再びパタゴニアを目指して ルト・エデンから南水床第十水河にかけての探検調査に出掛けていた頃には、日本から他にも 私たちがプエ いくつかの隊がパタゴニアに派遣されていた。例えば、すてにふれた六甲学園山岳会の南水床横断、東京工大 の南水床ウブサラ水河探検、北大・広大合同のパタゴニア地域の植物・地質・水河調査隊などてある。しかし 、ごごめに、入国か困難となり、 軍政になったりして、政変がつづしオオ チリーの政府は社会主義政権になったり、 日本隊による調査も中断された。 十年以上の空白の後、日本の各地てパタゴニアをもっと調べようという気運が再び高まってきた。私たちも 日本雪水学会の水河情報センターの中にパタゴニア研究会をつくり、調査隊を出す具体的方法の検討を始めた。 今回は本格的な学術調査隊を出すこととし、文部省の海外学術調査費の助成を受けられることとなった。隊員 は京大・北大・名大・筑波大から選ばれ、隊長にはパタゴニア研究会代表の私がなった。水河の現地調査をす るには多くの危険がともなうのて、雪水学の基礎知識を持っていて、登山のかなり高度な実力をも備えている 、これらの研究者はパタゴニアだけてなく、 ことが条件となる。このような研究者は日本にそれほど多くいない 南極、ヒマラヤなどの調査もつづけなければならないのて、隊員の選考には一つの大学だけて考えることは出
風下側のソレール水河の下流から「こま落とし」の八ミリ映写機て小林隊員が撮影した映画を見ると、今ま ぞ青一色だった空の彼方の峠付近に一寸白い雲が見え出したかと思うと、雪崩のように白雲が流れ落ちてきて、 あっというまに水河の上一帯が暴風雪となる。。ハタゴニアては、風は上下方向にも速度が変化するが、峠を抜 ける風と回りの風との間て水平方向にも風速差が生じ、ちょうどろくろて拵えた壺のように、あるいはお正月 の二つ重ねの鏡もちのように 、鉛直方向に軸をもった回転性の雲が出来る。これは地形の影響て出来るため、 一日一出来ると消えることも移動することもほとんど無く、水床の上にあちらに一つ、こちらに一つと居すわる。 私たちはこれを「雲」と呼んだ。この雲はある場合には雄大な石臼のような姿になり、ある場合には白 い碁石のように薄手の可愛い姿となる。またある時には一時的に狼煙のように細長くたちのばる雲になること もある。 熱帯てはないのて雄大な積乱雲になることは比較的に少ないが、時には雷を伴った背の高い、雲底に乳房雲 を持った発達した雲が出来ることもある。水床地帯を北に少し離れると、日本てもよく見られる、蒼空をバッ クにした積雲がのんびりと浮かんている風景が見られ、氷床を離れたことを感じさせられる。 フィヨルドは上空の強い風から山かげに隠されているのて、低くたれこめた層雲が名物てある。フィヨルド 名物シバスコス ( しぐれ ) は、日本の冬の日本海側をおもわせる。夏てもほとんど毎日のように、フィヨルドの 奥深くから、幕のような層雲が近づいてくるかと思うとシバスコスが頬を打つ。。、 ノタゴニアのフィヨルドの中 ては初冬の山陰沿岸のような天気が年中続くと考えればよい。 148
アラカルーフ族の保護地区となっていて、百人たらずの住民がおり、その子供達の一部も学校に通っている。 この付近の表面海水温はフンボルト海流の影響て夏は十度ぐらい、冬ても五度ぐらいと比較的高く、したがっ て気温も暖かめてある。この海流は南米大陸の太平洋岸に沿って延々と流れているが、パタゴニア付近ては相 寸的に暖流てチリ ー北部やベルーては相対的に寒流の性質を持つ。しかし深いところは水河の融水て大変冷た 雨量が多いため地表は湿原となっていて、樹木は常緑樹ばかりてある。周囲の山々は、五ー六百米より上 は、夏ても鹿の背中のようなまだら模様の雪に覆われ、山々の頂上はその昔水河によって磨かれ、まんじゅう 型をしている。湿地帯は緑鮮やかな草て覆われ、上を歩くとぶかぶか揺れるところがある。湿原の苔の間には 可愛い小さな花が一面に咲き、星をちりばめたようだ。 一日に何回か強い風が時雨 ( この辺てはシュバスコスと いう ) を伴って吹きわたるかと思うと、またたちまち青空がひろがる。青れている間は日射しもやわらかく、天 国の楽園かと思われるほどのどかておだやかな景色となる。われわれは水河に通ずるフィヨルドの偵察をした 船便の情報を集めたりして、一月二日まて半月もここに滞在した。私たちが最初に使う予定て日本から持 ってきていた船が故障したために出発が遅れていたが、元旦にたまたまエデンにやってきた船が丁度手頃の大 きさだったのて、正月の祝に酒を汲み交わしながらチャーターの交渉を続ける。最初は二千エスクード ( 日本円 て約八万円 ) といっていたが、酒の勢いてとうとう三百エスクードとラジオ用の単一電地六個て一日の航海と決 、 0
