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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

る文學形式であるからだ、彼らはその理想さへ主張出來得れば、曾 6 和て犯した雎心論的文學の古き様式をさへも、雎々諾々として受け入 れてゐるではないか。そこで、彼らは、文學の圈内に於ては、ただ 單なる理想主義文學と何ら變る所はないと云ひ得られる。 それで果して良いのであらうか。もしそれで良いとするものがあ るならば、コンミニズム文學は、文學の圈内に於ては、最早、いか なる發展能力をも持ち得ないと云はなければならぬ。 三十一一 われわれの文學は、文學形式として、發展能力を持たない限り、 一大文學とはなり得ない。われわれは文學を問題としてゐるのだ。 社會を間題としてゐるのではない。 三十三 われわれが瓧會を間題とせずして、文學を問題としてゐるとすれ ば、最早やわれわれには、コンミニズム文學は、間題から抛擲され るべき問題たる素質を持って來たのである。さうして、われわれの 文學の新らしき間題たるべきことこそは、彼らに代って起るべき、 充分に文學を問題とした瓧會主義文學でなければならぬ。かかる社 會主義的な文學は、當然、正統な辯證法的發展段階のもとに成長し て來た、新感覺派文學の中から起るべき運命を持ってゐる。 三十四 しかしながら、欽に起るべき新らしき文學は、新感覺派の中から 發生した瓧會主義文學のみではない、何故なら、われわれの就會機 構は、いまだ資本主義の一大勢力のもとにあるからだ。いかにわれ われが拒否しようとも、資本主義の存在してゐることは事實であ 、る。此の資本主義の存在してゐる限り、それはよし假令排撃をらる べき文學であるとしても、資本主義文學の發生するのも、また當然 でなければならぬ。 三十五 だが、もし資本主義文學が新らしく發生したとしても、彼らは唯 物論的な鑑察精をもった新感覺派文學でなくしては、無力である。 三十六 かくのごとく新感覺派文學は、いかなる文學の圈内からも、もし 彼らが文學を問題としてゐる限り、共通の問題とせらるべき、一つ の確乎とした正統文學形式である。此の文學は資本主義の時代であ らうとも、共産主義の時代であらうとも、衰滅するべき必要は、少 しもない。 ( 自分のことを書くやうとの注文であるが、自分の今の考へ方を書くためには、以 上のやうなことより仕方がない。 ) ( 昭和三年一月「新潮」 )

2. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

: 3 日本現代文學全集 67 新感覺派文學集 整郎夫謙吉 集 藤村野本 伊龜中平山 昭和 43 年 10 月 10 日印刷 昭和 43 年 10 月 19 日發行 定價 600 圓 ◎ KöDANSHA 1968 じゅうちゃぎさぶろう 十一谷義三郎 かた おか 片岡鐵兵 佐佐木茂索 いぬ いな 稻垣足穂 東光 いけたにしんざぶろう 池谷信 すが 忠雄 ずきひこ 鈴木彦次郎 きん 若濱金作 野間省 發行者 北島織衞 印刷者 株式會社講談社 發行所 東京都文京區音羽 2 ー 12 ・一 21 電話東京 ( 942 ) 1111 ( 大代表 ) 郵便番号 1 1 2 振替東京 3 9 3 0 たけし 著者 はま 社社堂所井社社社社社社 式式 式陽進紙 株株式式式式 株 山石業紙株株株株 刷興大岡工製紙業紙紙 印 瓧社社社ロ加製日製製 本會會會會ク 日式式式式本本州倍菱崎 大株株株株日日本安三神 刷製刷本函革ス紙紙紙紙紙 ロ用用用用 し用 眞印 紙繪文貼返 印寫版製製背表ロ本函見扉 ( 落丁本・亂」本はお取りかえいたします。

3. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

の變った見方のいづれが、より新らしき文學作品を作るであらう か。 われわれは前に、その正邪に拘らず、資本主義を認め、瓧會主義 を認めた。この相對立する二つの瓧會機構を認めたと云ふことは、 それは唯物論だ。何ぜなら、唯心論的文學は、最早や完全に現れ われわれが歴史を認めたと云ふことに他ならない。しかしながら、 て了ったからである。 われわれの今迄の文學に現れた歴史の認め方は、雎心論的な見方で あったにすぎなかった。 二十七 もしわれわれが、此の新らしき唯物論的文學を、より新らしき文 學として認めるとすれば、われわれは當然、コンミニズム文學をも もしわれわれが、歴史を認めたならば、資本主義を認めた如く、 社會主義をも認めなければならぬ。もしわれわれがさうして瓧會主認めねばならぬ。何故なら、コンミニズム文學は、此の唯物論を基 義を認めたならば、社會主義をかくも歴史の新らしい事實として勢礎とした文學であるからだ。 カ付けた唯物論をも、認めなければならぬであらう。 二十八 しかしながら、コンミニズム文學のみが、ひとり唯物論的文學で しかしながら、われわれは、資本主義を認め、社會主義を認めたは決してない。それなら、他にいかなる唯物論的文學が存在する ・ことく、左様に唯心論を認め、唯物論を認めることは出來ないのか。それは、新感覺派文學、これ以外には、一つもなかった。 だ。何故なら、われわれは最早やここに至ると、文學を論じてゐる 二十九 のではなくして、自個の世界の眺め方を論じてゐるのだからであ もし新らしき文學が、コンミニズム文學と新感覺派文學の二つで る。われわれは個である以上、此の二つの唯心、唯物のいづれか一 あるとするならば、そのいづれが、果して文學の圈内に於て、より 文つをその認識力に從って、撰ばねばならぬ運命を持ってゐる。 ズ 新らしくして廣濶なる文學となるべきであらうか。 二十四 三十 コそこでわれわれは、唯心論を撰ぶべきか、唯物論を撰ぶべきかと われわれは、ここに於て、考へねばならぬ。もしもコンミニズム 派云ふことによって、われわれの世界の見方も變って來る。 文學が、曾て用ひた辯證法的考察を赦すならば、新感覺派文學はコ 新 二十五 ンミニズム文學よりも、より以上に明確な辯證法的發展段階の上 5 もしわれわれが、唯心唯物のいづれかを撰ぶことによって、世界に、位置してゐると云ふことをも認めなければならないであらう。 和 の見方が變るとすれば、われわれの文學的活動に於ける、此の二つ何故なら、コンミニズム文學は、文學としての發展段階を無視した

4. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

の動向座談會」 ( + 月 ) 等の司會にあたってい 「極月想片」を載せ、編集同人となる。大正 る。八年、「新春風流座談會」 ( 一月 ) 、「イン 十二年七月、第七次「新思潮」 ( 創刊號 ) に創 鈴木彦次郎年譜 フレーション檢討座談會」 ( 三月 ) 、「『世界は 作「法學士山崎の斷章」を發表。第六次「新 日本をどうみる』座談會」 ( 六月 ) 、「『大學の自 思潮」の五人に横光利一・岡本かの子らを加 治』を語る座談會」 ( 七月 ) 、「美術の秋座談會ー えて、同誌は「文藝時代」のほぼ主力メン・ハ ( + 月 ) 等の「文藝春秋」誌上座談會を司會。明治三十一年 ( 一八九八 ) 十二月一一十七日、 ーを形成した。大學卒業の大正十三年三月、 九年、一一月、「スキー日記」 ( 隨筆 ) を「文藝春東京市深川區島田町に生まれた。本籍、盛岡「文藝春秋」に發表した處女戯曲「マウント・ 秋」。四月、「文藝春秋、の「直木三十五を偲市。父巖、母はな玖男。六歳の時、東京朝日ヴーノンの晝」は、芥川龍之介その他の人々 ぶ座談會」に出席。六月、「新しいサクラの新聞記者であった父君の歸鄕に從って盛岡市の賞讃を受けた。 話」 ( 隨筆 ) を「行動」。「オール讀物」の編集に轉住となる。父は岩手縣選出代議士となり大正十三年四月、東京府立園藝學校敎論とな 長となる。七月、「上信國境溿津牧場」 ( 隨筆 ) 三期をつとむ。自由民權邇動で活躍した鈴木 り、同年十一月、兵役のため退職。この年十 を「時事新報」。九月、「川瀬」を「文學界」。舍定は旧父にあたる。 月、石濱金作・川端康成らと「文藝時代」を 十一月、長男種男が生まれた。この年、中河大正五年、盛岡中學校を卒業。同期に「女の起こし、新感覺派文學運動に人る。この頃の 與一・川端康成・横光利一・石濱金作らとといくさ」で直木賞 ( 昭和三八・第四九回 ) を受け作品に本集所收の「宗次郎は跛だ」 ( 一四・六 ) 、 もに『池谷信三郞全集』を編み、改造瓧よりた佐藤得二がいる。大正六年、第一高等學校「七月の健康美」 ( 一四・一 9 のほか、戲曲「蛇」 刊行 ( 六月 ) 。十年、七月、「文藝」の「『文藝英文科に入學。同期に川端康成・石濱金作・ ( 一五・こなどのすぐれた創作をものし、文壇 時代』座談會」に出席。このころの住所、神酒井眞人らがおり、殊に川端・石濱とは寮生的位置を確立した。 奈川縣鎌倉町西御門九三。十一年、肺を病み活も同室である。大正九年七月、第一高等學大正十四年十一月、小田うめ氏と結婚。 慶應病院に入院。「オール讀物」編集長の後校卒業。同年九月「東京帝國大學文學部英文大正十五年、この年は鈴木彦次郎理の最も多 任は永井龍男。十三年、慶應病院より仙臺の學科に入學。 彩な活躍期といえよう。一月、戲曲「蛇」 東北帝國大學附屬病院熊谷内科に移り、結核大正十年一一月、前記の川端康成・石濱金作・ ( 文藝時代 ) 、「冷たい馬と熱い馬」 ( 文藝日本 ) 、 療養につとめる。七月、日本文學振興會の監酒井眞人・今東光ら四人と相計り、第六「藝」 ( 文鱶思潮 ) 、二月、「より新時代」 ( 文藝時 事に任命された。十七年、七月九日、六年餘「新思潮」を繼承した。第一號に創作「姉妹」、代 ) 、「歳尾らしく」 ( 文藝時代 ) 、四月、「三十而 に及ぶ療養にもかかわらず、病好轉せず、熊第二號「死別」 ( 大正一 0 ・ = l) 、第三號「散髮」立」 ( 不同調 ) 、戲曲「淸酒の始」 ( 文章往來 ) 、「不 谷内科にて死去。享年、四十三歳。同十七日、 ( 大正一〇・四 ) と續いて發表 ( 署名はいずれも鈴木彦滿」 ( 文藝時代 ) 、五月、「巨石」 ( 虚無思想 ) 、「弟 文藝春秋瓧葬がとり行なわれた。歿時は文藝二郎 ) 。彼らはのち「文藝時代」同人として新の結婚」 ( 文藝時代 ) 、六月、戲曲「まだら足 春秋就客員であった。 感覺派文學の誕生に寄與した。この年四月、袋」 ( 女性 ) 、七月、「エリザベスの指環」 ( 新小 保昌正夫 文學部英文學科より國文學科に轉科。次いで設 ) 、「大空の祝輻」 ( アルス ) 、八月、「大爭狐 作製 栗坪良樹 大正十二年一月、「文藝春秋ー創刊となるや騒動」 ( 文藝時代 ) 、九月、「田園の靑春」 ( 文螫時

5. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

と憎新する。さう云ったエ合にかつがれそしてさう云った風に忘れ ズムの、印ち經濟上の需給關係もあって、通俗的作品が讀むであら られたかなり多數の外國の文學者、哲學者、その他の諸がある。風 うと思はれる想像の圈内に意識的乃至無意識的に取材されるであら 俗慣習にしても同じゃうな目に逢ったものが多くある。風俗慣習、 うこともうなづかれるが、それは作者にも讀者にも恐ろしきことで ある。何故なら人生近視鏡の貴族、富豪、乃至プチプル圈の婦女子まして一時の流行がどう始末されようがどうでもいい。けれど思 逹はそれによって人生を見るだけであるからそれ以外の實人生は兎想、文學その他がさしたる檢討と味解とを經ずして喫み差しのシガ 角に盲目にされ、作者は生活戦自體のために懸命である多數の存在レットの如く惜氣もなく投げ捨てられるのは、さりながらやや遺憾 とも云へるのではないか。 から若し知るならば侮蔑を買ふにちがひないからである。 そこで僕はまた文藝に記敍の筆を差し向けるであらう。文藝の使 何はさて、斯様にして社會も、世態も、考方も、感情も否、一切 をこめて變轉しつつある。で、それがいいのわるいのとの議論は別命が就會状態の反映であるだけだとは僕も云はない。さうは云〈な として最近のこの日本が所産したモダン・ガールが作家創作のとりいからである。だが、その議論を進めて行くならそれだけでも十分 入れを結果したとて不思議でもないし、またそのモダン・ガールを以上に論ぜられうべき事だ。それはロシャの文藝批評家の間にも問 意圖的にカルカチアする必要もないのであると思ふ。若しカルカ題であった。併し僂はここではその點には特に觸れないこととす チ、アするものがあるとすれば後々に來たる所の瓧會心理と瓧會妝る。だが、瓧會を反映し、時代を攝取することは云ふまでもない。 その場合を特に社會組織だとか、經濟妝態から來る照射とかに限ら 態とであるにちがひないと信ずる。今のわれ / \ が一葉女史の「た けくらべ」さ、生活の時代感の相反から胸を打たれないし、ましてない。それ以外にしてもその時代 / \ のいろんな意味での時世粧ー 風俗、流行、時代感覺、言葉の色、其他云々ーとは沒交渉ではあり 默阿彌の散切物が滑稽に感ぜられると同時に、現在のモダン・ガー ルの容姿にしても、好尚にしても、物の考方或は感じ方にしても今えない。それを明治大正の小説を通じて見ても面白いが、さて現在 日本の姿とそれを描がく作品も後になってみれば、その中に現はれ から幾年乃至十幾年或は幾十年の後に考へるとすれば滑稽に近かい る女や男なぞが「可笑しいのね、あのときにはこんな格好をしてゐ ものに違ひないかも知れぬが、今の場合にそれを特に變なものだと するのは當たらない。少くとも酷に失する。若しも變だとして見たたんだわね」と後の世の女性から云はれさうな氣がする。そんなこ とが思はれる。 いとすれば現在日本の大抵のものが變でなくて何であらうとも考へ とは云ふもののそれ、の時代はそれ / 「の文學を持って行き、 られるのではなからうか。 それみ、の瓧會はそれん、の藝術をもって行く。けれどもその文學 だと云ったからとて、僕は何もモダン・ガールなんぞに左迄の關 感心を置かない。ただ、何にでもいくらかでも新しい何事にかに直ちをすら瓧會の或種の考方は否定する。プロレタリアであってプロレ に憎新的な瞳を投げたがる吝臭さにたいして同感が持てないと思ふ文學をさ〈否定する。その場合はその文學が何であっても、乃至ど んなにプロレタリア的であっても本質的に文學を氣嫌ふ一派の人逹 藝だけである。 の存在である。この人逹から言はせるとプロレ文藝否定の議論も成 由來この國の人逹はかなり輕卒な好奇心を多分にもってゐるかのり立つのであらうが、それ以上に性格的である。「 ~ ク = の「資本 3 如くである。かと思ふと、いや、むしろ、であるからまたおいそれ論」のうちには詩も小説もある。だからそれがどんなにプ 0 レタリ

6. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

「やあ、有難う。」と云ふと、掃かれた石の上に腰を下した。禮助 「やあ。」と云って輕く頭を下げた。「その後はーーこ のぎに實枝、そのに時子が腰を下した。 一通りの挨拶が濟むと、實枝は、時子に、 花はまだ咲きはしないが、もう花が咲いても不思議ではない陽氣 「けふ、お行きる ? 」と訊いた。 お茶の會〈行くかといふのだった。禮助といふ不意の客があってだった。腰をかけてゐる下から石の冷たさが尻に沁みて來るのが快 よい時候だった。禮助は擬ひアスト一フカンの冬帽を手に持って、頭 も豫定通り行くかといふのだった。禮助はお茶の會と聞くと微笑を を太陽に晒した。時時微かな風が髮の先を渡った。實枝の髮を渡る 禁じ得なかった。この前、京都〈來たときも、茶の會を方方引廻さ 風は實枝の甘い匂ひを禮助の顏に擦りつけた。 れたのを思ひ出したのだった。禮助は時子に云った。 「いい天氣だ。全く眠くなる。」 「行ってらっしゃい。僕は一人でいいから。その方が勝手だから。」 「まあ、あんなに寢てもまだお眠いの ? 」 しかし時子は、彼女逹と一絡に茶の會へ行くやうに禮助を勸め 時子は仰山に目を見張ってみせた。禮助は、眞面目な顏をして、 た。これから行かうとしてゐるのは、建仁寺の何とか庵で、庭がい 「夜は夜、晝は晝、眠りの味は丸で別なものです。」と云った。 いから是非行くやうにと云った。建仁寺の庭を見る興味は動いた それから彼等は眠りに就て暫く會話をした。禮助が相變らす朝寢 が、この前の茶の會で、もう大てい懲りてゐるので、直ぐにも出か 坊で、といふよりは、晝寢て夜起きてゐるやうな悪習慣を持ってゐ けるといふやうな氣持にはなれなかった。でも勸められると斷れな うち ることを彼女等は心配した。世間並の生活をしないことが何んなに いので、禮助は一緖に行く事を約束した。實枝は隣りの家へ着物を 健康に影響するかを説いて、早起きをするやうにと時子は忠告し 著替へに歸った。 た。すると實枝は、 彼等は建仁寺の何とか庵で約一時間を費やした。建仁寺を出て、 「でも、さうでないと御勉強出來ないといふなら仕方がありません 四條通りへ戻った。まだ三時に間があった。禮助のつもりでは、お 茶の會のあと、彼女等と何處か ( 御飯を食べに行く氣だったのだわ。」と云った。 が、かう時間外れでは仕方がなかった。彼等は、四辻のポストの傍「ちゃ寢坊でも構ひませんか ? 」 「それやーー、、・」 に暫く佇んでゐた。 「尢もこいつは實枝さんに關係のない事ではあるが。」 「圓山へでも行ってみませうか。」 「ありますわ。」 禮助は赤いポストをステッキでコッコッ叩きながら時子を顧み 禮助は愕然として問ひ返した。 「あります ? 」 彼等は用のない人種らしい顔をして、石段を上り圓山公園をぶら ひがしやま 「だって京都にゐらっしやる間、毎日何處かしら迚れて行って頂き りぶらりと奥の方〈歩いた。奥〈進み過ぎて、ここからはもう東山 たいと思ってゐるのに、お晝までも休んでゐらしちゃ、あと半日で の「山」の領分になるだらうと思はれたあたりまで來た。 すもの。」 「くたびれたわ。」 「なあんだ、蟲のいい話だな。あはは。」 實枝はさう云ひながら平たい石の腰かけを手巾ではたいた。 さも氣輕らしく禮助は云った。 禮助は、

7. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

0 ア的小説でも小説の型式になったのはきらひだとするのである。そ れは全く好惡 0 問題あるか 0 如くある。しかしそ 0 人逹 0 氣持止めのルフレヱン も十分に分かる。恐らくは上部構造の一切を顧みる瑕がないまでに 經濟的基礎の問題を社會について考へてゐるのであらう。そして社 會變革の一點に計り全力をあげて他を顧みることを欲しないとする 會運動家の燃える熱情からであらう。 だものだから文藝にたいしてさうした否定的態度のあることは考 へなければならないし、又考へて置くだけの必要があるのである。 瓧會革命家が文藝を第三戦線と名づける。さう名づけられたから と言っても彼等にとっては第一乃至第一一戦線の如く第三戰線を重要 観しないにちがひない。重要視するやうな口吻があれば恐らくはお 世辭だ。でなければ宣傳的利用が先き立つのであらう。だから自分 逹の思ふ壺に文學者が這入らないときは「道づれ」呼はりしかしな この二三年來、私は機會ある毎に、現今の文壇の中心勢力を成す い。その呼稱は冷嘲なものである。それはロシャの話だが、第一、 が如く見える一種のリアリズム文學を攻撃して來た。私の論議は多 第二の戦線は實體的のもの第三は観念形態である。それは等分的なくの反感を買ったのみならず、一時は文壇全體が反新感覺派の聲で 分量を持ち同位列に併存するものと實際運動家は考〈ないにちがひ充滿したかの感さ〈あった。然し、時は經過した。私が絶えず攻撃 てうらく ない。 した一種のリアリズム的文學は次第に凋落せんとする傾きを表はし そこに文學の本質がある。文學と現實的事實との相關關渉は瓧會て來た。今や新しい文學として受人れられる作品は、みな何らかの 形態の如何を問はず、問題たりうる。これは他日改めて説く事にす程度で私の主張して來た文學的要素を含有しながら、力強く日本の る。 文壇内に芽を伸して來たのを認める。よし私の議論其物は人々の忘 ( 大正十五年七月「文藝時代」 ) 却の彼方に埋沒してしまったとしても、私自身は今日力強く興りつ つある新鮮なる勢力を感じて、聊かならぬ歡びを感じる次第であ る。 おも 惟ふに、古き文學と新しき文學との根本的相違は次の重要なる一 點に存すると云って差支へないであらう。印ち、從來のリアリズム 文學は固定した人間觀の範圍で人間を描寫したのに對して、新しき 文學は作者の意志で人間を創造し、新しい運命を暗示した、と云ふ 一點である。 もはや幾度も詳論したことで、今更ら繰返へす興味もないが、從 とど 片岡鐵兵

8. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

機械文明の殺人的效果は日毎に人間を脅かして居る。これが人類 に・なったりしては、氣分が安んじない。數學的眞實は、人間生活を 4 殆ど支配して居ると云っても好い。然るに我々の生きて居る世の中滅亡の意義に貫かれた表現の一つであるのは勿論である。 暴力の頻發は、秩序によって展開された人間生活の保證を破壞す は、その根本に於て數學的眞實に反して居る。勞働者は損である。一 方に遊んで居る群れがあると共に、他方には牛馬に劣る生活 ( 物質る。これまた滅亡的表現の一つである。 産兒制限論は、自然の意思を冒漬するものである。人工を以て生 的 ) から浮み上れない群れがある。これは、どうしても世の中の眞 相である。唯物論に詳しいと否とに拘らず、この眞相が世界の人間命を抑制するのだから、滅亡を怖れぬ主張である。 現代の共の外の一切が、人間の科學的知識の専横か、然らずんば の意識にハッキリ損まれて居る。我々が、均衡のとれない瓧會の中 沒理論の暴力かの何程かの表れであって、自然の子としての人間の に坐って居るといふ意識が、我々を感覺的に痛めつける。勿論斯る 均衡のとれて居ない事實は、現代のみの特色ではなく、昔から存在存在力を弱めるものである。現代の表現は人類減亡の意義の他なる し、且っ昔から知識されて居た事には違ひない。然しながら、斯る何物でもあり得ない。 然し、斯のやうな現象に對し、この如く悲觀的な意義を附與する 事實が、感覺的に一般を痛め付けるのは現代に至って始めて認めら のは、舊來の尺度其物である。舊來の尺度に從へば、斯くの如き社 れる現象である。 新感覺派の心の中にも、この會がある。同時に、更らに重要な會は一と思ひに見捨ててしまふのが一番好いのである。けれども新 感覺派の根本の人生観に照らして見れば、この現代に對しておのづ る社會現象が、認識されて居る。 ↓述の如き惱みのほかに、この現象の現はす相が一層新感覺派のから別な態度が選ばれなければならない。 つまり、新感覺派の人生觀に從へば、このやうな現代も悲觀せず 意識に強い映象を投げるのである。それは何か、人類滅亡の過程の に受入れる事が出來るのである。人生が、各の時代の文化を光彩的 姿である。 現代を見よ。唯物論的な就會意識から來る惱みがある。機械文明に生がすために動いて居る限り、今日の表れは今日の表れとして肯 の殺人的效果がある。暴力の表現がある。産兒制限論の知識的承認定出來る。今日生きて居る我々であり、きうして今日以外の如何な る世界にも生きて居ない我々であるのだから今日のために今日の生 がある。同時にその不必要なる實行がある。 唯物論的な就會意識の惱みは、知識階級の自己否定であり、勞働活を豐富に生きるのは、我々の義務である。我々がここに生きるべ く與へられたる條件であり範圍であるところの現代を否定するなら 階級の自己否定である。同時に、世界の人間の立場の抹殺を要求す るものでなくて何であらう。ある階級はそれによって、より良き立ば、我々は何所に生きるのであるか。今日を強く豐富に生きずし て、今日の次ぎなる時代を如何に準備するのであるか。明日は今日 場を要求する根據を持ったと考へられて居るのであるが、實はおの れが何の文化をも持たないことの自覺であり、從って悲しい自己否なくして來るユトピアではない。明日と今日との間にギャップがあ 定と云ふ出發であるにすぎない。斯る社會意識は否定的雰圍氣であるのでなく、明日は今日の成長なのだ。 明日は今日の成長であるー今日の創造、刻々の創造、充實が光り り、さうして、否定的雰圍氣から人間成長のための意義を探し出す ことは困難である。明かにこれは、人類滅亡の意義に貫かれた瓧會輝かしい明日を招來するのではないか。 今日の悪は、今日ひとりの罪ではない。現代がもし悪だらけな時 的表現の一つであら

9. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

「新學士」と云ふ題名の小説さへあったと記憶する。一概に硯友瓧ともすれば革命劇すら舞臺に掛んとする小山内氏さへが藝者を描い 8 時代の文藝を從來の文藝論から戲作視するだけではいけない。一つた。幹彦氏が京都の歌妓をどれだけ題旦にしたか、荷風氏が歸朝 の時代の文藝を見るにはそのころの社會妝態とそのころの習俗覿念後、絢爛の筆でフランス藝術の高き香氣を持しつつ、低卑混迷の日 とを見なければならぬ。 本を皮肉りながら、そこに一種の文明批評を投げかけながら、一轉 何を何と云っても、誰がどう云はうと時代は轉變して行く。時代して尚古的ともなり又享樂耽美となり、藝者との夜話、その世界が もっ特殊の色と光とを描き過ぎるほど描いたりしたこと、吉井勇が と瓧會とは、これが同じ國の同じ地域の内の事であるかと思はれる 紅燈行に、それから後にも藝者をかく文學者もないではなく ( 宇野 事程左様にその相貌をかへるから愉快である。 蘆花その人の「不如歸」が現代に出たなら人は笑ふより仕方があ浩二氏はややちがふ ) 近松秋江と云ったやうな人も幹彦氏と相棒的 るまい。と云ふのは戦爭は・ハルビュースが取扱ふか、エルンスト・ に獨特の纒綿心境を巧みにかきなれてゐたが、今餘程どうかして又 トル一フアがヒンケマンに取扱ふか、ゲーリングが「海戦」に取扱ふ餘程の理由がなくては曾ってあったかの如き藝者をヒーロインにし か、マルセル・マルチネが「夜」に取扱ふか ・ : と云った風に取扱た創作なんかは概して變なものだ。 はれてこそ現在に於ける取扱ひ方である。若し「不如歸」のヒーロ これは瓧會意識の進展がさう思はせるに至ったのにちがひあるま インがあの別れの場合に使ふ言葉のやうなことを今日の女性が云っ い。藝者と云ふものの傳統美と獨特の情調は内部的にくづれて行っ たとしたらそれは少しく可笑しい。よし同じ心情を吐露するにしてたであらう。又、彼女等が歌舞的屬性を漸次稀薄にし又少くともさ も表現がまるつきり違ふであらう。どう云ふ風に今の女性はああし う思はれ、賣笑的存在としての瓧會的屬性を強めて考へられて來た た場合に云ふか僕も知らないが、恐くは大いに違ふであらうことだ こと、それから彼女等がプルジョア歸屬の玩弄的存在であることが けは分る。それに軍人として海戦ー戦爭にたいして何の批判もない多衆の生存權的主張を強めて來た現在となっては文學者と雖も曾っ 小説 ( たしか批判はなかったと確信してゐる ) それもその當時が現て取扱ったエ合には取扱へなくなったのにちがひないかの如く見え 在の如く戰爭に批判を加へなくてもよく、加へなくても讀者が非議る。 しないのみか平和主義非戦主義の蘆花氏でさへが批判さへ加へよう カフェーあたりの女給は藝者とは違った意味での職業女性的要素 としなかった時代だったのであった。 の若干と、カフェーの存在が現代瓧會の需用に應じたものであるか これらのことを考へると文藝作品と時代のテン。ヘラメントとが併の如く何となく受けとられるのとで、一時ヒ 1 ロインが女給にとら ぜ考へられて來る。 れたこともあった。 もっと職業的な職業婦人、更に勞働らしい勞働に從事する勞働女 性、と云ったエ合に瓧會評論の着目も轉じて行った。創作にしろ、瓧 女學生大學生の小説のヒーロー時代はああした意味では再び來な會評論にしろ、時代的反映を持つものであることは云ふまでもない。 いであらうし、來る譯もない。インテリゲンチアが創作のテーマた さう云った成行から通俗小説にお馴染の貴婦人、富豪の家庭に人 るべくんば苦悶のそれより外はあるまい。 となるプルジョア娘なぞも、いつまでも取扱はれるには瓧會條件が それより一時文壇の諸家が藝者を描いた。「大川端」にしろ、今、變り過ぎて來たからである。尤もそこには作品と讀者とヂャアナリ

10. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

流行歌をうたったり、女の話をしたりする。 こにも希望に繋ぐ執着らしいものはなかった。 もう原圖場には基線が出來上った。また原圖場の幅の兩端に、縁 彼は、かうして自身、大きな苦悶の後でくる一種ひそかな安泰に 邊から三呎ほどのところにフェンスを打ち、組立がだん / \ と目に 魂をしづめて、呆然と淋しがってゐる心を見つめる時に、何といふ 顯れてきた。 こともなく戦いた。さうして急に、その頃、この造船所内で起っ 「昨夜往った : ・ た同盟罷工に加って、雨のざんざ降る中を示威蓮動の行列の一人と 「フン。」 なった。密集した職工、社會主義者、もの好きな見物人、巡査、新 「本當だよ。」 聞記者、それらの姿が目まぐるしく走馬燈の影繪のやうに映った。 らんた 吉田は無味乾燥な仕事から、ふと心を轉ずると聲をかけた。 吉田の疲勞からきた懶惰な魂は、なんだか斯うすることによって、 「俺だって往ったヨ。」 あれ さうして生々しく傷つけてやりたいやうな願ひが一杯に溢れ、白い 「嘘つけ。さう言うとったぞ。彼女がなーー」 木綿の大きな旗をかついで先頭に立ったりした。三町も進行しない 「なんだってサ。」 うちに同志の者や、煽動的な瓧會主義運動者等は、捕縛されたり、 「吉田はんは、たまに來ても錢をつかはんから駄目ぢや言うとっ 檢束されたりした。數日の間、この勞働爭議は新聞の社會面をにぎ た。」 はした。吉田は猛然とプルジョワに爭鬪を挑む夢を見たりした。し 「馬鹿ツ。」 かしながら何時の間にか死を賭した同志の人々が、世間の注意を集 その瞬間だった。吉田は右に持った金槌で、がんと左の指を一一本 めたり、市民の同情を得たりすることに狎れ、自分も平穩無事らし 誤って打った。生木の白ッぽい角材に、左の指が潰れ、ぐしやりと くタ暮方の陰慘な町の景色を、汚れた風呂敷に辨當箱を包んで、と ぼ / 、と歩いてゐる姿を、吾と我が身で見出して、言ひ様もない苦音がして、ねっとりとした血がぼた / 、と床に滴った。 「アッ痛い・ : ・ : 」 澁な想ひをなめた。 吉田はその指に食ひっくやうに背をまげると、獸のやうに床の上 そのうちには講演したり、宣傅したり、檢束されたりして注目さ に轉った。 れた吉田のことを、誰も介意する者がなくなり、忘れられてきたの である。 誰の目も異様に光った。吉田と會話をしてゐた色の黑い男が、無 さうして吉田自身も單に陽氣な子供らしさから、母親とタ餐をし ためながら、雄辯に語り合った瓧會組織の、その一番つまらな言のまゝ彼のところにきて、まるで潰れた指をぼろ / 、の手拭で結 い、平凡な、隆しむべき尋常の埓の中に、懶くだん / \ と小金でも〈、醫者のところに連れて行った。機械鉋の激しい音が、尚他の人 貯 ( たさうな彼自身を、またしても發見した。けれどもその時に人の心を忌はしく搖ぶった。 「彼奴は明日から職がねえそ。」 は、もう何を考へるのも厭な、何かに缺けてゐる瓧會革命家だっ 「乞食でもするサ。」 職人逹は空ろに笑ひながら、玖の瞬間から、また平靜に血に染っ 造船所に來る材木は、粗造の角材だった。吉田はそれを平滑な表 2 た角材の削り出しにかゝった。 面に作ったり、此の面に木型をあてて墨で記號をつけたり、小聲で をの、 うつ ぜに