る人の著述を評す。先生の迷惑實に想ふべしと雖も、居士が既に前 の著述を非難するが如きあらば、僣越の罪決して免る又を得べから ずと。世間公衆はち批評家が著作を賞揚すると刺衝するとに隨ひ段に説明したるが如く、天下に批評家あらずんば文學終に滅せん。 て悅を異にし、若し賞揚讃美する時は日く、此の批評家は彼の著述先生にして文學の滅亡を憂ふるとせんか、居士をして郭隗の故轍を 家と平生の交際水魚啻ならず故に共賞揚讃美するも亦宜なりと。又踐ましむるは素より當然の事なりとす。且や先生博識にして冾聞な 日く此の批評家は彼の著述家より暗に依賴を受けたり隱に苞苴を收る、居士が自ら小説を編まざるに叨りに高著を批判するを以て、僣 めたり、故に其の言ふ所信ずるに足る可らずと。今又批評家他人の越なりとするが如きことあらざるし。先生も夙に識らる、が如 批評家と小説家とは自ら其職務を異にするものなり。看よ「廱 著作を刺衝して論難する時は日く、彼の批評家は著述家に舊怨あく、 コウレイ」「慈オンソン」の徒文章に巧みなりと雖も敢て詩賦に長 、著述者の技倆を妬む者なり、故に共批評や斯の如く不公平にし て殘酷なるも宜ならずやと。嗚呼世の中に職業多しと雖も、批評家じたるにあらず。然かも古哲の大作を評して其當を得たり。「波ズ リット」「區レイク」の輩文章尚且巧妙ならず、然かも謝クスピャ の如き困難にして難澁なる職業多く之れあるべからず。半峯居士及 ーの院本を細評して大に喝采を博したり。其他「自 = フレー」「加 び居士が同社の諸兄はこの業の斯の如く困難にして且っ難澁なるを あに アフィル」「傅クウ = ンシー」等専ら批評の事に從ひ、文壇に大名 識って而して自ら當らむとす、豈勇ならずと謂はんや、豈醉狂なら を博したるもの一々枚擧に遑あらず。彼の六二連、水魚連、見連等 ずと謂はんや。 半峯居士は今や批評の手始めとして、彼の博學洽聞風流洒落多才の連中は近時演劇の見巧者にして、自笑、其笑の風を慕ひ能く梨園 多藝を以て有名なる春の屋おぼろ先生が嘗て物せられし、當世書生子弟の技藝を品評す。然れどもこれらの輩自ら紅粉を粧ひ、舞臺に 氣質を批判せんとす。而して居士が之を批判するに當りてや豫め大登り、菊五然、團十乎として舞蹈を演ずる能はず。由是觀之、批評 方の諸君子とおぼろ先生とに御斷を申さざる可らざることあり。大者著述家と自ら區域を異にすること昭乎として明らかならずや。以 方の諸君子よ、半峯居士はおぼろ先生と莫逆刎頸の交あるものに候上の議論はおぼろ先生の博識卓見なる、夙に認識せらる、や必せり ぞや。半峯居士はおぼろ先生と莫逆刎頸の交あれども、然れども居と雖も、世間著述者の多き或は誤見を懷くもの無きを保せざれば、 士はいまだ先生より書生氣質を讃美し給はれといふ依賴を受けたる繁を厭はずして敍し侍りぬ。之を要するに、批評の事は頗る重大に 事なく、又暗《裏に先生居士の家を訪ふて苞苴を懷中より出し居士して、而しておぼろ先生の著作亦尋常一様のものにあらす。故に居 に給はりたる事もなし。されば半峰居士は平生おぼろ先生の交誼を士が初陣に之を批評せんと欲するは所謂蠅に燈心にして、少しく持 て餘すことなきを保證する能はずと雖も、居士は我が文學の爲め進 辱ふするに拘はらず、單刀直入の法を以て書生氣質を批評し、揚 ぐ・〈きは揚げ抑ふ。〈きを抑〈て、批評家の職務を完うせんと欲するんで堅を侵さんと欲す。大方諸君子竝におぼろ先生にして居士の僣 なり。おぼろ先生よ、居士は敢て先生の御依賴を受けす、甚だ餘計越を尤むる莫くんば幸甚なり。 のお世話に類すれども、我文學の爲めに先生の高著書生氣質を借用 して妄評を試みんと欲するなり。惟みるに居士は敢て批評家を以て 大方の諸君子とおぼろ先生とは、能く居士の前段に開陳したる言 自ら居るものにあらずして、而して先生は小説家を以て自ら任ずる の人なり。批評家を以て自ら居らざるの人、小説家を以て自ら任ずを容れ、居士をして獨立不羈の批評を爲すを得せしめ給ふ〈けれ
