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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

目 ・ : 高田瑞 明治の文藝評論 : ・ 大正期の文壇風聞記など谷澤永一 報淡交 昭和前期の文藝評論 : : : 長谷川 : 田光一 戰後の文藝批評 京羽 東音 月 題字・谷崎潤一郞 における自然主義の全盛期に相當した。漱石は自然派には屬さなか った。だから漱石は、自然派にとって一つの目の上の瘤であった。 瘤はもう一つあった。他ならぬ鸛外である。近代日本における文學 高田瑞穗評論活動に、最初にして最大の基盤を置いたものが、鸛外と逍遙と の間に續けられたいわゆる「沒理想論爭」であったことは周知の通 明治時代の歴史的意義は、今日、ある實感をともなって回想されりである。これは二十年代最大の論戦であった。その外が一度文 つつある。なぜなら、維新の改革から四十餘年に及ぶ目まぐるしい壇から遠ざかり、再度文壇に異常な創造力をもって復歸したのは、 近代化の展開が、その目まぐるしさを倍增して、第二次大戰の終結明治四十二年の『スパル』創刊とともにであったが、それを外に から二十餘年にわたる今日までに、もう一度繰り返されているから可能にした有力な一契機は、急騰する漱石の文名の與えた刺激に他 である。 ならなかった。 「日本國中何所を見渡したって、輝いてる斷面は一寸四方も無いぢ「學間の自由研究と藝術の自由とを妨げる國は榮える筈がない。」 ゃないか。悉く暗黑だ。」 ( 「文藝の主義」 ) 漱石が「それから」の主人公のロを通してこう訴えたのは、明治鸛外がこう記したのは、明治四十四年のことであった。 四十二年のことであった。明治日本の、日露戦後に到逹した近代國この『現代文藝評論集』に收録された明治の文藝評論は、高田半 家體制の一應の整備に對する、これはまことに痛烈な批判であっ峯の「當世書生氣質の批評」から小宮豐隆の「『それから』を讀む」 た。そしてこのことばは、戦後の日本が到逹した文化國家ないし平までである。試みに、漱石を一つの覗き眼鏡として、それらを通覽 和國家の外裝を破碎するに足る今日的生命を保有している。だからしてみることとする。そのためには、時の流れをあべこべにするの こそ、明治の批判精祁に漱石という存在が強い影響力を持ち得たのが便宜である。 であった。しかし、そういう漱石の文壇登場は、明治三十八年、 小宮豐隆が、漱石に最も近く位置した門下の一人であったことは、 「猫」を「ホトトギス」に連載し始めて後のことである。したがっ改めて言うまでもない。三篇の自然主義論をここに採られた安倍能 て、漱石の影響力は、四十年代にその浸透を始めた。ちょうど文壇成も、漱石門に屬し、朝日文藝欄にしばしば評論を掲げた。その自 明治の文藝評論 泉

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乃至茂索、三郞の今日に至るまで、その名作佳作を網羅し、五 4 の該當者がなかったのか、三宅花圃が採りあげられたのみである。 小島德彌著『文壇百話』 ( 大正十三年三月・新秋出版瓧 ) は、坪内逍十音順によって索引に便せしめ、日本近代文學を探ぐる者の辭 書をも勤めてゐる積りである、一つの興味ある文獻として敢へ 遙・偏地櫻痴以下全百章、最も組織立った恰好の編成で、終り近く て後世の文學史家の座右に供へよう。 に「新進作家の花形横光利一」が登場する。「横光利一の評判のい又 ことは素睛しいもの」で、「今では横光利一を讃めることが一種の流と述べており、まさにその「後世の文學史家」が一大集團を成し 行になってゐる」が、一方、「川端康成がいっか利一の小説のことをて、吉田精一編『近代名作モデル事典』 ( 昭和三十五年一月。至文堂 ) いのかよくないのか一向分らないといったが、これは嘘のない言を作っているのを見得たら、さぞや快心の笑みを浮べたことであろ ( 關西大學助敎授 ) 振だと思ふ」、と傳えているあたり、昭和文壇の橫光處遇。ハターンとう。 思い合わせて興味深い。新秋出版瓧文藝部編『文壇出世物語』 ( 大 正十三年四月 , 新秋出版瓧 ) は、裝幀も組版も編成もよく似た姉妹篇 である。松枝保二著『數奇の人今昔の人』 ( 大正十三年六月・報知新聞 瓧出版部 ) に採り上げられた文士は、「靜座の先生木下尚江」にとど 泉 長谷川 まる。 鳥谷部陽太郞著『大正畸人傅』 ( 大正十四年十二月・三土瓧 ) は、珍昭和四年「改造」の懸賞論文として世に送られた宮本顯治の「『敗 らしく横組みの本で、山路愛山・大町桂月・夏目漱石らと共に、江北』の文學」 ( 八月號 ) と、小林秀雄の「樣々なる意匠」 ( 九月號 ) 渡狄嶺。