こん 婚しないことには、ね」 ひび その言葉が、私の心の奥まで響いた。 「ママって、本当こ救 いがたいわね」私は言った。「もし、結婚がそんなことを意味してるんな ら、私は、結婚なんかたくさん」 私がドアを閉めた時、母はコーナーベンチに座ったまま、じっと前を見ていた。 フランス語の勉強。フランス語はあまり好きではない。なにしろ、死ぬほど単語をおばえなく がいせんもん てはいけないそれに、あのリープへア先生ときたら ! まるで、凱旋門のて 0 ペんにでも立っ ているみたいな態度で、そのくせ、モーザー・べニとおなじバイエルンなまりなんだから。ラヴ エンナにいたときには、イタリア語が口からすらすらと出てきた。あんなふうに、外国語が学べ ればいいのに。市場で、タマネギや魚にかこまれて。 ゼバスチアンの大学入学資格試験と、ヴァイオリンの実技の試験がすんだら、夏休みの間に、 とちゅう 一一人でフランスを旅行するつもりだった。途中で何カ所かでとまりながら、車でフランスを横断 する。そして、最終目的地の。ハリへ。 でも、どうせ私は一緒に行けなかっただろう。休みの間に、アルバイトをしなくてはいけない から。お金かせぎ。でも一週間なら行けたかもしれない。いや二週間ぐらいは。五月には、大学 入学資格試験がある。ゼバスチアンは、だれと出かけるんだろう。フランスへ。それともギリシ おく 110
題外だ ! 絶対に認めないぞ ! 」 うやって払ったらいいかって時に , 「やめてよ ノノ ! 」・ヘアティは小さな声でそう言うと、母にくつついた。 だいじようぶ 母はべアティを抱きよせた。「大丈夫よ、ペアティ。なにも心配しなくていいの」 「ばかばかしい ! 」父はもう一度言った。でも、さっきより少し小さな声で。「頭がどうかした あせ んじゃないか ? 」父は真っ赤な顔をして汗をかいていた。私は、父がかわいそうになった。 「ババ、落ち着いてよ」私は言った。 「おまえはつべこべ言うんじゃない ! 」父はまたもや大声でどなり始めた。「い、な、わかった か ? おまえもだ、ロッティ」 、 ' ヘアティを腕に抱いて、少しも手をつけていない皿を前に 母は、身動きもせすに座ってした。・ して。 「十八年間、私はあなたの望むことだけをしてきたわ」母が小さな声で言った。「こんな片田舎 いっしょ にだって、一緒に引っ越してきた。それなのに、あなたは、私がただの一度だけ自分のしたいこ ↓・・んイ、い - : つい とをしようとすると、それがものすごい罪行為であるみたいにどなり散らすんだわ。でも私は 免許をとります。絶対とります。本気よ。免許がとれたら、半日のパートをさがすわ。そうすれ ば、少しはたしになるだろうし、今ほど切りつめないですむし、ストッキングの二足や三足破け たくらいで神経が参ってしまうこともないだろうし」母はため息をついた。そしてフォークをと ると、自分の皿にのっているものを食べ始めた。 いなか 128
私は電話ポックスに入って、受話器を取った。まだ、生暖かかった。急に私は、その受話器を 耳にあてるのが、いやでたまらなくなった。 ゼバスチアンの顔。よそよそしくて、冷たい顔。「ひとりの女の子のために、なにもかも投げ 出すことはできない : 私は受話器をもとにもどした。ゼバスチアンに電話なんかするもんか。この三カ月の間になん にも変わってなんかいないんだ。もう一度、初めからやり直すなんて、私にはできない。ギザ と話をしたんだ。やることがあるんだ。自分の足で立ちたいんだ。いつもゼバスチアンのことで 頭がいつばいなんていもうたくさん。 私は、電話ポックスの戸を後ろ手に閉め、自転車に乗って家に帰った。もう暗くなっていた。 雨がまた降り始める気配はなかった。 