小助は嘆息した。 わ」 「でもネ小助さん。よく見る夢では、妾は可愛らしい花嫁ですわ。 彼等はだん / 、と淋しい町筋を歩いた。小助は放心したやうにな さあ、何と言ったら好いでせう」 って、彼女の物語を聞き惚れた。時として小助は眠ってゐる意識が うちふところ 彼女は心から悲しんで、これを表現したく思った。小助は言っ ゆるやかに活動することもあった。それは彼女の内懷に険き亂れ たジャスミンの花の匂ひを嗅ぐからだった。すると見たこともないた。 せういふ 「その花嫁なら、僕にも美しさがよくわかる。何故なら、一度も所 伊太利のモンタルトの小邑を、かうして遠く離れて夜さまようてゐ 有したことのない婦人を、男は異常に愛するからです。初戀といふ るやうな氣がするのだった。 きっき ものはみんな斯うしたものだ。貴女が、夢で見る花嫁は。ー、・」 「妾は、よく夫の死ぬ夢を見ると先刻も言ったわネ : : : 」 「さうなの / \ 。妾が知りたいといふことは、さういふことだわ。 と江美子が言ふのだ。何の話の續きで、その話がどう展開して行 くのか彼には、てんで想像することは出來なかったが、しかし小助妾は自ら進んで花嫁になったのちゃありませんもの」 江美子は殆んど眼に涙を溜めてゐた。 は返事をする代りに、 ・ハリアッチ 「妾は、妾が花嫁であるといふことさへ忘れてゐました。妾は妾の 笑へ道化師よ 江美子の甲斐ない夫がこれを聞いたら、何と思ふだらうと考〈て指に、あの人の指環を嵌められることは、一生、鐵の鎖で縛られる ゐた。とにかく彼女が心の中ではどれほど遠くにあらうとも、さうやうに思ひました」 して現在ではどれほど二人が獨自の生活を營んでゐようとも、瓧會「江美子。さういふお伽話がありますネ。魔法使に指環をはめた爲 的には、ひいては法律的には、愚鈍な彼女の伴侶は「夫」といふ榮めに、その魔法使は通力を失ひました。これは何を意味してゐるか わかる ? 貴女があの人の指環を指にはめたことは、貴女の運命を 冠を戴いてゐるのだ。すると彼女は 「それ許りぢゃないわ。妾は自分の花嫁姿をまた新たに、鮮やかに約束したのですョ」 「さうなんです。でも、妾の生涯をまで約束したとは思ひません」 見るの。これはどうしたといふんでせう。ありふれた生理的作用で 「それは少くとも新らしい考へ方だ」 ぜうか。あたりまへの心理的現象なんでせうか。しかしそれはどっ 「さうオ ? 」 ちだって好いわネ」 「さうですとも。それは少くとも新らしい、許婚の約束に對する一 「さう」 つの楚義ですね。さうでないならば貴女は單なる詭辯家に過ぎませ 「けれども妾は、本當に花嫁でせうか ? 」 と江美子はあきらめたやうな身振をした。小助はまた返事を逃がんネ」 彼等は何時の間にか、彼等の面前に大きな蓮池が展開してゐるの 花した。 「妾には子供があります。妾は健康ぢゃありません。戀をするにはを見た。イルミネーシンの素睛らしい光彩が火の粉を水面に落し 妾は自分では老い込んで來たと思ってるの。それにもう妾には華やてゐた。夜風が輕く吹いて、その上に縮緬の皺をこしら ( てゐた。 田かな色がありません。自由な考〈方も出來なくなってゐますわ。だ水の色は靑黒く濁って腐敗した匂ひを放散してゐた。 2 活動寫眞小屋から急速な、さうして力強いトロンポーンの聲が流 と妾は憐れむべき動物ぢゃなくって」
