上って、夕飯を濟ました時、宗次郎がうながすと、浮き立って、薄 化粧などして、疲れたとも云はず、山道を越して、市の活動へ一所 にゆく。そして、その夜中は、市の嬉しさを、しきりに宗次郎と話 し合ふお染だ。 然し、夜が明けて、日に、赭く畑の土が盛り上ると、お染の目に は、市の姿は一切消えて、ただ、赭土がなっかしくうつる。 だが、三平夫婦にお染、それに分家の次男が、兵隊から歸ってき たので、今年は手傳ってゐる。ーーー畑は、それで、充分だった。 大事にされる宗次郞は、殆ど、骨身にこたへる程、稼いだことは なかった。 宗次郞にとっては、それが、いい口實だった。 あまり樂すぎる。勿體なさすぎる。ちょいちょい市へ出て、 あきな 自轉車は、すぐ、買ってくれた。宗次郞は、ひまさへあれば、そ何か商ってみたい。 宗次郞は、かう云って、お染を説いた。 れに乘って、市へ出かけた。せはしくふるヘてゐる市の空氣のうち 「きまって、市さ出るのでなければ、おらも、いいかと、思ふけん を、ラージのコスタンをとめて、眞直に走りぬける愴快を、宗次郎 ど、父さまは、何と云はっしやるかな。」 は夢にさへ見た。 三平夫婦は、宗次郎を此の上もなく大事にする。宗弐郞は、そん お染は、それには賛成した。 なに大切にされる自分がこそばゆい。何事も、宗次郎次第である。 宗弐郞は、元氣付いた。夕飯後、あらためて、三平に申し出た。 野良に出かける時は、三平は、必ず宗郎に感謝の意を示す。歸「なに、云はっしやる。あれ位、稼いで貰へば、俺は有難くてなん わんご ねえ。そんたに、市さまで出て、稼いでくれなくともいい。おめえ れば、また、懇ろに、ねぎらふ。 だから、市へ出たい。畑はいやだ。 さう、宗次郞は、なかな に、無理に稼がせて、病になどかかられたら、俺ハア、世間に顏出 しなんねえちゃねいか。」 か云ひ出せぬのである。 三平は、丁寧にひきとめた。が、宗次郞は、それを、三平の遠慮 それに、お染は、不思議なほど、市をきらひだ。宗次郞は、お染 だだけには、くどいほど、自分の望を話す。その度に、お染の顏は、 と思った。だから、尚、幾度も幾度も、願った。三平は、どうして も、うん、と云はぬ。宗次郞は焦れてきた。今まで、何をたのんで 靆憂に沈む。 次「市へ出んでも、かうして暮してゆけるもの。市の暮しは、せつなも、いやと云はなかった相手だけに、少しむかついてきた。 いといふ話だスカ。おら、畑さ出ないと、お飯も、うまくないが 「父さま、こんたに願っても許してくれぬのスカ。何も、俺ア、父 さまのことばかり思って、云ふのでねい。俺の昔からの望でがん 幻な。」 3 宗次郞には、お染の氣持は全くわからぬ。 そのくせ、畑からす。市さ出て、一働きしてみたいとは、兼兼思ってるところだス。」 「なにさ。」 市へ出よう。お染と二人で商賣をしよう。今夜こそ、ゆっく り話してみるのだ。 いっ沈むか宛もない様に呑氣に靑空にひっかかってゐる日の光。 赭く照り返ってゐる畑の土。心地よげに、裏山から聞えてくる三平 の盆唄。 宗次郞は、夜を心にゑがいた。そして、更に、店の大戸を閉めて ゐる夜更のお染の姿を。 「お染よう。」 「なにてばさ。」 まんま