キロメー -z- ル、 いだ。水河の末端は近年後退した形跡があり、今ては 上流の広いところぞ五キロメートルぐら 直接海にまて達していなくて、直径二十キロメートルぐらいのとなっている。意外だったのは、水河の近く ぞも、日中気温は十五度ぐらいあることてあり、青れた日には上半身裸ても寒くない。年間降水量は、日本の 四倍以上もあり、水河が後退するとすぐ樹木が成長する。 海岸に上陸して二日目から、湖畔の前進キャンプまての荷物の運搬がはじまる。ヒマラヤ登山の場合はポー ターを雇うことがてきるが、ここぞは働いてくれる人がいない。隊長の私は炊事当番をやり、他の五名が毎日 海岸から湖まて往復五時間ほどのボッカ ( 荷物運び ) てある。私ははじめの三日ほどは海岸の、後の三日は畔 のテントて留守番をする。この湖には水河の末端が崩れ落ちてぞきた大小の流水が無数に浮いているが、北風 が吹くと流水が湖から流れ出る川の出口に詰まって、湖から川への流れが急に停止する。最初に夜半に湖面が 上昇してテントの中の枕元まて波が近づいた時は理由が分からず驚いオ 氷河に立っ 一月十五日にい ( 六人が よいよ全員。て水河の上に登ることにした。日本から持ってきた真っ赤なゴムボートこ、 乗る。真ん中の席は隊長・副隊長て何もしない。後の二人は付近の木を切り削ってつくった櫂て一生懸命漕ぐ 前の二人は水先案内をしながら手に持った櫂て舵取りをし、浮水を押しのける。大きな結品からてきている浮 水はところどころ尖っていて、ゴムボートにとっては大変危険てある。零度近くの水温ては十分間も泳いては
森を焼き、牧場をつくっているのだとわかった。やがて機はコジャイケ飛行場に砂煙をあげて着陸する。 軍事基地コジャイケ 事務所の前だけアスファルトが敷いてあるが、滑走路は石ころだらけ。測候所兼ターミナル事務所の小さい 木造の建物の前に数台の車がとまっていて、降りた客たちはそれぞれ草原の間の狭い道を車を走らせてどこか へ消えて行く 。私たちも迎えの車に荷物を積んて、ます谷川沿いのサケ・マス人工孵化場へと向う。ここには 一九七二年から日本の国際協力事業団がエキスパートを派遣して養殖事業の指導に当たっているのだ。今回は ご好意てここに調査基地を置くことにし、荷物も一旦ここて保管してもらうことになった。コジャイケはパタ ゴニア北水床の北東約一五〇キロメートルぐらいにあり、東側のアルゼンチンとの国境まてはわずか二〇キロ メートルぐらいてある。国境付近一帯はなだらかな起伏のある平原て、あちこちに牧場があり、一見平和な風 リー側と乾燥したアルゼンチン側との ( リ ( が、雨量は日本と同じぐらいて、雨の多いチ 景てある。風は非常こ虫、 中間の気候といえる。コジャイケの町はアルゼンチンに対する軍事基地として発展した人口三万人ぐらいの殺 風景な町て、アメリカの西部劇に出てくる町を思わせ、街角や建物の前には若い兵隊が自動小銃を構えて立っ ている。チリーの国は州にわかれていて、この付近は第十一州 ( アイセン州 ) てあり、昔の州都はここから五〇 キロメートルほど西にある古い落ち着いた港町アイセンてあったが、軍隊の駐屯のためにコジャイケの方が人 口が多くなり、遂にアイセン州の邦都がここに移ったとかて、新旧二つの町は大変仲が悪いそうてある。この
いざ旅立て若者たちょ 地獄の風にもポンチョがあるさ 顔を覆へば風音消えて ム双に浮かぶアルゼンチン娘 ても無理は駄目だよ戻るも良いさ 帰れば優しく迎える彼女 どちらの国ても心は同じ セニョリータセニョリータ こんな歌がうたわれている間は戦争なんか起らないだろう。 「持てる者と持たざる者」 一九六八年、私がマイクロバスに乗ってプンタ・アレナスから ( ィネの麓まて一一泊三日の旅に出た帰りのこ とだった。夜が更けた一直線の道をバスはひた走る。乗っているのは運転手の外に、サンチャゴの青年教師と、 ある女子大学の学長秘書のお嬢さんと、アメリカからきている若い女の先生との三ヶ国五名てあった。話は国 境の争いのこと、大地主と小作人の問題、日本の学生紛争のこと、そして原子爆弾の話と熱気がこもった。日 191 Ⅳパタゴニアの人々
