「出て行ってくれ」父は言った。 「パ。ハは、いつだって、自分の立場でしか考えてないのよ。自分の立場でしか」 「そうかな ? 」父は立 0 て、開け 0 ばなしにな 0 ている、テラスに出るドアのほう〈歩いて行 0 た。雨足は弱くな 0 て、今は霧雨にな 0 ていた。「自分の立場でしか考えない 0 て ? どうして そうしているか、わかるか ? そうするのが正しいからだ。私たちは、この家を買 0 た。ものす ごいお金がかか 0 た。だから、みんなが協力しなくてはいけないんだ。当然、おまえもだ」 父がそこに立 0 ている。私は、父の言うことを聞いている。そんなの 0 て、ないじゃない。父 がこんなことを一言うなんて。 「そんなの 0 て、ないわ」と私は言 0 た。「パパが家を買 0 て、そのために私が働かなくちゃい けないなんて」 「よくそんなすうずうしいことが言えるな」 「ええ、言うわ。だって、我慢できないんだもの」 「まあ、今にわかるさ。まだ、おまえのことは、保護者である私に決める権利があるんだ。学校 に、おまえの退学届けを出す」 見知らぬ他人。聞いたことのない声。私はこの人から、自分で自分の身を守らねばならない。 「勝手にすればいいわ」と私は言 0 た。「だけど、あと一年で私だ 0 て成人になる。そうしたら、の また学校に行くわ。私の人生をめちやめちゃにされて、たまるもんですか。また、学校に行くん がまん
ゼバスチアンのヴァイオリン。今になって私は、ヴァイオリンがゼバスチアンにとってどうい う意味をもっていたのか、わかり始めていた。よりによって、父と庭のことがき 0 かけになるな んて。 「ええ、わかるわ」あの時、私はイーザー川の岸で言った。 私たちは、自転車で出かけていた。土曜日。初めてのふたりの土曜日。知り合 0 てちょうど一 週間だったけど、私たちはまだ一度も、学校の外では会ったことがなかった。 朝八時に、ゼバスチアンが電話をかけてきた。私はべッドの中にいたのだけど、あわてて電話 のところへ走 0 て行った。この一週間、電話が鳴るたびに、もしかしたらゼバスチアンじゃない かと期待して、私は電話のところへ走っていたのだ。 かれ 「ちょっと自転車で遠出する気ない ? 」彼は聞いた。「イーザー川までさ」 いっしょ もう少しで受話器を落とすところだった。一週間、私はずっと待っていた。休み時間に一緒に いる時も、放課後、彼が私をうちまで送 0 てくれる時も。たいてい私たちは、何度か行 0 たり来 たりした。い くら話しても、話したりなくて、ふたりでうちの前から学校にもどっては、またひ きかえしてきた。でも、彼は一度も聞いてくれなかった。「今日、時間ある ? きみのうちに行 泳ぎに行かな刃 ってもいし 、 ? 映画、見に行かない ? アイスクリーム、食べに行かない ? い ? 」って。一度も。なのに、今朝の八時になって「ちょっと自転車で遠出する気ない ? 」なん
は言った。「ザビーネが受けないなんて、ほんとにもったいない話だと思ってたんだ」 私は、この言葉を聞いて、ひざからカが抜けたような感じがした。確かに私は、大学入学資格 試験の準備をしていた。就職のロを断り、遠大な計画を立てていた。でも、父と母にはそんなこ と、一言だって言ってなかった。すべて、私ひとりで決めて、私ひとりですすめていたのだ。 「夏休みが終わ 0 たら、すぐに始めなく 0 ちゃ」私はギーザに言 0 た。「なかなか難しい実験に なると思うわ」 「私は、かまわないわよ」ギーザは、木の葉を何枚かを指の間ですりつぶすと、匂いを嗅いだ。 「私はストレスには慣れつこなのよ。勉強のストレスぐらい、どうってことないわ」 ギーザの足には、はれあがった青いあざがいくつもあった。この間、カイザー山脈に行った時 にできたものだ。山でギーザは、時には命にかかわるような危険なこともしていた。それも、よ りによってハンネスと一緒に。私はハンネスのことを、あまったれのマザコンだと思っていた。 「いったいなんで、そんなことするの ? 」私は聞いた。「一歩まちがえれば、それでおしまいで ギーザは、葉っぱの残りかすを、ばっと手からはらった。「それが、どうしたっていうの ? しいじゃない、それで」ギーザは水辺に寝そべっていた。横には、あんずケーキの入った袋が置 はだ いてあった。茶色く日焼けしたなめらかな肌。着ているビキニは、ものすごく高いやつだ。家に 帰れば、たくさんあるレコードのうちの一枚にを落とし、中国製のカップでお茶を飲む。「い
