自分の生存が脅かされるということはないはずです。しかし、優先的に自分が扱っても らえなかったとい、つことを、優先的に餌がもらえなくなるとい、つ一小宀女にまで結びつけて しまって、不快を感じ、その結果、嫉妬してうなるという行動に至ってしまうわけです。 る このうなるという行動は、自分の生命の維持についてうまく機能しているとはいえま て え せん。むしろ、うなってしまうことで飼い主の不興を買い、かえって生存を脅かす可能 教 性すらあります。 同じようなことは、人間でも起こります。兄弟姉妹は、親の愛情を奪い合います。生 命の保存欲求に基づいて、他の兄弟よりも親からの愛情をたくさん得たいと行動します。 お あるいは、兄弟でちょっとでも自分が不公平な扱いを受けていると感じると、著しく不 を あくたい 楽 快を感じて、機嫌が悪くなって、親に対して悪態をついたりします。 怒 しかし大の場合と同じように、このような嫉妬に基づく行動が、親の愛の確保につな 喜 章 がることは稀で、反対に欲深い子だと疎まれてしまうことも多いでしよう。 大も子どもも、自分の生存を脅かしそうにない事柄にまで、勘ぐりすぎて不快を感じ て怒り、その結果、自分自身もずっと苦しい状態に置かれてしまうわけです。つまり、 まれ おびや
しくないものに触れざるをえす ) 、そして変化していく私たち自身や周りの状況に対して、 あらが 、いは自動的にそれを否定し、それに抗おう、抗おうという方向に行ってしまいます。 この盲目的な衝動は、言い換えると「生存欲求」です。「生きたい、生きたい」「嫌だ、 嫌だ、死にたくない」という生存欲求が苦しみの根源でもあるのです。 これを、仏教に色濃い影響を受けた一九世紀の哲学者ショーベンハウア 1 は「生きる つらぬ という盲目的な衝動が生命を貫いていて、それによって生き物は苦しんでいる」と捉え ています。 盲目的な生存欲求にかられているがゆえに苦しいのならば、それにかられることがな ければ「楽」になれます。起きている変化、究極的には自らが死んでしまうということ を受け容れることができれば、人は「楽」になれるのです。 裏を返せば、それができない限り、どんなに快楽の限りをつくそうとも、どんなにお 金を手に入れようとも、人は人生を通じてずっと苦しまなければならないのです。その ように人間と人生は仕組まれている、そのことに気づくことによって、「ちょっとこん なの馬鹿馬鹿しいな」と思えると、苦しみが減ります。 168
ここで、いったん回り道をして考えてみますと、「イヤだな」と思って危険から逃げ る、ノルアドレナリンのシステムは、もちろん生存にとって役に立っことも多一々ありま くさにお す。たとえば、きな臭い臭いをかいだら、いち早く火事の危険を感じて不快になり、逃 げ出すことが生存にとっては役立ちます ( 本当は、不央さに焦 0 て逃げるより、単に平静 に逃げるほうがさらに安全なのですが ) 。 ところが一方では、ノルアドレナリンのシステムが働くことによって、かえって生命 が危険にさらされることもあります。たとえば、水のなかで溺れてしまうようなときで幻 水深がかなり深い海に、海岸まで二〇メートルの地点で放り込まれたとします。その 人は普通だったらプールで二五メートルぐらい平気で泳げるような人だといたしましょ う。ここで生命の危険を感じ取り、ノルアドレナリンシステムが作動して興奮状態にな 喜 ってしまうと、じたばたするせいで、どんどん溺れてしまいます。浮き輪もないし、深 い海だという状況に心が怒り、それを受け容れたくないと思うと、身体中の筋肉が硬直 けいれん したり、痙攣したりして、勝手にジタバタと動き始める。要は、自分の意思では操作不
ではノルアドレナリンという神経伝達物質が放出されて戦闘的になるといわれています。 不快な状況に対して怒り、拒絶しようとするのです。 たとえば、鶏の檻の前に野大が現れたら、鶏は生命の危険を感じ、とても不快な状態 る となって、ココココーツと大騒ぎをします。そしてその不都合な状況を打開するために、 て え 闘うか、もしくは逃げるという行動を取るように条件付けられているわけです。檻の前 教 に野大がいるというのは、檻があるので安全かもしれませんが、檻のせいで逃げること ができませんから、鶏にとっては、とても苦痛の状態であると想像することができます。 さ このように人間も含めた動物は、自分の生存にとって好ましいことにはド ーパミンを お 分泌し、好ましくないことにはノルアドレナリンを分泌する、「央 / 不快」の条件付け、 を 楽 仕組みで生きていると捉えることもできます。 怒 喜 章 好き / 嫌いのシステムで、うまく生きることは難しい 「楽」についての説明は後回しにして、この「央 / 不央」「ド リン」のシステムについて、もう少し考えてみましよう。 ーパミンノルアドレナ
「央 / 不快」は、「好き / 嫌い」とも言い換えることができますが、「好き / 嫌い」に応 じて分泌されるド ーパミン、ノルアドレナリンといったシステムによって、動物も人間 も好きなことには近づき、嫌いなことや危険なことからは遠ざかったり、ときには闘っ たりして自分の生存を守るということを繰り返しているのです。 では、このシステムに無意識的にのって生きていれば、好きなことには近づいて手に 入れ、危険なこと、嫌いなことからは遠ざかるというように、理想的に生きていけるか というと、残念ながらそんなにうまくはできていないのです。このシステムに無意識に したがっているだけでは、何らかの問題を抱えてしまうことが多いのです。 動物ですらこのシステムだけでうまく生きていけるかというと、大のように社会性を 持 0 た動物ではそうもいかないこともあります。たとえば、私の実家のお寺では大を三 匹飼 0 ているのですが、いつも私の父の「膝」をめぐ 0 て二匹のメスが争いを繰り広げ ています。膝に乗せてもらえなか 0 たほうが嫉妬して、一種異常なほどにうなりつづけ るのです。 生命の仕組みで考えれば、膝の上に乗せてもらえなか 0 たからとい 0 て、直接的に、