「え ? ああ確に云った。僕は榛名にさう洩らしたことがあろ君を知る者がどんな噂をしてゐるかーーこ 「それやいいんだよ。今云ってる通り、僕は世間に氣兼ねなんかし る。だけど、今の僕は豹變した。惡妻は獨りで出來るものではない ないのだ。」 といふのも、僕の考へ方の一つだ。」 「それが本當なら、」と田澤は藤木の目を見た。「今後己は君を見る 「連帶責任か。」 こと、榛名が君を見る如く見よう。」 「そんな意味ぢゃない、そんな責任を負はうなんて、近代的なのぢ 「さうしてくれ。僕がどんなに滋子に參ってゐるかの如く世間が見 ゃない。もっと古風だ。何と云ふかなー・ー漠としてゐるが、かうだ てゐても、それは構はんのだ。構はんといふ氣になれるのは、世間 が苦にならなくなったからだ。世間なんかー・ー」 「そんなことも飛び越してゐると云ふのか。」 田澤は藤木の興奮を押しとどめた。 「さうさな。さう解いてもらへば有難い。」 「己ぢゃない、倏名がさう解釋してゐるんだ。藤木はもうそんな棒「まあそれはそれでいい。しかし望月はどうする ? 望月には君の 心は一生通じないだらう。あいつは依然としてあいつらしく振舞ふ は溶かしてしまってゐるだらうと云ったよ。」 だらう。その目觸りをどうする ? 」 「榛名が ? さうかい、あいつには僕の今の心持ちが分るだらうと 思ってゐた。」 三ノ六 「榛名は、君の包容力の大きくなったのを認めてゐた。君は確に偉 藤木の眉の下に流石に苦悶の影がさした。彼は唸るやうに、 くなったと云ってゐたよ。」 くわはうあへ 「望月か。」と云った。 「それは怪しい、過褒敢て當らずさ。しかし、さう努めてゐるのは いきみ 田澤は藤木も生身だものと同情した。いきほひ、低い聲で撫でて 事實だ。僕はかういふ人生の些事ーーー」 云った。 「些事 ? 」 「君の志してゐる心境からいへば、滋子さんも望月も區別はない筈 田澤は思はず訊き返した。 「さうとも。」藤木は勇ましく嘯いた。「こんな事で強くならうとしだが、實際問題としては、決してさうは行くまい。といって、君が たり戰はうとしたりしたって、何になるんだと考へてゐる。こんな望月ばかりを、どうかしようとしたって、それは何うにもなりはし ないぜ。第一、なったとこで、それぢや仕様のないことだ。」 ことはただ見て過ぎようと思ってゐるんだ。」 「なぜ ? 」 「そいちゃ、當り前のコキュちゃないか。」 藤木は思はず釣込まれた返事をした。如何にも望月をどうにかし 「さう見えるかも知れない、だけど、それでも澤山ぢゃないか。人 たいと熱望してゐるかのやうな聲だった。ここらも本心の一部だら の思惑を兼ねてちゃ、僕自身の考〈方は成立たない。」 うと田澤は思った。 つ「ふん。」 「だって君、假りに望月をどうかーーまあ絶交でもするとするか、 「疑ふかい ? 」 芻「いいや、疑ふといふのぢゃない、ただ己は、それぢや世間の誤解そしたら君、やはり君は細君の強さだけは認めたことになるちゃな が解けないだらうと按ずるのだ。湯淺を筆頭に、馬場にしろ誰にしいか。負けたことになるだらう、世間をして、依然君を嗤はさせて うそぶ
不思議でもなくなるだらう。印ち、彼等はしば / 、懇談を重ねれば ら」 東京驛まで來て、瀨木は自動電話をかけた。瓧長は留守だとい重ねるほど、利益の對立を明かにする。相手と仲よくすればするだ ふ、どちら〈と訊くと、どちらだか、分りません、社ではないでせけ、相手を賣って賣りがひがあるやうになるのだ。 繁本社長は、その待合でさうした用件を運ぶうちに、一人の女を うかと、先方からあべこべに訊ねられた。 知るやうになり、それからは單獨で、築地に出いりするやうになっ 「困ったなーー」 自動電話から出て、弘子のそばに歸って眉をひそめたが、泥が腹てゐた。そのことを瀬木はチャンと知ってゐた。 だから、今日も、ひょっとしたら、と瀬木は思ひついたのであっ にたまってゐるやうな慘めな氣持だった。瓧長に逢はねばーー金を こしら ( なければ、人質に残った連中の、あとが煩い。どうしてた。すると社長はきっと築地だ、といふのが、もはや動かすべから も、今日ぢうに金をこしら ( なければならぬ。