、バッタをしらないた、何の事だ」 「バッタたこれだ。大きなずう体をして と言うと、一番左の方に居た顔の丸い奴が、 「そりや、イナゴぞな、もし」 と生意気におれを遣り込めた。 ヾッタも同じもんだ。第一、先生を捕まえてなもした何だ。菜飯は田楽の 「べらばうめ、イナゴもノ 時より外に食うもんじゃない」 とあべこべに遣り込めてやったら 「なもしと菜飯とは違うぞな、もし」 と言った。 ( 『坊ちゃん』より ) このあと、二階の生徒たちが一斉に床を踏み鳴らしたりして、坊ちゃんは大いに翻弄される。ここ で注目したいのは、この事件の生徒処分に関する職員会議である。 言うまでもなくこの時代は、ク戦後民主主義みの洗礼を受ける前であり、帝国憲法の時代である。校 長の権限は絶大で、会議は教職員の発言の少ない、〃非民主的〃なものであったと思われがちであるが、 ます、校長 ( 仇名は狸 ) の発言を聞いてみよう。 事実はそうではない。 「学校の職員や生徒に過失のあるのは、みんな自分の寡徳の致すところで、何かの事件がある度に、 自分はよくこれで校長が勤まるとかひそかに漸隗の念に堪えんが、不幸にして今回もまたかかる騒 動を引き起こしたのは、深く諸君に向って謝罪しなけれはならん。然し一たび起った以上は仕方が 、、 0 ヾ とうにか処分をせんけれはならん。事実は既に諸君の御承知の通りであるからして、善後策
旧制中学に源を発するある伝統校の例を見てみよう。この学校は、世間から「〇〇温泉」という陰 口をたたかれるはど、ノンピリしたムードを持っていた。進学のための補習授業ははとんど行なわれ 4 2 す、生徒にと「ても教師にと「ても、たいへん居心地の良い学校であ「た。だが反面、大学への進学 結果は無残なもので、ひどい時には進学希望者の半数が浪人するというありさまであった。そんなあ る時、予備校の担当者がこう語ったのである。 「お宅の学校からは毎年、多数の優秀な生徒さんに来ていただいて感謝しております。成績もたいへ ん良く、学力も素晴らしく伸びております 彼は、ほめ言葉のつもりで何気なくしゃべったに過ぎない 。ところが、裏を返せば、「お宅の学校に は、たいへん素質のある優秀な生徒が入学して来ます。ただ、高校の三年間では十分に学力を伸はし きれず、予備校に入学して初めて鍛えられ、持てる素質が花開いているのですよ」という意味を含ん でいるのである。 このような場合、自分たちの責任を素直に認める先生はきわめて少ない。見事なほど責任転嫁の論 理を駆使して自分を正当化しようとする。無責任な教師ほど、その傾向が強い。 「自分たちはやるべきことはや「た。それについてこない生徒が悪い , 「もっと学力の高い生徒が入学 してくれば、進学成績などすぐ良くなる。良い生徒を送ってこない中学校が悪い」「学歴偏重に基づく 受験競争の加熱。偏差値の重視。もとをただせば社会が悪い」といった調子である。 わが国では、アメリカのように個人の責任を重視し、厳しく追及することはあまりない。素質を持「 ている生徒の力を伸はしてやることができなくても、責任の所在の追及はうやむやのうちにすまされ
めに教師の指導力を強め、生徒のためにそれをもっと発揮することが必要だとする趣旨で組み立てら れている。そうした趣旨に反対の立場の人は、学力の向上の問題についても、規律の強化の問題につ いても、「生徒の自覚に待っ」、「生徒の自主性を尊重しよう」という主張をする。しかし、生徒の自覚 を促すという指導は、おおむね一回の口頭注意で終わることが多く、実際の効果を期待することはで きない 第三は、手続きについて議論をする場合である。校長の意向を受けて職員会議が開かれたり、学校 運営について審議したりする場合がある。ところが、これを非民主的だと考える教師がいる。彼らは そんな時、たとえば「自分はこの原案に賛成だけれども、まだ部会で十分審議が尽くされていないと 聞くから、反対である」という意見を出したりする。さらにこうした会議では、「自分は賛成であるが、 反対の人がいる以上、自分も反対である」という陳腐な意見が、まことしやかに述べられたりもする。 