むじやき でも、首をつったっていいわね。でも私は、そんなのはいやなの。私のこと、無邪気でロマンチ ックだって、思ってくれたっていいわ。それならそれで、かまわないわよ」 ギーザはまた、さっきのおかしな目つきをした「 「そんなふうに、見ないでよ。動物園のサルじゃないんだから」もう、これ以上我慢できなかっ こ。私は水泳幗を取って、水に入ろうとした。 かのじよ ふくろ 「ちょっと、逃げないでよ」ギーザが言った。「食べなさいよ。気も鎮まるから」彼女は私に袋 をよこした。「さっきあなたが、緑の草地の話、始めた時には、私、本当に気分が悪くなったわ。 むじやき ちょっと、この子、なんて無邪気なのって、本気で思ったもの。でも、まちがいだった。だって、 あなたは、草地を緑のままに保っために ( なにかをしたいと思ってる人間のひとりなんだもの。 いっしょ 努力している人間のね。それに、私も一緒にやるわけよね。私をまきこむことまで、やってのけ たんだ ! 」ギーザは笑った。「どうそ、緑の草地を好きなようにしてちょうだい。私が、草地を プレゼントするから」 いくら食べてもや 彼女は、ケーキの袋を手に取ったが、また下に置いた。「やんなっちゃう。 められない、とまらない。さあ、泳ごうか」 ふろ 水は、お風呂のように温かかった。風がふき始めていた。ョットが湖面をすべり、そのあいだ に、色とりどりの水泳帽が見えた。 「ゼバスチアンとは、いつもシュタルンベルガ 1 湖に行ってたの」私は言った。 がまん 189
はいぎぶっちょぞう どこかに放射性廃棄物が貯蔵されていることも、草地が有毒物質に汚染されていることも。それ なのに、心底うれしい気持ちになんか、なれるものかしら ? 」 「おかしいわよね」私は言った。「私には、その正反対に思えるわ。花の咲く緑の草地を歩いて る時には、そこに有毒な薬品がまかれていることを知っていても、それでも、私の目には、その 草地は美しいもの。それに、草のにおいだって。私は草地を、美しいと思いたいのよ。わかるで しよ。そう、思わずにはいられないんだもの」 おせん 「じゃあ、セペソの汚染事故はどうなるの ? 」ギーザは言った。「あそこの人たちは、緑の草地 になにをしてるの ? 」 「ムは、セペソにいるわけじゃないわ」 ギーザは首をふった。「考えがあまいのね。どこもかしこも、セペソとおなじなのよ」 「わかってるわ。だから私、化学がやりたいのよ。そして、なんとかしたいのよ。化学に関する ことなら私にもできる。それこそが、私のテーマなの。もし、化学をやってなかったとしても、 カ別のことをさがしてたと思う。なにか、私にできることを」 「そして、世界を救う」ギーザが、からかうように言った。 「なにが言いたいのよ ! 」だんだん声が大きくなってきた。たぶん、本当はこんなにあからさま 冫。言したくなかったから。それにギーザの一一 = ロうことにも正しいところがあると、わかってい るから。でも、そうであって欲しくないと思うから。「そんなふうに考えてたら、本当にすぐに 188
てくれていた。 さ・んばし 桟橋に寝そべっていた。太陽が照り、空は青く、蒸し暑かった。水平線のかなたに山々が連な しま っている。水面に波が縞模様を作っていた。 「でね、ある日、ここにあるものがとっぜん見えなくなっちゃうの。湖はちゃんと存在している のに、山だって、それなのに私たちは、もうどこにもいない」私は言った。 なや 「だけど、もう悩むこともないんだぜ。不安に思うこともないし」ゼバスチアンは言った。 「そんなに悩んでいるの ? 」 「悩んでないやつなんて、いるもんか。あいつらを見ろよ、あそこにいるどうしようもないやっ とうひ ら。あいつらが、いったいなんで現実から逃避してるんだと思う ? 」 「でも、あなたはちがうわ」 「そりゃあ、ばくにはヴァイオリンがあるからね」 「それと、私もいるからでしょ ? 「うん、きみもいるしね」 うん、きみも : なにかものたりない、と私は思った。ヴァイオリンと私の順番が逆ならい 「私はあなたにとって大切なんだと思ってたわ」 かれ 彼がおかしな目つきをする。私の言ったことが、気に入らない時の目つきだ。目を少し細めて、
母は黙っていた。 「ママ、そんなに心配なの ? 」 きんばつま かっしよく 母の髪が風になびいている。ふさふさとした、金髪の巻き毛。顔は、褐色とバラ色の混ざっ た色。実際、母はなかなかきれいだったし、まだまだ若かった。 もし私が母だったら、自分の夫のところへ行って一一 = ロうだろう。「私、やりたいの」って。「だか いっし・よ ら、私やります。もしあなたの気に入らなくても、変えることはできないの」って。私と一緒に 暮らす人は、そういうことを受け入れなくてはならない。ゼバスチアンなら、受け入れてくれた だよわ - , っ きゅうか クリスマス休暇のあとの、最初の学校の日のことだ。放課後、彼は私を待っていた。私たちは きげん 回り道をして、雪の積もったルイトボルト公園を通って行った。ゼバスチアンは、機嫌が悪くて、 一一一 = ロも口をきかなかった。 「ねえ、今日の午後、時間あるの ? 」私は聞いた。 「ゾっして ? 」 「映画に行こうって言ってたじゃない」 「まだわからないよ」 「じゃあ、いつになったらわかる ? 」 だま かみ 171