向軍治・廢姓外骨・宮崎虎之助・時枝誠之というような人は、大正末期から昭和の初期にかけての嘱然たる文壇の文學現象 逹を取り上げている點に、その見識がうかがえる。尚、この著者にを、對極からとらえた。文學が常に前時代の傷痕をさすりながら、 ついては、鳥谷部陽之助『鳥谷部春汀、江渡狄嶺をめぐる人々』別の傷口の痛みを體驗してゆくものとするならば、「『敗北』の文學」 ( 昭和四十四年一月・津輕書房 ) に記述がある。 と「様々なる意匠」は、前時代の傷痕そのものの痛みを擴大したと 相馬健作著『文壇太平記』 ( 大正十五年十月・萬生閣 ) は「文壇出世いえる。癒着した傷口を、再び切り擴げることで、幾つかの新たな 物語」「處女作物語」など各種各様の短章を列べ、「文士住所録」と痛點が、疼痛に歪んだ苦悶を文壇にもたらした。 更に「出版法」條文を附録としているのは流石に御時勢である。ど「芥川龍之介氏の文學の『最後の言葉』は、瓧會生活における人間 ちらかと言えば、左派の文士を扱っている量が多い。「文士と新造の幸輻への絶望感であった。あらゆる厭世主義者のやうに、氏は『人 語」では、憫愰或いは憧憬 ( 樗牛 ) 、情熱 ( 透谷 ) などを並べたの間に負はされた永遠の世界苦』に結論を發見せずには居られなかっ ち、「宇野浩二の『ことほど左様に』などにいたっては、最早沙汰た。それは決して新しい思想ではない。新しい感情ではない。それ の限りである」、と結んでいる。糸井武雄著『小説とそのモデは『自己』〈の絶望をもって、就會全般〈の絶望におきか〈る小プ ル』 ( 大正十五年十二月・章華一ä) は、その「はしがき」に、 ルジョアジーの致命的論理に發してゐる。かくて芥川氏は氏の生理 本書收むる處、上は春廼家おぼろ、紅葉、魯庵より寬、正雄的、階級的規定から生れる苦惱を人類永遠の苦惱におきか〈る。」 昭和前期の文藝評論

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半」「文壇暗流誌」「當今の女流作家」「後繼文壇の顏觸」「文壇槍玉にあげている。 戦記」といったものがあって、今日の文藝雜誌を賑わす目次文壇樂屋雀編著・在田稠畫伯裝並畫『文壇失敗談』 ( 「シクジリ叢 書」第二編・大正五年三月・大日本新聞學會出版部 ) は、全百三十二章、 の項目の大抵が既にここに考えつくされている。 こうした傾向は、『文章倶樂部』の場合にはより顯著となり、文目次は人名の頭文字によってアルファベットで分類し、更に御丁寧 壇ゴシップが榮え、編集にも逸話風聞記的要素が增加して行った。にも卷末に人名索引十七頁を付したところなど、昨今の文獻目録も この風潮が或る程度高まると、欽にはそれらを集めた際物的な小顏負けするほどの周到ぶりである。しかし、内容は至って無邪氣な 册子がちらほらと現われる。もとより一般的には重んずべき内容でもの多く、たとえば次の如し。 早大敎授の田中王堂に綽名あり、順德院と云ふ。無暗と小さ はないが、逆に卑俗な次元で當時の雰圍氣を傳えていて、資料とし ては見捨て難い。關良一の「近代日本文壇史研究資料書目私稿」正なズボンを穿いて講堂に出て來るはよいが、其のズボンが一見 モ、ヒキにソックリであった。印ち「モ、ヒキや古きのきばの 續 ( 『國文學』昭和三十九年十月・四十年二月 ) に採られた諸文獻の、謂 わばその一段下に位置する大正期文壇ゴシップ雜書群のうち、管見しのぶにも」とあって順德院の綽名生るとは、どうやら當時の に入った何點かを紹介してみたい。この時期この種類の書物の通弊學生加藤朝鳥あたりの製造らしい。 として、奧付の刊記に僞りや誤りが多いので、渉獵不十分の點は、生田蝶介著『女百態』 ( 大正五年四月・須原啓興社 ) には「妖婦と しての新しき女」の章があり、田村俊子らが扱われている。 博雅の士の御高敎に俟つ。 日本文章學院編述『新文章問答』 ( 大正一一年六月・新潮瓧 ) は、生安成貞雄著『文壇與太話』 ( 大正五年八月・東雲堂書店 ) は、「生活と 田長江編『文學新語小辭典』 ( 大正二年十月・新潮瓧 ) と對をなす入藝術叢書」の第八編なのだが、カバーにはこの叢書の性格説明とし 門書だが、第三部「人」の項は、「尾崎紅葉の作風及び共代表作て、「平民的、社會的なる哲學、科學、文藝の最新潮を網羅せる叢 を問ふ」というような設問應答形式で、五十人以上の作家評論家書」と刷り込んであって苦笑を誘う。自序において既に著者は、「茅 を、十行内外でなかなか器用に論斷している。王春嶺著『廿八原華山先生は、門下の小田某君の著述『人間生活史』を養子とし」、 人集附文豪生立ちの記』 ( 大正四年十一月・文山堂書店 ) は、大町桂月序・と皮肉っている程で、この本の壓卷は、「中澤臨川氏を論ず」であろ 小栗風葉跋、奧付の著者名は中村武羅夫、探訪記者の眼と經驗を生う。