教員社会においては、この種の、一見義理がたい、人情味のある発想が支持され、これに対抗する意 見はまったく出ないのが並日通である。こうなると、数名の反対者ですべての議案を否決することがで きるよ、つになる。 以上の三点が、議論を紛糾させるタテ軸の要素だとすると、ヨコ軸の要素も存在する。これによっ て、さらに議論は複雑化する。 第一は、仕事が増すという観点である。たとえば、遅刻者指導のために、五分でも仕事時間が増加 する案には、〃質問〃が殺到するであろう。仕事増に対して職員会議がすんなり了承するのは、おおむ ね運動部を中心とする部活動指導と、できない生徒を残しての教科指導に関するものである。これら 177
久留「では、胃カメラはど、つか 崎田「胃カメラの写真で見ますと、この病変部の全部がガンとは思いません。潰瘍のまわりがガン になっているのだと思います」 久留「どうも胃カメラの写真を見せられたら、おれは、かえって良性の潰瘍のような気がしてきた。 : そうだ、おれもガンか潰瘍か、どちらかに決めなければいかんな」 ( と言って、自分で黒板の前に行くと、潰瘍の方に自分で「久留」と名前を書いた ) 久留「カンファレンスの総合所見は、ばくと市川君の意に反するが、ガンということになるか」 市川「ちょっと待って下さい。先はどの線写真は二重造影法のものが、あまりよく撮れていなかっ た。もう少しよく見たいところがありますので、串 0 者さんの * 線検査を、もう一度、私にやらせて いただけませんか。もっとはっきりとした診断ができると思うのです 久留「手術はいつだ」 外科医「来週の予定です 久留「その手術を一週間延はせ。市川君、それまでに線検査をやりたまえ。それから胃カメラも、 もう一度やっておくように」 ( 『ガン回廊の朝』より ) こうしてカンファレンスは、一人の患者が胃ガンなのか胃潰瘍なのかをめぐって、線診断と胃カ メラ診断のどちらが正解を出すのか、対決の場となった。 カンファレンスを医者たちの職員会議と訳すのには無理があるだろう。検討会とすべきであろうか。 だが、会議の進行と、会議における一人ひとりの役割分担は、十分に読み取ることができる。それに、 198
P A R T ー 10 スポーツをやりたい子にはスポーツを、本を読みたい子には本を、フラモデルを作りたい子にはフラ モデルを、そしてテレピを見たい子にはテレビをえれはいいではないか。絵や音楽についても同様 である。そのほうが、個性豊かな、自分の才能を発揮できる人間が育つだろう。 次に、親のハ ートの問題である。経済的な余裕を求めるか、子供の成長期に子供と共に時間を過ご すかは、自らの責任において親が決めるべき問題である。働きに出ている間、学校で子供をあずかっ てほしいと望む少数の親の意見に従って、子供との時間を持ちたいと考える親の自由な時間を奪うべ きではない。そんなことをしたら、魅力のない画一的人間が増加してしまうだろう。 最後に、学力の低下の問題だが、これは真に必要な学力を精選し、指導法を工夫することによって、 解決すべきものである。不必要と思われることをたくさん教えようとしている反面、必要なことを徹 底的に教えるという姿勢に欠けてはいないか。そのことを振り返ってみる価値は十分にあるだろう。 この点を教師の研究と努力に期待したい」 これらは、日本人にない発想である。日本は、けっしてアメリカの教育制度をそのまま輸入してい ない。自分の都合で、どんどん捨て去り、また内容を勝手に変えてきたのである。 以上、日本の教育の実像を、アメリカのそれと比較してみた。ここで注目されるのは、日本の教育 界は進歩主義の理念や、カウンセリングといった言葉は導入したが、能力主義や競争主義や自由主義 など、アメリカの教育の本質に関わるものはほとんど受け入れなかったことである。教育の荒廃をも 3 たらしたのは、まさしく日本の教育界そのものであることを忘れてはならない。仮にも、「アメリカの四 教育の真似をしたから駄目になった」などとは一一一口えないのである。
