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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

日ホ珥袋學第 新感覺派・ 社區幻 端康成 7 0 「 . 0 ) 1 : 片岡あい 父を語る 稻垣足穗のこと : : 衣卷省一一一報獸耿 『文藝時代』のころ : : ・赤木健介 京 『文藝時代』における 講東音 横光と川端 : 小田切進月 題字・谷崎潤一郎 「蠅」、「日輪」の大正十年から「上海」の昭和六年までとすると、 横光の新感覺派時代は、八、九年間つづいたことになる。けれど も、新感覺派蓮動が興り、文壇の論議を招き、新機運ももたらし た、いはばその高潮時は、ほんの一「三年であったのかもしれな 端康成 い。新感覺派の機關誌のやうであった同人雜誌「文藝時代」が、日 新感覺派の時代は横光利一の時代であった。四十五年後の現在、本近代文學館によって復刻されたのを幸ひ、私は今もざっと通覽す 私にはさういふ風に回顧される。横光の存在と作品とがなければ、ることが出來て、さう思ったのである。「文藝時代」は大正十三年 新感覺派といふ名稱も、新感覺派といふ文學蓮動もなかっただらう十月號が創刊で、昭和二年五月號で刊された。二年八ヶ月であ と思はれる。橫光がその派の爆心、中核であったより、なほ強い原る。すでに新感覺派は文壇の確かな存在となり、その流派の強調よ 泉であった。 りも、おのおのの作家の進路に重點が移り、同人雜誌に熱意が薄れ 私も新感覺派の作家の一人であったのは、ほとんど横光の誘發にたのであった。 よる。私は横光を露骨には模倣しなかったし、露骨には追隨もしな「文藝時代」のころ、私は新感覺派的であらうと強ひてっとめたと かったが、それは心して避けたのではなく、生來の差異によって、ころは、確かにあった。しかし、自分に新感覺派の才質、たとへば したくても出來なかったのである。片岡鐵兵、今東光、中河與一、横光や中河與一のやうな、また稻垣足穗のやうな新感覺的才質はあ その他新感覺派と言はれた人たちもさうであったらう。 るのかといふ、自己疑惑は絶えずあった。ひそかにあった。ところ 横光の新感覺派風の作品は、大正十二年 ( 一九二三年 ) の「蠅」、が、それから四十五年、とうに新感覺派など忘れて書いてゐるが、 「日輪」にはじまって、昭和三年から六年 ( 一九三一年 ) の長編「上ふと考へてみると、私は今もなほ感覺に多く賴って書いてゐるので 海」に終ると見るべきか。もっとも、「上海」完結の前年、昭和五はなからうか。橫光はすでに世を去って二十年を過ぎたが、むかし 年には、新心理主義的手法の間題作「機械」を書いてゐる。また、の新感覺派作家のうちで、私は最も執念深く根氣強く感覺派をつづ 長編「寢園」の前半を新聞に書いてゐる。しかし、「上海」には新けてゐるのではないかと思ってみたりする。處女作時代に新感覺派 感覺派的の手法がなほいちじるしく、横光のその代表作かと思へる。の人々に友人として出合ったのは、やはり私の蓮命であったのだら 新感覺派

2. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

派の誕生」と告げたときに始まる。 る」といっているところからも察せられるよ 千葉の命名は必ずしも『文藝時代』の同人うに、新感覺派の主張なり、方法なりの由っ 全般の傾向を包含したものではなかったが、てきたるところは第一次世界大戦後、ヨ 1 ロ そこに特徴的に認められた「感覺の新しさ」 ノアメリカに興ったアヴァンギャルド 「生々した飛躍」をすでに五、六年前、大正 ( 前衞 ) 藝術に出ていることも推量されよう。 の中期から文壇にみられた様式主義的、ない新感覺派の文學は既成權威否定の文學であっ 保昌正夫しは技術主義的傾向、すなわち「新技巧派」た。 の傾向の延長線上のもの、必然的結果ととら當時における文學、文壇の權威とはいうま 「新感覺派」という呼稱は關東大震災のあっえたことで、その由來の一端にも觸れ、これでもなく自然主義リアリズムであり、私小説・ た翌年、大正十三年 ( 一九二四年 ) 十月號をら新人にとっても文壇の通行證として、また心境小説リアリズムである。これに對して もって雜誌『文藝時代』が、 一派の旗じるしとして、いちおう有效な作用新感覺派の中心にあった新進は果敢な突撃を 一九六七 ) 伊藤貴麿 ( 一八九三ーー をもたらしたのであった。この呼稱はこんにこころみた。もっともそれは『文藝時代』の 石濱金作 ( 一八九九ーーー ちにおいてもなお文學史上の用語として通用旗揚げ以前から意識されたところで、橫光、 端康成 ( 一八九九ーー しており、昭和のモダニズム文學、藝術派文川端といった、この派の推進力的存在は舊き 加宮貴一 ( 一九〇一 學をいう場合には、ここを一つの基點とする文壇文學に對する挑戦を、この雜誌の創刊に 片岡鐵兵 ( 一八九四ーー一九四四 ) ことが通例である。 さきだって、すでにある程度くりひろげても 橫光利一 ( 一八九八ーー・一九四七 ) 昭和文學の發端を大正十一一年の關東大震災いた。それだけにこの派の結集は一種はなば 中河與一 ( 一八九七 に置くことも、こんにちでは一般に行なわれなしい印象をもって迎えられたのである。 今東光 ( 一八九八ーー ているところで、「文藝時代』同人の新進に『文藝時代』創刊の年、舊制高等學校 ( 一高 ) 佐佐木茂索 ( 一八九四ーー一九六六 ) とっては、江戸時代以來の舊き都であった東に入學した高見順 ( 一九〇七ーー一九六五 ) は、 佐々木味津三 ( 一弋九六 / / ーー一九三四 ) 京が、この大震災によって灰燼に歸したこと「私たちは、あの『文藝時代』の創刊號をど 十一谷義三郎 ( 一八九七ーー一九三七 ) は、新しい文學をうち建てようという刺激とんなに眼を輝かして手にしたことか。 ( 中略 ) 菅忠雄 ( 一八九九ーー一九四一 l) して作用した。新感覺派の文學は震後文學で私は『文藝時代』を買って本屋を出るとすぐ 諏訪三郞 ( 一八九六ーー あったといえよう。しかし、さらにさかのぼ開いて、歩きながら讀んだ。ここに、私たち 鈴木彦次郎 ( 一八九八ーー っては、この派の先頭に立った横光利一がそ若い世代のかねて求めていた、渇えていた文 の十四人を同人として創刊したとき、その印の「新感覺論」 ( 原題、「感覺活動」 ) に、「未來學が、初めて現われた。そんな氣持で『文藝 象を翌月號の『世紀』の誌上に當時の批評家派、立體派、表現派、ダダイズム、象徴派、時代』の創刊號を迎えた。」 ( 『昭和文學盛衰史』 ) 新としては一流の位置を占めた千葉龜雄 ( 一八構成派、如實派のある一部、これらは總て自としている。新感覺派の文學は「若い世代」 七八ーー一九三五 ) が文藝時評として「新感覺分は新感覺派に屬するものとして認めてゐの、若もの文學であった。 新感覺派文學人門

3. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

をいう。川端は、表現主義、立體主義、ダダ主義等の根據にフロイ ( 同 ) は、千葉龜雄による新感覺派の命名が安當ではないとし、むし 8 ろ新象徴主義と呼ぼうとしているものであり、新象徴主義の表現は 和ト流の精紳分析學のあることを明かにし、これに關心をみせてい ダダイズムばかりが重要ではなく、「新技巧派と呼ばれる芥川龍之 る。フロイトこそは、人間行動の無意識の根源に理性の光をあて、 介氏一派から胎生し來ったと信ずべきふしがある」と指摘したのは マルクスと並んで、現代に大きな影響を與えている思想家である。 そこで川端は新しい感覺への欲求が「感覺の發見」を目的とするも烱眼というべきである。もっとも、千葉龜雄がすでに新技巧派の系 のではなく、人間生活の根源を究めようとして生まれてきた新思想譜を考えていたことはすでに明かにしたが、そこでは『人間』一派 にもとづくことをしめしたのだ。 の新技巧派だけが着目されていたのであり、これには後に述べるよ うにそれ相當の理由があったものの、やや趣を異にし、正鵠を缺い 横光利一もまた制作だけではなく、理論においても、重要な先達 である。川端につゞいて『感覺活動 ( 感覺活動と感覺的作物に對する非ているところがある。この意味で、若年の赤木の指摘の方が的を射 ているし、彼のいわゆる新象徴派に『文藝時代』と『文藝戦線』と 難への逆説 ) 』 ( 同・二・文藝時代 ) を書いて、認識論的に、制作活動の 過程から、新感覺的表現を根據づけた。あの有名な「新感覺派の感の同人を數えているのは、伊藤永之介と同じである。 この他、片岡鍼兵の『新感覺派は斯く主張す』 ( 大正一四・七・文 覺的表徴とは、一言で云ふと、自然の外相を剥奪し、物自體に躍り込 む主の直感的觸發物を云ふ」という文句はここに出ている。さら藝時代 ) 、『新感覺派の表』 ( 大正一五・四・新小説 ) 、『止めのルフレヱ に「米來派、立體派、表現派、ダダイズム、象徴派、構成派、如實ン』 ( 昭和一一・四・文藝時代 ) は、數多い評論の一斑である。とくに第 二の『新感覺派の表』は、論者の考えで整理してあるが、當事者の 派のある一部、これらは總て自分は新感覺派に屬するものとして認 めてゐる」という。第一次大戦とその前後から、ヨオロツ・ハ諸國に新感覺派の總括として、注意すべきものである。同人として異色の 十九世紀藝術を破壞して藝術革命を唱えた諸流派、いわゆる前衞藝あった稻垣足穗の『末梢經又よし』 ( 大正一四・四・文時代 ) 、文明 術をあげて新感覺派にかぞえ、みずからの歴史的位置を明かにし、 評論家として時代感覺にすぐれていた新居格の『文藝と時代感覺』 現代藝術としての性格を鮮明にしている。十九世紀の近代文學を超 ( 大正一五・七・文藝時代 ) をも併せておさめた。最後に横光利一の えた二十世紀の現代文學としての性格が徐々に自覺されている。 『新感覺派とコンミニズム文學』 ( 昭和三・一・新潮 ) をもって、この こういう意味で、「文藝戦線』に『新作家論』 ( 大正一三・七 ) を寄ころようやく現れた兩者の對立についての決斷をきくことにした い。この評論とともに『唯物論的文學論について』 ( 同・改造 ) が發 せて、評論家として登場してきた若冠二十二歳の伊藤永之介 ( 後の プロレタリア・農民作家 ) が『文藝時代』に拔攝されて、文藝時評や作表され、ともに後に『書方草紙』 ( 昭和六・一一・白水瓧 ) におさめら 家論をよせ、新興文學としての新感覺派を擁護した。『昨日への實れている。 感と明日への豫感』 ( 大正一四・三・文藝時代 ) もその一つで、この當 時は新感覺派とプロレタリア派との間に敵對關係よりも、むしろ協 雜誌『文藝時代』に結集した同人たちは、創刊當時は、伊藤貴 働關係が既成文壇に對抗してもたれていたことが知られる。また若 冠十八歳の赤木健介 ( 後のプロレタリア歌人・歴史家伊豆公夫 ) もまた評麿、石濱金作、川端康成、加宮貴一、片岡鐵兵、横光利一、中河與 一、今東光、佐佐木茂索、佐々木味津三、十一谷義三郞、菅忠雄、 論家として早熟な筆をふるっている。『新象徴主義の基調に就いて』

4. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

石濱金作 ある死ある生・ 喜劇 : 新感覺派評論集目次 新感覺派の誕生・ 若き讀者に訴ふ : 鈴木彦次郎 宗次郎は跛だ・ 七月の健康美・ ・ : 三四 0 ・ : 三 : 三毛 ・ : 三六 0 新進作家の新傾向解説 : 感覺活動 : 昨日への實感と明日への豫感・ 新象徴主義の基調について・ 末梢神經又よし : 新感覺派は斯く主張す・ 新感覺派の表・ 文藝と時代感覺 : 止めのルフレヱン・ 新感覺派とコンミニズム文學・ : 三七四 ・ : 三七 : 四 8

5. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

392 もある。特に著しい新感覺派の作家は同人の中でも僅かに中河與 「世紀」所載の千葉龜雄氏の時評文の命題に發したのである。 さういふわけであるから、「文藝時代」の同人全部が新感覺派で 一、川端康成、横光利一、私などの數名であると云っても好い。 その示した作品は中河氏の「凍る舞踏場」橫光氏の「表現派の役 あると早合點する人が多いやうである。つづいて、同年十二月の 「文藝時代」の卷頭論文に、私は「若き讀者に訴ふ」と、題する物者」川端氏の「短篇集」など無數ある。私をして云はしむれば、加 を書いた。要旨は、横光利一 ( 文藝時代同人の一人 ) の小説の中の宮貴一氏や同人外でも稻垣足穗氏の如きは正に新感覺派であると云 っても好い。 一句「沿線の小驛は石のやうに默殺された」と云ふ文章を例にと 世論は、はじめは賛成者も多く、若々しい剌とした無數の靑年 り、斯のやうな文章の存在を主張し、併せて斯のやうな文章を理解 ぜぬ既成の文章論に抗議したのである。引續いて、翌年一月には同作家の試作が現れた。が、欽第にこれを非とし、これに惡態を吐く じく「文藝時代」の卷頭論文に、同人、川端康成氏が「所謂新感覺批評家が增して來た。議論を以て居た非難者は、僅かに中村武羅 的表現の意義」と題して、文章上の新しい方法論を試み、二月の同夫、生田長江、石丸悟平の數氏であるにすぎなかった。夏頃に至っ 誌卷頭論文には、橫光利一氏が「感覺活動」と題して、生活と感覺て、反新感覺派の氣勢を頂上に逹した。殊に、同年七月の新潮合評 との關係を説いた。 會席上に於て、私は佐佐木茂索、小嶋政一一郎、藤森淳三、堀木克 然し、これらの論文に於て、論者は決して自ら自分たちの傾向を三、中村武羅夫の五氏の包圍に陷り、吃音的な拙論の應戦に甲斐あ 「新感覺派」と稱しはしなかった。が、斯る論者に對し、自ら「新る筈なく、醜態を演じた。 感覺派」の名稱を受入れたものと世人がきめて掛ったのは無理から 論戦をする筈の川端康成氏は伊豆に引込み、私は前記新潮合評會 ぬ事である。彼らの論はいづれも感覺生活が一層の奪重を受けるこ に出席する當日までの半歳を關西に流浪するしして、その間沈默し とを要求したからである。そして又感覺を一層奪重する事に依っ て居たため、新感覺派論は殆ど振るはなかったのである。 然し、年末から十五年初頭に掛け、片岡良一氏、小山龍之輔氏、 て、彼らの新しき出發を、既成文學の價値標準から少し外れたコー スに向けようとする傾向のあったのも否めなかったからである。 小宮山明敏氏等の理解ある非難がぼっ / 、現れ出した。赤松月船氏 大正十四年の上半期は、新感覺派是非論で毎月喧騷を極めた文壇の非難も、論敵として氣持ちの好いものであった。伊藤永之介氏は であった。上記の論者たちも、自分たちの主張する文學論が、それ始終好意を示した。橋爪健氏も、十分に同情のある非難振りを示し ほど世人から「新感覺派」の云ひ分として一括されるなら、されてた。これらの理解ある非難によって、新感覺派はいよ / 、一つの文 も好いのであった。要するに名稱などはどうでも好い。名稱を批評學運動としての研究の對象となり得部ち立派に一の存在として認め として受取らず、單純に名稱として受取り、自然と「我らは新感覺られるまで成長し得た。 派である」と自稱するに等しい熊度を採った。斯うして初めて、こ けれども、まだ完成もして居らねば、一般に理解されても居な の日本文壇に「新感覺派」なるものが存在するに至ったのである。 い。ここまで成長して來て初めて存在の立場 ( 世間的に ) を持つや 然し、世人が云ふやうに「文藝時代」同人全部が新感覺派である うになったので、本當の成長はこれからだと信じて居る。これから のではない。同人の中でも、自ら「自分は新感覺派ではない」と宣だ、と信じることが、私共新感覺派をして瓮よ努力せしめる所以で 言した人もあり、且っその作品が決してこの派の範圍に人らない人ある。

6. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

感覺派と呼ばれる人々は更に生活の感覺化と文學的感覺表徴とを一 してまた藝術そのものの別名ともなってゐた。だが今はさうであっ 2 致させては危險である。いやそれよりも若しも生活の感覺化がよりてはならぬ。それのみが藝術的でありまた藝術としては赦されな 眞實なる新時代への一致として赦され強要せられなければならない い。少くとも文學なるものは、少くとも文學は風流そのもののごと ものとしたならば、少くとも文學活動にその使命を感ずる者はより く生活の感覺化を欲してはならぬ。それを欲することは自由であ 寧ろ生活の感覺化を拒否し否定しなければならないではないか。何る。だが、欲することはよりよき一つの藝術的生活を意味しない。 ぜなら、もしも然るがやうに新時代の意義が生活の感覺化にありと かの風流の逹人として赦された芭蕉の最後の苦痛は何んであった するならば、いかなるものと雖もそれらの人々のより高きを望む悟か。曾ては彼があれほども徹した生活の感覺化への陶醉が彼にあっ 性に信賴し、より高遠な、より健康な生活への批判と創造とをそれては終に自身の高き悟性故に自縛の綱となった。それが彼の殘した らの人々に強ひるべきが、新らしき生活の創造へわれわれを展開さ大いなる苦悶であった。此の潜める生來の彼の高貴な禀性は、終に すべき一つの確乎とした批判的善であるからだ。して此の生活の感彼の文學から我が文學史上に於て曾て何者も現し得なかった智的感 覺化を生活の理性化へ轉開することそれ自體は、決して新らしき感覺を初めて高く光耀させ得た事實をわれわれは發見する。かくして 覺派なるものの感覺的表徴條件の上に何らの背理な理論を持ち出さそれは淸少納言の官能的表徴よりも遙に優れた象徴的感覺表徴とな ないのは明らかなことである。もしこれをしも背理なものとして感 って現れた。それは彼が自己の生活を完全に感覺化し得たるが故で 覺派なるものに向って攻難するものがありとすれば、それは前世紀はない。それは彼が常にその完全な生活の感覺化から他の何者より の遺物として珍重するべきかの「風流」なるものと等しく物さびた もより高き生活を憧憬してやまなかった心境から現れたものに他な ある批評家逹の頭であらう。風流なるものは畢竟ある時代相から流らない。 れ出た時代感覺とその時代の生活の感覺化との一致境を意味してゐ 感覺觸發の對象 る。これが感覺的なものか直感的なものか意志的なものかとの論證 が一時人々の間に於て華かにされたことがある。だが、それは藝術 未來派、立體派、表現派、ダダイズム、象徴派、構成派、如實派 と云ふ一つの概念が感覺的なものか直感的なものか意志的なもので のある一部、これらは總て自分は新感覺派にするものとして認め あるかと云ふことについて論證することと何ら變るところもない馬てゐる。これら新感覺派なるものの感覺を觸發する對象は、勿論、 鹿馬鹿しき小話にすぎない。もしも風流なるものが感覺から生れ出行文の語彙と詩とリズムとからであるは云ふまでもない。が、それ るものか或ひは意志からか直感からかと云ふならば、それは感覺かばかりからでは無論ない。時にはテーマの屈折角度から、時には默 らでもなく意志からでもなく直感からでもなく、ある時代相の持っ默たる行と行との飛躍の度から、時には筋の進行推移の逆送、反 た時代感覺とその時代の生活の感覺化との一致境から生れ出たもの復、速カから、その他様々な觸發妝態の姿がある、未來派は心象の で、それ故に悟性と感性との綜合された一つの認識形式であってみテンボに同時性を與へる苦心に於て立體的な感覺を觸發させ、從っ れば、風流は所詮意志をも含み感性的直感をも含む意志でもなく直て立體派の要素を多分に含み、立體派は例へば川端康成氏の「短篇 感でもない分析禁斷の獨立體なる綜合的認識形式としての一らの賓集」に於けるが如く、プロットの進行に時間觀念を忘却させより自 辭である。それは曾ては藝術的なるものの一つの別名であり、時と我の核心を把握して構成派的カ學形式をとることに於て、表現派と いへど

7. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

日本現代文學全集・講談社版 新感覺派文學集 附新感覺派評論集

8. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

感覺派文學集 日本見代文學全集。講談社版 67 附新感覺派評論集

9. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

新感覺派の誕生 困った人達池谷信三郎 十一谷義三郎 若き讀者に訴ふ價 おらんだ人形新進作家の新傾向定 大養健 解説 花 感覺活動 昨日への ~ 貰感と 白 ル第になる男 「ハ月小 明日への豫感 亞刺比人ュルア 風騒 鑼新象徴主義の基調 フィ銅 あの泣この泣 冂の事 美し 仕立屋マリ子の 二つの心裡末梢經ズよし ト生積垣足穂 新感覺派は斯く 主張す 漢奇聞木彦次郎 新感覺派の表 店 にキレ又 ) 歩・′勿五ロ リナ 宗次良 文藝と時代感覺 散歩しながら七月の健康美止めのルフレヱン 新感覺派とコンミ ニズム , ズ丘 石濱金作 今東光 ある死ある生作品解説 頼召戈 - 親感覺 / 學入門 ,. 昌正夫 新感覺派評論隻 卞円 片岡鐵兵 ルロ 幽靈 生ける人形 佐佐木茂索 おぢいさんと おばあさんの話 選擧立會人 痩せた花