臨川が大正四年三月末の日曜、大阪毎日新聞の文藝附録に一頁 かした人物寸評集で、「色の白い、眼の紳經質な、好く言ふと物靜かを擧げて自分の論文として載せた「強き佛蘭西を見よ」が、一年前 な、惡く云ふと話をしても何をしても煮え切らぬゃうな人」、こうにアメリカの『フォ一フム』誌に出たものの抄譯であり、しかも既に いう筆法で絡んでゆく場合が多い。高山辰三著最文壇與太物語』その年の『新日本』に安成貞雄が抄譯しておいたあとだ、という暴 ( 大正四年十一一月・牧民社 ) には、大杉榮以下計十人の序と牧民瓧主人露である。爲藤五郞編『大正新立志傳』 ( 大正十年六月・大日本雄辯會 ) の跋とがついており、書名から體裁から、この種の本の極め付きとには、「漁師の子に生れ牛店の下足番までした文士、加能作次郞君」 も言うべきか。「近松秋江となめくじと女」、「中澤臨川を文壇よりの項が見える。續いて、澤田撫松著『大正婦人立志傳』 ( 大正十一年 葬れ」等々の約七十章、「現在の文壇諸大家の人格や乃至生活」を八月・大日本雄辯會講談瓧 ) も出ているが、大正期女流作家には恰好 3

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338 ギルド生活の實體が文學作品の實體となっているために、作品は 常に、身邊雜記であり、身の上話であり、人物の説明拔きが必要 な禮儀となっている。 ( 略 ) そしてこういう風に文壇生活そのもの が倫理的思想的修練であり文壇は道場であるため、作品は告白文 以上の肉づけを不要とする結果、肉づけの作家谷崎潤一郞は東京 に住む事ができなかった。永井荷風は文壇人と交際するに耐えな かった。生活の論理の思考者志賀直哉は文壇の精的背骨となら ことごと ねばならなかった。悉く必然である。」 なるほど、今日もまだ「人物の説明找き」で「ギルド内の生活」 を身邊雜記風に書いている作家もいないではない。しかし、それは きわめて少數であるばかりでなく、ほとんど現代の文學として問題 とされなくなっている。今日の文學は一般的にそういった傾向を揚 棄して新たな變貌を示している。それは批評家たちの私小説否定論 が、この國の作家たち、ことに若い世代の新作家に徹底した結果で はない。一言でいえば、それを作品内容にしようにも、その「ギル ド生活」なるものが生活の實體として無くなったからにほかならな い。今日の若い作家たちにも、私小説の書き手たちは必ずしも少く ない。いわゆる第一二の新人の作品には私小説がかなり多い。しか 文壇というものは無くなったーーそれが今年の「文壇」回顧とし て私に最も痛切に感じられた印象である。伊藤整のいわゆる逃亡奴し、彼らの私小説はかってのような「文壇」的生活を描いたもので はなくなっている。「個人の不確立に始まる文壇ギルドの特殊性」 隷と假面紳士によって構成された文壇なる特殊部落は、完全にジャ 1 ナリズムの中に崩壞したといえよう。伊藤氏の「小説の方法」 が彼らの生活の中には無いからである。 今日、私たちは文壇という言葉を便宜上なお使用しているが、そ は、いまから僅か八年以前に書かれた名著であるが、つぎのような 一節は、もはや現代の「文壇」には該當しなくなっているであろう。れはすでに在來の「文壇」を意味してはいない。いま私たちが漠然 「私小説の變態性は、たしかに、一面では日本の文藝享受の仕方と文壇なる言葉であらわしているのはジャーナリズムのうちの文學 關係方面であるにすぎない。いわば文壇に代ってジャ 1 ナリズム の特異性によって生れたとは言わぬまでも強められた。それほど が、私たちの「生活の實體」となってきたのである。かってはジャ 文藝批評は日本ではきびしいのである。作品よりも文壇というギ 1 ナリズムに對して、「文壇」の權威が支配權を有したことがあっ ルドの中での生活態度が批計され、作家は絶えずギルドの中での た。大衆作家である村松梢風の作品が、自分たちと同じ創作欄に發 生き方に注意すると共に、その生き方の告白と辯護を作品の内容 とせざるを得ないのである。そしてこのたがいに知り合っている表されるならば、われわれは執筆を拒否すると「中央公論」にたい 十返肇 「文壇」崩壞論

5. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

