上うちえん モニカは隣の棟に住んでいて、本当に長いっきあいだ。幼稚園、小学校、ギムナジウム : もモニカと私は一緒だった。今はなれあいの関係でしかない。私が昔から持っている子グマの人 ほんだな 月さいころの思い出の品であるという理由で、ずっとそこにいた 形みたいなもの。本棚の上に、、 からという理由だけで、いまだに置いてある子グマの人形と同じだ。今度の新しい部屋には、連 れていくつもりはない。子グマにはかわいそうな気がするけど。それにモニカにも。 引っ越すまでの数週間でやらなくてはいけないことがたくさんあった。まず選り分け。引っ越 しでもしない限り、ずっと持っていたかもしれないさまざまなものを、これでもかって思うほど 捨てた。本当に、夢中になって、捨てて、捨てて、自分でもどうしてだかわからないけれど。今 まで私のまわりにあったものをなにもかも、こわしてしまいたいみたいに。 としつき たとえば、私のクラス。私はこのクラスがとても好きだった。五年の年月、たくさんの気心の 知れた仲間たち。私はクラスのみんながみんな、好きだったわけじゃない。でも、それなりに、 私たちのクラスはまとまっていた。みんなそこにいれば居心地よく、なんの心配もなかった。こ なかま れからもみんなはまとまっていくだろう。でも私はみんなの仲間じゃなくなる。みんなになんか もう会いたくない。私はクラスの人たちが憎らしくなってきた。私が引っ越さなくてはならない という理由だけで。だれかがなにか聞いてきても、私はほとんど答えなかった。ちょっとしたこ とですぐに、機嫌を悪くした : お別れのあいさつなんて、絶対にしない。ただ早く時間がすぎていってくれればいし となりとう きげん 0
「あら、本当 ? 」 「本当よ。まだずる休みするような歳じゃないわよ」 電車の中でギーザに会った。お母さんに、車で駅まで送ってもらったと言う。ギーザのうちか らなら、歩いたって十分もかからないのに。 今度こんなに雨 ギーザは私を見ると、あきれたように頭をふった。「ぬれねずみじゃない , が降ったら、車で迎えに行ってあげるわよ」 土曜日の電車はいつもほどは混んでいない。私たちは、ならんで座ることができた。ギサま ふくろ かばんからクッキーの入った袋を出して、私に差し出した。 「手作りよ。おばあちゃんが焼いたの」 私は何枚かもらった。 「どう ? おいしいでしよ」ギーザは言った。「ねえ、私、きのうハンネスと会ったのよ。あな たとゼバスチアンって人のこと、聞いたわ」 「へえ、そう ? 」と私は言った。 キーザとでもいやだった。話題を変えようと、私は ゼバスチアンの事を話すのはいやだった。・ いっしょ ギーザに化学の実験の事を話し始めた。私の計画を説明し、一緒にやらないかと聞いてみた。 「一人じゃだめなの」私は言った。「二人でやらない ? むか できればあと二人いるといいんだけど」 121
たんたん 「死んだ本人には、そんなことなにもわからないわ」ギーザは言った。淡々と、事務的に聞こえ かのじよ た 9 まるで、お天気の話でもしているように。「そんな顔しないでよ」彼女は言った。「私は、自 殺なんかはしないから。でも、自殺する人がいるってことは、わかるような気がするわ」 「私には、わからないわ。私は、いつもこう思っているの。明日になれば、少しはよくなるだろ うって。それに、私の今までの経験でも、いつだって、そうだったもの。ゼバスチアンとのこと だって。 - 彼と別れた時には : 言葉が続かなかった。ほんとに、前よりよくなったかしら ? ゼ・ハスチアンとのことを考える と、いまだに胸がきゅうっとなった。別れたばかりのころとまったくおなじように。よくなった としても、せいぜい、考える回数が減った程度だ 「やつばり、よくなっているわ」私は言った。「いつだって、なにかしらよくなってるわ。たと えば、今だって : 。今、私たち、化学の実験を始めようとしているわよね。そういうの、うれ しくない ? 」 だま ギーザは黙っていた。 - 「そういうの、うれしくないの ? 」私は、もう一度聞いた 9 「それに私たちが、ここで、こうし てることだって ? 」 ギーザは、すぐには答えなかった。 「もちろん、うれしいわよ。でも同時に私は、湖がどんどん汚染されていることも知ってるわ。 おせん 187