かきね のは話にならない。垣根は必要なんだから」 母は、冷めてしまったじゃがいもに目を落とした。「私のお金よ」母は言った。「ハンニおばさ めんきょ んは、私にくれたのよ。私によ。私はどうしても、運転免許をとりたいの」 ぐっ 「ばくのスキー靴はどうなるの ? 」べアティがわめいた。 だま 、「黙ってなさいよ、べアティ」私は言った。「せめてこんなときぐらい ! 」 こうふんかがや ほお 私は母を見ていた。今の母をとってもいいと思った。母は頬を赤らめていた。目は興奮で輝い ていた。あれだけ父に言うには、ものすごい勇気がいったにちがいない。最後までがんばりとお すだけの勇気があるかどうか、自分でもわかっていないんじゃないだろうか。でも母は、一歩を しと思った。 踏みだしたんだ。そんな母を私は、い、 「わかって欲しいの、ハインツ」母が言った。「だって、なんとかしないと : じようきよう 「話にならない」父が母の言葉をさえぎった。「今のうちの状況を考えてみろ ! 」父は二、三度 大きく息をした。「そんなばかげた考えは忘れることだな。そんなことする金、うちにはないん 「ちょっと待って、ハインツ」母が言った。「私にはお金あるわ。そのお金で私、免許をとるの」 キ一らっ 父が自分の皿を突きとばした。皿はテープルを横切ってすべった。それから父はどなりだした。 父はめったにどならない。でも、いったんどなりだすと、窓ガラスがびりびりいうほどどなり散 めんきょ ローンをど らすのだ。「ばかばかしい , 自動車の免許だって ? 金を捨てるようなもんだ , 127
私は台所のドアを閉めた。母がふりむいた。泣いていた。 「ねえ、おばえてる ? 」母はどうにか一一 = ロ葉を口にした。「私がいつも、バターをぬったバンをひ もに結んで、この窓から下ろしてあげたこと」母はまたむこうを向いて、窓の外に目をやった。 「ママ、私たち、なんでここから引っ越すの ? なんでママは反対しなかったの ? 」 だま しばらく母は黙っていた。それから、母の口から当然出てくると思っていた言葉。「だって、 ハハが、とっても引っ越したがっていたんですもの」 「。ハバ、パパって ! 」と私は言った。「ママはバ。ハのためなら、自分の人生も台なしにするの ? 」 母は新聞紙を一枚取ると、コップを包み始めた。 「それはちょっとオー バーだわ」と母が言った。「人生だなんて ! そんなもの、だれにもわか らないものよ。もしかしたら私たち、エッラーリンクを気に入るかもしれないし。もしかしたら、 ここより、 しいかもしれないもの」 母は、コップを段ボールの箱につめていく。 たはお 「そんなところに立ってないで、手伝ってちょうだいよ」母は私の方に新聞紙を一束、押してよ こした。「ビーネ、まずはようすを見てみないとね。家を持つって、やつばりすてきなことじゃ ない。私たちの財産になるんだから」 「財産だなんて、小市民的な考えよ」と私は言った。
かわりにべアティが、にやっと笑った。「今週、数学のテストがあったんだ。ばく、やらない ですんじゃった。助かった ! 」 「なに言ってんのよ」私は言った。「入院するより、悪い点のほうがまだましよ」 べアティは私をいぶかしげに見た。「今はそう言うけどさ。もし本当にばくがひどい点とって きたら、どうなると思う ? 大騒ぎだよ ! 」 私はべアティの上にかがんでキスをした。「すぐによくなるわよ、ペアティ」 「よせったら」べアティはくちびるをぬぐった。 看護婦のゲルトルートさんが入って来て、私にもう帰るように言った。 「あした、また来る ? 」べアティが聞いた。私はうなずいた。 「クレーメンスがさ、ぬいぐるみを欲しがってるんだ」ペアティは言った。「ばくの古いウサギ、 、 ? クレーメンス ? 」 持ってきてよ。それともサルのほうがいし 「ウサギがいい」と、クレーメンスは一一 = ロった。 「じゃあ、ウサギね」べアティは大きく息をついた。「寝てばっかりいるから、背中が痛いよ」 私は背中をさすってあげた。「もうじき家にもどれるわ、べアティ」 つか べアティは疲れた顔をしていた。それに、泣きたいような顔もしていた。 「さあ、もうお帰りください」ゲルトルートさんが、私を病室から押し出した。外へ出ると、ゲ わき ルトルートさんは、私の脇に立った。 さわ 1