蒹吉は、それを心配した。あのままでは、宗次郞も、どこか、飛もう、これで安心だった。ただ一つ び出す。そして淸助の運命をたどる。 「おめ工、徴兵にとられなかったな。」 蒹吉は、やっと巧い思案が思ひ付いた。宗次郞のために、いい婿「うん。籤逃れさ。」 口を見つける。 これが、彼一家のためにも、宗弐郞のために さうだ。弱くて不合格になったのではない。毎年、點呼に呼 も、一番安全な方法だと思ひ定めた。そして、急いで、四方に傳手ばれる宗次郎だ。 なじよ を求めた。 兵隊は如何だったべ。 かたくて、相當財産があって、安全な、ーー兼吉の虫のいい望 はあ、籤のがれで。 は、案外、造作なく見込がついた。 さう答へるんだ。えへへつへ。 兼吉が、市〈出る度に、無二の飲み友逹として、必ず立ち寄る馬「仙太、おそいな。なにしてるべ。」 むろ 車屋の仁八は、絶好の婿口を見付けてきてくれた。 仙太の嫁が、室の戸を開ける音がする。宗次郞は、また、燒栗の 岸澤村でも相當な自作農藤井三平が、娘のお染のために、農家か澁をむきながら、ーー・味噌漬を出してゐるのだな、 と想った。 ら婿を求めてゐる。 4 兼吉は、すぐ、これ以上のロはない、と思ひ込んだ。 そして、始めて、婿にゆく氣はないか、と宗次郞に話した。 十日程の間、仁八は、しきりに訪ねてきた。その度毎に、誰かし むろん、承知と思ひ、干栗を爐にくべながら。 ら、見知らぬ男が一所にきた。 愈よきまったのだと云ふ。 宗欽郎は嬉しかった。藤井の家庭や嫁の顔氣質を考〈る暇のない 宗次郞は、ロに頬張った燒栗を呑みこむと、 程嬉しかった。 「うん。」と答〈て湯を呑んだ。兼吉は額をたたいて喜んだ。心祝 ーー・難儀な牧夫の仕事をせずに濟む。 ひに酒だと云った。 がつがつ、野良稼ぎをしなければ、食へない譯ではない。 「俺、買ってくるべ。」宗次郞は立ち上らうとした。 ーー嫁を貰ふ。 「うんにや、婿さんは動くものちゃねえ。」 皆、いいことばかりだった。が、宗次郞は、何よりも、岸澤村の 隣り室で、足を伸ばしてゐた仙太郞は、宗次郞をおしとどめて、 位置が嬉しかったのだ。 だ まち 土間に下りた。 岸澤村は、市に近接してゐる。 宗次郞は、土臭い仕事が、い 「角の茶屋さゆけよ。目出度い時だ。地酒では景氣惡いからな。」 やでいやでならない。 宗 蒹吉は、さう云って、しまりなく、げらげら笑ってゐた。 野良稼ぎよりは、まだしも、と思って、苦しい牧夫をしてゐた位 やこ 0 岸澤村の藤井三平なら、宗次郞は一生食ひはぐれはしない。 2 そして、自家も、これからは、一昨年の不作の時みたいに、山の小 3 岸澤村は市に近い。藤井は、畑ばかりでなく、小 金を貯めてゐ 林から、高利の金を借りすにすむ。ー、・・兼吉は、これでよカった。 る。市〈出て商賣をする。乘馬ズボンに、茶色のスウ = ータアをき まち
2 2 3 まら て、自轉車で市を走りまはる。 「土は、さつばり、こなれてながんすべ。」 俺は商賣は巧いからな。 「そんたでもないわ。」 さうだ。藤井へいったら、第一に自轉車を買って貰ふこと 「あれ、お世辭は、やめなんせ。おら、ひとりで、はづかしくて、 だ。自轉車ちゃないと、市へ出るのに、不自由だ。 たまらね工。去年ナス、父さま、山の方で、せはしかったもんだ ラン・フしん 宗欽郞は、洋燈の心を出して、そっと鏡を見た。市づらかどうか し、おればかりで、ここの段畑を稼いだのス。やつばり、女子で を心配して。 は、土は、まるでこなれぬナス。」 「なに、そんたなことはない。」 宗次郞は、段畑の土などは、どうでもよかった。お染の笠の下か しかし、噂を聞いた村の連中は、第一に、お染の婿になることをら、のぞきこむ、笑を漂へた圓い瞳に、此上ない幸輻を感じてゐる のだ。 羨んだ。 「なにせ、岸澤小町といふからな。市にも、あんに奇麗な女子「今年は、おめ工さんと二人でやるだし、さぞ、作もいいことだ べ。父さまもよろこばれることだス。」 は、めづらしいがんべ。」 