ゅめ とても妙な気持ちだった。まるでおなじ場所で永遠に足踏みしているような。夢の中みたい。 走って、走って、走っているのに、そこから一歩も動けない。 しかし、そんな気持ちも、また急 に消えて、私は再び自分が動いているのを感じた。 家に帰ると、私は鏡を見た。そして、自分の顔になにか変化があるかさがした。でも、なにも 変わっているところはなかった。前とおなじロ、おなじ目、おなじ笑い顔。そしておなじ髪。 美容院へ行って、髪を切ってもらおう。顔の傷跡はうすくなり、もうほとんどわからなくなっ ていた。それにわかったって、もうかまうもんか。 きずあと 142
『商売』という一一一日葉を、父は、ほとんどおごそかな感じでロにする。それを聞くと、私はいら、 らしてしまう。ほかに、もっと話すべき大切なことがあると思う。前。 一度私がそういうよう なことを言ったとき、父は私の顔を見て言った。「じゃあ、別のお父さんをさがすんだな、ザビ ーネ。おまえの父親は家具のセールスマンで、大学教授じゃないんだ」 そう言われて、父に対してそんなことを言った自分がはずかしかった。父が、できるものなら、 実業学校に行って、技師になりたかったことを知っていたから。でも、父の若いころは、戦争の 後で、そんなことは不可能だった。父親が戦死し、長男だった父は、家族が暮らしていくために 働かなければならなかった。 それに、本当のところ、父のしてくれる仕事の話はけっこうおもしろかった。家具を買いに来 たお客さんのことを、父はまるで役者のようにうまく話してくれる。たとえば、このあいだの、 おく タンスのことでけんかを始めた夫婦の話。だんなさんは高い方が、奥さんは安い方が気に入った。 初めのうちは、ふたりは上品に話し合っていた。ところが、だんだんと声が大きくなってきて、 しまいには、どなりあいになってしまった。そして自分たちがどこにいるのかってことに、ふと 気がつくと、ふたりは逃げるようにして店から出ていってしまったというのだ。 父はこの話を、まるでお芝居のように夫の役と妻の役を演じ分けて、私たちに話してくれた。 もういっぺんやってよ ! もういっぺん ! 」とべアティはかんだかい声で言った。私た 5 ちは笑いすぎて、食事もできないくらいだった。
母が本当のところどういう気持ちでいるのか、私にはよくわからなかった。母は、、 しつもとて たた も楽しそうに見えた。きれいな空気を讃え、庭仕事のおかげで、血行がとてもよくなったと話し うそ ていた。でも、この母の元気さが、私にはどうも嘘くさく思えてならなかった。母は、だれにも 見られていないと思うとき、とてもさびしそうにしていることがあった。ちょうど、引っ越しの 前、台所の窓辺に立ち、中庭を見つめていたときとおなじように。 母は決して認めようとはしないだろうけどー、ーでも、たぶん母も私とおなじくらい、ホームシ ックにかかっているのだろう。私よりひどいかもしれない。少なくとも、私は、毎日学校へ行き、 一日一日をどうにかすごしているし、それに、このエッラーリンクは私にとって終着駅ではない。 くぎ しかし、母は、一日じゅうここに釘づけだ。毎日、なんの変化もなく。父が車で出勤し、・ヘアテ イと私が学校へ行ってしまうと、母のまわりには、・ とこをさがしたって、話し相手など一人もい ないのだ。 「近所の人と話してみたらいいじゃないか」父は言った。 でも、それは、木とでも話せというようなものだ。 通りには、うちのほかにあと四軒しか家はなかった。そのうちの二軒は、共働きの夫婦の家で、 るす 一日中留守だった。もう一軒は、七十歳の目の不自由な未亡人で、残りの一軒には、ヴァイスと いう名前のとてもいやなやつが住んでいた。このヴァイスとなら、けんかはできるかもしれない けん