梨枝子が、あんな所ざる直覺であるやうな氣がして來た。 ふと彼 女に逢ひに行ってるのではないかも知れない。だが、 〈顏だししたものだから、弘子にもきまりがわるい。梨枝子の馬鹿 が ! 無智な色きちがひ ! と、のろひたくもなる一方では、梨枝が氣になりだしたのは、今日あたり、あの待合で、社長と靑原代議 子は、何と思ってるだらう、今晩歸ったら、いづれ一騷動で、こい士と會見してゐるかも知れぬ、といふ豫感だった。 これは重大な會見だ。玉屋銀行の貸付金を、靑原代議士から取立 つも厄介きはまることだ。そして吉原に殘ってゐる山野や冨田ら てる、その安協談だ・ーーその席に瀬木が居合はさないでは ! は、今ごろは : 社長ひとりに、甘いしる吸はせてなるものか。 と瀬木はペッとつばを吐いた。 おっしゃ あゝ、八方ふさがりだー 「今日はホテルに行かうとは、仰言らないのね ? 」 「然し、僕に、ちょっと今思ひだした心當りがあるから、その方〈 圓タクの動搖で肩と肩とがふれ合ひながらの、細川弘子の、嬉々 行って訊いてみませうか ? 」 とした聲だった。 「そこ、どちらですの ? 」 つきち 「築地の方ですがね」 兎も角、その家 ( 行ってみようといふことになって、瀬木は圓タ 「行きたい ? 」 クを呼んだ。 瀬木は疑はしさうに眼を輝かした。 思ひだした心當りといふのは、いっか靑原代議士につれられて初 いったい、この女はーーと瀬木の心は動搖しつゞける。梨枝子を めて行った待合なのだ。その後一一三度、瀬木は繁本瓧長と一緒で、 靑原代議士と會見したが、その會見の場所がいつも例の待合だった何だと思ってるのだらうか。なぜ、梨枝子の眼の前で、自分を誘ふ ゃうに、外出を促し立てたか ? 人のである。 それを都合の好い方に解釋したら限りがない。だのに瀬木は、限 脳瓧長や瀬木の策戦は、靑原代議士をとっちめて甘いしるを吸はう 生 りなく、都合よく解釋したかった。 といふのであるが、いはゞ對立した利益の立場にある者同士が、し 女の本能で、弘子は、梨枝子から瀬木を自分の方〈引き寄せよう ば , ・待合で懇談を遂げたと考〈・ると、ひどくむじゅんした話に感 7 9 としたのだ、と、瀬木は獨斷する。もちろん、瀬木も、引き寄せ じられる。だが、この文句を、よく / 、考〈てみるとむじゅんでも
3Z0 處が、意外にも彼が姿をみせたのである。 といふやうに、自分の要件だけを素直にスフスフ喋った、たった一 人の甥を呆れて見てゐた。然し子供の前で役者になった徑路なんか 「大變御無沙汰いたしました」 をズバ / 、話されるより、此方が良いと思った。早く歸って貰ふに 吉田は、如何にも丈夫さうな彼の顔をみて一寸不思議な氣がし しかず、姑らくだ、銅囃も貸してやれと肚に決めて、夫人の眼に視 た。彼のどの點にも所謂俳優らしい處はみられなかった。家にゐた線を合せた。 頃と服裝にも變りがなかった。考へてゐた程の事もないと、吉田は 「御用にたつんでしたら、お持ちなさい」 思った。 夫人が主人の意を受けて云った。而して早速、銅を外させて包 「丈夫かね」 ませた。なる程、謙吉は直ぐ歸り支度をした。禮を云って立ち上る 「風邪一つ引きません」 と、急に思ひ出したやうに、懷中に手を入れて紙片を出し、食卓の 上に置いた。 「それは結構だ」 吉田は子供逹が謙吉のどんな些細な點にも好奇心を傾けてゐる事「明日が初日ですが、招待券をおいてゆきますから、是非來て下さ に氣づいたので、芝居に關する事は何もきくまいと決心した。 い。さうだ。みんなで來て下さい」 「實は今日不意にお伺ひしたのは一寸お願ひがあってーー」といっ と子供逹の方を一巡した。而して子供逹がガャ / 、一枚の招待券 まとも て謙吉は一口珈琲を吸りながら夫婦の顔を眞面から等分にみて「叔に集ってゐる間に、大きな銅の包を抱へて、玄關へ姿を消した。 