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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

ぬともいわれ、さらに、その後は實感を否定した「メタフィジック 批評」の提唱となっていった。 私は「メタフィジック批評」なるものは、こと小説の批評に關す る限り嚴密な意味では樹立しないと考えていたし、げんにその提唱 者たちの批評も決して眞の意味での「メタフィジック批評」ではな かった。そして私自身は、「實感を固執しなければならぬが、實感 に居坐ることは危險だ」という言葉を、たびたび念頭に浮かべなが ら、「なお最初の一行を書き」、ものを書いてきた。それは、「實感 に居坐る危險」を感じながら、「實感を固執して」きたことである。 戦後きわめて早い一時期、すなわち昭和二十一年の秋から冬にか これからしばらく私が現代文學の諸問題や諸現象について書くに けて、文學者の「實感」というものについて、ささやかな論爭が行 も、私には「實感への固執」という手しかない。私は自分が實感に なわれたことがあった。當時、私はその論爭に參加する餘地もなか ったし、またこの問題にたいする關心を表明する機會も持たなかっ居坐ることを警戒しながら、實感を固執してゆこうと思う。それが たが、以後十五年來この問題は、いつも私の心の片隅にひっかかっ題名の理由である。 ていて離れることがなかったのである。 「文學者はあくまで自己の實感を固執しなければならぬ。然しまた 今日こと新しく純文學と大衆文學の間題がむし返されている。大 自己の實感に居坐ることは危險だ」と、小田切秀雄がいったのにた衆文學が好況になり純文學では生活できないような時期になると、 いして、佐々木基一が、「一見至極理の通った言葉である」といい かならず持ち上ってくる間題で、一向新鮮味がないのであるが、今 つつも、「果してそうであろうか」と疑問を呈したのである。そし度の場合は、平野謙が、「純文學は歴史的な概念で、現在一般に考 えられているような確乎不動のものではない」と發言したことが波 て、次ぎのように述べている。 「恐らく、原稿用紙を前にして、最初の一筆を下す時間、僕らはこ紋を投じたのである。氏はその理由を、「純文學と大衆文學」 ( 「群像」 の至極理の通った言葉が、實は僕らにとって容易ならぬ困難を課す昭三六・十二月號 ) の座談會で、詳細に述べて自己の概念規定を表明 している。 ものであることを經驗するであろう。この言葉を念頭に浮かべなが ら、然もなお最初の一行でも書き下ぜる人間が果して存在するかど 純文學のその歴史的變質は、平野氏の言葉によるとしても、現實 には「純」文學といえば、私小説乃至は私小説的作品ということに 轉うか僕は疑問に思う」 ( 「實感文學論」 ) のそののち、この「實感」の問題は非常に否定的な批判のなかに置どうしてもなる。實際に多く文學賞を受けたり、批評家に問題にさ 評かれた。人間はみなすべて異なる星まわりや禀質をもっているのだれる小説のほとんどが私小説または私小説的作品である。そして、 から、個人の實感が、そのものとして普遍性をもつものではないと批評家の賞讃する大衆文學もまた何らかの意味において、私小説か 心境小説的作品が多い。しかし、實際に大衆文學の大半を占めるの もいわれた。また、しかし實感をはなれて文學はないのだから、イ 3 ンテリゲンチャとしての實感を普遍的原理にまで高めなければならはそういう作品ではないのである。批評家は山本周五郞や海音寺潮 批評家の空轉

2. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

3Z6 性への懷疑をいくども吐露しつづけた。 、しきりに私小説の形式にあこがれてゐるのではないか。 「僕はこの頃何か意見を述べるとして、自己に印した言ひ方より もしあらたなる自我の形成、たとへてい〈ば、孤立的自我意識の ほかにちっとも興味を覺えない。つまり、客觀的な、普遍安當的 殘滓を克服して國民的個性にたかめ、擴充しようとする獻身や努力 な意見など述べようとすると、白々しくして砂を噛むやうな氣持 が、切實な眞實性でかたむけられるならば、それは既存の自我の否 がするのだ。 ・ : 」 ( 「新潮」十六年六月號「自己に印して」 ) 定、既成の秩序と觀念〈の憎惡となってあらはれざるをえないであ このやうな上林氏の意見との心境は、おそらく氏ひとりのもので らう。 かって、といっても事變後、私小説形式 ( の文壇的追慕が起ったなく、ほとんどの文壇的文學者を支配したともい〈るであらう。そ とき、そのあこがれの言葉は、一さいの虚僞にたいし、僞瞞の表して、このやうな思惟が、ただ客觀性を忌避するとか、理論の無力 をさとったといふ解釋によってのみ説明しつくされぬのである。い 現に對する呪ひとなり、人間的眞實 ( の幻想的浪愛性をあふった。 自然的人間の素朴さといふことが、私小説によってもとめられるとはば、あらゆる一さいの欺瞞、虚僞の氾濫に恐怖し、たよるべき一 いふかんが〈によって、私小説〈の愛好はたかめられた。私小説はさいの根據をうしなひ、信ずべきはおのれ自身よりほかになく、お かくして純文學の基礎形式となって返りいた。人間性 ( のあこがのれ自身の意志と観察に絶對をもとめて生きようとする必死な抗議 れが、私小説の形式によってのみみたされるといふ錯覺、それ自身にほかならなかった。だが、このやうなおのれに絶對をもとめた精 が、すでにあらゆる欺瞞にたいする観察の敗北であり、欺瞞に對立頑の來歴とはなんであらう。ここにも錯覺があった。 いはば、自己自身の主觀にのみたよりをもとめ、眞實の絶對をも した無力な自我の放棄のすがたであったのである。だが、ともか とめたのは、眞實の普遍的絶對性の拒否にほかならなかった。それ 、事變以後の文學界の混沌化した欺瞞のなかに、眞實へのあこが ゅゑに、個々に、眞實は差異を生むといふ暗默の解釋をひかへてゐ れがうまれ、それが私小説を愛護する機縁となり、作者もまた、私 小説のなかでのみ、いつはりない自我と人間的眞實をつた〈うるとたはずである。つまり、眞實の絶對をもとめあぐんだすゑに、眞實 は、個々の實感のなかにしかもとめられず、眞實は無限に分割され いふ自覺に生きてゐた。そこには、たとひ錯覺であっても、眞實と いふ觀念〈の憧憬があった。 ( たとひ、その憧憬が眞實追求の欺瞞うるし、相對性をもつものであるといふ前提をひか〈てゐるのであ の象徴であったとしても。 ) そして、あらゆる大正以後、昭和のはる。結局、このやうな眞實の個性的實感によるうけとりかたは、眞 じめにかけて、私小説をむか ( る心理のなかには、つねに、作者の實いつばんに對する否定ではなく、みづからのよりどころのない孤 立的な心理の根據を索めて、自己の主麒の絶對化におちいったにす 肉感、體臭へのしたひょりがあった。體臭を嗅ぐことによらねば、 人間的眞實をかんじえず、體臭さ ( かんじうれば、眞實をうたがひぎなかった。眞實のよりよい把握のためのねがひからでなく、おの えなかったといふ事情はあきらかに、客觀性いつばん、合理性いつれの不安を安堵せしめる姑息な境地から、自我に集ごもりをたくら ばん ~ の不信の表現であった。つまり、事變後の作家における心理むだにすぎなかった。しかし、このやうに自己に即してかたるこ 的欺瞞 ( の呪詛が、生理的人間の復活を要求し、主観にしか眞實はと、普遍的な論理〈の嫌惡は、私小説に眞實の實體をかぎつけねば 安心のならなかった文學的心理と共通なものであり、しかも前述し さぐり得ぬことを明證したのであった。 上林氏も事變から大東亞戦にかけて、自己 ( の執着、客的普遍たごとく、ともかく、眞實の絶對をもとめるといふやみがたき希求

3. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

の眞といふ如きは一種の價値意識、氣分であって、これは決して自 我等の科學的知識は精確でなくても、我等が科學的精神の影響を 然主義に限ったものでない。否むしろ之に遠いものである。自然主うけて居ることは事實である。科學的精が我等に與へたものは、 義者の力を注いだ點は、主として現實にあったことは、誰人も異議物質的世界觀人生觀であった。その巨細の消息については十分に説 はあるまい。 明し得る知識を有しないけれども、兎に角我等の物の見方が精神的 然らば現實とは何であらうか、これには種々説もあらうが、兎に でなくて物質的になった。我等の經驗には精よりも物質の方が有 角現實といふことが、經驗の主體たる我等人間を離れていひ得られ力になった。精訷的事物よりも物質的事物の方が、より多く現實に ないことは明かである。心理的にいへば我等の經驗分内のことと廣なって來た。我等が沈思し、瞑想し、感慨する所を空と見、無力と くいって差支なからう。しかし之を更に普通の意味に解すれば、要見、偏に我等が視、聽き、嗅ぎ、觸れ、味ふ所のものを確實なりと するに我等にとって切實なインテンスな經驗といふことであらう。 するに至った。かくてこの世界をば大いなる物質の盲動と見る器械 そこでこの經驗により之に交渉する者は等しく又現實の中にこめら観的の傾向が我等に生じ、人間が人間自身を見ても、精的により れる。要するに此等のものも我等の經驗分内のものであるからであは、生理的、物理的、一言には物質的に見る様になった。物質とい る。 ふものも、科學の方では要するに自然を説明するに最も便利な一種 かく現實を解すれば、現實の眞なるものが決して一色なものでなの假定と見て居られるといふことであるけれども、我等が普通常識 一定不變のものでないことは明かである。個人個人の性格境遇的に考へる物質は我等の現前にある具體的なものである。かく總て により、或は廣く一代一社會の生活从態思潮等によって、千差萬別を物質的に見ることが、總てを外的に已定の事實として見る様に至 であるべき筈である。この意味に於て現實の眞とは、理想とか原理らしむることは、誰人も經驗する所である。かくて世界といふもの とかが普遍的又は抽象的であるのに對して、個體的又は具體的であが、動きの取れない自由のないデターミニスチックなるものとなっ 想 るといひ得られる。普遍的なる理想は、動もすれば内容が薄れて抽て見えて來る。萬事を程度の差と見、質的に見ないで量的に見る。 思 的 象的になり、我等の生活に切實でなくなる。自然主義が力を込めて禪祕が失せ非凡が消え、平凡が跋扈する。宗敎や哲學は動もすれば 主 現實を説かんとしたのも實にこの點にある。しかも現實が具體的で嘲笑せられ、偉人豪傑も我等と異なる點は、唯量的物質的のエネル 然 自 あるだけそれだけ多端で、現實の眞とは何ぞやの問の發ぜらるる ギーの差とぜられる傾きが生じて、英雄崇拜の情も冷却ぜざるを る や、何れを何れとも分け難き繁雜が生じ、之を選擇する必要に迫ら得ない。 て るる形勢は、已に已にこの當初に存するといはなければならぬ。 現實の眞の主張が科學的精の後援を受くる如く、この科學的精 し 紳の擴布が、世人一般の現實感に援けられて居ることは、蔽はれぬ 題 五 事實であらうと思ふ。科學殊に自然科學の應用的方面は、科學を知 の らざる凡俗をして、科學の勢力に驚嘆せしめることが出來る。思想 かくの如く現實の眞なるものは個體的で多端である。しかしなが 自 ら今の人の現實といふものには、自ら通じて居る一般性がある。そ界のデモク一フシーの勢を馴致したのは科學的精神である。從って科 して今人の現實の理論的根據を與へて居るものは、十九世紀以來長學の大影響を受けて居る自然主義文學もデモク一フチックの文學であ 2 る。しかし自分は今科學を論じようと思って居るのでない。自分の 足の進歩を續け多大の勢力を振って居る自然科學の精である。 やや ばっこ ギブンファクト

4. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

ばならない。 各自の個性が絶對獨立であるならば、それは何物とも沒交渉で、 從って無價値でなければならぬ。個性の價値が認められるほど、そ れは一般との深い交渉の存在を意味してゐるのである。樹が大地に 根をはやしてゐるや一うに、我等の個性は宇宙との交通を求めてゐ る。かるが故に個性は獨立ではあるが、孤立ではない、より廣く個 性が宇宙間に滲透するほど生命の價値を生するといふのが、一方の 無限實現論者の主張である。 充實は排他に由っては遂げられない。孤立した個性がどこから營 目下のわが思想界には二つの大きな潮流が流れてゐると見てよ い。その第一はニーチェゃべルグソンの哲學を祖述した、またそれ養を得て充實されようか。また擴大は棄我の手段のみでは全くな みだ から暗示を得てゐる、または是等の者を誤り傳へた個人主義で、叨い。第に自我を薄めて行く擴大は終に自己の生命の空盡に終らざ るを得ない。されば、充實は親他によっての充實で、擴大は充實と ールの田 5 りに個性の權威とその充實とを主張してゐる。第二はタゴ 共に行はれる大でなければならない。生命は充實を要求すると同 想を中心とする無限實現論者で、西洋の個人主義に反對する一種の 東洋思想である。この兩思想は全然相反してゐるかのやうで、その時に擴大を要求する。生命の樹の生長は充實部擴大である。印ち生 命に於ては充實の要求たる個人主義と、擴大の要求たる無限實現主 實、今日の時代傾向を飽和した著しい一つの類似點を有してゐる。 それは印ち在來の理性主義に反對し、抽象理想の破産を宣言しつ義とは一致調和すべきである。 この世の中に於て、個性と無限との對立ほど神翹なものはない。 つ、自然の本能を重んじ、生の體驗、實現、創造などを主張すると その對立を絶對と見るか方便と見るか、または憎みの分離と見るか ころにある。換言すれば、「生命」の奪重が兩派の歸一點である。 唯だ個人主義が生命の充實を力説するに反し、無限實現論者は生命愛の分離と見るか、個人主義と無限實現論との分れる點である。絶 の擴大を過重しようとする。與に楯の一面のみを見てゐる偏した議對個人主義は奇怪にも、擴大された人間神の影坊子を出して、その 背景たる自然の蔭を極度に薄らめようとしてゐるに反し、無限實現 論であると謂はれよう。 生命の特徴はその個性にある。個性の無いところには生命はな論は白熱化された大自然の中に薄い光のランプのやうに人間を映出 してゐる。宇宙と個性との對立を方使としての . 「愛の分離」と見る い。「我」は我である、「我」は獨存である、「我」は無比較である。 個性の滅却は生命の破産であり、創造の空盡である。かるが故にあ點は、無限實現論の方が正しいが、然し何ちらの説も、生命の兩面 らゆる物を犧牲としてもこの個性を發育充實せしめるのが生命の本相の一方にのみ偏し過ぎてゐることは爭〈ない。 此に於てか個人と宇宙とを相當の位置に取りもどして、其關係を 齢然に協った道であるといふのが個人主義の主張である。 然し、生命の樹は獨立して發育するが、その根は大地に降りてゐ正しく調察することが我等に最も必要である。今日の個人主義は個 て、どの樹も同じく、土の乳房から營養を受けてゐる。個性の破滅人の爲めの個人主義である。餘りに個性の價値を重大視して、却っ 2 が廣い生命の損失であるからには、それは宇宙と係はる所がなけれて自己を孤立せしめるの不自然を敢てしてゐる。その結果は得手勝 生命の傳統 かな

5. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

れたる事實である。自己さへも與へられた自己と呼ばるべき形があ然も自己の最も牛の如く豚の如き方面を見せつけられた。我の自覺 る。自然主義者の先づ見よ、價づくる勿れといふ言は、この現下のを有せりといへば如何にも立派であるけれども、内容の貧寒空疎な 妝態に於いては、少なくとも是認せられることである。さりながら荒んだ自己を自覺するとき、我等は自己の奪嚴を覺えずして屈辱を 與へられたるを與へられたるがままに、定められたるを定められた覺える。幸輻を思はずして苦痛を感ずる。然もこの苦痛屈辱に對す やや るがままに承認するならば、我等は必しも眼を開いて見ることを要る鋭き感じさへもすれば鈍らされんとするのである。 しない。眼をつぶっても之に從へばよいのである。ここに於てかそ かかる自己を以て人生に臨み、現實に接する。果してどれだけ人 の眞相を見よといふモットーすらも、我等の價値的要求を背景とせ生に觸れ得るであらうか。多くの外的經驗を重ねることが、人生に ずば、何等の人生的意義を有せぬことになる。懷疑を懷疑として、 觸れることならば、詐欺師や泥棒は最も多く人生に觸れて居なけれ 不安を不安として眺めることの出來ぬ理由もここにある。否自分はばならぬ。我等がしみみ、と深く人生に觸れると感ずることが出來 更に一歩を進めて、刮目して眞相を見んとする努力すらも、我等のるのは、我等が淸新な心持を以て人生に臨む時ではないか。ただ現 價値的要求からして送られるのだといひたい。若しこの要求だにも實に觸れるといふことは、決して人生に觸れ人生を深く經驗する所 なくば、我等は現實の中に眠りこけてしまはねばならぬ。それはさ 以ではない。我等が人生に觸れたいといふのは、むしろ人生に觸れ ほうちゃく て置き兎に角、現實に逢著し、現實を享受し、或は之を樂んだり悲ざることを示して居るのではないか。徹底せよといふのはむしろ徹 んだり、或は耽溺したり壓迫されたりする間が、現實を現實とする底せざるを證するものではないか。充實したいといふのは、決して 自然主義の領分である。人生を無理想だ無解決だといふのも、この充實して居ることと同じではない。眞面目になりたいといふのは、 領分内のことである。一歩を進めて之を批評する様になるのは、更又眞面目になることの難きをあらはして居るのではないか。我等は に後の事柄に屬する。これ已に我等が價値的要求を提げてこれに臨人生に觸れない、せめて觸れたいと思ふ意識でもって、人生との觸 んだ場合である。しかもこの價値的要求の淺薄ならざらんが爲に接を續けようとする。我等は充實して居ない、せめて充實したいと は、我等の人生を味ふことも亦深くなければならぬ。現實に觸れよ 思ふ心で以て、充實したいとする。眞面目でない、せめて自己の不 といふ言の強味は主としてこの點にかかる。然も現實に深く觸れる眞面目の苦き意識にも眞面目を保ちたい。若々しき新なる心を失は といふことも、我等の價値的要求にデベンドして居ることである。 んとする、之を痛ましく思ふ悲愁の心にも、せめて老人にない若さ を託せんとする。しかもこれだけの充實、これだけの眞面目も動も 自然主義が其自身に於いて完了しないといふのはかかる意味であら うと思ふ。 すれば保ち難いのではないか。 自分は上述する所によって自然主義的現實を略説した。自然主義 かくの如くにして現實の眞なるものは、決して我等が求むる終局 的の心持に居る自己について少しく述べた。自然主義的氣分の下に のものではない。我等を滿足せしめるものではない。我等はこの不 ある自己が、主として感覺的、受動的、物質的の自己であることを滿を殺してしまふべきか。不滿の殺さるるは我等の死ぬる時であ いった。極端にいへば我等は牛や豚の如く無意識的になり得ない、 る。我等は我等の現實をどうにかせねばならぬ。この要求を外にし 自己の問題として見たる自然主義的思想

6. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

8 が文藝界及び思想界は、果たして如何なる進路を取りて其の特有ない〈るものは、前代の理想的又は光明的なりしに反して甚しく現實 る光輝を發揚するを得・〈きか。此等重大なる疑問を解決せんとせ的となり、す〈て現實的なるものにあらすば、何等の感興だも與ふ ば、先づ泰西の文藝界及び思想界の潮流が、今や孰れの方面にむかるを得ず、ゲーテ、シレルすら既に古典式は舊式の詩人に數〈られ ひて動きっ又あるか、彼れの思潮は果たして如何なる形を取りて流て、ひと〈に直接なる實生活のみが世に注意せられ世に深き感興を 與ふるに至れり。之れを思想界に徴せんか、シリング、 ( ーゲル れつゝあるか、將來まさに如何なる進路を取りて發展せんとしつ乂 あるか、此等の諸點に充分なる注意を要す〈し。蓋し我が文藝界及の雄大壯襯を極めたる宇宙觀は、もはや過去の美はしき夢とのみ感 び思想界は、もはや泰西の潮流より全然獨立して孤獨なる態度を保ぜられて、何等の深甚なる感興を與ふるの力なく、學術界はひと〈 持する能はざる・〈ければなり。然らば泰西の文藝界及び一斑の思潮に自然科學の局部的研究のみに走りて、また昔日の理想的哲學を観 は、今や孰れの方面にむかひて動きつ、あるか。思ふに、これ極める者なく、直接なる經驗的智識又は現實なる物理的知識にあらず て重大なる疑間にして、しかも亦頗るル大に失せるの嫌ひあるもば、一班の學者に取りては何等の價値なきものと感ぜらる、に至れ り。さればゾラの寫實主義又は科學主義は、其の當時如何ばかり大 の、極めて獨斷的ならざるかぎりは、容易に答辯する能はざる疑問 なる影響を一班獨逸文壇に及ぼせしぞ。寫實主義といふ聲は、俄に なるべし。讀者よ、茲には簡單に獨逸文壇の最近の思潮をさぐらし めよ、必しも歐洲一體の大文壇とは謂はず、單に獨逸文壇の最近の文壇の彼方より此方に響渡りて、世人はさながら一種の巖力に魅せ 大體の傾向をさぐらしめよ。而してまた敢て讀者の寬恕を請ふ、我られたる者の如くなりき。當時少壯文學者は絶叫して曰はく、久し く沈滯ぜる獨逸文壇は、寫實主義によりて革命刷新の新氣運に導か れは最近獨逸文藝の全體に精通せる者にあらず、たゞをりど、翫味 るべきなりと。ゾフが寫出だぜる如き、現實なる瓧會の腐敗、疾 ぜる文學上の著述に就きて、之れより大體的傾向を推測するに過ぎ 病、汚毒、腐爛、若しくは共の他の直接なる實生活に關するものに ざる也。 十九世紀就中其の後半期は、嚴密なる意義に於て所謂現實主義のあらずば、もはや世人は何等の深甚なる興味を感する能はざりし 時代なりしこと言ふまでもなし。十八世紀の末より十九世紀の初に也。 現實主義や寫實主義や、必ずしも眼前主義又は近眼主義として一 現はれたりし理想主義の大傾向と相對して、十九世紀後半期の現實 的傾向は、げに史上にはて類を見ざりし強大なる力もて其の勢を概に排斥ぜらるべきものにあらす。生活問題の根柢又は實際生活の 逞うしたりとも謂ふべきか。就會全體の風周は、彼の淸淨純潔にし根據を明瞭に意識し、又は之れを靈活に寫出だすは、むしろ自然に して必然なる思想の成行きにして、斯くの如き直接なる世態人情を て壯大富麗なる人生の光明的方面には何等深大なる興味を覺えずし 看過せる理想主義は、空なる理想主義、根據なき理想主義、堅固な て、主として直接なる眼前の實生活其もの、直接なる眼前の生活問 題、此の生活間題に關係せる世態人情等、すべて普通尋常なる事柄る地盤を缺ける砂上の理想主義なるべきは勿論なり。ひと〈に古典 式なる文藝が、吾人に深大なる感興を與ふる能はざる所以は、主と のみに感興を覺えたり。斯くのごとき全體の風尚の變化は、固より 政治上の動搖、實際的生活の困難、瓧會間題の勃興、民主々義の擴して其等の文藝が現實なる世態人情に觸る又所少きに基かずんばあ 張、階級思想の打破、下層瓧會の眞相の暴露等、種々なる原因に基らず。されど、現實主義や寫實主義やは、直接にして眼前なる世態 けるものあらん。十九世紀の後半期に於ては、世の趣味又は好尚と人情の上に、光輝ある理想的生活を建設するをもて其の本來職とす

7. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

1 イ 0 いひたいのは、我等の自然主義的現實感に裏書きしたものは、我等の要求、之に加へられる壓迫の感は、我等にリアフィズすることの の多少の科學的知識であるといふことである。或る論者のいった如出來ぬ氣持ではない。我々の一方に於いて自意識を棄てることが出 、我等にして普通學の敎育を受けて居なかったならば、自然主義來ないのに、他方に於いて我々の自己の見方印ち物質的な見方は、 的の思想に動かされることは少なかったであらう。肉欲是非の間題我々自身をも量的に外的に生理的に感覺的に見んとする。かくて我 にしても我等の科學的知識が少なからず關係して居ることは爭はれ等は類型的の自己を意識させられる。自意識が強くて自己の弱いと まいと思ふ。 いふ様な矛盾に苦〕められる。我等は自動的なる自己を意識せすし しかし若し我等にして全然科學者となり了して、萬事を冷かに知て、受動的なる自己を意識する。進んで走る自己を意識せずして、 的にながめることが出來れば、我等は極めて安きを得たであらう。 引きずられて行く自己を意識する。天に翔らんとする自己を意識せ うらみ 誠に「眞を求めて眞を得たり」、又た何の憾とする所もない、哀とずして、地に繋がれたる自己を意識する。我の自由を意識せすし する所もない。何の現實暴露の悲哀ぞ、何の懷疑ぞ、何の不安ぞ。 て、我の運命を意識する。昔は自己を意識して居たものは、獅子や 然も事實は決してかくの如き簡單なる歸結を與へない。 虎ばかりであったかも知れない。今は兎や鼠も自己を意識せずに居 られない樣になった。 上の如き妝態を現代の現實の一面として見れば、我々は何も現實 更に又自然主義文學の材料となる、印ち自然主義にいふ所の現實に滿足して居るわけではない。現實を樂に享受して居るわけではな の主なるものは、現下の個人や瓧會の生活从態、及びこれから起っ い。いやでも應でも無理に現實におしつけられて居る形である。見 てくる様々の就會問題といふ様なものであらう。これは主として西ざらんとしても見ず、聽かざらんとしても聽かざるを得ないのであ 洋の瓧會の事實であるけれども、日本人殊に我等靑年にとりては、 る。そして自然主義者の現實の説の根據は主としてここにあるので 決して無關係の問題ではない。よし百歩を讓って此等を對岸の火災ないかと思ふ。自然主義の強味は主としてこの方面に置かれて居 と位に見ても、しかし我等の興味を引くことは、日本の古い歴史のる。 比でないことは事實である。しかしながら自分は此等について陳べ 例へばここに或る文學者が人生の眞を描く爲に肉欲を描いたとす るだけの知識は固より有して居らない。唯自分は一方に於て個人の る。若しこれが唯單に上に止まるならば、何もこれが特に人生に觸 自意識が段々強くなると共に、又之を壓迫する様な事實が又段々増れた文學であるといふ理由とはならない。かかる小説の意義が認め して來る、近代の人間の状態は、自分にとって決して風馬牛のものられるのは、肉欲といふことが現實の生活にとって眞面目な問題と ではないと思って居る。 なり得る時、又はなり得る様に描かれた場合に限るのではないか。 西洋近代の思潮は自由的、個人的なのにあるときいた。これはさかくいふは人生に觸れたといふことが、いつの世いかなる人の人生 うであらうと思ふ。しかしながら瓧會の組織が愈よ緊密になり、生にも觸れるといふ意味に限らないことを明かにしたい爲である。自 存競爭が益よ激甚となるに從って、個人が與〈られた自由を振ふ餘然主義の文學が人生に觸れるといふ言も、委しくは現代の多數の人 地が乏しくなって、個人と社會との衝突矛盾といふ様なものが生じの人生に觸れるといふべきであると思ふ。 て來て居ることも、亦事實でなければならぬ。個人の自意識、自由 かくの如き意味に於いて、自然主義にいふ現實の眞とは、與へら かけ

8. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

を愛好するー・ーーる一方、自己の據ってもって立つべき堅實な足場を體驗して來たが、この體驗は、肯定的なものを求めずにはいられ や、媒介となるべき文化が排されるに傾く結果ー・ーそれは立場の固ぬだけには十分であったのだ。そして、この激動する時代の混亂と 定と傅統の保守に對して極度の反感をもっーーー大方はいたずらな焦分裂とを、もし眞實に體驗したならば、心の底からそれが求められ てくるのではなかろうか。それを求めずにすんでいる者は、誠實と 燥的飛躍を繰りかえすにすぎないと言ってよいからである。 あまりに大づかみな概括で恐縮だが、われわれは時として、多少良心をすでに失いきっているか、混亂と分裂のうちに新しい刺戟を の抽象化の危險をおかしても、あえてこのような大づかみによって見るだけで、それが何處へみちびくかを深く思いみす、それの悲劇 根本的な線を取り出すことが必要なのだ。とりわけて、白を白と性にまだ十分につかまれるにいたっていない故と言うべきである。 多くの作家の作品が、この時代のいかにも深刻らしい事象を描い し、黒を黒として、禪のものはに、カイゼルのものはカイゼルに て、しかも結局單なる風俗畫や、眞實の解放感や高揚を件わない單 返すために、それが現在においては要請される。 たくま 病んでいるのはわれわれの生命感であり、そのために、生の充實なる僞惡文學風のものにとどまっているとすれば、それは彼の逞し さをも、時代と人間の眞實に肉迫していることをも示すものではな と高揚が求められながら、むしろ逆の結果が出てくるのではないか く、單に荒した無良心、無紳經を、時代の荒發した流れに流され という最初の豫想は、どうやら不幸にも正しかったようである。こ のものを、もっと健康な、肯定的方向に轉じさせることが求められているにすぎないことを示すのみである。人間への深い愛情、より 美しい人間性の實現をねがう祈りにして彼のうちに存在するなら、 そこに肯定的なものが求められて來なければならぬ筈である。それ それにしても、健康ーー肯定的ーーどうにも歡迎されぬ、感じの わるい言葉だ。現代のような時代には、それこそ健康にすぎて、ななくして、なんの逞しさ、眞實への肉迫であろうか。人間的な力、 にか僞善的な匂いさえはなって見える。また、あくまで無限なるべ人間的な眞實追求とは、人間性へのこの深い愛情と別のところに求 き生の可能性を、狹い、何の變哲もない領域に閉じこめる懸念があめられるものではあるまい。 しかし、まさに人間の實存が、ニヒリズムに歸着すべきものでは る。僞善的なものに特に敏感であるとともに、可能性の誘惑に對し てはまた特に惹かれやすい文學者が、これを嫌惡するのには、ちよなかったのか。私自身、どのようにも生を意義づけえない悲しみを うど條件がそろっている。この嫌惡を解きほぐすことが、この小文もっていはしなかったか。もう一度しかし、生が盲目的であればあ るだけ、それは盲目的に肯定され、愛されることを求めているのだ の結びでなければならない。 肯定的態度ーーそれは結構、いや、それでは結構にすぎる。先ずと言おう。そして、そこに肯定的なものが見出されると否とを問わ は現在は、そういうことの可能な時代ではない。古典主義はもはやず、この肯定の願いに發した彼の探求は、そこに成立をする彼の作 品は、もっと深くわれわれの胸をうつものとなり、より多くの力と 昔がたり、現代はもっと深刻な、危機の、頽と分裂と不協和音の 命時代、沒落と轉換と革命の時代だ、と言うのであろう。それはわか眞實とを獲得するにちがいないのである。しかも、ひとたび肯定的 なものを求めるとき、ひとはいたるところにそれを見出すことがで っている。誠實をもち、人間性を大切に考えてきたかぎり、誰がこ きるのではなかろうか。もちろん、現代のような時代に、それが困 の時代にそれを痛感せずに來られたか。私がそれを痛感し、それに 2 傷つくことに十分だったとは言わない。しかし、私も私なりにそれ難であることは、わかっている。むしろ、どのようにこの現實を見

9. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

たゆみない自家の要求を載せて、漸く他力感恩の生涯にまで入らんある。その價値は間はざれ、その美醜は論ぜざれ、その善惡は分た 8 おとした。我等は之に追隨することが出來なかった。 ざれ、兎にも角にもこれが人間現在の實状ではないか、現實ではな いかといふのが、自然主義者の振り回はす鐵棒であった。しかもこ 四 の鐵棒の打撃力の強いことは、いかにも認めざるを得ない。ただ我 この時に當って自分の氣持は大分自然主義的になって居た。自然等はどうしても、この鐵棒にたたきすゑらるべき運命より脱するこ 主義の小説が興味を引きだしたのもこの頃である。自然主義の小説とが出來ぬか、又脱しようとする努力さへも、叱らるべく罵らるべ のあるものは、自分の思想や感情に近いものを表現して居た點に於きものであるかは、自ら別間題に屬する。 て、たしかに自分達を引きつけた。自分は固より口マンチシズムの 自然主義者のモットーは眞である。要するに眞を求めて眞に從ふ 渇仰者であった如き意味に於て、自然主義の渇仰者ではなかった、 といふのである。自然人生の眞を發見して、之を描寫するに眞に忠 もと 又固より鼓吹者でも何でもない。唯いや / \ ながらも自然主義的ななる筆を以てするといふのが、自然主義の文學ならば、眞を發見し る思想感情を經驗したといふ意味に於て、自然主義の實行者とはい て眞實なる生活をするといふのが、自然主義的實行であらう。唯一 へる。固より世間普通にいふ自然主義の實行者の意味でないことは言にかく考ふれば、固より間然する所もない、問題の起り様もな 斷わっておく。世の迂遠なる學者が、權威ある者の如き容して、十分い。 なる洞察も同情もなく、自然主義を攻撃した言説の如きは、自分も しかしながらここに問ふべきことは、眞とは何ぞやといふことで 亦片腹痛く思った。さりながら自然主義的の思想は到底自分を滿足ある。卒然としてかく間うても、それは、善とは何ぞや、美とは何 ぜしむるものではない、之に對する不滿足の感は次第に高まって來ぞやといふと同じく容易に答へられざる間題である。島村抱月氏の た。自分は今自然主義の實行者といふ位置から、自然主義の批評者「文藝上の自然主義」といふ論文の中には、理想といひ現實といふ といふ態度にかはって來たことは、自ら欺くことなくしていひ得るのは、要するに第二義のことである。第一義なるは即ち眞であると と思ふ。 説かれて居る。しかしその議論だけでは、第一義の眞と現實といふ 自然主義の議論は多くは讀まない。しかしながら自然主義を一個ものが、如何なる關係を有して居るかは十分に明かでない。第一義 的の眞といふのが超絶的な本體的なもので、現實とはそれの屬性と の主張として、之を維持しようとする時、どれだけの理論的特色と か現象とかいふものであるかといへば、必しもさうでない。然らば現 根據とがあるであらうかといふことについては、自分は前から多く の疑なきを得なかった。自然主義が猛然として主張せられたのは、 實と第一義の眞とは同一物であるかといへば、必しも亦さうではな い。この事については已に前にも一度いったことがあるから大抵に ただその消極的方面もしくは破壞的方面にあったのは、自然主義そ のものの性質に基づくことと思ふ。されば形の整へられた自然主義しておくが、要するに自分の考では、第一義の眞といふものは、自 論となると、勢自然主義その儘よりは、幾分か理想的分子の加はっ然主義論者の多く重きを置く所でない。假に第一義の眞を認めると たものとなる姿がある。要するに自然主義の強味は、その理論的根しても、その力説する所は主として現實の方である。よし又百歩を 據にあるのではない。否かくの如きものは殆ど論理的遊戲として排讓って自然主義論者の力説する所が、第一義の眞にあるとしても、 これは自然主義なるものの特色をなす所以のものではない。第一義 せられて居るくらゐである。その強味は主として今の人の現實感に

10. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

てあらたな存在の意義をとりもどすかにみえた。横光利一の「鳥」 のやうな錯覺におちいってゐた。積極性は、みづからを徹底的に訊 「機械」等一聯の作品は、私小説の形式をとってゐる。だが、これ 問することによって、ほろびゆく無能者を哀悼するところにあっ らの作品にあらはれる「私」は、分裂する自己をかんじ、心理と行た。自己封鎖の必然として、他我や瓧會との關聯のなかに現實をみ 動の分離にとら〈られてゐる。そこには、おのれの實態を傍観する つめることができなかったゆゑに、いきほひ、あらゆる性格、環 もうひと 0 の自己が芽生えてゐる。かやうな自我の分裂は、認識」境、行爲の一さ」は、人間のさけられぬ運命のごとく、それを打開 0 ばんにた」する不安にねざしてゐた。この不安は、西歐におけるするみちは、なんらみあたらず、」たづらに自己苛責 0 深淵に溺れ 近代心理主義の劃期的な跋扈をうながし、横光利一の「機械」時代ゆくだけであ 0 た。ここにお」て、すでに自己形成の發展はとざさ を終 0 た 0 ろ、高見順、太宰治などによる自意識過剩の苦惱の表現れてゐる。眞實〈の飢ゑも、現實 0 ありのままをのそく積極性もみ ともな 0 た。しかし、おほくの私小説論は、これらの自意識過剩ゃあたらな」。そして、そのやうな、私小説の反對側とおもはれてゐ 認識 0 不安にさそはれた劃期的な自己解體の反映を注目しな」かにた、自己認識の不安にとらはれた近代の心理主義は、おのれの分裂 みえる。それには、理由があった。たと〈ば、當時の文壇において、 の實體をたしかめることによって、自己や行爲の基準とはなにかを 横光の「機械」や、伊藤整その他による新心理主義の主張は、傅來追求した。 の私小説の對岸にあるとかんが〈てゐたからである。それは、どち それゆゑに、心理主義には既存の概念や理性にたいするはげしい らの側も對立的に主張した。しかし、ともに、自我の確認といふこ疑惑と反抗が、眞實〈の飢ゑを表明した。しかし、それは、いはゆ とにねざしてゐたことは考〈ず、自我そのものの歴史的様態の差に る近代の自我の出發においてもとめた誠實とはおもむきを異にして よ 0 て分類した。當時」はれた私小説の「私」と」〈ども、すでにゐる。と、」ふのは、自然主義初期における眞實探究の意志は、現 個性 0 衰弱をまねき、それゆゑに、周圍から身を離すると」ふ自實の虚僞にた」する憤怒から出發し、「私」の精紳と觀察は、普遍 己封鎖におちいらねばならなか 0 た。積極的な自我の主張や確認で的なものであることを確認しながらたちあが 0 たのだ。心理主義に はなく、しひて、自己を封鎖することによ 0 て辛うじてみづからをおける分裂する自我は、自己自身さ〈も信じきれず、自己をみるも 防禦ぜんとする消極的なかま〈であったことは、當時の人氣をとら うひとつの自己を設定しながら、あらゆるものの虚業を反證したの 〈た葛西善藏や嘉村礒多の私小説をよめば明瞭である。ただそこに である。それゆゑに、ともに眞實にたいする飢ゑがやどされてゐる る は、まだ、出口をふさがれた自我の意志の苦惱があった。痛烈な自 け がごとくにみえて、自然主義出發における自我は、自己を確信し、 己〈の凝視は、自己改造の無能をなげくためであるかにみえた。し欺瞞の底から眞實を發掘しようと」ふ自發性にふる〈てゐたが、心 かも、自己 0 苦惱は、他我や」 0 ばん習俗 = たえず衝突し、矛盾す理主義時代には、むしろ一般的なるも 0 を疑惑し、否定し、そ 0 虚 0 る 0 とにた」する嘆きであ 0 た。あり 0 ままを描く意志も、人間修妄を證明しようと企た。 0 まりは眞實が虚妄である 0 とを眞理と 業のかま〈もそこには殘ってゐた。だが、それは、現實を曝露し、 ながめたのである。そして、自己自身は、個性の解體された人間一 眞實をさぐるはげし」意慾からはみはなされてゐた。なぜならば自般とかはらぬものとして分解されたのだ。「私」の私たるほんらい 己はすでに、他我や、」 0 ばん瓧會の全體に通ずるといふ自負をすの獨自性はおろか、それにかかはるあらゆる人間關係、環境、傳統 て、むしろ、おのれの性格、環境を自己のみに課された獨自のものさ〈も、なんら個人の獨自性をかたちづくるものとはならぬゃうに