藝の批評家に對する彼れの要求を端的に表白したものである。彼れことが、徒らに人生のため、社會のため、又は人類のためといふやう 2 な高遠の理想を抱いてそれに對するよりも、遙かに多く、遙かに深 は批評家に對して更に次のやうに述べてゐる。 く、遙かに細かくそれを味ひ得るからである。この意味で藝術派の 「眞に批評家たるの名に値する批評家は、選擇好惡の情を捨てた 解剖家でなくてはならない。彼れは與〈られた藝術の産物に對し批評家は、人生派のそれよりも、遙かに多く人生の熱愛者である。 一切の文藝批評家は、所詮この意味における人生の熱愛者でなけ て、單に藝術的價値を評價する人でなければならぬ。あらゆる物 に向って開放された彼れの理解力に、しばらく自己の個性を沒しればならぬ。一個の理想主義的人生觀を唯一の標準として作品に對 て、善良な作物を發見し、賞讃するだけの餘裕を存し、たとひ一する人生派の批評よりも、私は如上の立場から、むしろ一切の理想 と成心とを捨て乂、自己の印象、べイタアの所謂「深く感動する能 個人としてそれを好まぬまでも、批判者としてそれを味ひ得るも 力」を唯一の標準として、與へられた作品に對する藝術派の批評 のでなければならぬ。」 に、より多く左し、そしてそれを高調しようとするものである。 又、日く ( 大正七年五月「文章世界」 ) 「彼れが藝術家である以上は、彼れの好むがまゝに物を理解し、 視察し、思考するの自由を與ふべきである。理想主義者を批判す るためには、吾々は充分に詩に對する同情を呼びおこし、然る後 彼れの夢幻の、陳套であること、平凡であることなどを指證すべ きである。もし自然主義者を批評するならば、宜しく實人生にお ける眞理が、彼れの作に描かれたる眞理と相違するや否やを明示 すべきである。」 モウ・ハッサンの以上の言説はすなはち、「彼れに對してはすべて の時期、すべての型、すべての趣味上の流派はそれ自身に於ては同 等である」といふペイタアの主張を裏書きしたものと見るべく文藝 こうけいあた の批評家に對する要求としていかにも肯綮に中る。文藝の批評家は 決して一流派一傾向にしてはならない。理想主義の作品も自然主 義の作品もその他一切の主義傾向を異にした作品は、彼れに取って いはゆる すべて同等な、ペイタアの所謂「多數の勢力を藏してゐる倉庫」で なければならぬ。この無限の倉庫を選り好みするものは、それをし ないものよりも、遙かに多く自己又は自己の生に對する要求の少な いものと云はねばならぬ。何となればその「多數の勢力を藏してゐ る倉庫」を、殘る隈なく探し求めるために、「しばらく自己の個性 ひたすら を沒し、」一切の成心を去って、一向に與へられた對象の前に立っ
に「人生と交渉する嚴肅な意味」を考える方向に出た。このころか を批判し、想や理念に需敎的敎養からきた理想主義が混入し、こ 4 和れがエマスンやワズワアスらの超絶論汎神論によって、文學論とし ら、すでにすぐれた讀書家であったから、「人生に屬する諸現象の ては詩人論や靈感論や欟察論として展開し、浪漫主義思想を培養し研究」と文學を定義する『文學一班』 ( 明治二五年刊 ) は、東西古今 の文學論を驅使して、この時代における最初の包括的な文學概論と た。しかし美文をもって文學思想を蔽い、たとえばインスピレイシ ョンをたゞ訷力、不可思議力といい、藝術家は醇粹をもって體驗すしてまとめることができた。もちろん、少からぬ矛盾や混亂や過誤 るというように、現象的に説明するにとゞまった。蘇峯の實人生的がある。逍遙理論を西鶴復興という形で實現した硯友瓧の皮相にあ 性格から、かような文學意識を根源的に究め、理論的に組織できなきたりず、スウイフトにやしなわれた性來の諷刺をもって『文學者 になる法』 ( 明治二七年刊 ) で、これを總括的に批判した。この點、 かったけれども、同時代に及ぼした感化は無視できないものがある。 これより先、逍遙の『妹と背鏡』 ( 明治二〇年 ) 、四迷の『浮雲』戲作畠より出て、鋧い眞僞の感覺と新傾向についての明敏な直覺を もった齋藤綠雨と一脈通ずるところがある。もっとも、綠雨は文學 ( 同 ) を批評して登場してきた石橋忍月こそは、専門批評家の最初と いってよかろう。忍月は、主としてドイツ文學、レッシングからア理論や問題意識の自覺を缺いていたから、嘲罵や毒舌をふるって、 リストテレスの藝術論に據って、作品の實態を批評しながら、逍遙辛辣に急所を衝く寸評にすぐれ、江戸文學の傅統と實瓧會の經驗に の主張から出て、理想主義的に轉換していったと考えられる。