』 ( 大正一三・一・新小説 ) のほか、多くの短篇小説を書いた。 と憂愁を挿話的に重ねて、風俗小説としている。『橋』 ( 昭和一一・六 表札に名刺をもちいるのは、士大夫のすることではないと戒める父 改造 ) は、『望鄕』と同じように、ドイツらしい外地を舞臺に、男その人が、失敗の生涯を送った人である。その父が府會議員の選擧 女の愛欲を、情景描寫によって、甘美な抒情にまとめている。今東立會人に任命された時の辭令を大切に保存していて、これで生涯の 光と同じように、明快な機智や意表を衝く逆説を得意としている。 箔でも着けたつもりでいるのかと思えば、嗤ふにも嗤えないといっ 池谷は『望鄕』の當選後、村山知義、河原崎長十郎らと劇團「心 たところがよく出ている。或いはこれには京都の種油製造業で、綴 座」を結成し、演劇に興味を示した。『橋』に先立って書いた三場の錦製造に手を出して失敗したという實父が影を落しているのかもし 戲曲『おらんだ人形』 ( 大正一五・一一・文藝春秋 ) は、一人の胸を病むれない。そうすると、『おちいさんとおばあさんの話』にも、叔父 女をめぐる二人の靑年の微妙な心理を、輕妙な會話で書き、靑年らの養子となった自分の姿を、じいさんばあさんの方から眺めたもの しい憂愁を混えて、甘美である。靑年の和蘭人形、亠円年の手品 と考えられる。私小説的要素をもちながら、ここに新しい時代の感 の玉、女の香水といった小道具が象徴的に活用され、秋の都會色を覺が情緒的に情景の美しさをつくっている。 いろどる。『橋』のように凝った作品よりも、この戯曲の方に、素 かような新時代の感覺ーーーいわゆるハイカ一フさをもって、京都の 直な作者の才気がみえる。 ような古都を背景に品格のある美しさを定着したのが『日』 ( 同・ 一〇・文藝時代 ) である。獨身の埃つにさを兄に指摘され、從姉の娘 四 をもらおうかと、用事かたがた京都にゆく。歩き疲れて新京極のカ 佐佐木茂索は菊池寬、芥川龍之介らの直系であり、『おぢいさんフ = で腰をおろし、なに氣なく鏡にうつった自分は、「身の衰えと云 とおばあさんの話』 ( 大正八こ一・新小説 ) が出世作である。芥川龍はうか、何時の間にか忍び込んだ老・ーー老と云ふのも氣が早過ぎる 之介は私信で「新小説の小説悉讀んだ佐佐木茂索作る所のおぢいさ が、ともかく靑春は既に昨日の花である」ことを知る。從姉親娘の んとおばあさんの話を以て壓卷と爲すー ( 大正八・一一・一八・佐佐木方はどうか。圓通寺でひらく茶會のための下見に出かけてから、兄 茂索宛書簡 ) と賞揚した。もちろん、森鸛外の『ちいさんばあさん』 はいった。「嫁に貰ふ氣があるのかーーー止めにしとき。あれはあか

7. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

諏訪三郞、鈴木彦次郞の十四名である。その後、岸田國士、南幸夫、郞、高橋新吉らを生みだすほどに親炙していった。だから、大正八、 酒井眞人 ( 一三・一一月 ) 、三宅幾三郞、稻垣足穗 ( 一五・三月 ) の五九年ごろから、詩歌・戲曲を先驅に、前衞藝術は廣汎に文學の様相 を變え、『文藝時代』に結集した作家たちは、結集の前から、めい 名が加わり、今東光 ( 一四・六月 ) が脱退した。この作家の中には、 めいの仕方で、新感覺派文學の方向にすんでいた。 關東震災の年、大正十一一年一月に菊池寬の創刊した『文藝春秋』の 新感覺的表現の創始者として自他ともに許される横光利一は初期 「編輯同人」に名をつらねるものが十名いるので、すでに新進作家 の習作から、表現に凝り、ある種の匠氣をもっていることは知られ として文壇的に知られていた作家たちの集團である。しかし彼らが 志向を一つにして意識的に新しい文學運動をおこそうとしたか、そている。この彼が『文藝時代』の「同人處女作號」 ( 昭和二・二 ) に よせた作品は『笑はれた子』 ( 大正一一・五・塔・『面』の改題 ) であり、 れが新感覺派に統一されたかといえば、否認しなければなるまい。 千葉龜雄の批評が現れる前の『文藝時代』の卷頭論文は、十一谷志賀直哉の『淸兵衞と瓢簟』の向うを張って書かれた作品で、新感 義三郎の『作家の世界』 ( 創刊號 ) 、石濱金作の『個人主義の展開』覺派以前の「過去の藝術」と、みずからきめつけている。「内面的 な光り」を重んじ、「外面的な光り」を重んじなかった「片輪時代 ( 二號 ) であり、「創刊の辭に代へて」書かれた『新しき生活と新し き文藝』の主要同人七名の言説は、既成作家に對する新進作家の挑の私の作」とみたからである。これは、「内面とは、外面の持っ魅 戰といった世評を暗にみとめて、新進作家の立場から眺め、「人生力であるとしてみれば、外面なくして内面の魅力はあり得ない」と に於ける文藝を、或は藝術意識を本源的に、新しくすること」とする形式主義への志向から評價したためである。しかし、この『笑 漠然といったにとゞまる。しかも、千葉龜雄が同人の作風の特色かはれた子』でさえも、『淸兵衞と瓢簟』にくらべれば、いかに「新 ら「新感覺派」と命名し、外部からは廣津和郞、生田長江、中村武感覺派」的であることか。さらに『蠅』 ( 大正一一一・五・文藝春秋 ) 、 羅夫らによって、「新時代の蛙等よ聞け」 ( 長江 ) といった調子で、揶『日輪』 ( 同・新小説 ) となれば、誰の眼にも明かになってくる。この 揄と中傷にみちた批判を浴びせかけられると、同人の間からは、岸ことは川端康成についても同じである。いや、前記「同人處女作號」 に紹介された作品 ( 本來の處女作とは限らない ) 十六篇について檢討 田國士や佐佐木茂索のように、この名稱を忌避するものも出た。し してみると、『文藝時代』以前に新しい時代感覺として、いわゆる かし、そういう岸田國士や佐佐木茂索の作風をとって眺めてみると、 明かに大正期の作家たちとは異った新しい時代感覺を身につけ、い「新感覺」を志向していたことを、案外、簡單に指摘できる。 千葉龜雄が新感覺派の源流の一つに『人間』 ( 大正八・一一 わゆる「新感覺主義」と唱えるものと共通する現代性 ( モダニティ ) 一・六 ) 派にみられる新技巧派に着目したことには理由がある。里 をあらわしていた。この意味で、「新感覺主義」の名稱の是非は として、彼らによる現代文學の誕生は否定できず、また『文藝時代』見弴、久米正雄らの『人間』は、白樺派の系統をひきながらも、も っと廣汎な綜合雜誌の觀があり、すでに宇野浩二も記していたが、 解の同人に限られているものでもない。 品 すでにみたように、二十世紀藝術または前衞藝術としての現代文『新進作家創作集』 ( 大正一〇・八 ) には、十一谷義三郞の『泥濘』、 作 學の誕生は、ヨオロッパにおける第一次大戦とその前後におこった佐佐木茂索の『短篇小詭』、伊藤貴麿の『天邪氣』、三宅幾三郎の 『海邊の寺にて』、牧野信一の『坂道の孤獨參昧』、片岡鉞兵の『舌』、 8 各種の藝術運動に胎生し、わが國におけるほゞ同時的な移植となし、 4 關ロ欽郎の戲曲『母親』を掲げ、牧野、關口を除けば、後の『文藝 川路柳虹、平戸廉吉、禪原泰、或いは辻潤、武林無想庵、萩原恭次

8. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

新感覺派の誕生 困った人達池谷信三郎 十一谷義三郎 若き讀者に訴ふ價 おらんだ人形新進作家の新傾向定 大養健 解説 花 感覺活動 昨日への ~ 貰感と 白 ル第になる男 「ハ月小 明日への豫感 亞刺比人ュルア 風騒 鑼新象徴主義の基調 フィ銅 あの泣この泣 冂の事 美し 仕立屋マリ子の 二つの心裡末梢經ズよし ト生積垣足穂 新感覺派は斯く 主張す 漢奇聞木彦次郎 新感覺派の表 店 にキレ又 ) 歩・′勿五ロ リナ 宗次良 文藝と時代感覺 散歩しながら七月の健康美止めのルフレヱン 新感覺派とコンミ ニズム , ズ丘 石濱金作 今東光 ある死ある生作品解説 頼召戈 - 親感覺 / 學入門 ,. 昌正夫 新感覺派評論隻 卞円 片岡鐵兵 ルロ 幽靈 生ける人形 佐佐木茂索 おぢいさんと おばあさんの話 選擧立會人 痩せた花