ロロに、さう云ふくすぐったい言葉に、宗次郞は挨拶に苦しん お染は、身をよせながら、たどたどしく云って、汗をふくのにま ぎらせて、赤い顏をかくした。 「それに、物持ちだし。」 「少し休むべ。」 次の羨望は、それであった。そして、三度目に始めて云ふのであ 宗次郞は、お染によりそって、土へ腰を下ろした。脊の低いお染 った。 と並んで坐わると、笠が、宗次郞の鼻先きに來る。 まち おもゆ 藁の匂をすかして、お染の汗の香は、むせぼったく匂ふ。重湯の 「市さも近いしなあ。」 宗次郞は、さう云はれると、やっと得意になって、今後の方針を湯氣に似た汗の香に、宗次郞は、全身の感覺が、もがくのを感ず しゃべり出すのであった。 る。彼の人並み外れて大きな鼻は、ひいひいお染のすべての汗を探 雪が消え、野良仕事が、いそがしくなり出すころ、宗次郞は、岸し求めた。 「あれ、なにするの。」 澤村に迎へられた。 宗郞は、お染の首筋に、ひょいと觸ったのだ。 藤井宗次郞は、次の日から、お染と一所に畑へ出た。 「おら、をかしいこと。」お染は、びつくりして、鈴張りの目をば ちばちさせた。 お染 宗次郎は、何喰はぬ顏で、今觸れた右手を嗅いでみた。 「おら、はづかしいな。」 なめ 一所に、鍬を動してゐたお染は、ちょっと手を休めて、笠の下の汗の香は、しつこい鍬の柄の匂に、全く消されてゐた。 た。土の味だけが舌を刺す。 で、目を細め、顎をひいた。 「お染よ。」 「なにしてよ。」
を、心にしみて聞いた。 た。彼の人の好い血は湧き上った。 雜木林を橫にそれて、鼻白の栗毛が、泡を吹いて、狂奔してく ワ 1 る。 かたあぶみ オリープ色の乘馬ズボン、茶色のうすいスウェータア、それに荒 その脊に、もう片鐙を外して、馬の首に抱きついてゐる靑い洋 い縞の人った鳥打を橫ッちょにかぶり、宗欽郞は、毎朝、市場に自 轉車を乘りつける。 金六は、躊躇の足踏を四度踏んだ。宗次郎は、馬は得意だ。いい 夕方の忙しさ。店先に群がる客、役所歸りの洋服、風呂敷から蕪具合に、こちらめがけて狂ってくる栗毛目がけて走り出した。 鼻白が、大きく目の前に浮く。宗次郞は、大手をひろげた。栗毛 とキャベツをのぞかせて、重さうな妻君、白粉の濃い料理屋の女 中、 お君さん、といったな。 が、たじろぐ。その隙を、球の様に飛んで、宗次郞は乘手の手から へい、こちらが : : : お安くして、へい。どうも、そいつア、 既に放れ、だらり下ってゐる手綱にすがりついた。 公定値段でして 「馬鹿め。」平手で、いきなり、栗毛の橫面を張ると、馬は、太い 宗次郞は、商賣調子を、復誦しながら、得意に、。へダルを踏ん息をはずませて、立ち止った。血の氣もない眞靑な、そして、物一 っ云へず馬の首に、まだすがりついてゐる乘手を左手で、かかへ下 で、タ闇の山道を家へ急ぐ。 その半月は、全く、宗次郞は滿足だった。角刈の前髮に、油をつろした。右手では手綱を、堅くにぎってゐる。 眞亠円な額ににじみ上っ けて、うれしかった。それを、市臭い、 さういふお染を心から 女だ。亠円い洋服をきた若い女だ。 笑ってやった。 てゐる油汗に、ちぢらした髪を、ねっとりまつはらせ、乾き切った 下唇をかすかに痙攣させてゐる。 その時、追ひすがった金六は、一目見て、絶叫した。 すがすが 宗次郎は、十月朝の淸淸しい大氣に胸をふくらませ、牧場の道「あ、場長さまの奧さまだ。」 「ほう、今度きた場長さまのか。そんなら、官舍さ送り屆けべな。」 を、牧夫の金六に市場の光景を派出に話しながら歩いてゐる。 宗次郞は、左手に抱きかかへ、栗毛に乘らうとした。そして、金 宗次郞は、二日前、弟の淸助の一周忌法要のため、市場を休み、 六に手綱を渡した。