頭がいいほどよく笑う 笑いには二つの種類があります。一つは生理的な笑い、箸がころんでもおかしいという、くす ぐりとか、なんでも笑う生理的な笑いです。もう一つは理知的な笑い、頭を使って笑う笑いのこ とです。 日本人の笑いは、だいたい生理的な笑いが多いようです。外国人が見ると、わけもわからない ときにニャニヤ笑う。これを「オリエンタル・スマイル」というのだそうですが、気味が悪いと あいきよう いう人や、神秘的だという人、愛嬌があるという人、解釈はさまざまあります。 その生理的笑いも、声をあけてカカと笑う笑い方もあるし、ニャニヤ笑う笑い方もあります。 このニャニヤ笑いは、主にテレ隠しとか、お愛想に笑うことが多いようです。また、冗談などが おもしろくて声をあげて笑うときでも、生理的笑いに近い場合がありますが、ここでは、話をし ているときに、お互いにたのしく話をする条件として、理知的な笑いがあるということをお話し してみたいと思います。 ″笑い″と話術 279
らです。漫才などでは頭をポンポンとたたきますが、あれは生理的な笑いを誘発するためのもの です。話の内容は、かなり理知的な笑いを引き出そうとしているんですが、みんなが感じないか ら、それよりは相手の頭をたたくと、みんなゲラゲラッと笑う。その生理的な笑いに引き金を引 かれて、知的な話のおもしろさも、ちょっぴりわかるというふうになっているわけです。 しかし、普通の講演や話は漫才と違いますから、生理的笑いを引き金にして、知的な笑いにと いうふうこよ、 冫。しかない。この場合、若い人はたいへん感度がいいのです。中年の人は悪く、社会 的洗練度がすくない人はさらに感度がにぶい。頭の回転の早い人、いわゆる頭がいいと普通いわ れている人は、さっきの学校の例のように、だいたいにおいてよく笑うわけです。 知的なク笑いをとり入れよう 笑いという形で話を理解していくことができないと、ユーモアとか、おもしろい話というもの は発達しません。いままでの訓辞とか、講話とか、式辞というのは、みんな退屈でおもしろくあ りません。ひたすら耐えて、早く終わらないかなと祈ってる話が多かったのです。要するに生理 的笑いは下品である、失礼である、場所柄をわきまえなければならん、荘厳なるべき儀式に笑う ことはよくない、ということで禁じられていたのです。そうすると、笑いはすべてそういうもの だと思ってしまいます。わたしはそういう人を「笑わん殿下」と言ってますが、これが大量に発 生しているわけです。 222
社会がだんだん変わってきましたから、大学などではよく笑います。頭のよさというのは、知 的な話に興味をもって、敏感に反応する力をもっているということになります。だれでもいつも 卒業証明書をぶら下げて歩いてるわけにいきませんから、頭のよさというのは外から見ればよく わからないわけです。議論をしてもよくわからないのですが、微妙な話を笑うとか、おもしろい と思うかどうか、それが。ハロメーターになるといっていいでしよう。 だいたいのところ、女の人のほうがあまり笑わないと思いますが、生活に密着した話をしてい ると、わりあいよく笑うようです。いつもしているのが身につまされる話、関係のある人の噂や ゴシップのたぐい、固有名詞に即した話が多いから、あまり知的笑いの出る幕がありません。知 こよって笑われます。ちょっと浮世離れした、お互いの身につまされない話が 的笑いは知的な話冫 必要なのです。 生理的笑いで、つまらない冗談やくすぐりで笑っていると、知的な笑いがあまりなくても満足 ということ します。知的な笑いがたくさんあれば、ダジャレのようなもので笑わなくてもいい、 があると思います。女の人はよく笑うけれども、理知的な笑いというのがややすくないのではな 術いかと思います。これからの女性が魅力的なことばを使うには、もう一つの知的な笑いというも とのに興味を示すことが必要でしよう。 知おもしろおかしくないことでも、考えてみるとおもしろいと思うことはあります。ケタケタ笑 うことは必ずしも必要ではないのです。心の中で笑う、おもしろいと思う、そういう能力をだいじ 一口 223