して芥川龍之介たちが抗議した昔にさかのぼるまでもなく、また川 も、さらに文學者たろうとしているいわゆる文學靑年にとっても、 端康成が「文壇の垣」を論じて石坂洋次郞の作品は文壇小説の勘を深い感動を與えなくな 0 たということである。大衆文學的な娯樂性 はずれていると述べた二十年前はさておき、最近まではジャーナリ がないのは勿論であるが、純文學らしい藝術的な感銘を私たちが最 ズムとは別個に文壇なるものが微弱ながら存在していたのは確か近のどの文壇小説から受けたであろうか。 だ。たとえば、戦後、一連の戦記文學がジャ 1 ナリズムに流行した むろん、毎月發表されるおびただしい小説の中には幾つかの佳篇 り、「流れる星は生きている」とか、「今宵妻となりぬ」などという もあれば問題作もある。しかし、「佳篇」といい、「問題作」という ような小説がスト・セ一フーとして喧傅されたり映畫化もされたのも、きわめて低い基準での相對的價値であ「て、眞に私たちの胸 が、これらの作品は「文壇」に認められず、その作家たちも「文壇」 に強く激しい感動や衝撃を與えたかと問うならば否と答えざるを得 人には編成されなかった。文藝雜誌もしたがってこの作家たちに執ないであろう。純文學と大衆文學の隔離が次第に問題とならなくな 筆を依賴しなかった。 、直木賞作家も芥川賞作家も、あまり區別がっかなくなったの しかし、現在では、その作品が文學として高く評價されなくては、たんに中間小説の隆昌というような現象によるのではなく、純 も、題材の關係で週刊雜誌のトピックとなったり、映畫化されたり 文學が、かってのような生命の根源にふれる感動も、感嘆してやま すると、すぐに文藝雜誌が執筆を依賴し、作者は「小説家」としてないほどの技巧上の巧緻さも、實驗の冒險性も失ってしま 0 たから ジャーナリズムに待遇され、「文壇作家」の一員として、いわゆる である。大衆文學のもっ娯樂性に代りうるだけの藝術性が認められ 玄人と瓧會的には同じ圈内の住人となる。もはやそれにたいして抗ないのでは、純文學としての存在の意味がまったくないというほか 議する玄人作家はいない。なぜならば抗議す・〈き地盤としての文壇はない。これでは、たとえ未熟稚拙でも、「太陽の季節」の方がま なるものがなくなったからだ。 だマシとなるのは當然であろう。 「群像」十一月號の「純文學・文壇の必要について」で河上徹太郞 それに、以前は「文壇事情」に興味をもっところの特定の讀者を は「文壇」の必要を説いて、あまり素人になり過ぎてゐる」現在の のみ對象として、いわば文壇の機關雜誌であれば目的を果しえた文 「文壇」に警告を發しているが、それはつまりは「文壇」がなくな藝雜誌が、今日では多くの讀者を必要とするために、ほかの「ス・ った事實を語っているにほかなるまい。 コミ = ニケーションと同じように、ジャ 1 ナリスティックな編集を このような玄人による「文壇」なる特殊瓧會が喪失した理由はさ しなければならなくなったので、小説作品を商品的に考察せざるを まざまに擧げられるであろう。誰しもいうようにジ ~ ーナリズムの得なくな 0 た。文壇事情〈の興味でささえられているような身邊雜 がじよう 壞商業主義が強い支配力を作家たちにもつようになったことがその第 きロー月 1 き 、説は、ここでも、いわば最後の牙城においても歡迎されなくな 一には違いないが、私がここで特にあげたいのは、いわゆる文壇小 ったことが、文壇の存在理由を奪ったとみてよいであろう。 説が今日の藝術としての魅力を失ったことである。魅力を失ったと は、伊藤整のいうように、それが文壇事情を知らない一般讀者に興 味をもたれなくなったということではない。一般讀者からみれば玄 人である文藝批評家にとっても、また同じ職業の作家たちにとって 文壇を封建的瓧會と見なし、情實的な徒弟制度の支配する特殊部 落として排撃した日高六郞の文壇論を、私や荒正人が反駁したのは

6. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

つい一一一年ほど以前である。ここでは、まず「文壇」というものにたが、私小説を文學界の片隅〈押しやることになった。つまり文壇生 3 」する觀念の大きい相違があ 0 たのだ。私や荒氏が「文壇」という活を題材にしたような小説では一般的な興味を誘わな」から商品性 を失い、作家の方でも書く氣になれなくなった。作家は外部に題材 名稱で擁護したのは、いわば文壇的ジャーナリズムの世界であり、 日高氏が攻撃したのは古い概念による文壇であ 0 て、當時すでにそを求めなければならず、したが 0 てこれまでの文學者のように文壇 れはもう殆ど實在していなかったとさえいえよう。その時期がちょ生活を生活の全部としていたのでは作家としての職業を續行できな くなった。すくなくとも「文壇」への關心が生活の中で占める比率 うどジャ 1 ナリズムにおける川崎長太郞プームに當っていたのは興 味ふかい事實である。人物の説明拔き私小説家川崎長太郞が、ジ ~ は減少してきた。當然、「文壇的交友」は少くなり、文壇的共感も ーナリズムで、ささやかな流行作家となったのは、私小説がかって薄弱にな「て來ざるを得なかったのである。文壇というものが生活 のような精紳を睹けた告白の迫力を失い、家庭團欒小説に墮した中の基盤としての意義を失い、ジ ~ ーナリズムがそれに取って代 0 て で、獨身者の自由な行動を、獨身者らしく自由に表現したからであきた。 