その瞬間、栗毛は、再び前足を上げ、高くいな 實家に歸ったのである。 岸澤村でさへ、うんざりする此頃の宗次郞は、とても實家に二日ないて狂った。はずみを受けて、宗去郎は、左の膝に、不覺の一撃 だ を受けた。 と我慢が出來なかった。 蠅歸った序、昔の仲間に、市場の吹聽したさに、昨夜、一晩、牧夫「ど畜生め。」金六は、手綱を引いた。宗次郎は、そのひまに、場 長夫人を抱いて、ひらり飛び乘った。右手で、金六から手綱を受取 部屋に泊り込み、今、金六に送られて、實家〈歸る途中である。 る。巧みな乘手に、栗毛は、うなだれて、歩を速める。 「ほほう。」吐息をついて羨んで聞いてゐた金六は、何氣なしに、 牧場の朝風を受け、亠円い毛織物を通して若い女のぬくもりを腕に ふりかへった。 3 「あ。」金六は、右手を上げて、驚いて叫んだ。宗次郞はふりむい感じ、宗次郞は、痛む膝をびんと伸し、得意に、場長官舍に急い ついで かぶ
「片輪になりあんした。跛になりあんした。それア、俺ハア、今迄 の所行は、あんまりでがんした。自分でも、呆れるほどでがんす。 金も使はせたし、ほんとに、なんとも云はれね工苦勞ばかり、皆さ 宗次郞は、車に乘せられて實家に歸った。 かけあんした。それにつけても、これからはア、心を入れかへ、何 無道。薄情。義理知らず。亂暴。わからず屋。人でなし。馬鹿。 なり、小商ひでもして、手傳ひしあんすから、どうぞ、それだけ鬼。 は、勘辨してくなんせ。お染と別れ、ここを出されれば、俺ア、生 そこでは、此等の言葉が持ってゐる、すべての感情が爆發した 9 きてる甲斐もござんぜん。」 宗欽郞一家一族は、たけりたった。齒囓みをした。聞き知った人 宗次郞は、半狂亂で、しきりに、三平に詫びる。三平は、宗次郞人は、足をふみならして賛意を表した。 が病院で宣告を受けて歸った次の夜、彼に離別从をさしつけたから 蒹吉と仙太郞が、談判に岸澤村にゆく。村のロききが、そろっ である。 て、三平に懸合ふ。若い衆逹は、酒を喰らって、はるばる三平の家 跛宗次郞の言ひ次第になってゐたーー病にも貯金の大半を費ってく へどなり込んだ。兼吉は三百をたのんだ。鬼辰と呼ばれる有名な三 郞れた三平の、その夜の態度は打って變って強硬だった。 百は、三平を土間に捻ぢ伏せて、強談判に及んだ。然し、何人に對 しても、三平の答は終始變らなかった。 宗「跛では、百姓が出來んわい。氣心だけで、怠けるのなら、いっ か、俺ア逹の心も通じて、百姓する時もあるべが、跛ではハア、一 「跛では百姓が出來んわい。」 お染は、れはてながらも、晝は野良に出で、夜は、三平の側 四生涯百姓できんわい。百姓のできぬものを、百姓の家で婿にしてお 3 くことは出來んわい。」 で、鳩の様におびえてゐた。 吉さまに手を合せた。 宗玖郞は、幾度、願っても、結局、三平は心を曲げない。宗次郞 は、終には、あらん限りの罵倒をした。出まかぜの怒號をした。身 を震はして痛憤した。 二寸短くなった。そして、それは、決して元油りにならぬ。 三平は唇を噛んで、默然として聞いてゐた。 「氣の毒だ。然し、跛では百姓できんからな。百姓できぬ婿を俺が うつろ レントゲン科の醫師は、さう宣言した。宗玖郞は、瞳孔を空虚に家におくことは、お天道さまにすまんわい。」 見張ったまま、べたべたと床に座りくづれた。 お染は、泣き狂ってゐた。宗次郎は、お染を説いた。むろん、宗 「そして、畑稼ぎは、できあんせんのか。」 次郞に附き従ふものと思ひ、 お染は、はっきり訊ねた。 「お申譯ござんせん。仕方がござんせん。やはり、おめ工さんと 「さあ、とてもだめだね。」醫師のその言葉を聞いて、お染は、そは、縁がなかったのでござんす。俺ア百姓の娘なんだし。」 の場に昏倒した。 お染は、髮をふりみだして泣く。しかし、土の匂は、宗次郎の體 臭より強かった。情愛をこえて、土の匂が、お染の髓まで食ひ入っ てゐた。 なんびと
