横光利一 - みる会図書館


検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

日ホ珥袋學第 新感覺派・ 社區幻 端康成 7 0 「 . 0 ) 1 : 片岡あい 父を語る 稻垣足穗のこと : : 衣卷省一一一報獸耿 『文藝時代』のころ : : ・赤木健介 京 『文藝時代』における 講東音 横光と川端 : 小田切進月 題字・谷崎潤一郎 「蠅」、「日輪」の大正十年から「上海」の昭和六年までとすると、 横光の新感覺派時代は、八、九年間つづいたことになる。けれど も、新感覺派蓮動が興り、文壇の論議を招き、新機運ももたらし た、いはばその高潮時は、ほんの一「三年であったのかもしれな 端康成 い。新感覺派の機關誌のやうであった同人雜誌「文藝時代」が、日 新感覺派の時代は横光利一の時代であった。四十五年後の現在、本近代文學館によって復刻されたのを幸ひ、私は今もざっと通覽す 私にはさういふ風に回顧される。横光の存在と作品とがなければ、ることが出來て、さう思ったのである。「文藝時代」は大正十三年 新感覺派といふ名稱も、新感覺派といふ文學蓮動もなかっただらう十月號が創刊で、昭和二年五月號で刊された。二年八ヶ月であ と思はれる。橫光がその派の爆心、中核であったより、なほ強い原る。すでに新感覺派は文壇の確かな存在となり、その流派の強調よ 泉であった。 りも、おのおのの作家の進路に重點が移り、同人雜誌に熱意が薄れ 私も新感覺派の作家の一人であったのは、ほとんど横光の誘發にたのであった。 よる。私は横光を露骨には模倣しなかったし、露骨には追隨もしな「文藝時代」のころ、私は新感覺派的であらうと強ひてっとめたと かったが、それは心して避けたのではなく、生來の差異によって、ころは、確かにあった。しかし、自分に新感覺派の才質、たとへば したくても出來なかったのである。片岡鐵兵、今東光、中河與一、横光や中河與一のやうな、また稻垣足穗のやうな新感覺的才質はあ その他新感覺派と言はれた人たちもさうであったらう。 るのかといふ、自己疑惑は絶えずあった。ひそかにあった。ところ 横光の新感覺派風の作品は、大正十二年 ( 一九二三年 ) の「蠅」、が、それから四十五年、とうに新感覺派など忘れて書いてゐるが、 「日輪」にはじまって、昭和三年から六年 ( 一九三一年 ) の長編「上ふと考へてみると、私は今もなほ感覺に多く賴って書いてゐるので 海」に終ると見るべきか。もっとも、「上海」完結の前年、昭和五はなからうか。橫光はすでに世を去って二十年を過ぎたが、むかし 年には、新心理主義的手法の間題作「機械」を書いてゐる。また、の新感覺派作家のうちで、私は最も執念深く根氣強く感覺派をつづ 長編「寢園」の前半を新聞に書いてゐる。しかし、「上海」には新けてゐるのではないかと思ってみたりする。處女作時代に新感覺派 感覺派的の手法がなほいちじるしく、横光のその代表作かと思へる。の人々に友人として出合ったのは、やはり私の蓮命であったのだら 新感覺派

2. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

いた、とは云へると私は思ふ。そしてこのことが、新進作家の作風る。他の人はどうか知らないが、私はさうである。そして事實、か に新しい「ポエムーーー詩美」を漂はせる一原因となってゐるのであう云ふ氣持が新進作家の表現に多分に現はれてゐる 9 片岡鐵兵、十 る。 一谷義三郞、横光利一、富ノ澤麟太郞、金子洋文その他の諸氏や 「葡萄園」の諸氏の作品を讀めば直ぐ目につくことである。これら 三表現主義的認識論 の諸氏の表現を、私の獨斷ではあるが、以上のやうな理論で基礎づ 例へば、野に一輪の白百合が咲いてゐる。この百合の見方は三通けようと、私は考へてゐる。 りしかない。百合を認めた時の氣持は三通りしかない。百合の内に 表現主義の小説家は、今のところ日本に見當らないが、そして表 私があるのか。私の内に百合があるのか。または、百合と私とが別現主義の表現の態度とは大分ちがふが、今日の新進作家の新感覺的 別にあるのか。これは哲學上の認識論の問題である。だから、ここ な表現もまた、表現主義の人々が認識論にその理論的根據を置いた で詳しくは云はず、文藝の表現の問題として、分り易く考へてみる。 と同じゃうに、認識論を味方とすることが出來ると、私は思ってゐ る。 百合と私とが別々にあると考へて百合を描くのは、自然主義的な 書き方である。古い客観主義である。これまでの文藝の表現は、す 例へば、代表的な横光利一氏の作品である。ある人々は、横光氏 べてこれだったと云っていい。 の作風を自然主義的であると云ひ、その表現を客欟的であると云ふ。 ところが、主襯の力はそれで滿足しなくなった。百合の内に私が これは明らかに誤解である。若し客襯主義なら、新しい客觀主義で ある。私の内に百合がある。この二つは結局同じである。そして、 ある。新主飆主義的な、主客一如的な客觀主義なのである。だから この氣持で物を書き現さうとするところに、新主観主義的表現の根一方他の人々に、表現派だとか、立體派だとか云はれるのである。 據があるのである。その最も著しいのがドイツの表現主義である。 例を引くまでもない。横光氏の作品のどの一節でも開いて見給へ。 自分があるので天地萬物が存在する、自分の主觀の内に天地萬物その自然描寫を讀んで見給〈。殊に、澤山の物を急調子に描破した がある、と云ふ氣持で物を見るのは、主観の力を強調することであ個處を讀んで見給〈。そこには、一種の擬人法的描寫がある。萬物 、主の絶對性を信仰することである。ここに新しい喜びがあを直觀して全てを生命化してゐる。對象に個性的な、また、捉へた る。また、天地萬物の内に自分の主襯がある、と云ふ氣持で物を見瞬間の特殊な妝態に適當な、生命を與へてゐる。そして作者の主觀 説るのは、主觀の擴大であり、主觀を自由に流動させることである。 は、無數に分散して、あらゆる對象に躍り込み、對象を躍らせてゐ そして、この考へ方を進展させると、自他一如となり、萬物一如と る。橫光氏が白百合を描寫したとする。と、白百合は横光氏の主觀 の内に咲き、横光氏の主觀は白百合の内に咲いてゐる。この點で、 なって、天地萬物は全ての境界を失って一つの精紳に融和した一元 糘の世界となる。また一方、萬物の内に主觀を流入することは、萬物橫光氏は主襯的であると云ひ得るし、客觀的であると云ひ得る。ま 碓が精靈を持ってゐると云ふ考〈、云ひ換〈ると多元的な萬有靈魂説た、横光氏の表現が溂とし、新鮮であるのも、このためである。 になる。ここに新しい救ひがある。この二つは、東洋の古い主覿主橫光氏の作品に作者の喜びが聞えるのも、この見方のためである。 義となり、客主義となる。いや、主客一如主義となる。かう云ふ かう云ふ氣持は、橫光氏や前記諸氏の表現ばかりでなく、大てい 3 氣持で物を書現さうとするのが、今日の新進作家の表現の態度であの新進に共通する特色である。そして、この表現の態度が、或ひは

3. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

時代』の同人であり、牧野信一は創刊號編輯後記には好意ある執筆しもいうように、虚弱な體質で不幸な環境を苦學して打開し、學究 0 者にかぞえられている。しかも彼らの作風はこの時すでに後の新感としても、作家としても成功したかにみえたとき、父を、弟を奪っ 覺派を豫約する萌芽をみせていた。横光利一も『南北』 ( 大正一一・ た肺患が彼の中にも確實に進行していたので、厭世思想または虚無 一一・人間 ) をよせ、里見、久米らに次ぐ新しい世代の出現を告げて思想を深めずにはおられなかったからである。年譜によると、結婚 いたのだから、これを『人間』派または周邊の作家に數えるのも、 は數え年三十四歳、晩婚で、肺患の進行している時である。 當時としては正當であったろう。 この十一谷の初期の佳作は『靜物』 ( 大正一一 ・一一・東京朝日 ) で さて、『新感覺派文學集』と題する本書において、すでに單獨にある。小説家の新婚夫妻の生活を、友人の獨身畫家とモデル女とに 交錯させながら、結婚生活の不安定な氣分を、巧妙に描いている。 刊行された横光利一、川端康成、岸田國士を除き、十一谷義三郞、 片岡鐵兵、佐佐木茂索、稻垣足穗、今東光、菅忠雄、鈴木彦欽郞、 日常茶飯の平凡な事象とみえながら、畫家からおくられた紅い小鳥 石濱金作の八名の、この時代の特色あり、評判を得た作品を選んを小道具に使って、ウィッティな會話をあやつりながら、小説家夫 で、「新感覺派の目録」をつくった。ここに「新感覺派」がすでに妻の微妙な心理の奥にひそむ不安をさりげなく追求し、そこにすで 廣義にもちいられていることは明かであろう。この他、『白樺』後に虚無の影が退屈という形で射しこんでいる。 期ともいうべき大養健は、横光、川端らと交友を厚くし、このころ おそらく『靜物』は、題名のしめすように、未婚の作者のファン から新感覺派的作風をあらわし、後にともに『文學』 ( 昭和四・一〇タジによって試みられた結婚生活へのシニイクな心象風景ともいう ーー五・三 ) 編集同人となる關係から、また池谷信三郎は『文藝時べきものであったろう。だから、反面では、、老提琴家の敎訓を織り 代』の同人にこそ參加はしなかったが、新感覺派の作風と一つにし こみながら、若い口缶師貴と婦人との可憐な一フンデヴウをメルヒ工 ている關係から、その作品を採った。紙面の關係から割愛したもの ンに仕立てる『花束』 ( 大正一二・七・文藝春秋 ) も可能なのである。 も數が多い。評論においても、作品においても、新感覺派の代表者この『花束』は、或は川端康成のコントといった味いがするかもし の一人である中河與一は、本人の意志で、作品を寄せられなかつれない。しかし、『靑草』 ( 大正一三 ・一二・文藝時代 ) や『白樺にな る男』 ( 大正一四・一〇・女性 ) は、『靜物』の畫家と妻との間に對す る良人の作家の不安を具體化してみぜたもので、この作者の厭世思 想がにじみ出ている。前者は、幼馴染の少女である後の嫂と眇の兄 十一谷義三郎は、ペダンティックな考證趣味と泉鏡花・夏目漱石との間を嫉視する弟を、後者は、山の湖畔で妻と從弟の醫師との間 以來の凝った審美的スタイルとをもって、奔放な文明開化風な意匠にぼんやりとした不安をもっ胸を病む男を描いている。この後者の を展開する一連の『唐人お吉』 ( 昭和三・二 一一一・中央公論 ) を書妻は「長州型の顏」をもっていることで、『芽の出ぬ男』 ( 初出未詳・ いて、新感覺派流のモダニティとも、或いは古典派流のモダニティ但結婚前の作 ) の幼馴染の從妹を思わせ、或いは私小説的な要素があ とも、呼ぶべき風格をみせている。しかし、この小説の美的意匠のるかもしれない。この點は今は間うまい。 背後には、繪卷物に仕立てずにはおられない厭世思想が流れ、『唐『風騷ぐ』 ( 大正一四・一〇・文藝時代 ) から『仕立屋マリ子の半生』 人お吉』の續篇を「時の敗者」と呼んだような苦澁がみられる。誰 ( 昭和三・七・中央公論 ) 、『あの道この道』 ( 同・文藝春秋 ) になると、

4. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

イ 21 新感覺派文學入門 の何れでもあると言 0 た。いよ , 、足並はよみがえ 0 たのも偶然ではな」。猛者の血はのも、ここによると考えられる。 亂れてきた。白と赤とのプチ色の旗をかざいまもこの作家に流れているようである。 『全集』には小説のほかに戲曲が十一一一編收め した嚴めしい新進作家は、この新感覺主義 られているが、まだほかにもあるという。池 池谷信三郞 のために自繩自縛に陷入った。 谷の仕事の重要な一部門である。岸田國士は まさしくこういう様相にあったのである。 池谷信三郞の逝った翌年、その『全集』がもちろんとして、横光利一らにしても、大正 そして、今東光は「新感覺主義」の旗をふり大きな版の一卷本で出て」るが、その編集後末から昭和初年代にかけては戲曲時代ともみ かざしたほうである。「赤い斑點」をそこに言 己 ( 石濱金作記 ) をみると、大正十一 = 年十二月られる一時期をもったものである。池谷もそ のこしたほうである。「軍艦」などはあきら ( 『文藝時代』創刊の直後 ) 、數えどし二十五ののなかのひとりであった。やはり東京生まれ かにそのしるしであろう。『文藝時代』創刊とき、長編「望鄕」が『時事新報』の懸賞にの村山知義、舟橋聖一らをも同人とした、劇 號に載せた「現象論としての文學」も一個の當選して文壇に登場してから、昭和八年に歿團「心座」は新感覺派別働隊でもあったので 新感覺主義文學論である。 するまで、ちょうど九年間に、隨筆・感想からある。池谷の死に際して、横光、川端、中河 今東光が『文藝時代』同人を脱退するもと讀物、飜譯まで合わせると約六千枚にのぼる與一らが追悼記をしたため、その『全集』を となった、菊池寬との衝突については、『東仕事をしたことがしるされている。當時とし編んでいるのは、それなりのいわれのあると 光金蘭帖』所收の「横光利一」などに觸れらてはおどろくべき量だったといえるだろう。 ころである。 れている ( 『東光金蘭帖』は知己交友記で、東光そうした書き手ではあったけれど、そし 菅忠雄 資料の有效な一册である ) 。つまりは若き日の東て、「 ( イカ一フな作家でありながら、少しも 光の潔癖に出たところとみられる。そして、 輕薄な感じを抱かせなかったのは」、その「明今東光によれば、『文藝時代』のそもそも この潔癖がさらには「左傾」を招き、信籍にるい性格の中に、一脈の獨逸的憂鬱さを蔵しの發起人は片岡、横光、川端、菅などの少人數 まで東光を驅り立てたのである。それは屈折てゐた」からであろうと、この『全集』の序であったという ( 前記、「童話的表現による新感 ではなく、むしろ一途の道にみえてくる。 文に書いているのは菊池寬である。この「獨覺派の印象」 ) 。このメムバーはあきらかに『文 『文藝時代』の創刊の前年、『文藝春秋』に逸的憂鬱」は、しかし、「望鄕」を生んだ〈藝春秋』系である。ことに菅忠雄はこの雜誌 載せた「猛者」という一編があるが、今東光 ~ リ生活のみによるものではなか 0 たろと離れられな」關係に置かれた人として終始 の道は猛者の道であった。菊池の目のくろいう。それはおそらく、「下町風と ( イカ一フ好した。菊池寬の「文壇交友録」 ( 大正十四年 ) うちは文壇の日のあたる場所〈は出られなかきが、奇妙な配合を持ってゐる」 ( 自筆年譜 ) 、には、「交友七、八年。隨分古きわれ / 、のタ ったが、 その間にもかなりに本格的な勉強が明治から大正にかけての東京京橋に生まれ、 ー坊なりし」云云とある。漱石先生の舊友で 心がけられたことは年譜などからもある程度育 0 たことからの都會的洗練と一體のものとある菅虎雄先生の御曹司ということで、いく 傳わ 0 てくる。好學の性もこの作家の支えとして、この作家の裡に宿 0 たものといえるだぶん甘く遇されたようなところもあ 0 たかも な 0 たところである。戦後、「役信」、「鬪鷄」ろう。『文藝時代』の同人でこそなかったが、しれないが、その嚴父である菅虎雄にと 0 て などが評判にのぼり、「お吟さま」をもってこの派の新進が池谷をわが同志として遇したは、始末におえぬ、けしからぬ息子であった