このフィヨルドの広くなったところを少し北へ行くと、亠冂 吉隊員は営林局の船に便乗してアイセンへ向った。 空が増え、積雲が浮び、水床を離れて行くことがはっきりと感じられる。私たちの乗せてもらった船は営林局 の美しい船て、あちこちにあるアイセン州の営林局の分署を、中央のお役人たちが会計検査のため巡回してい くのに便乗したわけてある。アイセンに帰る前に少し北にあるプエルト・アギラの殳所を視察することになっ た。ここには目 ( の加工工場があって百人ほどの女工さんが働いている。町の中の道路がすべて砂利のかわりに 目 ( 殼て舗装されているのには驚いた。日本からみれば小規模な工場てはあるが、貧しいフィヨルドの島々の中 ては飛び抜けて豊かてある。ここはローソクや石油ランプてなく電燈があかあかと点いている。重油て発電し ているらしい。驚いたことに体育館や公園があり、夜も体育館が使える。船てやってきたお役人たちと地元の 出張所員との間の親善バスケットボール試合を観戦する。 ーまてある。どれだけ無限に貝が採れるか 分からないが、産業があるということは民を富ます、とい - フことかよくわかった。
とまったく相手にされなかった。 今てはテレビの普及てサンチャゴの市民も水河の風景に馴染んている。十五 年目にパタゴニアに行ってみると、山オがすごい勢いて焼き払われ牧場に変わりつつあった。水床をはるかに 遠望てきる町々ても人口が急増しているのに驚いた。十五年前に秘境てあったところが今や「ここにも自然破 壊が進んぞいる」と嘆かせるようになってきた。 この本ては文章は中島が、写真は近藤が大部分を担当した。文章との関係ていくらかの写真は調査隊のほか の隊員のものも使わせていたたいた 隊員だけてなく日本国 この本を書くにあたって、三回にわたる調査隊の数十名の隊員の苦労に感謝したい、 内やチリー在住の多くの人達にもお世話になった。なお、この本を発刊しようと思い立ったのは私自身てはな 私たちのび真を見て感激して発刊を勧め、各方面を駆け回って実行にこぎつ けた、私の友人の平山久仁子 さんぞある。彼女につかまって、この本の編集に懸命になってくれたのが、リプロポート社の早山隆邦さんて ある。記して深く感謝する次第てある。 203 おわりに
報告を受けた後、私も十月の初めに後を追いかけた。 サンチャゴに着く 初冬の日本に較べサンチャゴは暑いだけぞなく 、非常に乾燥しているのに驚いた。飛行機のタラップを降り たとたんに唇がひきつる。市内の至る所に「水を節約しよう」と書かれている。この冬の間のアンデスの降雪 が少なかったのて融雪水に頼っているサンチャゴも水不足になったのだ。チリー在留邦人や大使館の皆さんの 温かい歓迎を受けて嬉しかったが、サンチャゴてはパタゴニアについて知っている人がぜんぜん無いのに驚く いよいよ秘境に向かうという意識がたかまってきた。 チリーの政権は短い期間に次々と交替が起こったが、この頃は軍が政治を支配していて、気象台も海洋観測 所もすべて軍の機関てあった。私たちが行こうとしているパタゴニア地域へは交通の便がきわめて悪い。した がって、漁業や林業に従事する人達も定期的にこの方面へ向かう軍艦への便乗が許されていた。そのことを耳 にした私たちも、やっと頼み込んて軍艦に乗せて貰えることになった。 軍艦に便乗 私たち六名の隊員と大量の荷物を乗せた軍艦アギラ ( 鷲の意味 ) は十一一月九日、チリーて最も美しい港の一つ ヾル。ハライソから太平洋南下の航海に出発した。太平洋の大波はさすがに雄大て周期が長い。食堂ては、今食 I 南水床探険紀行
女フリアンナ・トンコとアニタ・アチャカツツは、ミス・アラカルーフを競 - フように揃いのスカートやソック スを貰ってクリスマスを祝っている。 アラカルーフの言葉は非常に聞き取りにくく、則候所員や小学校の先生も理解てきないようて、ほとんどの 会話はスペイン語て行なわれている。この二大名家以外のアラカルーフはほとんど互いに交際することもなく、 ひっそりと目 ( を採って暮らしている。何を考えているのか想像するのも難しく無表情だ プエルト・エデンで働く人達 ( 小学校があり、校長先生のカルロス・ゴンザレスさんと陽気な夫人のベルタさんが教えてい 測候所の近く る。生徒はアラカルーフの中て二大名家なみの知識階級の子供たちと、近くの島々の漁業や林業の人達の子供 たちて、毎朝自分て小舟を漕いて学校に集まってくる。生徒教は二ー三十人ぐらいて、学年はなさそうて一部 屋の複式学級てある。こんなに多くの子供達が何処から来るのか最初は不思議だったが、ある時向いの島に渡 この島には目 ( の身をとりだしてゆがいて干す工場があった。簡単な作業場のような所てはあ る機会があった。 るが、アラカルーフが手て拾って食べていたのを、網て目 ( をとり、保存食につくりあげる作業に進歩させたの てある。目 ( は日本の蛤のようなアルメハという目 ( と、馬鹿目 ( のようなチョルガという黒っぱい目 ( とが中心てあ る 林業に従事する人びとはもっと広い範囲に散らばって住んている。測候所の人達は彼等への配給掛も兼ねて 0 178