「婿さん。なに云ふだ。百姓はなあ、畑さでてれば、それでいいん有の山林全部賣却しても、穴埋めの出來ぬ程であった。 4 作兵衞は、以來、僅かの田畑を擁して、岸澤村に蟄居した。そし 3 だ。市さ出るなどと、餘計なこと考へると、お天道さまの罰が、あ て後半生を、一切の知識を呪ひ、世を白眼視して暮した。然し、知 たるぞ。」 三平は、いつになく強く云ひ切って、そのまま、そっをむい識を呪っても、既に得た知識のため、蟄居後も、作兵衞は、心の迷 を禁じ得なかった。依って、作兵衞は、獨り息子には、斷然、學問 て、煙草をふかした。 宗次郞は、藤井へ來て、始めて腹が立った。いきなり、繕をひつをさせなかった。何一つ、世間智を敎へなかった。根が剛頑な作兵 くり返して、土間〈下り、自轉車へ、おかいをつけて、山を下って衞だけに、息子をば、全く自分の考へ通りの型に鑄込み得た。息子 は、土の香に親しみ、作物の結果を心配する外、一切の世間と全然 市へ出た。 沒交渉に成長した。作兵衞は、その息子の嫁をも、同じ方針で、念 翌日、晝近く、宗次郞は、ぼんやり歸った。誰も居ない。室に、 そのまま、ごろり、ねそべってゐた。正午に、お染が、畑から歸っ入りに長い間かかって、やっと見付け出した。お染は、かうした一一 てきた。 人の間に生れた、ただ一人の娘である。 作兵衞の死後、三平は默々として働いた。三平の世間に對する知 「何してるの。」 識は、「人に騙されるな。」といふことだけであった。だから三平 「頭が痛い。」 は、極端に人を警戒して、世間と放れ、獨り、こっこっと殘された お染は、手拭ひを水にひたして、宗次郞の額にあてた。 畑地を耕してゐた。 「靜かに寢ておいであんせ。」 一切の世間的交渉は、作兵衞に委任を受けた分家の叔父が處理し そして、外に何も問はず、急いで畑へ出て行った。 宗次郞は、むしろ宛が外れた氣持だった。だるい手足を、存分伸てくれた。その分家へ仁八が出入をしてゐた。宗次郎は、カうした ばして、天井に渦をまく虻の回轉運動に、目を放ちながら、三平と手蔓に依って、お染の婿になったのである。 お染の氣持を、しきりに考へた。 宗次郞は、この話を、分家から聞いた。然し、かう云ふ話を聞い 三平の父作兵衞は、所謂田舍の物知りであった。若く家督をついたから、考をどうきめよう、などといふ思慮のある宗次郞ではな で間もなく、山林の所有權について、激しい爭をしなければならない。三平の性格と切り離して、ただ市へ出ることを、宗次郞は躍氛 かった。相手は東京の或る大會瓧である。作兵衞は、自分一個の考となって、考へてゐた。 市へ出る。 それを許されない以上、宗次郎は、畑へ出る氣が では、立派な申分があった。だから裁判で爭った。中頃、仲介者が 現はれ、作兵衞に示談交渉をすすめた。作兵衞は、あくまで、己のしなかった。お染と働く興味はあるにしても、そんなことよりは、 知識に信賴した。そこで、しつこく、大審院まで持ち出した。その反動的に、無茶苦茶に、畑がいやになった。 おまけに、宗次郞が怠けてゐても、分家の次男が手助けしてゐる 結果、やはり、作兵衞に手落ちがあった。公判は敗訴になり、問題 の山林は奪はれるのみならず、訴訟に費った金額は、他の作兵衞所ので、仕事がどうやら間に合ってゆくことが、一層、宗次郞の氣持 つか