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をいう。川端は、表現主義、立體主義、ダダ主義等の根據にフロイ ( 同 ) は、千葉龜雄による新感覺派の命名が安當ではないとし、むし 8 ろ新象徴主義と呼ぼうとしているものであり、新象徴主義の表現は 和ト流の精紳分析學のあることを明かにし、これに關心をみせてい ダダイズムばかりが重要ではなく、「新技巧派と呼ばれる芥川龍之 る。フロイトこそは、人間行動の無意識の根源に理性の光をあて、 介氏一派から胎生し來ったと信ずべきふしがある」と指摘したのは マルクスと並んで、現代に大きな影響を與えている思想家である。 そこで川端は新しい感覺への欲求が「感覺の發見」を目的とするも烱眼というべきである。もっとも、千葉龜雄がすでに新技巧派の系 のではなく、人間生活の根源を究めようとして生まれてきた新思想譜を考えていたことはすでに明かにしたが、そこでは『人間』一派 にもとづくことをしめしたのだ。 の新技巧派だけが着目されていたのであり、これには後に述べるよ うにそれ相當の理由があったものの、やや趣を異にし、正鵠を缺い 横光利一もまた制作だけではなく、理論においても、重要な先達 である。川端につゞいて『感覺活動 ( 感覺活動と感覺的作物に對する非ているところがある。この意味で、若年の赤木の指摘の方が的を射 ているし、彼のいわゆる新象徴派に『文藝時代』と『文藝戦線』と 難への逆説 ) 』 ( 同・二・文藝時代 ) を書いて、認識論的に、制作活動の 過程から、新感覺的表現を根據づけた。あの有名な「新感覺派の感の同人を數えているのは、伊藤永之介と同じである。 この他、片岡鍼兵の『新感覺派は斯く主張す』 ( 大正一四・七・文 覺的表徴とは、一言で云ふと、自然の外相を剥奪し、物自體に躍り込 む主の直感的觸發物を云ふ」という文句はここに出ている。さら藝時代 ) 、『新感覺派の表』 ( 大正一五・四・新小説 ) 、『止めのルフレヱ に「米來派、立體派、表現派、ダダイズム、象徴派、構成派、如實ン』 ( 昭和一一・四・文藝時代 ) は、數多い評論の一斑である。とくに第 二の『新感覺派の表』は、論者の考えで整理してあるが、當事者の 派のある一部、これらは總て自分は新感覺派に屬するものとして認 めてゐる」という。第一次大戦とその前後から、ヨオロツ・ハ諸國に新感覺派の總括として、注意すべきものである。同人として異色の 十九世紀藝術を破壞して藝術革命を唱えた諸流派、いわゆる前衞藝あった稻垣足穗の『末梢經又よし』 ( 大正一四・四・文時代 ) 、文明 術をあげて新感覺派にかぞえ、みずからの歴史的位置を明かにし、 評論家として時代感覺にすぐれていた新居格の『文藝と時代感覺』 現代藝術としての性格を鮮明にしている。十九世紀の近代文學を超 ( 大正一五・七・文藝時代 ) をも併せておさめた。最後に横光利一の えた二十世紀の現代文學としての性格が徐々に自覺されている。 『新感覺派とコンミニズム文學』 ( 昭和三・一・新潮 ) をもって、この こういう意味で、「文藝戦線』に『新作家論』 ( 大正一三・七 ) を寄ころようやく現れた兩者の對立についての決斷をきくことにした い。この評論とともに『唯物論的文學論について』 ( 同・改造 ) が發 せて、評論家として登場してきた若冠二十二歳の伊藤永之介 ( 後の プロレタリア・農民作家 ) が『文藝時代』に拔攝されて、文藝時評や作表され、ともに後に『書方草紙』 ( 昭和六・一一・白水瓧 ) におさめら 家論をよせ、新興文學としての新感覺派を擁護した。『昨日への實れている。 感と明日への豫感』 ( 大正一四・三・文藝時代 ) もその一つで、この當 時は新感覺派とプロレタリア派との間に敵對關係よりも、むしろ協 雜誌『文藝時代』に結集した同人たちは、創刊當時は、伊藤貴 働關係が既成文壇に對抗してもたれていたことが知られる。また若 冠十八歳の赤木健介 ( 後のプロレタリア歌人・歴史家伊豆公夫 ) もまた評麿、石濱金作、川端康成、加宮貴一、片岡鐵兵、横光利一、中河與 一、今東光、佐佐木茂索、佐々木味津三、十一谷義三郞、菅忠雄、 論家として早熟な筆をふるっている。『新象徴主義の基調に就いて』

