アラカルーフ 南米大陸て原住民といわれる人達は、一万年以上も前、世界の海水位が低かった頃に、陸つづきだったアリ ューシャン列島を通ってアジアから移動してきたモンゴロイド ( 蒙古人に近い人種 ) てあるインディオたちとい われている。現在インディオたちは一様に住んているわけてなく、ところどころに比較的純粋なグループが集 まっている。一方、一六世紀頃からスペイン・ポルトガルをはじめヨーロッパ諸国からの侵攻がはじまり、今 ては、ヨーロッパ系の人達が集まっているところと、インディオが集まっているところと、それらが混血した 人々のいるところが分布している。それにしても、ハタゴニアにいるインディオ達は南北二万キロメートルに も延びているアメリカ大陸を南下してきて、北米にも留まらす中米にも留まらず、何故こんな水に閉ざされた 僻地に迪り着いたのだろうか。あるいは人間嫌いになって無人の境を求めたのだろうか。ハタゴニアに現在住 リー山 ( を んているインディオたちには、アルゼンチン側を南下してきたテホールチェ族、オーナ族などと、チ 南下してきたアラカルーフ族、ヤーガン族などがあるが、いずれも数百人あるいは数十人以下の少数になって しまった。私たちがプエルト・エデンて一緒に過ごしたアラカルーフは、もっとも白人との接触が少なく純粋 なインディオといわれている。このフィヨルド地域は暖流が入り込んているために水河の間近にもかかわらず 174
本語・英語・スペイン語と通訳に手間が掛かるが、運転手も私たちも一生懸命しゃべった。国籍が異ってもこ んなにも心が一つになれるものか。二十年たった今ても彼女らから来るクリスマスカードにはその夜の感激が 回想されている。 ある日私はトロさんに連れられて、街のはすれにあるセメンタリオ ( 墓地 ) を訪れた。英国人の大地主の墓は 宮殿のようて、広い地下室には今ても彼等が住んているかのように調度品が飾られている。そのまわりにある イタリア系の人達の墓は地下室もなく、きわめて質素な小さい墓てある。さらに墓地の一隅にはインディオた ちの墓があった。 一メートル四方の可愛い墓に何十人という人たちが無縁仏のようにまとめてまつられている。 プエルト・モントのインディオ達 チリーの南部にはパタゴニア水床近くの街プエルト・モントやテムーコなど、ところどころにインディオの 血の濃い人達の大集団居住区がある。彼等は店を構えることは少なく、露店て魚や目 ( 、それに民芸品の数々や ポンチョなどの毛織物を売っている。顔かたちも似ていることから、北海道のアイヌの人たちの店を思い出し、 なっかしくなる。魚市場の一部ては簡単な止まり木のような椅子が並べられ、とれたての貝や魚の鍋物や焼き 物が食べられる。目 ( 類はとくに豊富て、一般に大型ぞある。この国の人達は大食漢が多く、大皿に山のように 盛り上げた目 ( は私にはとても食べ切れない量だった。 194
これはある意味ては生急な教育の行き過ぎともいえるが、昔こんな例があった。もう少し南のフェゴ島に住 むインディオの話だが、スペインからきた艦隊がその住民の一人を母国に連れ帰り、洋服を着せ、白人の言葉 を教え、彼らの風習・食物を教えこんて一年後島に帰した。ところが洋服を着て裸の仲間の中に戻された彼は 指導者として役立たなかったばかりか、恥かしくなって洋服を捨て元の姿に戻ってしまったという。日本人が 開発途上国の人達に接する場合にも、これほどてはないにしても、相手の立場を考えずに押しつける場合があ るのてはなかろ一フか さて、プエルト・ エデンには数十人のアラカルーフが政府の保護の下に住んていて、測候所長がその面倒を 見ている。全部て十数軒のバラックが建っているが、アチャカツツ家とトンコ家が二大名門て比較的大きな家 に住んている。