しにらく 父さんところの、あの銅鑼ーー・・食事時に使ふ銅鑼を暫時の間、拜 さぜて頂きたいと思ひまして いけませんかしら」 置いてゆかれた招待券が、吉田夫婦を惱ました事は事實である。 思ひも掛けぬ事を云ひ出されたものだと、夫婦は顏を見合せた。 子供逹の主張は斯うである。 芝居を觀に行くのではない、うち ちょっと 子供逹は、ニヤど、しながら、兩腕を食卓の上に置いて、其上に顎の銅鬟を聽きに行くのだと、いふのである。是には夫婦も鳥渡弱っ をのせたりして、父逹一二人の顔を見守った。此興味ある問題の結果た。馬鹿ナと叱るのも可笑しい。それに、此親逹の心にも、家寶と は ? 何しろ嬉しくって堪らないといったやうに。 いはないまでも、家代々傅はって來た銅鑼を、ああした公開の場所 「何にお使ひになるの ? 」 で聽いてみたい。大人氣ない事だが、あの音を胸の底に沁々と沈め 夫人が思はずきいた。 てみたい。 「芝居の開幕の報せに使ひたいんです。鉞鈴でやってゐるのですけ 到頭、子供逹の希みは人れられた。下の二人の子を除・いた一家の ありきた れど、どうも在來りで面白くありませんので、色々考へた上句、叔總勢十人が翌日の夕方、開幕時間より一時間も前に小劇場に自動 父さんところの銅鑼が貸して頂ければ、斯んな素敵なことはないと車を横づけたのである。 思ったんです。勝手なお願ひですが、他に見付かる迄姑らく貸して 一列にズフリと腰を下した。すると小さい子供逹は直ぐ退屈しだ した。 下さい」 少しも堅くならず氣輕に謙吉は喋った。主人は、此の今の自分の 「ハ。ハ、まだですか」 生活に就いて一言も語らず何もかも説明せずとも先様では御承知だ かうした質問を絶えまなく繰返す。吉田は後悔した。といって他 あき のそ ポケット
326 くなった。 あたか 後の心配が要らない。かうなってゆく事が、恰も自然であるやう に思はれてゐる事が、彼女には不服であった。美人ではない。併し 普通の結婚は出來る資格 ( 資格は少し可笑しいが ) を備へてる。例 へ實姉の爲めとはいへ、二人の甥を背負って、みすみす婚期を失ふ ーーー妾は犧牲は嫌ひだと、耕子は憤然とした。 俥は家に着いてゐた。眠ったままの謹二は兩腕に重かった。前蹲 みになって歩いた。と、石段のとこでコートの裾を踏んだ。亡姉の 遺したコートで、耕子には少し丈が長い。彼女は思はずに前に蹣跚 ( 一 ) の 1 めいた。 「危い ! 僕が抱かう」 耕子は、なんとなく肩に掛る重々しいものを感じた。是が責任と 義兄の聲がした。それが彼女にはくきた。間もなく義兄が下駄 いふものかしらとも思った。二十一歳になる自分には、なんといっ ても暗澹とした世界がひらけたと云っていい。姉の遺した二人の男を突掛けて寄って來る氣合を感じた。男にしては白い大きな手が目 の子を兩の腕にして、自分は全然考へも及ばなかった道を歩かなけの先にあった。彼女はそれを避けるやうにして、小刻みに玄關に入 った。 ればならない。耕子は、自分の婚期が段々と遠く離れてゆくのを感 着てゐる姉からのコート が、不意に甚く重荷だった。座敷に入っ じて、わびしく思った。だが : てバッタリ坐ると、何故か涙を感じた。 「叔母ちゃん ? 」 耕子は駭いて顔を上げた。父親の膝に抱かれて、先の俥にゐる勁 ( 一 ) の 2 の秀一が父の・肩越しに呼んだのである。 しきいし 寺の本堂から山門まで鋪石が白く一本になってゐる。保は一番、 「いいのね」 最後に歩いた。五つになる長男の秀一の手を牽いてゐる。 彼女は笑ってみせた。一寸苦しかった。 「お父さん」 「謹ちゃんは ? 」 「なんだ」 「ねちゃったの」 睛れやかな聲で返事をして、膝に眠てゐる謹二を胸の邊まで、搖「お母さんねーー」 「お喋りせずにお歩き」 り上げた。 