更に、文壇を崩壞せしめた瓧會的事情は、文學が瓧會人に觸れて 乍家の立場」 ( 「新潮」 った。最近この川崎長太郞が書い、た「私小説イ 十月號 ) によれば尾崎一雄は、「家庭大事と言う建前から、思っていゆく機關として、活字による方法以外のものが增加してきたことが ることをずばりすばりと書くことが出來ぬ」といったそうである擧げられるであろう。ラジオもテレビも映畫も、一種の文學表現の が、妻子に遠慮して思ったことが書けないで書かれた私小説がどう場となった。すくなくとも文學者がその思想を發表しうる機關とな して私たちに深い感動を與える力をもちえようか。現在の小説の魅ったといいうる。文學者はか 0 てない多くの人を對象にして、も 力のなさは、作家がこういう精紳で書」ているところにあり、これのを考えなければならなくな 0 た。か 0 ては「彼らのみに通じる合 では私小説の意義は完全にないわけだ。私小説の衰弱と文壇の崩壞言葉と隱語」で、「わけのわからぬもの」を書いてさえいればよか った文學者にとって、それは大きい變化であった。したがって、ギ は決して無關係ではない。私小説を支えてきたものは、「文壇」で ルド内部での倫理感で生きてはいられなくなった。 あった。 日高六郞は、文壇を論じて、文學者には、「私生活になみはすれ 文壇という特殊瓧會は、伊藤整も指摘しているように最初から た行動があること」を擧げ「家庭をやぶり妻女を放擲することがゆ 「一般瓧會とつながったならば壞滅する筈のものだった」のである。 るされている」と述べたが、大正時代なら知らず、戰後そのような 「彼等、社會にとってのもっとも危險な分子が、外と交際を持た ない小さな集團を作って、好き勝手なことを、彼等のみに通じる「特權」は文學者にゆるされていない。文學者もまた一般人とひと しく大衆によって裁かれる。いや或いはその虚名ゆえに、また彼ら 合言葉と隱語で、わけのわからないものを書いて發表しているこ とは、瓧會そのものにとって安全であ 0 た。彼等はその破倫な、無の書くものが公的機關に發表されるために、ある場合は一般人以上 にきびしい批判の對象にさらされなければならない。政治家の公然 謀な生活を記録して發表したが、それは社會全體に屆かなかった」 たる惡德にくらべて文學者が、いかに手きびしく批判されること と伊藤氏は書いているが、最近では文學とマス・コミ シ「 , との關係が緊密になり、文學者の存在が社會化され、その書か。しかも政治家の惡德は、「ねに國民の犧牲の上にきずかれる。 しかし、文學者のそれは、あくまで個人の私生活上の出來事であ くものが「瓧會全體に屆く」ものとならねばならなくなったこと

7. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

議を挾むものが有らう筈は無いが、この擧は囲ち當時の自然派の戲到底免れぬ必然性で、自然派と云ふ獨活の大木の髓には幾多の蟲が 曲の取るに足らぬことを無言の中に示したので有るから、文壇には蝕ひ込んで、たゞ一夜の嵐に無殘な最後を遂げる許りに成ってゐ 少からぬ物議を釀した。當時の新聞雜誌の所論を一々拔萃するのはる。 たふ 面倒で有るから、一般の傾向を概するに止めて置かう。印ち今回 自然主義が仆れるとすれば獨逸文學の將來奈何なると云ふこい の決議は堂々と自然主義を排斥する勇氣が無い老耄共が冷汗をかき が問題になる。然らば當時の文學者は此問題に關して奈何云ふ考を ながら漸っと見付け出した遁路だといって、自然主義を標榜した靑持って居るかと云ふことを調べて見るのも面白からう。シルレル紀 年文士の憤激は非常なものである。又自然派の作物にも古今の傑作念賞の授與後、新派の憤激や舊派の攻撃などで、文界は廱の如くに に比べて恥かしからぬ戲曲が有ると論じ種々の作家を薦めたが、ハ 亂れて、果てしが無く、この先き奈何なるだらうと世人は手に汗を握 ウブトマンとズーデルマンの呼聲が一番高かった。 って雲行を眺めて居る所を目敏く見て取った文壇の小才子クルト・ 併し當時自然派に反對した刊行物も固より有ったのであるが、 グロッテヰツツ氏 ( 千八百六十六年生 ) が佛國のシャル。ハンチェーの 「ドレースデン」新聞は滑稽雜誌に出て居た詩を引證して、自然主成功を猿眞似して「獨逸文學の將來に關する調査」 (Enqete übe 義を罵倒した。共詩の大意は斯うである。 die Zukunft der dentschen Litteratur 1892. ) と云ふものを作った。 「或る男が芝居から我家へ歸る途中、深い考へ事が有ると見え、 印ち當時の文壇の有らゆる知名の士から獨逸文學の將來に關する意 ばろ 頭を揮り / 、或る街へ遣って來た所が、襤褸を纒うた丈の高い女見を徴して種々の分類を行ひ、集めて一卷と成したものである。共分 ごみだめ まみ が、熊手を以て塵芥溜を掘返して居る。