忍月立って、皮相な明治文化を批判するという反俗的な批評文學に出 は、「想實論』 ( 明治二三年 ) において、詩における想 ( 覿念 ) 實 ( 現て、特色を發揮する。 石橋忍月、内田不知庵は、おのずから理想主義をかざし、浪漫思潮 實 ) の調和を説きながら、内部 ( 精紳 ) の大に重きをおいて、永遠 に棹しているし、廣い意味では尾崎紅葉も、幸田露件も、この中に 不朽を考えている。小説において人物の性質と思念を重んじ、その ふくまれる。この意味で、新しい理想主義文學をふりかざして、逍 環境との關係に及ぶのも同じである。『罪過論』や『戲曲論』 ( 同 ) にはアリストテレス解釋に問題はあるにせよ、近代劇の觀念のなか遙・四迷の初期寫實主義理論に對立した第一人者は森鸛外である。 ・ヘリ・ヘティア 森鷦外は、ドイツから歸ると、獨力で評論雜誌『柵草紙」 ( 明治一一 った當時に「急轉」を重んずる新見をもちだし、これを小説に及 二年 ) を發刊して、「審美的の眼を以て、天下の文章を評論」するこ ぼした。しかし森鸛外との舞姫論爭、幽玄論爭、文使論爭におい て、しばしばその虚をつきながら、鸛外に巧みにいなされてしま とを宣言し、忍月、、山らと論爭し、いわゆる戦鬪的啓蒙をおこな った。たまたま『早稻田文學』に據る坪内逍遙が『小説三派』『梓祁 い、次第に批評から遠ざかった。 忍月と共に『女學雜誌』から出て、『國民之友』に轉じ、忍月と子』 ( 明治二四年 ) 等に歸納的實證的批評論を展開し、「シェクスピア 併稱された内田不知庵 ( 魯庵 ) は、むしろ逍遙と同じ英文學の敎養脚本評注』緖言 ( 同 ) で、「沒理想の作を理想をもて評釋する」こと から出て、逍遙理論をもって、山田美妙の『夏木立』を批評して登を戒め、「有り儘に字義、語格等を評釋して、修辭上に及ぶ」のを 場してきた ( 明治二一年 ) 。不知庵もまた詩文の感應を風姿よりは風可としたのをみて、鸛外はこれを批判し、いわゆる沒理想論爭をひ 情に重きをおき、外面の裝飾よりは内容を重んじたから、おのずかきおこし、世の注目をひいた。私は明治一一十年代は評論の時代だと ら忍月と同じような立場に立ち、柔軟に自由な批評精紳を發揮しいったが、また大小の論爭の時代でもあり、この逍鸛論爭、或いは沒 た。四迷と交り、ドストエフスキやトルストイを知って、文學の中理想論爭は七カ月にわたり四回の應酬を重ねる最大の論爭である。
文壇が過度の自由による文學の擴散を示しているかぎり、私は文學るわけではない。中村光夫・伊藤整・黐田恆存氏らの活動も、賊後 自立論を説く人びとよりも、むしろ戦時下の現實のなかで『斷腸亭批評の大きな水脈を形づくっている。なかんずく輻田恆存氏の『一 日乘』を書いていた永井荷風の心に、より多く文學者の心を感じる、匹と九十九と』から『藝術とはなにか』を經て『人間・この劇的 とだけいっておきたい。 なるもの』に至る批評活動は、近代個人主義の制約をこえた人間論 しかし、ひとつの時代は、後代から見てその盲點が見えるような・藝術論として、私小説的な文學理念の崩壞のあとに來る問題につ 思想に、本質的な時代性を與えることがある。敗戦直後におけるいての洞察にみちている。一方また左翼文藝批評の異端者花田淸輝 「近代文學」派の登場の意味もまたそこにあった。戦前の左翼蓮動氏は、心情的政治主義にたいする徹底した批判者として、日本的心 の矛盾をつぶさに體驗し、そのにがい苦澁を代償として再出發をと情倫理の崩壞したのちにくる現實にたいして、豫言的な洞察を示し げたこれらの人びとは、おのれの體驗の意味を反芻しながら、していたのである。 い文藝批評の分野を開拓したのである。そしてこれらの人びとと歩 調を合わせて、野間宏・椎名麟三氏ら新しい作家の登場をみたのでしかし戦後における現實の變化は、當然、文藝批評の動向にも變 ある。 化を與えずにはいなかった。舊秩序の破壞と、個人の權威を中軸に 現在の大學紛爭を體驗してる私の實感からすれば、「近代文學」据えた市民民主主義の確立が、時代の要調とされていた時代には、 派の思想的盲點は、はっきりと見える。また過去數年にわたって、「近代文學」派の批評理念は、時代と密着した意味を荷っていた。し 私は「近代文學」派の批判者であった。