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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

ならば、餘りにも卑しく、餘りにも僣上ではないか ! 「内容」が新しくないとか「中味が既成作家より新しい所がない」 4 何をか内容と云ふ ? 内容とは事件か ? 材料か ? 事大思想の とか云ふのは、徒らに我々を誣る者である。 わら 若輩の頭の惡さ、嗤ふに足るべしである。 七 新時代だからとて、汽車が天に昇ったり、魂が人造されたりする のを豫想する彼らは馬鹿である。驚くべき材料の新しさ、事件の奇 以上は、感覺の新發見を重する議論と甚だ間違へられ易い感想 拔さを、彼らの所謂「新しき内容」として求める者は馬鹿である。 である。然し、感覺の新發見それのみが我々の奪重するものではな 作品の内容とは、その作品の材料となった事件ではない。その作い。又斯る發見は意識的にも無意識的にも昔から行はれて居ること 者が材料の上に呼吸するその生活の方法である。その生活の方向で で、敢て新しい物ではないこと勿論である。ただ、我々の時代の所 ある。 謂「感覺的に」と志すのと、普通の感覺の新發見との間には、おの 汽車が小驛を通過することを、「默殺した」と感じる、その感じ づから態度の差がある。前者が、物の見方、考へ方、取扱ひ方の自 方こそ、その作者が物の上に於ける生活方法を暗示する。さうし然の方向であると共に、それは全生活の最初の第一であるに對し、 て、斯る生活方法を曾って如何なる既成作家が採ったか。「通過し 後者は一層享樂的であり趣味的である。前者が全然溂たる生命の た」にしろ、「默殺した」にしろ汽車の動き方其物に新舊があるわ飛躍であるに對し、後者は寧ろ頽的な努力である。 けではない。新も舊も、同じ材料の上に立つ。しかも、その同じ材 その他、アンドレヱフなどの手法が不自然な努力に出るもので、 料の上に立って、「通過する」と見るのと、「小驛を默殺する」と感 それが如何に我々の時代の所謂感覺的な手法と異るか、十九世紀末 じるのとでは、物の上に於ての生活方法に異常の距離があるとしな のシムボリズムが我々に與へて居る貢獻と害とに就いてとか、色々 ければならぬ。そして、「通過する」とのみ見るのが、從來の既成論じて彼らと我々とを區別して置きたいと思ふが、時間と紙數がな 作家の常識的な方法であるのに反し、「默殺する」とも感じるのは いので、これで筆を擱くこととする。 ( 大正十三年十一一月「文藝時代」 ) 新進作家のみが是認する新しい方法であると主張し得られる。 「通過する」と見るのは正當である。だが「默殺する」と見るの は、正當なる常燾方法から遙かに飛躍した新しい感覺的方法であ 新進作家の新傾向解説 る。そして斯る感覺方法は、更らにつづいて來る生活の新しさを暗 示する。何故なら、生活の方向は感じ方の方向によって定まるのだ からーー・斯る感じ方、生活の方向等の新しさは、とりもなほさず、 新時代に新しき認識論を樹立する前提となるのである。 我々は、汽車が小驛を「默殺する」と感じる事によって、汽車の 走り方其物の變化を主張するのではない。汽車は相變らず小驛を 「涌過する」とのみ見られた時代と同じ走り方をするのである。變 るのは只我々の生活方法のみである。汽車其物が變らないからとて しひ 端康成

2. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

諏訪三郞、鈴木彦次郞の十四名である。その後、岸田國士、南幸夫、郞、高橋新吉らを生みだすほどに親炙していった。だから、大正八、 酒井眞人 ( 一三・一一月 ) 、三宅幾三郞、稻垣足穗 ( 一五・三月 ) の五九年ごろから、詩歌・戲曲を先驅に、前衞藝術は廣汎に文學の様相 を變え、『文藝時代』に結集した作家たちは、結集の前から、めい 名が加わり、今東光 ( 一四・六月 ) が脱退した。この作家の中には、 めいの仕方で、新感覺派文學の方向にすんでいた。 關東震災の年、大正十一一年一月に菊池寬の創刊した『文藝春秋』の 新感覺的表現の創始者として自他ともに許される横光利一は初期 「編輯同人」に名をつらねるものが十名いるので、すでに新進作家 の習作から、表現に凝り、ある種の匠氣をもっていることは知られ として文壇的に知られていた作家たちの集團である。しかし彼らが 志向を一つにして意識的に新しい文學運動をおこそうとしたか、そている。この彼が『文藝時代』の「同人處女作號」 ( 昭和二・二 ) に よせた作品は『笑はれた子』 ( 大正一一・五・塔・『面』の改題 ) であり、 れが新感覺派に統一されたかといえば、否認しなければなるまい。 千葉龜雄の批評が現れる前の『文藝時代』の卷頭論文は、十一谷志賀直哉の『淸兵衞と瓢簟』の向うを張って書かれた作品で、新感 義三郎の『作家の世界』 ( 創刊號 ) 、石濱金作の『個人主義の展開』覺派以前の「過去の藝術」と、みずからきめつけている。「内面的 な光り」を重んじ、「外面的な光り」を重んじなかった「片輪時代 ( 二號 ) であり、「創刊の辭に代へて」書かれた『新しき生活と新し き文藝』の主要同人七名の言説は、既成作家に對する新進作家の挑の私の作」とみたからである。これは、「内面とは、外面の持っ魅 戰といった世評を暗にみとめて、新進作家の立場から眺め、「人生力であるとしてみれば、外面なくして内面の魅力はあり得ない」と に於ける文藝を、或は藝術意識を本源的に、新しくすること」とする形式主義への志向から評價したためである。しかし、この『笑 漠然といったにとゞまる。しかも、千葉龜雄が同人の作風の特色かはれた子』でさえも、『淸兵衞と瓢簟』にくらべれば、いかに「新 ら「新感覺派」と命名し、外部からは廣津和郞、生田長江、中村武感覺派」的であることか。さらに『蠅』 ( 大正一一一・五・文藝春秋 ) 、 羅夫らによって、「新時代の蛙等よ聞け」 ( 長江 ) といった調子で、揶『日輪』 ( 同・新小説 ) となれば、誰の眼にも明かになってくる。この 揄と中傷にみちた批判を浴びせかけられると、同人の間からは、岸ことは川端康成についても同じである。いや、前記「同人處女作號」 に紹介された作品 ( 本來の處女作とは限らない ) 十六篇について檢討 田國士や佐佐木茂索のように、この名稱を忌避するものも出た。し してみると、『文藝時代』以前に新しい時代感覺として、いわゆる かし、そういう岸田國士や佐佐木茂索の作風をとって眺めてみると、 明かに大正期の作家たちとは異った新しい時代感覺を身につけ、い「新感覺」を志向していたことを、案外、簡單に指摘できる。 千葉龜雄が新感覺派の源流の一つに『人間』 ( 大正八・一一 わゆる「新感覺主義」と唱えるものと共通する現代性 ( モダニティ ) 一・六 ) 派にみられる新技巧派に着目したことには理由がある。里 をあらわしていた。この意味で、「新感覺主義」の名稱の是非は として、彼らによる現代文學の誕生は否定できず、また『文藝時代』見弴、久米正雄らの『人間』は、白樺派の系統をひきながらも、も っと廣汎な綜合雜誌の觀があり、すでに宇野浩二も記していたが、 解の同人に限られているものでもない。 品 すでにみたように、二十世紀藝術または前衞藝術としての現代文『新進作家創作集』 ( 大正一〇・八 ) には、十一谷義三郞の『泥濘』、 作 學の誕生は、ヨオロッパにおける第一次大戦とその前後におこった佐佐木茂索の『短篇小詭』、伊藤貴麿の『天邪氣』、三宅幾三郎の 『海邊の寺にて』、牧野信一の『坂道の孤獨參昧』、片岡鉞兵の『舌』、 8 各種の藝術運動に胎生し、わが國におけるほゞ同時的な移植となし、 4 關ロ欽郎の戲曲『母親』を掲げ、牧野、關口を除けば、後の『文藝 川路柳虹、平戸廉吉、禪原泰、或いは辻潤、武林無想庵、萩原恭次

3. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

いるおもむきがある。すでに個性たしかな存ているが、それの行きついたところが、前記、 とではない。プロレタリア文學におけるモダ 8 引在だったのである。 『人間』の「新進作家創作集」の處女作「舌」ニズムは、この時期の片岡の作に一つの端的 であった。この六十枚ほどの作品を四日間でなあらわれをみせている。 片岡鐵兵 書きあげたというのだから、すでに逹者な書 佐佐木茂索 太平洋戦爭のさなか、旅行さきの和歌山縣き手だったのである。このあたりまでのこと 田邊で片岡鐵兵が急逝したとき、新感覺派時は、「文壇的自敍傅ーーー梗概的自傅」 ( 昭和十『文藝春秋』を主宰した菊池寛の大正十四年 代の僚友であり、その後もこの作家とは親し年『新潮』六月號 ) によっても識ることができに書いた一文に「文壇交友録」というものが つきあ あり、「二人限りにて交際ひたることある人」 い附きあいをもった横光利一は追悼記としてる。 を「友人」として擧げて、芥川龍之介以下に 「典型人の死」と題する一文を書いた。「近來『文藝時代』同人としての片岡は横光、 文壇の二十年史を誰か書かうとして、もしこ端、今東光、中河與一らとともに、その中心ついて一言ずついっている。佐佐木茂索の條 の時代の典型を文壇人から求めるとしたら、的存在であった。また、論客の先鋒でもあつには、「交友六七年。グッドセンスあり。」と 片岡鉞兵の生活と人以外には、一人もゐないた。「若き讀者に訴ふ」をはじめとする評論ある。六、七年といえば佐佐木が處女作である だらう。 ( 中略 ) 新感覺派の創始者、速力に對はおのずから獅子奮迅記の體をなす。作品で「おちいさんとおばあさんの話」を書いたこ する感覺の發見者、ひいては唯物史觀への行は「幽靈船」 ( 大正十三年『文藝時代』十二月號 ) 、ろからである。そして、この「グッドセン 轉と實踐者、またそれからの轉向と傳統への「綱の上の少女」 ( 十五年『改造』二月號 ) などス」こそ、たしかに佐佐木の身上といってよ 憧憬者にして、支那への橋梁の建設者。」とが評判にのぼった。このころの一著に『モダいものであった。しかもそれは、この作家の あるのは、その一節である。片岡の生涯を「時ンガールの研究』があるが、新しい女性のあ作品にも行きわたって、その作風をもなして 代の典型」とみるのはいささか親友的評價でりかたをつねに意識してやまなかった作家にいる。 『文藝時代』の旗揚げの前年、『文藝春秋』 あり、かっ追悼的記述であるとしても、この似つかわしいエッセイ集として注意を惹く。 作家の文壇登場以後はここにほとんどたどら『文藝時代』末期の片岡は、あるいはときにの創刊があって、そのころの『文藝春秋』は れている。「支那への橋梁」とあるのは、そ「左傾」を意識するようなことがあったかも同人制をとっていた。菊池、芥川、久米正雄、 の晩年に軍の要詞で中國におもむいたときのしれない。昭和二年、『手帖』十月號の短文山本有三、小島政一一郞、それに佐佐木といっ ことをいうのであろう。「轉向」以後の片岡には、「俺は今、思想的に苦しんで居る。」のたところは同人、横光、川端、石濱金作、酒 は、そのいたましさを漸次深めていっている文字がみえる。そして、翌三年には、はやく井眞人、鈴木彦弐郞、今東光、佐々木味津三、 も前衞藝術家同盟への參加が果たされる。こ南幸夫、中河與一ら、やがて『文藝時代』同 ようにみえる。 いつぼう、この「新感覺派の創始者」以前の前後から三、四年の間がこの作家の仕事に人の半數ほどを占めた面面は編集同人であっ のところを、片岡みずからがしるしていると最もみるべきもののあらわれた時期だろう。た。佐佐木は格づけが一枚うえの扱いであ ころにさぐると、「自然主義から耽美派・象しかしそれは「左傾」を果たしたことにおいる。『文藝時代』の同人では佐佐木、片岡、 徴派〈の心醉」 ( 「片岡鐵兵全集序」 ) と要約されて、「新感覺」の流儀が捨てられたというこ岸田が年長者であるが、ことに佐佐木にはい

4. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

とにかく表現偏重の是非に就いてはこれ位に止め置き、表現手法内容共に完成の妝態に近づく時、この運動は世界に誇るべき一大運 0 に一暼を與へることに移らうと思ふ。併し、本誌一月號に於ける川 動となり、世界文學史に先驅者の位置を占むるに至るであらう。さ 端氏の「新感覺的表現の理論的根據」は略ぼ吾人の言はんと欲するて其の日本の新象徴派に屬する諸家であるが、吾人は其の中に「文 所を盡してゐるので、簡單に要約することにする。新象徴主義の表藝時代」の同人諸氏、「文藝戦線」同人中の數氏、それから新進な 現に著しい特色として見られるのはダダイズムであらう。それが初らびに無名の作家では、「葡萄園」の諸氏、富ノ澤麟太郎氏、さて オオソドックス めて文壇に紹介された時、永久に正統派としては認められない傍流は「職工と微笑」に晦澁な表現法をとった松永延造氏其他を數へた 的運動であると評せられたが、驚くべし、數年ならずして文壇主派いと思ふのである。 の表現に浸潤して、迷信的リアリズムを破壞しようとしてゐる。迷 さて其の中で、最も特異な位置を占める者は橫光利一氏であら 信的リアリズムとは何か。それは現實を餘りに重視するの結果、現う。その「日輪」に現れた緊密な進行形式と、間然する所無き描寫 實を靜止の姿に分析し、凝視しようとする傾向である。勿論、新象の精嚴は、稍アンビシャスに過ぎるとはいへ特に注目さるべきであ 徴主義と雖も現實を重視する。併し、それは分析によらすして、直る。其他、「蠅」に現れた主觀の象徴化、「赤い着物」に現れた抒情 . 觀により、靜止を見ずしてエラン・ヴィタール、すなはち未來と過的音樂、「碑文」及び創作集「御身」の序文に刻まれた彫刻的釀酵、 しを - なを、 去との識閾の創造的進化を見るのである。ダダイズムの精神が極端 いづれもリアリズムの時代を超脱してゐる。併し、氏にして更に大 な左翼に走る時、それは明らかに自殺的態度である。併しながら、 を望むならば短篇「御身」に現れたヒュマニチイの緩和をもっと 自我を絶對境に置く時、換言すれば主観を客観の中に沈潜せしめる多く必要とするであらう。また、氏は片岡鐵兵氏と並んで、あまり くわいらい 時、ダダイズムは表現主義に變貌して重要な傾向として承認されに透明な主觀と、徒らに深刻化された傀儡的心理と、更に語を進め る。けれども新象徴主義の表現はダダイズムばかりが重要ではな るとあまりに均齊された完成に近い作品の爲に、却てその未來を制 い。たとへば此の派の人々は新技巧派と呼ばれる芥川龍之介氏一派限されることになりはすまいかと思ふ。それよりも可なり未完成不 から胎生し來ったと信ずべきふしがある。また西歐藝術の痕跡に就統一な今東光氏、それから温雅にして未だ鋒芒を現すに至らない川 いて言へば、佛蘭西詩派の象徴的韻律、表現派の父と呼ばれるスト 端康成氏、石濱金作氏等の前途が興味を持って見られるのは此の點 リンドベルイの簡潔精嚴な暗示的描寫、スウイン・ハアン等の瑰奇なによるのではあるまいか。 交錯感覺、ロマン・ロオランの豐麗な感受性、ハウブトマンの有情 片岡鐵兵氏の感覺も特色がある。どれを讀んでも性的官能の透徹 化した沈默、シュニツツレルの黄昏の情調、ジャック・ロンドンのした閃きが現れて居ないものはない。そして、その作品は、テエマ 太い線描、ポォル・モオフンの「夜ひらく」を出發點とする未來派といひ技巧といひ、殆んどすべてが均衡のとれたよい作である。 的音樂、獨逸表現派の心象躍動、更に進んでは或る作家にはロダン 唯、その享樂的傾向と、深刻なニヒリズムとは、若くしてアンビ ド・ビュッシイの の三元的立體があり或る作家にはキャルメンが、 シャスな吾人の同感を得ないところである。その自暴自棄とまで行 作曲が聽かれ、或る作家にはベルグノンの講演があるのである。何かない運命論的なニヒリズムは、どことなしに長谷川如是閑氏の作 といふ複雜な構成を持っ運動であるか。 と共通な所があるが、如是閑氏のヒュウモアに對して餘りに惡魔的 かくして生れ來ったものは、日本の新象徴派である。彼等が表現な鐃さがある。其の「舌」の如き、實に悲慘な性格破産である。ま

5. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

比亞夜話』にもまして醇乎たる作品として愛している。 ぬみだらな遊興のように考えている主人公夫妻だから、甥が若い娘 復『星を賣る店』 ( 大正一二・七・中央公論 ) は、現代の生活にうっして、 と接吻する場面のある第二幕は、子供にはよくないと、見ないで歸 散文的な日常生活の中からーー・活動寫眞、自動車といった器機の働る。この一家の古風な嚴格さをもった家庭の様子がわかる。ところ く機械生活の中から、自在に生みだした "Amerry tale" である。大で、銅鑼に始まり、銅鑼に終った十人家内の一家から、銅が消え 阪生まれの稻垣が異國風の風物に富んだ飾戸に育ち、飛行家を志し、 ると、不規則・不檢束になり、果ては喧嘩騷ぎまで起る。銅鑼を取 自動車學校に學んだというような生いたちの中に、現代風なメル返そうというのが結末である。なかなか人間心理の機微をついて ヒエンをつくる性格を、伸ばしていたといえよう。當時販賣されて老巧である。他に『美しい姉の事』 ( 同・一一一・文藝時代 ) 、「二つの心 いたスタアというシガレットにまつわる聯想、紙箱の "Push this 裡』 ( 大正一四・一一・同 ) を探ったが、同様によくまとまった作品で end" と書いた端からくる神祕、錫でつ又んだ中味の祕密 : : : こんあり、的確にテーマをとらえ、批判に鐃さ、深さをみせている。 な何氣のない日常から突飛な空想が生まれている。神戸の町通りを 鈴木彦次郞と石濱金作とはともに川端康成らの第六次『新思潮』 歩き、その異國風な町造り、その中での支那人の奇術師、作者の前の同人であり、ともに『文藝時代』同人である。 作『星を造る人』 ( 大正一一・九・婦人公論 ) に喝采を送る活動役者の 鈴木彦次郞の作品から初期の作風の異る一一作、 『宗次郞は跛 ような縞シャツをきた男の奇妙な話、そして星を賣る店 : : : 灰色のだ』 ( 大正一四・六・文藝時代 ) と『七月の健康美』 ( 同・一〇・同 ) とを 街は忽ち綠なす美と幻想の街に變えられる。私は、久しぶりに『星採った。『宗次郞は跛だ』は、農村小説であるが、都會色をもって、新 を賣る店』を讀んで、タルホ・マニヤになりそうである。 感覺的表現をもちいている。農家の次男が相當な自作農の家に養子 『一千一秒物語』 ( 大正一二 ・一二刊・初出未詳 ) は稻垣足穗のさまざ に行き、農事よりも市場仕事を好んだ。この結果、乘馬に跳ねられ、 まな着想の見本を蒐集したような作品であり、才氣縱横の底の知れ跛になり、離縁となる。どんな無理でも、いっか百姓仕事をすると ないのに驚くだろう。さらに『散歩しながら』 ( 大正一四・一二・文藝こらえていた養父が、百姓ができぬとわかると、頑として許さずに 時代 ) や『天文臺』 ( 昭和二・三・文藝時代 ) をおさめた。これらも本離縁してしまう農民根性を描いている。ここに明快なスタイルをも 質的には變っていない。稻垣が戰後に發表した『 < 感覺と > 感覺』 った、農民の「土の性格」がある。北海道の營林署に出かけた林學 ( 昭和一一九・七ーー八・群像 ) にみられるような特異な性感覺が宇宙感生の見たものを描く『七月の健康美』とともに健康な作品である。 覺と共存する論理を明かにしている。 石濱金作も初期の對照的な一一作をあげた。『ある死ある生』 ( 大正 さて、菅忠雄は、『親と子の間』 ( 大正一一一・七・文藝春秋 ) 、『正秋』 一四・九・文藝時代 ) は書き流したような作品だが、機會を得て實驗 ( 大正一三・六・同 ) 、『硼酸』 ( 同・八・同 ) 等の短篇小説を書いて、『文に成功し、喜んだ隙に死が訪れるといった機微、他人の優しい愛を 藝春秋』の中から生れてきた作家であり、「文藝時代』同人として知らなかった女が、ふとした過失から、却って妾生活を淸算し、ほん 才能をのばした。『銅鑼』 ( 大正一三・一 0 ・文藝時代 ) は初期の作品 とうに生きる道をつかむといった機微を巧みに描いた、『喜劇』 ( 大 の中でも光彩のあるもので、人情の機微をうがった好箇の短篇であ正一五・二・文藝時代 ) は、このころの知識人のモノマニャックな心 る。食事時に使う銅を甥の出る芝居に貸し、この銅鑼をきくとい理的な錯亂を衝いている。撞球は作者の好む題材の一つであるが、 う名義で、堅氣な一家が芝居の見物にゆく。覿劇を士君子の立入ら 心理的な計算の物指となっているところがみえて、おもしろい。

6. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

いた、とは云へると私は思ふ。そしてこのことが、新進作家の作風る。他の人はどうか知らないが、私はさうである。そして事實、か に新しい「ポエムーーー詩美」を漂はせる一原因となってゐるのであう云ふ氣持が新進作家の表現に多分に現はれてゐる 9 片岡鐵兵、十 る。 一谷義三郞、横光利一、富ノ澤麟太郞、金子洋文その他の諸氏や 「葡萄園」の諸氏の作品を讀めば直ぐ目につくことである。これら 三表現主義的認識論 の諸氏の表現を、私の獨斷ではあるが、以上のやうな理論で基礎づ 例へば、野に一輪の白百合が咲いてゐる。この百合の見方は三通けようと、私は考へてゐる。 りしかない。百合を認めた時の氣持は三通りしかない。百合の内に 表現主義の小説家は、今のところ日本に見當らないが、そして表 私があるのか。私の内に百合があるのか。または、百合と私とが別現主義の表現の態度とは大分ちがふが、今日の新進作家の新感覺的 別にあるのか。これは哲學上の認識論の問題である。だから、ここ な表現もまた、表現主義の人々が認識論にその理論的根據を置いた で詳しくは云はず、文藝の表現の問題として、分り易く考へてみる。 と同じゃうに、認識論を味方とすることが出來ると、私は思ってゐ る。 百合と私とが別々にあると考へて百合を描くのは、自然主義的な 書き方である。古い客観主義である。これまでの文藝の表現は、す 例へば、代表的な横光利一氏の作品である。ある人々は、横光氏 べてこれだったと云っていい。 の作風を自然主義的であると云ひ、その表現を客欟的であると云ふ。 ところが、主襯の力はそれで滿足しなくなった。百合の内に私が これは明らかに誤解である。若し客襯主義なら、新しい客觀主義で ある。私の内に百合がある。この二つは結局同じである。そして、 ある。新主飆主義的な、主客一如的な客觀主義なのである。だから この氣持で物を書き現さうとするところに、新主観主義的表現の根一方他の人々に、表現派だとか、立體派だとか云はれるのである。 據があるのである。その最も著しいのがドイツの表現主義である。 例を引くまでもない。横光氏の作品のどの一節でも開いて見給へ。 自分があるので天地萬物が存在する、自分の主觀の内に天地萬物その自然描寫を讀んで見給〈。殊に、澤山の物を急調子に描破した がある、と云ふ氣持で物を見るのは、主観の力を強調することであ個處を讀んで見給〈。そこには、一種の擬人法的描寫がある。萬物 、主の絶對性を信仰することである。ここに新しい喜びがあを直觀して全てを生命化してゐる。對象に個性的な、また、捉へた る。また、天地萬物の内に自分の主襯がある、と云ふ氣持で物を見瞬間の特殊な妝態に適當な、生命を與へてゐる。そして作者の主觀 説るのは、主觀の擴大であり、主觀を自由に流動させることである。 は、無數に分散して、あらゆる對象に躍り込み、對象を躍らせてゐ そして、この考へ方を進展させると、自他一如となり、萬物一如と る。橫光氏が白百合を描寫したとする。と、白百合は横光氏の主觀 の内に咲き、横光氏の主觀は白百合の内に咲いてゐる。この點で、 なって、天地萬物は全ての境界を失って一つの精紳に融和した一元 糘の世界となる。また一方、萬物の内に主觀を流入することは、萬物橫光氏は主襯的であると云ひ得るし、客觀的であると云ひ得る。ま 碓が精靈を持ってゐると云ふ考〈、云ひ換〈ると多元的な萬有靈魂説た、横光氏の表現が溂とし、新鮮であるのも、このためである。 になる。ここに新しい救ひがある。この二つは、東洋の古い主覿主橫光氏の作品に作者の喜びが聞えるのも、この見方のためである。 義となり、客主義となる。いや、主客一如主義となる。かう云ふ かう云ふ氣持は、橫光氏や前記諸氏の表現ばかりでなく、大てい 3 氣持で物を書現さうとするのが、今日の新進作家の表現の態度であの新進に共通する特色である。そして、この表現の態度が、或ひは

7. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

を書き、昭和十年秋頃までに六百枚を淨書。作家」 ) を執筆。この頃、梅崎春生を知る。 で中野打越に居を定める。昭和一一十五年二月 品選定は小川繁子 ( 小川龍彦夫人 ) があたる。 ( 出昭和二十一年、八月、小山書店より『彌勒』二日、東京を離れ、京都に赴く。篠原志代 ( 婦 版を第一書房 0 春山行夫 = 依賴するが實現・ず、そ 0 後」を刊行。同月、「新生の記」を「新潮」に發表。人一 0 祉司 ) と結婚。京都市右京區山内御堂町中 く 0 〈 0 出版瓧を經 = 、昭和 = + 三年、書豐。→「 0 伊この年、金親淸の世話により、千葉驛前房總央佛敎學院學生寮 ( 染香寮 ) に住む。九月、「兜 逹得夫 0 手」より成る ) 昭和七年、一月、『明治・文藝連盟の事務所で生活。十一月、鷺の宮に率上生」を「作家」に發表。『現代日本小説 大正・昭和文學全集』第簡卷 ( 春陽堂刊 ) に「天移る。昭和一一十一一年、一一月、「惡魔の魅力」を大系第 0 卷、ダ = 一、』 ( 河出書房・三月刊 ) に「一千一 體嗜好症」その他を收録。翌八年 ( ? ) か、「新潮」に發表。四月、久ヶ原に住む讀者の家秒物語」他を收める。昭和一一十六年、四月、 父を喪す。以後生活の困窮から明石にて古着に移る。ここで、隨筆「ヰタ・キ = カリ = 」高根一一郎の世話で、宇治川北岸朝日山惠心院 屋を經營。この明石歸省の數年前から、文學上を思いっき、五月、「新潮」に發表。これをに轉居。昭和 = 一十五年一一月、「その獨創的で の行詰りからか作品は少いが、昭和七年、八機に、書肆 = リイカの伊逹得夫が「ヰタ・特異な且っ不斷の創作活動に對して」第四回 月、「お化に近付く人」をはじめ、その他數篇キ = カリ = 」出版の件で、足穗を訪問。八月作家賞を受賞。同年十一一月、伏見區桃山伊賀 を「文藝汎論」に發表して〔る。昭和十一年中旬、戸塚グフ一ド坂上に轉居。十月、『宇京都府立桃山婦人寮に移り、現在に至る。 十二月末上京。衣卷省三宅に身を寄せ、翌十宙論人門』を新英瓧より上梓。十二月、「姦前記の「兜率上生」の「作家」發表以後、そ 二年四月、牛込橫寺町の東京高等數學塾に移淫〈の同情」を「新潮」に發表。昭和一一十 = 一の主要な作品の殆どは ( 『一千一秒物語』『ヰタ・「 る。母の死の知らせを受けるが歸省しなか 0 年、二月、「白晝見」を「新潮」に、九月、そキ = 「リ = 』を除く ) 改訂・變形・合併・編入の形で た。この頃から飯塚酒場の常連となるが、アの第一一部「たげざんずひと」を「思潮」に發同誌に網羅されている。ここでは、「作家」 ~ 「ー ~ 中毒に犯される。この數學塾にて表。この年は單行出版が相欽ぎ、四月、『明發表作品以外の主な作品について記す。昭和 「彌勒」を執筆。昭和十五年、六月、『山風』石』 ( 小山書店 ) 、五月、『ヰタ・「キ = カリ = 』一一十六年、「雙ヶ丘」 ( 「群像」 0 月 ) 、同一一十八 を昭森瓧より上梓。十一月、「彌勒」を「新 ( 書肆、リイ、七月、『惡魔の魅力』 ( 若草書房 ) 年、「雪融け」 ( 「群像」五月增刊 ) 、同一一十九年、 潮」に發表。昭和十八年、一一月、三省堂より十一月、『彼等』 ( 櫻井書店 ) を刊行。また、「死「ライト兄弟に始まる」 ( 「群像」一月 ) 、同年、「 『飛行機物語』を刊行。翌十九年、六月、『星の館にて」 ( 昭和 = + 一年八月「藝林聞歩」 ) を『日感覺と感覺」 ( 「群像」七月〈ら九月」連載 ) 、同一一一 の學者』を芝山敎育出版瓧より單行出版。十本小説代表作全集第 0 卷』 ( 小山書店・五月刊 ) に收十年、「東京遁走曲」 ( 「新潮」七月 ) 、同年、「異 一月、鶴見海岸いすゞ自動車に徴用。昭和一一める。同年、高橋宗近の司會で、西脇順 = 一郞・物と空中滑走」 ( 「群像」 + 月 ) 、同三十一年、 蠣十年四月の空襲で燒け出され、一時池上德持稻垣足穗・伊藤整の座談會が行われる。十一一『ヰタ・キ = カリ = 』 ( 的場書房・、月刊・限定一 0 寺の知人宅に移るが、六月中旬には南武線稻月、篠原志代 ( 後 0 足穗夫人 ) を伊逹得夫を介し〇部 ) 、同 = 一十一一年、『現代日本文學全集 ~ 大、 垣田堤の農家に移る。 ( = 0 當時 0 體碑 0 「 0 物語」て知る。昭和一一十四年、『現代文學代表作全房・ + = 月刊 ) に「一千一秒物語」 〈昭和三 + 年 + 一月「作家」〉《なる ) 八月上旬、横濱集第〈卷』 ( 萬 0 閣・ = 一月刊 ) に「美しき學校」を收他を收録。同 = 一十 = 一年「『稻垣足穗全集 + ~ 釡』 弘明寺に轉居。終戦を迎え、同月下旬、雪ケ録。五月、東京を離れるため越中城端町に行 ( 書肆 = 。→ ? 0 月刊 ) 、同全集は昭和三十五年十 谷に移る。「日本の天上界」 ( " 和 = + 《年一月「作くが、六月、東京に戻り、江戸川亂歩の好意月までに、六卷 ( " 和一一一 + 三年 ~ 月 ) 、一卷 ( 同年 +

8. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

0 し、作家大養健はここで忽然と姿を濔す。政稻垣と牧野とはその作風にあきらかに共通すいた「『ちょい / 、』日記」も、この世界を 治が政友會總裁を父にもっかれを待っていたるところをもっている。夢みる人としての現扱っている。これまた年季のはいった獨壇場 のである。 實不印不離の筆法、大正のエクゾティズムとといわざるをえない。 いった共通項がそのあいだから拔き出せるでこの作家が昭和の十五年戦爭下、文壇から 稻垣足穗 あろう。なお佐藤春夫という小説の師を共通はほとんどまったく孤立し、無賴放浪の生活 稻垣足穗が『文藝時代』の同人に加わるのしてもった富ノ澤麟太郎と稻垣とのあいだにに徹したことは、それなりに一つの境界の確 は大正十五年三月號からであるから、この雜も關連する手法が認められる。イナガキ・タ立にほかならなかった。戰後にも無殘の生活 誌の後期にはいってのことであるが、その ) 一 ルホはその作品集の名のとおり、「星を賣るはつづいたが、それもまたこんにちの老いて 年にも、「」、「散歩しながら」といった店」を經營したが、イナガキ・タルホ从星雲なお若い作家境地 ( 稻垣の作品はさいきん、 作をこの雜誌に寄せている。すでに大正十一は大正末から昭和初頭にかけての文壇の空にことに若い讀者をひきつけているようだ ) を 年ごろから横光利一あたりとは交渉があったいくつか散在していたのである。タルホ星はみちびいたものとみられるかもしれない。 ようである。そのころの稻垣は未來派美術展そのなかにあっても、ひときわきわだった光 今東光 覧會に繪を出品している。はやくも米來派にりを放ったのである。 とりつかれていたのである。また、その畫題「童話の天文學者ーーセルロイドの美學者『文藝時代』をとび出した今東光が、とびこ の「空中世界」、「月の散文詩」などとあるの アスファルト街上の兒童心理學者 んだかたちの『不同調』の創刊號に書いてい をみれば、この作家の「天體嗜好症」もこう ゼンマイ仕掛バネ仕掛の機械學者ーー奇る「童話的表現による新感覺派の印象」と題 したところにきざしていたことが看て取れ異なる嘗能的レッテルの蒐集家ーーさうしする一文はなかなか辛辣である。その一節を る。しかし、「空中」への關心は飛行機に感て、アラビャンナイトの荒唐無稽をまんまと抽いてみる。 動、傾注した少年の日からのものといえるか一本のシガレットのなかに封じ込めたのだ 彼等は何等の宣言を有しなかった。彼等 もしれない。稻垣足穗における、この世のもぜ ? 誰が ? イナガキ・タルホがさ ! 」 は何等のモットーをも持たなかった。彼等 のならぬものへの憧れは根っからのものであと、その處女出版である『一千一秒物語』には何等の用意をしないで白い旗を立て又ゐ ったとみられるのである。 佐藤春夫が序したのは震災前のことである。 た。それを千葉龜雄氏は赤い石を投げた。 稻垣が『文藝時代』に誘われたとき、同時その『一千一秒物語』を出した金星堂はつぎ新感覺派といふ。 に牧野信一にも話があったとのことであるがの年から『文藝時代』をひきうけたのだか 白い旗には所まだらに赤い斑點が出來 ( そして、「稻垣君は一人で居る方がよい、別ら、稻垣は新感覺派にさきだって獨自の「新た。すべて白か。すべて赤く染まるとよか に文藝時代同人になることもなかろう」と吉感覺」を樹立していたともいえる。 った。ところがプチ色の旗が出來上った。 江喬松がその加入を批評したという話もおな佐藤の序言にもいいまわして表わされてはある人は新感覺派ではないと言った。ある じ文章〈筑摩書房『現代日本文學全集・月報』いるが、なお一つ、稻垣には「少年愛」の世人は俺こそ新感覺主義者だと言った。ある 所收「文藝時代の頃」〉に書きこまれているが ) 、界がある。『文藝時代』に加入して最初に書人はどっちでも好いと言った。ある人はそ

9. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

時代』の同人であり、牧野信一は創刊號編輯後記には好意ある執筆しもいうように、虚弱な體質で不幸な環境を苦學して打開し、學究 0 者にかぞえられている。しかも彼らの作風はこの時すでに後の新感としても、作家としても成功したかにみえたとき、父を、弟を奪っ 覺派を豫約する萌芽をみせていた。横光利一も『南北』 ( 大正一一・ た肺患が彼の中にも確實に進行していたので、厭世思想または虚無 一一・人間 ) をよせ、里見、久米らに次ぐ新しい世代の出現を告げて思想を深めずにはおられなかったからである。年譜によると、結婚 いたのだから、これを『人間』派または周邊の作家に數えるのも、 は數え年三十四歳、晩婚で、肺患の進行している時である。 當時としては正當であったろう。 この十一谷の初期の佳作は『靜物』 ( 大正一一 ・一一・東京朝日 ) で さて、『新感覺派文學集』と題する本書において、すでに單獨にある。小説家の新婚夫妻の生活を、友人の獨身畫家とモデル女とに 交錯させながら、結婚生活の不安定な氣分を、巧妙に描いている。 刊行された横光利一、川端康成、岸田國士を除き、十一谷義三郞、 片岡鐵兵、佐佐木茂索、稻垣足穗、今東光、菅忠雄、鈴木彦欽郞、 日常茶飯の平凡な事象とみえながら、畫家からおくられた紅い小鳥 石濱金作の八名の、この時代の特色あり、評判を得た作品を選んを小道具に使って、ウィッティな會話をあやつりながら、小説家夫 で、「新感覺派の目録」をつくった。ここに「新感覺派」がすでに妻の微妙な心理の奥にひそむ不安をさりげなく追求し、そこにすで 廣義にもちいられていることは明かであろう。この他、『白樺』後に虚無の影が退屈という形で射しこんでいる。 期ともいうべき大養健は、横光、川端らと交友を厚くし、このころ おそらく『靜物』は、題名のしめすように、未婚の作者のファン から新感覺派的作風をあらわし、後にともに『文學』 ( 昭和四・一〇タジによって試みられた結婚生活へのシニイクな心象風景ともいう ーー五・三 ) 編集同人となる關係から、また池谷信三郎は『文藝時べきものであったろう。だから、反面では、、老提琴家の敎訓を織り 代』の同人にこそ參加はしなかったが、新感覺派の作風と一つにし こみながら、若い口缶師貴と婦人との可憐な一フンデヴウをメルヒ工 ている關係から、その作品を採った。紙面の關係から割愛したもの ンに仕立てる『花束』 ( 大正一二・七・文藝春秋 ) も可能なのである。 も數が多い。評論においても、作品においても、新感覺派の代表者この『花束』は、或は川端康成のコントといった味いがするかもし の一人である中河與一は、本人の意志で、作品を寄せられなかつれない。しかし、『靑草』 ( 大正一三 ・一二・文藝時代 ) や『白樺にな る男』 ( 大正一四・一〇・女性 ) は、『靜物』の畫家と妻との間に對す る良人の作家の不安を具體化してみぜたもので、この作者の厭世思 想がにじみ出ている。前者は、幼馴染の少女である後の嫂と眇の兄 十一谷義三郎は、ペダンティックな考證趣味と泉鏡花・夏目漱石との間を嫉視する弟を、後者は、山の湖畔で妻と從弟の醫師との間 以來の凝った審美的スタイルとをもって、奔放な文明開化風な意匠にぼんやりとした不安をもっ胸を病む男を描いている。この後者の を展開する一連の『唐人お吉』 ( 昭和三・二 一一一・中央公論 ) を書妻は「長州型の顏」をもっていることで、『芽の出ぬ男』 ( 初出未詳・ いて、新感覺派流のモダニティとも、或いは古典派流のモダニティ但結婚前の作 ) の幼馴染の從妹を思わせ、或いは私小説的な要素があ とも、呼ぶべき風格をみせている。しかし、この小説の美的意匠のるかもしれない。この點は今は間うまい。 背後には、繪卷物に仕立てずにはおられない厭世思想が流れ、『唐『風騷ぐ』 ( 大正一四・一〇・文藝時代 ) から『仕立屋マリ子の半生』 人お吉』の續篇を「時の敗者」と呼んだような苦澁がみられる。誰 ( 昭和三・七・中央公論 ) 、『あの道この道』 ( 同・文藝春秋 ) になると、

10. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

362 かった。彼は只湲溂と效果強く、从態を感覺的に描寫したかったのた物の見方を以て、一般の人間の通常な理解に訴へる點に於て、素 である。彼自身、或る一篇の小説を作る上に於て、先づ急行列車の直にして飾り氣のない描寫である。常識その物である。 走ることを描寫するに、さうした方法を探る必要を認め、從って、 斯る常識的な、一般的な文章は、既成作家の慣用文章である。そ さうした方法の成功を念じて、さうした文章を書いたのである。もれは自然主義の方法から多くの距離を出ない、否、科學者の五官に し、その文章が感覺的に成功したらーー」渾身の感覺が、物の「動」標準を採った寫實主義に於て自然主義と同様の平面上にある日本の の从態の上に溂と生動したら、その文章は讀者の同様の感覺を、 リアリストに最も必然な文章である。彼らの物の考へ方、物の見 幻想されたる物の从態の上に溶合せしめずには措かない。讀者の感方、物に對する位置の採り方、換言すれば彼らの認識、彼らの持っ 覺はーーー理想的の場合は渾身の感覺がーー作者と共々に、一つの物方法論に必然な文章である。これはつまり、リアリストの宿命であ の从態の内に、从態の底に、从態の上に、生命を得るのである。讀る。私は斯る宿命を攻撃するのではない。斯る宿命に於て、彼ら既 者の事は姑く措く。斯のやうに作者の感覺が物と共に溶合して生き成作家の意義、使命の既に殆ど完成されたのを祝輻するのである。 る事は、その瞬間に第二の生活の始まる事を約束するのは云ふまで然も、既に殆ど完成された藝術は、既に殆ど完成された藝術とし もない。實にこれは私の詩でもなく、センチメンタルな獨斷でもなて、それは殆ど過去の時代が有した光榮として、之れを後ろに回顧 、亦勿論暴力的な詭辯でもなく、私は敢て云ふが、對象を感覺がするのは、新しく出發する者の義務である。熱情である。この義務 ひらめ 捉へて、次に始まる第二の生活と最初の感覺との間に詩が閃くのとこの熱情となくして何が新進作家であるのだ ? たとひ、どのや だ ! 故に、感覺的に生きれば生きるだけ、對象に對する人間の詩うに幼稚であらうとも、つまらなくあらうとも、新しい出發は、そ は溂と出るのではないか。そして次に始まる生活は ? 長い生活の時代にとって、古い完成よりも價値があるのである。 の物語はあらう。だが、此處に論ずる「急行列車」の状態の描寫の さて、常識に訴へた素直な文章は、たとへば「急行列車は小驛に 一句は、さうした生活まで説明する責任を持つものではない。それ停らずに」云々の如き文章は、常識的な、一般的な、公式的な感覺 は作者の志す所では初めからなかったのである。 を持って居る。然し、一般的な感覺といふものが、一般的な感覺に そこで、彼は書いた。 止まって作者獨特の物でないのは云ふまでもない。そして一般的な 「潸線の小驛は石のやうに默殺された。」 感覺以外の感覺を、既成作家がその認識方法の立場から、輕蔑し去 そして彼は、 、誇張だとし、幼稚だとするのも理の當然なのである。既成作家 「小驛には停らずに、激しい速力で疾走した。」とも、「小驛には停にとっては常識的文章のみが、彼らの物の見方、考へ方、感覺の方 車せずに驀進した。」とも書くことが出來なかったのである。 向其物であるのだから。 けれども、新しく出發した新進作家たる彼は、さうした常識的表 四 現では滿足出來なかった。滿足出來なかったと云ふ事實は、新しく 「小驛には停らずに、全速力で疾走した。」或は、「小驛には停車せ出發した者の方向を暗示し、その志と方向との關係の消息を語るに ずに、激しい勢で驀進した。」の如き文章は、對象を説明し得て明十分なる物である。彼は、一般的共通的な物よりも彼自身の感じ方 かである。それは正確なる記事である。それは一般の人間に共通しを、溂と效果強く表現しなければならなかった。彼自身の感じ方 しばら