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この菊池寬との關係は、横光、川端はじめ『文藝時代』創刊同人新しい同人雜誌『文藝時代』は、非難や反感にみちた浮説や憶測 の牛數以上が『文藝春秋』の同人だった上、菊池の好誼を受けていにとりかこまれ、横光と川端とが釋明につとめながら、こうして大 たものが多かったため、ジャーナリズムで種々取沙汰されて、横光正十三年十月に創刊號を世に出した。はたして刊號に載った横光 や川端たちが最も苦慮しなければならぬところだった。八月七日のの小説「頭ならびに腹」の奇拔で大膽な表現技法は、既成文壇に揶 川端宛ての手紙で、橫光は「お手紙拜見。御努力感謝いたし候。こ揄と攻撃のかっこうの材料を提供する形になり、横光は集中砲火を んな所にゐるのがすまなく思ひ候。京都へ下さった手紙拜見仕らず浴びるような攻撃にさらされるにいたった。この前後の事情をたど 候。殘念に候。菊池氏へは京都にゐる時委しくお報らせいたしおきってゆくと、橫光は豫めそうした攻撃を豫期していて、あえて「矢 候。決して惡くはお思ひなさるまいと存ぜられ候。貴兄編輯責任忝おもて」に立つべく、「頭ならびに腹」の奇矯なまでの技法をここ く存じ候。貴兄反感の矢おもてにお立ちになること甚だ殘念に存じろみたように見える。前記八月七日付川端宛て書簡では、横光は 候へども、その時は小生出來る限りのことはいたすべく候。雜誌發目下小生、十月號の改造のを一つ書き居り候につき、餘り長いも 刊の節は雜誌設立理由及び心理を書くことといたさうではございまのに及ぶこと之れ難からんと存ぜられ候が、十枚ばかし小生の所豫 ぜぬか。 : ・」と書き、それに川端、片岡 ( 編集責任擔當 ) が賛成し算にお入れ下され度く、右お赦し下されば好都合と存じ候」と書き て、創刊號の「新しき生活と新しき文藝 , ーー創刊の辭に代へて」が送っているが、浮説・憶測が亂れとぶにいたって、それまでの「蠅」 特に主要同人八名によって執筆されるにいたったものと思われる。や「日輪」よりも新しい、 そこに橫光は「文藝時代と誤解」と題する一文を書いて、「既成文どうしても自分たちが〈新 壇に對する文藝陣では決してないのである」こと、「誤解をしない時代の文藝〉を示す雜誌を ゃうに努めると云ふことが、今各人の最も重大な責務」であること必要とするいわば根據とな ' などを、力をこめて述べている。川端も菊池を傷つけることを恐れるような〈新しさ〉を、創 て、心をくだいている。菊池が『文藝時代』の創刊直前に、先手を刊號創作欄の最初の作品と 0 〔 打つように『文藝春秋』九月號で同人の解散を宣言したことにたいして掲げなければならぬと して、川端はそれを菊池の「潔癖」とし、次のように浮説や憶測に考えるにいたり、あえて既を こたえた。 成文壇につきつけるように 「私逹が『文藝時代』を發刊することに對して、菊池寛氏は一言失敗作「頭ならびに腹」を 半句の反對もなしに承了してくれた。しかし其處に多少の寂しさ發表したのである。 があったであらうと思ふのは、私逹の思ひ上りではあるまい。こはたして「頭ならびに の寂しさを思ふと、私逹は何と言っていいか分らない。そして世間腹」の鬼面人を驚かすに近 の一部はこの寂しさに向って横手を打たうとしてゐるのだ。・ : : 」い奇拔な技法をめぐって、 ( 讀賣新聞、十月五ーーー七日「文藝時代と文藝春秋」 ) さかんな論議がおこった。 昭和 8 年 10 月前列右から保高徳藏吉田甲子太郎 牧野信一鈴木彦次郎構山潤後列右から今井達 夫一人おいて井伏鰌二逸見廣 7