日に燒け塵に塗れた女の類を見ると嫌やに氣取った。へダンチッシュ學者風だ。大別して三と うる いぶ 面には、なほ有りし世の美はしい面影を留めて居る。男は訝かりなす日く一、舊派、一「立沖、三、知沖。新派を分って七となす わたし っ乂近よって『お前さんは誰だ』と問ふと、老女の云ふは『妾は曰く一、知い第、一「沖和寫實派、三、印沖、四、印知沖、五、 詩歌の成れの果、今こそ憐れな从をして居りますけれど昔は斯様知い沖、六、禛印か琿學派、七、ニ 1 q 沖拠知理想派、是れ也。 とこしよ、、 つい和かついが。かかか遖御沁 0 御担、常世の美此の植物標本帳の馬糞紙の間に挾まれた文學者の數は亡慮七十四 をこの世の人に傅〈ると云ふ、粹筋も御座んしたよ。わに御人、好い面の皮だ。所がまだ可笑しいのは、此の猿の人眞似がシャ 沁にも世にも棄てらわて、塵の中から詩の寶を掘い云ふ間 ル。ハンチェーの如き成功を得なかったのみならず、其問に答へなか しい境涯愍れと思召せ。』」 った人の内には、シュピールハーゲン、一フーべ、オシップ・シュー 自然主義の眞髓を僅々十數行の詩に言ひ表はした所は實に無限の ビン ( 婦人 ) 、フォンターネ、エプネル・エッシェン・ハハ ( 婦人 ) 、 フェルヂナント・フォン・ザールなどと云ふ大詩人が有るかと思へ 味が有る。併しこれとても到底全盛を極めて居る自然派に反抗する たと の 軍歌では無くて、寧ろ其全勝に對する敗者の哀歌たるに過ぎぬ。例ば、リヒャルト・グレルリンクと云ふ文名も無き辯護士が三頁も書 き埋めて居る。而して思慮ある詩人批評家たちは冷淡な態度で旨く 轆令文壇の老將からは見離されても、自然主義は兎に角一世を風靡し て、向ふ所敵無き有様。 問を免れて、而も眞面目臭い答案を差出して、どうか落第させて下 しかしなが 併乍ら支那人も言ってる通り物窮まれば必す變ずで、自然主義のされと言はぬ許り。 7 9 全盛は即ち局直鶤換の機を藏して居る。これは人間の心理作用上 此の細長いおつな本を開いて見るのも睡氣醒しになることは調 めざと

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それゆゑ 不自然であると云って攻撃爲たのである。夫故に各自異れる主張を塾といふが至當であって、「美術評論」の市野虎溪氏の説を假り 基礎として新名目を掲ぐるやうに爲るのが正當である。岩野泡鳴氏て云へば、む画新派又はカメリオン派とでも云ふべきものである。 の説の當否は別問題として、氏は自家の説と他の自然主義の人々の世間は存外寬大なものである。月毎に變化し、推移して、何が本意 意見と非常に異る點を發見するに至りて、自然主義なる名目の下に本領やら殆ど捕捉し難い彼の派の漫言に對し、要領を得ぬながら深 いさぎよ 玉石同架せらるるを屑しとせず、自ら「刹那主義」を標榜しよう く咎めもせず、自然派の論は奇妙なものだ位に默過してゐる。一般 しらじら としてゐる。這は主義を重んじ、面目を重んじ、自家の個性の威嚴に研究心が衰へてゐるのである。吾人は彼等が何時までも白々しい を意識する者の正に取るべき道である。此點より見て、泡鳴氏は吾態度を採って、世を瞞過してゐるならば、彼等の思想の變遷史を掲 はた 人と意見を異にするに拘らず、男子として、將文士として、賴もし げて、其の浮草的の本性を明かにして見せようと思ふ。 らいらいらくらく き勇氣と見識とを有する好漢だと思ふ。男子正に磊々落々自家の主 義に據って旗幟を鮮明にし、去就を潔よくすべきでは無いか。他の 新舊以上の標準 ひさし ぬす 庇を借り、軒下に押込んで、一時の安を偸まうとするが如きは實に しつこく 文士の大恥辱である。 我等文藝の士は自然派の云ふが如く、現實に囚はれ、現實の桎梏 に累せられて、滿足し得べき者であらうか。現實その儘の摸寫のみ 浮草的態度 を以て足れりとせば、文藝を特に要する理由は何處にかある。擲印 0 0 0 0 0 0 0 は到底原圖以上の精巧に逹し得べき 0 かい尹。寧ろ現實に面して直 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 せふけい 0 0 そしやく 今日の自然派の文士の態度の反覆常ないのは隱れもない事實であ接現實を味はふを以て捷徑とすべきだ。此の方が却て誤なき咀嚼が る。彼等には思想なり主張なりに對する操守といふもゆい毫いな出來る筈である。我等は一方に於いて現實に立脚するも、他方に於 いやしく い。舊式か何か知らんが、十年以前迄は、苟も筆を執って文壇に いては現實以上に飛躍するの文藝を要求す。これ人心本來の眞聲で しゃうくわう ふりごとげき 名を列する程の者は、何れも自家の説なり主張なりに對する操守とある。人情自然の惆祝である。この點より見て坪内博士の振事劇 ほこまし いふことを知ってゐた。