「まえには、いらいらしたこともあ 0 たけど」とゼバスチアンが言 0 た。「でも、今はね。母さ んの楽しみを奪うこともないし。ど 0 ちみち、もうそんなに長く続くことじゃないしね」 「まったくそのとおりだわ」ゼバスチアンのお母さんが言った。「ゼバスチアンだって、いつま すそ でも私の上着の裾にぶらさがってるわけにもいかないものね」 でも、ゼバスチアンのお母さんは、自分の心配、ゼバスチアンに対する心配を隠そうとして、 こんなふうに言ったにすぎなかった。 しゅ 今にな 0 てや 0 と、ゼバスチアンのお母さんが私をどう見ていたのかわか 0 てきた。一種の守 ) しん 護神。自分の役割をひきついでくれる人間。 彼女は、とても重にその仕事に取りかか 0 た。ゼバスチアンに気づかれないように。私こ ち、ゼバスチアンのお母さんと私の二人きりの時にだけ、私にそっとふきこんだ。 「一人暮らしがしたい 0 て思うのと、実際にできるかどうか 0 ていうのは、ま 0 たく別問題なの よね」彼女は言 0 た。「ゼバスチアンは、一人暮らしには全然むいてないの。あの子 0 たら、練 習を始めると、食事のことだって忘れてしまうんだもの」 「でも、彼、食べることはとっても好きですよ」と、私は言った。 「ええ、そうよ。でも、それはだれかがあの子の前に食べるものを出してあげればの話。あの子 に食事を作 0 てくれて、そばに座 0 ていてくれる人がいての話よ。そういう人があの子には必要 なの」 11 う
父は母をじっと見ていた。まるで、戸口に立っている見知らぬ人を見ているみたいに。 かいだん 「好きなようにしろ」父はそう言うと、部屋から出て行った。バタンとドアの閉まる音。階段を のばっていく音。あとはなにも聞こえなかった。 めんきょ 運転免許、半日のバート。私は賛成だ。母が正しいと思う。でも、なにもかも一度に言わない 方がよかったかもしれない。 父は母が働くことにずっと反対してきた。 「子どもたちを、鍵っ子にだけはしたくないんだ」と父は言っていた。「一番大切なのはお金で はないさ。『ふとんに合わせて手足をのばせ』だ。身分相応に暮らせま、 でも、もうべアテイも私も小さな子どもってわけじゃないし、もう少し大きなふとんで寝たっ て、なにも害はないだろう。そういうお金の話は別にしても、母がまた社会に出るというのはい しん。りレ 4 う い事だと思う。昔、私が生まれる前には、母は診療助手をしていた。そういう事なら、また母 にもできるかもしれない。私は母の考えに賛成だ。だけど父には、一口すつに切って出すべきだ ったろう。父は、こんな大きなかたまりは食べつけていないのだから。 りこん 「ママ ノと離婚するの ? 」・ヘアティが泣き声で言った。 「どうしてそんなこと ? 」母が聞いた ノとママ、すごいけんかするんだもん」 母はべアティの髪をなでた。「心配いらないわよ、べアティ。けんかはだれだってするじゃな かみ かぎ 129
日曜日の午後。母と私は居間にいた。テラスへ出る戸が開いていて、庭には太陽がふりそそい でいた。父の丸めた背中が見える。父はまだ、コノテガシワを植え終えていなかった。 「ママ、コーヒー飲んだら ? 」私は言った。「それに、そろそろなにか食べた方がいいわよ」私 さらお は、母の方にケーキの皿を押した。母は首をふって、一口コーヒーを飲むだけ。いつもだったら、 ストレスがたまると、母はひっきりなしに食べるのに。でも今日は、ことがべアティに関わって しる。とても、いつもどおりとい , つわけによ、ゝよかっこ。 し天気だったので、私はシャワーを浴び、洗 朝食の前は、まだ何事もなかった。