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392 もある。特に著しい新感覺派の作家は同人の中でも僅かに中河與 「世紀」所載の千葉龜雄氏の時評文の命題に發したのである。 さういふわけであるから、「文藝時代」の同人全部が新感覺派で 一、川端康成、横光利一、私などの數名であると云っても好い。 その示した作品は中河氏の「凍る舞踏場」橫光氏の「表現派の役 あると早合點する人が多いやうである。つづいて、同年十二月の 「文藝時代」の卷頭論文に、私は「若き讀者に訴ふ」と、題する物者」川端氏の「短篇集」など無數ある。私をして云はしむれば、加 を書いた。要旨は、横光利一 ( 文藝時代同人の一人 ) の小説の中の宮貴一氏や同人外でも稻垣足穗氏の如きは正に新感覺派であると云 っても好い。 一句「沿線の小驛は石のやうに默殺された」と云ふ文章を例にと 世論は、はじめは賛成者も多く、若々しい剌とした無數の靑年 り、斯のやうな文章の存在を主張し、併せて斯のやうな文章を理解 ぜぬ既成の文章論に抗議したのである。引續いて、翌年一月には同作家の試作が現れた。が、欽第にこれを非とし、これに惡態を吐く じく「文藝時代」の卷頭論文に、同人、川端康成氏が「所謂新感覺批評家が增して來た。議論を以て居た非難者は、僅かに中村武羅 的表現の意義」と題して、文章上の新しい方法論を試み、二月の同夫、生田長江、石丸悟平の數氏であるにすぎなかった。夏頃に至っ 誌卷頭論文には、橫光利一氏が「感覺活動」と題して、生活と感覺て、反新感覺派の氣勢を頂上に逹した。殊に、同年七月の新潮合評 との關係を説いた。 會席上に於て、私は佐佐木茂索、小嶋政一一郎、藤森淳三、堀木克 然し、これらの論文に於て、論者は決して自ら自分たちの傾向を三、中村武羅夫の五氏の包圍に陷り、吃音的な拙論の應戦に甲斐あ 「新感覺派」と稱しはしなかった。が、斯る論者に對し、自ら「新る筈なく、醜態を演じた。 感覺派」の名稱を受入れたものと世人がきめて掛ったのは無理から 論戦をする筈の川端康成氏は伊豆に引込み、私は前記新潮合評會 ぬ事である。彼らの論はいづれも感覺生活が一層の奪重を受けるこ に出席する當日までの半歳を關西に流浪するしして、その間沈默し とを要求したからである。そして又感覺を一層奪重する事に依っ て居たため、新感覺派論は殆ど振るはなかったのである。 然し、年末から十五年初頭に掛け、片岡良一氏、小山龍之輔氏、 て、彼らの新しき出發を、既成文學の價値標準から少し外れたコー スに向けようとする傾向のあったのも否めなかったからである。 小宮山明敏氏等の理解ある非難がぼっ / 、現れ出した。赤松月船氏 大正十四年の上半期は、新感覺派是非論で毎月喧騷を極めた文壇の非難も、論敵として氣持ちの好いものであった。伊藤永之介氏は であった。上記の論者たちも、自分たちの主張する文學論が、それ始終好意を示した。橋爪健氏も、十分に同情のある非難振りを示し ほど世人から「新感覺派」の云ひ分として一括されるなら、されてた。これらの理解ある非難によって、新感覺派はいよ / 、一つの文 も好いのであった。要するに名稱などはどうでも好い。名稱を批評學運動としての研究の對象となり得部ち立派に一の存在として認め として受取らず、單純に名稱として受取り、自然と「我らは新感覺られるまで成長し得た。 派である」と自稱するに等しい熊度を採った。斯うして初めて、こ けれども、まだ完成もして居らねば、一般に理解されても居な の日本文壇に「新感覺派」なるものが存在するに至ったのである。 い。ここまで成長して來て初めて存在の立場 ( 世間的に ) を持つや 然し、世人が云ふやうに「文藝時代」同人全部が新感覺派である うになったので、本當の成長はこれからだと信じて居る。これから のではない。同人の中でも、自ら「自分は新感覺派ではない」と宣だ、と信じることが、私共新感覺派をして瓮よ努力せしめる所以で 言した人もあり、且っその作品が決してこの派の範圍に人らない人ある。

8. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

ささか同人をぬきんでた長者の風といったと『文壇出世作全集』 ( 昭和十年、中央公論社刊 ) 健」 ) るのとは、あきらかに異質の受けと ころがあったかもしれない。そして、あるいはなかなか興味ある出來の一册であるが、そりかたである。新感覺派の觀點 ( むしろ、 は、『文藝時代』同人間ではややケムったいこに佐佐木は大正十四年の作、「兄との關係」黔とでも表わしたほうがふさわしいだろうが ) の ような、扱いにくいような一面もあったかもを收めている。そして、その附記に「おちい特異性ともいうべきものが察せられると同時 しれない。 さんとおばあさんの話」以後が第一期、このに、またその無理さ加減といったところも感 芥川龍之介は佐佐木を「剛才人」と言って「兄との關係」からが第二期、昭和三年の「魚じとれる評價である。大養を新感覺派として いるが ( 大正十五年『新潮』四月號「剛才人と柔の心」あたりからが第三期で、「困った人逹」とらえることには疑義がのこる。しかし、 才人と」 ) 、佐佐木には、この「剛才」があっ ( 昭和五年 ) は「中休み」、これからが第四期『白樺』から出た作家ではあるが、大養自身 て、「新感覺」に同じなかったところがある。だろう、ということを言っている。しかし、は『文藝時代』創刊の前後から、川端、橫光 みずからにおける洒落た作味と新感覺派のモその第四期はもつばら出版人として送られたらに接し、文壇新時代の到來をみてとって、 ダニズムとの間に一線を畫するきびしさ、強ものとなった。「剛才」はここでも遺憾なくいくらかその作風にもカープを意識していた 情があった。今東光は『文藝時代』を脱退し發揮されたのである。 とはいえないだろうか。もしくはみずからの て、『不同調』に加わったが、佐佐木は『文 作品へのあたらしい評價をよしとする氣風を 大養健 抱いたとはみられないだろうか。 藝時代』の同人として居ながらに『不同調』 りそして、その結果が橫光、川端とともに後 同人にも連なっている。そして、その創刊號『文藝時代』創刊號の「編輯後記」の終わ の同人記で、その多くが「一人一黨」、「十人に、「同人の他に、金子洋文、牧野信一、大續の堀辰雄、永井龍男らと名を連ねて、雜誌 十色」を、この雜誌の特色として強調してい養健の三氏も好意を以て執筆される旨約束さ『文學』の編集同人に加わっていっているこ るなかで、「僕はさうは思はない。」といい、れた。」という一句が添えられている。これとに出ている。プルウストの「スワン家の 「この雜誌は誰が何と云っても中村武羅夫氏らの三人は『文藝時代』シム。ハサイザー、な方」などが譯載され、井伏鱒二の「屋根の上 の體臭フンプンたるものであらうことを明言いしは理解者、また、ある意味では廣義の新のサワン」が發表されたのは、この雜誌であ つよ して」、はばからない。まさに剛いのだ。 感覺派くらいに考えてよいのだろう。やはりる。その創刊號の編集後記をしたためている 芥川はまた、佐佐木の作品から、「たるみ一種のモダン派、實驗派である。 のが大養健である。けだし純粹藝術派の一員 入のない畫面の美しさ」、「小面憎い餘裕」など横光利一は「新感覺論」のなかで大養健をとしての抱負がうかがわれるような一景であ 文を感じとっている ( 『春の外套』の序 ) 。この「如實派」と呼びながら、その作にみられるろう。横光がかさねて大養を評して、「作風 「たるみのない」ことも、「小面憎い」こと「官能の快朗な音樂的トーンに現れた立體性」に於ても彼は絶えず時計を持って質實な一フン も、「剛才」と無縁ではないだろう。しかもを新感覺派の小説作法の一類として評價してニングをやってゐる」、「靜々とした近代の機 佐佐木の作は「又纎細を極めた情緖のニュアいる。これは、たとえば芥川龍之介が犬養の械の妻さを傳へようとしてゐる」 ( 昭和五年 ンスに溢れてゐる」 ( 同上 ) のである。これら作に「柔かに美しいもの」を覺え、「そこに「新潮」一月號「大養健」 ) と書いたのは、ちょ がこの作家の眞面目であり、新面目である。若々しい一本の柳に似た感じを受け」 ( 「大養うどこの「文學」刊行中のことである。しか

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いるおもむきがある。すでに個性たしかな存ているが、それの行きついたところが、前記、 とではない。プロレタリア文學におけるモダ 8 引在だったのである。 『人間』の「新進作家創作集」の處女作「舌」ニズムは、この時期の片岡の作に一つの端的 であった。この六十枚ほどの作品を四日間でなあらわれをみせている。 片岡鐵兵 書きあげたというのだから、すでに逹者な書 佐佐木茂索 太平洋戦爭のさなか、旅行さきの和歌山縣き手だったのである。このあたりまでのこと 田邊で片岡鐵兵が急逝したとき、新感覺派時は、「文壇的自敍傅ーーー梗概的自傅」 ( 昭和十『文藝春秋』を主宰した菊池寛の大正十四年 代の僚友であり、その後もこの作家とは親し年『新潮』六月號 ) によっても識ることができに書いた一文に「文壇交友録」というものが つきあ あり、「二人限りにて交際ひたることある人」 い附きあいをもった横光利一は追悼記としてる。 を「友人」として擧げて、芥川龍之介以下に 「典型人の死」と題する一文を書いた。「近來『文藝時代』同人としての片岡は横光、 文壇の二十年史を誰か書かうとして、もしこ端、今東光、中河與一らとともに、その中心ついて一言ずついっている。佐佐木茂索の條 の時代の典型を文壇人から求めるとしたら、的存在であった。また、論客の先鋒でもあつには、「交友六七年。グッドセンスあり。」と 片岡鉞兵の生活と人以外には、一人もゐないた。「若き讀者に訴ふ」をはじめとする評論ある。六、七年といえば佐佐木が處女作である だらう。 ( 中略 ) 新感覺派の創始者、速力に對はおのずから獅子奮迅記の體をなす。作品で「おちいさんとおばあさんの話」を書いたこ する感覺の發見者、ひいては唯物史觀への行は「幽靈船」 ( 大正十三年『文藝時代』十二月號 ) 、ろからである。そして、この「グッドセン 轉と實踐者、またそれからの轉向と傳統への「綱の上の少女」 ( 十五年『改造』二月號 ) などス」こそ、たしかに佐佐木の身上といってよ 憧憬者にして、支那への橋梁の建設者。」とが評判にのぼった。このころの一著に『モダいものであった。しかもそれは、この作家の あるのは、その一節である。片岡の生涯を「時ンガールの研究』があるが、新しい女性のあ作品にも行きわたって、その作風をもなして 代の典型」とみるのはいささか親友的評價でりかたをつねに意識してやまなかった作家にいる。 『文藝時代』の旗揚げの前年、『文藝春秋』 あり、かっ追悼的記述であるとしても、この似つかわしいエッセイ集として注意を惹く。 作家の文壇登場以後はここにほとんどたどら『文藝時代』末期の片岡は、あるいはときにの創刊があって、そのころの『文藝春秋』は れている。「支那への橋梁」とあるのは、そ「左傾」を意識するようなことがあったかも同人制をとっていた。菊池、芥川、久米正雄、 の晩年に軍の要詞で中國におもむいたときのしれない。昭和二年、『手帖』十月號の短文山本有三、小島政一一郞、それに佐佐木といっ ことをいうのであろう。「轉向」以後の片岡には、「俺は今、思想的に苦しんで居る。」のたところは同人、横光、川端、石濱金作、酒 は、そのいたましさを漸次深めていっている文字がみえる。そして、翌三年には、はやく井眞人、鈴木彦弐郞、今東光、佐々木味津三、 も前衞藝術家同盟への參加が果たされる。こ南幸夫、中河與一ら、やがて『文藝時代』同 ようにみえる。 いつぼう、この「新感覺派の創始者」以前の前後から三、四年の間がこの作家の仕事に人の半數ほどを占めた面面は編集同人であっ のところを、片岡みずからがしるしていると最もみるべきもののあらわれた時期だろう。た。佐佐木は格づけが一枚うえの扱いであ ころにさぐると、「自然主義から耽美派・象しかしそれは「左傾」を果たしたことにおいる。『文藝時代』の同人では佐佐木、片岡、 徴派〈の心醉」 ( 「片岡鐵兵全集序」 ) と要約されて、「新感覺」の流儀が捨てられたというこ岸田が年長者であるが、ことに佐佐木にはい