0 2 3 宗次郞の生家は、ささやかな自作農である。兄の仙太郞が、嫁を 宗次郎は跛だ。 だから、左足を投げ出したまま、縁側に變則貰った時、弟の淸助は、北海道に飛び出した。自家の畑は、親父と な胡坐をかいてゐる。 兄夫婦で稼げば、充分なのを見越したからである。 はたち 眠い網膜に、蕎麥の花が白く浮くタ暮だ。 然し、やっと二十になったばかりの淸助は、一年足らすに、小さ 追ひ出された片輪者。 な骨壺に入って歸ってきた。 あわ ーー慰藉料金參千圓也。 父の兼吉は、急に狼狽て出した。宗次郞の將來を思ったからであ まち 市の公設市場、自鵫車、スウェータア、夕暮時に群がる客のる。 生來、野良稼ぎの好きでない宗次郞は、嫂が出來たのを幸ひ、そ ーー女。おお、お染 ! の頃、隣村にある大きな牧場の牧夫をしてゐた。 膚。全身の感觸。饐えたいちじくの匂。ネルのこそばゆい柔 が、牧夫の仕事は、野良稼ぎより一層苦しかった。おまけに、稼 かさ ! ぎ高を勘定してみると、い ? 嫁をもらへるか、宛もない程僅かな だが、宗次郎は跛だ。靑い乘馬服の場長夫人を助けて、左足ものであった。宗次郎は市へ出たい。少しでも金が貯ったら、廣い 關節炎で跛になったのだ。 市へ出たいのだ。 鈴木彦次郎 宗夫郎は跛た びつこ ーーー跛では百姓が出來んわい。 三平の人の好い眼が、ぎろり光った。 追ひ出された。お染はだまってゐた。 蕎麥の花は、はっきりタ闇に浮き出した。 此頃、宗次郎の腦紳經は、いつも、以上の斷章を、きれぎれに、 たどってあへぐ。 そして、宗次郞は跛だ。 ーー最後に、その圓錐形の底に落ち こんで、ほう、と念の眼をとざす。 宗次郎の人並み外れて大きな鼻は、臺所で、煮えたっ味噌汁の匂 を嗅ぎつけ、すべての感覺を乘り越えて、食慾ががばと跳ね起き ーー慰藉料金參千圓也。 あによめ それゆゑに、嫂は、汁の實も惜ます宗次郞の椀に、たつぶり盛 って呉れるのだ。 まち
市 ! 市 ! 公設市場 ! た三平の顏をのぞき、すかさず、次の要求を呈出した。 6 靑物市場の八百松の言葉で、宗次郎は夢中なのだ。 「そんなに云ふのだば、いいス、父さまの心を思って、東京行は止 柳行李が手品の種、うまくまゐりましたら、お手拍子御喝めした。けんど、俺ア、畑稼ぐと、どうしても、身體具合惡いし、 架。 , ーー宗次郞は、祭で聞いた手品師の調子を眞似、自轉車の上さうだといって、寢てばかりゐても、かへって身體具合、惡くなる で、齒をむき出して笑った。 わ。さうでがんすべ。だから、東京は止めしたが、その代り、是 非、俺の願ごと、容れてくなんせ。」 宗次郎は、そこで、自分のほんとの望を話した。 「掘り立ての芋汁だス、うんと食ってたも。」 市場の八百松が、公設市場に品物を出す。それを管理する適 養母の盛ってくれる汁もいいかげんに、宗次郎は、そそくさに晩 當な人間がない。だから、自分が賴まれた。朝に出てタ方まで、市 餐を食ひ終った。 場で八百松の品物を賣る。身體のほんとでない自分には、もってこ 「お染 ! 俺の着物を出して呉ろ。」 いの役目だ。 「あれ。」 三平は、むろん公設市場の意味はわからぬ。そして、宗次郞の市 「早く、まとめろ。急くのだ。」 へ出ることは、寢てゐられるより辛い。然し、今、うん、と云はね 「なにして。」 ば、柳行李まで買ってきた宗次郞の決心だ。すぐ、東京へ逃げ出す 「文句ぬかすな。俺が、此家さ持ってきたもの、みんな出して呉恐がある。 それに、畑の物を賣るのだからな、そのうちには、 また、畑にも出て見たくもなるだらう。 三平は、やっと、承知をした。 「その行李さ、皆、いれんだ。