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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

きな意欲の集中がある。 ( 失ふこと、發見にあとを讓るために失 ふこと : : : アポリネエル ) か乂るが故に、行動主義は間斷なき前への飛躍の意味に於い て、あらゆるモダアニズムとモラルを同じくする。 (O) ヒュマニズムのモラルの上に立つ行動主義は、必然、個人主 義である。しかしこの個人主義はエゴ中心的な ( 滿足した自我 ) のプルジョワ個人主義ではない。この個人主義は ( 自我の發展 ) の希願の上に立ち、 ( モニュメンタルな我 ) ( コスミックな我 ) と しての自我意識をもつものである。 換言すれば行動的ヒュマニズムにおける個人主義は十七世紀ヒ ュマニズムの個人主義の近代的延長ではなく、少くとも革命と機 械を知り、それに掣肘を受けた多分の瓧會的若くば全體的組織の 意識をもった個人主義である。つまり孤立的な靜的な自我の意識 でなく、全體的綜合のうちに自らを意識し、全體的環境の發展と ともに自我を新しく構成し創造して行くことを希ふ相關的、能動 的自我の意識である。が故に文學的行動主義は必然、多分の瓧會 性をもち、また革命主義的立場をとる。 (2) フェルナンデスが智能を空間的なものの訓練に規定するやう 我國の文化の歴史の各時代について見ると、「俾統的」の文化と に、行動主義は人間性の原始性 ( 例〈ばェロチズム ) と近代文化「現代的」の文化とは、必す同じ時代に併び榮えてゐる。非常に すこぶ の物質力に自らを訓練する。印ち行動主義は肉體と機械の發見に「現代的」なる時代に、頗る「傳統的」なるものが蘇活して來る。 よって、それらに作用されかっ反作用する個人の感性、智性、意尤もここに「現代的」といふのは、それぞれの時代に發生したも 欲の方向と从態を表現することによって近代的人性を啓示する。 の、又はその當時、外國文明の影響をうけたものをいふので、いは 近代文學における行動主義の地位とその役割については、種々具ゆるモダー = ズムのことではない。たと〈ば、奈良朝時代の寺院建 體的に評論しなければならぬし、特にその理論が實證的に如何なる築の如きを、その時代の「現代的」文化といふのである。當時の我 表現の手段によって根據づけられるかの問題はわれわれの研究對象國の文學であった漢文學の如きも、明治の洋學と共に、その意味で 博 としてもっとも重要性をもつものであらう。とともに他方、行動主「現代的」であると云へよう。 義の社會的意義及びその現れについても多くのことが云はれなけれ さうした外國文明の影響に對して、反動的に「傅統的」なるもの 7 ばならないが、それらの問題はいづれ他日充分な準備をもって取上が起るに相違ないが、併しそれが時代を異にして交代するのではな げる積りでゐる。 ( 昭和十年一一月「能動精・ハンフレット」 ) く、同じ時代に相携へて進行するのが我國の場合である。最も「現 長谷川如是閑 傳統文化と現代文化

2. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

が存在し、個人主義の原理が市民瓧會の歴史的論理として働いていれた一種の自己感情を出發點とし、やがてさまざまな日常の體驗に 8 たからである。かくてこの論理に保證されて自我の觀念は個人主義よって、體驗の負擔者である意識内容の統一體としての自己を意識 の中核的概念となり、この自我の内容の歴史的追求のうえに安んじ し、これを自己以外のものと對立させて意識するにいたったとき て、近代市民文學を發展させることができた。近代文學における自に、自我の意識が明らかに自覺せられてきたということができる。 我の發展は、封建社會から自己を解放した市民階級の封建主義にた人間は自我の意識において、客體に對立する主體として、主體的に いする鬪爭・反省・自立・解體の歴史であり、そこからもろもろの自己を確立し、客體を對象的に認識できるとともに、また自己を客 こっかく 問題を提出した近代文學の全體を一貫する骨骼なのである。だら觀化し、これを認識できる道を開いた。このような自我の意識が市 日本文學における自我の間題を考えることは、近代文學の全體にわ民瓧會という一定の歴史瓧會のうちにあって人間の具體的意識内容 たって、その中軸からこれを論ずることにほかならない。 として自覺せられたときに、初めて文學の具體的内容として成立 しかしわたしはここではこの大きな問題の取扱いをおのずから し、近代文學としての特色のある性格を形づくったのである。なぜ しつこく 限定せざるをえない。すでに近代文學における自我の發展は、他のならば、市民就會において、人間は初めて封建的桎梏から解放され 機會にやや理想化し、定型的にではあるが、成立から解體にいたるて瓧會から獨立した自由な個人として意識せられ、瓧會は獨立した まで論じておいたから ( 拙稿「近代文學における自我の發展」文學會議・ 個人を要素として組成せられていると考えられるようになったから ふっしよく 第一輯 ) 、自我の問題を問題史的に考察することは省略してもさしである。しかしながら、近代瓧會は一日にして封建主義を拂拭し、 つかえあるまい。わたしには、むしろ本章においては、近代文學に近代人の考えるような市民瓧會を現出させたわけではなく、なお近 おける自我の諸問題をば、その本質的なものと、わが國に特殊なも代社會のうちに封建主義を殘存し、市民瓧會は封建主義と近代主義 のとを考慮しながら、その諸相において考察してみたいと思う。そとの闘爭のあいだに、動搖をくりかえさざるをえなかった。 の諸相において考察するといっても、もともと、自我の念はその そこで、自我の念は近代文學にとって二重の役割をもっことに 内容を歴史的に規定され發展してきたものであるから、歴史的内容なってきた。近代人が市民瓧會において眞に個人としての自己にめ を抽象して論ずることは、ことに文學の場合においては、無意義とざめ、この自我の自覺に發する要求を現實瓧會に實現させようとね いってもよい。だから、自我を問題的に諸相において考察すること がいながらも、なおそこに濃密に遺残しているもろもろの封建主義 は、自我を史的發展においてたどらず、いわば自我に内包する諸問 に阻害せられて對立を意識し、いわばこの瓧會のうちに住みながら 題を、本質的な面においてとりあげ、考えてみようとするものであも外部に立っているかのように、これに批判的態度をとらざるをえ る。 なかった。自我は、この批判の原理として、獨立した個人の要求を 一體、自我とは何であろうか。自我の解釋も、近代の市民意識の封建主義にむかって叩きつける否定の契機をなした。しかし、自我 發展に印して、さまざまに複雜な内容をもって變化しているが、文が批判の原理として否定の契機たる役割を有力に果すためには、他 學について考察するかぎり、きわめて素朴に日常經驗する「自分」面において萬人に共通な原理として深め、または高めるために、個 といったような観念に出發していることはまちがいない。この「自人的自我を超えた普遍的自我にまで追求する積極的態度が要請せら 分」という覿念は、個體としての自己の肉體を中心にして形づくられ、かくて新しい近代主義を建設する肯定の契機ともならなければ

3. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

ならなかった。近代文學は、封建的桎梏から解放された個人に出發要請していたからである。この實體は、西歐文學のように直接に内 し、そこに案出された獨立した個人としての念をとりあげたとき在紳の信仰に結びついたものではなかったからして、飾的實體を意 に、この自我原理にたって個人を抑壓する封建主義とたたかい、批味するものではなかったが、なお的實體の役割を果すものであっ 判の原理とするとともに、さらにこの個人的自我の觀念を超經驗的た。すなわち、個人我をとおしながら、その個人我の根柢にあって な普遍的自我の理念にまで積極的に展開し、新しい近代主義の建設これを超えるものと考えられた普遍我、わが近代作家の用語を用い の原理としたのである。 れば、普遍的人間性の理念を意味していた。自我はまたこの意味の 近代文學の自我の靍念がもっこの二重の役割は、また自我の一一重理いいつの普遍的人間性でもあったのである。近代人にとって自 の性格を意味し、そこから近代文學の特色ある性格が生まれてき己の完成が内面化の過程によって得られ、そこに人格の奪嚴という 倫理的價値を生み出しうると考えたのは、實にこのためであった。 自我は自己感情としての個人的經驗的自我、すなわち全意識の統そこで、近代作家は個人的自我をとおして、自己を完成し、その根 はあく 一體として把握されたから、の、距椥の形成原理としての意味柢にある普遍的自我に逹しようとする求道精に勵まされ、その文 をもっている。もちろん、個性や性格は、瓧會における個人とし學作品を生んでいった。つまり、個人的自我の姿をその作品のうち て、特殊性を示す概念であり、瓧會關係に埋沒しつくされない個人に描きながら、なおそこに普遍的人間性をも實現すると考えたとこ ろに、文學のモラルがあったのである。この考え方は、その他にさ における全一性を意味しているが、しかも近代人にとっては何より も獨立した個人としての特殊性を奪重したところから、この意識のまざまな原因もあったが、わが近代作家が自己の經驗の主體である 「私」をとおして、その日常經驗の奥に、かような普遍的人間性を 統一體としての自我を個性や性格の内面的な形成原理と考えさせた のである。かく個性や性格を自我からする内面的形成と考えさぜた見ようとする、いや、作家自身が日常の經驗で喜怒哀樂するそのよ ところから、個人的人間をその意識の連續過程から内的に經驗的にうな「私」をとおして、そこに萬人共通の人間らしい人間を認めて いこうとする私小説の論理をも成立させたといえよう。しかもこの 逍求する心理描寫を重視するようになり、近代文學を特色づけるか 理小説が成立した。心理小説は、いや、心理描寫は近代文學の中核場合に、このような作家の「私」の追求における自己鍛錬が、心境 的要素として、ここにその地歩を確保できたのである。これを、近練磨が、文學のモラルとしての意義をもつようにもなってきたので の 我 代作家の制作過程から考えるならば、自我の客化による檢證であある。 【自 せんめい る 以下、近代文學の使徒たちのうちから、この問題を闡明するに役 り、このことによって作家が自己を主體的に把握し、安心して自己 け 3 を塘第訣の主體として、對象の外にたち、これに働きかけてい立っ作家または作品に印しながら、さらにこの問題を具體的に展開 學 く、つまり自己を作るものとしての自覺と自負とをもたせた根據でさせていこう。 代 もある。 しかしながら、近代作家が經驗的個人的人間のうちに安んじて自 四我を追求しえたのは、自我のうちに個人的自我を超えた普遍的自 3 我、いわば絶對我ともいうべき自我の實體、または理念を暗々裏にオ わが市民會において、明治維新は封建制度の重要な根幹であっ こ身分制度を撤し、人間的自由と平等とを名目的に實現したが、

4. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

踐的部門である制作と並んで、兩輪の役をするという認識は、明治 以後になって、文學の獨立のジャンルとして存立してからである。 第一に評論家と呼べる専門家が存在するにいたって、文學評論は獨 立のジャンルとして、ひとり立ちする。住々にして批評家は作品の 價値の判斷者または解説者と考えられやすいが、理論と制作との關 係を文學作品という具體的なものに密着させて考えるがためにおか す錯誤である。制作の鑑賞・批評は理論の應用であり、文學評論は 理論として文學を討議する文學という意味で、今日では自立してい 文學評論が獨立のジャンルとして形成され、評論家が専門家とし て存在できるためには、印刷術の發逹による新聞雜誌が生誕し、近 文學評論は近代以前から、すなわち古くから、事實として存在し代ジャアナリズムが發生するという條件がとゝのわなければなるま い。近代ジャアナリズムは、一方では日々の要求に應ずる小説とい ていたにちがいない。すでに萬葉集に批評意識があったと説くもの がある。歌論、物語論、能樂論、俳論などといったふうに、日本文う散文形態を近代的にとゝのえて、獨立のジャンルとして大きく飛 學の中で、光彩を放っている評論も稀ではない。しかし、これを文躍させるとともに、他方では文學そのものの本質を考究し、作品の 學評論としてみると、形態上は斷片的で、家傅的であり、内容上は品評ばかりではなく、文學そのものを嚮導するという評論の形態を 生みだした。近代ジャアナリズムが明治以後に盛に興って、近代小 實作者の體驗に出發した藝論の性格をもっていて、理論性に缺けた 制作上の覺え書や心構えから、修業の道に及ぶといったものであ説、近代評論が確立し、活に働くようになるのは、近代個人主義 の發生によって生れる學問の自由、研究の自由と併せ考えてみるな る。たとえ作家體驗に出發したとしても、自己の體驗を分析して、 理論化し、普遍的な思想への道をひらき、文學そのものの本質を考らば、きわめて明白なことである。このことは西歐の文學について えたり、各ジャンルの内部法則をつきとめて、文學全體の中での位みても同じである。 critic という言葉はもともと literary critic を意味しているよ 置を考えるというふうに全體との關聯を考える、或いは人間の生の 門 うに、評論は文學評論を根源的なものとしている。しかし、この場 中で、または歴史や瓧會の中で意義をつきとめる、こうして文學そ 家 のものを論議する文學という自覺があって、初めて文學評論は成立合にも、文學評論は文學そのものの意義を考える文學として、あく までも藝術の範圍にとゞまる審美論的なものと、文學が生そのもの する。 解 文學論が名人逹人の個人的體驗談であり、感覺的な言葉で、象徴の表現であり、現代文明の表現であるために、人生評論、文明評論 作 的に、一息に語るが、知的な言葉で論理をつくして語ることをしなにわたるものとに、分けることができる。しかも文學評論が人生批 評や文明批評にわたるところに近代批評の特色があり、このために 8 い間は、文學評論は制作に從屬し、作家が自らの祕儀を傅授すると 3 いう形で存續している。文學の理論的部門として、文學評論が、實審美論的批評がとかく閑却されることにもなりかねない。そこで、 作品解説・作家人門 現代文藝評論小史 , ーー 瀨沼茂 士夛

5. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

文壇が過度の自由による文學の擴散を示しているかぎり、私は文學るわけではない。中村光夫・伊藤整・黐田恆存氏らの活動も、賊後 自立論を説く人びとよりも、むしろ戦時下の現實のなかで『斷腸亭批評の大きな水脈を形づくっている。なかんずく輻田恆存氏の『一 日乘』を書いていた永井荷風の心に、より多く文學者の心を感じる、匹と九十九と』から『藝術とはなにか』を經て『人間・この劇的 とだけいっておきたい。 なるもの』に至る批評活動は、近代個人主義の制約をこえた人間論 しかし、ひとつの時代は、後代から見てその盲點が見えるような・藝術論として、私小説的な文學理念の崩壞のあとに來る問題につ 思想に、本質的な時代性を與えることがある。敗戦直後におけるいての洞察にみちている。一方また左翼文藝批評の異端者花田淸輝 「近代文學」派の登場の意味もまたそこにあった。戦前の左翼蓮動氏は、心情的政治主義にたいする徹底した批判者として、日本的心 の矛盾をつぶさに體驗し、そのにがい苦澁を代償として再出發をと情倫理の崩壞したのちにくる現實にたいして、豫言的な洞察を示し げたこれらの人びとは、おのれの體驗の意味を反芻しながら、していたのである。 い文藝批評の分野を開拓したのである。そしてこれらの人びとと歩 調を合わせて、野間宏・椎名麟三氏ら新しい作家の登場をみたのでしかし戦後における現實の變化は、當然、文藝批評の動向にも變 ある。 化を與えずにはいなかった。舊秩序の破壞と、個人の權威を中軸に 現在の大學紛爭を體驗してる私の實感からすれば、「近代文學」据えた市民民主主義の確立が、時代の要調とされていた時代には、 派の思想的盲點は、はっきりと見える。また過去數年にわたって、「近代文學」派の批評理念は、時代と密着した意味を荷っていた。し 私は「近代文學」派の批判者であった。しかし、ひとつの思想が他かし近代化の動向だけによって、人間は救われうるものであろう 人の批判によって完全に空無に歸することがありうるであろうか ? か。また人間の心には、″自己を 批評は自己主張や問題意識の所産であると同時に、やはり言語によ超えたもの。〈の渇望がひそん って書かれた " 作品。である。藝術派や審美派の主張が、必ずしもではいないであろうか。さらに 伊夫 光 すぐれた批評文學たりえているとはかぎらない。中村眞一郞・永また文學表現の次元に限ってみ、攣物 - 、 ~ い 樹村 武彦・加藤周一の三氏によって書かれた『 1946 文學的考察』は、ても、 " 告白。がそのまま藝術た差 4 戦後における藝術派の第一聲であった。しかし二十年の歳月をへだりうるという根據があるであろ ら眞 きまとっている。これにたいして、平野謙氏の『島崎藤村』や荒正は、好むと好まざるとにかかわ 左中 人氏の『第二の靑春』は、その問題意識が古びているにもかかわららず、こういう問いに向かい合襯 月彦 田 ず、いまも " 言語藝術。として讀むに耐えるのである。批評の古典わねばならなかったのである。〕 年 化 = は、 0 ね = 00 ような逆説性がひそん」る = とを、私は痛感吉本隆明氏 = よる " 思想とし一「 ~ 、一、 ( 一 和進 せざるをえない。 ての戦爭體驗。の發見は、近代 ~ 物 もちろん戦後の文藝批評が「近代文學」派だけによって代表され主義によってはとらえきれない」《、 7

6. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

校。最終の中學は、本鄕時代の私立京華中學。二十四年、着實な實證と鏡利な論理のみられ 同級生に、一戸務・正岡容・稻並昌幸 ( 城左る『島崎藤村』を書きおろす。二十六年、淺見淵年 門 ) ・池田忠雄がいた。一年下に、成瀬正勝『近代日本文學のなりたち』刊。この頃、し ・玉川一郞がいた。在學中、謄寫版刷の同人ばらく病臥。再起後は、『近代日本の作家と 誌を出したりもしていた。大正十一一年、東京作品』『夏目漱石』「評傅島崎藤村』『近代日 明治一一一十二年 ( 一八九九 ) 六月二十四日、神 商科大學 ( 一橋大學の前身 ) に人學。同期の人大文學の構造』 ( 二卷 ) 、「有島武郞傅」など、 に、佐倉潤吾・刈田儀衞 ( 葛川篤 ) がいた。同近代文學研究に關する重厚な業績をつぎつぎ戸市生田區中山手通に生まれた。弟の篤は、 人雜誌「壺」を發刊。本科に進み、文明史をに提出、さらに、『現代文學の條件』『戦後文のち「靑空」同人に參加した。戸一一中時代 専攻、金子鷹之助敎授の指導を受ける。在學學の動向』など、現代の文學についても發から「文章世界」に詩歌を投稿したりした。 言、また、多くの資料を驅使して『日本文學ついで、早大高等豫科を經て、文學部國文科 中、佐倉・刈田らと「一橋文藝」を發刊、「小 説の心理性と課題性」などを書き、伊藤整・・世界周游紀行』をまとめるなど、巨視と微に進む。豫科時代の同期に中河與一・横光 田中西二郞・高橋長太郞らを知る。昭和四視にあいわたる幅廣い視野に立った活動を展利一・井伏鱒二・小島勗らがいる。在學中、 年、同校卒、卒論は、「ノヴァリス研究」。三開。日本近代文學館の設立と維持運營につい同人誌「内部」を經て、大正十四年、逸見廣・ 近藤正夫・井葉野篤三・紺弓之進らがはじめ 月、伊藤整らが發刊した「文藝レビー」にても積極的に協力、今日に至っている。 た「朝」に第八號 ( Ⅱ・ 6 ) より參加。同誌第 參加、「機械主義文學論考」「機械主義文學序主要著書テーヌ『文學史の方法』 ( 昭 7 ・ 5 木星瓧、九號 ( Ⅱ・ 9 ) に、處女小説「山」を發表した。 説」「文學に於ける方法と技術」などを發表。岩波文庫、戦後改譯 ) 「現代文學』 ( 昭 8 ・ 1 五年、十月、「井伏鱒二論」を「新潮」に、谷川載後、河出文庫『昭和の文學』として改訂 ) 『島崎藤村』十五年、國文科卒。「新潮」が新人號を特集、 徹三の推薦で「心理文學の發展とその歸」 ( 昭・ 4 世界評論哄のち、改訂して、塙書房、角川文同誌に「アル・ハム」を發表。「朝」と尾崎一 雄らの「主潮」が合同した「文藝城」信・Ⅱ ) を「思想」に發表。また、「新作家」「新文藝庫となる ) 『近代日本文學のなりたち』 ( 昭 % ・ 3 時代」「荒地」「文學生活」などの同人雜誌に河出書房、のち、河出文庫、さらに角川文庫 ) スタインにも參加。昭和三年、一月、尾崎や丹羽文雄 加わる。七年、テーヌの『文學史の方法』をベック『おけら部落』 ( 昭・ 4 六興出版 ) 『近代らが中心になって創刊した早稻田系の同人雜 塙書房 ) 『評傅島誌の合同誌「新正統派」にも參加、文藝評論 飜譯。八年、一月には、「一橋文藝」を再刊、日本の作家と作品』 ( 昭叩 「野上彌生子論」を發表。また、いままでの崎藤村』 ( 昭實業之日本社 ) 『現代文學の條件』や小説 ( 「無國籍の女」「大吠岬」など ) を發表、 河出書房新社 ) 『近代日本文學の構造』っづいて「文藝都市」同人となる。左翼全盛 約半分くらいの論文をまとめた第一評論集 ( 昭肪Ⅱ 『現代文學』、クレメント・ウェップの『西洋—・Ⅱ『夏目漱石』 ( 昭 3 東大出版曾、近代日時は沈默。八年、三月、「生活に根差した小説」 哲學史』刊。この間、千倉書房、化粧品輸出本の思想 6 ) ( 昭 3 集英社 ) 『本の百年史ーベスをめざし、尾崎・丹羽らと「小説」を創刊、 ト・セ一フーの今昔ー』 ( 昭・ 9 出版一 : ース社 ) 「コップ酒」「彎」などを發表。さらに「世 會就をはじめ、種々の職業を轉々。戦時中、 一時筆を絶って沈默。戰後、ふたたび、戰後「戦後文學の動向』 ( 昭れ・ 5 明治書院 ) その他紀」「木靴」「文學生活」などに關係、また、 谷崎精一一らが中心となって復刊した第三次 文學の評論、近代文學史研究家として復活。多數。 っとむ

7. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

が、そのやうな結論に到着したのであった。 しかし、その後において、すなはち、大東亞戦展開後において、 私小説への作者側の信賴のたかまるとともに、いつばん文壇の否定 の聲にかこまれた事情は、いかなる推移をかたるものであっただら う。むしろ、眞實をかたるものとしての私小説の否定がおこなは れ、その實感の人間性にもかくべつの價値はたかまらず、ひたすら 作者側からのみ、私小説の價値と榮譽がとなへられたといふこと は、なにを示唆するであらうか。もはや、眞實への希求によって、 人間的素朴さのあらはれによ 0 て、今日の私小説はもとめられてゐ近代文學における自我の問題 ないことをもの語る。それは作者側からも、同時に、批評家や、い つばん文壇的な感情からもさうなのである。 かやうにして、今日の私小説のいつばんは、かっての自己形成へ の努力をわすれ、眞實への希求をきりすて、自己みづからを直接 に、よりよく表現しうる形式としてのみもとめられてゐることを知 りうるであらう。しかし、私小説の生命は、今日それ以外にもとめ られぬであらうか。つまりは、自己喪失や、放棄の表現の形式とし てのみしか、やくだたぬのであらうか。國民的感動の表現にさへ個 性の存在をしめすことなく、この亞流と類型のなかに、みづからを 近代文學における自我の念は、近代文學をして近代文學たらし よこたへようと焦ってゐる。それは、みづからの發意と、みづからめている中軸的な観念の一つである。近代文學は市民瓧會の文學と の意志によってではなく、環境への屈從、おのれの欺瞞の錯覺をさ して市民精神にもとづくものであるが、市民精神は營利を絶對の目 へわすれさらうといふ功利心によっていとなまれてゐるのではない的とし、そのことでまず自己の幸輻を實現しようとする資本家的精 の か。いはば、今日の私小説における自己放棄は、當然文學の本質の禪であり、この資本家的精紳は個人の自由と平等とを主張する個人 る 一切の放棄のすがたともなって反映されてゐるのではないか。もと主義の精紳にもとづいている。人間が獨立した個人として瓧會や國 け おめられる國民的、民族的個性への特質的自我の擴充は、かやうな自家の普遍性に優先し、この獨立的個人に本來的な人間の姿を認め、 學己忘却と文學的本質の喪失によってまったうされうるであらうか。 個人の中心原理として初めて自我の念がたてられた。いかなる個 代 * 私小説は懴悔の意識から生まれ、自己潔齋の意味をもっとは私小説人といえども瓧會における個人であり、人間は個人であるとともに 近 擁護派の繰言である。 瓧會であるという二重性をになっているが、人間が瓧會から獨立し た個人であるという意識をもつにいたったのは、とりもなおさず、 3 こういう意識を可能ならしめた歴史的瓧會的現實としての市民瓧會 瀬沼茂對

8. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

の問題をさまざまな形に設定しながら追求することを怠らないこと になった。 近代文學における自我の観念は近代個人主義の中核として個人的 漱石は、自我の一一元的相剋を一作ごとにぶちまけながら、例の修人間のうちに成立した。個人的人間の内部に自我が内在し、この自 善寺の大患のころから、次第に自己を現實の秩序のうちに整理し、 我にもとづいて理想的な人間性が導き出されてくると確信している 自我脱却の境地に、つまりいわゆる「則天去私」の境地にたどりつあいだは安んじて自我の探求に耽っていることができた。しかし近 いていった。この境地は、「行人」の兄である「多知多解が煩をな代人が人間の本性として自己のうちに見出したものは醜い利己心で し」ていた近代知識人においては實現できず、この知性を超えるこあった。美しい人間性を期待して、かえって醜い利己心を見出した うしな とつまり「意解識想」を投げすてて、「一撃に所知を亡ふ」ことを近代人は、この利己心を人間の自然として、これを超えていくとこ 要した。「明暗」は必ずしもまだ、明らかにこれを示しているわけ ろに人間性の理想があると考えて、個性の價値や人格の奪嚴を考 ではないが、「硝子戸の中」の次の文章はこれを感知せしめる。「私え、これを追求する人間的努力を價値づけることができた。しか すこぶ の罪は、・ーー頗る明るい處からばかり寫されてゐただらう。其處にし、これを可能ならしめていたものは封建的瓧會から脱皮した市民 或人は一種の不快を感ずるかも知れない。然し私自身は今不快の上會が、人間を瓧會から獨立した個人として、個人の自我探求が同時 またが に跨って、一般の人類をひろく見渡しながら微笑してゐるのであ に瓧會の秩序を形づくり、その進歩發展に役立っている限りにおい あたか る。今迄詰らない事を書いた自分をも、同じ眼で見渡して、恰もそてである。自我の追求が同時に瓧會の秩序とならず、市民瓧會は階 れが他人であったかの感を抱きつつ、矢張り微笑してゐるのであ級分裂をきたして、不幸と混亂が現れ、瓧會が單なる個人の集合で る」 はなくして、超個人的な論理をもって發展する實體であることを近 鸛外はどうであったか。すでに「妄想」においてかれの自我の發代人の前に示すにいたった。人間は生物學的な個體として個人であ 展をたどり、「靑年」においては漱石と對決しているが、漱石とち るにはちがいないが、同時に超個人的な實體としての瓧會のうちに がって、ドイツ觀念論に出發したアポロ的人間であった外は、自あり、近代的市民はこの個人的自我をもってこの瓧會と對決しなけ 然科學者として「自然」を重んじ、現象を肯定する「生れながらのればならなくなった。本來、この對決を課題とすべき自然主義文學 題 傍観者」として、自らの立場を「あそび」「諦念」と名づけながら、 は、自我の末成熟のために、かえって自我による自己観察をつづ の おんみつ け、漱石や鷦外や白樺派の時代にいたって、かえってこれと對決し 諏漱石と同じように、隱密のあいだに自然と道德との對立を格鬪し、 る 自我を沒却したところに發する高去な絶對的自由な「自我」の境地なければならなくなった。この對決をとおして、自我は分裂と解體 け ーマニズム おにたどりついていったとみることができる。しかし漱石の近代的知との悲劇をたどることになった。ここから現代のヒ = 性は禪に表明される東洋的虚無主義の前に敗北したが、鸛外の卓越が、新しい課題として、社會のうちにおける新しい人間の發見と確 代した理性は、「妄想」の老翁のように、「炯々たる目が大きくられ立とをもって、新たに考察されなければならないことになる。 ( 昭和二十三年十月「文學」 ) て、遠い遠い海と空とに注がれてゐ」た。そこに、鷦外の瓧會主義 との對決の問題がある。しかしもはやこれを論じていることはでき 3 ぬ。 みは

