んでした。全体でも六百びきくらいしかいないだろうと算出されました。 けんきゅういん くまがやすいさんしけんじよう 熊谷の水産試験場ができた一九五七年当時、研究員の人が手をやくほど たくさんいたムサ、ントミョたちは、わすか二十数年のあいだに、こんなにす くなくなっていたのです。 くまヾかやし じったい 合市は、ムサ、ントミョが生息し 一九八四年八月。この実態におどろいた熊 ( てんねんきねんぶつ ちいき くま、がやし もとあらかわげんりゅう ている、元荒川の源流四百メート ルの地域を、熊谷市の『天然記念物』 くいき すいさんどうしよくぶっさいほきんしくかん 指定しました。また、この区域は、『水産動植物採補禁止区間』にも指定さ れ、水草も魚もとってはいけない区域として指定されました。 くまがややちょうかい 熊谷の野鳥の会の人たちが、ムサシ トミョの保護を、フったえてから、すで ぜっめつ に十一年という年月がたっていました。しかし、これでようやく、絶滅だけ はさけられそ、フです。 9 5
しつは、ムサシトミョが自然の中で、どんな生活をしているのか、まだ完全 8 1 あしゅ 1 に解明されていません。それで、ムサ、ントミョは、イバラトミョの亜種となっ トミョとしてまとめました。 ているのですが、本書では、ムサ、ン 戦後五十年という今年、やがて絶滅してしまうことがはっきりした、日本産 のトキのことが大きな話題となりました。こうした野生動物の保護は全国のい たる所で地道に行われています。ツル・タカ・フクロウ・サル・チョウ・タナ きゅ、つりき いすれも、人間のひきおこした、あまりにも急激な変化にほんろう されて、その生命の糸がきれようとしているのです。ムサシトミョやこうした 動物たちがトキとおなじ運命をたどらないように祈らすにはおれません。 この本を書くにあたり、たくさんの方々のご協力をいただきました。本書の かんしゃ 中に登場しなかった方々のお名前を記して、お礼と感謝の意を表します。 熊谷市役所・埼玉県北部公園事務所・熊谷気象台・熊谷市立図書館・吹上町 立郷上資料館のみなさん、岡崎成美さん・須永伊知郎さん・栗原憲一さん・高 田啓介さん・関森清己さん。 最後に、国土社の編集部のみなさんに心からお礼を申し上げます。
やさいあら 子どもたちが水遊びをするおなじ場所で、佑 近所の人が野菜を洗ったり、 たちは人間と、なかよくくらしていたのです。 すいさんしけんじよう でも、このムサ、ントミョは、水産試験場にとっては、ちょっとこまった 魚でした。 しけんじようすいげん ムサシトミョは、試験場の水源から、フナやウグイなどといっしょに、 よ、つしよくいけ 水路づたいにはいってきて、ニジマスの養殖池にすみついていました。 ちぎよあみ 「ニジマスの稚魚を網ですくうと、何十びきものムサ、ントミョがはいってく るんです。ニジマスとよりわけるためにつかむと、トゲが指にささって、 ちぎよ たくてかなわないんです。それに、何十万びきもいるニジマスの稚魚のなか から、ムサシトミョだけをよりわけることなど、とうていできませんでした けんきゅういんおおとひとし なかのただし 研究員の大渡斉さんと中野忠さんは、「こまった魚がいるもんだ」と、
なかむらもりずみ の、つ、がくはくし ところで、ムサ、ントミョという名前は、一九六三年に農学博士の中村守純 先生によって、あたらしくつけられた名前です。 しゆるい それまでは、東北地方などにいる、イバラトミョとおなじ種類といわれて いました。 もとあらかわと、つきよ、つとない なかむら しかし、中村先生が、元荒川や東京都内にいるトゲウオを、あらためて し学′し けんきゅう 研究したところ、このトゲウオは、形や生態にイバラトミョとのちかいカ あることを発見したのです。 むさしの そこで、中村先生は武蔵野にいるトゲウオを、イバラトミョとわけて、 「ムサ、ントミョ」と名つけました。 せいちょ、つ ムサシトミョは親魚に成長しても、体長が四センチから六センチくらい にしかならない小さな魚です。 トゲウォ科の特ちょうであるトゲを、背中に八本ないし十本、 ( まれに七 なかむら せなか 6 1
