ちょうどよいところでとめようと思うと、どうしても、オー ところで停止するように心がけます。 腹八分 ロ八分 にします。もうすこし言いたいと思っても、まてよ、言っても、 わざわ す。はずみでロにすることがしばしば災いのもとになります。 ことばにも衣裳を着せて 腹をたてて書いた手紙はすぐ出すな。アメリカの手紙作法にそういうことが書いてありまし た。ひと晩寝てから読み返すと、これではいけないと思うようになります。三日たっと、もう出 さなくていいという気持ちになります。なぜこんなことを書いたのかと後悔するーーというの い手紙だから、こういうことができます。時間がたってみると、反省する心のゆとりもありま さす。話すことばでは、それができません。口がすべります。つい言ってしまいます。あとでどん になにくやんでみても、とりかえしがっきません。あとの祭り。手紙を書くよりしゃべるほうがす 場っとむすかしい、ずっと危険だということがわかります。手紙だって、 筆先八分 しいだろうか、と考えるので ーランになります。すこし前の 195
うちの中では、わりあいにおとなしくしているのに、外へ出ると勇ましくなる。どうしてかよ くわかりません。 いちばんいちじるしいのは大声。ことに若い女性の大声はこのごろの注目すべき現象です。 先日もターミナルのデパートでエレベーターに乗りました。満員だが、ひどく騷々しい。エレ ペーターの奥のほうで何人かがペチャクチャやっています。男もいるらしいが声が低くてよく聞 こえず、女の声がビンビンひびきます。 エレベーター嬢が案内するのもかき消されてさつばり聞こえない。どうせたいしたことを言っ ているわけではないから、まあいいと思っていますと、彼女が突然、叫びました。 「エレベーターの中では、お静かに願います」 その勢いにのまれて、さっと静かになりましたが、明らかに、気ますい空気を運んでエレベー タ 1 は上がっていきました。このエレベーターガ ールはよほど勇気があります。普通なら、うる さくてもなかなか、あのように決然と叱ることはむすかしい。しかも、相手はまがりなりにも 声〃お客さま〃です。 の別のところで、やはりエレベーターに乗っていたら、うしろで、「キャーツ」と言ったようで なした。変なまねをするのがいて何かしたから悲鳴をあげたのでしよう。とっさにそう思いまし 消た。ところがそうではありません。友だちとごく普通の会話を始める出だしだったのです。 っ 道を歩きながらではもっと大声で話しています。もっとも、このごろの都会の街路はひどい騒 3
わり本を読むということは、たくさん訓練を受けている。書くこともいくらか訓練されました。 手紙が書けないとか、文章を書くと間違いが多いとか、誤字、脱落が多いというようなことには 大さわぎしますが、話し方ができてないということは、あまり問題にならないのです。 ことばの基本は話すことにあります。その基本をおろそかにして、書いたり読んだりだけを見 ているのは、最近は日本語の関心が高まり、日本語ブームだなどと言われたりしてますが、どう もまだ本物ではないようです。残念なことです。ことばに対する関心があるというのは結構です が、ことばというのは、やはり小さいときから耳で聞いて、ロで話すことばが基本です。そのう えに文字というものを学んで、文字でことばを書きあらわし、それを読んでいく、というのが順 序です。日本人はまだことばを非常にだいじにしているとは言えないと思います。 社会で仕事をしていくうえで、ことばが何よりの武器であり、道具であり、宝である職業がふ うえてきました。セールスマンもそうですし、企業の中ですと、会議とか、立場の違う人とディス の カッションしなくてはいけないとか、話し合いによって事をきめなくてはいけない場合がふえて デきました。しかし、たとえば、学校教育の中ではほとんど話すことは問題にされていません。役 レ 所も書類はどんどんつくり、その書類にポンポン判をおしています。けれども、ほんとによくわ ア 工かるように、お互いに話し合いをしているかというと、あまりしていない。依然として書類ばか りだいじにしている。人間のコミ ュニケイションは、印刷物や、文章で意志を伝えることもでき イ マ ますが、直接的には話し合いということが必要なわけです。これからの時代は、話すことばを中
