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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

: 3 日本現代文學全集 67 新感覺派文學集 整郎夫謙吉 集 藤村野本 伊龜中平山 昭和 43 年 10 月 10 日印刷 昭和 43 年 10 月 19 日發行 定價 600 圓 ◎ KöDANSHA 1968 じゅうちゃぎさぶろう 十一谷義三郎 かた おか 片岡鐵兵 佐佐木茂索 いぬ いな 稻垣足穂 東光 いけたにしんざぶろう 池谷信 すが 忠雄 ずきひこ 鈴木彦次郎 きん 若濱金作 野間省 發行者 北島織衞 印刷者 株式會社講談社 發行所 東京都文京區音羽 2 ー 12 ・一 21 電話東京 ( 942 ) 1111 ( 大代表 ) 郵便番号 1 1 2 振替東京 3 9 3 0 たけし 著者 はま 社社堂所井社社社社社社 式式 式陽進紙 株株式式式式 株 山石業紙株株株株 刷興大岡工製紙業紙紙 印 瓧社社社ロ加製日製製 本會會會會ク 日式式式式本本州倍菱崎 大株株株株日日本安三神 刷製刷本函革ス紙紙紙紙紙 ロ用用用用 し用 眞印 紙繪文貼返 印寫版製製背表ロ本函見扉 ( 落丁本・亂」本はお取りかえいたします。

2. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

弟に明 て治 武右十 か七 弟ら年 日東月 出光 父海 母道 あ平樽 や市 ←昭和四十三年九月六日今東光 →大正十三年東京本 鄕の自宅にて東光←大正十四年京都太秦ス タジオにて 4 物から一以 東妻三郎東光草間實 →昭和四十年大阪府八尾市山本球 場にて右から東光一人おい て常陸宮御夫妻 ←今東光筆蹟 3 多レ

3. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

( 筑搴書房昭和四三・四 ) ( 桃源社「探偵小説四十年」昭和三六・七 ) 古賀龍視「現文壇の新進作家ー大養健他」 進藤純孝「現代文學大系ー現代名作集ー」 ( 早稻田文學大正一一一・九 ) 淺見淵「イナガキ・タルホと少年」 ( 筑摩書房昭和四三・五 ) ( 講談社「昭和文壇側面史」昭和四三・三 ) 伊藤永之介「新進作家論ー大養健氏の藝術」 編集高橋久子 ( 文藝時代大正一三・ 佐藤春夫・吉川實・瀧井孝作・水守龜之助「新進生田長江「序にもう少し新しく」 ( 文藝時評 ) ( 新潮大正一四・五 ) 作家の人と作との印象ー佐佐木茂索と大養健」 今東光參考文獻 ( 新潮大正一五・四 ) 石濱金作「タルホ・イナガキ君」 ( 文藝時代昭和ニ・三 ) 尾崎一雄「明るい人」 ( 文藝時代大正一五・四 ) 渡邊淸「今東光小論」 ( 文藝時代大正一四・二 ) 上田敏雄「稻垣足穗の近業に就て」 川端康成「四月諸雜誌創作評ー今東光氏『内に 石濱金作「新年創作評」 ( 牧歌 ) ( 文藝時代大正一五・九 ) ( 文藝時代大正一四・五 ) ( 創作月刊昭和三・ ll) 開く薔薇窓』」 ( 新小説大正一五・三 ) 杉生厚一「大養健論序説」 ( 創作月刊昭和三・四 ) 伊藤整「イナガキさんとニシガキさん」 橋爪健「今東光論」 ( 文藝昭和一一五・一一、後に筑摩書房 ( 昭和 吉村鐵太郞「疾走する讀者ー十月號月評」 ( 南京六月 德田秋聲他「新潮合評會三月の創作評 ) ー今東光 ・一二刊〉伊藤整「作家論」に收録 ) ( 創作月刊昭和三・一一 ) ( 新潮大正一五・三 ) 祭 ) 伊逹得夫「消えた人」 ( 新日本文學昭和三三 ( 中央公論昭和四・九、 0 ち『貝殼追放』所收 ) 草下英明「作家の先驅者としてのーイナガ赤木健介「新進作家に與ふ」 ( 文藝時代大正一五・六 ) ( 新潮昭和三五・八 ) キタルホと宮澤賢治」 横光利一「南京六月祭」「犬養健」 ( 右同 ) 川端康成他「合評會第五回ー今東光氏の『光秀 ( 白水社「書方草紙」所收昭和六・一一 ) 山本淺子「稻垣足穗と梁雅子」 ( 文藝時代大正一五・七 ) の戀』其他」 日井吉見「解説」 ( 筑摩版「現代日本文學全集」高木隆郞「稻垣足穗」 中野正人「今東光氏の謬見」 ( 解釋と鑑賞昭和三六臨時增刊號 ) 新卷昭和三二・ ( 文藝戦線昭和二・三 ) 上林曉・高見順「大正の作家・作品」 ( 對談 ) 塚本邦雄「異端者の系譜」 ( 思想 0 科學昭和一一一九・四 ) 松原敏夫「今東光氏の『推論の途中』を讀んで」 ( 右同月報 ) ( 文藝戦線昭和二・四 ) この他「作家」に、野川友喜「イナガキ・タルホ 東尋坊 ( 放射線欄 ) 「作家還元成らず」 金子洋文他「新潮合評會 ( 四月の創作評 ) ー今東光 ( 東京新聞昭和三五・八・三〇 ) 概論」 ( 昭和三八・九 ) 、淸水信「稻垣足穂ノート」 1 ( 新潮昭和三・五 ) 『柩船』」 ー 5 ( 昭和四一・一ー五 ) 。その他たびたび稻垣足穗に 惜名 ( 大波小波欄 ) 「大養健の文學と政治」 ( 右同 ) 川端康成「今君へ」 ( 讀賣新聞昭和四・五・二五 ) 有馬賴義「巡査の子」 ( 後半 ) 觸れたものがある。 谷崎潤一郎「『稚兒』序」 ( 東京新聞昭和四三・八・二九完結 ) ( 鳳書房「稚兒」昭和二ニ・ 編集紅野敏郞 龜井勝一郞他「創作合評ー今東光の『役信ご 西脇順三郎「現代文學代表作全集第六卷」 ( 群像昭和二八・三 ) ( 萬里閣昭和二胆・三、後に研究社〈昭和三一一・ 五月刊〉西脇順三郞評論集「耕塔の迷信」に收録 ) 吉川英治他「第三十六回直木賞選評」 ( オール讀物昭和三一一・四 ) 稻垣足穗參考文獻 伊藤整「現代日本小説大系第四十四卷モ ( 文藝春秋新 高見順「今東光の脱退」他 ダニズム」 「昭和文學盛袞史一」昭和三三・ 文宗谷眞爾他「小特集・稻垣足穗」 ( 河出書房昭和二五・三、後に前記『作家論』に收録 ) ( 南北昭和四三・七 ) 日井吉見「現代日本文學全集跖大正小説集」武藏野次郎「今東光素描」 ( 三友昭和三六 ( 筑摩書房昭和三二・ 派加藤郁乎他「特集・稻垣足穗」 ( 南北昭和四三・九 ) 高良留美子「現代文學の發見第七卷ー存在の探十返肇「新聞小説家評傅三一 ) 今東光」 ( 右同 ) ( 學藝書林昭和四一一・一 新 一 ) 瀬沼茂樹「一文藝時代』とその周圍ー『文黨』」 求 ( 上 ) ー」 ( 集英社「近代日本文學の構造Ⅱ」昭和三八・三 ) ( 新潮社 宇野浩一一「稻垣足穗と江戸川亂歩」 ( 文藝春秋澁澤龍彦「現代文學の發見第九卷ー性の追 5 ( 學藝書林昭和四三・ (l) 今日出海「僞惡の人ー今東光ー」 4 新社「獨斷的作家論」昭和三三・ 「迷う人迷えぬ人」昭和三八・一一 ) 4 丸谷才一「日本短篇文學全集」 江戸川亂歩「萩原朔太郎と稻垣足穗」

4. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

イ 21 新感覺派文學入門 の何れでもあると言 0 た。いよ , 、足並はよみがえ 0 たのも偶然ではな」。猛者の血はのも、ここによると考えられる。 亂れてきた。白と赤とのプチ色の旗をかざいまもこの作家に流れているようである。 『全集』には小説のほかに戲曲が十一一一編收め した嚴めしい新進作家は、この新感覺主義 られているが、まだほかにもあるという。池 池谷信三郞 のために自繩自縛に陷入った。 谷の仕事の重要な一部門である。岸田國士は まさしくこういう様相にあったのである。 池谷信三郞の逝った翌年、その『全集』がもちろんとして、横光利一らにしても、大正 そして、今東光は「新感覺主義」の旗をふり大きな版の一卷本で出て」るが、その編集後末から昭和初年代にかけては戲曲時代ともみ かざしたほうである。「赤い斑點」をそこに言 己 ( 石濱金作記 ) をみると、大正十一 = 年十二月られる一時期をもったものである。池谷もそ のこしたほうである。「軍艦」などはあきら ( 『文藝時代』創刊の直後 ) 、數えどし二十五ののなかのひとりであった。やはり東京生まれ かにそのしるしであろう。『文藝時代』創刊とき、長編「望鄕」が『時事新報』の懸賞にの村山知義、舟橋聖一らをも同人とした、劇 號に載せた「現象論としての文學」も一個の當選して文壇に登場してから、昭和八年に歿團「心座」は新感覺派別働隊でもあったので 新感覺主義文學論である。 するまで、ちょうど九年間に、隨筆・感想からある。池谷の死に際して、横光、川端、中河 今東光が『文藝時代』同人を脱退するもと讀物、飜譯まで合わせると約六千枚にのぼる與一らが追悼記をしたため、その『全集』を となった、菊池寬との衝突については、『東仕事をしたことがしるされている。當時とし編んでいるのは、それなりのいわれのあると 光金蘭帖』所收の「横光利一」などに觸れらてはおどろくべき量だったといえるだろう。 ころである。 れている ( 『東光金蘭帖』は知己交友記で、東光そうした書き手ではあったけれど、そし 菅忠雄 資料の有效な一册である ) 。つまりは若き日の東て、「 ( イカ一フな作家でありながら、少しも 光の潔癖に出たところとみられる。そして、 輕薄な感じを抱かせなかったのは」、その「明今東光によれば、『文藝時代』のそもそも この潔癖がさらには「左傾」を招き、信籍にるい性格の中に、一脈の獨逸的憂鬱さを蔵しの發起人は片岡、横光、川端、菅などの少人數 まで東光を驅り立てたのである。それは屈折てゐた」からであろうと、この『全集』の序であったという ( 前記、「童話的表現による新感 ではなく、むしろ一途の道にみえてくる。 文に書いているのは菊池寬である。この「獨覺派の印象」 ) 。このメムバーはあきらかに『文 『文藝時代』の創刊の前年、『文藝春秋』に逸的憂鬱」は、しかし、「望鄕」を生んだ〈藝春秋』系である。ことに菅忠雄はこの雜誌 載せた「猛者」という一編があるが、今東光 ~ リ生活のみによるものではなか 0 たろと離れられな」關係に置かれた人として終始 の道は猛者の道であった。菊池の目のくろいう。それはおそらく、「下町風と ( イカ一フ好した。菊池寬の「文壇交友録」 ( 大正十四年 ) うちは文壇の日のあたる場所〈は出られなかきが、奇妙な配合を持ってゐる」 ( 自筆年譜 ) 、には、「交友七、八年。隨分古きわれ / 、のタ ったが、 その間にもかなりに本格的な勉強が明治から大正にかけての東京京橋に生まれ、 ー坊なりし」云云とある。漱石先生の舊友で 心がけられたことは年譜などからもある程度育 0 たことからの都會的洗練と一體のものとある菅虎雄先生の御曹司ということで、いく 傳わ 0 てくる。好學の性もこの作家の支えとして、この作家の裡に宿 0 たものといえるだぶん甘く遇されたようなところもあ 0 たかも な 0 たところである。戦後、「役信」、「鬪鷄」ろう。『文藝時代』の同人でこそなかったが、しれないが、その嚴父である菅虎雄にと 0 て などが評判にのぼり、「お吟さま」をもってこの派の新進が池谷をわが同志として遇したは、始末におえぬ、けしからぬ息子であった

5. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

イイ 2 月、第一高等學校一部 ( 文科 ) に入學。同級に十一月、「五月の譜」を「太陽」。この年、ド 川端康成・鈴木彦次郎・酒井眞人らがあっストエフスキーの飜譯『白痴』を春陽堂より 石濱金作年譜 た。なかにも川端と親交があった。ロシア文刊行。このころの住所、東京府下駒澤村深澤 學、北歐文學を耽岡愛讀書は『 ( 塚越 ) 享生六四一一。十五年、一月、「肩」を「文藝春秋」。 全集』。九年、三月、一高を卒業。四月、東一一月、「喜劇」、三月、評論「奇論の眞理」を 明治三十二年 ( 一八九九 ) 二月二十八日、東京帝國大學英文學科に入學。十年、二月、 「文藝時代」。四月、「傾いた人格」を「太陽」、 京京橋區木挽町に、父石濱鉞郞、母いまの次端・鈴木・酒井とともに今東光を加えて第六評論「理性の文學」を「戦車」。五月、「新星」 男として生まれた。父は兵庫縣出身の士族。次「新思潮」を發刊。創刊號に「痴人醉生」。を「文藝春秋」、「結婚破壞時代」を「文藝時 慶應義塾に學び、語澤諭吉と親しく接した。十一年、三月、「去就」を「新思潮」。十月、代」。七月、「入學試驗」を「文章倶樂部」、 時事新報社の記者を經て、後に同瓧 ( 大阪 ) の「葛西善藏研究」、十一月、「里見弴氏の今昔」「靑春挿話 (A Fabe1) ーー稻垣足穗君ヘーー」 販賣部長となった。母も兵庫縣の出身。漢學を「新潮」。十二年、一月、評論「ストリンを「文藝時代」、「覗く」を「辻馬車」。八月、 者岡田鴨里 ( 賴山陽の高弟といわれ、「日本外史補』の著ド ベルヒの夢」を「文章倶樂部」。菊池寛に「都會の幽靈」、評論「怪奇的なるものに就い 作に關係 ) の女であったため、幼少時より嚴格より「文藝春秋」創刊。ほどなく「新思潮」て」を「文藝時代」。十月、「明眸有罪」 ( 連作 な家庭に育てられた。兄知行は九州帝國大學、同人四名とともにその編集同人に加えられ長篇小設第五回 ) を「文藝春秋」。十一月、「山 讀賣新聞論説委員等の職にあった人。瓧會經る。以後、菊池の恩顧を受ける。三月、隨筆徑」を「文藝時代」。 濟評論家としても知られ、著述も少なくな「淸爽」、五月、「一夜」を「文藝春秋」。七昭和一一年 ( 一九二七 ) 、一月、「ホテルと女 い。弟三男は佛文學者 ( 大正 + 五年「辻馬車」八月月、評論「反抗と憂鬱と晴朗と」を「新潮」、優」を「三田文學」、「第一歩」を「文藝時 號に小設「鰡つり」を書いていたりもする ) 。末弟秀雄隨筆「貧乏」を新思潮」。このころの住所、代」。一一月、「 A Romance on aPanama Ha ( 」 は八幡製鉞取締役に至った。ただし、これらの東京市赤坂區丹後町八七。十三年、三月、大を「文藝時代」 ( 同人處女作號 ) 。三月、「過渡期」 兄弟はいずれも亡くなっている。明治三十八學卒業。卒業論文は・・ショーを扱っを「文藝時代」。「手帖」創刊、同人に加わ 年、東京布本村尋常小學校に入學。同年、た。四月、「最近の菊池寬氏ーー・淋しさう」をる。四月、詩「蜜蜂と彼」を「手帖」。七月、 兵庫縣郡家尋常小學校に轉校。翌年、大阪市「新潮」。六月、「壞減」、八月、「。ハナマの客」「新橋驛附近」を「文藝春秋」。九月、追悼己 曾根崎尋常小學校に轉校。明治四十四年、同を「文藝春秋」。十月、「文藝時代」發刊。創「芥川先生」を「手帖」。十一月、「七本の煙 校卒業。小村壽太郞に憧れ、外交官を志す。刊號に「ある戀の話」。「痣」を「文藝春秋」。草」を「新靑年」。十二月、「東京・アレグロ 同年四月、父の希望により大阪市第一一盈進高十一月、評論「個人主義の展開」を「文藝時ー・ー都市空想」を「文藝春秋」。三年、四月、 等小學校に入學。高等科一年修了後、大阪北代」。十二月、「戀の危險」、「わが散文詩」を「變化する陳述」を「新靑年」。五月、「記録」 野中學校に入學。第三學年の途中から東京の「文藝春秋」。府立園藝學校の敎員となる。十を「創作月刊」。十二月、「無駄な入獄」「正 私立日本中學校に轉校。 四年、四月、文化學院の講師となる。八月、「小 宗白鳥 ( 一頁作家論 ) 」を「文藝春秋」、「おせつ 大正六年 ( 一九一七 ) 、同校卒業。同年、九咄」、九月、「ある死ある生」を「文藝時代」。かい」を「東京朝日新聞」。四年、一月、「手 1 一 = ロ

6. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

を書き、昭和十年秋頃までに六百枚を淨書。作家」 ) を執筆。この頃、梅崎春生を知る。 で中野打越に居を定める。昭和一一十五年二月 品選定は小川繁子 ( 小川龍彦夫人 ) があたる。 ( 出昭和二十一年、八月、小山書店より『彌勒』二日、東京を離れ、京都に赴く。篠原志代 ( 婦 版を第一書房 0 春山行夫 = 依賴するが實現・ず、そ 0 後」を刊行。同月、「新生の記」を「新潮」に發表。人一 0 祉司 ) と結婚。京都市右京區山内御堂町中 く 0 〈 0 出版瓧を經 = 、昭和 = + 三年、書豐。→「 0 伊この年、金親淸の世話により、千葉驛前房總央佛敎學院學生寮 ( 染香寮 ) に住む。九月、「兜 逹得夫 0 手」より成る ) 昭和七年、一月、『明治・文藝連盟の事務所で生活。十一月、鷺の宮に率上生」を「作家」に發表。『現代日本小説 大正・昭和文學全集』第簡卷 ( 春陽堂刊 ) に「天移る。昭和一一十一一年、一一月、「惡魔の魅力」を大系第 0 卷、ダ = 一、』 ( 河出書房・三月刊 ) に「一千一 體嗜好症」その他を收録。翌八年 ( ? ) か、「新潮」に發表。四月、久ヶ原に住む讀者の家秒物語」他を收める。昭和一一十六年、四月、 父を喪す。以後生活の困窮から明石にて古着に移る。ここで、隨筆「ヰタ・キ = カリ = 」高根一一郎の世話で、宇治川北岸朝日山惠心院 屋を經營。この明石歸省の數年前から、文學上を思いっき、五月、「新潮」に發表。これをに轉居。昭和 = 一十五年一一月、「その獨創的で の行詰りからか作品は少いが、昭和七年、八機に、書肆 = リイカの伊逹得夫が「ヰタ・特異な且っ不斷の創作活動に對して」第四回 月、「お化に近付く人」をはじめ、その他數篇キ = カリ = 」出版の件で、足穗を訪問。八月作家賞を受賞。同年十一一月、伏見區桃山伊賀 を「文藝汎論」に發表して〔る。昭和十一年中旬、戸塚グフ一ド坂上に轉居。十月、『宇京都府立桃山婦人寮に移り、現在に至る。 十二月末上京。衣卷省三宅に身を寄せ、翌十宙論人門』を新英瓧より上梓。十二月、「姦前記の「兜率上生」の「作家」發表以後、そ 二年四月、牛込橫寺町の東京高等數學塾に移淫〈の同情」を「新潮」に發表。昭和一一十 = 一の主要な作品の殆どは ( 『一千一秒物語』『ヰタ・「 る。母の死の知らせを受けるが歸省しなか 0 年、二月、「白晝見」を「新潮」に、九月、そキ = 「リ = 』を除く ) 改訂・變形・合併・編入の形で た。この頃から飯塚酒場の常連となるが、アの第一一部「たげざんずひと」を「思潮」に發同誌に網羅されている。ここでは、「作家」 ~ 「ー ~ 中毒に犯される。この數學塾にて表。この年は單行出版が相欽ぎ、四月、『明發表作品以外の主な作品について記す。昭和 「彌勒」を執筆。昭和十五年、六月、『山風』石』 ( 小山書店 ) 、五月、『ヰタ・「キ = カリ = 』一一十六年、「雙ヶ丘」 ( 「群像」 0 月 ) 、同一一十八 を昭森瓧より上梓。十一月、「彌勒」を「新 ( 書肆、リイ、七月、『惡魔の魅力』 ( 若草書房 ) 年、「雪融け」 ( 「群像」五月增刊 ) 、同一一十九年、 潮」に發表。昭和十八年、一一月、三省堂より十一月、『彼等』 ( 櫻井書店 ) を刊行。また、「死「ライト兄弟に始まる」 ( 「群像」一月 ) 、同年、「 『飛行機物語』を刊行。翌十九年、六月、『星の館にて」 ( 昭和 = + 一年八月「藝林聞歩」 ) を『日感覺と感覺」 ( 「群像」七月〈ら九月」連載 ) 、同一一一 の學者』を芝山敎育出版瓧より單行出版。十本小説代表作全集第 0 卷』 ( 小山書店・五月刊 ) に收十年、「東京遁走曲」 ( 「新潮」七月 ) 、同年、「異 一月、鶴見海岸いすゞ自動車に徴用。昭和一一める。同年、高橋宗近の司會で、西脇順 = 一郞・物と空中滑走」 ( 「群像」 + 月 ) 、同三十一年、 蠣十年四月の空襲で燒け出され、一時池上德持稻垣足穗・伊藤整の座談會が行われる。十一一『ヰタ・キ = カリ = 』 ( 的場書房・、月刊・限定一 0 寺の知人宅に移るが、六月中旬には南武線稻月、篠原志代 ( 後 0 足穗夫人 ) を伊逹得夫を介し〇部 ) 、同 = 一十一一年、『現代日本文學全集 ~ 大、 垣田堤の農家に移る。 ( = 0 當時 0 體碑 0 「 0 物語」て知る。昭和一一十四年、『現代文學代表作全房・ + = 月刊 ) に「一千一秒物語」 〈昭和三 + 年 + 一月「作家」〉《なる ) 八月上旬、横濱集第〈卷』 ( 萬 0 閣・ = 一月刊 ) に「美しき學校」を收他を收録。同 = 一十 = 一年「『稻垣足穗全集 + ~ 釡』 弘明寺に轉居。終戦を迎え、同月下旬、雪ケ録。五月、東京を離れるため越中城端町に行 ( 書肆 = 。→ ? 0 月刊 ) 、同全集は昭和三十五年十 谷に移る。「日本の天上界」 ( " 和 = + 《年一月「作くが、六月、東京に戻り、江戸川亂歩の好意月までに、六卷 ( " 和一一一 + 三年 ~ 月 ) 、一卷 ( 同年 +