ぐづつくと、承知しねえぞ。」 宗次郞は、念を押した。そして、三平が、再び、がくり顎を引く 「なぜ ? 何したべ。どこへか行くつもりスカ。」 のを見ると、足で、柳行李を隅へ蹴とばし、笑顏を見せて、寢間へ 「あ、東京さゆく。」 引き取った。 「なぜに ? いっ ? 」 三平は、その夜、いつまでも起きてゐた。 「明日の一番でよ。くそ、面白くもない。畑稼ぎなどしてたてさ。 「品物が靑物だしさ。かへってハア、今迄より、畑も見てくれるや 何の足しになるべ。俺アな。東京さ行って、一稼ぎしてくるだ。」 うになるべナス。」 女房が、股引のほころびを縫ふ手を休め、老眼鏡の上から、見上 宗次郎の苦肉の策は、美事成功した。お染は、泣いて袖にすがげて、さう云ふ言葉を、受けながら、三平は、粉ばかりの煙草をま きせる る。養母は、汁鍋をひっくりかへして、泣き叫ぶ。三平も、手をつるめ、だまって煙管につめた。 いて、東京行を引きとめる。 宗次郎は、もとより、東京へゆく お染は、無言で、裏の便所へ立った。芋の葉が、露を玉にして、 氣はないのだ。まだ、東京へ飛び込む程の元氣はない。呼吸をはか光ってゐる。 って、思ひ切り惡さうに、斷念した。そして、ほっと、皺をのばし お染は、芋の葉をゆすりながら、その葉にいっか、落ちる涙の音
8 場長の感謝。振舞酒。實家の賞讃。振舞酒。自家へ歸っての話。 三平夫婦お染の笑顏。お染の酌で祝ひの酒。市場での話。歸りに、 仲間が集って、市の茶屋で欣びの酒。ーー・醉ひしれて、市から夜お そく歸った宗次郞は、その晩、ひどい痛を左の膝に感じた。骨身に 堪へる錐でもむ様な痛み ! づきんづきん熱と共に、ゑぐる様に鋧 くなる膝の痛み ! 宗次郞は、堪へかねて、傍にねてゐたお染にかじりついた。 4 だ。 ーー・・社殿の軒に氷柱が幾本も垂れ下る年の暮か 朝ヒ日 - り . 、 ~ 仗匕日 . り .0 ら、その氷柱が、ゆるみ、祈念こらしてぬかづくお染の襟元に、冷 い雫が、ぼたりと落ちる春先まで。 畑の土が、盛り上ってきた。雪は、むら消えになり、橇が利か ず、醫者を乘せてくる市の車夫は、胸元の汗を拭って、山道のぬか るみを、ぶつぶつ云ふ。 三月末、宗次郞は、やっと、すっかり痛みを感じなくなった。松 葉杖で、ひょいひょい、兎に似た足どりで、便所に通った。 この上は、湯治だ。 苦し 「あ、いたい ! 痛っ痛っ ! うむーーーあ、いたいッ ! 市の醫者は云ふ。三平は、泥濘の道を、膝頭まで泥にまみれ、市 つづいて、男泣きに泣きわめく。 三平は、草鞋をつくりながら、婿の泣き聲に胸を塞らす、女房の銀行から、紙幤の束を引き出してきて、宗欽郎に渡した。 は、罨法の湯を、臺所の釜にわかしてゐる。お染は、帶もとかず、 晝夜の看病である。 むしば わくらば 峠の八重櫻も散り、蝕まれた病葉が、風にもまれ、その葉からふ 靜かな、のんびりした冬の夜を、三平一家は、野良稼ぎより苦し り落された靑虫が、乘合馬車の窓から宗玖郞の膝に落ちた。 い看病だ。一日おきに、橇で、山越しに迎へる市の醫師も、ただ氣 「お染、俺ア諦めた。」 長がに、手當するより途はない、と云ふ。 。」お染は、他の客を氣に兼ね、無言で、宗次郞か膝から青 宗郞は、栗毛に蹴られた左膝に、重い關節炎を起し、二箇月 虫を拂った。 餘、身動きも出來ぬ痛なのだ。 コ一箇月餘も湯につかってゐても、この通りだもの、この足ハア、 宗次郞は、晝は、天井の節穴を數へる。ふと、痛みを忘れる。だ が、十まで數へ切らぬ内、腦天が、しびれる痛だ。夜は、お染の指曲らないんだ。レントゲンとかで、みて貰ったって、とてもだめだ をにぎる。