10. 日本現代文學全集・講談社版 67 新感覺派文學集 附 新感覺派評論集

には知的要素があって、これを救っていると辯護した。 千葉の論理は「新感覺派」と〈一名した理由を明確に説明しており、 時評として的を射るものである新感覺派が、昭和文學または現代 文學の發端として把握される所以は、千葉文が鏡く指摘した新感覺 主義にある。今日からみれば、現象的規定であったが、また現代文 學としての現代性の志向を見誤っていたわけではない。たゞ千葉龜 雄のようにジャアナリスティックに時代感覺にすぐれ、世界文學に 通じていたものにも、マルセル・プルウスト、或いは。ホォル・モオ ランによって示唆される二十世紀藝術との關連によって、この實驗 にみえたモダニティの意義を定めるところまでは行かなかった。 新感覺派の理論家として最もさかんに活動したのは片岡兵であ 新感覺派文學という名稱は、關東震災の翌年、大正十三年十月一 る。片岡は、千葉文から思いたったと思われるが、廣津和郎や宇野 日付で、神田區今川小路一ノ四にある金星堂から創刊された同人雜 誌『文藝時代』に現れた顯著な特色に着目して、批評家千葉龜雄が浩二 ( 本文に xx 氏として出ている ) の批判に答える意味で、『若き讀者 に訴ふ」 ( 同・一二・文藝時代 ) を書いた。これは、横光利一の小説『頭 命名したことにはじまる。まずこの點からみてゆこう。 ならびに腹』の有名な冒頭の一句、「浩線の小驛は石のやうに默殺 千葉龜雄は、文藝時評として『新感覺派の誕生』 ( 大正一三・ 世紀 ) を書き、「文壇は動いて居るか」の設間に肯定的に答え、同人された」をとりあげて、その感覺的表現法を解説し、これが「物の 雜誌での文壇爭奪が文藝思潮として何處にむかっているかを明かに見方、考、方、取扱ひ方の自然の方向」であるとともに、「全生活 の最初の第一」であり、「全然漫溂たる生命の飛躍」であることを する。『人間』派およびその周圍の作家たちは技巧に主力をあつめ、 表現上の語彙の淸新さや照の様式の溂さを重んじ、脚色や態度明かにしたにとゞまる。この意味で、川端康成と橫光利一との評論 の方が實質的であり、時代思潮に印して、新感覺派の現代性への自 に及ばなかった新技巧派である。他方、室生犀星のように、人生に おける官能の働きを重くみるものには、感覺に醇化しきれない混濁覺を濃密に用意していた。 川端康成は、評論家としてもすぐれていることは、改造瓧版の舊 と古さとが認められる。『文藝時代』の特色は、未成長な兩者を發 育さぜて一つに合成した「新感覺主義」にある、と規定する。彼ら選集中にある『文藝時評』と『作家と作品』の二卷によっても知ら れる。『新進作家の新傾向解説』 ( 大正一四・一・文藝時代 ) は、新進作 は、端的に刺戟された「刹那の感覺の點出」としての「小さな穴」 解を撰んで、暗示と象徴とによって、「内部人生全面の存在と意義」家の「新感覺的表現の理論的根據」をもとめて、「表現主義的認識 品 をのぞかせる。彼らが、かような藝術傾向を喜ぶのは、氣分や、情調論」と「ダダ主義的發想法」とを明かにしている。川端は「新しい 作 感覺の文藝」は「新しい感情の文藝」に歸着すること、新主観主義 や、頑經や、情緒やに最も強い感受性をもっ心理機能をそなえてい 的表現の根據としての表現派、立體派の哲學をもっていること、さ 礦るからである。現代文明の頽氣分を代表しているという批難は、 頑經や感覺が異常に病的に敏感なところからきているが、新感覺派らに精訷分析學を根據として豐かな心像の表現をさぐっていること 作品解 瀨沼茂樹