執着 - みる会図書館


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1. 平常心のレッスン

瞑想修行に潜む罠 「執着しない」すなわち「こだわらない」ということは、心を平常心に保つ上であらゆ る る面において大切です。「喜」も「怒」もその仕組みを知っておいて、その感情に支配 て え されす、執着せすに放す。 教 「楽」は執着から離れさせてくれる仕組みをその内部に持っているのですが、「楽」に 対して「喜」が働く余地が充分にあります。「楽」に対して大喜びするということが起 きて、「 ~ 暑」に占領されて執着してしま、つということが、しばしば起きてしまうのです。 お 「楽」の仕組みをよく知っておき、楽に執着すると苦しみがやってくるというのもあり を がちな罠であることもまた認識しておいて、「楽」に対しても執着しない態度が大切で楽 怒 す。 章 仏道の瞑想においても、「楽」に執着してしまうという過ちはしばしば起こります。 瞑想の修行では、ある程度何日も継続して取り組んでいると、「楽」「安楽感」が非常に 高まって、セロトニンの大量分泌のような状態が連続し、あまりにも安らかすぎて、も

2. 平常心のレッスン

心のバターン化 このように執着というのは、特定の反応様式へと「心がパターン化」することでもあ ります。執着していることに対しては、心が落ち着いていられす条件反射的な反応を起 こしてしま、っため、平常心を失ってしま、つとい、つこと。 執着Ⅱ心のパターン化 ・執着していることを、褒められる↓快楽↓もっと褒められたい ・執着していることを、けなされる↓苦痛↓激しく傷つき、落ち込む この快楽と苦痛はコインの裏表です。執着が増し、央楽ばかりを追い求めていくと、 その裏側にある苦痛も増大していきます。強い央楽には、強い苦痛が伴うのは必然で、 「快」が心に刷り込まれるほどに心が甘やかされたぶんだけ、私たちはちょっとした 「苦」に激しい不快感を感じるようになるものなのです。央楽には副作用としての苦痛 21 1 章なぜ、平常心でいられないのか ?

3. 平常心のレッスン

がっきまと、つ、ともい、んます・。 これは、平常心とは程遠い状態ですね。最初は絵を描くことが純粋に、単純に好きだ った人が、その行為への執着を深めるにつれて、絵を他人に見せることに快楽を感じる ようになり、人の評価を追い求めるようになってしまう。絵に対する「評価」に執着す おちい ることによって、平常心と対極の不安定な状態に陥ることもあるのです。 人それそれの「条件反射」の癖 そう これは、ある種の躁うつ的な状態ともいえます。褒められれば、気持ちよくなって有 頂天になりますが、少しでも否定されると、ズドーンと落ち込んでしまいます。この快 楽と苦痛のジェットコースターに乗り込んでしまっている人は案外多いものです。 人それぞれ執着するものも違いますし、執着の仕方も違います。 たとえば、世間には一生懸命仕事をしている人は多いと思いますけれども、そうやっ て労力を投入すればするほど、周りからも認められるようになり、「仕事ができる自 分」への執着が生まれてきます。

4. 平常心のレッスン

六〇パーセントとますます落ちていってしまいます。その結果、心は回復するどころか、 ますます自己否定を強める、という悪循環が起こります。 「仕事ができる自分への執着↓自分のイメージ以下の仕事パフォーマンス↓自己否定↓ 仕事パフォーマンスのさらなる低下↓さらなる自己否定 : : : 」という悪循環に陥って、 結果的には、執着しているはすの「仕事ができる自分」からますます遠ざかってしまう のです。 の 執着を起点としたこの悪循環のメカニズムは、人生のさまざまな局面でしばしば起こ れ ります。「やせて美しい自分」に執着している女性であれば、「やせた自分への執着↓過 で 剰なダイエット↓自分の理想通り進まないダイエット↓自己否定↓ストレスから過食↓ 常 太ってしまう自分↓自己否定↓過食 : : : 」という悪循環を起こす人は多いのではないで平 1 レよ、つ , か 章 評価 " ありのままを拒絶 条件反射には、ありのままの現実を拒絶して、「、 しい」とか「亜い」とか一評価する心

5. 平常心のレッスン

「執着する」ということ このように「平常心」という一一一一口葉から連想されることを書き連ねてみますと、おばろ げながら平常心の輪郭が見えてくる気がいたします。 それでは次に、平常心を失わせるもの、平常心とはもっとも程遠いものは何か、とい 、つことを考えてみましよ、つ。 先ほど述べた「捨」という態度、すなわち「捨てておく」というものの対極にあるの が「執着」です。 人は自分が執着していることについて、人から褒められたり、けなされたりすると、 それを「捨てておく」ことができないのです。裏返して申せば、自分が執着していない ことであれば、「人の評価」はさほど気になりません。 司こ、イラストを使った たとえば、私は自分が運営しているウエプサイト「家出空卩」。 四コマ漫画を描いて載せたりしています。このイラストを人から、「あんまり上手じゃ ないですね」と言われたとしても、「いやはや、幼稚な絵でしてね」と笑うだけのこと