これが間接話法です。これなら聞いた丙郎は、笑っていられます。ところが、バカ正直に、 しし奴ですが、ちょっと、こま 「甲彦さんが、あなたのこと、こんなふうに言ってましたよ。〃、、 ・ : 。はっきり言えばケチなんですね々ですって」 かすぎるところがあって : などと言おうものなら、「ああ、そう」、ではすまされなくなります。 英語の文法では、直接話法を間接話法に変換する練習をさせます。日本語でいうと、「彼は私 に言った〃あす、きみのところに行きますと」。これが直接話法ですが、間接話法だと「彼は 私に、その次の日にわたくしのところへくる、と言った」となります。両者はほぼ同じ意味だと 考えられています。こういう内容なら、たいして問題にはなりませんが、甲彦と丙郎が話したよ うなことを、当事者に直接話法で話したりしてはいけません。そのとおりを話したんだから、か まわないではないか。そんなことを考えるのは、子どもです。 い年をして、なお、それがわからず、直接話法をふりまわしているようでは、もうお話にな りません。死ななきや、なおらないでしよう。さしさわりのありそうな話は、直接話法でほかの 陰人に伝えては、き 0 とさしさわりが出ます。間接話法で適当に水で割 0 てやる必要があります。 ロ いちばんいいのは、そして、いちばんむずかしいのは、聞いた話は胸にしまって、口外しない 告ことです。 そういうことをすると、あるいは、からだにさわるかもしれません。胃のつよくない人なら、 み 慎 かるいカイヨウくらいおこす危険もあります。いのちがけです。それでも、めったなことをしゃ
敬語の使えない人は、すこしもめすらしくありません。完全な敬語を使うのはたいへんなこと です。神経質になったらものなど一一 = ロえなくなってしまいます。 目上の人に向かって、 「ご苦労さまでした」 は間違っていて、 「お疲れさまでした」 と言わなくてはいけない、 といいます。たとえ、 「ご苦労さまでした」 でも、全体に相手をたてようという気持ちがあれば、 「あなたが手紙に書いていた : : : 」 などとは言わないはずです。 「お疲れさまでした」 ま と一一一口うことは知っていても、 開「先生が教室にきませんでしたから : : : 」 校などと言うようでは話しになりません。 学 し「お手紙にもありましたが : : : 」 話 とやれば「お」以外には敬語を使わなくてもいいのです。
でした。さほど疲れるはずはない、世間がそう思い、本人たちもそう信じました。これが間違い なのです。 しようもう 声を出すのはひどく疲れる。とりわけ、大勢の前で内容を考えながら話すのは消耗がひどい 新しく先生になった人は、そんなことを知らずに生徒の前へ立ちます。いまの教員養成は何も 。フロらしい教育をしていないから、世の中に話し方などというものがあるとも知らずに教師にな ってしまいます。白墨結核説がささやかれたころは戦後悪評高い師範教育がおこなわれていて、 黒板の字はどこから書くべきか、などということまで師範学校では教えました。 それなのに、話し方の教育がなされなかったのです。人間ならだれでも口がきけます。何を教 えることがあろうと思われたのでしよう。たいしたことはあるまいとタカをくくって教師生活を 始めたのです。 くぜっ 教師はロ舌の徒です。舌先三寸で勝負をします。言うことをきかない子どもにものを教えるの はナマやさしい仕事ではありません。ポソボソやっていればさわぎ出します。大声をはりあげな くてはならぬでしよう。 からだこそ動かさないが、これが重労働なのです。一時間しゃべって、十分休んだくらいでは 疲労はとれません。しゃべり方を知らないからよけいに疲れます。一日の授業が終わると、へと へとです。これを繰り返していると、結核にねらわれます。 さいわい夏休みがあります。新米教師はフラフラしながら夏休みへ逃げこみます。そこで栄養
ゼスチャーをまじえて 大正から昭和にかけて、久留島武彦という童話家がいました。すばらしい講話をするというの で評判でした。 その久留島が話し方を教えた本の中で、手を両側にだらっとたらしているようでは、聞き手の 心を動かすような話はできない。手にもものをいわせなくてはいけない、とのべているところが あります。 はじめてそれを読んだとき、すこしいやな気がしました。そこまでして、相手にサービスする のはいき過ぎではないか。だ、、ち、みつともない。むしろ、地味に・ほそ・ほそ話したほうがかえ って聞く人の心をひくだろう。そんな感想をもったのです。 ところが、やがて、それはこちらが未熟だったせいだとわかるようになりました。日本では話 し方がよく考えられていない、 というべきかもしれません。 こうかくっ 0 昔から、以心伝心とか腹芸とかをよろこんでいた国ですから、はでに〃手ぶり身ぶり〃でロ角 手もロほどに :