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市 ! 市 ! 公設市場 ! た三平の顏をのぞき、すかさず、次の要求を呈出した。 6 靑物市場の八百松の言葉で、宗次郎は夢中なのだ。 「そんなに云ふのだば、いいス、父さまの心を思って、東京行は止 柳行李が手品の種、うまくまゐりましたら、お手拍子御喝めした。けんど、俺ア、畑稼ぐと、どうしても、身體具合惡いし、 架。 , ーー宗次郞は、祭で聞いた手品師の調子を眞似、自轉車の上さうだといって、寢てばかりゐても、かへって身體具合、惡くなる で、齒をむき出して笑った。 わ。さうでがんすべ。だから、東京は止めしたが、その代り、是 非、俺の願ごと、容れてくなんせ。」 宗次郎は、そこで、自分のほんとの望を話した。 「掘り立ての芋汁だス、うんと食ってたも。」 市場の八百松が、公設市場に品物を出す。それを管理する適 養母の盛ってくれる汁もいいかげんに、宗次郎は、そそくさに晩 當な人間がない。だから、自分が賴まれた。朝に出てタ方まで、市 餐を食ひ終った。 場で八百松の品物を賣る。身體のほんとでない自分には、もってこ 「お染 ! 俺の着物を出して呉ろ。」 いの役目だ。 「あれ。」 三平は、むろん公設市場の意味はわからぬ。そして、宗次郞の市 「早く、まとめろ。急くのだ。」 へ出ることは、寢てゐられるより辛い。然し、今、うん、と云はね 「なにして。」 ば、柳行李まで買ってきた宗次郞の決心だ。すぐ、東京へ逃げ出す 「文句ぬかすな。俺が、此家さ持ってきたもの、みんな出して呉恐がある。 それに、畑の物を賣るのだからな、そのうちには、 また、畑にも出て見たくもなるだらう。 三平は、やっと、承知をした。 「その行李さ、皆、いれんだ。ぐづつくと、承知しねえぞ。」 宗次郞は、念を押した。そして、三平が、再び、がくり顎を引く 「なぜ ? 何したべ。どこへか行くつもりスカ。」 のを見ると、足で、柳行李を隅へ蹴とばし、笑顏を見せて、寢間へ 「あ、東京さゆく。」 引き取った。 「なぜに ? いっ ? 」 三平は、その夜、いつまでも起きてゐた。 「明日の一番でよ。くそ、面白くもない。畑稼ぎなどしてたてさ。 「品物が靑物だしさ。かへってハア、今迄より、畑も見てくれるや 何の足しになるべ。俺アな。東京さ行って、一稼ぎしてくるだ。」 うになるべナス。」 女房が、股引のほころびを縫ふ手を休め、老眼鏡の上から、見上 宗次郎の苦肉の策は、美事成功した。お染は、泣いて袖にすがげて、さう云ふ言葉を、受けながら、三平は、粉ばかりの煙草をま きせる る。養母は、汁鍋をひっくりかへして、泣き叫ぶ。三平も、手をつるめ、だまって煙管につめた。 いて、東京行を引きとめる。 宗次郎は、もとより、東京へゆく お染は、無言で、裏の便所へ立った。芋の葉が、露を玉にして、 氣はないのだ。まだ、東京へ飛び込む程の元氣はない。呼吸をはか光ってゐる。 って、思ひ切り惡さうに、斷念した。そして、ほっと、皺をのばし お染は、芋の葉をゆすりながら、その葉にいっか、落ちる涙の音

8. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

亡父の關係した訷戸市の燐寸原料染料藥品商月、戲曲「遊戲」を「我観」。五月、「無花果」 河西家の小信となる。家計はいよいよ困窮をを「週刊朝日」。八月、「須賀斷片」を「婦人 十一谷義三郎年譜 きわめた。この小僧時代に獨學でドイツ語を公論」、「躄」を「文壇」。九月、「良心」を「文 修めた。五年、伊勢神宮皇學館を受驗した藝春秋」。十月、「文藝時代」創刊、同人に連 が、左肺蓮動不全のため落第。京都第三高等なる。同誌に評論「作家の世界」。「黑白散 明治三十年 ( 一八九七 ) 十月十四日、戸市學校に入學。在學中、「恩人高島氏の計に會歩」を「婦人之友」。十二月、「靑草」を「文 元町三丁目に十一谷春吉の三男として生まれふ。その臨終に侍して、宗敎に對する疑惑を藝時代」。この年、文化學院の英語英文學の た。「近隣は、下級船員、南京妾等の寒居」深め、遂に志を文學に轉」 ( 自筆年譜 ) じた。同主任となる。十四年、一月、隨筆「わがこと ( 自筆年譜 ) であった。小學校入學を前に近く人雜誌「異端」を出す。兄、再び出奔。八年、一「三」を「文藝春秋」。二月、感想「近頃斷 の私塾に通い、一一年間で尋常小學の課程をほ四月、東京帝國大學英吉利文學科に入學。同片」を「文藝時代」。三月、「一杯」を「女性」。 ぼ修了した、という。三十七年、禪戸市立尋月、三宅幾三郞・本田喜代治・淸野暢一郞ら四月、感想「動かぬ經」を「文藝春秋」。 常小學校に入學。 = 一十九年、兵庫縣立師とともに同人雜誌「行路」を創刊、「或る經五月、「冷い握手」を「新小説」、「戀愛以下 範學校附屬小學校に轉校。父が脯を病み、一略」 ( のち、「昇天」と改題。第一創作集『靜物』に所收 ) の男」を「主婦倶樂部」。六月、「春」を「文 とうめい 家が兵庫縣武庫郡御影町東明に轉居したのでを發表。九年、七月、「兄を救ふ事件」を「行藝春秋」、「美德」を「文藝時代」。作品集『靑 ある。幼少からの虚弱體質は早くから讀書に路」。十年、八月、「泥濘」を「人間」 ( 新進作草』を聚芳閣より刊行。九月、隨筆「『怪物』 親しみを起こさせた。四十一一年、父、死去。家創作集 ) 。盟島與志雄を識る。十一年、東京帝正成」を「文藝春秋」、同、「つれづれ談叢」 はじめ 家計困窮におちいった。四十三年、兵庫縣立國大學卒業。「魂の恩師松浦一先生の知遇をを「文藝時代」。十月、「白樺になる男」を 第一戸中學校に入學。東明の酒造家高島氏辱うす」 ( 自筆年譜 ) 。東京府立第一中學校内、「女性」、「風ぐ」を「文藝時代」。この年、 の家僕となって、「惣菜の豆腐買ひの使をし全國中學校長協會主事となり、かたわら同校友人足立欽一經營の出版瓧聚芳閣の客員とな たり、風呂を焚いたり、菜園の仕事をしたりの英語を敎えた。九月、隨筆「論理屋の驢り、出版に從事。十五年 ( 昭和元年 ) 、三月、隨筆 などして、中學〈通はせて貰った」 ( 『ちりがみ馬」を「新潮」。十一月、「靜物」を「東京朝「紅毛平文先生」を「文藝春秋」、感想「態度と 文章』所收「孤獨餓鬼の微笑」より ) 。高島氏が創設日新聞」。十二月、「獨り見た夢」を「サンデ態度」を「文藝時代」、隨筆「天上記」を「辻 した村の圖書館の藏書を和漢洋を選ばず濫 ー毎日」。このころの住所、東京市本鄕區彌馬車」。五月、評論「澄んだ三宅 ( 幾三郞 ) 」を 讀。四十四年、兄が出奔した。この年、中學生町三番地トの四十七號、森方。十二年、一「文藝時代」。三宅幾三郎との共譯で小泉八雲 欲校の體格檢査で全級中、最も發育不良とされ月、「叩く」を「サンデー毎日」。 = 一月、處女著『東西文學評論』を聚芳閣より刊行 ( 0 ち、 + た、という。四十五年 ( 大正元年 ) 、「坊主にな創作集『靜物』を自然瓧より刊行。六月、「六岩波文庫にはいる ) 。九月、隨筆「氏像」を「文 らうと思ひつめた」 ( 同前 ) が、高島の一喝月の話」 ( のち、「」と改題 ) を「新潮」。七月、藝春秋」。十月、「盲嬌」を「女性」。同月一一 四に逢って志を改めた。佛書に親しむ。 「花束」を「文藝春秋」。「天國」を「新思潮」。十二日より「生活の花」を「輻岡日日新聞」 大正四年 ( 一九一五 ) 、第一祚戸中學校卒業。九月、「蒼い微笑」を「太陽」。十三年、ニに連載 ( ー昭和ニ年ニ月 + 九日 ) 。この年、好日書 マッチ

9. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

明治以降の文豪人の真筆枚を精巧な色紙に再現ー 日本文学色紙全集ド 明治百年記念出版 日本近代文学館編 ・収録作家森外 / 樋口一葉 / 幸田露伴 / 島崎藤村 国木田独歩 / 正岡子規 / 伊藤左千夫 / 若山牧水 / 斎藤茂吉 / 吉井勇 / 夏目漱石 / 永井荷風 / 武者小路 実篤 / 室生犀星 / 川端康成 / 石川啄木 / 高村光太郎 北原白秋 / 宮沢賢治 / 萩原朔太郎 / 谷崎潤一郎 / 芥川龍之介 / 佐藤春夫 / 一一一好達治 / 太宰治 〈造本〉色紙 = 金覆輪付本格和紙用紙 = 越前特漉 の色紙用紙色紙裏面特漉和紙「お」鑷砌拠り たレろ 畳紙 = 華麗な風合を釀す畳和紙「栄光」帙 = 詩美を 堪える羂で優美な布装帙帙布装 = 法隆寺 あやにし物 狩猟紋文錦織布装印刷 = 最高峰巧芸版印刷 一時払特価一五、 ^ 00 円 明治百年記念 特価一七、八 00 円 一九、八〇〇円 定 価 ご好評にこたえて特価期間延長ー ・んくりん ちっ レ」くす・ 一第 ご希望の方には豪華内容案内をお送りします。 直接本社にお申込み下さい。 土 きロ 東京・文京・音羽

10. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

六月、「女優」を「中央公論」 ( 翌七月にも連載 ) 編 ) 、以上 + 三編收録、「襯夜」「南國」の二編は、とくに上事件で靑年將校に射殺された。七月、「追憶」 に發表、春陽堂版『日本戲曲全集』卷に、梓にあたって、改作といっていいくらい、加筆補正が行なを「中央公論」に發表。昭和八年 ( 一「九三 岸田國士らとともに、「家鴨の出世」「僞サンわれている。「南國」は、目次面にも「改作」と附記されて lll) 、六月、「亡父の一周忌」を「中央公論」 タクロース」收録。九月、「描寫家トルストいる ) 。はさみこみの月報第六號に、「自傳」をに發表。昭和九年 ( 一九三四 ) 、六月、小册 イ」を「大調和」のトルストイ生誕百年記念書く。この年、中國に再遊。十月、大養健・子『國會選擧事始』を自費で刊行。昭和十一一 號に發表。十月、「南京六月祭」を「文藝春川端康成・横光利一・永井龍男・深田久彌・年 ( 一九三七 ) 、七月、日華事變勃發、その 秋」、「漱石小論」と「講演の思ひ出」を「大堀辰雄・吉村鐵太郞ら七人の編集同人によっ後、汪兆銘の南京政府工作に暗躍、失敗する。 調和」の漱石特集號に發表。十一月、詩「人て、第一書房より、月刊雜誌「文學」が發刊昭和二十三年 ( 一九四八 ) 、戦後追放された。 形芝居」を「大調和」、十二月、「形式主義文された。創刊號には、みずから編集後記を書追放解除後、民主黨總裁となったが、實を結 學論の修正」を「東京朝日新聞」に發表 ( + 。 く「『文學』と名乘って文學の雜誌を出す事ばなかった。昭和二十六年 ( 一九五一 ) 、自 六日ーー二 + 日 ) 、形式主義論爭に加わる。昭和四はそれ自體一つの簡單明瞭な宣言である」と民黨に入黨、第四次、第五の吉田内閣の法 年 ( 一九二九 ) 、一月、「内面形式の間題」をある。作品を寄せなかったのは、蓄膿炎の故相をつとめる。昭和二十九年 ( 一九五四 ) 、 「東京朝日」 ( + 一・ + 一一日 ) 、「亞刺比亞人工ルアという。小林秀雄・中野重治・北川冬彦、西造船疑獄をめぐって指揮權を發動、その責任 フィ」を「中央公論」、「聖ピノチェット」を脇順一二郎らも寄稿。第二號 ( + 一月 ) には、井をとって直後に辭任。 「文藝春秋」に發表。四月、第二創作集『南京伏鱒二らが「屋根の上のサワン」を發表。し昭和三十四年 ( 一九五九 ) 、夏、昭和十年代 かし大養は、何も書かず。第三號 ( + 二月 ) にの古いメモ記録を整理しはじめ、十月、稿を 六月祭』、改造瓧刊 ( 南京六月祭・松吉の立場・ Ka- 「 ad ・アリストテレスと語學教師・正義と煙草・黄いろは、三好逹治、雅川滉、梶井基次郎らの寄稿おこし、「文藝春秋」に連載。作家還元の志 の花・硝子玉の存在・牧歌 (Cogito ergo Sum) ・聖ピノ もあったが、大養は、何も書かず。昭和五年をもち、文藝家協會に入ろうとしたが、さき チ , ット・亞剌比亞人工ルアフィ、以上十一編收録 ) 。裝 ( 一九三〇 ) 、一月、「文學」の第四號には、の指揮權發動のことなどで理事たちの反對も 幀は、小穴隆一。後序に、「その十一のうち 阿部知二・小林秀雄らの寄稿があったが、何あり、受け入れられなかった。昭和三十五年 最初のものと最近のものとの間には、相當に も書かず。二月、「文學」の第五號に、萩原八月二十八日、逝去。三十日、四谷聖イグナ 大きい變化がある。この本から出る聲はそれ 朔太郞・稻垣足穗らの寄稿もあったが、何もチオ敎會で、自民黨葬として葬儀が行なわれ 故ひと色でない。」「大分溜って來た作品の荷 書かず。三月、「文學」の第六號 ( 最終號 ) にもた。十月、生前、校正もすませ、「序」も書 物をひと經めに投げ出す事で、ここのところ 何も書かず。この年、文筆を捨て、政友會のいていた戦時中の體驗記『揚子江は今も流れ 又身輕になった。身輕になると更に私は歩き 代議士となり、政友會總裁となった父毅をたているーー戦亂に書き捨てられたメモワール 養易い」と書いた。九月、新進傑作小説全集の すける。 第一卷、第六回配本『大養健集』、平凡社刊昭和六年 ( 一九三一 ) 、九月、滿洲事變勃發。 紅野敏郎作製 ( 亞剌比亞人工ルアフィ・姉味と新聞配逹・二人兄弟・愚か 父毅、總理となり、政局の收拾にあたる。昭 3 な父・禰夜・南國・ Kamerad ・正義と煙草・輕病卒・女 / 優・南京六月祭・牧歌 cogito ergo sum ・明るい人 ( 序和七年 ( 一九三一 l) 、五月、父毅、五・一五 ーーこ、文藝春秋新瓧刊。