亡姉の七ケ日で、寺の歸途である。 秀一は默って仕舞った。叱ったわけではなかったが、少し聲が大 いちら お姉さまが、ああいふ事におなりになったので、貴女も大變ですきかったか。五つにしては物の分りがいいだけに、可憐しかった。 いらっしゃ なっ 鋪石の上を行く耕子の姿が不圖、目に入った。髮の結ひ方とい わね。でも小さいお二人がすっかり懷いて居仰るからよござんすわ だから丁度いいと、いふのかと耕子は對手の言葉を撥ね返したひ、細そりした肩の迸りが、姉妹とはいへ餘りに亡妻の姿であっ 二つの必裡 少ど よろ
1 イ 3 「ちゃ、謝るから。 「あはは。さうむきになられても困るけどね、 ぢや云ふかな。 しよせつふんぶん とど 日く、諸説紛紛さ。諸説紛紛あに田澤と春世さんとのみに止まらん 田澤は、いっかの試寫以來自分の氣持が思はぬ方へ曲って行くの やだ。」 を、どうしゃうもなかった。故意に曲げようとするのでは元よりな 馬場は皆を順順に見て、大ざっぱな顔をしながら、存外デリケ工 い、だが、曲ることがちっとも不愴快でないのを自認して、困った よろこ トな禪經の使ひ分けをした。意味ありげに順順に見廻されて、一座と思った。或る悅びに似たものをさへ、段段に感じ出して來たのも はしばらく無言になった。 やむを得なかった。彼は輕い不安の中を、うつらうつらと歩いてゐ ぬるまゆ 「さう云へばさうね。」と滋子がっかぬことを云ひだしさうだった。 た。微温湯の快さに類したものがあった。 「あああ。どうせあたしなんか、」と、環子が溜息をついた。「紛紛 「ーーーそんな訣なの。あたしそんな思案してゐるの。ねえ、どうし 組で、どうせ碌なこと云はれてないに定ってるわ。」 たらいいの ? 敎へて頂戴。」 「あたしだって、」と滋子は文枝を見た。「何云はれてるか知れたも 女から賴られるといふことは、普通の男にとって、つまり田澤に のちゃないわ。でもいいわ、人が何と云はうとね。」 とって、惡い氣のするものではなかった。 賴るといふ事は誘惑 「さうですわ。」 を投げかけるといふ事である。善意の動機に出發してしばしば惡の 「あたしなんか、」と滋子はわざとらしい程しみじみと呟いた。「藤果を結ぶものである、さうぢゃあるまいかと田澤は思った。春世が く、も 木さへ自分を信じてゐてくれたら、それで澤山だわ。人がどう云は誘惑したとは田澤は勘定しない。しかし、結果から見て、彼は蜘蛛 うと、云ひたい人には云はせておくわ。」 の集に落ちたと思った。子供が溺れる、とっさに飛び込む、これは 「それより仕方がないね。」 義勇の念の發露と云ふよりは本能の反射である、さうに違ひないと みんな 馬場は天井へ煙草を吹き付けた。どうだ、皆のお藏へ火が點いた田澤は思った。 あらゆる美事善行には快感の裏打がある。だが らうといふ表情でもあった。文枝は「ちょっと。」と云って、多分あって何故惡い。自分の思はず手を差し延べたのに、縋りついたも はばかりへであらう、席を立った。人が減ると座はなほ妙になっ のが、それが白い柔かな手であって、そして自分が た。その變調の靜かさを破るやうに滋子は派手やかな聲を出した。 ああ、成るやうになれ。 「環ちゃん。もっと馬場さんの方へ寄らない ? 」 わけ 大いに訣ありといふ語調を含ませてゐた。 田澤は、一旦はエスカレエタアに身に乘せて、蓮ばれるままに運 「知らないわよ、」と環子は逆に身をひねった。「この人、一體何處ばれようとした、しかし若し運ぶままに運ばしたら、と考〈ると ぜん の人 ? 」 然としないではなかった。振り戻って、逆に降りようかとした。實 「これは御挨拶だね。」 際驅け降りてゐるつもりの時もあった。でも、驅け方が餘りにゆる 馬場は快活に笑って見せた。 かった。彼の下に降りる速度と、エスカレエタアの上る速度と、そ 「何しろ、紛紛だわよ。 どうせ紛紛だわ、ふふふ。」 れを差引すると、同じ所に立止まってゐる答案が出てゐた。いやい 滋子のさういふ調子に何か自暴なものがあった。 やどうかすると、一段分ぐらゐは上に運ばれてさへゐるやうであっ わけ こい
