ようとします。理不尽としか思えない死も、それはその人のさだめであったのだと認識 して受け容れることです。そうすることで、悲しみに心をとらわれて、心身を損なうこ とを回避できるようになるはずです。 さらに、亡くなった人が教えてくれた「死ぬ」ということを通じて、自分は心を成長 させる、物事に対して受容的になってタフに生き延びていく、という心の態度をとるこ とができるよ、つになれば、さらに良いでしよ、つ。 はなむけ かて 悲しみを糧にして成長する態度を示すことは、亡くなった人のためにも、いわば餞に なることでしよ、つ。 釈迦はあらゆることに、乾いている 死に対する釈迦の教えについて述べてきましたが、釈迦は死についてだけではなく、 あらゆることに対して徹底的にドライです。 たとえば、人は自然や芸術に対して「美しいもの」を求め、感動を求めます。 絶景の自然に感嘆し、人の内面をえぐるような絵画にも釘付けになります。絵画だけ 180
では、天界に行けるように心穏やかに生きればいいのですね、と思うかもしれません が、仏道はそのような「天国と地獄」といった二元論で世界を捉えていません。「天 界」にある心地よい思念としての繰り返しもやがては消耗していって、消耗しきって 「死んだ」時点でまた身体をもって生まれ変わると教えています。 まぬか 諸行無常、常に一定のものはなく、修羅も神も、変化を免れずにやがては死んで生ま ちくしよう れ変わるのです。これが釈迦の教える「六道 ( 天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、 地獄道 ) 輪廻」です。このように永遠に生まれ変わりをつづけなければならないという 輪廻があるからこそ、「生」もまた苦しみであると釈迦は捉えているのです。 この世に苦しみ、怒りをもって生を終わらせようと自殺したとしても、その激しい怒 りを抱えて、「修羅」や「地獄」に生まれ変わってしまいます。つまり、自殺したとし ても輪廻からは逃れられないということは、確かに苦しみであるといえましよう。 にゆうめつ 輪廻からの解放を意味する「入滅」 一切皆苦、すべてが苦しみであるという人の生、輪廻転生から脱するために釈迦は修 172
りしていても、ま 0 たく憤慨することはないし、反論する必要もない。そんなのは放 0 ておきなさい。非難する人間がいるというのは当たり前なのだから」 これは釈迦自身の体験も踏まえて説いている話でしよう。釈迦は説法をしている最中 ハラモンなどから邪魔をされたり、非難されたり、論難されるという話が、さまざ ま経典に書かれていますから。 こうやって経典を読んでみますと、釈迦の時代から、人間の悩み、苦しみというもの は何も亦夂わっていないとい、つことがよくわかります。 幻である慢心 ( プライド ) をつくりあげ、人から非難されてはが傷つき、落ち込み、 怒る。そして、日々、イライラを募らせる。そんなときは、自分はしよせん壊れて死ん でいってしまうものだということを思い出して、平常心を取り戻します。そうすること で、「ま、いっか」という精神を取り戻して、元気になることができます。 ます、苦しむことは当たり前 「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」 だと受け容れることです。当たり前だと思い始めた時点で楽になり、それはもう苦しみ ではなくな 0 ていきます。すべての苦しみがなくなることはなくても、苦しみと感じる 196
科学的認識とは、世界をありのままに認識すること 私がこのような話をしますと、釈迦にもっと違うもの、もっと輝かしいものを求めて いた人たちをガッカリさせることがあります。修行を積んでいって、そのようにドライ な認識を得て、何が楽しいのか ? という疑問です。 その疑問を持つのもわからなくはないですが、繰り返し述べてきましたように、「央 楽」を追求するような生き方は、表裏一体としてその裏に「不足」の苦しみを伴います。 そのような、快楽と不足の支配から逃れて、世界を正しく認識し、平常心で生きるほう が苦しみを少なくできるのです。釈迦のように解脱にまでいたらなくても、苦しみはは るかに減るはすです。 これまで述べてきました、業による輪廻転生があると認識するには、ある種の「飛 躍」が必要となります。いわば、信じるか、信じないかの世界です。誰も死後の世界を 知らないわけですから、正しいとも、正しくないともいえません。 では、私はこの教えを信じているのでしようか ? 信じるというよりは、「確かにそ 182
行して悟りを開いたのだと、経典では述べられています。釈迦の死を「入滅」や「寂 めつ 減」と表現しますが、これは完全に滅することを意味しています。「入滅」や「寂滅」 を意味するパ ーリ語の「ニッパ 1 ナ」やサンスクリット語の「ニルバーナ」には、もと もと火が消えるよ、つに滅するという意味があります。 つまり釈迦は、カルマの因果に支配された輪廻から脱して、完全に滅するために修行 を積んだのです。輪廻転生からの解放を目指したのであり、いわば「究極の自殺」を目 指したともいえるかもしれません。 む 臨 で 業とはそれぞれに個別のもの 平 死 いま少し業の話をつづけましよう。 病 りふじん 仏教では「因果応報」ということを教えます。世の中には理不尽に思えることが溢れ生 章 ていますが、それは自分自身の業が招いたものだと捉えます。その業は、その生だけの -4 ものでなく、前世から引き継いできたものと考えられています。 確かに、世の中には理不尽に思えることが溢れています。
