とか、勤め先とか、どんなところに住んでいるかとか、つまり履歴書で人を評価しようとしてい ます。面接なんかもやりますけれども、面・接であって、ことばはほとんど問題にしない。 ばよりも見た目を問題にします。将来は、もうすこしことばで相手をとらえ、こういうことばを 使う人はどうかなとか、ことばを重視するようにならなければいけないのではないかと思いま す。入社試験でも面接は必ずやりますし、大学の入学試験でも、二次試験で面接をふやそうとい うようなことを言ってますが、いまのところはまだ字づらが「面接」とある程度に、眼で見た印 象のほうがだいじにされています。 日本の社会もだんだんすすんでくれば「マイ・フェア・レディ ー」が受け入れられたアメリカ のように、またその四十年前に『。ヒグマリオン』という芝居が書かれたころのイギリスのように なるでしよう。そうなれば、ことばが人間の価値をきめるだいじな手がかりと考えられるのでは オいかと思いまオ % いまのところそうなっていないのは、日本では、これまで話をするということが、それほどだ わざわ いじなことではないと思っていたからです。よけいなことをいうのは、クロは災いのもと々とか ひとこと多いとか言いました。あまりことばをだいじにしない伝統があったわけです。それがい まも依然として続いていて、同じことばでも、文章を書くのは高級なことだけれども、しゃべる 冫いかに正しく、 のは誰でもしゃべれるのではないかというふうに思われてきました。本格的こ、 美しく、相手を傷つけないように話すか、という訓練はほとんど受けていないわけです。そのか
退屈します。疲れる。うわの空になり頭によく入らないでしよう。 みんなを集めて、ひとりが話をしなくてはならないことがあります。たとえば、講演、訓辞、 報告などです。 こういうときは、一方的な話しつばなし、聞き手は一方的に聞き役にまわる、ということにな ります。それだけに、おしゃべりよりも話し方がむずかしいのです。いちいち、 「どうでしよう、この点について、〇〇さん、どう思いますか」 とか 「ここで、ちょっと、みなさんのご意見を伺いたいと思います」 などとやったのでは、かえって、混乱します。 一応、言うべきことは、全部、まとめて言ってしまわないといけません。しゃべりつばなし、 いつまでもポールを手放さない。ヒッチャーのようになるのです。キャッチャーとしてはジリジリ します。 そうかと言って、たくさんの聞き手が、みんな勝手にビッチャーになって、めいめいがポール を投げたら、二人だけの会話ではないから、収拾すべからざることになるでしよう。 どうしたらよいのでしようか。 話すほうでは、聴衆にポールを投けます。受けたほうが心の中で、その返球をできるようにし てやるのです。 そら 152
で何か言えば話がこわれる、我慢しておこうというので、抑えます。ところが、抑えられなくな 8 ると、今度は突如として感情的な泥試合が始まる。「あなたの言ってるのは間違ってる」「いや、 あなたこそ間違っている」「そんなことを言うのはけしからん。だいたいあなたという人が気に くわない」、こういうふうになると、もう議論などではなくなります。人身攻撃です。 意見の違いにあわてない 会社と組合、消費者とメーカーというふうな、対立したものが討論をすると、たいていトゲト ゲしくなってくる。それは「お互いに意見の違う、ということが当然なことである」というとこ ろからスタートしないで、むしろ「一致すべきである」というところから始まるから、議論にな らないためです。何がなんでも一致すべきであると思っていますから、「あなたがそんなほうへ いくからだめなんだ。こっちへいらっしゃい」「いや、あなたのいるところが悪いんだから、こ っちへいらっしゃい」「あなたが悪い」「いや、そっちが悪い」となります。要するに相手が悪い というところへいってしまうのです。 話し合いが必要なのは、立場が違い、利害が違うからこそですが、それを考えないわけです。 だから、話しているうちにお互いの立場が違う、ということがはっきりしてくると、日ごろか ら、立場が違う人は敵だ、と思う気持ちがありますから、憎いとか、やられるかもしれないとい う不安から、攻撃しようと思って攻撃に出る。向こうも負けずに攻撃してくる。そのうちにだん