あああ、いやらしいったらないわ。 うとは知らずに貰ったことが、そのことがもうロ惜しかった。あの せいせい 春世はひっくり返って寢てしまひたいやうな頼りなさを感じた。 とき滋子の目の前で、叩きつけてやったらさぞ淸淸したらうと考へ はんすう 望月、滋子、馬場、誰も彼も信じられなかった。湯淺、藤木、ど たりした。口惜しいことといふものは、あとで反芻し出すと際限の っちも賴りなかった。籐名、これは僞善家だと決めてしまった。あ ないもので、あとから後から、ああもかうもと、何だか自分側にひ ていぞう せいじんづら どい手ぬかりでもあったかのやうに、口惜しさが遞增するものだつあいふ冷たい聖人面こそ、一番惡人かも知れないと思った。少くも た。 人間味の一等感じられない男だと思った。 さういふ春世の心細い胸のうちへ、徐徐にだんだん濃い影を投げ 望月に瞞されてゐる ! 滋子に愚弄されてゐる ! 春世は莫迦にしてると憤慨した。望月に瞞されてゐるといって增して行ったのはたった一人、田澤だけだった。田澤なら、身の振 しんみ も、どうせもう望月には何の信賴も置かうとはしてゐないのだか方を相談しても、親身に乘ってくれて、ちっとも間違ひはないやう ら、瞞されやうもないのだったが、滋子には、昨日まで當り前に付な氣さへするのだった。淡淡としてゐて、そして極り極りはきちん わら としてゐる男、さういふ友逹は見渡したところ田澤一人のやうに思 合ってゐただけに、一度に世間の皆から嗤はれたやうな恥辱を感じ へた。 ないでは居られなかった。 「望月君歸った ? さう、ちゃまた。」 春世さんは何も知らないで、滋子さんのお古なんかはめてゐ 近所のせゐで、他の友逹よりは度度訪ねてくる田澤の、さういふ る ! 可哀想に。 馬場などが先に立って、さういふ「號外」を、もう仲間うちに擴あっさりしたところも春世を惹きつける何物かであった。 まっか 「まあいいちゃありませんか。もう歸って來ませうから。」 めてゐるだらうと想像すると耳の付根まで眞赧になる思ひだった。 みんな 「なに、また。」 「まったく油斷も隙もないわね。今朝のことならお書にはもう皆に 「あら、お茶ぐらゐ 分ってゐるんですものね。厭な人逹ったらないわ。」 さっさと玄關から引返して行く田澤の後で、春世は我にもなく艶 さうある時滋子が歎じたことなどを思ひ出した。事實、彼等の交 際範圍での、ニュウスの擴まり方の速さと云ったらなかった。どうやかな聲を低く這はせて、思はず赧くなることさへあった。 しておしゃべりばかりこんなに揃ってゐるのだらうと驚歎せずには 四ノ四 ゐられないほどのものだった。 「おや、そんな號外がもう出たのかい。」 春世はある午後、田澤を引止めてみようと思った。望月が留守だ 彼等はそれを號外と呼んで、お互に自分のことだと憤慨したり苦と、さっさと歸って行く田澤ではあったが、望月と田澤とは、そん ひんしゆく 人笑したりするのだった。しかし滋子でも誰でも、この號外に顰蹙のなに相許した親友とも考へられなかった。ただ漠然と暇つぶしに遊 こうふん いちゃう っロ吻をもらすのは一様だったが、内容は、面白がる場合の多いのもびに寄るに過ぎないやうに思はれた。望月へとも春世へともっかず に、謂はば「望月夫妻の家」へぶらりとくる客のやうであった。 本當だった。春世は自分が面白がった場合のことなどに想到して、 なるほど自分では將棋の相手は出來ない、だが田澤は必ずしも將 今は面白がられてゐる立場を、うそ寒く見返られずにはゐられなか った。 棋を指したくて訪ねて來るのでもないやうだった。そんなら自分が なんに しゃうぎ