9. 日本現代文學全集・講談社版 107 現代文藝評論集

の頃の敎え子に、大内兵衞らがいた。三十九「文藝思潮論』 ( 大 3 ・ 4 大日本圖書 ) 『狂大』 ( 大かなり細心周密な氣質の持主であったとい 8 年、長崎の陸軍軍醫の娘輻地蝶子と結婚。四 大日本圖書 ) 飜譯『新モンロオ主義』 ( 大う。伸の親友でもあった夫人の兄桂井當之助 十年、長男文夫出生、三高敎授に轉任。四十四 5 ・大日本圖書 ) 『印象記』 ( 大 7 ・ 5 積善館 ) 「小に接近、その影響を受け、はじめて沈潜思索 年、「大陸文學と英文學」を「藝文」に發表。泉先生そのほか』 ( 大 8 ・ 2 積善館 ) 『象牙の塔の生活に心ひかれるようになる。大正五年、 四十五年、三高の近代文學に關する課外講義を出て』 ( 大 9 ・ 6 黐永書店 ) 譯詩集『英詩選沈思靜觀の生活にふさわしい仙臺の一一高を選 び、その獨法科に入學。首席人學であった。 をまとめた『近代文學十講』刊。文學入門書釋』 ( 大リ 3 アルス ) 『近代の戀愛観』 ( 大Ⅱ・川 としてながらく世に迎えられた。大正二年、改浩社 ) この頃の友人に、有澤廣巳・鈴木東民らがい ・禳永書る。六年、竹内氏の養嗣子となる。八年、九 上田敏の推擧により、京都大學の講師とな歿後、遺稿『十字街頭を往く』 ( 大 り、「ヴィクトリア朝並に世紀末の英文學」店 ) 遺稿『苦悶の象徴』 ( 大蜷・ 2 改造社 ) 遺稿月、東大法學部政治學科に人學、十二月、 を講ず。三年、『近代文學十講』の姉妹篇『文『英詩選釋』第二巻 ( 現代抒情詩選 ) ( 大昭・ 3 ア「ディオニソスかアポロか」を執筆する。九 藝思潮論』・刊。四年、米國留學を命ぜられたルス ) 『厨川白村全集』補遺を含み七卷 ( 大・貶 年、文學部倫理學科に轉科。「ポルシエヴィ が、左足のやけどがもとで惡化し、左足切 ー・ 4 厨川白村全集刊行會 ) 『厨川白村全集』六ズムの研究」に專心從う。この論文の脱稿と 斷。五年、隻脚で、米國留學に出かけた。外卷 ( 昭 4 ・ 2 ー 8 改造社 ) ともに發病、十年六月、咯血。養父母の配慮 で、葉山、大原で療養。一時、病状は輕くなる。 遊中、上田敏歿。六年、第一次世界大戦熾烈 化したので渡歐を斷念して、歸朝。アメリカ 七月、「ギニョオとニイチェ」を執筆 ( 「地上の 子」に掲載 ) 、十一月、「二元論哲學の殉敎者」 生活の『印象記』刊。八年、示泉先生そのほ竹内仁年譜 か』刊。九年、神田乃武・市河三喜、クレメ と題してワイニンゲルを論じた講演をする。 リップスの研究に一段落をつける。十二月、 ントとともに、一高高等科英語敎員檢定委員明治三十一年 ( 一八九八 ) 八月八日、愛媛縣 に選ばれた。「象牙の塔を出て」を「朝日新松山市唐人町に生まれた。父片上良の第六子「リップスの人格主義に就てー阿部次郎氏のそ 聞」 ( 3 ・ 5 ー ) に連載、「愛蘭文學の近代文藝 ( 四男 ) 。兄に、のちの文藝評論家片上伸がいれを批評する前にー」を執筆。これは、「我等」 史に於ける地位」を「英語靑年」、「藝術よりる。幼時は、一家は、讃岐、阿波、土佐の各 ( 大正・ 2 ) に掲載される。十一年、二月、「阿 社會改造へ」 ( モリス研究 ) を「大觀」に發表。地に轉住。土佐には三年在住。三十八年、母部次郎氏の人格主義を難ず」を「新潮」に發 十年、「苦鬪の象徴」を「改造」に、「近代のを失ない、一家は北海道根室牧場に移る。さ表。三月、阿部次郞より「竹内仁氏に答ふ」 戀愛観」を「大阪朝日新聞」 ( 。 1 ・ー ) に發らに千島に移り、そこで尋常小學校を終えという反論があり、それに對して四月、「再 表。十一年、「有島氏の問題」を「改造」に發る。四十三年、千島より單身上京、兄片上伸び阿部次郞氏に」を「新潮」に發表 ( 人格主 表。十二年 ( 一九二一一 l) 九月一日、竣工したの家から小石川の礫川小學校高等科に通學。義論爭 ) 。七月、理想主義の観念化をついた ばかりの鎌倉の別莊 ( 白日村舍 ) で關東大震四十四年、早稻田中學に入學。在學中は、西「・ハリサイ人の復活」を「新潮」に發表、こ 災により、二日、津波の厄のため死去。 鄕、ナポレオンなどの英雄を崇拜。「冒險世れがもとで土田杏村との間に論爭が生じ、十 一月、「土田杏村氏に答ふ」を「新潮」に發 主要著書『近代文學十講』 ( 明叩 3 大日本圖書 ) 界」「武侠世界」の愛讀者であると同時に、 たけのうちまさし