しかし、それでもなおかっ、笑わすにいられないというのは、よほど血のめぐりがいい人なの 講演で一時間ぐらい話すと、聞いているほうもたいてい疲れます。さらに一時間半になります と、相当疲れます。そういうとき、疲れを感じさせない方法は、笑わせることなのです。始めの 十分ぐらいしたら、いっぺん笑ってもらわないと困ります。そこで、こういうふうになったら笑 うんですよ、という一つのサインを送って、「笑えますねーという確認をするわけです。そのた めに、話をしなれた人というのは、最初の十分のあいだに、笑うような球を投げるのです。とこ ろが、球を投げても笑わない聴衆がいます。あれ、おかしいな、自分のいまの話はまずかったか な ? と思って、しばらくして、もう一回球を投げます。これでも笑わない。そうすると話すほ うは、調子がくるって、もうあとの話がだめになってしまうわけです。 ところによっては、はじめの三回、四回は完全に無視されて、三十分ぐらいしてはじめて笑う 人が出てくるという聴衆があります。遠慮していて、はじめ二、三人がクスクス笑うと、みんな がそれにのってクスクスと笑う。つまり、ああ、これは笑ってもいいんだな、と思う。そこまで 術に三十分ぐらいかかります。その前は、何回もストライクがきても知らん顔してて、バットを振 とらないのです。ところが、何回かやってるうちに、これはバットを振ったほうがいいのかな、振 気れば当たる、と思うようになり、三、四十分のところから急に気を許して笑うわけです。 日本人に、理知的な笑いというものの感度がにぶい人が多いのは、そういう訓練が足りないか 二一口 2 幻
うまい話をするためには、うまい話を聞くことです。これがすくないのですが、ます落語で す。落語を聞かなくてはいけません。落語は日本独得の話し方です。落語の間だとか、話の運び だとかいうものがあります。ことに女の人はよく聞いたらよいと思います。 漫才というのは、一種の対立した話のようであって、ふざけて、そこから生じてくるおもしろ さを扱っていますが、漫才もいいでしよう。しかし、漫才よりは落語を聞くと、話し方のセンス がよくなります。ことに上方落語がいいでしよう。政治家にもうまい人がいます。そういう人の 話をよく聞くことです。 お坊さんなんかも、ほんとはもうすこし話のうまい人がたくさんいたほうがよいと思います。 東京の近くの非常に有名なあるお寺のお坊さんですが、説教がなかなかうまくできないので、 よせ 上野と横浜の寄席へ通って、どうしたら話ができるかという研究を十年ぐらいしたそうです。や はりお坊さんでも、話をうまくしようという人は相当努力しているわけで、普通の人でも、おも 手 きしろいから聞くのではなくて、話し方として落語を聞く、あるいはうまい人の話を聞くというこ とは必要だと思います。たとえばアナウンサーの鈴木健二氏とか、黒柳徹子さんとか、これは内 よ 容を聞くことももちろんですが、そうでなくて、話の運びとか、そういうものをよく聞いている しと、だんだん上手になってきます。 聞くときには、なるべくおもしろい話し方を聞くようにします。 手 上 「会話のときに、シャレ、冗談を好むかーと聞かれて、「イエス」と答えている人が、十六 ~ 三
「ありがとうございます」 なさけ 情は人のためならず、相手に水を向けたために、この社員はめんどうな計画の練り直しという 手間をはぶくことができた。社長もごきげんです。めでたしめでたし。 人間、人情ということにかけては、えらい人も子どもも変わるところはありません。 嘉納治五郎は柔道の創始者です。講道館を開いて、いまや世界のスポーツとなった柔道の基礎 をかためた先覚者でしたが、東京高等師範学校の校長をつとめ、教育家としても令名が聞こえて いました。 教授が校長のところへ厄介なたのみごとをもっていく。校長は渋い顔をしてなかなか「うん」 と言われない。そこで教授は、またも同じことをして気がさすがと思いながらも、 「ときに、先生、先日、柔道の〇〇三段にばったり会いましたが、〃元気でやっています。先生 によろしく伝えてほしいと言っておりました」 これで嘉納大校長の顔面神経の緊張がとけます。 づ 「そうか。〇〇に会ったか。あいつはいい奴だが、努力せんからいかん。才能はいいものをもっ ムておるのに惜しい る なというような話を始められる。教授は内心 ( 「しめしめ、こうなれば、もうこっちのものだ」 ) と 思います。実際そのとおりで、よほどむずかしい問題でも、たいていなんとかパスします。それ 話 が語り草になっていたというから、よほど多くの人が同じ手を使ったに違いありません。それが 1 引
