年 兀と . 月しら か の 源え り も ど さ れ ま し た 0 しいくかんさっ ムサシトミョの飼育観察をはしめて、四年目の秋のことでした。 はせがわ 長谷川先生が思いがけないことを、飼育委員にったえました。 しいく 「今年の『愛鳥のつどい』で、ムサシトミョの飼育のとりくみを発表する ことになったよ」 「えーっ、ほんとうですか ? 」 飼育委員たちはびつくりして、もう一度ききなおしました。 かんきよ、っちょ、つ 一九九十年十二月。東京の環境庁でおこなわれる、第二十五回全国野生 ) まごれんめいしゆさい にほんちょ、つるしー 生物保護実績発表大会 ( 環境庁・日本鳥類保護連盟主催 ) に久下小学校が、 さいたまけんだいひょう 埼玉県代表としてえらばれたのです。 しいく ムサシトミョの飼育にとりくんで、まだ四年しかたっていません。そんな ぜんこくやせい 101
んでした。全体でも六百びきくらいしかいないだろうと算出されました。 けんきゅういん くまがやすいさんしけんじよう 熊谷の水産試験場ができた一九五七年当時、研究員の人が手をやくほど たくさんいたムサ、ントミョたちは、わすか二十数年のあいだに、こんなにす くなくなっていたのです。 くまヾかやし じったい 合市は、ムサ、ントミョが生息し 一九八四年八月。この実態におどろいた熊 ( てんねんきねんぶつ ちいき くま、がやし もとあらかわげんりゅう ている、元荒川の源流四百メート ルの地域を、熊谷市の『天然記念物』 くいき すいさんどうしよくぶっさいほきんしくかん 指定しました。また、この区域は、『水産動植物採補禁止区間』にも指定さ れ、水草も魚もとってはいけない区域として指定されました。 くまがややちょうかい 熊谷の野鳥の会の人たちが、ムサシ トミョの保護を、フったえてから、すで ぜっめつ に十一年という年月がたっていました。しかし、これでようやく、絶滅だけ はさけられそ、フです。 9 5
どう じゅ、つろうどう とりのぞく仕事です。これはたいへんな重労働です。何回にもわけて会員 2 の手ですこしづっ川をきれいにしていきました。 水草がすくなくなった場所には、下流から水草をもってきて、ひと株すっ 植えていきました。太陽の光が、この水草をしげらせ、プランクトンなどの えさを豊富にします。ムサシトミョたちは、この水草の林の中で巣をつくり、 子孫をのこしていくのです。 けっせい せいそくちょ、つさ 守る会が結成されたこの年の十二月、ムサシトミョの生息調査が四年ぶ りで行なわれることになりました。 くまがやしちょ、つさ 一九八二年から八三年にかけて、熊谷市が調査したときには、わすかに三 か′、にん 百八十四ひきしか、確認されていません。ムサシトミョにたいする保護の活 動がすすんだなか、この四年間でどうなったか、みんな心配をしていました。 ちょ、つさ しやかいきよ、ついくカ すいさんしけんじようけんきゅう 調査は、守る会と、社会教育課、さいたま水族館、水産試験場の研究 す かぶ かっ
ほ、つど、つ このことは、地元の新聞やテレビでも大きく報道され、ムサ、ントミョへの かんしんわ 関心の輪か、さらに大きくひろかっていくきっかけにもなりました。 しいく ちょ、つさ = 「査かおわると、この六十七ひきは、また池にもどされ、二年目の飼育が はじまりました。 か / 、にん 二年目は、あらたに五十七ひきが確認されました。 もとあらかわ そして、このなかの七ひきが、科学部員たちの手で、はじめて元荒川に放 流されました。 じしん はんしよく 二年つづけて、繁殖に成功したことで、科学部員たちは大きな自信をも しいく ちました。三年生は、あとにつづく下級生たちに、この飼育の仕事をひきっ いで、卒業していきました。 ひきついだ部員たちは、学校の池で飼育をするだけではなく、じっさいに もとあらかわ ムサシトミョが生息している元荒川を、自分たちの足で歩いてみることにし しいく
こしよ、つ ていでん ところが、夏になって、停電やポンプの故障のために、池の水がすくなく なってしまいました。 病気も発生して、いっしょにいれていたタナゴも死んでしまい、ムサシト ミョも、そのすかたを見ることはなくなりました。 しつ - ばい しいく 十 , っ医よノ \ 、 一年目の飼育はうまくいきませんでした。失敗です。 かんさっ ↓ノいけメル ひがし 二年目は一年目の験と、東中学校や、さいたま水族館でまとめた観察 きろく 記録を参考にして、いろいろとくふ、フをすることにしました。 あたたかくなると、水面をおおって日光をさえぎってしまう、うき草やア オミドロをていねいにとりのぞきます。 夏に水温があがるのをふせぐために、池の上によしすをはり、日光がちょ くせつあたらないよ、つにもしました。 みずぞこ 水温も、上流と下流の水面と水底の四か所をはかり、池を見て気づいたこ 8 0 )