「今日は、泳ぎに行くのかい ? 」バウアー夫人が聞く。 私はうなすく。 せいいつばい 「思いっきり泳いでおいで。青春は精一杯、楽しまなくちゃね。すぐにすぎ去ってしまうんだか このやさしい一一 = ロ葉が心に残るから、私はまた自転車に乗って、家までたどりつくことができる のだ。 お昼ごはんは、ポテトサラダと目玉焼き。それとデザートにバニラブディングが出た。私はど れもおかわりをした。プディングも。 「太らないかって、心配じゃないの ? 」べアティが心配そうにプディングの皿を見ながら聞いた。 ゅうびんきよく 「ちっとも」と私。「郵便局でアルバイトしてるかぎりはね」 「かわいそうに ! 」母は心配そうに私を見つめた。「そんなにやせちゃって。二週間ぐらいお休 みしたらどうなの ? 」 私は、休もうなんて少しも考えていなかった。たとえしまいに、私自身が郵便受けのすきまか わた ら入れるぐらいやせてしまったとしても、父に食費を渡したかった。今までのところ、父は私に 対して少しの同情も示してはいなかった。 「苦労は買ってでもしろ」というのが、父のコメントだった。「見習いよりも、アルバイトの学 生のほうが仕事がきついなんてことあるはずがない」そもそも、父と私はほとんどロもきいてい 一ら 2 う 4
私にその気があれば、事態はちがっていたはずだ。 「プンプンプン」私がそばを通ると、ゼバスチアンが口ずさんだ。私は聞こえないふりをして通 きげん りすぎようとした。「ザビーネ、もう機嫌なおしてくれよ」と言うと、私をつかんで引き止めた。 私はふりはらおうとした。でも近くに、同じクラスの人がふたりいたので、そのままそこに立っ うわィ一 ていた。でないと、私とゼバスチアンはもう別れたらしい、という噂がすぐに広まってしまうか ら。 「ずっときみに電話してたんだ」と彼が言った。「土曜日にだって」 「いなかったわ」私が答える。 「日曜日に、も」 「日曜日も出かけてたわ。新しい家を見に行ってたから」 「なんだって ? 」 「家を買うの。ミュンヘンから引っ越すの」 「なんだって ! 」 「どうして ? だって、あなたにはもうなんの関係もないでしょー 彼がとても驚いているのがわかった。私は自分がひどいことをしていると思った。卑劣で、心 がせまいって。 「なんでそんなこと言うんだよ ? 」と彼が聞いた。 かれ ひれつ
た。ペアティの敗血症と戦うためには、そうしなくてはならないとでもいうように。 たお 「ママ、なにか食べてよ」私は言った。「じゃないとママまで倒れちゃうわ」私は、母のロもと にケーキを一切れ差し出した。母は一口かじると、もぐもぐかんだ。 「面会謝絶って」母は言った。「どういうことかしら ? 」 あの熱だもの」 「たぶんまだ意識がないんじゃない ? べアティが寝ているようすを思ってみる。あおむけになって、なにも言わないで、ただ息苦し そうにぜえぜえ言っている。もしかしたら、・ヘアティ : ううん、そんなばかなこと、考えちゃいけよ、。 「今朝から、もうひと月もたったような気がするわ。少なくともね」母が言った。 私はうなずいた。私もほんとに、そんな気がしていた ノと千マルクのことでけんかした 「それにきのうなんて」母は言った。「大昔のことみたい。。ハ。、 のが、きのうのことだなんて」 私は、またうなずいた。 めんきょ 「運転免許だなんて ! 」母は、私を見つめて首をふった。「ねえ、ビーネ、私、とってもいやな 気持ちなの。まるで私が罰を受けているような気がして。私が、あんなくだらないことに興奮し たばっかりに、こんなことになったんじゃないのかしらって。ありがたいと思っていなければい 4 けなかったのに。五体満足な子どもたち、優しい夫、みんなでひとっ屋根の下に暮らすことがで こうふん
のせいにしちゃうの。ちゃんと栄養を考えて食事を作らなかったとか、ちゃんと暖かい洋服を着 るように気をつけなかったとか、注意をしたり危険から身を守ることを、私たちにちゃんと教育 しなかったとかってね。永遠にママは、責任ばっかり感じながらおろおろし続けるんだわ。私た ちも、今にそうなるのかしら ? それくらいなら私、子どもなんかいらないわ」 私はちがう。子どもだって何人か欲しい。仕事もしたい。それに、私のことを支えてくれる夫。 私が一人で変に責任なんか感じないでいいような。そんなこと、可能かしら ? 「ねえ」とギーザは言った。「おばあちゃんたちのころのほうが、幸せだったんじゃないかって、 思うことがあるわ。おばあちゃんたちって、そんなこと、考える必要もなかったんだもん」 、 ' ヘアティはよくなっていた。私たちが、ゆうべ思っ 月曜日。私はギーザと電車に乗ってした。・ ていたよりすっとよくなっていた。 ゅうべ、べアティの病室の前に立った私たちは、心配のあまり、満足に息もできないほどだっ じよじよ 「薬が徐々に効き始めています」と看護婦さんが言った。「気を長くもっことですよ」 「面会できますか ? 」母は聞きながら、ドアの把手に手をかけた。 看護婦さんが、思いとどまらせようとした。「おやめになったほうが。ちょうど意識がもどっ こうふん たところなんです。興奮するといけませんから」 とって
