眞 - みる会図書館


検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集
455件見つかりました。

1. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

3Z6 性への懷疑をいくども吐露しつづけた。 、しきりに私小説の形式にあこがれてゐるのではないか。 「僕はこの頃何か意見を述べるとして、自己に印した言ひ方より もしあらたなる自我の形成、たとへてい〈ば、孤立的自我意識の ほかにちっとも興味を覺えない。つまり、客觀的な、普遍安當的 殘滓を克服して國民的個性にたかめ、擴充しようとする獻身や努力 な意見など述べようとすると、白々しくして砂を噛むやうな氣持 が、切實な眞實性でかたむけられるならば、それは既存の自我の否 がするのだ。 ・ : 」 ( 「新潮」十六年六月號「自己に印して」 ) 定、既成の秩序と觀念〈の憎惡となってあらはれざるをえないであ このやうな上林氏の意見との心境は、おそらく氏ひとりのもので らう。 かって、といっても事變後、私小説形式 ( の文壇的追慕が起ったなく、ほとんどの文壇的文學者を支配したともい〈るであらう。そ とき、そのあこがれの言葉は、一さいの虚僞にたいし、僞瞞の表して、このやうな思惟が、ただ客觀性を忌避するとか、理論の無力 をさとったといふ解釋によってのみ説明しつくされぬのである。い 現に對する呪ひとなり、人間的眞實 ( の幻想的浪愛性をあふった。 自然的人間の素朴さといふことが、私小説によってもとめられるとはば、あらゆる一さいの欺瞞、虚僞の氾濫に恐怖し、たよるべき一 いふかんが〈によって、私小説〈の愛好はたかめられた。私小説はさいの根據をうしなひ、信ずべきはおのれ自身よりほかになく、お かくして純文學の基礎形式となって返りいた。人間性 ( のあこがのれ自身の意志と観察に絶對をもとめて生きようとする必死な抗議 れが、私小説の形式によってのみみたされるといふ錯覺、それ自身にほかならなかった。だが、このやうなおのれに絶對をもとめた精 が、すでにあらゆる欺瞞にたいする観察の敗北であり、欺瞞に對立頑の來歴とはなんであらう。ここにも錯覺があった。 いはば、自己自身の主觀にのみたよりをもとめ、眞實の絶對をも した無力な自我の放棄のすがたであったのである。だが、ともか とめたのは、眞實の普遍的絶對性の拒否にほかならなかった。それ 、事變以後の文學界の混沌化した欺瞞のなかに、眞實へのあこが ゅゑに、個々に、眞實は差異を生むといふ暗默の解釋をひかへてゐ れがうまれ、それが私小説を愛護する機縁となり、作者もまた、私 小説のなかでのみ、いつはりない自我と人間的眞實をつた〈うるとたはずである。つまり、眞實の絶對をもとめあぐんだすゑに、眞實 は、個々の實感のなかにしかもとめられず、眞實は無限に分割され いふ自覺に生きてゐた。そこには、たとひ錯覺であっても、眞實と いふ觀念〈の憧憬があった。 ( たとひ、その憧憬が眞實追求の欺瞞うるし、相對性をもつものであるといふ前提をひか〈てゐるのであ の象徴であったとしても。 ) そして、あらゆる大正以後、昭和のはる。結局、このやうな眞實の個性的實感によるうけとりかたは、眞 じめにかけて、私小説をむか ( る心理のなかには、つねに、作者の實いつばんに對する否定ではなく、みづからのよりどころのない孤 立的な心理の根據を索めて、自己の主麒の絶對化におちいったにす 肉感、體臭へのしたひょりがあった。體臭を嗅ぐことによらねば、 人間的眞實をかんじえず、體臭さ ( かんじうれば、眞實をうたがひぎなかった。眞實のよりよい把握のためのねがひからでなく、おの えなかったといふ事情はあきらかに、客觀性いつばん、合理性いつれの不安を安堵せしめる姑息な境地から、自我に集ごもりをたくら ばん ~ の不信の表現であった。つまり、事變後の作家における心理むだにすぎなかった。しかし、このやうに自己に即してかたるこ 的欺瞞 ( の呪詛が、生理的人間の復活を要求し、主観にしか眞實はと、普遍的な論理〈の嫌惡は、私小説に眞實の實體をかぎつけねば 安心のならなかった文學的心理と共通なものであり、しかも前述し さぐり得ぬことを明證したのであった。 上林氏も事變から大東亞戦にかけて、自己 ( の執着、客的普遍たごとく、ともかく、眞實の絶對をもとめるといふやみがたき希求

2. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

たゆみない自家の要求を載せて、漸く他力感恩の生涯にまで入らんある。その價値は間はざれ、その美醜は論ぜざれ、その善惡は分た 8 おとした。我等は之に追隨することが出來なかった。 ざれ、兎にも角にもこれが人間現在の實状ではないか、現實ではな いかといふのが、自然主義者の振り回はす鐵棒であった。しかもこ 四 の鐵棒の打撃力の強いことは、いかにも認めざるを得ない。ただ我 この時に當って自分の氣持は大分自然主義的になって居た。自然等はどうしても、この鐵棒にたたきすゑらるべき運命より脱するこ 主義の小説が興味を引きだしたのもこの頃である。自然主義の小説とが出來ぬか、又脱しようとする努力さへも、叱らるべく罵らるべ のあるものは、自分の思想や感情に近いものを表現して居た點に於きものであるかは、自ら別間題に屬する。 て、たしかに自分達を引きつけた。自分は固より口マンチシズムの 自然主義者のモットーは眞である。要するに眞を求めて眞に從ふ 渇仰者であった如き意味に於て、自然主義の渇仰者ではなかった、 といふのである。自然人生の眞を發見して、之を描寫するに眞に忠 もと 又固より鼓吹者でも何でもない。唯いや / \ ながらも自然主義的ななる筆を以てするといふのが、自然主義の文學ならば、眞を發見し る思想感情を經驗したといふ意味に於て、自然主義の實行者とはい て眞實なる生活をするといふのが、自然主義的實行であらう。唯一 へる。固より世間普通にいふ自然主義の實行者の意味でないことは言にかく考ふれば、固より間然する所もない、問題の起り様もな 斷わっておく。世の迂遠なる學者が、權威ある者の如き容して、十分い。 なる洞察も同情もなく、自然主義を攻撃した言説の如きは、自分も しかしながらここに問ふべきことは、眞とは何ぞやといふことで 亦片腹痛く思った。さりながら自然主義的の思想は到底自分を滿足ある。卒然としてかく間うても、それは、善とは何ぞや、美とは何 ぜしむるものではない、之に對する不滿足の感は次第に高まって來ぞやといふと同じく容易に答へられざる間題である。島村抱月氏の た。自分は今自然主義の實行者といふ位置から、自然主義の批評者「文藝上の自然主義」といふ論文の中には、理想といひ現實といふ といふ態度にかはって來たことは、自ら欺くことなくしていひ得るのは、要するに第二義のことである。第一義なるは即ち眞であると と思ふ。 説かれて居る。しかしその議論だけでは、第一義の眞と現實といふ 自然主義の議論は多くは讀まない。しかしながら自然主義を一個ものが、如何なる關係を有して居るかは十分に明かでない。第一義 的の眞といふのが超絶的な本體的なもので、現實とはそれの屬性と の主張として、之を維持しようとする時、どれだけの理論的特色と か現象とかいふものであるかといへば、必しもさうでない。然らば現 根據とがあるであらうかといふことについては、自分は前から多く の疑なきを得なかった。自然主義が猛然として主張せられたのは、 實と第一義の眞とは同一物であるかといへば、必しも亦さうではな い。この事については已に前にも一度いったことがあるから大抵に ただその消極的方面もしくは破壞的方面にあったのは、自然主義そ のものの性質に基づくことと思ふ。されば形の整へられた自然主義しておくが、要するに自分の考では、第一義の眞といふものは、自 論となると、勢自然主義その儘よりは、幾分か理想的分子の加はっ然主義論者の多く重きを置く所でない。假に第一義の眞を認めると たものとなる姿がある。要するに自然主義の強味は、その理論的根しても、その力説する所は主として現實の方である。よし又百歩を 據にあるのではない。否かくの如きものは殆ど論理的遊戲として排讓って自然主義論者の力説する所が、第一義の眞にあるとしても、 これは自然主義なるものの特色をなす所以のものではない。第一義 せられて居るくらゐである。その強味は主として今の人の現實感に

3. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

0 れぬか或は尚他の方面を摸索してゐる者である。自然主義が現實暴味も分らず面白くなくなった。科學が吾等の趣味の意識を破壞し、 露だとか、無解決だとかで盡きるものではないが、其特徴の一部分精神生活を荒せしめた事は幾何か分らない。科學は僣して事物の そもそ は慥かにに在るだらう。 眞相を究明すると云ふ。抑も眞とは何か。ピフトは此間によって恥 ヰルクリヒカイト して見ると科學の文藝に及ぼした影響は大なりと云はねばなら を千載に遺したが、吾等もまた彼の亞流であらう乎。曾て事實 ぬ。從って自然主義の將來が科學的精の消長にデ。ヘンドしてゐる と眞とは別であったが今は一つにせられた。吾等は之に對して 事も甚だ多いのは極めて睹易き理である。所が科學的精は容易に深疑無きを得ぬものである。實際吾等は現代人として不幸にも現代 袞微する様にも見えないから、又從って科學的人生觀としての自然的感情に同情し得る者である。故に近代の文藝の切實を愛し乍ら、 主義もまだ / \ 暫く行はれる事であらうと思はれる。が、後世の史且其底に響く悲哀を殊更に懷しんで居る。人を牽きつける此哀調 家が、假に現代を以て最も事物の眞相を明かにせむとした時代と云は、近代文藝の長所で軈て之が破綻の本では無からうか。事象の有 ふとして、共註に「然し彼等の所謂眞は我等の謂ふ所の眞ではなの儘の姿を描寫する事が何故に悲しい。眞を求めて眞を得たるが何 い」と附言するかも知れない。勿論之は自然主義の耻辱でも又科學故に悲しい。人生無意義の發見が悲しいのか。或人が云った秋の悲 の耻辱でも無く、如何なる思想も必ず際會する所の運命であるが、 哀は明白にあると。自然主義も此類か。恐らくは其眞なりとする所 おそ 唯虞るゝ所は後の史家に依って、「彼等は眞を求めたが徹底しなか が眞の眞でない爲ではない乎。 った」と云はれむ事である。 ( 明治四十二年十一月十二日「東京朝日新聞」 ) 科學は容易に衰微しさうにも見えぬ。人類は孜々として物質的享 自ら嘆じて 樂の實用的設備を遣ってゐる。然し科學の覇權はもはや子午線を經 その聲に石もさけびてこたへしをわれ人ながらよぶにはゞかる 過したのではなからうか。形而上學を要求する聲には自然主義の ~ 表 微が萌して居るのでは無からうか。科學萬能論が唯物論となり、唯 さびしみは人にかたらじあめっちのふところによるさらにあふ 物論が感覺論快樂論 ( 功利論は近世の民主的傾向を容れた快樂論で れて ある ) となり、快樂論が厭世論になる徑路は近世思想の最も著るし く證明したところである。唯物論の文學たる自然主義が其底に一種 の哀調を帶びて居るのは當然の事である。但し同じ事實が思想の激 流をして長く鉉に留るべからざる事を暗示して居るのも亦當然の事 だらう。吾等の精生活は竟に唯物論の跳梁に任すに堪へ切れなく なって、遂に之を唾棄するの日が來るだらう。吾等は昔縹渺たる空 想を樂んだ。又調和、均齊、韻律等の美に恍惚とした。然も物理や 化學や生理や心理を學んだ爲に、且新聞と云ふ極めてプロザイック な物の流行を歡迎したゝめに、換言すれば好奇心を以て艦賞心に換 、た爲めに、何でもかでも事實を平たく説明したもので無ければ意 ワールハイト ( 三七、一〇 ) 上 )

4. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

0 倩とならざるを得ず、同情とは即ち意志の靜止として否定の否定、 痛を敎へたり、ニーチェは此の悲痛の中に健鬪して自家の眞情を呈 4 0 ◎◎◎ 0 ◎◎◎◎ 7 肯定を表す、」 露し、眞價値を發揮する天才意志の奪嚴不滅を敎へたり、而してワ 是れ論理的に概念の言語にていひ表はされたるワグネルの愛なグネルは、此の悲痛の中の意志の主張は、人性天眞の聲として慈悲 り、而してワグネルの事業は此の如き意志融合の愛をあらゆる人生憐愍の涙に充ち安慰と至愛とを具備せる「愛」に表はる又を見、此 の中に發揮し、深く眞なる人情の聲として、之を詩と樂とに現實に の「愛」に依りて一切を融合し、人生を改造せんとせしなり、彼の したるにあり、詩と樂とを中心とする美術を以て人の眞情を發揮愛はショベンハウエルの涅槃の如く遠離解脱なり、されどニーチェ し、共の眞心の改善に依りて人間と社會とを改造せんと企てしにあの超人の ロく、總ての苦心煩悶を經驗し、總て世の甘酸喜哀を嘗め 0 0 0 0 0 0 、人類の墮落腐敗、壓史の無意義、近世文明に於ける趣味と同情盡し、此に依りて得たる大宇宙的意志なり、總て世の泰否、情の歡 0 0 0 0 0 0 0 との失落、而して此等を救ふべき宇宙の妙音、人生の眞趣なる樂詩哀につきて、又思想の鍛錬や道德の進退に關して、深刻の經驗と勇 の天職、此樂劇中心の宗敎敎化に依りて實現せらるべき愛の合一、 猛の健鬪とを知らざる人には、眞の悲痛をも又自分の奪嚴をも知る 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 天眞人距の發露、短くい〈ば此の「宗敎と美術」との將來すべき人由なく、從て此の如き人には同情なし、好惡に、第 0 、總て深入 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 間の再生 (Regeneration) 此等の偉大なる思想につきては今此手紙 りせざる如き人心は、到底ワグネルの「愛」の輻音を體得し、其の ごん おんりど に書き盡されず、君にもワグネル研究の材料を送ると共に、僕も亦眞味眞意に徹透する能はざるべし、此故に佛家は厭離穢土に依り欣 他日其の結果を世に公にぜん、されどワグネルの音は此等の思想求淨土の宿善を開發せんとす、ショ・ヘンハウエルの悲痛観と、ニー 考察に依りてのみ代表ぜらるにあらず、其理想の化化身は、彼チェの意志嚴とは、共にワグネルの「愛」に入りて、始めて總て が樂劇の音と言との詩作 (Ton und Wortdichtung) にあり、此詩眞摯なる人を滿足せしむるの音となるを信す、此三人には一貫の 作が耳と目とを通じて直に人の心腸に徹する。愛融合の理想は、彼理想あり、以心俾心底の呼吸相通ぜり、僕は此く見て、此三人の哲 れの所謂將來の音樂將來の宗敎の源泉なり、フェーンより。ハルシハ 學或は詩作に表れし理想 ( 或は宗敎とも美術とも何ともいひ得べ ルに至るまで十數の樂劇につきて、一々語るは僕のカの及ぶ所にあ し ) を、三人別々に離して見るを欲せず、之を一括し之を融合した らず、 トリスタン第三幕の憧憬に充ちたる (Sehnsuchtsvoee) 哀し る上に、大なる「愛」の輻音に親炙せんと欲するなり、 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 き聲や、タンホイゼル第三幕の、タンホイゼルが羅馬行を物語る妻「ゴルゴタの十字架上にかすかに聞こえし愛の吐息」も菩提樹下に 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 絶の場や、又ワルキューレ第一幕の兄妹の情味盡きざる愛の對話養はれし大願濟度の慈心も、此の「愛」にはあらずや、總ての宗敎 や、プリュンヒルデの火に投ずる「愛の全能」や、今一々君と其のが人生の力となる所以も、多くの思想家哲人が練りに練る考察の極 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 印象を語り、又君と共に之をコ。ヱントガーデンの劇場に見る能はざ致も、詩や樂や美術の人生に敎ふる所も、此の「愛」に歸着せず る事、僕にとりて幾何の痛恨を與ふるや、僕は思ふ、ワグネルの樂や、僕は此故にワグネル問題は人間の問題なりと信ずるなり、僕は 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 劇は眞の哲學にして又宗敎、此故に又眞の美術なり、バイロイトは此問題に逢着し、且其の中に大なる光明を望み得んとの望みを君に 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 實に此新宗敎のヱルサレムなり、竹林園なり、 書き送るを以て、衷情の喜と感す。 此の如くショ・ヘンハウエルとニーチ工とワグネルとを通すれ あば ば、ショベンハウエルは形面上的祕奧を發きしと共に、深く世の悲 五月十七日 0 0 0 0 0 0 0

5. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

ドイツ文學者の片山孤村が『經質の文學』 ( 明治三八年 ) で、新浪ている。紅葉の作品と、白鳥・靑果の作品とを對比し、前者が外形 漫主義を論じたように、抱月も、當時、西歐での文學の實情が自然のカで内容を增加しようとして、人生の意義を暗示する力がないの 主義の時期をすでにすぎ、祕主義・象徴主義的色彩を帶びた新浪に對し、後者は外形では排技巧的であり、内容では「人生の深い意 漫主義ともいうべき傾向をあらわしていることを語っている。わが義を暗示しよう」として、態度もその氣持も異っている。行倒れを 國の文壇の情勢が自然主義文學の擡頭期にあたっていたゝめに、一例として描寫の方法を述べ、純客観とは何か、無念無想とか、主観 歩退いて、「僕は自然主義讃成だ」と、その立場を表明せざるを得の交らぬ作品とかゞあるかと問う。客観がわれわれの意識内に生起 なかった。『今の文壇と新自然主義』 ( 明治四〇年 ) に諸家の説を「寫したとき、主観がこれに反應する情意の状態は、第一段境 ( 我的・ 實的自然主義」「哲學的自然主義」「純粹なる自然主義」の三種に區同感・反感 ) 、第二段境 ( 半我的・道德的同感・反感 ) 、第三段境 ( 他的・審美的同情 ) と移り、第三段境において初めて美意識が成 別し、『文藝上の自然主義』 ( 明治四一年 ) 『自然主義の價値』 ( 同 ) に 立する。これは、美的情絡 Aesthetic emotion と美的情趣 Aesthe ・ おいて、自然主義文學理論をきわめて體系的に展開している。 抱月は、日本の自然主義を前期と後期に分け、浪漫主義と象徴主 tic mood ( 印象的情趣 ) との二つに分れ、後者は第四段境といっ 義との中間にあることを明かにし、寫實主義と自然主義との差異をてもよい。第一と第二は共に客観化されていない主観であるから、 論ずる。構成論では、描寫の方法態度から純客観的 ( 本來自然主藝術にはならぬが、これを情緖に變性さすか、「節奏統一」という ような方法で、これを誘い出ぜば、藝術になる。これが抒情的 ( 自 義 ) と主觀挿入的 ( 印象派自然主義 ) とに分け、前者は消極的で、 排技巧、排主觀の傾向があるのに、後者は積極的で、心に映る事象敍的 ) 主観であり、第三と第四の情緖的主、情趣的主と併せ の展開を待つものであり、自然主義の極致は兩者の調和であるとして、三つになる。自然主義が排する主観は、抒情的、情緒的の前一一 た。自然主義の目的は「眞」を描くにあって、寫實主義の「現實」、者であり、これは自然の眞を妨げるがためである。ここから排技巧 理想主義の「理想」よりは深いものである。この第一義の眞と、第とか、無念無想とかを説き、本來の自然主義や印象的自然主義を基 一一義の現實、理想との關係を考えるのが題材論である。自然主義が礎づけるし、禪祕主義象徴主義の發生する由來をも説いている。 次に内容論、目的論に人り、自然主義の目的とする眞と藝術の目 近代的、傅習破壞的なところから、個人主義、瓧會問題につらなり、 根本道德間題に及ぶし、自然ということから、現實、科學につらな的とする眞との關係について述べる。文藝の目的には、快樂と實際的 意義との二つの極があって相互に動搖し、兩者が融合して一つにな 門り、赤裸々な人間、獸性、肉感、卑近の現實をえぐることになる。 こうして事實を寫した底から、その事實の超越的意義、すなわち理るときに、美であるが、評價が分裂して二元的傾向になりやすい。 家 作 想を開發する、つまり「社會的個人性の全現」である。自然主義の自然主義が眞を目的とするのは、實際的意義が眞の名をかぶって快 設 目的 ( 理想 ) は「瓧會を定義し個人を開放する」ことである。この樂を擁して美の要求を完うするがためであり、眞は美を完成する一 解 品 理想のために、社會的個人の顯現があり、極端な瓧會主義、個人主材料としての意味をもっている。他方、瓧會改革や科學發展や世相 作 暴露のために眞を發揮したいと望んで、文藝となる場合もあるが、 義が現れてきもするのだと結んでいる。 自然主義の價値論は、この構成論、目的論をうけついで、美學上この場合、美は從となり、眞が主となり、美は眞を發揮するための 4 の檢討を加えて基礎づけるものであり、最もすぐれた論策といわれ方便となる。かくて自然主義の自然主義たる所以は眞そのものの解

6. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

「吾々のいふ民衆藝術とは、かうした自覺の上に立ち、かうした いふことを理解する上に、決して安當なものではないのである。 意識の下に在る新しい個人の思想なり、感情なりを融かし込んだ 民衆藝術を理解する上に特に注意すべきは、「民衆」といふ言葉 藝術である。かうした個人の經驗なり、實感なり、體驗なり、苦である。人間がその本質においてデモク一フティックであるべきこと 悶なり、懊惱なり、悲哀なり、勝利なり、何でもい乂、荷も、眞を自覺した民衆的精神の所有者は、成程勞働階級の人には限らな の人間性の觸れ得る、一切の眞の實感を現した藝術である。」 い。それは加藤氏も指摘してゐるやうに、あらゆる階級の人々にあ と。又曰く、 るには相違ない。しかしながら、假りに吾々の階級を貴族階級と平 「民衆藝術はイズムではない。一切の眞の藝術は民衆藝術でなけ民階級との二つに分けて考へる場合、この民衆的精紳の所有者は果 ればならない。それが若し單なる瓧會運動であるならば、瓧會がしていかなる階級に多かるべきであるか。貴族階級か將た又平民階 改善された曉には、無用になる藝術である。けれども吾々はたと級か。是はいふまでもなく後者である。「民衆藝術」の考察は、そ ひ吾々の藝術に就會問題や政治を取扱ふやうな事があっても、その第一歩を先づこゝに置くべきではないか。 れを單なる現象として取扱はないのである。現象を現象として取 ロマン・ロ一フンの主唱した民衆劇の如きも、その出立點はこ、に 扱ふのは科學者の態度である。けれど、吾々はその現象の奧に永あったのではないか。彼れは上中流瓧會を描いたフ一フンスの劇が、 遠なる人間性を認めようとする。人間性の惱みや喘ぎや光鏘を描最早、民衆的精神を描くことにおいて何等の淸新味もなくなったこ かうとする。吾々は今迄の日本のなかに、かうした態度がかゝれと、及び、その原因が上中流瓧會そのものに民衆的精のなくなっ たものを殆ど見ないのである。吾々は只其中に科學を見て來たの たのに依ることを看破し、彼れは飜って、この貴き民衆的精神を平 である。そして吾々は今、眞の哲人的態度をもって、眞の宗敎家民階級、勞働者階級に求めたのではなかったか。 の態度をもって人生の根本に溯らうとして居るのである。」 ウィリアム・モリスが民衆藝術を定義して「民衆によって民衆の と。氏に依って解釋された民衆藝術なるものゝいかなるものであために造られ、その制作者にも、その需要者にも共に幸輻である藝 こうけハあた るかはこれによって略よ明らかになるであらう。部ち氏は「一切の術」と云ったのは確かに肯綮に中る。モリスのこの場合の「民衆」 眞の藝術」を以て民衆藝術と云ふのである。「眞の人間性の觸れ得が貴族に對した平民、遊民階級に對した勞働階級であったことは云 る、一切の眞の實感の表白」が民衆藝術であると云ふのである。氏ふまでもない。 の如上の民衆藝術論が、いかにトルストイの一般的藝術論と類似し 我が國における民衆藝術の提唱も何等かの意味で、如上、モリス たものであるかは改めて贅するまでもない。 やロフンなどの意見と一脈相通ずるものがありはしなかったか。 問 しかしながら、かくの如き藝術ならば民衆藝術と呼ぶ必要が何處「眞の宗敎家の態度をもって人生の根本に遡らう」とすることは勿 の 術にあるか。氏は民衆藝術はイズムではないと云ってゐるから、氏に 論よい。一切の現象の奧に永遠の人間性を認めることは無論よい。 鱸取っては名稱の如き、どうでもよいのかも知れないが、少なくも單人間性の惱みや喘ぎや光躍やを描かうとすることは無論よい。否、 まさ に藝術と云はないで「民衆藝術」と云ふ以上、そしてさういふ特殊それはすべての眞の藝術家の將に取るべき態度であらねばならぬ。 しかしながら 〃の言葉が許される以上、そこには自ら特殊の意義がなければならな乍然、さういふ態度で書かれた藝術はすべて民衆藝術であるとは い。かくの如き一元論は、少くも特別の名稱である「民衆藝術」と云へない。民衆藝術といふ以上、「民衆」といふ一點に特にカ點が附 くわうえう

7. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

322 眞を發見しようとした。「ありのまま」にうっすといふ言葉はそこ から生れた。「ありのまま」にうっすためには、排主観、排技巧、 無思念であることが主張された。 自然主義が、ありのままの曝露によって、現實の眞をとらへんと したものであったから、文學は、かれらによって人生のためのもの であり、文學することは人間修業に通じてゐたのである。しかし、 歴史の發展とともに、その出發における自我の發奮は衰へざるをえ なかった。といふのは、個性的自我は、次第に社會的な普遍的なも のに轉形しつつあったからである。それ故に後期自然主義からは、 おにむ 概ね自我の眞實への餓ゑをかんずることができない。自發的に生活 と運命をきりひらかうとする自己でなく、環境におし流されてゆく 人間の姿態が描かれた。 初期における花袋の「蒲團」や、藤村の「破戒」が、ともあれ、 周圍の欺瞞に對立しつつ自己形成の鼓動をたかめてゐるのは、その 底に、ふるい觀念にたいする憤怒、眞理にたいする飽くなき求が 私小説の近代的な出發は、個我意識の近代的な芽生えとともにはあったからである。「ありのまま」に描くといふかんがへ、文學修 じまり、それは舊觀念に反撥するとともに、あらゆるこの世の虚僞業は、自己形成に通ずる路だといふ發見は、いはば、眞實への肴求 にたいするたたかひともなった。 と、その欺瞞にたいする憤怒をよりよくつらぬくための方法にすぎ わが國の自然主義は、空想的觀念をこばみ、虚僞や虚飾を曝露し なかった。だが、つひに、精神の希求を放浪させて、方法だけに文 て眞實を追求しようとしたはてにうまれた。その事情は、花袋、藤學をゆだねるやうな時代がすぐそのあとに迫った。いはゆる白鳥の 村その他の初期自然主義作家の言葉からもうかがはれる。その理論冷笑や、鸛外の傍は、そのやうな自我の出發の呼吸が袞へたとき さんぢよ の先驅天溪もかいた。「遊藝的分子を芟除して、眞實體を發揮した の表象である。づよい自己主張をもちえないやうな自我の時代をむ これまさ るもの、是正に將來の藝術たらざるべからず」と。かやうに、ふる かへたのである。それゆゑに、自然主義末期から大正にひきつがれ い秩序と念の虚僞に反抗した自然主義は、一面に個人の眼覺めでた私小説は、志賀直故を代表とする白樺を除いては、「私」の積極 あったけれども、個自らの孤立的な主張に憧がれたのではない。 的主張の聲はきかれなくなった。「私」はすでに分裂してゐたし、 勿論、個人の自由をやっきに索めたのでもなかった。眞實に餓ゑた「私」の獨自性は、眞理の普遍性を代表するといふ自負からも遠ざ 個は全體に通ずるものとして、いはば眞理の普遍性を固く信じてゐかってゐた。「私」は瓧會化され、一般化されて、集團的な意識に たのである。それ故に、彼らは「私」を主人公とし、自らの生活的溶け去ったのである。 ろうしう 虚僞を陋醜をさへ、たれはばからず吐きだすことによって、現實の 昭和の初期に、われわれの私小説は、いはゆる新心理主義によっ 矢崎彈 自我の發展における日本的性格

8. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

れたる事實である。自己さへも與へられた自己と呼ばるべき形があ然も自己の最も牛の如く豚の如き方面を見せつけられた。我の自覺 る。自然主義者の先づ見よ、價づくる勿れといふ言は、この現下のを有せりといへば如何にも立派であるけれども、内容の貧寒空疎な 妝態に於いては、少なくとも是認せられることである。さりながら荒んだ自己を自覺するとき、我等は自己の奪嚴を覺えずして屈辱を 與へられたるを與へられたるがままに、定められたるを定められた覺える。幸輻を思はずして苦痛を感ずる。然もこの苦痛屈辱に對す やや るがままに承認するならば、我等は必しも眼を開いて見ることを要る鋭き感じさへもすれば鈍らされんとするのである。 しない。眼をつぶっても之に從へばよいのである。ここに於てかそ かかる自己を以て人生に臨み、現實に接する。果してどれだけ人 の眞相を見よといふモットーすらも、我等の價値的要求を背景とせ生に觸れ得るであらうか。多くの外的經驗を重ねることが、人生に ずば、何等の人生的意義を有せぬことになる。懷疑を懷疑として、 觸れることならば、詐欺師や泥棒は最も多く人生に觸れて居なけれ 不安を不安として眺めることの出來ぬ理由もここにある。否自分はばならぬ。我等がしみみ、と深く人生に觸れると感ずることが出來 更に一歩を進めて、刮目して眞相を見んとする努力すらも、我等のるのは、我等が淸新な心持を以て人生に臨む時ではないか。ただ現 價値的要求からして送られるのだといひたい。若しこの要求だにも實に觸れるといふことは、決して人生に觸れ人生を深く經驗する所 なくば、我等は現實の中に眠りこけてしまはねばならぬ。それはさ 以ではない。我等が人生に觸れたいといふのは、むしろ人生に觸れ ほうちゃく て置き兎に角、現實に逢著し、現實を享受し、或は之を樂んだり悲ざることを示して居るのではないか。徹底せよといふのはむしろ徹 んだり、或は耽溺したり壓迫されたりする間が、現實を現實とする底せざるを證するものではないか。充實したいといふのは、決して 自然主義の領分である。人生を無理想だ無解決だといふのも、この充實して居ることと同じではない。眞面目になりたいといふのは、 領分内のことである。一歩を進めて之を批評する様になるのは、更又眞面目になることの難きをあらはして居るのではないか。我等は に後の事柄に屬する。これ已に我等が價値的要求を提げてこれに臨人生に觸れない、せめて觸れたいと思ふ意識でもって、人生との觸 んだ場合である。しかもこの價値的要求の淺薄ならざらんが爲に接を續けようとする。我等は充實して居ない、せめて充實したいと は、我等の人生を味ふことも亦深くなければならぬ。現實に觸れよ 思ふ心で以て、充實したいとする。眞面目でない、せめて自己の不 といふ言の強味は主としてこの點にかかる。然も現實に深く觸れる眞面目の苦き意識にも眞面目を保ちたい。若々しき新なる心を失は といふことも、我等の價値的要求にデベンドして居ることである。 んとする、之を痛ましく思ふ悲愁の心にも、せめて老人にない若さ を託せんとする。しかもこれだけの充實、これだけの眞面目も動も 自然主義が其自身に於いて完了しないといふのはかかる意味であら うと思ふ。 すれば保ち難いのではないか。 自分は上述する所によって自然主義的現實を略説した。自然主義 かくの如くにして現實の眞なるものは、決して我等が求むる終局 的の心持に居る自己について少しく述べた。自然主義的氣分の下に のものではない。我等を滿足せしめるものではない。我等はこの不 ある自己が、主として感覺的、受動的、物質的の自己であることを滿を殺してしまふべきか。不滿の殺さるるは我等の死ぬる時であ いった。極端にいへば我等は牛や豚の如く無意識的になり得ない、 る。我等は我等の現實をどうにかせねばならぬ。この要求を外にし 自己の問題として見たる自然主義的思想

9. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

さき事件や、尋常人の弱點や缺點や、精生活上の賤民の醜態や劣偉大なる人格の反映なり、偉大なる人格を離れて、いづこに偉大な 情や、此等は如何に深刻に寫出ださるゝとも、若し此等人生の闇黑 る藝術の出現を期すべけん。眞の藝術は眞の薰陶者なり、藝術家の 面が單に暗黒面として寫出だされ、之れによりて些の人生の光明面人格先づ偉大にして、初めて眞に世道人心を薰陶するを得べき也。 又は理想面の發揮せらるゝなくんば、斯かる文藝は到底偉大なる文 單に光輝ある偉大なる精活動といふ、此の語尚頗る茫漠に失せ 藝、二十世紀の新文藝として、誇となすに足らざるべし。偉大なる るの嫌あらん、鉉には之れを精説するの遑なし。たゞ世間或は下の 文藝は人生に關して偉大なる敎訓を與ふるものに限らる。偉大なる ごとき疑惑を懷く者あらんか。精御活動とは要するに情意活動の意 敎訓とは、人類の尊嚴を發揚す「へき偉大なる精活動を味はしむる ならずや、人情は古今を通じて一なり、人類を通じて根本的にして あに をいふ。偉大なる精活動は人生に潜在的に含蓄せられたり。之れ普遍的なる情意活動あり、豈時代を異にするによりて、新にして高 を開發し之れを發揮するが藝術家の使命なり。今の藝術家に向ひく 優れたる情意活動といふが如きものあらんやと。これ米だ情意活 て、直に斯かる光輝ある人生の理想面を發揮せよといふは、希望の動の眞の進歩發逹の意義を解せざる者の言なり。げに古今の人類を 餘りに大なるに過ぐる者あらん。されど世の藝術家にむかひて、又通じて普遍にして根本なる情意活動あらん。されど此の普遍的情意 は將來出現すべき藝術家にむかひて、又は世の藝術を愛づる者にむ活動は、其の内容 ( 形質 ) に於て將たカに於て、萬代を通じて同一 かひて、次第に斯かる光輝ある人生の理想面の發揮に近づかんを望なるにあらず。此の普遍なる情意活動が次第に高大に、次第に富贍 むは、決して過分なる希望にあらざるべし。 に、次第に深強なるさまに其の潜勢力を開發し行く所に、人生の發 新理想主義の傾向を取るにあらずば、如何にして將來の文藝を百逹進歩は存せずや。人生の發展進歩を斯く麒ずる所に眞の理想主 花爛漫の境に發逹ぜしむるを得べきぞ。新理想主義を取るにあらず義、眞の光明主義、眞の樂世主義は存せずや。此の光明主義又は理 ば、如何にして將來の我が文藝を他國の文藝に比較して遜色なから想主義の傾向のもと、文藝は初めて偉大なる光輝を人生に放つを得 しむるを得べきぞ。新理想主義を取るにあらずば、將さに大に勃興べし。將來の文藝は此の光明主義又は理想主義に賴りて、初めて將 せんとする國民の文藝を如何にすべきぞ。偉大なる藝術は、必や時來の偉大なる文藝となるを得べき也。 ( 明治三十九年四月「中央公論し 代精に先きんじて而して時代精劔を率ふ。今や有力なる時代は將 さに勃興せんとしつ又あり。將來の藝術にして、此の有力なる新代 を統率するの力なくんば、そは二十世紀の藝術にあらずして、時代 に率ゐらる乂憐むべき藝術たるに過ぎざる也。 一一十世紀の藝術家たらんとする者よ、如何にして光輝ある人生の 將理想面を發揮せんかと妄に苦慮するなかれ。徒に自然主義に賴らん 藝か將た標象主義に賴らんかなど苦慮すとも何の甲斐かあらん。眞に 光輝ある偉大なる人生の理想面を發揮せんとせば、先づ藝術家みづ から偉大なる精活動を經驗するを要す。先づ身親しく人生の奪嚴 3 2 を味ひて、初めて之れを他に味はしむるを得べし。偉大なる藝術は

10. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

ショ。ヘンハウエルは、一切の現象に nominatis a portiori なる意實例を發見したる喜びの發表、此天才偉人に對する衷心の渇仰の宣 志の活動を見たり、而も其の道德に至りては、此意志の否定消滅に布なり、彼の一フィブチヒの書生時代に於ける彼れ一生の此初戀は、 一切の善德を認め、無我無慾の境に世間解脱の至境を發見したり、 彼の一生を支配する偶像なりき、又彼れ自らの眞價値と天職とを自 彼が不變不動と斷ぜし個人の意志が、如何に知の炬火に照らされ認せしむる光明なりき、されどニーチェはショベンハウエルの意志 △△△ て、世の味なき意志努力の望なきを見たりとて、此く否定せられ又否定の解脱説に對しては、始より同情少く此解脱説と意志本位の哲 消滅し得べき者なりや、又彼が意志消滅の導者なりといひし知は、 學、並にショベンハウエル自身の自信厚く意志強き人物との間に、 意志の奴隷若くは副産物にてありながら、如何にして其主家を壓滅離すべからざる連鎖ありとは思はざりし者の如し、彼が最もショベ し得るや等の難問は今暫く深く入らずとするも、唯一の實在たる意ンハウエル的の見解に立ちて、世相の無意義にして人生の浮雲の如 志が其個々の發表、諸の無生物並に生物の個人意志を否定し、個きを思ひし時代にありても、此の如き厭世観の結果として、解脱を 人的現象差別を消滅したりとするも、其本家本元たる實在は何れに 意志の否定個人の消滅に求めたる跡なし、此時代の作「悲曲の誕 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 存するや、言を換へていへば、彼の所謂意志消滅とは眞の消滅なり 生」に於ても、音樂が此厭世の必然の發表にして、人生の眞摯の や、此疑問は此哲人の頭腦にも存したりしなり、彼は此境を稱して聲なるを論するも、此悲痛の人心に觸る音樂は、印人情の深奧な 鬼といふの外なかりき、涅槃、此一語の中に、彼の形而上論と道る衷心を發揮する者、人生の天眞を赤裸々に直顴に訴ふる者とせし 徳解脱論との矛盾は蔽はれしなり、原始佛敎が無我寂滅を理想標幟迄にして、此故に此人生意志を消滅すべしとは考へざりき、此を以 とせし涅槃が、大乘佛敎にて、大我久住の涅槃と轉ぜし變化は、又て其より五年後にショ。ヘンハウエルの人物を論じ、眞の哲人、敎育 此人の思想にも起るべかりしなり、 の標本偶像を此人に求めんとせし時にも、敎育家 ( 即ち萬人が理想 0 0 0 0 0 0 地變他は彼の老成固定したる頭腦には起り得ず、新鮮の生命に新とし摸標とすべき大人物 ) なるショベンハウエルは、自己意慾の旺 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 鮮の希望光明を貯へし一時代後の天才ニーチェに起り來りぬ、新鮓盛なるに反動したりとも見ゆる ( 多くは傅記之をいふ ) 意志消滅の 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 なる意志發表は、又新鮮にして一層天眞なる意志の要求を將來せ涅槃を求むる牟尼なるショ。ヘンハウエルに非すして、一世の學風に 0 0 0 0 0 0 0 0 0 り、ニーチェは始には、ショベンハウエルが總ての現象は意志努力反抗し、毅然として自ら持し、屈せず撓まず自家の信仰を以て世を の結果なりと説きしを信じたり、されど彼は、異常の強き意志は又風せんとぜし勇の戦士なるショベンハウエルにありき、一切の 異常の結果を此人生に呈するを確信したり、異常の意志とはち天世の樂み幸ひを超え、一切世間の現存制度、文物の到底永遠の光明 才なり、彼の晩年の所謂超人なり、ニーチェは此の如き異數の意志 たるべからざるを透見し「高く世を瞰下し燈臺の光が脚下に澎湃せ 發表をば、彼が意志否定の説敎を聞きし其のショ。ヘンハウエルの人る暗夜の波濤を照して獨り不動の光明を與ふるが如く、世を超え人 物に於て發見したり、ショベンハウエルの人物は、ち彼が眞に世を離れ、世の榮辱喜憂を絶して、自己の中に無限の靈光を」發見し に天來の輻音を持ち來たす天才、世を救ひ人を改造すべき眞正の哲たる聖人のショベンハウエルなりき、 者 ( 學者知者の哲學者にあらず、人生の眞趣を發揮し、宇宙の奧祕 ニーチェの個人絶對の超道德や、人間改造の説や、超人聖人の理 を凌掘すべき哲人 (Philosoph, lover 。「 wisdom) ( の標本なりき、 想は、彼れ自らが晩年に力を込めて主張せし如く、意志消滅の解脱 君も知らん、彼が「敎育家としてのショベンハウエル」は即此標本寂靜には正反對なりき、されど此理想は、彼がショベンハウエルの げだっ はうはい