まず、このド ーパミンがどのような状況下で放出されるかを考えてみましよう。人間 も動物ですから、動物のレベルで考えてみますと、どのようなときに央感を感じるかと いうと、基本的に自分の生存につながること、より自分が生き延びやすくなりそうなと 、つさぎ きです。たとえば、ジャッカルが獲物である兎をたくさん見つけたようなとき、ドー ミンが放出されることでしよ、つ。 このド 1 パミンの放出は三段階に分かれて行われるといわれています。 第一段階は、獲物などを見つけて「欲しい」と思った瞬間。次の段階は、それを手に 入れようと実際に行動して〔るとき。」 ~ , カルであれば狩りを行 0 て〔るときです。 そして最後の段階は、獲物を「手に入れた」ときです。この手に入れたときに、ドー ミンはより大量に放出され、この流れが一段落するといわれています。 自分の生存にとってより役立っこと、より好ましいことに向かって条件付けられてい くような仕組みになっているわけで、ドー ハミンはその行為を促す役目を果たしている のです。 反対に、自分の生存にとって不都合な状況に遭遇したとき、人間も含めた動物の脳内
イライラするといわゆるクドカ食いクをしてしまう人がいますが、嫌な気持ちを、食 べることの快楽で紛らわす行為です。食べ物を詰め込むことは脳に一定の快楽を与えま す。人類は歴史上、極めて長い間にわたり飢餓状態でさまよってきた結果として、少し でも食べ物をたくさん追い求めるように設計されてきたのでしよう。そうして生存欲求 を追求するための仕組みとして、高カロリーの指標になる脂質・糖質・たんばく質が舌え に触れると、ド ーパミンが脳内に分泌されて央楽が生じ、「もっともっと、食べろ ! 」 と命令が下るように、設計されているのです。 食べ物がめったに手に入らない頃なら、それでよかったかもしれません。けれども現 お 代日本のように食べ物がいとも簡単に手に入ってしまう状況では、欲望のままに高脂 を 楽 質・高糖質のものを食べ続けて快楽を連射することを通じて、太りすぎたり糖尿病にな ったり、過食症をもたらしたりしています。つまり、タガが外れた生存欲求が、皮肉に 喜 章 も生存を脅かしているのです。 食べることで得られる強力な「快」が、現実のストレスを忘れさせてくれるからこそ、 ストレスが強い人ほど、食欲の罠にからめとられてしまいがちでしよう。ストレスを逃 まぎ
つづけます。その事実に抵抗しようと頑張りつづけるのです。「老けないように」と積 極的にアンチェイジングに取り組むこともありますが、そこまでいかなくても「嫌だな あ」「こうじゃなければいいのになあ」とい、つネガテイプな思いだけで終わるケースも 多いでしよう。私たちの頭のなかを占めている思念の大部分は、実はこのようなネガテ ししのに」とい、つものではな イプな思念であることが多く、その一つが「老いなければ、、 しでしよ、つか そして、この「老いなければいいのに」が究極的に帰結するのは「死ななければいい のに」ということです。人は意識するにせよ、しないにせよ「死にたくないなあ」と思 っているのです。 まくも・ 2 てう 達磨大師の教え「莫妄想」 あるいは「病になりたくない」といったことも、ひいては「死にたくない」につなが っています。「老いたくない」「病になりたくない」、そして「死にたくない」という人 間の根源的な願望。盲目的な「生存欲求」に支配されているために、生存がより確実に だよ 161 4 章生老病死に平常心で臨む
実と理想とのあいだに亀裂が入り、その葛藤が心にくさびを打ち込んで苦痛をもたらし、 その苦痛が心の形を少しずつ歪めていってしまうのです。 やはり、受け容れること " 平常心 このように見てきますと、これまで繰り返し述べてきたように「受け容れる」ことが 平常心で生きる上でとても大切なことがわかります。事実を事実として受け容れること で、「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」といった苦しみが減っていきます。 む 臨 で 常 どんなに愛しているものとも、必ず別離しなければならないと受け容れる。 平 死 生きていれば、自分が嫌いなものにも出会うことはあると受け容れる。 どんなに求めても「老いたくない」「病みたくない」「死にたくない」という生存欲求生 章 に基づく不可能な欲望は、絶対にかなわないのだ、と受け容れる。そうして、盲目的な 生存欲求を、少しだけ和らげて「楽」になってやる。
生活していれば、動物の死にも、人間の死にも滅多に出会うことはありません。出会う としても、せいぜいカナプンなどの虫の死骸でしようが、それですらぎよっとして、気 持ち悪いと思う人は多いのではないでしようか し力し ノーミング ( 遺体衛生保全 ) などで整えられ、防腐 あるいは、最近は人の遺骸もエンヾ 処理をされ、綺麗にオプラートに包んでごまかします。これも鳥葬とは対極にある、死 に対する態度です。 これらは、「死を拒絶しよう」という生存欲求の命令にしたがっている状態です。生 存欲求が脅かされるものとして、自分の死でなくても、他の死も拒絶せよ、と命令して いるのです。そうやって「死」という事実から目を逸らし、ひたすら生存欲求の命令に したがって生きているのが現代人の姿だといえるかもしれません。 悲しみを受容するための三つの態度 ここで親しい人の死などの悲しみをどのように受容するか、ということも考えておき ましよう。悲しみを受容する態度としては、次の三つが考えられます。 ば、つふ 176