P A R T ー 6 について腹蔵のない事を参考の為に御述べ下さい」 ( 『坊ちゃん』より ) 、 : 屯卆の〃日本の校長〃がいる。この姿勢は、 ここには、アメリカの校長でも中国の校長でもなし糸ネ 現代にも脈々と引き継がれている。校内暴力事件などの新聞記事で、学校長が「教育者として、まこ とに申しわけなく思っています , と述べている姿勢と同しである。この点、英国留学の経験のある漱 石は、坊ちゃんのむ理に託して、次のように書いている。 なるほど校長だの狸だのというものは、えらい事を言うものだ。こう校長が何もかも責任を受 けて、自分の咎だとか、不徳だとか言う位なら、生徒を処分するのはやめにして、自分から先に免 職になったらよさそうなもんだ。そうすればこんな面倒な会議なんぞを開く必要もなくなる訳だ。 第一常識から言っても分かってる。おれが大人しく宿直をする。生徒が乱暴をする。わるいのは校 長でもなけりや、おれでもない、生徒にきまっている。 ( 『坊ちゃん』より ) ところで会議であるが、校長の意向を受けて発言した者は今日と同しくらい多い。教頭、事件の当 事者である坊ちゃんを含めて六人が発言している。そこには、穏便説あり、厳罰説あり、美辞麗句あ り、唐突発言ありで、この点でも今日の職員会議と同じである。明治政府は、学校制度をはしめとす るすべての文教政策を欧米から学んだ。にもかかわらす校長の姿勢と職員会議の様子だけは、学ぶこ とができなかった。私の知る限り、欧米には全校の教員が一堂に会して議論をし、何かを決定すると いう場はない。学校運営については日本の主任会にあたるものが、研究・研修については教科会があ るだけである。この意味で、わが国の職員会議は、純粋に日本的なものであり、戦後の民主化とは無 関係に明治以来、存在していた、と言うことができよう。この純粋に日本的な会議の原型は、先にも 189
きたのではなかろうか。そして議論されれはされるほど、細かい部分の差別事象が浮き彫りにされ、 そこに集約して結論が導かれたのではないか。 家庭科について、女子生徒、男子生徒それぞれがどう考え、あるいはどんな要望を持っているかな ど、生徒の側に立った議論がきわめて少なかったように田 5 う。一般教師、家庭科教師、文部省など、 個々の立場においてのみの議論が進行し、その結果、出てきたのが先の決定ではなかろうか。 家庭科が女子だけの必修となっているのは、大学受験などに際し、男子に比べて非常に不利だとい う声は、普通科の女子生徒の間で従来からかなり大きかった。しかし、女子生徒は、それが自分たち を差別するものだとはけっして受けとっていない。家庭科の教師が熱心であればあるほど、ホームワー ク ( 家での作業宿題 ) にかける時間は多くなる。そこで一般教科の勉強の時間が削られる。女子生徒 はそのことに不満を述べていただけであったのだろう。男女共修となった場合、男子にもそのような ホームワークが課せられるのかどうか、きわめて疑わしいものだ。 さらに、はたして男子生徒が家庭科という科目を真剣にやるかどうか、これも定かではない。当然、 職業高校や夜間定時制高校の男子生徒にも家庭科が必修となるはすだが、若い女教師が一人だけで夜 、家庭科の実習を規律正しく指導できるだろうか。私は、これについても疑問を感じている。 という大人サイ 家庭科の男女共修という決定によって〃これなら女子差別撤廃条約に違反しないみ ドでの責任逃れは十分にできたかもしれない。 しかし、実際に家庭科を学ぶことになる高校生に対す る責任はどうなるのか。それを十分に考えて決定されたとは思えないのである。 もし、少しでも生徒の身になって考えられたなら、男女とも選択という線が、当然浮かび上がって 4 8