日本人はことば好きである、といわれます。本もよく読みます。外国人がおどろきます。日本 人は乗りものに乗ってさえ、脇目もふらずに本を読んでいる。どうしてあんなに本を読むのだろ うかといって : しかし、ことばは文字、本だと思っています。話すのなんかは問題にしません。 先生たちにしても、本を読み、文章を書くことはそれなりに教わってきます。ところが、話し 方などは全くしつけができていません。話すくらいだれだって話すだろうと思っています。それ で教室へあらわれた新任教師は途方にくれます。四十分、五十分の時間をどういうふうに使った らいいのか見当もっきません。それに目の前には大勢の子どもがいます。すこしあがります。あ がると、早口になるものです。自信のないことを話すのにも早口になります。落ちつきを失って いる何よりの証拠です。同じことをしゃべるにも早ロだと、疲れがひどいのです。 ゆっくり息つぎができないまま、なけなしの息をしぼり出すようにして声を出す。これがいち ばん、からだのためにもよくありません。疲れるのはあたりまえです。 リズムにのって 話す訓練を受けていない人が不用意に人前で話すと、どうしても早口になる傾向があります。 何を話すのか、一つひとっ考えて話すように努力しないといけません。 ゆっくり話しても、
こんなことを話していれば天下泰平です。耳学問をして帰ることができます。あとで親しい人 に、東京のサクラは、どこで咲いたか、まだかをきめるかをたずねて、得意になることもできま 天候についで無難な話題は、スポーツということになっています。スポーツというと、すぐ に、プロ野球を連想します。しかし、カクテルを片手に、ジャイアンツがどうの、タイガースが こうのというのは、どうもサマになりません。ことに女性では、あまり好適なト。ヒックとはいえ ません。もちろん、オリンピックなどとなれば話は別です : ・ そのかわり、土地や旅行の話題はおもしろいでしよう。相手が自己紹介をする中で、どこそこ の出身だというようなことを言ったら、その近くにある観光地のことをきいてみます。郷里のこ とを話すのはだれでもたのしいものですから、そんなところへいらっしやるよりも、その近くに あるどこそこへおいでになるほうがいいですよ、などと教えてくれるかもしれません。 なるべく、相手のよろこびそうなことを聞きます。初対面の人では、それがわからないから苦 労するのですが、たのしい会話には、よい聞き手になることです。どうしたらよい聞き手になれ るのか。向こうに、話したがっていることを話させるのです。 前にも書きましたが、自分のことを話すのは、聞いている人にとってはおもしろくありません。 すくなくとも、話している本人が思うほどには、おもしろくないものです。我田引水はいましめ るべきですが、よい聞き手とは、相手のおもしろい我田引水を引き出すことのできる人です。 す。 202
会話をしていても、我田引水は嫌われます。気がついてみると、話し手のほうへ話題を引っ張 っていっているという人とは、たのしい語らいができません。それよりは、どちらにもあたりさ わりのない話題をもち出して話すほうが、ずっとずっとよろしい。 人とたのしく話すには、こまかい話し方の技術がいるのではありません。会話術ではなくて会 話の心が求められます。その心をもたずに、いくら話し方を練習してみても、しよせん、口先三 寸の芸当に終わるでしよう。本当には美しく話すことができません。愛嬌がないのです。 おもしろい会話をするには、自分でうまく話す心がけももちろん大切ですけれども、相手にた のしく話してもらう思いやりも、それにおとらず必要です。 自分だけまくしたてて、相手に口をはさませない、などというのでは、いくら弁舌さわやかで もいただけません。よい聞き手になるーーこれがすぐれた話術の第一歩です。ほかの人がなんで も話せるような気になり、とっときの愉快な話をしたくなる、というような人なら会話の名手に くなることはうけ合いです。 いけないのは我田引水。自分の関心のあることばかり話しているのでは、相手はおもしろくあ ムりません。対抗上、先方も我田引水をしたくなります。両方がわが田に水を引こうとすれば、ラ イバルです。論争をする、ケンカをするのなら、それもやむをえませんが、たのしく話をするの たにはふさわしくありません。 よい聞き手は、わが田に水を引くことはしません。だからといって、相手の言うことを、いち 一口 127