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が、言葉をかけることもできなかった。また、私が日本評論瓧に勤しい時代をつくる雜誌だ」という鮓烈な印象をあたえたが、皮肉に 6 じん めていたとき、敬尚という編集者に連れられて、鎌倉の川端氏をも〈新感覺派〉と命名されてみずからも〈新感覺主義〉を唱え、新 訪ねたことがある。頑君と川端氏はさっそく碁を打ちはじめたが、奇な意匠のくふうをこらす傾向を示しはじめると、佐佐木や岸田國 私は碁をほとんど知らないので、手持無沙汰にしているより仕方が士がはっきり批判的態度をとり、菅や鈴木、中河らは精彩を缺き、 横光と川端以外は以後ほとんどそれぞれの資質を生かす作品を書い なかった。 こうして、新感覺派の推進力といわれた川端・横光の兩氏に、念ていない。本卷所收の作品は、すべてが〈新感覺派〉とはいい難い 願を果たしてその實物 ( ? ) を見ることができたが、、それは淡々たが、當時の有力新人たちの傑作集と言っていいだろう。しかし途中 ( 詩人・歌人 ) から加わった岸田國士や稻垣足穗のような存在を除けば、横光、 る遭逢でしかなかった。 端以外の〈新進作家〉はその後ことごとく書かなくなるか、書けな くなってしまったのである。いずれも早くからすぐれた才能を示し 『文藝時代』における横光と川端 ていた人たちばかりなので、大成しなかったのが惜しまれる。それ だけに、〈新感覺派〉の中での横光、川端がひときわ光った存在に 小田切進 なった。 この卷には今ではほとんど埋もれてしまった『文藝時代』所屬作ところで『文藝時代』の命名者は川端だったが、創刊をはじめに 家たちの佳作が選びだされて編まれるという。そこでここには本卷企てたのはこの二人のどちらでもなかったらしい。今東光の「『文 に評論しか收められなかった横光と川端の役割にふれながら、雜誌藝時代』の頃」によると、最初に石濱金作と菅忠雄の二人が東光を たずねて「何か新しい雜誌をやりたい」と誘われ、川端、横光、中 『文藝時代』創刊の經緯をたどってみたい。 大正十三年十月、創刊された『文藝時代』の同人はいずれも當時河、鈴木、佐々木味津三らを「手近かなところから招集した」とい の有力な新人ばかりだった。中でも橫光は前年の五月、菊池寬の推う。すると「意外なニ = ースが僕の耳に入って來た。というのは菊 薦によってすでに「蠅」「日輪」を『文藝春秋』『新小説』に一擧に池寬が大變に怒っているというのだ。そのために菊池寬から個人的 川端もまたに世話になっている同人の中に動搖を來たし、最初の氣勢とは違っ 發表して最も才能ある新進作家として認められており、 大正十年四月、第六次『新思潮』に發表した「招魂祭一景」で菊池たものになりそうな形勢に、僕は金山の菊池邸に乘り込んだ。する 寬らに認められ、早くから有力新人として注目されていた。『文藝と菊池寬は『君等は明らかに「文藝春秋」に損害を與えるじゃない 時代』によるいわゆる〈新感覺派〉の文學運動はこの二人を中心にか』と單刀直人に抗議した」が、東光がすでに發展中の『文藝春 くりひろげられ、作家としても、理論家としても二人のしごとがき秋』と、營利雜誌ではない同人誌を比較することがおかしいと説明 わだって光っていた。創刊後しばらくの間は、佐佐木茂索、菅忠雄、したところ、「菊池寬は諒とした風だった。僕はこの對談の結果を 鈴木彦次郎、今東光、片岡鐵兵、中河與一、諏訪三郎らのそれぞれもたらし、同人を激勵し創刊に邁進することをすすめた」と創刊前 の資質を生かした佳作が掲げられて、『文藝時代』は「これこそ新後の事情を説明している。