そういうところが外国人には不思議にうつっても不思議ではありません。 ドナルド・キーン氏は『日本の文学』 ( 吉田健一訳 ) の中で、こういうことを言っています。 「素朴な表現というのは、どうも日本語の特色をなすものではないようで、日本語ぐらい、意味 がはっきりしなくて暗示に富む国語は、世界にあまり類例がない。 日本語の文章は最後に〈だろ うか〉とか、〈かもしれない〉とかいうことを表す短い語尾がきて、全体が疑問の形を取ること になり、掴まえどころがなく煙になって消えてゆくのが少しも珍しいことではない」 こう言われたからとて、ズバリものを言ったりすれば、たちまち人間関係がおかしくなってし まうでしよう。 いまの若い人のきわめて大きな関心は、人間関係をどうしたらよくするかにあるようです。し かし、そういう人たちが、案外、ことばづかいの配慮が欠けているばかりに、こわさなくてもい い人間関係をこわしていることがあるのに気づいていません。 よく、率直にものを言ってほしい、などと言われます。それを真に受けて、思ったことをズケ ズケ言ったりすれば、たいてい言われたほうは気を悪くするのです。率直に批判するときでも、 方適当なべールをかけるのが日本語のたしなみでしよう。 話ここのところがのみこめたら、ほかの人から、心のやさしい人と思われるようになります。 こういう話もあります。 フ 日本語のよくできるイギリス人の物理学者が京都へきていて、日本人の書いた物理学の論文を 115
言われるより、ずっとマシだと思うけどな」 「わたしに言わせれば、鈍感と言われるのもおもしろくないけど、ただごとではない顔色をして いると言われるほうがずっといやだわね」 「わかんないな」 「みんな、からだのこと気にしてるからよ」 「だから、注意してあげたら、感謝されていいじゃない」 「たいして調子が悪いと思っていないときに、他人から顔色が悪いけど、どうした、なんて言わ れたら、そのトタンに気分が悪くなってしまう」 「気のせいだよ、そんなの」 「その気をおこさせるのがいけない」 「ことばはただのことば。気にするからいけない」 「そうではないわ」 「ことばにとらわれているんだ、姉さんは」 「わたしだけではない。みんなそうよ。そうでなかったら人間でないかもしれない」 「これはひどいことになった。ぼくなんかスレスレのところで人間というわけか」 「もし、実ちゃんのお友だち三人が、別々に、ときどき、〃君ってダメな人間だね〃というよう なことを言うとするとね、そのうちにあなた、本当に、オレ、ダメな人間かもしれないと思い出
いうのはメンタルなスポーツでね。からだのコンディションよりも、精神的コンディションでス コアが大きく変わってくる。こわいくらいだよ。社で気にかかることがおこっていると、どうも 成績がよろしくない : きんちょう もうこうなっては、社員氏は相づちを打っ必要もない。ほほえみをたたえて謹聴していればよ ろしい。断わるまでもないこと、この社長さん、三度のめしよりゴルフがお好き。だれかゴルフ 自慢の相手になってくれるものはないかとつねづね思っているが、みんなへきえきして、よく聞 いてくれようとはしないのです。欲求不満です。社長の田んぼがカラカラに乾いているところ へ、水を向けてくれる人間があらわれたからたのしくてたまらない。時のたつのも忘れてしま う。ひとくぎりしたところで社員が、 「それではまた伺います」 と言います。社長は自分でもさっきのむずかしい気持ちなどウソのようになっています。 「さっきの件だがね、君の案でまとめてくれていいよ」 「でも : : : 」 「いや、あのほうがいいかもしれない。ぐずぐすしていると、他社に抜かれるかもしれないしな。 やってくれたまえ」 「よろしいのでございましようか」 「うん」
こういうことで話がつながっていくと、大筋は全く伝わらないのです。だいじなことでも、都 合の悪いことは全部捨ててしまって、どうでもいいが、自分に気に入ったところだけ、お互いに つまみ食いしています。これだと長いあいだ議論をしていても、ほとんど話が通じないことにな るのです。枝葉のようなところだけで、わかったような顔をしています。 日本人全体にそういう傾向があります。日本人が議論がうまくできないのは、相手はどこが違 うか、ということを注目しないで、どこで自分と同じことを言ってくれるか、ということばかり に気をとられているからです。 長く聞いていれば、どこかに自分と同じことが出てくる。それで同じだ、同じだと思って、 「わたしもそう思いますー「そうだわー「賛成です」などと言っていますけれども、実際は違うと ころがいつばいあるわけですから、最後になって、「もうこれでお互いにわかりましたね」と言 うと、「そうじゃありません」となります。だいじなところで違っています。 それを言い出すと、「そんなはずはない。わたしはそんなつもりで賛成していたんじゃない」 となって、今度は一転、「あなたの言ってることはそもそも間違いです。私はそんなことを許し ません」となります。感情的です。「あなたのおっしやってることはすばらしいわ」「そうです ね、わたしも賛成です」「まあまあ、だいたいそんなものでしよう」。これも感情的ですが、どう も意見が一致しないらしいということがわかると、そこでもやはり感情的に相手を敵にしてしま うようです。 706