きろく とといっしょに記録す・るよ、フにしました。 1 レし / 、しし 夏休みなど、長い休みのときは、四年生以上全員が、クラスの飼育委員を 中心にグループをつくって、かかさす世話をするようにしました。 い J 。り・よ / 、 こうした努力がみのり、五月ごろから池のなかに、ふたたび小さな巣がっ ちぎよ くられはじめ、そのうちに稚魚かおよぐすがたも見られるようになりました。 ちぎよ 秋になると、稚魚の数はますます多くなり、水草をもちあげると成長し た稚魚がくつついてあがるようにもなりました。 「今年は大漁だよ、きっと」 ちょ、つさ そんな思いをいだきながらむかえた二回目の調査では、なんと七百十びき にもふえていました。みんな大よろこびでした。 そして、三年目は三百六びきがふえ、四年目は五十八びきがふえました。 こうして、久下小学校でふやしたムサシトミョは、四年で千びきをこえ、 せいちょう IOO
わかりました。 しいく 一九八七年から八九年にかけて飼育したなかに、五百五十九日生きていた のが五ひき、七百二十二日も生きていたのが十九ひきもいたのです。 さいたま水族館では、ムサシトミョのほかにも、ミヤコタナゴ、ニッポン てんねんきねんぶつ ハラタナゴ、アユモドキ、ムジナモといった、国や県の天然記念物に指定さ しいくてんじ れている生きものの飼育と展示にもとりくんでいます。 はんしよくしよ、つ はんしよくせいこ、つ 一九八四年には、中国産のケッギョの繁殖に成功し、繁殖賞を受賞して しいく います。繁殖賞とは、飼育している動物が、日本ではじめてうまれ、六か月 いじよ、つ にほんどうぶつえんすいぞくかんきようかい 以上生きつづけたものに、日本動物園水族館協会からあたえられる賞です。 きちょ、つ しいくてんじ さいたま水族館は、こうした飼育と展示をつづけながら、貴重な魚のこと り・カい をいつばんの人にもしってもらい、すこしでも理解をふかめてもらうために、 4 6
じよ、つ たいりよう もとあらかわ そん場が、地下水を大量にくみあげ、使った水を元荒川に流しつづけてい るおかげなのです。 さんらん くまがやすいさんしけんじようさいたまけんすいさんしけんじようくまがやしじよう 熊谷の水産試験場 ( 埼玉県水産試験場熊谷支場 ) は、ニジマスの産卵ふ よ、つしよくしけん 化と、養殖の試験をするために、一九五七年につくられました。 それ以来、今日まで、ニジマス、イワナ、ヤマメといった、つめたい水に しゅ けんきゅう すむ魚の研究をつづけてきました。一九九〇年からは、ムサシトミョを種 ほぞん として保存するための研究にもとりくんでいます。 たんとう けんきゅういんこうのまさひろ ムサシトミョを担当している、研究員の高野昌宏さんはい ) しきち 「ムサシトミョは、敷地のなかの池と、とくべつな水路をつくり、 しいくかんさっ えて飼育観察をしていますが、まだわからないことが多い魚です」 すいさんしけんじよう 水産試験場がつくられた一九五七年当時 0 します。 水草を植 2 2
一九八三年秋 ほご 多くの人たちかムサシトミョのことを心配し、保護をうったえていたとき のことです。うれしいニュースがったわりました。 じんこうしいくてんじ あたらしく開館するさいたま水族館が、ムサシトミョの人工飼育と展示に とりくむことになったのです。 はにゆ、つすい、こ、つこ、つえん さいたま水族館は、一九八三年十月、羽生市の羽生水郷公園のなかに開館 さいたま水族館の人工飼育 じんこ、つしいく はにゆ、つし
じんこうはんしよく さいたま水族館で人工繁殖をするようにな「て、二年目の一九八五年の ことです。 しやかいきよ、ついくカ くま、がやし さいたま水族館と、熊谷市の社会教育課は話しあい、ムサシトミョを熊 はんしよく がやしぜん 谷の自然の水のなかで繁殖させる計画をたてました。 じんこうはんしよく さいたま水族館の努力で、人工繁殖ができるようになり、とりあえすム ぜっめつ サシトミョの絶滅だけは、さけられるようになりました。 中学生か育てたムサシトミョ