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敎授、ついで校長となる年以降は、鎌倉ア ( 昭 + 一組出版部 ) 『唯物論者の倫理』 ( 昭幻中十二年、四月、第二評論集『過渡期文藝の斷 カデミアと改稱、新大學令に應じて四年制となる央公論社 ) 『技術の哲學』 ( 昭 2 1 6 ・ 2 岩波書店、岩波層』刊。六月、「星座」において、この著書 が、 % 年閉校 ) 。二十四年、北鎌倉の自宅内に、全書 ) 『日本の唯物論者』 ( 昭釭・ 6 英社 ) 『日の特集が行なわれ、平田小六・伊藤整・古谷 日本製鐵史の研究を再開。二十六年、名著の本近代製鐵技術發逹史』 ( 昭 5 東洋經濟新報綱武・金親淸・池田壽夫らが發言する。しか 一册とみなされている『技術の哲學』刊。二社、飯田賢一共編 ) 『西歐化日本の研究』 ( 昭 ・Ⅱし、「人民戦線」事件で檢擧。十六年、昭和 十七年、横濱市大文理學部敎授、東洋文化交流中央公論瓧 ) その他多數。 日本文學の展望と副題された『轉形期文藝の 研究所長となる。一一十八年、「三浦梅園の哲 羽搏き』を刊。事變後の轉形期的な一頂點に 學一により文學博士となる。三十一年、橫濱 おける文藝的課題や批判、測を主としたも の。つづいて、『文藝の日本的形成』刊。十 市立大文理學部長となる。『日本の唯物論者』矢崎彈年 により毎日出版文化賞を受く。三十六年、學 八年、現代日本文學研究の曰として『近代自 術文化交流のため、訪ソ。横濱市大の學長と 我の日本的形成』刊。自我の崩壞と發展を軸 なる。三十八年 ( 一九六一一 l) 十一月九日、「鶴明治三十九年 ( 一九〇六 ) 二月一日、新潟縣に、二葉亭・藤村・泡鳴らにふれた近代文學 見事故」と呼ばれている横須賀線の列車事故佐渡ガ島の生まれ。木名訷藏芳太郞。昭和六史再檢討の書である。昭和二十一年 ( 一九四 にあい、急逝。歿後、關係者四十二人執筆の年、慶大文學部卒。この直後あたりから、六 ) 八月九日、死去。 紀伊國屋 三枝博音記念論集『世界史における日本の文「三田文學」に文藝時評を書き同人となる。主要著書『新文學の環境』 ( 昭 9 ・Ⅱ 化』第一法規出版より刊行。 筆名は、十七世紀の英國詩人ジョン・ダンの出版部 ) 『過渡期文藝の斷層』 ( 昭肥・ 4 昭森社 ) 主要著書『認識論考』 ( 昭 3 大雄閣 ) ディルタ性格 ( 激情と纎細さをあわせ持っ複雜な性格 ) に『文藝の日本的形成』 ( 昭・ 2 山雅房 ) 『轉形期 イ『精禪科學序説』 ( 昭 3 大村書店 ) 『資本論のちなんでつけたもの。昭和十年前後の「文藝文藝の羽搏きー昭和日本文學の展望ー』 ( 昭・ 辯證法』 ( 昭 6 ・Ⅱ 刀江書院 ) ディルタイ『記述復興期」の新人評論家として活躍。九年、十大澤築地書店 ) 『近代的自我の日本的形成』 ( 昭 的分析的心理學』 ( 昭 7 モナス、江塚幸夫共譯 ) 月、「白鳥と秋聲の抗爭」を「文藝」に發表、 7 鎌倉書房 ) 歿後、遺稿『三代の女性』 ( 昭・加 『、ーゲルの観念論辯證法新研究』 ( 昭 7 モナス、十一月、第一評論集『新文學の環境』刊。十日本出版株式會社 ) 譜今田竹千代と共編 ) 『日本に於ける哲學的觀念論年、三月、「能動的精の價値と第一の過程」 樹 の發逹史』 ( 昭 9 文圃堂書店 ) 『論理學』 ( 昭 2 三を『能動精。ハンフレット』 ( 田邊茂一編 ) に收 茂 沼笠書房、唯物論全書 ) 『小説と論理』 ( 昭Ⅱ野田書房 ) 録。四月より創刊された石川逹三・山本和瀨沼 ~ 戊樹年 『日本の思想文化』 ( 昭第一書房 ) 『文學のフ夫らの「星座」 ( 創刊號には、第一回芥川賞とな 崎イジカとメタフ不ジカ』 ( 昭・ 3 河出書房 ) った「蒼氓」掲載 ) におくれて參加、「論理侮蔑 『日本の知性と技術』 ( 昭Ⅱ第一書房 ) 『技術史』の時代」「現象論に於ける小林秀雄の弱點」明治三十七年 ( 一九〇四 ) 十月六日、東京本 ( 昭巧・東洋經濟新報社、現代日本文明史『三浦「靑野季吉・林房雄への批難とその日本的卑鄕元町一の一で生まれた。本名、鈴木忠直。 梅園の哲學』 ( 昭 3 第一書房 ) 『技術史研究』俗性その他」「絶望のリアリズム」など發表。父の轉勤に從って、小學、中學ともに三度鱒