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が、言葉をかけることもできなかった。また、私が日本評論瓧に勤しい時代をつくる雜誌だ」という鮓烈な印象をあたえたが、皮肉に 6 じん めていたとき、敬尚という編集者に連れられて、鎌倉の川端氏をも〈新感覺派〉と命名されてみずからも〈新感覺主義〉を唱え、新 訪ねたことがある。頑君と川端氏はさっそく碁を打ちはじめたが、奇な意匠のくふうをこらす傾向を示しはじめると、佐佐木や岸田國 私は碁をほとんど知らないので、手持無沙汰にしているより仕方が士がはっきり批判的態度をとり、菅や鈴木、中河らは精彩を缺き、 横光と川端以外は以後ほとんどそれぞれの資質を生かす作品を書い なかった。 こうして、新感覺派の推進力といわれた川端・横光の兩氏に、念ていない。本卷所收の作品は、すべてが〈新感覺派〉とはいい難い 願を果たしてその實物 ( ? ) を見ることができたが、、それは淡々たが、當時の有力新人たちの傑作集と言っていいだろう。しかし途中 ( 詩人・歌人 ) から加わった岸田國士や稻垣足穗のような存在を除けば、横光、 る遭逢でしかなかった。 端以外の〈新進作家〉はその後ことごとく書かなくなるか、書けな くなってしまったのである。いずれも早くからすぐれた才能を示し 『文藝時代』における横光と川端 ていた人たちばかりなので、大成しなかったのが惜しまれる。それ だけに、〈新感覺派〉の中での横光、川端がひときわ光った存在に 小田切進 なった。 この卷には今ではほとんど埋もれてしまった『文藝時代』所屬作ところで『文藝時代』の命名者は川端だったが、創刊をはじめに 家たちの佳作が選びだされて編まれるという。そこでここには本卷企てたのはこの二人のどちらでもなかったらしい。今東光の「『文 に評論しか收められなかった横光と川端の役割にふれながら、雜誌藝時代』の頃」によると、最初に石濱金作と菅忠雄の二人が東光を たずねて「何か新しい雜誌をやりたい」と誘われ、川端、横光、中 『文藝時代』創刊の經緯をたどってみたい。 大正十三年十月、創刊された『文藝時代』の同人はいずれも當時河、鈴木、佐々木味津三らを「手近かなところから招集した」とい の有力な新人ばかりだった。中でも橫光は前年の五月、菊池寬の推う。すると「意外なニ = ースが僕の耳に入って來た。というのは菊 薦によってすでに「蠅」「日輪」を『文藝春秋』『新小説』に一擧に池寬が大變に怒っているというのだ。そのために菊池寬から個人的 川端もまたに世話になっている同人の中に動搖を來たし、最初の氣勢とは違っ 發表して最も才能ある新進作家として認められており、 大正十年四月、第六次『新思潮』に發表した「招魂祭一景」で菊池たものになりそうな形勢に、僕は金山の菊池邸に乘り込んだ。する 寬らに認められ、早くから有力新人として注目されていた。『文藝と菊池寬は『君等は明らかに「文藝春秋」に損害を與えるじゃない 時代』によるいわゆる〈新感覺派〉の文學運動はこの二人を中心にか』と單刀直人に抗議した」が、東光がすでに發展中の『文藝春 くりひろげられ、作家としても、理論家としても二人のしごとがき秋』と、營利雜誌ではない同人誌を比較することがおかしいと説明 わだって光っていた。創刊後しばらくの間は、佐佐木茂索、菅忠雄、したところ、「菊池寬は諒とした風だった。僕はこの對談の結果を 鈴木彦次郎、今東光、片岡鐵兵、中河與一、諏訪三郎らのそれぞれもたらし、同人を激勵し創刊に邁進することをすすめた」と創刊前 の資質を生かした佳作が掲げられて、『文藝時代』は「これこそ新後の事情を説明している。

10. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

を「新潮」、「押しそこねる」を「文藝春秋」を「女性」、五月、「金など」を「文藝春秋」、類・徴妙な注意・ゆきずりの心・竊笑・生活の一例・靑き 8 を踏む・選擧立會人・水いらず・翅鳥・おぢいさんとおば に發表、中村武羅夫・岡田三郎・堀木克三ら「海邊の町で」を「中央公論」、六月、「雲に あさんの話・王城の從兄・おしやべり・靦慚・麗日・來 と「不同調」の同人となる。八月、「小畑の鳥」を「新潮」に發表。七月、芥川龍之介往・或日歩く・衷懷・赴くまま・曠日・ある死、次の死・ 白銅」を「文藝時代」、九月、「生活の一例」自殺。九月、「文藝春秋」「改造」の芥川特集病・夢ほどの話・莫迦なはなし・風俗史一挿話・空氣の 皺・輕く自嘲・母の妾宅・女の手紙・蜂・動機・誰の艷 を「女性」に發表、時事新報瓧退瓧。十月、號に、追悼文を寄せる。十一月、岩波版『芥 書・小畑の白銅・行そびれ・袱紗・地見・對天の閨休・亡 「所謂生き死に」を「改造」、十一月、「成義 川龍之介全集』の編纂委員となる。昭和三年びる・話しが : ・金など・生きてしまった人と・出世・ ピアノ・千人の散歩者・無響頭・雨のもる家・小山の死・ . の道樂」を「不同調」、小品「秋日曝身」を ( 一九二八 ) 、一月、「おもふは」を「新潮」、 あるーー話・凋む花東・消ゆる戀・マキュラに就て・手・ 「文藝時代」に發表。大正十五・昭和元年「ともに老ゅ」を「中央公論」、「或冬の日に」 胸をいだく・ビュリタンの塊莖・返へさず・尼、以上七十 ( 一九二六 ) 、一月、「それぞれ」を「文藝春を「文藝春秋」に發表。四月、第三短編集四編收録 ) 、いままでのほぼ全作品を收録。十 秋」、「無響頭、を「新潮」、「ふるさとびと」『南京の皿』、改造瓧刊 ( 雲に鳥・海邊の町で・古い月、文藝春秋社に入瓧、文藝春秋社總編集長 を「中央公論」、「靑きを踏む」を「女性」に新芽・影・ふるさとびと・逆目立っ・兄との關係・所謂生となる。昭和五年 ( 一九三〇 ) 、七月、「文藝 發表。三月、「あるーーー話」を「文藝時代」、き死に・父子一面・父のおもはく・竹植ゑて・あるーー 春秋」最初の臨時增刊「オール讀物號」を 話・讀脣難・長い一日・乾笑・或各の日に・おもふは、以 四月、「逆目立つ」を「中央公論」、「出世」 發行する。九月、九日より「困った人逹」を 上ナ七編收録 ) 、「芥川龍之介の靈前に獻ず」と を「文藝春秋」に發表、「新潮」誌上におい 「朝日新聞」タ刊に連載 ( 十一月七日まで ) 。昭和 題され、裝幀は、小穴隆一、卷末に、芥川の て、「佐佐木茂索氏の印象」を特集。六月、 六年 ( 一九三一 ) 、十二月、「文藝春秋」創刊 手紙を紹介した一文「『南京の皿』の後に」 「竹植ゑて」を「新潮」、「影」を「改造」に 十周年記念愛讀者大會を日比谷公會堂で開 を書いた。五月、「或日の日記」を「文藝春 發表。七月、第二短編集『天の魚』、文藝春 催、唯一の長編小説『困った人逹』、白水瓧 秋」、七月、「魚の心」を「改造」、「僕の澄江 秋出版部刊 ( 影・ふるさとびと・兄との關係・所調生き 刊。裝幀は、小穴隆一。昭和七年 ( 一九三 堂」を「文藝春秋」 ( + 月まで連載 ) に發表。 死に・人おのおの・傷つく顳・微妙な注意・ゆきずりの 一 l) 、四月、文藝春秋瓧専務取締役に就任。 昭和四年 ( 一九二九 ) 、一月、「是好日」を 心・對天の闘休・竊笑・生活の一例・靑きを踏む・逆目立 八月、父、常右衞門、享年七十七歳で死去。 「文藝春秋」に發表。五月、新進傑作小説全 つ。竹植ゑて、以上ナ四編收録 ) 、裝幀は、松山省 昭和八年 ( 一九三一一 l) 、二月、新雜誌「話」 集第 3 卷『佐佐木茂索集』、平凡瓧刊 ( 選擧立 三。八月、「返へさず」を「文藝春秋」、九 創刊を記念し、「文藝春秋祭」を開催。以降、 會人・水いらず・おぢいさんとおばあさんの話・王城の從 月、「亡びる」を「中央公論」、十月、「讀脣兄・おしやべり慚・麗日・來往・衷懷・曠日・影・兄この祭は、毎年の行事となる。五月、最初の 難」を「女性」、「父子一面」を「改造」に發との關係・所謂生き死に・傷つく顳類・微妙な注意・ゆき就員公募を行なう。この時、池島信平入瓧。 ずりの心・雲に鳥・魚の心・或日の日記、以上十九編收 表。昭和一一年 ( 一九二七 ) 、一月、「小山の 昭和九年 ( 一九三四 ) 、二月、直木三十五死 録 ) 。八月、『新選佐佐木茂索集』、改造瓧刊 死」を「文藝春秋」、「生きてしまった人と」 去。七月、「秋果圖」を「中央公論」に發表。 ( 魚の心・或日の日記・雲に烏・海邊の町で・古い新芽・影・ を「中央公論」、三月、「父のおもはく」を ふるさとびと・逆目立っ・兄との關係・所謂生き死に・父九月より、文藝春秋瓧主催の文藝講演會を全 「改造」に發表、文藝春秋瓧より創刊された子一面・父のおもはく・竹植ゑて・讀脣難・長い一日・乾國の都市において開く。十月、「東京愛讀者 「手帖」の同人となる。四月、「話しが : : : 」笑・或冬の日に・おもふはーー ・人おのおの・傷つく顳大會」開催。最初の文士劇「父歸る」上演。