毎日の罨法に、湯ただれした指の感觸に、ほうっと、氣んべ。」 お染は、病氣前よりも血色がよくなり、頬に柔かな肉さへついた が休まる。 宗次郎の顏をみるにつけても、馬車の腰掛の下へ、不格好に投げだ 「お染。」口を開くはずみに、針をつきさす痛だ。 お染は、頬が落ちた。指のくぼみが見えなくなった。三平は、爐した、その左足がたまらなかった。 虐を 全癒る見込の有無は、明日、市の病院のレント 明日の生命。 に榾をくべながら、お染のすんなりやせた肩先きを、心に寒く見 ゲンで、判然する。 る。 お染は、熱くなった瞼を、涙のこぼれぬ様に靜かに閉ぢ、心で住 お染は、住吉さまに願掛けた。 こた 4 、り つま つらら
5 3 を安逸にした。 さんさ、をどらば、 しな さすが、はじめは、身體の故障にかこづけてゐたが、三平夫婦 品よく踊れ が、何も云はぬのをいいことにして、夏の暑い盛り、天氣つづきの 品のよいのを いそがしい頃を、宗次郞は不貞腐れて、家の中で、ごろっちゃらし 嫁にとる。 てゐた。 三平は、裏の小堰で芋を洗ひながら、屈託のない聲を、落日に向 「父さまは、何も云はっしやるぬけれど、おめ工さんに、さうして って張り上げる。 怠けてござられると、俺ア、立っ瀬がござんせん。なあ、氣に入ら 「お染よう。」 ぬことばかりか知れね工が、おれを可愛相だと、思はば、ちょっと 「なにス、とっさまア。」 でもいいから、畑さでてくなんせ。」 薄の茂みの中から、赤い紐の目立っ笠をかぶったお染の笑顔が、 お染は、夜、耳許で、ぼそぼそ呟いて、宗次郞の胸へ涙を流す。 浮き出る。 宗次郎は、饐えた果物の匂を思はす甘酸つばいお染の體臭に咽喉の 「芋洗ひに、助けろよう。」 かわきを覺え、お染の髮をねぶりながら、その氣にもなるのだが、 堰を隔てて、向ふに、ぎゅいぎゅい、芋の肌をみがく、お染の赤 ねっ 朝、戸の隙間から、今日もお天氣だ、と熱つぼい日がさしこみ、お いーーー指の附根のくぼみも、愛らしい圓い掌を見ながら、三平は、 染の聲が、裏の納屋から睛々聞えると、今では、意識的といふより ふと、云った。 は、怠け癖が身にしみて、つい、起き上り身仕度をする厄介さが、 「宗次郎は、どうしたんぢやろ。おめ工には、何とか、云はねえの なじよ つくづく億劫なのだ。 か。如何な氣なんだべな。」 三平は、宗次郞の起き上らぬ蒲團をみながら、促がしもせず、草「 鞋をつけて、野良へゆく。 お染は、目を伏せ、だまって芋の鬚をむしった。若い芋の辛味が だが、市へ出る。 目を刺す。 さう云ひ出すと、その時だけ、三平は、き つばり物を言ふ。 「おう、いずい。」それを、いいいに、お染は、はふり落ちる涙 「なあに、身體工合の惡い時には、誰だって稼ぐ氣になれぬもんを、手甲でふいた。 をみなへし だ。氣にしないで、養生さんせ。氣の向き次第、稼いでくれれば、 三平は、お染から視線を外らした。女郞花が険き、黄色い向ふの どて 俺ハア、それで滿足だ。百姓は、畑さ出なくとも、畑の匂さへ嗅ん土堤。ーーその黄色が、目の内でぼやけてきて、三平は、うつか 跛でてくれれば、畑を愛げがることを忘れねえもんだ。寢ててもいいり、手の内の芋を、流れに落した。 郎からなあ、市さばーー市さだけは、出ないでくなんせ。百姓が、市 宗さ出る様になれば、末には、家屋敷賣ってしまふのが、きまりでが 宗次郞は、山道を、自轉車のペダルを、しきりに踏んで登る。 んすよ。」 つつつぼの袖に風をはらませて、匂の濃い大きな柳行李を重ね て、頭に引懸け、車輪を入日に白く輝力して、女郞花の黄色な土堤 へ急ぐ。 わら