しかし、ひとつの思想が他かし近代化の動向だけによって、人間は救われうるものであろう 人の批判によって完全に空無に歸することがありうるであろうか ? か。また人間の心には、″自己を 批評は自己主張や問題意識の所産であると同時に、やはり言語によ超えたもの。〈の渇望がひそん って書かれた " 作品。である。藝術派や審美派の主張が、必ずしもではいないであろうか。さらに 伊夫 光 すぐれた批評文學たりえているとはかぎらない。中村眞一郞・永また文學表現の次元に限ってみ、攣物 - 、 ~ い 樹村 武彦・加藤周一の三氏によって書かれた『 1946 文學的考察』は、ても、 " 告白。がそのまま藝術た差 4 戦後における藝術派の第一聲であった。しかし二十年の歳月をへだりうるという根據があるであろ ら眞 きまとっている。これにたいして、平野謙氏の『島崎藤村』や荒正は、好むと好まざるとにかかわ 左中 人氏の『第二の靑春』は、その問題意識が古びているにもかかわららず、こういう問いに向かい合襯 月彦 田 ず、いまも " 言語藝術。として讀むに耐えるのである。批評の古典わねばならなかったのである。〕 年 化 = は、 0 ね = 00 ような逆説性がひそん」る = とを、私は痛感吉本隆明氏 = よる " 思想とし一「 ~ 、一、 ( 一 和進 せざるをえない。 ての戦爭體驗。の發見は、近代 ~ 物 もちろん戦後の文藝批評が「近代文學」派だけによって代表され主義によってはとらえきれない」《、 7
( 松本・水上 ) を代表とする推理小説の作風によって、あっさりと引 イ」のような作品を書くのは、夏子的耽美の世界だけには安住しえ き繼がれてしまったことに當惑しているらしいのである」 ないからであり、丹羽氏が在來の手法を變えて心理描寫ばかりの新 伊藤氏のこの言葉は、大岡昇平氏によって「大變時宜を得た指聞小説を書いているのも、つまりは自己の小説に疑問を抱いている 摘」であるとされているし、私もさきに觸れたように、その事實をからであって、批評家が漠然と考えているほど、彼らは鈍感ではな 認めはするが、やはり、それだけではない。たった二人の作家によいし鈍感である筈もない。「純」文學の危機は、彼らにも痛切に感 って、純文學が脅かされたり當惑させられたりする筈はない。根本じられている。ただ、彼らは職業意識に徹していると同時に、作家 は、依然として中間小説の勢力であり、小 説一般の中間小説化にあとしての自己に過去の實績による自信も持っているのだ。そして大 る。 衆文學の繁榮というが、大衆作家と同じように彼らの文學も繁榮し それが證據に、「純」文學作家であり、かつ中間小説の流行作家ている事實を、批評家は忘れてはならないだろう。 である前記の昭和十年代作家は、一向に脅威も感じていなければ、 純文學の衰弱についても、深い關心を示してはいないではないか。 要するに批評家たちの大衆文學論は、私には空轉としか思われな 推理小説プ 1 ムに足をとられることもなく、着實に自分の。ヘースで い。どこにそれほど大騷ぎするほどの大衆文學の傑作があるのか。 仕事をしている。彼らはかって第一次戦後派が激しく彼らを非難し 純文學の世界が偏狹なのは、なにも昨日や今日はじまったことでは ながら擡頭したときにも、そうであったように、推理小説がどれほない。 ど繁榮しようとも平然たるものである。 しかし、去ぎのような大岡氏の批判も、私には承諾できない。 それは彼らが純文學作家だからではなく、中間小説の流行作家と 「批評家も言うことがなくなると、飯の食い上げである。昨年來大 して、いまや不動の位置を占めているからだ。そして、批評家が彼衆小説と純文學の問題で、原稿料は相當批評家の懷に人っているは らに深い關心をもたない理由も實はここにある。 ずである。二人の役者を仕立てて喧嘩させておけば、お話はいくら すなわち批評家たちが問題としている問題に、彼らがなんの關心 でも作れる。無論火のないところに煙は立てられないが、問題は批 も示さないから、批評家としても彼らに興味を抱けないのだ。ただ評家の賣文の必要によって、不必要に大きくなっていることを忘れ 十年代作家では、作家でもあり批評家でもある伊藤整と高見順だけてはならない」 ( 「常識的文學論」 ) が、こういう問題に關心を抱いている。