Z20 どんな用事かと思はせて、こんなことを口早にしゃべると、望月 は榛名の返事を必要としないで、さっさと人混みを分けて消えてし まった。 栗鼠より目まぐるしい男だ。 榛名は素早い望月を見送ると、またあてなしに歩き出した。 たち ああいふ性の男もゐる。ーー何でも手輕に運べる男、いかにも近 頃の氣風の男、キネマ風の表情ばかりの男、だから眞實よりは鼻の 先でつきあふ男、本當の友逹の生涯出來さうもない男、また、それ を必要としないやうな男、早くいへばその場限りの男、大げさにい さう思って、そん へば反省皆無の男、かういふ性の男もゐる。 あさま はるな 今日も用事がないしといふ顔で銀座を歩いてゐる榛名の前へ、赤な性質が幾らか羨ましいやうでもあり、淺間しいやうでもあり、多 ふさ 不圖擧げた目で今度はこ つぼいネクタイをした望月がぬっと立ち塞がった。といっても大き分は淺間しいかと考へかけてゐると、 かがすりじゃうふ っちが別の男を認めた。田澤だ。蚊絣の上布を着流して、これも用 くもない望月は、結局榛名の胸の邊に立ち塞がったのだ。 のない顏をしてゐた。田澤も同時に榛名を認めると、ステッキを合 「やあ。」 せいかん いささ 放心を見咎められたやうに些かてれて、さう篠名が善良に呟いた圖に振りながら、小柄で精悍な顏に微笑を浮べて、寄って來た。 「おい、いま望月に會はなかった ? 」田澤はさう訊いた。 のには、にやりと笑ひで答へたきりで、望月はいきなり、 「會ったよ。」 「一圓貸してくれない ? 」と云った。云ったかと思ふと、もう手を 「一二圓借りられたらう ? 」 出してゐた。 「一圓だよ。君もか。」 「一圓か。」 いや 「おれは始終さ。あいつ、五圓とまとまったことは決して云はない。 榛名は、否も應もなかった。懷に手をいれると、圓タクから降り 必ず一圓か二圓だ。まさか斷れもしないぢゃないか。つい貸す。」 たやうに、銀貨を二枚、望月の伸べられた掌に落した。 田澤は人のいい苦笑を示した。 「ありがたう。」 あらて 「手かね。ーーー新手だね。」 銀貨を握るが早いか、望月はすいと行きかけたが、またちょこっ 「手といふほどでもないがね。ーー兎に角、素早いやつだ。」 と戻って來た。 あうむがヘ ばあ まあじゃん 「素早い ? 」鸚鵡返しに云って、倏名は瞬間しぶい顏をしたが、直 「どうだい、麻雀 ? いや今夜は忙しいんだがね。明日からなら八 ちゃん ぐ朗かな聲で續けた。「それは僕も聞いてゐる。」 圈ぐらゐ何時でもっきあふよ。尤もこの頃ちと外れ氣味なんだけれ 田澤は榛名の意味を聞逃さなかった。 どね。なに大したこともないさ。人が足りなかったら今度呼んでく しげこ れよ、え ? 久し振りで君んとこの牌にも觸りたいからさ。ちや失「突如、深刻な意味になったね。あははは。けふも恐らく、滋子さ んを追っかけてゐるのさ。」 困った人達 あたり ばい かいむ
3 イ 5 喜劇 れ、だ。」 さう私は叫んで、前の、やはり自分のかねてからの望みを實現し ようとして、颱風のすぎたあとの水かさの增した水溜りで、誤って 感電して死んだ男の人の事を思ひ出し、あのやうにして死んだ人も あり、このやうにして生きてゐる人もあると思ったら、なんだか此 陳腐極まる感想が私には妙にヒシヒシと身に感じられてくる思ひが した。 ( 大正十四年九月「文時代」 ) 球を突き乍ら、子供の話が出た。 しかし、それも、實は恭一二が初めたものと云はねばならぬ、ので あった。 