まったくの人工、化学製品。こんなもの食べて、自分の体をだめにしてることぐらい、わかって るわ」ーギーザはケーキを口にいれ、もぐもぐとかんだ。 「でも、とにかく、おいしいわけでしよ」私は言った。 ふくろ 「そうなのよね」ギーザは、ケーキの袋を私の方に差し出した。「私はただ、どうして私が、岩 場に登る危険をそれほど重大だと思わないのかを、説明したいだけなの。なんたって、山の上に るのはい、 し気分なのよ。時々、なにもかもいやになると、山に登らすにはいられなくなるの。 そうしないと、もうどうにもやっていけないって気がして」ギーザは、ケーキの残りを口に放り こんだ。「なにもかも、いやになったりすること、ないの ? 」 ムは、なんと答えていいのか、わからなかった。 「そりゃあ、あるわ」私は言った。「もちろん、あるわよ。でも私は、どうなるのかを見ていた いのよ。いつでも」 「ふーん ? 」ギーザは私を、おかしな目つきで見た。さぐるような、じっと考えているような、 ひひょう 批評するような目つきで。「私はね、この世界がどういう具合になりつつあるかってことを考え るとね、降りてしまうのも悪くないなって思うのよ」 「悪くないだなんて ! 」なんて簡単にそんなことを言うのだろう。私は、もう少しで死ぬところ 小さなクレーメンスのことも。「死ん だったべアティのことを考えた。おばあちゃんのことも、 、、なくなってしま , つのよ」 でしまうのよ ! 考えてもみてよ。それつきり 186
の私ぐらいの歳のころがあったのに。十六、七歳のころが。そして、自分の母親とやりあったは すなのに。それなのに、母は昔どおりに、私のことを気づかわすにはいられない。あの「母親の まなざし』にあうと、私はできることならその場から逃げだしたくなる。私のことが心配でしか たがないっていう気持ちを考えると、母が気の毒になるのだけど。ちょうど、母が私をかわいそ うに思ってくれるのと同じくらいに ・ヘアティがいるのがせめてもの救いだ。弟はお母さんっ子だから。でも、・ヘアティにしたって もう十一歳。 そうじき 台所に立っている母。プレス機をかけている母。洗たく物を干している母。掃除機をかけてい る母。そして、母の頭の中にあるのは ? 私たち。いつだって、私たちのこと。 そろそろ、なにかほかのことを考えて欲しい。 「それが、できないのさ」と、いっかゼバスチアンが言っていた。「母性ホルモンのせいでね」 とって 「ちょっと待って、ビーネ ! 」私が自分の部屋のドアの把手に手をかけた時、母が呼んだ。「ペ ッシュルに行って、ひき肉買って来てちょうだい」 「そんな暇ないわよ」 「ペッシュルだけでいいんだから。すぐそこじゃない」 「べアティは ? 」 「サッカーに行ったわ」 ひま とし
ゼバスチアンは首をふった。「そんなこと無理だよ。たぶんばくなんか、音楽の才能なんてこ れつばっちもない子どもたちにレッスンをするのが関の山さ」 「そんなことないわ」私は言った。「あなたはちがう。あなたならできるわよ。私、中等教育課 程が終わったら、学校を出て、お金をかせぐ」 私は、自分の計画を話し始めた。マルクス広場で、観光客と鳩にかこまれて。彼は黙って聞い ていた。いい とも、悪いとも言わずに。 あの時から、私たちのあいだに、変化が生まれた。私が変わり、彼も変わった。毎日、毎日、 ほんの少しずつ、二月のあのけんかまで。 ゼバスチアンのお母さんのせいにすることはできない。私が、望んでやったことなんだから。 今は、もうなにもかも終わってしまった。悲しいことに。それとも、これでよかったのか。い ずれにしても終わったんだ。 でも知りたい。私って本当にこういう人間なのだろうか ? 相手がゼバスチアンだったからこ うなったのか、それとも、次のときもやつばりこんなふうにしてしまうのかしら ? そして、そ の人がそんな私を受け入れて、やっていける人だったら ? だま 118