彼らとしては、「そういう 平野氏たちが、大衆文學論でどれほど原稿料をかせいだか私は知 問題は批評家に任せておけ。自分たちは着實に自分たちの仕事であらないが、なにも賣文の必要から、問題を大きくしたとは思われな る小説を書くだけだ」という心境である。つまり、彼らは自分の小 い。平野氏自身、「群像」 ( 昭一二六・十二月號 ) の座談會で、「大岡昇 の説念というものを信じきっていて懷疑していない。この事實が、 平がぼくの純文學變質説を評論家の經濟問題という點からカンぐっ 評批評家には彼らが今日の作家でないような印象を與えるのだ。 ているのなどは、やはり枝葉末節の論だといわざるを得ませんね」 しかし、それでは彼らは本當に自己の小説または小説觀念に懷疑といっているが、そうであろう。 私は、純文學と大衆文學を對立的に論する意味は認めないが、文 をもっていないのだろうか。彼らはそんなに鈍感なのか、という問 3 題が出てくる。恐らくはそうではあるまい。舟橋氏が「エネルギ學の變質は肯定するのである。あえていえば、「純」文學の中間
森鸛外は、ドイ〉 0 觀念論美學である ( ~ ト , 0 美學を「最も生 0 謂ふ無意識 0 精靈は、客體 0 實體か、その全世界を造りし究竟 完備したもの」と考えて」たから、イギリ = の經驗論に據 0 て歸納の目的は何ぞ。彼れは何 0 爲にとて意識を造りしぞ」と切り 0 む 的方法を用」、「記實」批評を採り、敢て評價に及ばな」坪内逍遙と、鸛外は ( ~ ト一の無意識哲學を讀めと、問題をそらして」 る。印ち鷓外は外遊三部作を以て浪漫主義文學を先導しながら、そ の啓蒙的相對主義をもどかしく考え、この經驗法則の中にも價値判 の文學論で理想主義的傾向をやしないはしても、必しも浪漫主義文 斷の基準があり、現に逍遙の説にも評價のモティフの現れているこ とを、 ( ~ トの觀念と對峙させてしめし、「談理」批評を明か學を理論的にす、めようとはしていない。ここに北熨谷を中心と にした。これが逍遙の『小説一一一派』に對する鸛外の『逍遙子の諸評する雜誌『文學界』がその問題に答えて、「理想」の内容を充實 語』 ( 明治一一四年 ) と題する批判であり、逍遙も暗に 0 れをみとめてし、浪漫主義文學を發展させるとともに、透谷 0 死後、鸛外 0 側 」たし、鸛外も充分承知して」ることであ 0 た。逍遙がこの記實批面、藝術主義的傾向、ある」は唯美主義的傾向を、上田柳村、平 評をク・ ( = 評釋に具體化するにあた 0 て、ふた、び自己 0 立場を田禿木がうけ繼ぎ、鸛外ともどもに、發展させる 0 とにな 0 た。 明かにし、「沒理想」とか「理想」とかの概念を多義的に使用して 五 いる機會をとらえて、外はまったく根本的に相容れない文學觀念 これより先、大西祝は『批評論』 ( 明治一一一年 ) で批評と制作との のあることを明かにするために、多角的に論議をすすめるという形 相互關係から批評の一般的意義や任務を説き、『方今思想界の要務』 で展開したのである。 逍論爭は、初め記實批評と談理批評との對立を軸として、逍遙 ( 明治一三年 ) と同じく東西の思想、保守と進歩とを統合する立場か らカント的な批判主義をとなえていた。その纎細な美的感性から が「沒理想」を「沒却理想」すなわち客觀性に近い意味で使ったの に對し、鸛外は「無理想」の意味に解して論議を 0 くしたが、外『悲哀の快感』 ( 明治 = 四年 ) 『詩歌論』 ( 明治 = 五年 ) では、文學意識 を心理學的に分析し、心理的契機だけではなく、瓧會的契機にふ の眞意は理想主義の立場からする文學論をしめすにあった。だか ら、逍遙が「理想」に「思想」或」は「世界觀」の意味をこめるれ、心理學的美學の實質をみせて」た。さらにキリ = ト敎的内觀か ら個人の自覺が世界の目的や理想に一致する形而上學を用意し、 と、外は藝術上の美の理念の意味に限定してみせたりする。また シ = イク = ピアの戲曲から問題が起 0 たので、小説や抒情詩などの村透谷の生命哲學を豫想させるところがあ 0 た。だから、透谷や島 ジ ~ , ~ の特質や可能性に及んで」 0 た。