です。 ところが、このごろ、女の人のあいだにも、これまでみてきたように、名詞人間がふえてきま した。これは大きな変化です。その原因はいろいろ考えられますが、もっとも大きなのは、学校 教育の影響です。 学校では名詞構文の多い本を読ませます。知らずしらずのうちに、名詞人間を養成します。か っては、女性は男性ほど教育を受けませんでした。そのために、動詞人間であったのです。 やわらかい、耳から聞いてよくわかることばを話しました。女の名前が仮名で書かれることが たんてき 多かったのはそれを端的に示していました。男は漢字の名前をつけたのと対照的でしたが、この ごろは、女の名もほとんどが漢字になり、その点では男と区別がっかなくなりました。昔は「か おる」といえば女、「薫」なら男、とたいていきまっていましたが、いまは、男女ともに「薫」 高等教育が普及して、女子の進学がめざましく増加するとともに、女性の名詞人間がふえまし た。漢字、漢語をどんどん使います。それを近代的で明るいように感じているらしいのです。 これは最近の日本語におけるきわめて大きな変化であるといえましよう。それは、女性のこと ばが乱暴になったなどということより、根本的なことであるように思われます。 名詞人間のことばは、ビジネスライクで、合理的で、明快かもしれませんが、その反面、どこ か冷たい感じもいなめません。時と場合によっては、それもよいのですが、日常生活の会話など 178
日本語の伝承者であったわけです。美しいことばは女性的だと感じられてきました。 内と外とのきりかえがだいじ きわめてすぐれたことばの感覚をもっていた谷崎潤一郎が、『源氏物語』にせられ、それを 現代語訳することによって、日本語の美をとらえようとしたのは、室内語の純粋なかたちをこの 古典に発見したからでしよう。東京生まれの谷崎が関西に居を移し、関西の女性を夫人としたこ とは、室内語をわがものにするためには、生活そのものをそれに合わせることを示しています。 ところが、社会が変わりました。女性も外へ出て働くのがあたりまえになりました。これまで のように室内語を蚊のなくような小さな声で言っていたのでは、相手にわかってもらえません。 ことばをかえる必要があります。社会的進出をした若い女性たちが、そう思ったのではありま せん。はっきりした自覚はないまま、女性のことばの大変化は始まったのです。このことはあま り注意する人はありませんが、何百年に一度、あるか、ないか、というほどの大きなできごとか もしれないのです。日本語はその性格を根本的なところで変化させようとしています。 これまでの室内語ではいけない、まず、そう感じたのは学校の女の先生であったようです。先 生は話すのが商売です。ぼそぼそしゃべっていては生徒は聞いてくれません。かっての生徒は神 妙におとなしかったが、民主主義的教室はさわがしい。落ちつきのないクラスで授業するには、 よくとおる声で話さなくてはなりません。 100
チャーミングな早ロ 先日、総合放送文化研究所の主任研究員の人からこういうことを聞きました。いま テレビ、ラジオでニュースを読んでいるアナウンサーの速度は一分間に三〇〇字だそうです。 いいかえると、四〇〇字詰原稿用紙一枚を読むのは一分二〇秒です。 これがすでに相当なスビードです。アナウンサーは専門的訓練を受けているから、これだけの 速さで読んでも、ことばが乱れたりしません。明瞭に聞きとれます。それほど速いとも感じられ ません。シロウトが一分に三〇〇字も読もうとすれば、ロがもつれ、舌足らずになってしまうで しよ、つ -0 よく若い学者がこれで失敗します。 口になっていることが実証的に明らかにされたのです。 われわれ若ものが、先生の話しぶりをひどくゆっくりしたものと感じたのも、個人的事情が全 くないわけではありませんが、話のテンボに関する世代差によるところもすくなくないだろうと 思われます。 この研究はもう二十年くらい前におこなわれたものです。当時に比べて、このごろは、もっと 早口になっていると想像されます。かっては早ロは欠点とされたが、いまは、そうではなくなり ました。
こういうことで話がつながっていくと、大筋は全く伝わらないのです。だいじなことでも、都 合の悪いことは全部捨ててしまって、どうでもいいが、自分に気に入ったところだけ、お互いに つまみ食いしています。これだと長いあいだ議論をしていても、ほとんど話が通じないことにな るのです。枝葉のようなところだけで、わかったような顔をしています。 日本人全体にそういう傾向があります。日本人が議論がうまくできないのは、相手はどこが違 うか、ということを注目しないで、どこで自分と同じことを言ってくれるか、ということばかり に気をとられているからです。 長く聞いていれば、どこかに自分と同じことが出てくる。