彼は玉臺の靑い隅に立って、出來るだけ上半身を押延ばし、眞ん 中にある彼の玉を、一度向ふ側のクッションで切り返へして、更に それをもう一方の他の隅にある赤玉に當ててゆかうとして、唾を呑 んで右手のキューをスイと突いた。 玉は、ねらった最初のやつにも當らずに、まるで違った所でクッ ションをトンと突いて、そのまま靜かに思はぬ方向へ轉げて行っ た。 恭三は身内にゾッと寒氣を感じた。そして、身體が精神もろとも 力を失って、そのままそこへグッタリと倒れて了ひさうになった。 さういふ中で、彼は云った。 「球は當らん。子供は縁側から落ちて腕を挫くし、實際俺は憂鬱だ よ。實際憂鬱だ。實際。」 彼はそれを、半泣き面をして云った。實際彼は、そんな鳥渡した 事からでも、氣持が止め度もなく沈んできて泣きたくなる事が、よ く起るのである。 「ア、さうだってね。この間 >-4 君が來てその事聞きましたよ。その
太い聲はさう云ったかと思ふと、ざくりと砂利の上へ、脅かす杖「だから行くさ。直ぐ分ることだ。」 2 の音を立てた。田澤は思はずステッキを握り直した。相手は田澤の 三人は急ぎもせずに、公園の外へ出て行った。人通りの明るい街 いっかっ 様子を見ると一喝した。 へ出ると、田澤は春世に、 「莫迦野郞。」 「君心配しなくてもいいよ。何だか分らんが簡單に片付くにきまっ 「何だと。」 てるから。」と云った。 「まあ田澤さん。」 「莫迦らしいわね。」 たもと 春世が田澤の袂をひかへた。田澤も喧嘩は出來ないと思ひ返した。 春世は刑事といふ男に、聞えよがしに云った。 「これは何かね。」 「變な災難さ。」 あご 男は春世を顎でしやくって、田澤に尋ねた。 田澤は、まだ、もしや相手が僞刑事でもあればと思ってゐた。 「何でもいい。」 が、明るい街に出ても、男は平然としてゐた。警察の扉まで來ても 平然としてゐた。 「まだそんなことを云ってるか。兎に角署まで來い。」 「署までだと ? ぢややつばり刑事だと云ふんだね。」 「何を ? 」 男は怒氣を含んだ。春世は、かう相手を怒らしてはいけないと思 榛名は大きな聲で目を覺した。玄關のあたりで細君の久和子と誰 った。こんなに相手が怒ってかかった以上、このままでは濟まない か聲高に話してゐた。二階の寢床で誰の聲かな、馬場らしいが、そ だらうと思った。彼女は、 れにしては朝からは妙だと思ってゐると、久和子が上って來て、 「田澤さん。」と云った。「行きませうよ。何處へでも行きませう 「おや起きてゐらっしやるの。馬場さんがいらしてよ。急用ですっ よ。その方がいいぢゃないの。」 て。」と知らせた。 「ああ。」 榛名は寢起きの機嫌の餘りよくない男で、自分ではそれを紳經衰 田澤も、こんな薄暗いところで怪し氣な男と何時までも云ひ爭っ弱のせゐにしてゐた。彼は急用と聞いて寢床から出たが、むつつり てみても仕方がないと思った。何も惡いことをした訣ではなし、反とした顔をしてゐた。 って、出るところへ出た方がと考へた。かういふ感情家でない男「馬場が急用だって ? 何だい ? 」 に、ありのままを云へば、それまでの話に違ひないのだからと思っ 「何ですか、ひどく急いでゐらっしやるのよ。まあ降りて來て頂 た。それに、或は僞刑事でないものでもない、そんなら、こんなと戴。」 ころで愚圖愚圖手間どって、その間につまらない目にでも會った 榛名は澁さうな目付で下へ降りて行った。馬場は榛名の顏を見る ら、なほ厭だと考へた。 と、吸ひかけの煙草を灰皿へこすりつけて消しながら、 「ぢや君、何處へでも行くよ。」 「おい大變な事が持上ったんだ。」と云った。 ちうれんぼうとん 「來いと云ってるんだ。」 「誰か九連寶燈でもしたのかい。」 「そんな、冗談ぢゃないよ。田澤が咋夜引張られたのだよ。」 男は斷乎としてゐた。 わけ かへ くわこ