こういうふうに文學の興崎藤村の共感を呼び、その思想の生長に役だ 0 たのである。 入 北村透谷は、德冨蘇峯、山路愛山、巖本善治らの「活用論者」や 味ある根本問題にわたっているが故に、今日の術語に言いかえれ 儒敎主義者から、「汎論的唯心論的傾向」を批難され、「世を瓮せ ば、現代にも通ずるものがある。 設しかし鸛外が ( ~ ト , 美學によって説こうとした理想主義文學ず」「空の空なる事業」である文學を弄ぶ超然派、高踏派として攻 品 の核心は何か、論理を貫き、問題を深化して」るが、肝腎の「理撃された。透谷は『人生に相渉るとは何の謂ぞ』 ( 明治一一六年 ) を書 作 いて、功利主義・實際主義・出世主義を斥け、文學者の使命を靈性 想」は、「抽象によりて生じ、模型に從ひてあらはる乂古理想家 コンクレエト 的生命の要求から「天地の限りなきミステリを目掛けて撃つ」もの 5 の類想にあらずして、結象して生じ、無意識の邊より躍り出づる 天地想なり」と美學的に説くだけである。逍遙が「先として、形而上的な意味を明かにした。そこで、彼の文學覿の中心 個想なり、小 ュニヴァース
ぬともいわれ、さらに、その後は實感を否定した「メタフィジック 批評」の提唱となっていった。 私は「メタフィジック批評」なるものは、こと小説の批評に關す る限り嚴密な意味では樹立しないと考えていたし、げんにその提唱 者たちの批評も決して眞の意味での「メタフィジック批評」ではな かった。そして私自身は、「實感を固執しなければならぬが、實感 に居坐ることは危險だ」という言葉を、たびたび念頭に浮かべなが ら、「なお最初の一行を書き」、ものを書いてきた。それは、「實感 に居坐る危險」を感じながら、「實感を固執して」きたことである。 戦後きわめて早い一時期、すなわち昭和二十一年の秋から冬にか これからしばらく私が現代文學の諸問題や諸現象について書くに けて、文學者の「實感」というものについて、ささやかな論爭が行 も、私には「實感への固執」という手しかない。私は自分が實感に なわれたことがあった。當時、私はその論爭に參加する餘地もなか ったし、またこの問題にたいする關心を表明する機會も持たなかっ居坐ることを警戒しながら、實感を固執してゆこうと思う。それが たが、以後十五年來この問題は、いつも私の心の片隅にひっかかっ題名の理由である。 ていて離れることがなかったのである。 「文學者はあくまで自己の實感を固執しなければならぬ。然しまた 今日こと新しく純文學と大衆文學の間題がむし返されている。大 自己の實感に居坐ることは危險だ」と、小田切秀雄がいったのにた衆文學が好況になり純文學では生活できないような時期になると、 いして、佐々木基一が、「一見至極理の通った言葉である」といい かならず持ち上ってくる間題で、一向新鮮味がないのであるが、今 つつも、「果してそうであろうか」と疑問を呈したのである。そし度の場合は、平野謙が、「純文學は歴史的な概念で、現在一般に考 えられているような確乎不動のものではない」と發言したことが波 て、次ぎのように述べている。 「恐らく、原稿用紙を前にして、最初の一筆を下す時間、僕らはこ紋を投じたのである。氏はその理由を、「純文學と大衆文學」 ( 「群像」 の至極理の通った言葉が、實は僕らにとって容易ならぬ困難を課す昭三六・十二月號 ) の座談會で、詳細に述べて自己の概念規定を表明 している。 ものであることを經驗するであろう。この言葉を念頭に浮かべなが ら、然もなお最初の一行でも書き下ぜる人間が果して存在するかど 純文學のその歴史的變質は、平野氏の言葉によるとしても、現實 には「純」文學といえば、私小説乃至は私小説的作品ということに 轉うか僕は疑問に思う」 ( 「實感文學論」 ) のそののち、この「實感」の問題は非常に否定的な批判のなかに置どうしてもなる。實際に多く文學賞を受けたり、批評家に問題にさ 評かれた。人間はみなすべて異なる星まわりや禀質をもっているのだれる小説のほとんどが私小説または私小説的作品である。そして、 から、個人の實感が、そのものとして普遍性をもつものではないと批評家の賞讃する大衆文學もまた何らかの意味において、私小説か 心境小説的作品が多い。しかし、實際に大衆文學の大半を占めるの もいわれた。また、しかし實感をはなれて文學はないのだから、イ 3 ンテリゲンチャとしての實感を普遍的原理にまで高めなければならはそういう作品ではないのである。批評家は山本周五郞や海音寺潮 批評家の空轉