論敵と矛を交へて、敗戦又敗戦、肝腦地にの如きは此の人心自然の欲求の一面に應ずる作風であると云って可 塗みるるの最後を遂ぐるまでも、自家の把持する所を守って奮鬪し いのである。今の忘恩不人情な批評家連中が此の文壇の大恩人、大 たものである。然らざれば明白に他の説に屈して、降を文門に乞ふ元勳が心血を注げる作に對して、冷淡薄情を極むる態度に對して ことを以て、寧ろ文士の眞勇と心得てゐたものである。然るに今のは、吾人義憤の戦ひを宣せねばならぬ。今までは暫く忍んで傍観し あした 自然派の諸士は旦に呉客を送って、タに越人を迎ふる賣春婦同様、 てゐたのであるが、最早や忍耐すべき時では無い。彼等忘恩者に對 すなは くら てん な昨の是とせる所を今は則ち非として、恬とし恥づることを知らぬ。 して、痛棒を食はすと共に、博士の作に對しては充分の敬意を以 まごころ 面それも誠心から前説の非なりしことを覺り、明白に公言して變説すて、愼重の紹介及び批評を試み、その眞價を世に公けにするのは我 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 るのなら恕すべきであるが、何食はぬ顔で、毎月變説して平氣でゐ我の義務であると信ずる。これ實に文壇に新舊以外別に批評の標準 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 9 るのである。それ故に彼等の説や論を眞面目に讀み眞面目に迎へるあることを示すに足る好適例を與ふるものである。 2 者こそ實に愚の至りである。彼等は自然派といふよりは寧ろい し るゐ

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り、國民の誰に迷惑をかけることでもないのに、批判は政治家の場なく、「文壇」へ出るための處世上の苦勞でしかなかったのである。 このような人生認識の倫理が一般會に通用する筈はなく、こう 合よりもきびしい 9 林房雄が前夫人の自殺によって、いかに就會的 いう倫理を現在なお信奉している人たちが、今日のジャーナリズム な非難を浴びたかは、まだ私たちの記憶になまなましいところであ から忘却されてゆくのは當然であり、文壇的倫理の敗北が、文壇の また、これまでの作家は、いわば文壇という道場で倫理的鍛錬を崩壞を促進せしめたといえよう。 受けたものの集りであった。社會的に一人の作家となる以前に無名 作家としての生活があった。「苦節十年」などという言葉がいわれ こうして徐々として崩壞の過程をたどってきた文壇の完全崩壞 たように、彼らは「文壇的雰圍氣」の中で先輩友人たちから一般世 間の道德とは違った倫理をふきこまれた。貧乏と病氣と女の苦勞をを、今年とくに私に強く痛感せしめたのは、いうまでもなく石原愼 體驗しなければ一人前の作家にはなれないというような人間修業が太郞を先頭とする一連の若い作家の社會的登場のあり方であった。 眞劍に主張され、通念とさえなっていた。 芥川賞受賞以來の石原氏のジャーナリズムにおける扱われ方は、 これまでの新作家にみないもので、ここに至って「文壇的」評價な ところが、最近ことにこの一年、そんな苦勞など全然もたぬどこ ろか、むしろそのような苦勞を輕蔑した若い人たちの作品が商品價どは完全に默殺されたがあった。それは、ちょうど映畫批評家が 値をもって登場し、現代の讀者に歡迎されて古い文壇的倫理によっどんなに大根よばわりしようとも、映畫會社が賣り出そうと思う莉 けんえん て育てられた人々が、いかに嫌厭したところでお構いなしに罷り通スターは「なんとしてでも賣り出す宣傳戦をおもわせるものであっ た。意識的に一人のスターを賣り出す、あるいは賣りものにしよう っている。文壇的倫理は完全に敗北したのである。十年も二十年も 小説を書いて苦勞してきたなどという履歴は、この現象の前にそのとするジャーナリズムの商業主義の完全な勝利であった。 しかも敗戦直後には、さきに述べたように、ジャーナリズムの宣 無能をあらわし、これまで先輩について學んできた文學概念など作 傅には乘らなかった「文壇」が今度は乘ったのである。勿論、それ 家となるには、なんらの役に立たないという事實を、今になって、 彼らは身をもって痛感しなければならなかった。 には石原氏の文學的才能という問題もあったが、すでにそれは「文 私自身は、古い文壇的雰圍氣の中で、若年の日を過ごしてきた壇」がジャーナリズムの商業主義にほとんど無抵抗であった事實を が、「貧乏と病氣と女の苦勞」をしなければ一人前の文學者となれ示している。 これまで、「文壇」はジャーナリズムによって生活しながらも、 ぬ、つまり人生がわからないというような觀念には絶對に承服でき 壞なかった。そんな苦勞はごめんだと思っていた。もっとも思いなが その商業主義には、しばしば抵抗を試みてきた。