それで同じだ、同じだと思って、 「わたしもそう思いますー「そうだわー「賛成です」などと言っていますけれども、実際は違うと ころがいつばいあるわけですから、最後になって、「もうこれでお互いにわかりましたね」と言 うと、「そうじゃありません」となります。だいじなところで違っています。 それを言い出すと、「そんなはずはない。わたしはそんなつもりで賛成していたんじゃない」 となって、今度は一転、「あなたの言ってることはそもそも間違いです。私はそんなことを許し ません」となります。感情的です。「あなたのおっしやってることはすばらしいわ」「そうです ね、わたしも賛成です」「まあまあ、だいたいそんなものでしよう」。これも感情的ですが、どう も意見が一致しないらしいということがわかると、そこでもやはり感情的に相手を敵にしてしま うようです。 706
というのは、名詞を中心に表現していることになります。 前のほうを動詞構文と呼ぶなら、あとのほうは名詞構文ということできます。 日本語は、どちらかというと、動詞構文を好みます。英語などが名詞構文に傾くのと対照的で す。 明治この方、インテリと称せられる人たちは、日本語の個性から、あえてはずれて名詞構文を 多く用いました。それが、動詞構文を中心にして生活している人たちに、高踏的で、冷たい感し を与えました。日常生活では主として動詞構文を用いていたのです。 日本語は二重構造をもっていました。あらたまったとき、あるいは、論文などでは漢字の多い 名詞構文により、ふだんの当用には仮名の多い動詞構文を使いました。とくに、女の人は男以上 に、動詞構文を多用しました。それが、女性特有の、ものやわらかさと感じられたのです。女ら るしさと受けとられました。 「この事実の一般的認識 : : : 」 よ のなどという女性はいません。男だっておかしいほどです。 ごロ 本「これを多くの人が知っているのは : : : 」 にしても、なお、どこか構えている印象です。 「そんなことみんな知ってますでしよ。そら、こんなことわざだって、あるじゃありませんか」 日 これが動詞構文らしい動詞構文です。会話の中では、舌をかむような漢語は使いません。かっ 175
人をみて話題を選ぶ 柔道はすっかり世界的になりました。このあいだも。ハリの世界柔道選手権大会の実況をテレビ で見ましたが、日本のお家芸だなどとは言っておられないくらい外人選手がつよいのです。それ でも、 「イツポン ( 一本 ) 」 「ワザアリ ( 業あり ) 」 「ユウコウ ( 有効 ) 」 「コウカ ( 効果 ) 」 はっしよう などのことばが使われているところは、さすがに日本の発祥であることを感じさせて心づよい かぎりです。 柔道の世界的普及に努力したのは、人も知る嘉納治五郎です。講道館主であったが、同時にま た東京高等師範学校の校長として令名がありました。 トーク・ショップはさける
だけ向いて、相手の風に合わせて、自分がそちらのほうを向くということができないからです。 仕事の上で人間関係がうまくいってないというときに、その原因はどこにあるかと思うと、柔 ろいろな人につき合うということは 軟に風のほうを向けないというところにある場合が多い。い 案外むずかしいことですが、自由にそれに適応することが、これからますます必要になってくる と思われます。 話し方というのは、どのようにうまく話すか、ということももちろんだいじですが、その前 に、どっちのほうから風が吹いてくるか、ということを瞬間的にとらえて、そっちのほうを向く ことが要求されているのです。この人はかなり知的な話をしようとしているとか、これは人の噂 話だとか、これは同じ知的な話でも芸術的な話なんだとか、これはビジネスの話だとか、これは の関係の話たとか、その場その場の調子に合わせる適応が必要なのです。 これは服装にしても、いつでも同じ黒の服を着ていたら、バカみたいなものです。冬になれば 厚手のものを着るし、夏になれば涼しいものを着ます。不幸なときには黒を着て、結婚式には華 やかなものを着る。お互いにいろいろなものを着ているわけです。 ところが、頭のきりかえというのはかんたんにいかない。たとえば学校の教師をしていると、 教師的発想が出て、いつでもそっちのほうを向いて、成績がよくなるとか、成績が悪くなるとか いうようなことでとらえてしまう。そうすると、子どもがいろんな風を送ってきても、先生の頭 。、、こいために、ごく一部の子どものことばしか先生の耳に入らなくなってしまうのです。 2