この人たちはかなり文明度が高いが、逆に いうと純粋のインディオとは異ってきているともい 十四才のプリアンナから三 える。トンコ家にはホセ・トンコという当時四十三才の夫と妻ガプリエルの間に、 才のホアンまて七人の子供がある。主人のホセ・トンコは賢くて我々の有能な水先案内てある。一方のアチャ カツツ家は四十九才のおばさまが家長格て、追放され近くの小さな小屋に一人住いしている、かっての夫てあ ったホセ・ロッペとの間に二人の子供があるが、新しい若くて教養のある夫のアルベルト・アチャカツッとの 間にもアニタ、フェロニカ、ホランダという一二人の娘がいる。前夫の長女は非インディオの漁夫との間に父親 の異なる三人の子供を持っている。しかしこのような複雑な家族構成からなる十人の家族は同じ屋根の下に住 んている。これら二大名家は何かにつけ格式を張り合っているように思えた。特こいずれも十四才の両家の長 176
私たちが、南米大陸パタゴ = アの名を口にする時、多くの人が思い浮かべるのは、チャールス・ダーウイン の「ビーグル号航海記」てはないだろうか。今から一五〇年前にかかれたこの日記を私の十五年の経験と対比 するために今回もう一度読み直してみた。 未知の博物学的資科に満たされた宝庫、南米大陸を一周するこの航海記を読ん。ていると、博物学者としての ところて、今回 未知 ~ の出会いと幸福を、胸一杯に体験してきたこの著者を羨ましく思わずにはいられない 私たちが体験してきたことと比較するとき、まったく今昔の感にたえないほど変化したと田」われる部分と、プ かなりあの頃の風物がそのまま残っているのてはないかと思われる部分とがあ エルト・エデン付近のように、 る。一番変わったのはインディオの生活環境ぞはなかろうか。あの頃は、彼等はまだ沢山いて、ダーウイン達 にとっては凶悪な敵と感じられていたようてある。その後、白人たちに攻め滅ばされ、今ては白人たちに順化 されたインディオたちが、あちこちに集団て住み、純粋に近い原住民は所々にわずかに残っているにすぎない おわりに 201 おわりに
おわりに 0 装丁・レイアウト加藤光太郎 表サン・ラファエル水河末端の夕暮れ 裏上っるし雲下チリー国花コイコビウェ Ⅲハタゴニアの自殃 水河の陰に咲く花風に飛ばされる蝶白雲の乱 舞水の造形水河て知るグロー バルな気候変動 ルバタゴニアの人々 アラカルーフ フェルト・ エデンて働く人達プ ンタ・アレナスの友だち老神父の気象観測国 境 「持てる者と持たざる者」 フェルト・モン トのインディオ達港町アイセン水産加工て賑 わう島
ラた」とひやかされた。 プンタ・アレナスの友だち 、家族の待っプ 翌朝慌しく荷物を整理し、任期を終えて、ゲゲロという名前の後任者との事務引継ぎも終り ンタ・アレナスへ戻るトロさんに同行することになっこ。 オエデンの沖合に停泊した定期船ナバリノ号に乗船し、 エデンの人達が無数の小舟に乗って見送る中を南へ向けて出航する。 翌朝夜があけると船は南米大陸最南端のフロワード岬に近づいている。インディオが大昔にやってきたよう に、私もアメリカ大陸を北端から南端まて来たかと思うと、何となく感激する。もう水床も見えず緑の木々が 茂っている。南緯五十四度のこのあたりは、南半球の強い偏西風帯の南極側へ出てしまったのて、風も弱く天 気もかなり良くなっている。「と - フと , フマセラン海峡にきましたね」とまわりの人たちに話しかけても、皆不思 議そうに私の顔を見ている。「あなた方は有名なマゼラン海峡の名を知らないのてすか」と問いただしているう ちに、スペイン語てはマゼランをマガャネスと発音することがわかり「おお、マガャネス」て一件落着する。 船は太平洋から大西洋へ入ってきたのだ。 夕方入港したプンタ・アレナスの港は、人口三万人に過ぎないけれども、秘境て暮らしてきた私にとって、 赤い屋根、青い屋根の連なる町並は「夢の都」のように感じられた。ここは太平洋と大西洋とから多くの船が 出入りする自由港て、さすがに物資も豊かてある。飛行機や定期船て比較的に容易に来られるのと気候が良い 182