お釈迦さまの最初の説法 この章では「生老病死」という、ややハードな内容について考えていきます。重たい 内容ではありますが、人生の本質的な問題であり、仏道においても一般的な宗教におい ても、普遍的に扱われる最も根源的なテ 1 マであるともいえます。 ところで、釈迦が悟りを開いて最初に説法を行ったとき、その聴衆は非常に少なくて 五人しかいませんでした。その五人に対して釈迦が最初に行 0 た説法『初転法輪経』の 内容の一部をすこぶるざっくり要約すると次のようなものです。 「君たち、生まれることは苦しみである。老いることは苦しみである。病になることは 苦しみである。そして誰しもが必ず死ぬということが苦しみである。 生きているならば、必す何か〈好ましいもの〉をこの心は作る。何かについて好まし いと思う。あるいは、誰かについて好ましいと思う。しかし、死ぬまでのあいだに、そ の好ましいと思うものは必ず変化する。自分の心も変化する。 自分の目でずっと見ていたいと思っていた好ましいものが、見られなくなるときがあ 156
算したと考えることもできます。 親が自分の子どもを亡くして悲しみにくれることはまた、親自身の業であると仏道で は教えます。 仏道は死に対して徹底的にドライ このように仏道では死に対して、徹底的に乾いています。ドライです。 む 人は親しい人の死に際して悲しみにくれますが、釈迦は悲しむことは無意味だと教え 臨 ています。釈迦は人の死を嘆き悲しむのではなく、学習材料にすべきだといっています。 古い時代の仏教徒は、死体を野ざらしにして、毎日見に行き、死体が腐っていくのを 平 死 確認することで、自分の身体への執着をなくすようにしたといいます。鳥などに食べら 病 ちょうそ、つ れるままに死体を放置するわけで、これを「鳥葬」といいます。いま自分が執着して生 章 いるこの身体も、いずれは腐り、滅していくものであると学習することで、身体や生へ の執着から離れようとしたわけです。 きひ 死を忌避して、死から遠ざけられている現代人とは対極にあります。現代人は普通に
さま でなく、音楽、文学、映画などなど、美しいもの、魂を震わせてくれるものを求めて彷 徨うのが人間の習性でしよう。人によって好みが分かれ、好きの程度にも差があります が、「アート」を求める心は誰でも多かれ少なかれ持っています。 ところが釈迦が見ている世界では、「ア 1 トⅡ人為」的なものは意味を持ちません。 さらにいえば、美しい「自然」すら無意味です。なせなら、芸術も、自然も、人間も、 原子レベルに還元して認識すれば、すべて一緒だと考えるからです。人が美しいと思う ものも、醜いと嫌うものも、原子レベルまで分解すれば差はなく、そしてすべて諸行無 常で移り変わっていくものです。 それを美しいとか醜いとかラベリングしたり、美しいものを追い求めて、執着しても 虚しいだけです。釈迦はそれを「虚しい」と捉えて虚無的になる、という反応をするの ではなく、「そういうものである」と認識して受容することこそが大切だと説いていま す。それが悟りへの道です。 181 4 章生老病死に平常心で臨む
一つめは強がって、悲しみの感情を抑圧するものです。私は全然、悲しんでいない、 という態度をとるものですね。しかし、悲しんでいる気 ダメージなんか又けていない、 ふた 持ちを受け容れずに無理やり蓋をする行為は、後々、心身に強いダメ 1 ジを与えること になります。 二つめは、悲しむときはしつかりと悲しむという態度です。これは「グリーフケア」 などと呼ばれる西洋的なアプロ 1 チです。悲しむべきときはしつかりと悲しむと、その 後、立ち直りやすいといわれています。自分の悲しい気持ちを受け容れる態度です。 三つめは、釈迦のアプローチで、「起きていることを受容する」というシンプルなも のです。人は誰でも死ぬのだから、それを嘆き悲しむのではなく、受容する、シンプル でドライなアプローチです。 仏道の修行をしていない人が、釈迦のように淡々と死を受け容れる態度をとることは 容易ではないかもしれません。しかし、誰かの死を悲しんで、悲しんで、悲しみ抜くこ とで身体を壊してしまったとしたら、亡くなった人も浮かばれないでしよう。 「スッタ・ニバータ ( 経集 ) 」という経典のなかに「矢の経」という経文があります。 177 4 章生老病死に平常心で臨む
自分の弱さも受け容れる ご、つんじよ、つく 五蘊盛苦ーー人生は苦しみに充ち満ちている 死に際して、唯一、人が連れていくもの 「輪廻転生Ⅱ生まれ変わり」も苦しみである にゆうめつ 7 / 輪廻からの解放を意味する「入滅」 業とはそれぞれに個別のもの仍 仏道は死に対して徹底的にドライ 悲しみを受容するための三つの態度島 釈迦はあらゆることに、乾いている 科学的認識とは、世界をありのままに認識すること 死に対する心の準備は、若いころから 7 嫌がれば嫌がるほど、老いは加速する 9 病を受け容れるレッスン 9 介護で学べること 「ま、いっか」の精神を取り戻す 76 ノ 82