それは次第に微弱 ら、結果はしてしまったが、いまでも、そのような人生認識の様式なものとなりついに完全に無抵抗となった。このことは今日の文學 きようじん 文は信じていない。また同人雜誌を何年も苦勞してやってきたなどと者が明治大正期の作家にくらべて強靭な・ハック・ポ 1 ンをもってい いうことが、誇るにたる履歴だとは考えていない。戦前ありがたがないからだとか、文學者が墮落したためだなどとよくいわれるが、 られた苦節十年などという念は、人間をスポイルするだけであっ私には問題はそのような點にはないと思われる。明治大正期の文學 3 ジャーナリズムの機構などは現在からみればお話にならぬほど小規 た。しかも、それは、すぐれた藝術を創造するための「苦節」では

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であって、今更かれこれいふだけの餘裕も興味も持たないが、爾を 会作品に於けるがごとき一種の卑俗と嫌味とが乏しく、且つ、作歌の の諸氏、ち長田幹彦、吉井勇、久保田万太郞諸氏の作品に就いて技巧に氏の天分に具はる一種の巧緻が存してはゐるが、その内容の は、この機會を利用して、極く簡單に予の見るところを語って置き空疎にして、その態度の浮華なる、到底「遊蕩文學」の範圍を出で たいと思ふ。 ない。これは餘談であるが、予は人ごとながら、いい年齡をして、 長田幹彦の作品は、氏が始めて文壇に紹介せられた當時のものこ「紅燈行」だとか、「柳橋竹枝」だとか、「芳町哀歌」だとかいふや さすが そ、遉に純眞なる藝術的感激の産物たることを示したものもある うな、たわいもない、脂肪ざかりの少年でも云ひさうなことが、い つまでもよく云ってゐられるものだと思ふ。 が、爾後氏が文壇の流行兒として一般讀書界の人氣を博するに至っ てよりのものは、殆んどそのすべてが賣文工匠の手になった贋造藝 最後に久保田万太郞氏に就いて、一言を附け加へる。氏の作品は 術たるを思はすものばかりであって、近松氏の作品とともに、わが この種の作品中にあって、比較的粉膩の厭ふべき匂ひが乏しく、且 はいだっ 文壇に於ける典型的な「遊蕩文學」である。從って氏の作品も、まっ、色氣と衒氣との紛々を擺脱しえたところはあるが、大體に於 きはい た近松氏のそれに於けるが如く、單に實在の形式にのみ跪拜する幼て、矢張「遊蕩文學」の失を多分に備へてゐる。殊に氏の作品のあ 稚なセンチメンタリズムと、生命の外容にのみ憧憬する劣等なロマ るものに至っては、如何なる點から見るも殆んど無意味に近いもの きんてん ンチシズムとの所産であって、到底高等な藝術批評の享受に均霑さ があって、その製作衝動の果して那邊に存するやが疑はれる場合も るべき性質のものではない。殊に低級讀者の至大な喝采を博しつつある。これは作家の心境に捕捉されたる藝術的境地の不確實を語る ありといふ氏一流の纎軟柔麗なる筆致の如きも、これまた近松氏のものであって、舊「三田文學」の諸作家に通ずる一般的缺點であ ぬえ る。 慣用する俗惡下凡の鷸的技巧と相距ること五十歩百歩の代物である たとひ のを見ると、假令その間に如何なる理由が介在するにしても、氏が 獲得したる今日の文壇的地位は、兎に角奇怪事だと評するの他はな おも い。惟ふに、氏のごとき作家は最早高級なる文學界に首を突込ん 以上子の縷説するところによって、所謂「遊蕩文學」なるもの で、かれこれ藝術家並のロを利くべき柄ではあるまい。寧ろ從順が、藝術的にどれだけ無價値であり、無意義であるかは、大抵想察 に、且っ謙虚に、所謂通俗小説家等の世界に退いて、せつぜと金儲することが出來るであらう。しかも、この無價値であり、無意義で け大切と心掛けるのを得策とするであらう。予は、文壇のため、まある「遊蕩文學」が、直接間接に及ぼす悪影響に至っては、獨り善 撲た氏自身のために、敢てこれだけのことを勸告して置く。 藝術を滅ぼして、惡藝術を助長するがごとき文壇的傾向、 そがい の 「遊蕩文學」の作家の一人として、予が吉井勇氏の名を擧げたのち、優秀なる文學及び文學者の成長發逹を阻碍し、讀者の藝術的自 おそ 文は、戲曲家としての氏に對してよりも、むしろ歌人としての氏に對覺を低劣ならしめるごとき傾向を釀成する虞れがあるばかりでな く、更に他の一面に於いては、一般の世道人心に於ける頽と糜爛 してである。今更説明するまでもなく、氏の短歌は遊蕩兒の生活と とどく げんこ 感情とを、浮華な、衒誇な、纎麗な文句を以て歌ったもので、形式とを挑發して、人間の誠實なる精神生活を蠧毒し、健全なる倫理的 いは に於いては、兎に角抒情詩であらうが、内容に於いては、ただ淺薄意識を稀薄ならしめる危險がすくなくない。況んやかかる功利的見 な感傷と憂悶とがあるだけである。尤も氏の短歌には、前掲兩氏の解は那邊に墮するにぜよ、予は予の約束する藝術の理想よりして、 ふんち