久しぶりにい、 いたてのジーンズをはき、明るい色のプラウスを着た。私が台所に行くと、母はもう朝ごはんの したくをしていた。青いモーニングガウンを着て、ヘアーカーラーの上に赤いスカーフをかぶつ キ一ら かん ていた。私は、シュトロイゼルケーキをうすく切って皿にならべ、ミルクの缶を取りに地下室へ 行った。台所にもどると、父ももう起きてきていた つま 一・「コーヒーの、 しいにおいがするな」父は言って、手をこすった。でも、それから父は、自分が妻 ふきげん とけんかしていることを思い出したようだった。「・ヘアティはどこにいるんだ ? 」父が不機嫌そ , つに聞、た。 「まだ寝てると思いますけど」母が言った。 145
ゼバスチアンのヴァイオリン。今になって私は、ヴァイオリンがゼバスチアンにとってどうい う意味をもっていたのか、わかり始めていた。よりによって、父と庭のことがき 0 かけになるな んて。 「ええ、わかるわ」あの時、私はイーザー川の岸で言った。 私たちは、自転車で出かけていた。土曜日。初めてのふたりの土曜日。知り合 0 てちょうど一 週間だったけど、私たちはまだ一度も、学校の外では会ったことがなかった。 朝八時に、ゼバスチアンが電話をかけてきた。私はべッドの中にいたのだけど、あわてて電話 のところへ走 0 て行った。この一週間、電話が鳴るたびに、もしかしたらゼバスチアンじゃない かと期待して、私は電話のところへ走っていたのだ。 かれ 「ちょっと自転車で遠出する気ない ? 」彼は聞いた。「イーザー川までさ」 いっしょ もう少しで受話器を落とすところだった。一週間、私はずっと待っていた。休み時間に一緒に いる時も、放課後、彼が私をうちまで送 0 てくれる時も。たいてい私たちは、何度か行 0 たり来 たりした。い くら話しても、話したりなくて、ふたりでうちの前から学校にもどっては、またひ きかえしてきた。でも、彼は一度も聞いてくれなかった。「今日、時間ある ? きみのうちに行 泳ぎに行かな刃 ってもいし 、 ? 映画、見に行かない ? アイスクリーム、食べに行かない ? い ? 」って。一度も。なのに、今朝の八時になって「ちょっと自転車で遠出する気ない ? 」なん
私は首をふった。 「それじゃあ」とべアティが言った。「日曜日に、ヾヾ。、 ノノカ出かけてる間に教えてあげるよ」 少し前から父は、日曜日に教会のミサに行くようになっていた。父ひとりで。というのも、家 族の中で父だけがカトリック教徒なのだ。ミュンヘンに住んでいた時には、教会になど行ったこ とはなかった。・ ヘアティと私が、母とおなじようにプロテスタントの洗礼を受けることにも反対 とう しなか 0 た。でも、台所の窓から教会の塔の見える、ここェッラーリンクに来てから、それが変 わった。 ェッラーリンクに引 0 越してから二度目の日曜日、みんなで朝ごはんを食べていると、教会の かね 鐘が鳴った。すると、父が立ち上がった。「ちょっと教会へ行ってこようと思うんだ」 「どこへですって ? 」母が聞いた。「教会へ ? どうして ? 」 く一 「どうしてだろうな」父が照れ臭そうに言った。「若いころ住んでた村では、行ってたんだよ。 母さんとふたりでね」 けっこん 「あなた、カトリックの人と結婚すればよかったのにね」母が言った。 「なに、ばかなこと言ってるんだ」父は母の髪をなでた。「きみみたいにいい 女の人は、カトリ ックにはいなかっただろうよ。じゃあ、ちょっと見てくるよ」 その日以来、教会へ行くことは、父の日曜日の日課のひとっとなった。父は、教会の話はなに いっしょ もしなかったし、私たちを一緒につれて行こうともしなかった。でも、鐘が鳴ると決まって出か かみ 176