踐的部門である制作と並んで、兩輪の役をするという認識は、明治 以後になって、文學の獨立のジャンルとして存立してからである。 第一に評論家と呼べる専門家が存在するにいたって、文學評論は獨 立のジャンルとして、ひとり立ちする。住々にして批評家は作品の 價値の判斷者または解説者と考えられやすいが、理論と制作との關 係を文學作品という具體的なものに密着させて考えるがためにおか す錯誤である。制作の鑑賞・批評は理論の應用であり、文學評論は 理論として文學を討議する文學という意味で、今日では自立してい 文學評論が獨立のジャンルとして形成され、評論家が専門家とし て存在できるためには、印刷術の發逹による新聞雜誌が生誕し、近 文學評論は近代以前から、すなわち古くから、事實として存在し代ジャアナリズムが發生するという條件がとゝのわなければなるま い。近代ジャアナリズムは、一方では日々の要求に應ずる小説とい ていたにちがいない。すでに萬葉集に批評意識があったと説くもの がある。歌論、物語論、能樂論、俳論などといったふうに、日本文う散文形態を近代的にとゝのえて、獨立のジャンルとして大きく飛 學の中で、光彩を放っている評論も稀ではない。しかし、これを文躍させるとともに、他方では文學そのものの本質を考究し、作品の 學評論としてみると、形態上は斷片的で、家傅的であり、内容上は品評ばかりではなく、文學そのものを嚮導するという評論の形態を 生みだした。近代ジャアナリズムが明治以後に盛に興って、近代小 實作者の體驗に出發した藝論の性格をもっていて、理論性に缺けた 制作上の覺え書や心構えから、修業の道に及ぶといったものであ説、近代評論が確立し、活に働くようになるのは、近代個人主義 の發生によって生れる學問の自由、研究の自由と併せ考えてみるな る。たとえ作家體驗に出發したとしても、自己の體驗を分析して、 理論化し、普遍的な思想への道をひらき、文學そのものの本質を考らば、きわめて明白なことである。このことは西歐の文學について えたり、各ジャンルの内部法則をつきとめて、文學全體の中での位みても同じである。 critic という言葉はもともと literary critic を意味しているよ 置を考えるというふうに全體との關聯を考える、或いは人間の生の 門 うに、評論は文學評論を根源的なものとしている。しかし、この場 中で、または歴史や瓧會の中で意義をつきとめる、こうして文學そ 家 のものを論議する文學という自覺があって、初めて文學評論は成立合にも、文學評論は文學そのものの意義を考える文學として、あく までも藝術の範圍にとゞまる審美論的なものと、文學が生そのもの する。 解 文學論が名人逹人の個人的體驗談であり、感覺的な言葉で、象徴の表現であり、現代文明の表現であるために、人生評論、文明評論 作 的に、一息に語るが、知的な言葉で論理をつくして語ることをしなにわたるものとに、分けることができる。しかも文學評論が人生批 評や文明批評にわたるところに近代批評の特色があり、このために 8 い間は、文學評論は制作に從屬し、作家が自らの祕儀を傅授すると 3 いう形で存續している。文學の理論的部門として、文學評論が、實審美論的批評がとかく閑却されることにもなりかねない。そこで、 作品解説・作家人門 現代文藝評論小史 , ーー 瀨沼茂 士夛
178 されなければならない。言葉を換へて云へば民衆藝術とは、特に民 衆の中に認めらるべき諸價値・ーー貴族階級、上流階級等には認めら れざる、又は認められることの甚だ少なきーーを高調し力説するこ とによって、或ひはそれらの價値を所有しながら、それを意識しな い民衆にそれを意識せしめ、或ひは既に意識してゐる民衆に更に一 層それを鼓舞する如き藝術であらねばならぬ。この意味で民衆藝術 は、民衆のためであると共に民衆によって創造されたものであらね ばならぬ。民衆藝術は決してトルストイ一流の一般的藝術ではな 民衆藝術の考察はこの意味で、先づ「民衆」そのものゝ考察から 始めるを至當とする。 ( 大正六年八月「早稻田文學」 ) 文藝批評の標準又は態度といふことが、事新しく最近文壇の一つ の問題となったが、この間題の解決は、要するに人生派の批評と藝 術派の批評との是非論に外ならない。 今更いふまでもなく文藝批評の標準を、鑑賞家乃至批評家の主観 以外の外的な境地に求めるやうなフォーマリズムの批評は、今日で はすでに跡を絶った。「人は皆自己を標準として萬事を判斷する。 人は自己の外に何等の標準をも持たない。」と云ったアナトール・ フフンスの言葉はたしかに眞理である。今日の文藝批評においても 亦この「自己」の外に何等の標準もないのである。從って今日の文 藝批評は、その意義もその價値も大部分はその批評家の「自己」の 如何にか乂ってゐるといふことになる。言葉を換へていへば、その 批計家の懷抱する人生そのもの又如何にか乂ってゐるといふこと になる。人生派の批評といひ、藝術派の批評といふもの、所詮はこ の人生観の相違に基いた文藝批評である。 さて人生派の批評とはいかなるものか、藝術派の批評とはいかな るものか、私は今この二つの文藝批計の特質と價値とをいさゝか檢 攷して見ようと思ふ。 人生派の批評と藝術派の批評 けん
て日々に進み、能く世の中の進歩に件うて敢て後れざる所以のもの は、批評家その職分を盡して怠らず、揚ぐ可きを揚げ抑ふ可きを抑 〈、毫も假借する所なきが爲めなり。東洋の文學逡巡退歩の色を現 はし萎靡として振はざる所以のものは、批評家其職分を怠り、徒に 詔諛の文字を臚列して其責を塞ぐが爲めなり。嗚呼批評家の責任重 うして大ならず哉。且っ彼の文學なるものは實學と異にして、世の 中の進歩と共に上進すべきものにあらず。文學は情を基とし、實學 は道理を基とす。道理は經驗を積んで益よ發逹する、情は道理の爲 に制せられ經驗の爲めに遮られ、彼其發逹を遲鈍にするものなり。 故に西洋に在りては、「蒲マル」、「鳥アジル」再び出でず、支那にあ りても、韓柳歐蘇李杜の匹復た見るを得べからざるなり。「慈オン・ ノン」嘗て「美ルトン」を疑うて思らく、詩頗る巧みなりと雖も、 後世に生れて以て、先輩の大作に則るを得たるが故に蒲、烏と匹敵 すべからずと。「廬 0 ウレイ」大に之を駁し、共の後世實驗の世に 生れ、而かも天賦の詩才を存するが故に「美ルトン」の技倆彌較 著なりとい〈り。斯の如く文學は社會蒙昧の時に當りては隆盛を極 め、其進歩に隨ひて漸く衰頽に赴くの傾向あるものなれば、須らく 支那人の批評は讃美を主とし、西洋人の批評は刺衝を専らとす。 之を維持して甚だしく衰頽せしめざるの方便なきを得す。これ批評 されば支那人の著述は具眼者の評語を得て九鼎大呂より重しと爲す家の因て起る所以にして、批評の已むを得ざる所以なり。 も、西洋人の著述は批評者の刺衝に勝へずして空しく蠧魚の餌食と つらっ 批評家の責任斯の如くそれ重く、批評の事斯の如くそれ大なり。 爲るもの尠からず。而して今熟ら考ふるに支那人の讃美主義は往 ~ 故に批評家を以て任ずるものは共心を公明にして批評の事に從はざ 流れて詔諛となるのみならず、毫も批評の實效を現はさず、其略なる可らず。然り而して批評家の批評 0 事に從事するに當りてや、其 評るものは常に艶麗の文字を竝べて著者を賞揚したるに過ぎずして、 うが 困難辛酸は決して尠々に非ず。批評家は實に著者の述作を批評して 0 共詳なる者は人の識易からざる妙所を穿ち、人の看るに易からざる共怨恨を買ふのみならず、身躬ら公衆の爲めに批評せられて其罵詈 氣要點を露はすに止り、所謂「 0 , メ , タリー」印ち註釋に過ぎざる悪口の目的とならざる・〈からず。著者は批評家の公明正大の筆を揮 書なり。批評の要は切磋に在り、批評の要は琢磨に在り、西洋の批評ふて己れの著作を非難するを看て色を作して日く、彼れ何人ぞ敢て 常家屡ば其尖鋧なる毛穎を弄して少壯の著述家をして綿 ~ 絶ゆるの期乃公の大著を非難するや、彼れ能く我が著作を非難するを得ば、必 7 なき怨恨を懷かしむるが如き甚だ酷なるに似たりと雖も、能く批評ずや我が著作に優る可き一大著述を爲すを得ん、請ふ刮目して其技 家の職分を盡したるものと謂 0 可し。惟みるに西洋の文學駸とし倆を觀る可きなり、彼れ若し自ら著作する 0 技倆なきに叨りに他人 高田半峯 當世書生氣質の批評