P A R T ー 10 日制に戻っていったのである。 これは、、 しったんアメリカから学んだ教育制度を、日本国民が、自分たちの文化に基づく日本的思 考法によって捨て去った代表的な例であろう。 この〃日本文化に基づく日本的思考法みとは、何であろうか。 第一は、日本人の最も好む〃標準化志向みである。自分の子供は、何よりもます、同年輩の子供と 同しであってはしい。北は北海道から南は沖繩まで、親の職業や財産と関係なく、同年輩の子供たち がやっていることを、自分の子供にもさせたいのである。こうした志向で教育を考えると、とりあえ す、学校に通わせておくことが最も安心できる。そして学校は全国同しことをやっていてはしいので ある。この心情は当然の帰結として、学校六日制を施行している県があれば、大勢としてそれを強く 望むことになる。 第二は、親の教育観の欠如である。大多数のアメリカ人は、学校に対して知識の習得や集団生活に よる規律の体得などを期待している。だが、子供の人間形成や個性の伸張などについてはそれほど期 待をしていない 。特に、自分の子供の才能を見つけ、それを伸はしてやるのは、親の責任と考えてい る。したがって、学校に対しては、能力別の授業を要求するし、子供たちが休日の時間をどう過ごす かは、親の教育方針に関わる問題だと考えている。今、アメリカでは、学生の基礎学力の低下が問題 となっている。日本に学べとの合い言葉のもとに、年間授業時数の増加を求める意見も出されている が、これに対して、親たちの中に反対があるのである。この点を見ても、教育に関して、アメリカに は真の個性主義、真の自由主義があると言えよう。 289
の意味に近づいてくると思う。 さらに言うならば、現代に必要な概念、それは「自由」であろう。これは Freedom からきた西欧的 : つまり奴隷解放のような 概念であることに間違いない。日本語の自由という一言葉の中には L 一 ber ( y ・ : 拘束からの自由という意味も含まれている。しかし、真の自由 (Freedom) とは、もっと積極的に個 人として自由に考え、行動をすることをいう。民主的あるいは自主的といった権力用語や思考停止用 語が横行している中でも、自分の意見が素直に主張できる。そして、他の個々人も自由を持っている ことを十分に認識し、他人のことを思い、他人の痛みもわかる。真の自由とはこのようなものではな かろうか。当然、社会的な調和や秩序の擁護は必要だ。放縦やわがままは自由とは言えない。それら は他人から非難を受けたり、トラブルを起こしたりする元凶である。 正しい自由を推進するためには、個人の英知と勇気を欠くことはできない。そして、真の自由の中 でこそ、自主・自律の精神が発展するものであろう。 六十一年四月には素案に替わって「教育改革に関する第一一次答申」が発表された。そこでは先に述べ た二十一世紀のための教育目標は次のようになっている。 一、ひろい心、すこやかな体、ゆたかな創造カ 二、自由・自律と公共の精神 三、世界の中の日本人 このように相変わらず情緒的ではあるが、「自主・自律 , が「自由・自律」と変えられたのは、たい へん良いことである。
意見が出されるのである。結局、彼らへの指導はなおざりにされることが多い。もちろん「上位者は 学習の習慣が身についているから、放っておいてもある程度、自分一人でやっていける」という考え 方をすることもできよう。しかし、その考え方の根底には、上位者に対する特別な指導はエー ためだけに行なう差別教育につながるという意識が存在しているのである。考えてみれば奇妙な話で ある。下位者に対する指導は〃良いこと″であるとされているのに、上位者に対する指導は差別教育、 つまり〃悪いことみと見なされているのだから。 各人の能力を最高レベルまで開発する教育にこそ、真の機会均等が存在すると思う。ところが日本 的な平等主義と弱者救済を重視する姿勢は、英才の育成に大きなプレーキとなっているのである。 に補習授業をめぐって ア、補習反対論 生徒は「少しでも良い大学に入学したい」「少しでも良い企業に就職したい」という希望を抱いて高 校に入学してくる。親の思いも同しであろう。その希望をかなえてやるため、生徒の持てる力を最大 限に伸ばしてやるのが教師の務めである。教師である限り、強弱の差こそあれ、皆、生徒や親の進路 希望を達成させてやりたいと考えている。補習授業はそのためのきわめて有効な手段で、その必要性 も十分認められている。ところが、現実には、進学のための補習授業の実施には根強い反対がある。 学校によっては実施がまったく不可能なところもあるのだ。 「高校を予備校化させてはならない。大学への進学結果に一喜一憂すべきではない」「補習の実施は正