ンチン・ ハンパと呼ばれる広大な草原となっている。パタゴニア地方というと、アルゼンチン側の広大な草原 ノタゴニア水床とそ れども、わたしたちが訪れ、ここに紀行文を書こうとしているのは、。、 をいう場合が多いけ ノタゴニア地方は広く厚い水 の西側の、年中雨や雪の降っているフィヨルド地帯てある。第四紀の水期には、。、 に覆われていたのて、飛行機から見ると山々は今ても、お寺の木魚のようにツルツルに磨かれた丸い山容をし ており、 一方、有名なフィッツ・ロイ峰のように、水期にも水の上に突き出ていた山々は側面を水河に削られ て、鉛筆を立てたように大空に突き出ている。 , ) のレよ , フに、 探検的にも学術的にも未知の部分の多いパタゴニアを文 ( 中島 ) と写真 ( 近藤 ) て紹介してみたい。 中島がはじめてパタゴニア地方を訪れたのは一九六八年て、京都大学探検部が派遣した「京都大学アンデス学 術調査隊」の隊長としててあった。目的は南緯五一度付近にある人跡未踏の水河の踏査と、この探検の基地と なったウエリントン島のプエルト・エデンに住むインディオのアラカルーフ族の生活を知ることてあった。第 二回と第三回とは一九八三年および一九八五年に文部省が派遣した海外学術調査「パタゴニア地域の水河にお ける水文・気象学的研究」て、中島は隊長として、近藤は隊員として北水床の調査をした。正式の学術報告書 ハタゴニアの自然と人とを紹介してみた は旡に刊行されているのて、ここては写真を中むに随想風にチリー 写真説明末尾に z とあるものは中島が、特に表示のないものは近藤が撮影した。
いかにも秘境らしく、意外に記録は少ない。アルゼンチン側には国立パタゴニア大陸水河研究所があり、かな り系統的な調査があるが、チリ目・ 』についてはいくつかの踏査の記録がわずかにある程度て、ほとんど記録ら しいのはもな、。 日本からは一九五七年に神戸大学山岳会がはじめて大がかりな調査隊を出し、地理学者の田 中薫隊長の報告や、今も多くの人達に愛読されている高木正孝隊員の『。ハタゴニア探検記』があるが、南水床 ( 南緯四八ー五二度 ) の西側については、ほとんど記録らしいものはない。大昔にアジア大陸から当時まだ陸つづ きだったアリューシャンを通ってアメリカ大陸を南下したインディオの一族てあるアラカルーフという種族が わすかにウエリントン島と水床の間のフィヨルド地帯に住んぞいるらしいということや、年中雨風が強くて、 晴天がほとんどないというような断片的な情報だけしか手にはいらなかった。しかし彼等は裸て暮らしていて 泊まる小屋もないという。私たちは強風に強くしかも年中降る雨にも耐えるテントを用意しなければならない 若い三人の学生と私とのつながりを強化するために、中間の年齢の寺本巌・井上治郎両隊員を京都大学学士山 岳会から補給して隊としての形を整えることにした。また、探検部の部長て京都大学の農学部教授の四手井綱 英先生から資金募集の方法の手ほどきを受けて、出発まてに約三千万円の当時としてはかなりの大金を必死て 集めることにも成功した。 先発の学生たちは、費用を節約するために、 川崎汽船株式会社の鉄鉱石運搬船に便乗させてもらうことにし 北部の沙漠の町コ た。彼等と荷物は一九六八年九月に千葉の港を出て、ハワイの南側を通る最短距離てチリ キンボへ向かった。その船が着く頃に副隊長の寺本君も飛行機て後を追った。先発隊の物資調達や情報収集の