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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

文壇が過度の自由による文學の擴散を示しているかぎり、私は文學るわけではない。中村光夫・伊藤整・黐田恆存氏らの活動も、賊後 自立論を説く人びとよりも、むしろ戦時下の現實のなかで『斷腸亭批評の大きな水脈を形づくっている。なかんずく輻田恆存氏の『一 日乘』を書いていた永井荷風の心に、より多く文學者の心を感じる、匹と九十九と』から『藝術とはなにか』を經て『人間・この劇的 とだけいっておきたい。 なるもの』に至る批評活動は、近代個人主義の制約をこえた人間論 しかし、ひとつの時代は、後代から見てその盲點が見えるような・藝術論として、私小説的な文學理念の崩壞のあとに來る問題につ 思想に、本質的な時代性を與えることがある。敗戦直後におけるいての洞察にみちている。一方また左翼文藝批評の異端者花田淸輝 「近代文學」派の登場の意味もまたそこにあった。戦前の左翼蓮動氏は、心情的政治主義にたいする徹底した批判者として、日本的心 の矛盾をつぶさに體驗し、そのにがい苦澁を代償として再出發をと情倫理の崩壞したのちにくる現實にたいして、豫言的な洞察を示し げたこれらの人びとは、おのれの體驗の意味を反芻しながら、していたのである。 い文藝批評の分野を開拓したのである。そしてこれらの人びとと歩 調を合わせて、野間宏・椎名麟三氏ら新しい作家の登場をみたのでしかし戦後における現實の變化は、當然、文藝批評の動向にも變 ある。 化を與えずにはいなかった。舊秩序の破壞と、個人の權威を中軸に 現在の大學紛爭を體驗してる私の實感からすれば、「近代文學」据えた市民民主主義の確立が、時代の要調とされていた時代には、 派の思想的盲點は、はっきりと見える。また過去數年にわたって、「近代文學」派の批評理念は、時代と密着した意味を荷っていた。し 私は「近代文學」派の批判者であった。しかし、ひとつの思想が他かし近代化の動向だけによって、人間は救われうるものであろう 人の批判によって完全に空無に歸することがありうるであろうか ? か。また人間の心には、″自己を 批評は自己主張や問題意識の所産であると同時に、やはり言語によ超えたもの。〈の渇望がひそん って書かれた " 作品。である。藝術派や審美派の主張が、必ずしもではいないであろうか。さらに 伊夫 光 すぐれた批評文學たりえているとはかぎらない。中村眞一郞・永また文學表現の次元に限ってみ、攣物 - 、 ~ い 樹村 武彦・加藤周一の三氏によって書かれた『 1946 文學的考察』は、ても、 " 告白。がそのまま藝術た差 4 戦後における藝術派の第一聲であった。しかし二十年の歳月をへだりうるという根據があるであろ ら眞 きまとっている。これにたいして、平野謙氏の『島崎藤村』や荒正は、好むと好まざるとにかかわ 左中 人氏の『第二の靑春』は、その問題意識が古びているにもかかわららず、こういう問いに向かい合襯 月彦 田 ず、いまも " 言語藝術。として讀むに耐えるのである。批評の古典わねばならなかったのである。〕 年 化 = は、 0 ね = 00 ような逆説性がひそん」る = とを、私は痛感吉本隆明氏 = よる " 思想とし一「 ~ 、一、 ( 一 和進 せざるをえない。 ての戦爭體驗。の發見は、近代 ~ 物 もちろん戦後の文藝批評が「近代文學」派だけによって代表され主義によってはとらえきれない」《、 7

2. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

いは 併し原始人は、元來森林に棲んだもので、謂ゆる有集氏の民であ 云ひ繼ぎ行かな」といってゐるに過ぎない。「田子の浦ゅうち出で 2 った。隨って人間の森林恐怖時代は、もはや森を出て、狩獵時代か て見れば眞白にぞ富士の高嶺に雪はふりける」といふ反歌には、い かにも日本人の自然に對する態度の素樸さが見えてゐて、寫實的のら農耕時代に入った時で、日本人が森林を恐れるのは、太古から早 く狩獵時代を出て農耕時代に進んでゐたことの證據で、日本の文明 その態度も面白いが、併しこれも實際見た現實ではなく、いはゆる 「歌人は居ながらにして名所を知る」といふやうな文學的格言を生が神話時代にもはや相當高いものであったことを示すものである。 ずることが、日本人の自然に對する感覺の不充分を云ひ現はしてゐその點から考へると、森林を怖れるのも相當、由來のあることだ るのである。 が、併し一歩進んだ都市時代に入ると、人間は又「自然に還って」 森林憧憬の時代に入るものである。それが最高文明の階級に進んだ 尤も日本人の造園術は、今日では世界的に有名になってゐて、 わざわぎ 人間の森林感である。 態専門家が見に來る程で、その自然摸倣は中々巧妙だが、やはり 然るに日本人は、都市時代に入っても、その森林感は、依然、過 概念的解釋に流れてゐる。無論西洋の一フンドスケープ・ガーデニン グに比べたら、自然の把握が、纎細で、深遠で、文化感覺の高級性去の森林の回避時代の感覺から離れない。その癖、建築でも器具で を現はしてゐるであらうが、自然を一つの形式に化して、それを局も木材のみを資材として、その木材趣味も、世界のどこの人間より 部的に見るといふ趣味で、全部的に自然を鑑賞するといふ大ざっぱ精練されてゐる。さうしてなほ、この木材の産まれる故鄕の森林を の所がない。つまりディテールの鑑賞に流れてゐる、盆栽趣味、盆鑑賞し得ないのだから不思議である。 自然に對する日本人の感覺にさういふ不具を免れないために、文 景趣味である。狹い庭園に幾十の名所を作って、瀬田の橋だとか、 唐崎の松だとか云ってゐるのも、自然の景觀に對する鑑賞の態度に明の最高段階に逹した日本人の趣味が憐むべき、沒自然のそれに流 れる。自然の鑑賞に乏しい人間は、文化形態の創造に於ても貧弱を 缺けてゐる證據である。 だから日本人の自然鑑賞は、文字通りいはゆる「樹を見て森を見免れないのが原則である。蓋し、文化の諸形態は要するに「自然」 ない」もので、森林に對する感覺などは全く貧弱である。貧弱のみの理想的の再現だからである。人間的感覺による「自然」の再生産 か、原始人的の森林恐怖觀からいつまでも離れ得ないで、森林の幽が文化の形態である。だから今日の日本人が、自然の鑑賞力に不足 邃、深遠をただ訷祕的に又は妖魔的に感ずるに過ぎない。禪祕的でしてゐるといふことは、現代の日本文化が獨創的であり得ないとい も、妖魔的でも、詩にも小説にもなるのだが、日本人は、森林をさふことである。 今日のわが都會が徹頭徹尾西洋の摸倣を出でないのも當然であ ういふ意味でさへ美化をすることも知らない。日本人は歌にも小説 る。西洋の摸倣もいいが、その場合、最も肝腎な點を摸倣すること にも劇にも、全く森林文學をもたない。日本のロビンフードやウヰ リアム・テルやジーグフリードやは、その背景に決して森林をもつを忘れてゐる。それは、西洋人には自然鑑賞の點で、一つの長所が あるといふことだ。それを眞似ることを日本人は忘れてゐる。 てゐない。森林を背景にもってゐる日本の英雄は大抵惡人である。 文明の都會の心臟は何であるか。都會生活の不自然のために汚れ それも森と云はず山と云ってゐるが、その山の英雄に大江山の酒 童子のやうな惡魔などが多い。これも森林に對する原始人的恐怖がた都會の空氣を生理的に、又精的に淨める空間がそれだと云はれ る。その心臟の扱ひ方を日本人は全然知ってゐない。それは空間を 失はれない故である。

3. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

188 も早く精禪の王國の内に、偉大なる英雄たちの築いたあの王國の内 に、限りなき命の泉を掬み、強い力と勇氣とをもってふるい立つ日 の來たらんことを祈っています。 もう夜がふけました。沈んだ心持ちで書き始めたこの手紙をとり とめもなく書きつづけて行く内に、私は興奮して五體に力の充ちた ことを感ずるようになりました。あなたは喜んでくださるでしょ 私がここに麒察しようとするのは、「偶像破壞」の運動が破壞の う。あなたに讀んでいただくずっと前に、あなたに手紙を書いたと いう事だけで私にはもう效能があったのです。私はこの手紙に論理目的物とした、「固定観念」の奪崇についてではない。文字通りに フェティシズム 「偶像」を跪拜する心理についてである。しかしそれも、庶物崇拜 的連絡の缺けている事を知っています。しかしそれはかまいませ の高い階段としての偶像崇拜全般にわたってではない。ただ、優れ ん。私はもうこの手紙を書き初めた時の目的を逹しました。 た藝術的作品を宗敎的禮拜の對象とする狹い範圍にのみ限られてい 空が物すごく睛れて月が鐃く輝いています。虫の音は弱々しく寂 る。 れて來ました。私は今あなたと二人で話に夜をふかした時のような 特に私は今、千數百年以前の我々の祖先の心境を心中に描きっ 心持ちになっています。では安らかにおやすみなさい。 つ、この問題を考察するのである。 * 岩波書店刊「和辻哲郞全集」第十七卷をテキストとして使用いたしま した。 まず私は、人間の心のあらゆる領域、すなわち科學、藝術、宗 敎、道德その他醫療や生活方法の便宜などへの關心等によって代表 せられる人間の生のあらゆる活動が、なお明らかな分化を經驗せず して緊密に結合融和せる一つの文化を思い浮かべる。そこでは理論 は象徴と離れることができない。本質への追求は感覺的な美と獨立 して存在することができない。體得した眞理は直ちに肉體の上に強 い力と權威とをもって臨むごときものでなくてはならぬ。すべてが 融然として一つである。 千數百年以前にわが國へ襲來した佛敎の文化はまさにかくのごと きものであった。それはただ一つの新しい宗敎であるというだけで はなく、我々の祖先のあらゆる心を動かし得る多方面な ( 恐らくは インドとシナの文化の總計とも言い得べき ) 、内容の盟かな大きい 偶像崇拜の必理

4. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

自然化するといふことだが、西洋人は、それを必ず森林公園の形で 一定の文化的意識によって行はれると然らざるとによって、一種の 都會に與へてゐる。西洋の大都會は悉く森林公園をもってゐる。 氣分の出たものになるか、徒らなる混亂に過ぎないものとなるかが ロンドンのハイド・ ・ハーク、ベルリンのチーヤガルテン、 ・ハリのポ岐れるのである。 ア・ド・プローニ、その他どこにも森林が、都會の心臓として新鮮 日本の今日の都會には、氣分がない。中世都市に現はれてゐたや の空氣を都會人の心臟と精神とに送る役割を勤めてゐる。然るに日 うな、市民の生活形態を象徴する文化的特徴が出てゐない。山の手 本人は、それを忘れてゐる。幸ひ東京には中央に宮城の森林區域が と下町といったやうな相違はあるが、その山の手自體、下町自體 あって、公開こそされないが、都會の心臟の役をしてゐる。併しそは、中世的の、そこの生活形態とびったり合った象徴的の形態をな れも德川時代に出來たので、今の日本人の意識とは沒交渉の起原を してはゐない。どこへ行っても新開地的の混亂が支配してゐる。 もったものである。 無論、中世のやうなギルド的統制の行はれてゐない今日、商家は それがために、都會人の遊樂は、銀座、新宿といふやうな、あら商家らしい、邸は邸らしい形態の統一なんかのあり得るわけはない ゆる意味の毒素の漂うてゐる空氣の中に求められる。しかもその繁が、その近代的自由の間にも、一定の都會人的文化感覺の基準があ 榮區域の内容は、何等日本人的の文化形態の發展ではなく、全く西れば、そこに自ら象徴的の統一が現はれる。傅統の古い都會なら 洋の都會の場末の惡趣味、いはゆる植民地的享樂地帶の移植であば、それが近代的に發逹しても、何處かに古典的の氣分が漂ってゐ る。これほど日本の國を未開國的に表現してゐる現象はない。 るのである。日本の都會は、古來の問屋町が、商業の近代化と共に それといふものも、日本人が「自然」を全體的に鑑賞する意識に破壞されたといふ時に、それに代って近代的都會人の文化感覺によ 缺けてゐることに責任があるといはねばならぬ。盆栽趣味や盆景趣る、一定の空氣を出すといふことが、全く出來ない。それは低級な 味では、大衆的に、國民的に、自然を樂しむ心理にも感情にも發展西洋式建築家の、めいめいの恣意的な好みによって、玩具箱をひっ され得ない。都市の經營といふ場合にも、局部的に盆景的の公園を くり返へしたやうな街が作られるばかりである。 はうふつ 作ることを知ってゐても、大自然の規模を髣髴せしめる森林公園を 銀座の如きも、全く贅澤な玩具箱の巓覆である。その一つ一つを 都會に作ることを知らない。中世の日本人は、ヨー 0 , パの都會人見れば、西洋の大都會のそれに劣らない立派な家がある。併し隣同 と同じく、江戸の眞中に自然の森林を摸倣した、「山内」を所々に士が、博覽會の建物のやうに、獨自の形式を誇ってゐるだけで、一 作ったが、自然鑑賞の態度に缺陷のあった日本人でも、中世人にはつの建物が、自分が何處に居るかといふことを知ってゐない。どの 然 相當の文明人的意識があったのである。今の日本人には、それだけ建物も周圍に向って目を瞑って坐ってゐるのである。 自 の自然観すらない。 だから全部の空氣といふものが出てゐない。ただの混亂である。 化 燕尾服の紳士と、頬を赤くぬったサーカスの道化役者とが隣り合っ 本 日本人の自然に對する局部的鑑賞の態度の弊は、都市の經營に於て坐ってゐる。クレオパトフと惡化粧の田舍下女とが列んでゐると て遺憾なく現はれてゐる。都會にはその都市の生活の形態を表現すいふ恰好である。 田る街々の氣分が漂ってゐるものである。今でも商業地區とか工場地 かうした混亂も全く日本人が自然の鑑賞に於て、局部的であると 帶とかいふが、さうした地區の特定の氣分は、その地帶の經營が、 いふのと共通の原因から出てゐる。 わか

5. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

8 に異常ある猿に過ぎない。それ程極端にわたらないにしても、映 晝、ラジオ、航空機、マルクシズム等々を知らなかった時代が、我 じゅういっ 我より愚鈍でも非文化的でもなかったのみか、より充溢と喜びを以 て生を享受しえたことが多くの人々によって認められた。昔の王者 の享受しえたものも、今日の一市民のそれに如かないと言えるが、 我々に當時の市民の調和と靜謐が失われていることも事實であるだ ろう。遠い時代と對比するまでもない。單に最近の一一三十年を思っ てみても、實に多くの物質的進歩と發展がなされたと見えながら、 精訷的状況に於てどれだけ素朴な樂観論者で我々はありうるだろう か。 このような領域にここで深く立入ることは出來ない。例えばマク ス・シェーラーやャスパースを開くがいい。近年に於て世界の最も 優れた精訷のすべてが、人間に對するその深い洞察と愛から、烈し い憂慮を以て語ったのはこれらの事態に就いてでなかったか。「精 禪の將來」や「現代人の建設」をめぐっての會談がなされたのもそ のためであった。 例えばその會合によせたトマス・マンの言葉は烈しくまた痛まし 「人類は段々さかしらにまた眼ざとくもなるだろう、だがより良い。「根本的なことは、若い人達が、言葉の高く深い意味に於ける、 くも、より幸にも、より活動的にもならないだろう。訷はもは自己裡の刻苦、個人的責任、私人的努力の意味に於ける『文化』と や彼に何らの喜びを抱かず、もう一度一切を鍛え直し若返ったもいうものについて、もはや何も知らぬことであり、その代り、彼等 は、卑俗に墮した流行歌と新聞記事との混ぜ物たる歌のリズムに合 のとする時が來るように私には思われる。」 ( ゲーテ ) せ、隙間なく隊伍を組み足並揃へて行進し、その方向に殆ど意を介 さない。」またヴァレリイのように澄明な精紳が、文化の危機につ 社會从勢の急轉回と文學の動向という課題を與えられて、このよ いて語っているのは、別して意味が深い。 うな言葉を想起する私に明るい展望があるわけはない。寧ろ彼のこ むし 瓧會从勢の急轉回と今ここで言われるところのものには、勿論他 の言葉からさえ、人間再生を夢みているその後半を毟りとり、人間 の局面があるだろう。それは寧ろ最近我々の體驗した左翼運動の急 を永遠に喜びなきものとして絶望の中に追放しなければならないの が、その現状であるようにさえ思われる。素朴に人間の進歩が信ぜ激な昻揚と退潮、それに件った抑壓や轉向の問題、ソヴ = トをめぐ られ、未來が明るい期待を以て待たれた時代は終ったのだ。ある人る諸問題、一一・二六に引續く状勢の變化、防共協定や日支事變に見 人によれば、人間は既に沒落しつつあり、また生物學的には内分泌られる政治動向、等々であると思われる。しかし私にとって、これ 山室靜 現在に於ける文學の立場 せいひっ

6. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

27 眞面目なれ いさ、 黒、苦味、痛所を知るものなれば也。渠等にして聊か心得たる筆 を揮ひ、著作の勞を取らば、豈に當年の著作に勝るの政治小説を 出さざらんや。吾人は其の必ず渠等を獵官闘爭の渦瀾より救ひ出 す功あるべきを想ひ、切に此類の著作に從事せんことを勸告せず んばあらざる也。 云々。政客をして政治小説を作らしむるは、記者の所謂「獵官鬪 爭の渦瀾より救ふ」の、手段としては或は一策ならんも知れずと雖 も、文壇の側より見ては決して妙案とは云ひ難きやに覺ゅ。何とな れば閲歴と詩才とは自ら別途に出づ。閲歴經驗は詩材を供するの點 に於て資する所あるべし。而も詩才なきの閲歴や經驗や唯斫り倒ふ 自然派の態度を難ず ぜる樹木の、終に家を成さざるにひとし。勿論今の小説家には政治 上の閲歴あるもの多からざるべし、されど絶無とは云ふべからず。 自然主義を主張する人々の説の區々にして統一をき、甚だしき 縱し絶無とするも、鋧敏なる顳察眼ある作家をして、半年もしくはに至っては黒白の差あることは、既に幾回も吾人の指摘し、論破し 一年、政治界の交際場裏に出入ぜしめば、其の結果に於て、決して た如くである。が、兎も角、彼の派の人々の思想は在來の思想を根 政治家出の俄作家の手に成る作の比にあらざる物を得るの望なしと底より覆へして、從來の文藝と全く異った新面目の文藝を樹立ぜん ぜず。蓋し材は得易く之れを破し之れを運用するの眼と手腕とはとする考へだけは漠然ながら共通してゐる。ち人生観及び文藝観 竟に先天の才に賴らざるを得す。はた亦多年の修練に待っ所多し。 上に一新紀元を開く程の思想上の大革命を行はうと爲るものであ 俄に轉業せる新店の作家には到底「雪中梅」以上のものを望むべか る。其の説の當否曲直は別問題として、彼等の主張する所を假に眞 すこぶ らず。鐵膓は一代に能文の士として推されたるもの而も政治眼を以なりとすれば、其の運動は頗る重大なものであって、成功と失敗と て觀察したる結果は、終に彼れの如し、餘は推して知るべきのみ。 に論なく、維新後殆ど先例のない位、思想史上の大事業に着手して かくのごと 常人の着眼と詩人の着眼は同一の物に對するも自ら異る所あり。彼ゐるものであると見ねばならぬ。如斯く重大なる運動に從ひ、成功 の洞観の點に於て、將た感じ方の深淺に於ても、日を同じうして語を期する考への者は、其の態度も亦頗る眞面目で愼重であるべき筈 るべからず。機械はつくり易し手腕を得るは難し。吾人は暫く假すである。少くとも文學上自家一代の運命を賭しても此の主張の爲め いはゆる じゅん に日月を以てして小説家をして政治小説をつくらしめんと欲す。 には殉じようの意氣込みがある可き筈である。所謂自然主義が我が くに ( 明治三十一年十一、十二月「新小説」 ) 邦に於いて最初二三の人に依りて唱道された頃は、議論は粗漫であ り、熊度は亂暴狼藉を極めたるには相違なけれど、何となく熱誠と しんし 眞摯の趣との迸しる様な氣が爲た。毀譽を度外に置き、榮辱を一笑 に附して、主義の爲めに猛進苦鬪するを辭せんといふ程の決心と誠 意とがあるらしくも見えた。その説くところには服し難き點の多い 眞面目なれ くつが ほとば

7. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

176 なはちその映晝の多くが、徒らに卑俗であり、徒らに猥雜であり、 徒らに煽情的であ「て、却ってこれに依って、現代の勞働階級の人民衆一術の問題 人の多くが惡影響を受けっあることを認め、その點に向って痛烈 な非難を加へ、心ある人々は「瓧會民主々義が資本家たちの無法の 徴收に、斷乎として反對するとおなじく、かういふ娯樂上の興業主 の無法の徴收ーーー・性格、知識、感情のーーにも斷乎として反對しな ければならない」と云って、活動寫眞をして何よりも先づ敎化運動 の具、すなはち民衆藝術としての活動寫眞たらしめることを力説し てゐる。これ又、肯綮に中る主張であることいふまでもない。 民衆藝術といふことが最近文壇の二三氏に依って論議された。私 くは 民衆藝術は、上來述べた通り、所謂「高等文藝」乃至専門的な豫は今その人々の論議を、一々委しく讀んだわけでないから、その論 備知識を持たなければ了解されないやうな高級藝術とは全然異った議の中心が何處にあるかを知り得ないが、民衆藝術といふ言葉その ものである。私は今こ乂にこの兩者の價値を比較しようとするものもの概念が今以て可なりに瞹眛であることがわかる。或る人は民 ではない。しかしながら、通俗的であり、非専門的であるといふの衆藝術を以て通俗藝術と解してゐるらしい。又或る人はこれを以て 故を以て、所謂民衆藝術そのもの價値を蔑みしてはならない。 一般的藝術と解してゐるらしい。或る人は之を以て所謂瓧會主義の 否、新瓧會的環境の創造力の暗示とし、機縁としての藝術といふこ 藝術と解してゐるらしい。しかしこれらは何れも民衆藝術といふこ とを力説してゐるかのギ、ヨーなどの社會學的美學の立場から云へ との一面の眞を捉へたものに過ぎない。民衆藝術といふことには單 ば、むしろ、民衆藝術そのものこそ、最も價値ある藝術となるわけ に通俗藝術、一般的藝術、社會主義的藝術といふ以外自ら別にその である。實にギヨーの所謂新瓧會的環境創造の機縁であり、乃至適確な意義がなければならぬ。 彼等民衆に取っての「よりよき生活へ」の暗示であるところに所謂 民衆藝術といふことが、いかに瞹眛に用ゐられてゐるかの一端を 民衆藝術の一切の價値がか、ってゐるのである。 示すために、こゝに加藤一夫氏が先頃の「時事新報」紙上に「民衆 ひるがヘ 飜って思ふに、我が國の現時の状態の如き、とりも直さす、ま藝術の爲に」と題して論じた意見を借りて來る。 た、如上民衆藝術を最も多く必要とするものではないであらうか。 氏は先づ民衆藝術といふことの「民衆」といふ言葉を單に「新興 私たちは今更のやうに、この偉大なる先覺者エレン・ケイやロマ人民」といふやうに解釋して「民衆は決して大多數の貧乏なる勞働 ン・ロ一フンの叫びに耳を傾けずには居られない。 者階級にのみ存するのではない。それは勞働者のなかにも百姓のな ( 大正五年八月「早稻田文學」 ) かにも軍人のなかにも知識階級のなかにも、貴族階級のなかにも瓧 會の至るところに存するのである」と云ひ、この「新興人民」を 「人間が、その本質に於てデモクラティックであること」を自覺し た人といふ意味に解し、さて民衆藝術を次のやうに定義してゐる。 日く、

8. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

の體ですから、舞踏なんぞをしたことはありません。自分の出來な 考へてみるに、全く癖好をもたないといふことは、人間のことで 4 い舞踏を、人のしてゐるのを見ます度に、なんだかそれをしてゐる なくて、自然のことである。もし人間生活の營爲が偏好の外にある といふなら、その營爲はただ動きだといふべきである。ただ動きと人が、人間ではないやうな、紳のやうな心持がして、只目をって 視てゐるばかりでございますよ』と云った。爺いさんのかう云ふ いふのでは自然界の事物の蓮動と少しも變りがないから、むしろド ィッ人のよくいふ spiel ( 遊動 ) と言った方が適當である。鸛外が時、顔には微笑の淡い影が浮んでゐたが、それが決して冷酷な嘲の 「あそび」や「不思議な鏡」や「カズイスチカ」で言ってゐる思想微笑ではなかった。」 spiel ( 遊動 ) といふことは、人がただ自然を冷やかに眺めるやう は、この遊動である。自然認識の客といふことが鸛外の存在の重 に人事を見てゐるときに言ひ得ることなのか、つまり傍襯者の占有 さであるやうに、あそびといふことは鸛外といふ存在のひろがりで ある。物體がひろがりと重さとをもつやうに、鸛外はあそびと認識なのであるか。さう考へてみるとやはり傍觀者の占有であるやうに 思へないではない。しかし、自分をもそれに加へてしまっての上 の客觀性の要求とをもってゐたのである。批評家はすでに當時彼が 「眞劍でない」といって非難したのである。それに對しては、彼はで、全體が spiel であるといふことも言へないことはない。舞踏 うそぶ 「眞劍も木刀もない」とそら嘯いてゐたらうと思へる。「あらゆる爲はとにかくとして、人間の營爲そのものが、 spiel として、人間で 事に對する『遊び』の心持」が、彼の創作の態度だと言へる。彼かはないやうなものとして、のやうなものとして目をるといふこ とがあり得ぬことはない。鸛外はさういふ文學を創造しはしなかっ らすれば、「此の遊びの心持は、與へられたる事實なのである。」 たかどうか。問題はさういふ方へも伸びてゆくべきであるが、それ 自分が全體的にあそいの心持でゐるといふことを、鷦外は自覺し は先きで取扱ふとして、私たちはもっと鸛外の存在の「ひろがり」 てゐなかったのではない。それどころか、鷦外といふ存在が日本の を考へてみなければならない。 文學の中で比類のないことはいっか漸次にはっきりして來たので、 文壇の鸛外批判は彼のあそびの性質を衝いたのである。彼の書くも 四 のには「情がなささうだ」といふことを、彼自身何度か作品の中で ねむ 外へ吐きだしたのである。彼は「己の魂は『あそび』の心持で萬事「わが心はかの合歡といふ木の葉に似て、物觸れば縮みて避けんと を扱ふといふので、何を見てもむやみに面白がるのださうだ」と批す」と鸛外はかの「舞姫」の中で言ってゐる。ここにあそびが彼の 評をとりあげてゐるが、それを否定してはゐないのである。それの禀質であることを彼は語ってゐる。この禀質を發展させたものは、 みか彼は批評家たちの批評に結末をつけて、「あそびが肯定的評價いはゆる「習慣」としての彼の自然科學的敎養である。自然認識と いふことと傍飆といふこととは引き離すことのできないものである で情なしが否定的評價である」と半面それを自認してゐる。あそび が、彼のあそびはこの傍性と一つである。鸛外の作家としての成 を外は自分の「禀賦と習慣」のせゐだと考へてゐたやうである。 「百物語」の中で、彼は或る不治の病をもってゐる或る老學者の舞長と略同じ時代に日本には自然主義が興った。日本の自然主義作 踏觀をあげてゐる。或る數人の間に、舞踏の話がもちあがってゐ家には傍觀といふことはあったが、みそびといふ襯照態度はなかっ た。少くとも、鸛外の存在のひろがりとしてのあそびは存在しなか た。は舞踏の必要を述べ、は舞踏の弊害を述べた。そしたら、 その談話のうちにゐた老學者が、「かう云った、『わたくしは御存じったのである。實に鸛外自身がひとつのあびなのである。日本に / ンス みは

9. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

人として指彈されねばならぬし、「人間の壁」のような小説が新聞しかし現在大衆文學や松本淸張にたいする「批評上の流行」は、一 3 小説として成功したのが功績ならば、氏らはその代表選手として賞年以前の中間小説と純文學論議の延長過程にある問題なのだ。批計 讃されなければならないであろう。ただ、批評家が氏らの作品を直家が大衆文學として扱っているのは、大衆作家の書く中間小説であ 接批評しないのは、大家となった氏たちが主力を純文學の創作欄に り、松本淸張や水上勉その他の推理小説も中間小説の主流派として 置かなくなり、もつばら週刊誌や新聞小説が、その舞臺となってし緊榮しているのである。そして、それらの小説の作風には、昭和十 まったからに違いない。つまり接する機會が少くなってしまったの年代作家の手法が歴然と殘っているのである。たとえば小説を量産 だ。 できる手法だ。流行作家にはすべて共通した描寫の方法があること しかし、たとえば私は舟橋聖一の「夏子」が、十年という歳月を は、伊藤整が、かって述べた通りであって、その手法を編みだした かけて完成したという事實も、やはり默殺しえない。そして「小説のは、昭和十年代作家であり、新人の推理作家もそれと同様の手を 新潮」の存在をクローズ・アップしたのは、この小説と石坂洋次郎用いているといえる。 の「石中先生行妝記」であったという事實は、中間小説の性格を考 中村光夫の「風俗小説論」が、文壇に大きい波紋を投じたのは、 えるとき重要な意味をもっと考える。「大衆文學と純文學」という今から十年以上も以前の昭和一一十五年であった。そのころから、平 ような問題を論ずるよりも、この方に現代文學のあり方を考える際野謙のいわゆる横光利一の「純粹小説論」を下敷きとする中間小説 には意味があると思うのだ。 化は、すでに充分間題となるまで熟していたのである。「小説新潮」 批評家は、よく「中間小説の功罪」という問題を扱わさせられるの創刊が、その三年以前の昭和二十二年であるのは、文學的風潮と が、この間題はいっそ、「」 「ハ説新潮』の功罪」というふうに絞ってしては偶然ではない。 考えた方が、もっとはっきりするのではないか。 「純粹小説論」の目的や、廣津和郎の「純文學と新聞小説の統一」 伊藤整は、「『純』文學は存在し得るか」のなかで、氏がアメリカ の提唱が、大きい風潮として實踐されたのは、昭和十年代作家の中 へ出發する一年前、進藤純孝や奧野健男のような若手批評家が、私 間小説進出によってであった。戦前とは比較にならぬほど、小説マ も混えて、「中間小説と『純』文學の區別が可能か否かを論じてい ーケットが擴大し、中間小説がその主流を占めたのは彼らの手によ た」のを回想して、續けてこう述べている。 ってであって、現从はその必然的な擴張にほかならない。 「なるほど、あの時から危機または轉機は來ていたのだった。だ 「小説新潮」による中間小説の流行は、作家の收人を豐富にするこ がその頃私は、若い批評家は、さして問題にすべきでない事につい とにおいて貢獻し、安易な小説制作態度を覺えさせたことによって てもずいぶん紳經質なものだ、外に問題がないから、このようなこ弊害を生んだ。そのときから、すでに今日のような問題は生まれて とを論じているのだな、と思っていた」 いたのだが、當時はまだ純文學の方も、いまほど袞退していなかっ そして、「いま一年の留守の後に東京に歸ってみて、私は、もう たので、批評家は中間小説の繁榮をそれほど純文學への脅威と考え この問題を取り上げることは批評上の流行ではなくなっているとい る必要を感じなかったのであった。 う事實に氣がついた」と語っている。 「今の純文學は中間小説それ自體の繁榮によって脅かされているの なるほど、すでにそれは「批評上の流行」ではなくなっている。 ではない。純文學の理想像が持っていた二つの極を、前記の二人

10. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

樂』 ( 明治四二年 ) や『新歸朝者の日記』や『冷笑』に語った思想と 6 附記ーー私はかねてから用意している近代文藝評論史を十分の一位 4 通ずるものをみせた。 敏が覿照主義から出て、たゞ「散慢微温の興味を以て事物の表面に簡約して、この小史をつくるはずであった。しかし簡約は思いの を掠って行こう」とするディレッタンティズムに對して、「人生のほかに手まどり、後半は繁閑宜しきを得ず、駈け足になって、解説 に流れ充分に問題をつくさず、重要な評論を逸したりしてしまっ 渦卷に身を投じて、其激流に拔手を切って泳ぐ」積極の享樂主義、 た。明治期を終り、大正期にか、るところで、時間も紙數も盡き 「眞の享樂主義」を提示して、その意義を正すところがあった。こ れに對して、荷風は「私は唯だ『形』を愛する美術家として生きたた。小史としては全體の半ばであり、これ以上の簡約は無理である から、やむを得ない。大正期の成熟と分化、昭和期に入っての現代 いのだ。私の眼には美も醜もない」 (t 歡樂しとして、感覺と情趣と において無限の喜びを感受しながら、皮相な近代化によってこわさ評論は、いわば明治期の結着であるから、前半に力をこめておけば れた江戸情緖や傅統の重におもむき、彼がフ一フンスで知った鄕土よいと、いまでは辯解めいた愚痴である。 この評論集を編むにあたって、本全集におさめられる文學者の評 文學の再現を期し、この意味での文明批評をばこころみた。荷風の 文明批評がたぶんに風俗・道德の批評である所以である。この享樂論は、紙幅の都合もあって、すべて省き、それ以外の評論家の評論 をもってあてた。それも他の全集に入っているような評論は、でき 主義、乃至は唯美主義が「あそび」を裝い、 Resignation をいった る限り避けて、この種の飜刻のない大切なものをとることにした。 鸛外のディレッタンティズムと似ていて、しかも異にするところは 『現代文學論大系』『昭和批評大系』或いは筑摩書房版『現代文藝評 大きい。 論集』などとは、いくらか重複したものもあるが、參照すると便利 享樂主義、唯美主義は、漱石門下の鈴木三重吉、或いは小川未明、 である。このような編集になったゝめに、私はこの評論小史におい 谷崎潤一郞、近松秋江らの一連の作品をふくみ、一種の流行をみる。 この間にあって、『早稻田文學』に據って登場した本間久雄が『頽て本書に收めた評論家や評論の位置を明かにする考えであった。初 發的傾向と自然主義の徹底的意義』 ( 明治四三年 ) などをはじめ、そ志は充分に果すことができなかったが、大正以後は比較的に親しま の心をひいた頽唐趣味の方向から、彼らの意義を積極的にみとめるれてもいるので、紅野敏郞君の作製した作家年譜によって考えてい たゞければ、わかるはずである。この年譜は紅野君が工夫して作家 文藝評論を展開するし、漱石門下の小宮豐隆は『享樂主義の藝術』 ( 大正三年 ) を書いて批判する。っゞいて、赤木桁平が『「遊蕩文學」の思想的傾向や評論の性格や歴史的位置やを上手に組みいれてある からである。 の撲滅』 ( 大正五年 ) を書いて、長田幹彦、吉井勇、久保田万太郞、 近松秋江らの名をあげて、勇敢に「遊蕩文學」ときめつけて、撲減 を喫ばわったが、その文學も、その道德觀も、通俗の域を出てい ない。ここから遊蕩文學撲滅論爭がおこり、一時、文壇の話題とな った。 外、敏、荷風の文學思想をいくらかの評論と小説とから取り出 さなければならぬのだが、別の機會として、ひとまず筆を擱く。