きよ、つりよく 者の人たちが、協力しながらおこなっています。 ふゅ 全員がま冬のつめたい川のなかにはいり、 がします・。 ひょ、つしきほ、つりゆ、つさいほ せいそくちょ、つさ ムサ、ントミョの生息調査は「標識放流再補」という方法でやります。 ます川の上流、中流、下流と、場所をきめて、そこできめられた数だけの ムサシトミョを網ですくいます。そして、つかまえたムサシトミョの尾ビレ 丿にはなします。 をすこし切って、しるしをつけ、また日 一時間半後に、おなじ場所で、おなし数のムサ、ントミョをとり、しるしの ついたムサシトミョが、何びきとれたかによって、全体の数をだすのです。 ↓つよ、つさ てんねんきねんぶっしていくいき この日の調査で、天然記念物指定区域の四百メート ル全体で、六千から六 千四百びきが生息していることがわかりました。 すいぶんとふえています。 しゃ あみ 一日かかりでムサシトミョをさ ほ、つほ、つ
もとあらかわ おどろいた野鳥の会の人たちは、元荒川の近くに土地をもっている地主さ きよ、つりよく さいたまちゅ、つお、つぎよぎようきよ、つど、つくみあい 、きよ、きよ、つけん んや、漁業権をもっている埼玉中央漁業協同組合に協力してもらい さく げんりゅう 源流の三十メートルを柵でかこって、川に人がはいることかできないよう しきん ほご くまがやし . 合市も、資金を にしました。これには、それまで保護にしんちょ、フだった熊 ( えんじよ 援助してくれました。 ほヾこさ、 しかし、わすかな保護柵だけでは、ムサシトミョを守ることはできません でした。ムサシトミョをとりにくる人は、あとをたちません。 ムサ、ントミョがつぎつぎにとらえられていきます。 たくら 心をいためた田倉さんは、ムサ、ントミョを守るために、 めることにしました。 くま、がやし もとあらかわ せんさい 「わたしは東京で戦災にあって、熊谷市の元荒川の近くにひっこしてきまし くまかやきよ、つとかいし た。ムサシトミョのことは、一九四一年に発行された、熊谷郷土会誌とい 0 ルをはじ 1 5
一九七三年 もとあらかわ さいなん 元荒川で、しすかに生きていたムサ、ントミョたちに、とっぜん大きな災難 かふりかかりました。 ムサシトミョがつぎつぎにとらえられ、持ちさられるようになったのです。 それは「まばろしの魚ムサシトミョを高校生が発見」という小さな新聞記 事がきっかけでした。 ムサシトミョを守れ 既ム廿 , ) ソト : 、ヨに、 は、の石 2
ゃべとおる しいくたんと、つ ムサシトミョの飼育担当も、四年目になって、金沢さんから、矢辺徹さん へとひきつがれました。 じゅせい ムサ、ントミョの人工ふ化は、受精がおわった卵を、巣からとりだすことか らはじまりま亠 9 。 たまご 五月になって、三つの巣を開いてみると、卵は三十つぶぐらいから、多い のは七十っぐらいのかたまりになっています。なかには、すこし色のちが ねむれない日び たまヾこ かなざわ
さまざまなとりくみをしてきました。 ョ、イトヨ、ムサ、ントミョを集 ノ てんねんきねんぶつ てんじ なかま 天然記念物に指定されている めた『トゲウオの仲間たち』の展示をしたり、 魚たちを集めた、『日本の天然記念物の魚たち』といった展示などをして、 多くの人に見てもらいました。 じんこ、つしいく こうした野生の魚たちの人工飼育は、毎日毎日が、その生とむきあう真 けんしようぶ 剣勝負です。 たからもの ぜっめつ それに、ほんとうに絶滅しそうになっている、魚たちです。宝物のよう しいくてんじ に大事にしながら、飼育展示をしていかなければなりません。 きんちょうれんぞく 飼育係の人たちは、毎日が、緊張の連続なのです。 の しん 5 6
から、何びきかが確実に親魚に育つようにするためなのです。あるものは病 気で死に、あるものはほかの魚たちのえさになったりします。そうすること ぜっめつ によって、ふえすぎてしまったり、絶滅してしまったりするのをふせいで、 しぜん 自然のバランスはたもたれているのです。一見、むだなことのように思いま しそん すが、それは野生に生きるムサシトミョたちが、子孫をのこしつづけるため れきし ちえ に、長い歴史のなかでつくりあげてきた知恵なのです」 しいくカかりす、すきくにお と、六代目の飼育係の鈴木邦雄さんはいいます すずき すいてき 鈴木さんが、水滴でくもったガラスをふきながら、手をゆっくりと横にう ごかすと、一びきがその手のあとについてきます。 ど、つやら、えさかもらえると田 5 ったのでしよ、フ。 じんこ、つしいく 「人工飼育で育てたムサ、ントミョには、こうして、人になれるのもいるんで すよ」 かくじっ