6. 平常心のレッスン

射です。 もう一つの条件反射は、「自分の考え、執着」に対する内的な条件反射です。実はこ の条件反射のほうが、五感に対する条件反射より、より強固で強烈なパワーを持ってい ます。 先ほど例に挙げた「仕事ができる自分」でこの条件反射を考えてみます。仕事ができ ると考えている人は、常に自分が一二〇パーセントのパフォーマンスをし続けることに 執着しています。ですから、「今日は三つも仕事をした」という事実に対しては、すぐ に「やつばり私はできる人間だ、素晴らしい ! 」と条件反射します。 一方、自分のイメ】ジ、予想の八〇パーセントしか仕事ができなかった日があったと します。「仕事ができる自分」への執着がなければ、今日は予想の八〇パーセントしか できなかったけど、ますまずだなという感じで終わるところを、執着が強い人は「こん なことではダメだ。こんな自分ではダメだ」という条件反射をしてしまいます。イメー ジ通りではない自分を否定する「自己否定」の心の働きが起こるわけです。 自己否定をしてやる気をなくしてしまうと、仕事のパフォーマンスは七〇パ】セント、

7. 平常心のレッスン

算したと考えることもできます。 親が自分の子どもを亡くして悲しみにくれることはまた、親自身の業であると仏道で は教えます。 仏道は死に対して徹底的にドライ このように仏道では死に対して、徹底的に乾いています。ドライです。 む 人は親しい人の死に際して悲しみにくれますが、釈迦は悲しむことは無意味だと教え 臨 ています。釈迦は人の死を嘆き悲しむのではなく、学習材料にすべきだといっています。 古い時代の仏教徒は、死体を野ざらしにして、毎日見に行き、死体が腐っていくのを 平 死 確認することで、自分の身体への執着をなくすようにしたといいます。鳥などに食べら 病 ちょうそ、つ れるままに死体を放置するわけで、これを「鳥葬」といいます。いま自分が執着して生 章 いるこの身体も、いずれは腐り、滅していくものであると学習することで、身体や生へ の執着から離れようとしたわけです。 きひ 死を忌避して、死から遠ざけられている現代人とは対極にあります。現代人は普通に

8. 平常心のレッスン

もちろん、「喜悦感」に執着することはとても危険なのですが、「喜悦感」は身体をと ても元気にし、ビシッと一本身体に筋を通すような感じをもたらすので、瞑想を進める しちかくし 上で役に立っと、とくに釈迦仏教の修行法では重視されており、後述する「七覚支」と いう七つの悟りのファクターには、「喜感」も含まれているのです。 喜悦感にせよ安楽感にせよ、それらの生理的状況が①生じ始め、②しばらくつづき、 ③必ず消えてゆく、という「生↓住↓滅」のプロセスを観察する修行を続ければ、それ らへの執着が薄まります。こうした強烈な喜悦や安楽の「快」への平常心が身につくと、 ましてや日常的な「快」に対しては、執着せず引きずられず、裕々と対処しやすくなる のです。 喜怒哀楽について、仏道式の結論 ここで、ようやくこの章の最初の設問、「仏道では喜怒哀楽をどのように捉えている のですか」に戻ることができます。 この問いに対して簡単には答えられないという理由を、これまでつぶさに述べてきま しよ、つじゅ、つめつ 152

9. 平常心のレッスン

ごうまん 仕事がうまくいっているときは有頂天になったり、傲慢になったり、生意気になった りする人もいるでしよう。そうして「仕事ができる自分」への執着が強くなると、反対 にちょっとでもうまくいっていないときの落ち込みはひどくなってしまいます。成功に 執着することはある意味、あとで落ち込むのを準備しているようなものなのです。 このように執着していることについては、「成功」や「失敗」が起きるつどにある種 のパタ 1 ン化した「反応」が心のなかに、自動的に起きることがわかります。先ほど平 の 常心とは「反応しない」「物事に過剰に反応しない」ともいえると申しましたが、それ れ とは正反対の状態ですね。心の反応がパタ 1 ン化してくると、それは個々人特有の「条 で , 1 ・」のよ、つになっていきます。 常 平 そして、「条件反射」には二つのものがあります。 ぜ 一つは、自分の外部、周りで起こっていることに対する反応です。見えているもの、 章 聞こえていること、香りや臭い、味、暑い寒い、それらに対して人それぞれ、気持ちが キ」ゅ、つ 良い、気持ちが悪いという反応をします。「視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚Ⅱ五感」が 感じ取ったものについて、嬉しくなったり不愉央になったりの反応をするという条件反

10. 平常心のレッスン

用すると、その薬に対する耐性がつくため、同じ量では効かなくなって、より強い薬が 必要になるような状態です。 そしてまた褒められることに置れていくと、反対に褒められないこと、批判されるこ とについて、どんどん傷つきやすくなります。 「この私ど、つ田 5 、つ ? ・」 「良いんじゃないの」 といった反応では満足できませんし、「イマイチだね」などと言われようものなら、 激しく落ち込んでしまいます。 そうやって「執着」が進んでいくと、「絵」、あるいは「絵画」という情報にとても過 敏になっていきます。他人の会話が耳に入っていないときでも、「え」「かいが」という 単語だけが突然耳に入ってくるような状態です。わかりやすい例でいえば、人は自分の 名前には慣れ親しみ、「執着」があるものですから、カフェでお茶をしていて隣のテー プルに座っている赤の他人の会話のなかに自分の名字や名前が混じっていると、自分に は関係がないはすなのに、ハッとしてついそちらに意識が行くような状態に似ています。